2009年3月24日火曜日

南京大虐殺

卒業式のシーズンですね。壇上には「日の丸」が飾られ、式次第には当たり前のように「君が代」が入る。戦時中と同じような光景だ。今ではWBCでも日の丸を持って応援したり、君が代の斉唱がある。甲子園の開会式でも女子高生が1人でマイクを通して歌っていた。あの戦争では日本軍は占領すれば日章旗を掲げ侵略していった。たくさんの日の丸がアジアの国々にはためき、日本の圧政が行われた。同盟国のドイツとイタリアは敗戦後国旗と国歌を変えた。ドイツでは戦犯に時効などなくずっと追い続けた。日本だけが国旗・国歌を変えなかった。ヒットラーは自殺をし、ムッソリーニは銃殺され、逆さづりにされて公衆にさらされた。一方の大元帥昭和天皇は裁判ににもかけられず、その地位にとどまった。敗戦が濃厚となっても一撃を加えたい一心で戦争を続けさせ、最後は国体護持にしがみつき降伏を遅らせ、多くの日本国民の犠牲を強いた。東京大空襲・いろいろな都市での空襲、沖縄戦、そして原爆2発、8月14日の大阪大空襲。
 その天皇の代がずっと続くようにとは私は歌えない!!
教育現場では、教員は歌わなかったり、着席すると処分される時代だ!!
この国に思想・信条の自由はないのか?

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 結びにかえてー今問われているのは何か(この本は1999年版です。)
国民が裁いてきた南京事件
 1951年9月に日本が連合国と調印した「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」の第11条には、「日本国は、極東国際軍事裁判所ならびに日本国内および国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と明記されている。日本は、戦後世界に独立国として再出発するに際して東京裁判の判決を受け入れ、「南京暴虐事件」の事実を承認したはずであった。しかし、東京裁判や南京軍事法廷で陳述され提出された膨大な証言や証拠資料は、日本国民の南京事件の事実認識には結びつかなかった。それどころか、序に述べたように、南京事件は誤ったイメージで語られ、国民の間にはそれに対する反発から、否定論が少なからぬ影響力をもってきた。
 たしかに南京軍事法廷で裁かれた者とその判決については、他のBC級戦犯裁判と同じように、不公平な側面があったことも事実である。処刑された谷寿夫第六師団長が上申書において「南京大虐殺事件に関係ある、多数の部隊長をまず調査して事件の全貌を明らかにし、ついで真犯人を認定するを正当とするに係わらず・・・・・最高指揮官および直下の部隊長と切り離して、被告1人をもって審判の対象となし、しかもこれを真犯人と認定し論断さるるは・・・・・不合理、非合法なり」と抗弁していることはその通りであろう(「南京作戦の真相(熊本師団戦記)」。
 谷寿夫にとって不運だったのは、第16師団長中島今朝吾と第10軍司令官柳川平助が敗戦後すぐに他界し、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王は皇族ゆえに免訴されたことがあって、南京攻略戦に参加した師団長の中で谷だけが逮捕され、死刑判決を受けたことである。110人斬り競争をやったという向井・野田の2人の将校と300人斬りの田中軍吉も、捕虜・敗残兵を多数殺害した将兵として有名になったことが、逮捕・処刑される運命になってしまった。谷寿夫の言うように南京事件の全貌を解明し、真の責任者を本格的に究明しようとすれば、もっと上級指揮官、さらには軍中央と政府そして天皇にまでもその追求は及んだはずである。
 しかし、南京軍事法廷で裁かれた軍人が公平で妥当であったかという問題と、裁かれて明らかにされた南京大虐殺事件を認識することとは別である。南京軍事法廷でも多くの証言資料や調査資料が提出され、その一端は『中国関係資料編』に「第Ⅳ編 南京軍事裁判資料」として収録されている。(続く)
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 石明(男、1919年3月12日生まれ)の証言
 1937年に、私は国民党第5軍36師の108旅215団小砲中隊で一等兵をしていました。上海が陥落した後、私たちは続々と南京の和平門まで撤退し休憩待機していました。12月12日に撤退命令が出たので、私たちは中山埠頭一帯の岸辺に駆けつけ長江を渡ろうと待ち構えましたが、将校だった者はとっくに行ってしまっていて、私たちは武器を長江に投げ込み、部隊は全く雑然となり、何万人もが岸辺で押し合いへし合い、一日待っても渡れませんでした。午後に日本兵が岸辺にやってきて、何万人もを全部捕まえ捕虜にしましたが、その中には難民もたくさんいました。12月13日は、私の一生忘れられない日で、日本軍が私たちを豚を追い立てるように、草鞋峡一帯まで駆り立て、まず機関銃で掃射してから、銃剣で突き刺し、さらには大勢いる所に手榴弾を投げ込んだのです。私は頭部を機関銃で撃たれて、長さ10数ミリもの大きな穴があき、脳の部分までは傷が達しませんでしたが、昏倒して死人と折り重なりになった後で、日本兵がまた私の身体を銃剣で突っつき、顔と左の小手と二の腕とにやられました。夜になって、私が死体の重なりから這い出したとき、まだ死んでない人のうめいているのが聞こえました。私は夜陰に乗じ手探りしながら三汊川のある庶民の家までたどり着き、誰もいなくて、漬け物かめの脇に隠れたのですが、出血が多すぎて、眩み倒れてしまいました。晩になって、その家の主が帰って来、ある年とった人が私の血だらけなのを見て、死んでいると思い、やってきて私を引きずったので、ウウッと私が一声あげたら、私が息を吹き返したとわかり、「夜が明けないうちに、大急ぎで逃げな。そうでないと助からないぞ」と言いました。私はその人の言う通りに蕪湖の方向に逃げ、しばらくして小丹陽に着いて、やっと逃げ延びることがことができました。私は南京大虐殺の生き残り証人なのです。(安徽省郎渓県の人で、1992年4月7日にその口述に基づいて劉相雲が記録し整理)

