2009年6月5日金曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

●黒龍江省とう案館(資料館)と吉林省とう案館が一般公開した「特別移送」ファイルの中に、朱雲岫、李厚賓、王楽甫、趙中博、王輝軒などを含む200人以上の被験者として惨死した中国人の記録がある。

※『注』:朱雲岫、別名:朱煥臣、スパイコードネーム:青雲、男、1918年、遼寧省(りょうねいしょう)開原県千岡村生まれ。1940年に、密山県黄泥河子炭鉱にて旧ソ連スパイの万信によってスパイとなる。1941年5月3日に東安省東安街(今の黒龍省蜜山市)の長明路三義桟前にて逮捕され、1941年5月20日に東安憲兵隊に「特別移送」される。

●李厚賓さんは家では主な労働力だったが、「特別移送」された後に最も苦痛を味わったのは老いた母と多くの子どもを抱えながら収入がなかった妻の陶秀文さんであった。母は息子の帰りを待ち、嫁と孫と一緒に毎日泣いてばかりいた。父は生涯苦労し無口だったが、息子を失った悲しみでより無口になった。

※『注』:李厚賓(彬)、別名:敬原、男、1910年6月29日に安東省安東県九連城に生まれる。1937年5月に、旧ソ連のスパイの劉日宣の推薦によりスパイになる。その後4回もソ連に行き、仲間と共に6回情報を提供。1941年8月8日に、安東省虎林県(現在の黒龍江省虎林市)虎林街四道街で逮捕され、1941年8月に、「関憲高第868」号命令により、虎林憲兵隊に「特別移送」された。

●長男である兄李厚賓さんが連行された後の子供達の境遇を語ると、弟の李厚文さんは思わず涙を流す。李さんは「兄の4人の子のうち、長男の李剛以外は、みんな早死にした。中でも末っ子の娘は医者に見てもらう金も無く病死した」と話している。その子はジフテリアにかかり窒息死し、息を引き取るのを李厚文さんが見ていて、4番目の兄嫁に言われて亡骸を外に捨てたのだ。李厚文さんは今でもこのことを覚えている。




 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)私達が引き続き南へ行くと、もう1つの村の外れまで来たところで、日本軍が5,6人私達の方へ来るのがいて、銃剣で私達にその家のそばに立っていろと指図し、間もなくまた10何人か捕まえてきて、普通の服を着ているのもいれば、軍服を着ているのもいましたが、やがてまた4人捕まえてきました。この時既におよそ午後2時頃になっていましたが、日本軍何人かに連行されて私達10何人かは前の方の道路の方向へ歩きました。この道路は南京から当塗へ通じる道でした。道路に沿って東の方へ少し行くと、道の北に家屋が一棟あって、村にはつながってなく、そばにもほかに家はありませんでした。この家屋は部屋が四つで、手前には左右両側の部屋に入口が1つずつあり、、真ん中の部屋2つには入口はなくて窓があり、後ろ側には窓が4つあって、切妻かべには両側とも入口も窓もありませんでした。中は床がセメントで、鉄のベッドの壊れたのが2つと、四角い腰掛の壊れたのが幾つかあり、レンガの欠けたのも少しありました。日本軍は私達を家のそばで待たせました。間もなく日本軍が幾つかの道からこっちの方へ人々を連行してきて、人数がどんどん多くなり、日本軍も6,70人になりました。その時日本軍の日本刀をさげたのが1人ぺちゃくちゃ一度しゃべって、何と言ったのかも分かりませんでしたが、日本軍のその他のが捕まえてきた人たちに並ぶよう指図して、2列に立たせ、その間隔が2メートルあり、人数を数えさせると、全部で131人でした。数え終わると日本軍は身体検査を始めて物を引っ掻き回し、各自が持っていた金銭や品物をみんな捜し出し、捕まった兵士のゲートルまでもはずさせました。捜査し終わったら、もう夕方近くなっていましたが、日本軍は東の端の戸口に鍵を懸け、みんなを西の端の戸口から入れました。丁度よく私と張正先とは西の端で列の先頭にいて、1人が手前で1人が後ろ側でした。私達2人は家に入って東の端にへ行き、東北寄り隅っこの壁際にうずくまりましたが、全部が入り終わったら、家中がいっぱいになりました。それから日本軍は戸を閉めて、刀をさげたのがまたひとしきりしゃべると、日本軍は分散し、周りの窓の下に何人かずつ立ち、その他のは西の端の戸口の前に行き、戸を開けて1人1人外へ引っ張り出しました。(明日に続く)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



武器を使わせない世界を。



Imagine,



A world that doesn’t



let weapons be used.



憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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