2009年3月28日土曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺の発生当時外相であった、広田弘毅が日本国内で軍部にいろいろと抗議していたとき、吉田茂駐英大使は次のようにコメントしている。(吉田は戦後5回総理大臣に任命されている。麻生総理の祖父、旧吉田邸は3月22日に全焼した。)
 『ノース・チャイナ・デイリー・ニュース』から(ラーベによる抄録)『南京の真実』より
 
 1938年1月30日
 日本大使は懐疑的
 ロンドン、1938年1月29日。吉田茂駐英日本大使は、本日『デイリー・スケッチ』のインタビューで、中国で日本兵による言語を絶する残虐行為が行われたとの報道に遺憾の意を表明するとともに、次のように付け加えた。わが国の軍隊がかくも自制心を失い、伝統に反するとはきわめて考えにくいことである。そのような行為は我々日本人の伝統とまったく相容れないものであり、わが国の歴史始まって以来そのようなためしはなかった。日本軍は非常に規律正しいのだ。

 (日本人としては信じられない事件だった。外交官生活が長く、戦時中の本当の日本軍の姿を知らない人の発言だ。)
 
 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 劉喜権(男、55歳)の証言
 1937年には私はやっと8歳で、家は南京の下関区宝塔橋東家巷493号でした。
 1938年の1月末か2月初め頃のある日の午前、およそ10時頃だったと覚えているのですが、とても寒く、粉雪が降っているときに、私はお婆さんの劉桃氏と家にいて外で機関銃の音がするのが聞こえました。銃声が止んでから、お婆さんが私を連れて父を探しに外へ出ました。何日か前に父の劉城坤が、日本兵に捕まって連れて行かれ、私はお婆さんとどこを探しても見つからなかったのです。下関(シャーカン)の煤炭港で、この目で見たものは、煤炭港の至る所死人ばかりで、地が血でいっぱいだったことです。その日の午前10時過ぎから午後までの時間に、腕に卍字会の腕章を付けた少なくない人たちが屍を片付けていて、4人で屍1つを抱え、大きな溝まで運んで積み重ねるのを見かけました。溝は卍字会の屍を片付ける人たちが掘ったのです。
 父が日本兵に捕まって行った後、南京の下関煤炭港一帯で日本兵に殺されたというのが、叔父が自分の目で見かけたことでした。叔父が逃げてきて祖母にいろいろ話していたとき、私はそこにいてこの訃報を聞いたのです。(呉大興と章歩錦と朱玉静が記録)

  
「Imagine9」【合同出版】より



軍隊のお金を


みんなの暮らしのために使う

世界



1年間に世界で120兆円、日本で5兆円という、想像もつかないほど巨額のお金が、戦争のため、又はその準備のために使われています。1発数千万円ないし数億円もかかるようなミサイルを何百発も準備することが、「国を守るため」として正当化されています。
 世界の軍事費は、今世紀に入ってから特に増え続けています。世界の軍事費の約半分はアメリカの軍事費なのですが、そのアメリカが、2001年の「9.11テロ」をきっかけに、「テロとの戦い」と称してイラクを攻撃したり、世界中のアメリカ軍を強化したりして、軍事費を増やしているからです。
 その一方でアメリカ国内では、社会保障や教育すら十分に受けられない人々が増えています。ハリケーンがアメリカを襲った時、これらの貧しい人々が最も大きな被害を受けました。これによって「超大国アメリカ」の中の貧困問題が目に見える形で浮かび上がりました。

 世界的には、いわゆる北の先進国が莫大な軍事費を使う一方で、南の途上国では貧困が広がっています。「人類の5分の1が住む国々では、人々は1杯2ドルのコーヒーを当たり前に飲んでいるのに、別の5分の1が住む国々では、人々は一日1ドル以下で暮らし、子どもたちは蚊帳(かや)がないためにマラリアなどの病気で死んでいる」(国連開発計画=UNDP,2005年)というのが、世界の格差の現実です。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月27日金曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺事件の発生当時外相であった、広田弘毅をテーマにしたに小説城山三郎著『落日燃ゆ』(新潮文庫)がある。この本にはその南京占領時のときの日本の対応が以下のように書かれている。
 