    

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



ひとりひとりの安全を



大事にする世界を。



Imagine,


A world that values


the safety of each and

every human.



政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月23日月曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 世界に知られていた南京事件
 アメリカでは南京事件とパナイ号事件の報道を契機に、日本の中国侵略に抗議する運動が活発になり、日本軍の蛮行から中国民衆を守り、救済するための中国支援の運動の輪も広まっていった。さらには、ジョン・W・ダワー『人種偏見ー太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』が指摘するように、南京事件をはじめとする日本軍による中国民衆の大量殺戮の報道が、アメリカ国民の対日感情を悪化させ、「非人道的野蛮行為」を平然と行う日本兵に対する嫌悪・憎悪の感情を国民の間に醸成させ、それが日米戦争時の「敵国日本」のイメージを形成した側面もあった(笠原「世界に知られていた南京大虐殺」『アジアの中の日本軍』)。
 ドイツでは、2月末に南京を離れ、ドイツに帰国したラーベが、ジーメンス・外務省・国防省などの小集会において、マギーが撮影したフィルムや写真を見せながら、南京事件の事実を講演してまわった。彼は、南京で目撃した南京事件の真相を、ヒトラーをはじめ、ドイツ政府の指導者に知らせ、事実上の同盟関係を通じて日本兵の不法・残虐行為を阻止する方法を求めようとした。ラーベはそのために「南京事件・ラーベ報告書」をヒトラーに提出したが、同盟国日本の残虐行為を書いたことがヒトラーの逆鱗に触れ、逮捕・尋問されたうえ、南京事件について発言しないことを条件に釈放されたのだった。しかしラーベが人生を賭けて事実を伝えようとして記録した日記ならびに報告書は、事件から60年を経てドイツ、アメリカ、中国、日本(日本語訳の書名は『南京の真実』)で一斉に出版されることになる(笠原「発見された南京虐殺の証言」参照)。
 中国では、南京事件は新聞報道だけでなく口コミを通じてやがて中国人全体に知られた。中国国民政府軍事委員会は写真集『日寇暴行実録』を発行(38年7月)して、南京における日本軍の残虐行為をビジュアルに告発した。とくに日本軍の中国女性にたいする凌辱行為は、中国国民の対日敵愾心をわきたたせ、大多数の民衆を抗日の側にまわらせ、対日抵抗戦力を形成する源泉となった。当時の日本人が軽視ないし蔑視していた中国民衆の民族意識と抗戦意志は、さらに発揚され、高められていくことになった。南京攻略戦の結果、日本軍が引き起こした暴虐事件は、中国を屈服させるどころか、逆に抗日勢力を強化・結束させる役割を果たしたのである(笠原「中国女性にとっての日中15年戦争」『アジアの中の日本軍』参照)。
 第二次世界大戦において、南京事件は連合国側に広く知られた事実となり、日本ファシズムの本質である侵略性・残虐性・野蛮性を露呈したものとみなされた。東京裁判で、日中戦争における日本軍の残虐行為の中で南京事件だけが重大視して裁かれたのは、連合国側の政府と国民が、リアル・タイムで事件を知っており、その非人道的な内容に衝撃を受けていたからであった。