 ・・・南京占領は、もう1つ厄介で、後に致命的となる問題を、広田の肩に背負わせた。虐殺事件の発生である。
 事件の概況は、占領直後、南京に入った総領事代理から、まず電報で知らせてきた。
 電報の写しは、直ちに陸軍省に渡され、三省事務局連絡会議では、外務省から陸軍側に強く反省を求めた。 
 知らせを聞いた広田は激怒し、杉山陸相に会って抗議をし、早急に軍紀の粛正をはかるよう要求した。
 また南京の日高参事官らは、現地軍の首脳を訪ねて、注意を促した。
 最高司令官の松井大将は、「ぼくの部下がとんでもないことをしたようだな」といい、「命令が下の方に届いていないのでしょうか」との日高の問いに、
「上の方にも、悪いことをするやつがいるらしい」と、暗然としてつぶやいた。
 悪戦苦闘の後、給養不良のまま軍が乱入すれば混乱の起こることをおそれ、松井は選抜部隊のみを入城させることにし、軍紀の維持についても厳重な注意を発しておいたのだが、いずれも守れなかった。 
 松井は作戦の指揮をとるのみで、各部隊の統轄は、松井の下の在る朝香宮(あさかのみや)と柳川平助中将の2人の軍司令官、さらに、その下の師団長たちに在る。
 柳川はもともと松井と仲がよくない上、上陸以来、「山川草木すべてみな敵」と、激しく戦意をかきたててきた将軍であった。また、師団長の中には、第16師団長の中島今朝吾(けさご)中将のように、負傷したせいもあって、かなり感情を昂ぶらせて(たかぶらせて)いた男が、南京警備司令官を兼ねるということもあった。
 日高参事官は、朝香宮も訪ねて、
「南京における軍の行動が、世界中で非常に問題になっていますので」
 と、軍紀の自粛を申し入れた。朝香宮自身は、司令官として着任されて、まだ10日と経たない中の出来事であった。
 南京に突入した日本軍は、数万の捕虜の処置に困って大量虐殺をはじめたのをきっかけに、殺人・強姦・略奪・暴行・放火などの残虐行為をくりひろげた。
 市内はほとんど廃墟同然で、逃げ遅れた約20万の市民が外国人居住地区に避難。ここでは、約30人のアメリカ人やドイツ人が安全地帯国際委員会を組織していた。残虐行為はこの地区の内外で起こり、これを日夜目撃していた外人たちは、その詳報を記録し、日本側出先に手渡すとともに、各国に公表。日本の新聞には出なかったが、世界中で関心を集めていた。
 現地から詳細な報告が届くと、広田はまた杉山陸相に抗議し、事務局連絡会議でも陸軍省軍務局に、強い抗議をくり返し、即時善処を求めた。このため、参謀本部第二部長本間雅晴少将が一月末、現地に派遣され、2月に入ってからは、松井最高司令官・朝香宮司令官はじめ80名の幕僚が召還された(とくに懲戒措置とはことわらなかったが)。
 朝香宮は、わざわざ外務省に広田を訪ね、堀内外務次官立会いの下で「いろいろ御迷惑をおかけしました」と、広田にわびた。
 現地南京では、ようやく軍紀の立て直しが行われ、軍法会議も行われた。
 だが、治安の回復の最大の理由は、主力部隊が南京を後にし、進発したことであった。さらに中国の奥地めがけて、戦局は拡大されて行く。そして、行く先々に日の丸の旗がひらめき、「万歳!」の声が上がる。それは、和平をいよいよ遠のかせる声でもあった。・・・・・・・・・・・・・・

「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 潘開明(男、67歳)の証言
 私の家は旧は双井巷6号でした。父も母も早く死にました。
日本軍が南京に入ってくる前に、私は叔母と弟と3人で鼓楼二条巷の難民区に引き移りましたが、番号が何番だったのかは覚えていません。私はその頃の職業は昼間は床屋で、夜は人力車の車牽き(くるまひき)でした。
 1937年12月に、日本軍が南京で人を見れば殺し、婦女を見れば強姦し、ありとあらゆる悪事をしました。日本軍が入ってきて2日目に、私の家に闖入してきて、二の句を継がせずに、私を捕まえ、華僑招待所まで引っ張っていって、そこに一日閉じ込めました。3日目の午後2時過ぎに、彼らは縄で私を縛り、300人余りの人と一緒に、下関の煤炭港まで連行しました。連行して行くとき、私たちが逃げ出すのを防止するために、私たちに通りの真ん中を歩かせ、日本軍が道の両側に、1メートル間隔で監視していました。凡そ4時になろうとする頃に、煤炭港に着いて、みんなを集め、機関銃で掃射しました。日本軍が掃射しているとき、私は目から火花が出るようでチカチカしていましたが、突然目が眩んでしまいました。しばらく、死体が私を地に押さえつけていて、晩の9時か10時頃になって、やっと気がつきました。月がとても明るかったのですが、私はまだ自分が活きているのかどうかわからないでいました。人間なんだろうかそれとも亡霊なんだろうかと、自分で自分に聞きました。日本兵が機関銃で掃射して、まだ生きていられるわけがあるだろうか、人間であるはずがない、と内心思いました。頭を上げて見ましたら、ほかにも座っているのが何人かいて、縄でしばられているのもいれば、しばられていないのもいました。「よう、助けてくれや。死んでないんだ。縄をといてくれよ」と、私は言いました。私たちは互いに縄を解き合った後、それぞれ東へ行ったり西へ向かったりで、ある者は長江を渡ろうと木のたらいを抱え、ある者は和記洋行へ駆けつけました。私はこの土地の者で、家にはまだ叔母と弟がいるので、逃げては行かれませんでした。私は線路に沿って、汽車が長江に差し掛かる所まで行き、岸辺で体についた血を洗い落とし、近くの人家まで行き破れた衣服をもらって着替えました。その頃はもう夜中で、どうにも歩くわけにはいかず、人の家の辺りにうずくまりました。夜が明けてから、駅の方向へ向かい、熱河路まで来たところで、日本兵4人に出くわし、何をしていたんだと聞かれました。私は「日本の先生たち」の荷物を引っ張ってきてあげて、その人たちが汽車の駅に入って行ったので、家に帰るのだと言いました。書き付けがあるかと又聞かれたので、無いと言いました。すると「クーリー(苦力=辛い役務を強いられた労働者)に使った」と紙に書いたのをくれました。その人たちについて行って挹江門を入ると、鉄道部まで来て、その人たちが入って行ったので、私は察哈尓路沿いに山を越えて逃げて行きました。道でお年寄りに出会ったので、その人に土下座し、物を乞うて食べました。今はどこにでも日本兵がいるから、行ってはいけない、日本兵に出くわしたら殺されるぞ、とそのお年寄りに言われました。夜まで隠れていて家に帰ったら、叔母は至る所私を探していたので、私はもうちょっとで命を落とすところだったんで、九死に一生を得たんだよ、と言ったのです。叔母と私は大泣きに泣いたのです。(蒋琳が記録)

 
「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
 ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
 裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」

 ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
 スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
 こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月26日木曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

南京大虐殺について中国と日本の教科書はどのように扱っているのだろうか?笠原氏の著書(『「百人斬り競争」と南京事件』)に中国と日本の教科書の記述が載っている。
 ・・・たとえば、中国の『新世紀ー義務教育課程標準実験教科書・歴史』(2001年に教育部が公布した「全日制義務教育歴史課程標準)に基づいて、北京師範大学出版社が2002年に発行)にはこう書いてある。

 【南京大虐殺】1937年12月、日本軍は南京を陥落させた。つづいて日本軍は集団銃殺、焼殺、生き埋め、斬首、軍犬に噛み殺させるなど、きわめて残忍な方法で南京市民や捕虜となった兵士に対して血なまぐさい虐殺を行い、この世で最も悲惨な南京大虐殺事件を引き起こした。12月16日、日本軍は華僑招待所に収容していた中国人市民と捕虜になった将兵5000余人を中山埠頭へ連行し、機関銃で射殺したの後、死体を長江へ捨てたり、焼却したりした。18日、日本軍は南京幕府山に拘禁した老若男女5万7000人を全員針金で縛り、下関の草鞋峡へ連行、機関銃で射殺した。さらに、倒れて血の海の中で呻吟している群衆を銃剣で刺し殺した。それから日本軍は石油をかけて死体を焼却し、骨となった死体を長江へ捨てた。
 日本軍はさらに常軌を逸した「殺人競争」をおこなった。日本軍少尉の向井敏明と野田毅は、南京を占領した時に、先に100人を斬った者が勝利者になるのだと決めた。2人の殺人魔が血に飢えた日本刀を持って紫金山の山麓で会見した時、野田は105人、向井は106人を斬り殺していた。どちらかが先に100人を斬り殺したか分からないので、勝負は決まらなかった。そこで2人は改めてどちらが先に150人を斬り殺すかで勝負を決めることにした。1937年12月、日本の『東京日日新聞』は「勝利者」の口調で「殺人競争」を報道した。日本軍側はこれを「国威発揚」の「光栄ある手柄」と考えたのである。
 統計によれば、日本軍が南京を占領した6週間の間に、寸鉄も帯びない南京市民と武器を放棄した中国兵にたいする虐殺は30万人以上におよんだ。南京大虐殺は日本の侵略者が中華民族にたいして犯した重大な暴行の1つである。(引用者訳)

 いっぽう日本の中学校歴史教科書は8社から出版されているが、全社の教科書に南京事件が記述されている。8社のなかで一番詳しい記述をしている清水書院のもの(2006年版)にはこう書かれている。
 

 日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。日本軍は、占領した地域で物資や労働力を徴発し、食糧などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、捕虜・武器を捨てた兵士、老人・子どもまでも含めた民衆を無差別に殺害した。戦死した兵士もあわせてこの時の死者の数は多数にのぼると推定されている。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。

 日本の歴史教科書には「百人斬り競争」については」まったくといってよいほど記述されていない。また、歴史学事典の類にもほとんど記述されていない。・・・・・・・・・・・