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 厳洪亮(男、79歳)の証言
 私は原籍は安徽省(あんきしょう)の桐城ですが、南京で生まれました。父は南京で料理人をし、母はお金持ちの家で女中をしていました。父は36歳でやっと結婚し、40歳のときに私が生まれたので、小さい時「厳40」と呼ばれていました。私は12歳で技能を学び、緞子や繻子を織りましたが、後には芝居で声高く歌うのを学びました。家は仁義里18号でした。
 1937年は私は32歳でした。冬月の初めに、南京要塞司令部(司令官は邵伯川)に捕まって、弾薬や薬品や綿花などの、軍用品を運ばされました。日本軍がもうすぐやってくるという時には、司令部の人たちはみんな逃げてしまいました。冬月11日に私は逃げ出してきて、江北へ逃げようと思いましたが、船が無くて行かれませんでした。和記洋行の職工長の徐志和と知り合いだったので、洋行に身を隠しました。日本軍の部隊は冬月11日の夜明けの2時に光華門から南京城に入って来ましたが、人を見れば殺し、婦女を見れば強姦し、火を放って家を焼きました。ある日の朝、日本軍が和記洋行に人を捕まえてやってきて、私も入れて、3000人以上を捕まえて行きました。私たちを老江口(草鞋峡)まで引っ張って行ったのですが、その岸辺には捕まってきたのが何万人もいて、びっしり座らせられていました。午前8時か9時から始まったのが、日本の賊どもがやってのけた大虐殺でした。彼らは縄で20人を一まとめにして、機関銃で掃射してから、死体を長江へ押し込んでしまう、という風にして午前から晩までずっと虐殺していったのです。日が暮れようとする頃に、日本刀を背にした軍人が3人私を検査し、手にたこが無いのを見て、私は「中央軍」ではないと言い、行きなさいと言いました。ところが私を見張っていた日本兵がカッときて、私の頭に一発ぶっ放したので、私は撃たれて鮮血がほとばしり、地にぶっ倒れました。続いて、又銃剣で腹を刺してきましたが、私は習練を積んでいて、すっと身をかわしたので、腹まで刺さらずに、すねに一太刀きただけでした。傷痕が今でもはっきり残っています。私は死んだ振りをして地に横たわっていて、暗くなって死人の積み重なりから這い出しました。道でなにがしかの米を手に入れ、老虎山の上まで駆けて行き、屍のうずたかくなった中に隠れて、飢えたら生米をかじりました。3,4日ごろごろしていて、それも続けられなくなり、山を降りてきて食べ物を人にせびり、又和記洋行に帰ってきましたら、徐志和の奥さんが門番をさせてくれました。一ヶ月余りして○月30日の晩になって、やっと家に帰りました(既に鼓楼三条巷の難民区に引き移っていました)。お母さんとお姉さんとが、私が死んでいないのを見て切ながったり嬉しがったりしてくれました。私はこうして九死に一生を得たのです。(戦国利と陳家栄が記録) 
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。



Imagine,


A world that instead 



of


preparing for war,



prevents war.



コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月22日日曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 世界に知られていた南京事件
 当時の日本社会はきびしい報道管制と言論統制下におかれ、日本の大新聞社があれほどの従軍記者団を送って報道合戦を繰り広げ、しかも新聞記者の中には虐殺現場を目撃したものがいたにもかかわらず、南京事件の事実を報道することはしなかった。また、南京攻略戦に参加した兵士の手紙や日記類も厳しく検閲され、帰還した兵士に対しても厳格な箝口令(かんこうれい)がしかれ、一般国民に残虐事件を知らせないようにされていた。さらに南京事件を報道した海外の新聞や雑誌は、内務省警保局が発禁処分にして、日本国民の眼には一切触れることがないようにしていた。
 しかし、本書で『ニューヨーク・タイムズ』や『シカゴ・デイリー・ニュース』の南京事件報道を紹介してきたように、アメリカやイギリス、ドイツなど世界においては発生当時から事件は報道されていた。当時南京から事件を世界に知らせた人々は、日本軍の南京占領前後に、南京に残留し、直接あるいは間接に事件を目撃した外国人だった。第一のグループは外国人ジャーナリストで、ダーディンとスティールのほかに、L.C.スミス(ロイター通信社)とC.Y.マグダニエル(AP)の4人の記者がいた(ただし、彼らが南京で取材していたのは12月15日まで)。第二のグループは南京の大使館員グループで、中でもアメリカ大使館とドイツ大使館の外交官は本国と関係機関に多くの報告を送っている(ただし、彼らは日本軍の南京城攻撃直前に南京を離れ、38年1月上旬になって南京に帰任)。第三のグループが、南京難民区国際委員会のメンバーたちで、彼らは国際世論に訴えて、外国からそのような蛮行を阻止させる行動が起こることを期待して、海外の報道機関やキリスト教団体に向けて、残虐行為に関する情報をさまざまなルートを使って送り出していた。
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 唐広普(男、68歳)の証言
 私の実家は江蘇省阜寧県の施庄公社二級唐大隊でした。15歳で南京に来て、中央陸軍軍官学校の第10期予備班で任務に就きました。一年余りして、中央陸軍軍官学校教導総隊の二団三営に加わり、兵営で雑務兵をしました。
 南京防衛戦の時、教導総隊の任務は「南京と生死を共にする」ことでした。1937年の12月、国民党守備軍は全線散りじりになりましたが、私たちは南京のどの城門も砂袋を詰め、城門の外側の道には塹壕を掘って、守ろうとしました。12月13日に、日本兵が中華門から南京に侵入したので、私は下関に駆けつけましたが、長江を渡る船が無く、燕子磯まで駆けつけました。燕子磯は街が人でいっぱいで、木の板や桶やらたらいやらを抱えて先を争い長江を泳いで渡ろうとしていました。私は肉屋の仕事机を1つ担いで、八卦洲まで渡ろうと思いました。ところが肉机は円かったので、浮いたり沈んだりするばかりで、どうにも泳いで渡れませんでした。やむを得ず、又街にとって返し、小さい棚を2つ探してきて、肉机をひっくり返し、4本の脚を上に向け、2つの棚をその脚にくくり付けて、、肉机が穏やかに浮くようにし、それから軍で使うシャベルで水をかくことにしました。