 ちなみに私の手元にある昭和53年版の山川出版の高校歴史教科書には南京大虐殺の記述はない。
    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 陳徳貴(男、67歳)の証言
 1937年12月12日に、私は下関の「和記洋行」まで逃げて行って避難しました。13日に、日本軍が下関にやってきて、ここに私たち難民がいっぱいいるのを見つけました。翌日の朝、日本兵が200人近くきて、何千人もの難民の中から2千8百人余りの若い者を捕まえました。日本軍はみんなを4人1列に並ばせ、みんなに懐中時計や銀貨などの貴重品を出させ、その上で身体検査をしました。午後、私たちを和記洋行から煤炭港のある倉庫まで連行してそこに閉じ込めました。3日目の朝、日本軍が倉庫の門を開けて「これから仕事場へ行って仕事をする。十人ずつ出かける」と言いました。門の近くに立っていた十人がすぐに押し出されて行って、まもなく、ひとしきり銃声が聞こえました。少しして、門がまた開いて、もうあと十人が押し出されていき、またもやひとしきり銃声が響きました。出て行った人はみんな銃殺されたんだと、私には分かりました。日本軍が三番目のの人たちに出て行かせようとしたときに、私は出て行きました。それは午前8時過ぎ頃でしたが、倉庫を一歩出るなり、日本兵がずらっと両側に並んで、銃剣を斜めに構えているのが見え、後ろから日本兵が私たちを押していくのでした。長江の岸辺まで来た時に、倉庫の後ろの土手の上に30何人かの銃を構えた日本兵が並んでいるのが見え、虐殺が始まろうとしているんだと私はすぐ気付きました。私が水の中に立って、日本軍が射撃しようと銃を構えたその時に、私は思いっきり力を込めて河の中にひっくり返り、向こう岸までもぐっていって、河に倒れていた汽車の腹の部分に隠れ、そこから10人ずつ、10人ずつと日本兵に銃殺されていくのをこの目で見たのです。
 朝から夕方まで殺して、まだ銃殺されていない人が6,7百人いたので、日本兵はその人たちを一緒に河口まで追い立てて行き、機関銃で狂い撃ちにしました。暗くなり、日本軍が行ってしまってから、私は手探りで岸辺までやってきて、そうっと岸に這い上がりました。水に一日浸かって隠れていたので、寒くてがたがた震えどうしでしたが、地上に上がってから破れじゅうたんを一枚拾ってそれにくるまり、死体の真ん中で眠りました。あくる日日本兵が何人か桟橋からやってきて、私が震えているのを見つけ、私を狙って一発撃ちましたが、弾は私の太ももを抜けて、左手の薬指を傷つけました。今も傷痕が残っています。日本兵は私が死んだと思って、行ってしまいました。3日目になって、死体を片付ける人たちが私のまだ活きているのを見つけて、私を救い出してくれ、それで幸いにも一死を免れたのでした。(李文奎と劉雯と馮中美が記録)


「Imagine9」【合同出版】より



9条をつかって、


戦争のない世界をつくる。



「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
 日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
 第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
 同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月25日水曜日

南京大虐殺 and IMAGINE 9

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 結びにかえてー今問われているのは何か(この本は1999年版です。)
国民が裁いてきた南京事件
戦後の西ドイツの政府と国民がナチスの戦争犯罪を追及し、裁いたように、戦後日本において、政府と国民が戦争責任を追求する国民運動を展開していれば、そうした南京事件の全貌と責任者の解明も可能であったと思われるが、日本政府ならびに国民はそれを回避してしまった。そのこともあって、東京裁判と南京軍事法廷で裁かれた南京事件の事実に対する歴史認識は、多くの日本国民には定着しなかった。
 戦後の日本政府は、西ドイツと違って、事実を解明し、その責任を問うということを回避したばかりでなく、逆に、80年代になると文部省は教科書検定において、日本軍の組織的行為であると記述した家永三郎著『新日本史』の南京大虐殺記述の書き替えまでも強要した。
 こうした日本政府の無責任な対応に対して、国民の側が南京事件を裁こうとした裁判が、家永教科書裁判であった。
 家永教科書裁判は、歴史教科書における南京事件の記述をめぐる裁判であっただけでなく、日本国民の南京事件の事実認識が問われた裁判でもあった。その証左が、裁判の審理と並行するかたちで、事実をめぐる「南京大虐殺論争」が展開されたことである。その意味では、家永教科書裁判は、日本国民の南京事件認識を裁いたものであったということができる。
 南京事件から60年目にあたる1997年8月29日、最高裁は32年間にわたった家永教科書訴訟にたいする判決を言い渡し、事件をめぐる文部省の教科書検定が違法であったことが最終的に確定された(南京事件をめぐる教科書裁判の経緯は、教科書検定訴訟を支援する全国連絡会編『家永教科書裁判・第三次訴訟地裁編4 南京大虐殺、731部隊』および同編『家永教科書裁判・第三次訴訟高裁編2 南京大虐殺、朝鮮人民の抵抗、731部隊』を参照されたい)。「南京大虐殺論争」も学問的にはすでに結着がつき、政治的な意図から南京事件の事実を否定しようとする一部の人たちを除けば、歴史事実そのものは否定できなくなった。中学校や高校の歴史教科書の南京事件記述も最近はだいぶ改善されてきている。
 今後の日本国民に求められているのは、センセーショナルな論争から脱却して、歴史事実とその全体像を冷静に認識していくことであるように思う。・・・・・・・

    
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

史栄禄(男、69歳)の証言
 私は史栄禄と言います。私の兄は史栄銘と言い、今年72歳です。私たち2人は日本軍が大○史でやった集団虐殺の証人です。「大○子」とは、土地の人が「史家大○子」とも呼んでいた、幅7メートル、深さ7メートルもの大きな巣で、今の棲霞区建築公司の採石場の近くにありました。
 1937年に、日本が南京を侵略した時、私は避難しに江北の方へ逃げました。やがて食べる米が無くなり、又米を取りに長江を渡ってきていました。ところがその後、日本兵が長江を封鎖したため、もう江北へは行かれなくなってしまい、家で隠れているしかありませんでした。12月のある日、私は日本兵がたくさんの「中央軍」と普通の平民とを下流の笆斗山から追い立てて老虎山の下の大○子に集めてきているのをこの目で見ました。あの長江の2百ムー(畝)もの浅瀬に、武装解除された「中央軍」と無辜の民衆とがびっしり詰まったのです。日本兵は外側にいる「中央軍」のゲートルをはずさせ、そのゲートルをまた結びつけさせて、逃げ出すのを防止したのです。それから、彼らは日の丸の旗が挙がるのを合図に、機関銃三挺で、右へ左へ交差させつつ掃射し、身に寸鉄を帯びていない「中央軍」と無辜の者とを全部射殺したのです。死なないのは、日本兵が銃剣で突き刺したのです。翌日にも日本兵は追い立てを続け、中国人を大○子の後ろに追いやり、初めの日に殺した死体を長江まで運ばせて捨てさせ、それから又その中国人を掃射したのです。こうして3日続けて虐殺し、銃殺された「中央軍」と無辜の者たちはおよそ2万人余りにもなったのです。(劉虎と姜秀華が記録)

     

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


9条がゆきわたった世界を。



Imagine,

A world filled with 

Article 9.



憲法9条は、日本という「国」のものではありません。
日本に住んでいる「人々」、つまりみなさん自身のものです。
そしてそれは、日本国民にとってだけではなく、すべての人類にとって重要なのです。
(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月24日火曜日

南京大虐殺

卒業式のシーズンですね。壇上には「日の丸」が飾られ、式次第には当たり前のように「君が代」が入る。戦時中と同じような光景だ。今ではWBCでも日の丸を持って応援したり、君が代の斉唱がある。甲子園の開会式でも女子高生が1人でマイクを通して歌っていた。あの戦争では日本軍は占領すれば日章旗を掲げ侵略していった。たくさんの日の丸がアジアの国々にはためき、日本の圧政が行われた。同盟国のドイツとイタリアは敗戦後国旗と国歌を変えた。ドイツでは戦犯に時効などなくずっと追い続けた。日本だけが国旗・国歌を変えなかった。ヒットラーは自殺をし、ムッソリーニは銃殺され、逆さづりにされて公衆にさらされた。一方の大元帥昭和天皇は裁判ににもかけられず、その地位にとどまった。敗戦が濃厚となっても一撃を加えたい一心で戦争を続けさせ、最後は国体護持にしがみつき降伏を遅らせ、多くの日本国民の犠牲を強いた。東京大空襲・いろいろな都市での空襲、沖縄戦、そして原爆2発、8月14日の大阪大空襲。
 その天皇の代がずっと続くようにとは私は歌えない!!
教育現場では、教員は歌わなかったり、着席すると処分される時代だ!!
この国に思想・信条の自由はないのか?