ところが北風が強く吹いていて、右をかいたら左に曲がり、左をかいては右に回ったりで、同じところでぐるぐる回るばかり、一向に北へ進みません。「俺は江北で生まれたのに、いまや江南で死ぬんか」と私はため息をつきましたが、長江を渡れずに、またもや燕子磯に引き返すしかなく、そのときはもう疲れきってしまい、どこか見つけて眠ってしまいました。夜がまだ明けないうちに、日本兵が来て、若い者をみんな街の真ん中へ追いやりました。中国語の話せる日本人が「誰か幕府山の前を道案内できるものはないか」と言うと、誰かが道案内に立ち上がり、私たちを幕府山に連れて行き、空の兵舎に閉じ込めました。そこに収監されたおよそ2万人は、ほとんどが捕虜となった兵士たちで、一部が警官と一般庶民でした。3日3晩食べさせも、飲ませもせず、年寄りや子どもが飢え渇いてあいついで死にました。婦女子はすべて輪姦されました。四川の兵が1人、飢え渇きに堪えかね、大勢と打ち合わせて脱走したため、1000人以上が日本軍に外堀の中で射殺されました。12月18日に、日本人が朝の4時から人々を縛り始めたのですが、何枚もの大きな布を裂いて裂いてたくさんのひもにし、まず1人ずつ後ろ手に縛り、それから2人の腕を1つに縛るのでした。朝の4時から午後の4時までずっとしばり続けました。それからやはりあの中国語の話せる日本人が話をし、誰か老虎山の道案内ができるものはいないかと聞いてから、私たちを南京の町に送り返して「ミーシミーシ」(メシだメシだ 飯食わしてやる)と言っていました。上元門の大きなくぼ地の浅瀬まで行って、私たちを一列に座らせました。その時、まずい、虐殺しようというんだ、と言う者がいて、「鬼になるならばらばら鬼に成ってやろう」と、互いに縄を解いたのです。夜の8時か9時に、日本兵が虐殺を始め、機関銃が鳴り響くや、すぐに私たちは地に倒れ横たわりました。20分後に、機関銃がとまり、私は右肩を撃たれて感覚がありませんでしたが、死体が私の体の上にかぶさってきていて、とても重く感じました。5分ほどして、機関銃が又掃射を始めましたが、しばらくしたら、日本軍が乗っかってきて、銃剣で刺したり、木の棒で打ったりし、それからわらを石榴の樹の上に撒き、ガソリンをかけて燃やし始めました。その時私は堪えられなくなり、うんと頑張って、死人のうずたかくなったところから這い出し、、長江の岸辺に沿って、燕子磯の方へかけて行き、家が焼かれて住む人のいなくなったある村で、臼で挽かれた糠の山にもぐりこんで隠れ、着ていた物を一つ一つ脱いで火に乾かし、稲を生のままかじって飢えをしのぎました。ここで私はおじいさんが一人子どもと一緒に小舟を漕いで村にやってきてわらを引きずっているのを見かけたので、彼らの頼んで、八卦洲まで連れて行ってもらい、それから江北まで帰りました。
 江北で、私は幕府山から逃げ出してきたもう一人の生き残りに出会ったのですが、諸という人で、日本軍は銃殺した後、ガソリンで殺した者の死体を焼いてしまった、と言っていました。この人は焼かれて火傷しながら、火の中から逃げ出したのでした。諸さんは原籍が広東なのですが、後に、六合の竹鎮で新四軍に加わり、その後私との連絡はなくなりました。(段月萍と陳立志が記録)