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 結びにかえてー今問われているのは何か(この本は1999年版です。)
国民が裁いてきた南京事件
 1951年9月に日本が連合国と調印した「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」の第11条には、「日本国は、極東国際軍事裁判所ならびに日本国内および国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と明記されている。日本は、戦後世界に独立国として再出発するに際して東京裁判の判決を受け入れ、「南京暴虐事件」の事実を承認したはずであった。しかし、東京裁判や南京軍事法廷で陳述され提出された膨大な証言や証拠資料は、日本国民の南京事件の事実認識には結びつかなかった。それどころか、序に述べたように、南京事件は誤ったイメージで語られ、国民の間にはそれに対する反発から、否定論が少なからぬ影響力をもってきた。
 たしかに南京軍事法廷で裁かれた者とその判決については、他のBC級戦犯裁判と同じように、不公平な側面があったことも事実である。処刑された谷寿夫第六師団長が上申書において「南京大虐殺事件に関係ある、多数の部隊長をまず調査して事件の全貌を明らかにし、ついで真犯人を認定するを正当とするに係わらず・・・・・最高指揮官および直下の部隊長と切り離して、被告1人をもって審判の対象となし、しかもこれを真犯人と認定し論断さるるは・・・・・不合理、非合法なり」と抗弁していることはその通りであろう(「南京作戦の真相(熊本師団戦記)」。
 谷寿夫にとって不運だったのは、第16師団長中島今朝吾と第10軍司令官柳川平助が敗戦後すぐに他界し、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王は皇族ゆえに免訴されたことがあって、南京攻略戦に参加した師団長の中で谷だけが逮捕され、死刑判決を受けたことである。110人斬り競争をやったという向井・野田の2人の将校と300人斬りの田中軍吉も、捕虜・敗残兵を多数殺害した将兵として有名になったことが、逮捕・処刑される運命になってしまった。谷寿夫の言うように南京事件の全貌を解明し、真の責任者を本格的に究明しようとすれば、もっと上級指揮官、さらには軍中央と政府そして天皇にまでもその追求は及んだはずである。
 しかし、南京軍事法廷で裁かれた軍人が公平で妥当であったかという問題と、裁かれて明らかにされた南京大虐殺事件を認識することとは別である。南京軍事法廷でも多くの証言資料や調査資料が提出され、その一端は『中国関係資料編』に「第Ⅳ編 南京軍事裁判資料」として収録されている。(続く)
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 石明(男、1919年3月12日生まれ)の証言
 1937年に、私は国民党第5軍36師の108旅215団小砲中隊で一等兵をしていました。上海が陥落した後、私たちは続々と南京の和平門まで撤退し休憩待機していました。12月12日に撤退命令が出たので、私たちは中山埠頭一帯の岸辺に駆けつけ長江を渡ろうと待ち構えましたが、将校だった者はとっくに行ってしまっていて、私たちは武器を長江に投げ込み、部隊は全く雑然となり、何万人もが岸辺で押し合いへし合い、一日待っても渡れませんでした。午後に日本兵が岸辺にやってきて、何万人もを全部捕まえ捕虜にしましたが、その中には難民もたくさんいました。12月13日は、私の一生忘れられない日で、日本軍が私たちを豚を追い立てるように、草鞋峡一帯まで駆り立て、まず機関銃で掃射してから、銃剣で突き刺し、さらには大勢いる所に手榴弾を投げ込んだのです。私は頭部を機関銃で撃たれて、長さ10数ミリもの大きな穴があき、脳の部分までは傷が達しませんでしたが、昏倒して死人と折り重なりになった後で、日本兵がまた私の身体を銃剣で突っつき、顔と左の小手と二の腕とにやられました。夜になって、私が死体の重なりから這い出したとき、まだ死んでない人のうめいているのが聞こえました。私は夜陰に乗じ手探りしながら三汊川のある庶民の家までたどり着き、誰もいなくて、漬け物かめの脇に隠れたのですが、出血が多すぎて、眩み倒れてしまいました。晩になって、その家の主が帰って来、ある年とった人が私の血だらけなのを見て、死んでいると思い、やってきて私を引きずったので、ウウッと私が一声あげたら、私が息を吹き返したとわかり、「夜が明けないうちに、大急ぎで逃げな。そうでないと助からないぞ」と言いました。私はその人の言う通りに蕪湖の方向に逃げ、しばらくして小丹陽に着いて、やっと逃げ延びることがことができました。私は南京大虐殺の生き残り証人なのです。(安徽省郎渓県の人で、1992年4月7日にその口述に基づいて劉相雲が記録し整理)

    

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



ひとりひとりの安全を



大事にする世界を。



Imagine,


A world that values


the safety of each and

every human.