  
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

女性たちが

平和をつくる世界を。



Imagine,

A world where

women create peace



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月21日土曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について4
【概数の資料】
中国兵の犠牲者数については、日本と中国の資料から概数は推定できたが、きわめて困難なのが民間人の犠牲者数の推定である。総数を推定する参考になる当時の3つの資料を紹介する。
(1)ラーベの「ヒトラーへの上申書」(「南京事件・ラーベ報告書」に同じ)
「中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万から6万とみています。」(ラーベ『南京の真実』)。38年2月23日にラーベが南京を離れた段階での推定数である。南京城内にいたラーベら外国人には、城外・郊外の広い地域で行われた集団虐殺の多くをまだ知っていない。それでも、難民区国際委員たちが当時の情報を総合して推測した数として参考になろう。
(2)埋葬諸団体の埋葬記録(『中国関係資料編』の第Ⅲ編「遺体埋葬記録」に収録)
 南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は18万8,674体になる。これには戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作業のダブりの問題もある。しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことも考えると、南京攻略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する資料となる。
(3)スマイスの「南京地区における戦争被害ー1937年12月~1938年3月ー都市及び農村調査」
 同調査では、市部(南京城区)では民間人の殺害3250人、拉致されて殺害された可能性の大きい者4200人を算出、さらに城内と城壁周辺の入念な埋葬資料調査から1万2000人の民間人が殺害されたとしている。近郊区では4県半の県城をのぞいた農村における被虐殺者数は2万6870人と算出している。この調査は、38年3月段階でで自分の家に戻った家族を市部で50軒に1軒、農村で10軒に1軒の割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている。それでも、同調査は当時行われた唯一の被害調査であり、犠牲者は間違いなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる。
 以上の犠牲者数についての資料状況と本書で叙述してきた南京事件の全体状況とを総合すれば、南京事件において10数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。日本軍側の資料の発掘・公開がさらに進み、中国側において近郊農村部の犠牲者数の記録調査がもっと進展すれば、より実数に迫る数字を推定することが可能となろう。
  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 葛仕坤(男、74歳)の証言
 私は葛仕坤といって、今年74歳ですが、日本兵が南京にやってくる前の晩に、私たち全家族で燕子磯の許家村から引っ越して長江の北へ行きました。けれども私はしょっちゅう燕子磯の許家村に戻って来ていました。1937年12月のある日と覚えていますが、許家村の月亮山で日本人が中央軍をしばりあげ、400人余りもいた中央軍を、日本人は強引に地にひざまずかせて、それから機関銃でみんな射殺したのを、この目で見ました。あの時は、烏龍山から許家村までの道はずっと死体が転がり、道行く人はみんな屍の上を踏みつけて行くのでした。私たちの村の村長の周明旭が人々に道沿いに壕を掘らせ、そこに死人を埋めました。旧の十○地で、日本人6,7人が葛という女の子を私たちの家に引きずってきて輪姦するのを、この目で見ました。(陶俊と李春明が記録)
 ※○は、日本の漢字にない字なので○にしました。

 
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


基地をなくして緑と海を


取りもどしていく世界を。


Imagine,

A world that gets rid

of military bases and reclaims

the forests and the oceans.



森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月20日金曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について3
【日本軍が虐殺した中国軍民の数】
日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外におかれたものの苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった(藤田久一『戦争犯罪とは何か』、同『新版・国際人道法』参照)。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民および非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道法的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善をいっそう明確化した「捕虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)が1929年に締結されて、戦時国際法として存在した(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。
 ハーグ陸戦条約は「第23条[害敵手段、攻囲及び砲撃の禁止事項] ロ、敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること   ハ、兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること 二、助命せざることを宣言すること」と、「害敵手段」を規制していた。これは、直接戦闘外におかれた兵士を保護するための規定である。12月13日早朝に南京城は陥落し、南京攻略戦の直接の戦闘は決着がつき、南京防衛軍も完全に崩壊してしまっていた。したがってその後の中国兵は、戦闘員を人道的に保護するために、投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在だったのである。日本軍が徹底した殲滅戦(せんめつせん)を強行したために、投降兵、敗残兵を殺戮したのは、同条約に違反する不法行為であり、虐殺行為であった。また、日本軍は、武器を捨て軍服を脱いで民間服に着替えて難民区や居住区に潜伏した中国兵を「便衣兵」として連行、処刑したが、南京には本来の「便衣隊」「便衣兵」は存在しなかった。
 「便衣兵」を処刑するにはそうと認定する軍事裁判の手続きが必要であったから、日本軍の「便衣兵狩り」による集団処刑は、交戦法規に違反した虐殺行為であったのである(吉田裕「15年戦争史研究と戦争責任問題」)。
 現在公刊されている日本軍側の資料から、南京攻略戦に参加した各師団がどのくらい中国兵および中国兵と見なされた民間人を、捕虜・投降兵・敗残兵・「便衣兵」として殺戮・処刑したかの累計をこころみたのが表1である。(割愛させていただく)第9師団・第114師団・第6師団の各部隊の戦闘詳報や陣中日記の公開が特に遅れているが、もしも日本軍側の全連隊の戦闘詳報がそろえば、捕虜、敗残兵の被虐殺者数(ここには民間人の男子も含まれている)の総数がかなり明らかになることがわかるだろう。
 もっとも、戦闘詳報の記録は一般に戦果を多く報告する傾向にあるから、この数字はあくまでも概数として扱うほかはない。それでも、( )をつけなかった虐殺者数は8万人以上になろう。可能性のあった捕虜のほぼ全員殺害を想定すれば、10万人以上になる。
 私は、総数15万人の防衛軍のうち、約4万人が南京を脱出して再結集し、約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明となり、残り8万余人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する(「南京防衛戦と中国軍」)。
  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺

 郭国強(男、68歳)の証言
 1936年に、私は18歳で「中央軍」に加わり、88師で軍務についていました。そのころ日本軍が上海を攻めていて、我が師団は上海で抵抗していました。負けてから、江蘇の句容へ行って又日本軍と一戦を交え、それからは壊滅して軍をなさなくなりました。
 1937年の12月に、私は2,3百人の「中央軍」と平服を着て、南京の燕子磯三台洞の近くまで逃げてきました。日本軍が燕子磯の長江沿いの浅瀬でやった大虐殺の情景を目撃しました。あの時日本軍は機銃掃射を一昼夜続け、2万人以上の既に武装解除していた「中央軍」の命を奪ったのです。私は三台洞に隠れていて、日本軍に発見されたのですが、山を切り崩している農民だと偽り、山を爆破する道具を持ち出してきて、やっとのことで死を免れたのでした。
 それから、私は隙を見て逃げ出し八卦洲の下○村まで落ち延びて、そこに住み着くようになったのです。(潘可栄と趙金華が記録)

   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

武器を使わせない世界を。


Imagine,

A world that doesn’t

let weapons be used.



憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月19日木曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について2
【南京攻略戦下の人口】
南京特務機関「南京市政概況」によれば、南京攻略戦の前後で南京市(本書で言う南京城区)の人口・戸数は以下のように変化している。


 1937年 3月末   101万9667人     20万810戸    (首都警察庁調べ)
   38年 2月末 20万   (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
   38年10月末 32万9488人      8万2195戸   (南京市自治委員会調べ)
   39年10月末    55万2228人     13万2,403戸   (南京特別市政府調べ)
   41年 3月末 61万9406人 14万0439戸    (南京市政府調べ)
 
日中全面戦争勃発前の南京城区の人口は100万人以上であったが、日本海軍機の連日の空襲のために同区の人口は激減していき、37年11月初旬には50万近くになっていた(スマイス「南京地区における戦争被害」)。同11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡には、「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」と記されている(中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』)。11月下旬には、国民政府はすでに首都遷都を宣布しており(11月20日)、中支那方面軍の南京進撃もすでに始まっていた段階で、南京から遠隔の地に避難したい階層は基本的に脱出を終了していた。その後、南京城区から安全と思われた近郊農村に避難していった市民も多かったが、一方では、南京防衛軍の「清野作戦」の犠牲になった城壁付近の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。したがって、南京攻略戦が開始された時に、南京城区にいた市民はおよそ40万~50万であったと推測される。
 南京特別市の近郊6県の県城と農村の人口は、スマイスらの「南京地区における戦争被害」に基づいて推測すれば、南京攻略戦以前は、150万を超えていたと思われる。県城や農村の住民は遠隔地へ脱出していく事例は少なく、南京攻略戦に際しても一時的に近距離周辺に避難するパターンが多かったから、概して人口の変化は大きくない。
 南京防衛戦に参加した中国軍の総数については、私はかつて詳細に検討したことがあり(「南京防衛戦と中国軍」)、戦闘兵が11万~13万、それに雑役を担当した少年兵、輜重兵(しちょうへい)などの後方勤務兵、軍の雑務を担当した雑兵、防御陣地工事に動員された軍夫、民夫(民間人人夫)等々、正規非正規の区別もつきづらい膨大な非戦闘兵を加えて、総勢15万人いたと推定した(南京防衛軍の戦闘詳報など中国側の豊富な原資料を整理・分析した孫宅巍・江蘇省社会科学院研究員の「南京保衛戦史」も、南京防衛戦に参加した中国軍の総勢を約15万としている)。