政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月23日月曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 世界に知られていた南京事件
 アメリカでは南京事件とパナイ号事件の報道を契機に、日本の中国侵略に抗議する運動が活発になり、日本軍の蛮行から中国民衆を守り、救済するための中国支援の運動の輪も広まっていった。さらには、ジョン・W・ダワー『人種偏見ー太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』が指摘するように、南京事件をはじめとする日本軍による中国民衆の大量殺戮の報道が、アメリカ国民の対日感情を悪化させ、「非人道的野蛮行為」を平然と行う日本兵に対する嫌悪・憎悪の感情を国民の間に醸成させ、それが日米戦争時の「敵国日本」のイメージを形成した側面もあった(笠原「世界に知られていた南京大虐殺」『アジアの中の日本軍』)。
 ドイツでは、2月末に南京を離れ、ドイツに帰国したラーベが、ジーメンス・外務省・国防省などの小集会において、マギーが撮影したフィルムや写真を見せながら、南京事件の事実を講演してまわった。彼は、南京で目撃した南京事件の真相を、ヒトラーをはじめ、ドイツ政府の指導者に知らせ、事実上の同盟関係を通じて日本兵の不法・残虐行為を阻止する方法を求めようとした。ラーベはそのために「南京事件・ラーベ報告書」をヒトラーに提出したが、同盟国日本の残虐行為を書いたことがヒトラーの逆鱗に触れ、逮捕・尋問されたうえ、南京事件について発言しないことを条件に釈放されたのだった。しかしラーベが人生を賭けて事実を伝えようとして記録した日記ならびに報告書は、事件から60年を経てドイツ、アメリカ、中国、日本(日本語訳の書名は『南京の真実』)で一斉に出版されることになる(笠原「発見された南京虐殺の証言」参照)。
 中国では、南京事件は新聞報道だけでなく口コミを通じてやがて中国人全体に知られた。中国国民政府軍事委員会は写真集『日寇暴行実録』を発行(38年7月)して、南京における日本軍の残虐行為をビジュアルに告発した。とくに日本軍の中国女性にたいする凌辱行為は、中国国民の対日敵愾心をわきたたせ、大多数の民衆を抗日の側にまわらせ、対日抵抗戦力を形成する源泉となった。当時の日本人が軽視ないし蔑視していた中国民衆の民族意識と抗戦意志は、さらに発揚され、高められていくことになった。南京攻略戦の結果、日本軍が引き起こした暴虐事件は、中国を屈服させるどころか、逆に抗日勢力を強化・結束させる役割を果たしたのである(笠原「中国女性にとっての日中15年戦争」『アジアの中の日本軍』参照)。
 第二次世界大戦において、南京事件は連合国側に広く知られた事実となり、日本ファシズムの本質である侵略性・残虐性・野蛮性を露呈したものとみなされた。東京裁判で、日中戦争における日本軍の残虐行為の中で南京事件だけが重大視して裁かれたのは、連合国側の政府と国民が、リアル・タイムで事件を知っており、その非人道的な内容に衝撃を受けていたからであった。
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 厳洪亮(男、79歳)の証言
 私は原籍は安徽省(あんきしょう)の桐城ですが、南京で生まれました。父は南京で料理人をし、母はお金持ちの家で女中をしていました。父は36歳でやっと結婚し、40歳のときに私が生まれたので、小さい時「厳40」と呼ばれていました。私は12歳で技能を学び、緞子や繻子を織りましたが、後には芝居で声高く歌うのを学びました。家は仁義里18号でした。
 1937年は私は32歳でした。冬月の初めに、南京要塞司令部(司令官は邵伯川)に捕まって、弾薬や薬品や綿花などの、軍用品を運ばされました。日本軍がもうすぐやってくるという時には、司令部の人たちはみんな逃げてしまいました。冬月11日に私は逃げ出してきて、江北へ逃げようと思いましたが、船が無くて行かれませんでした。和記洋行の職工長の徐志和と知り合いだったので、洋行に身を隠しました。日本軍の部隊は冬月11日の夜明けの2時に光華門から南京城に入って来ましたが、人を見れば殺し、婦女を見れば強姦し、火を放って家を焼きました。ある日の朝、日本軍が和記洋行に人を捕まえてやってきて、私も入れて、3000人以上を捕まえて行きました。私たちを老江口(草鞋峡)まで引っ張って行ったのですが、その岸辺には捕まってきたのが何万人もいて、びっしり座らせられていました。午前8時か9時から始まったのが、日本の賊どもがやってのけた大虐殺でした。彼らは縄で20人を一まとめにして、機関銃で掃射してから、死体を長江へ押し込んでしまう、という風にして午前から晩までずっと虐殺していったのです。日が暮れようとする頃に、日本刀を背にした軍人が3人私を検査し、手にたこが無いのを見て、私は「中央軍」ではないと言い、行きなさいと言いました。ところが私を見張っていた日本兵がカッときて、私の頭に一発ぶっ放したので、私は撃たれて鮮血がほとばしり、地にぶっ倒れました。続いて、又銃剣で腹を刺してきましたが、私は習練を積んでいて、すっと身をかわしたので、腹まで刺さらずに、すねに一太刀きただけでした。傷痕が今でもはっきり残っています。私は死んだ振りをして地に横たわっていて、暗くなって死人の積み重なりから這い出しました。道でなにがしかの米を手に入れ、老虎山の上まで駆けて行き、屍のうずたかくなった中に隠れて、飢えたら生米をかじりました。3,4日ごろごろしていて、それも続けられなくなり、山を降りてきて食べ物を人にせびり、又和記洋行に帰ってきましたら、徐志和の奥さんが門番をさせてくれました。一ヶ月余りして○月30日の晩になって、やっと家に帰りました(既に鼓楼三条巷の難民区に引き移っていました)。お母さんとお姉さんとが、私が死んでいないのを見て切ながったり嬉しがったりしてくれました。私はこうして九死に一生を得たのです。(戦国利と陳家栄が記録) 
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。



Imagine,


A world that instead 



of


preparing for war,



prevents war.



コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月22日日曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 世界に知られていた南京事件
 当時の日本社会はきびしい報道管制と言論統制下におかれ、日本の大新聞社があれほどの従軍記者団を送って報道合戦を繰り広げ、しかも新聞記者の中には虐殺現場を目撃したものがいたにもかかわらず、南京事件の事実を報道することはしなかった。また、南京攻略戦に参加した兵士の手紙や日記類も厳しく検閲され、帰還した兵士に対しても厳格な箝口令(かんこうれい)がしかれ、一般国民に残虐事件を知らせないようにされていた。さらに南京事件を報道した海外の新聞や雑誌は、内務省警保局が発禁処分にして、日本国民の眼には一切触れることがないようにしていた。
 しかし、本書で『ニューヨーク・タイムズ』や『シカゴ・デイリー・ニュース』の南京事件報道を紹介してきたように、アメリカやイギリス、ドイツなど世界においては発生当時から事件は報道されていた。当時南京から事件を世界に知らせた人々は、日本軍の南京占領前後に、南京に残留し、直接あるいは間接に事件を目撃した外国人だった。第一のグループは外国人ジャーナリストで、ダーディンとスティールのほかに、L.C.スミス(ロイター通信社)とC.Y.マグダニエル(AP)の4人の記者がいた(ただし、彼らが南京で取材していたのは12月15日まで)。第二のグループは南京の大使館員グループで、中でもアメリカ大使館とドイツ大使館の外交官は本国と関係機関に多くの報告を送っている(ただし、彼らは日本軍の南京城攻撃直前に南京を離れ、38年1月上旬になって南京に帰任)。第三のグループが、南京難民区国際委員会のメンバーたちで、彼らは国際世論に訴えて、外国からそのような蛮行を阻止させる行動が起こることを期待して、海外の報道機関やキリスト教団体に向けて、残虐行為に関する情報をさまざまなルートを使って送り出していた。
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 唐広普(男、68歳)の証言
 私の実家は江蘇省阜寧県の施庄公社二級唐大隊でした。15歳で南京に来て、中央陸軍軍官学校の第10期予備班で任務に就きました。一年余りして、中央陸軍軍官学校教導総隊の二団三営に加わり、兵営で雑務兵をしました。
 南京防衛戦の時、教導総隊の任務は「南京と生死を共にする」ことでした。1937年の12月、国民党守備軍は全線散りじりになりましたが、私たちは南京のどの城門も砂袋を詰め、城門の外側の道には塹壕を掘って、守ろうとしました。12月13日に、日本兵が中華門から南京に侵入したので、私は下関に駆けつけましたが、長江を渡る船が無く、燕子磯まで駆けつけました。燕子磯は街が人でいっぱいで、木の板や桶やらたらいやらを抱えて先を争い長江を泳いで渡ろうとしていました。私は肉屋の仕事机を1つ担いで、八卦洲まで渡ろうと思いました。ところが肉机は円かったので、浮いたり沈んだりするばかりで、どうにも泳いで渡れませんでした。やむを得ず、又街にとって返し、小さい棚を2つ探してきて、肉机をひっくり返し、4本の脚を上に向け、2つの棚をその脚にくくり付けて、、肉机が穏やかに浮くようにし、それから軍で使うシャベルで水をかくことにしました。ところが北風が強く吹いていて、右をかいたら左に曲がり、左をかいては右に回ったりで、同じところでぐるぐる回るばかり、一向に北へ進みません。「俺は江北で生まれたのに、いまや江南で死ぬんか」と私はため息をつきましたが、長江を渡れずに、またもや燕子磯に引き返すしかなく、そのときはもう疲れきってしまい、どこか見つけて眠ってしまいました。夜がまだ明けないうちに、日本兵が来て、若い者をみんな街の真ん中へ追いやりました。中国語の話せる日本人が「誰か幕府山の前を道案内できるものはないか」と言うと、誰かが道案内に立ち上がり、私たちを幕府山に連れて行き、空の兵舎に閉じ込めました。そこに収監されたおよそ2万人は、ほとんどが捕虜となった兵士たちで、一部が警官と一般庶民でした。3日3晩食べさせも、飲ませもせず、年寄りや子どもが飢え渇いてあいついで死にました。婦女子はすべて輪姦されました。四川の兵が1人、飢え渇きに堪えかね、大勢と打ち合わせて脱走したため、1000人以上が日本軍に外堀の中で射殺されました。12月18日に、日本人が朝の4時から人々を縛り始めたのですが、何枚もの大きな布を裂いて裂いてたくさんのひもにし、まず1人ずつ後ろ手に縛り、それから2人の腕を1つに縛るのでした。朝の4時から午後の4時までずっとしばり続けました。それからやはりあの中国語の話せる日本人が話をし、誰か老虎山の道案内ができるものはいないかと聞いてから、私たちを南京の町に送り返して「ミーシミーシ」(メシだメシだ 飯食わしてやる)と言っていました。上元門の大きなくぼ地の浅瀬まで行って、私たちを一列に座らせました。その時、まずい、虐殺しようというんだ、と言う者がいて、「鬼になるならばらばら鬼に成ってやろう」と、互いに縄を解いたのです。夜の8時か9時に、日本兵が虐殺を始め、機関銃が鳴り響くや、すぐに私たちは地に倒れ横たわりました。20分後に、機関銃がとまり、私は右肩を撃たれて感覚がありませんでしたが、死体が私の体の上にかぶさってきていて、とても重く感じました。5分ほどして、機関銃が又掃射を始めましたが、しばらくしたら、日本軍が乗っかってきて、銃剣で刺したり、木の棒で打ったりし、それからわらを石榴の樹の上に撒き、ガソリンをかけて燃やし始めました。その時私は堪えられなくなり、うんと頑張って、死人のうずたかくなったところから這い出し、、長江の岸辺に沿って、燕子磯の方へかけて行き、家が焼かれて住む人のいなくなったある村で、臼で挽かれた糠の山にもぐりこんで隠れ、着ていた物を一つ一つ脱いで火に乾かし、稲を生のままかじって飢えをしのぎました。ここで私はおじいさんが一人子どもと一緒に小舟を漕いで村にやってきてわらを引きずっているのを見かけたので、彼らの頼んで、八卦洲まで連れて行ってもらい、それから江北まで帰りました。
 江北で、私は幕府山から逃げ出してきたもう一人の生き残りに出会ったのですが、諸という人で、日本軍は銃殺した後、ガソリンで殺した者の死体を焼いてしまった、と言っていました。この人は焼かれて火傷しながら、火の中から逃げ出したのでした。諸さんは原籍が広東なのですが、後に、六合の竹鎮で新四軍に加わり、その後私との連絡はなくなりました。(段月萍と陳立志が記録)

  
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

女性たちが

平和をつくる世界を。



Imagine,

A world where

women create peace



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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