  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 楊勤州(男、61歳)の証言
 1937年の冬に、日本軍が来ました。1000人ほどの国民党の敗残兵が、白旗を掲げ、日本軍に私たち小江辺の大きな倉庫まで連行されました。日本軍はこの人たちを整列させてから、身体捜査をやり、2人刺し殺しました。価値の高い物をみんな取り上げ、身体捜査が終わってから、又8人銃殺しました。その時に又何人か日本軍がやってきて、その敗残兵たち全部を綿花堤まで駆り立て、機関銃を2台据え付けて、掃射をし、しまいには粗朶をたくさん積み上げ、それにガソリンをかけ、まだ撃ち殺されていない人を全部、火をつけて焼き殺しました。
 孫という全椒県の人がいて、年の暮れに街に出て塩を買ってきたのを、日本兵が捕まえて無理に塩を食べさせ、話せなくなるまでにしてしまいました。ずっとしてから年取った漢方医がゆっくり調えてやっとよくなりました。(羅自成が記録)

  

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

おたがいに戦争しないと

約束した世界を。


Imagine,

A world that promises

not to fight wars

with each other.



戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月18日水曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について1
 南京事件において犠牲にされた中国軍民の数を正確に算定することは、今となっては、まず不可能である。日中の双方とも南京事件発生時および直後に本格的な被害調査をしなかったからだ。(金陵大学のスマイスらの「南京地区における戦争被害」調査が唯一であった)。南京はその後およそ7年間、日本の占領下に置かれたため、中国当局が直接調査することはできなかった。いっぽう、南京を占領統治した日本当局が、犠牲者数を調査することなどありえなかった。したがって、関連した諸資料を収集し、整理・検討して犠牲者総数を推定していくことになるが、その資料も、日本軍側の資料の公開が少ないことが最大の障害になっている。※

 ※藤原彰氏の調べによれば、中支那方面軍の全連隊の中で、これまで戦闘詳報や陣中日記の類の公式資料を公刊・公表している部隊はおよそ3分の1にすぎない。多くは敗戦前後に連合軍の追及を恐れて証拠湮滅(しょうこいんめつ)のため焼却されている。また、南京攻略戦に参加した元兵士が残虐行為を証言したり、それらを記録した陣中日記を公表したりすると、戦友会や右翼勢力から証言封じの圧力が加えられることも日本側の資料が少ない原因になっている。


 犠牲者総数の解明は、南京事件の全貌をより厳密に理解するために必要であって、その逆、つまり、正確な総数が確定できないから南京事件は「まぼろし」であるということにはならない。犠牲者数の問題は、今後さらに資料が発掘されていけば、より実数に迫っていけることも事実である。ここでは、本書で引用してきた資料を整理・総合して推定できる概数を述べてみたい。それは概数であっても、相当程度南京事件の全貌をイメージできると思うからである。


 
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 邢久発(男、72歳)の証言
 1937年の暮れに、日本兵が南京で大虐殺をやり、その蛮刀の下に数限りない人々が惨死しました。水西門から上新河まで、死者がうずたかく山をなし、河いっぱいに血が流れたのです。とりわけ江東門の橋が爆破されていたのを、日本軍が屍をうずたかく積んで、車が通るようにしたのです。

 何玉峰(男、59歳)の証言
 南京が陥落したとき、私は郊外の沙洲圩に避難していました。長さ5,6キロにも及ぶ水西門から上新河までの道に、日本軍に殺害された人々が、まさに死屍累々として野に遍しの状態だったのを、目撃しました。紅卍字会の埋葬作業で、この道には、2,30メートル置きくらいに1つずつ、屍が丘のようにうずたかくなったのを、覚えています。
 江東門の江東橋が爆破されていて、日本軍が死体で河を埋め、上に戸板や葦ずなどを敷いて、臨時の橋にしました。人がその橋の上を歩くと、そこが上下に浮き沈みして、まったく見るに耐えないむごたらしさでした。(習守清と呉建野が記録)

 
 

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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