2008年12月14日日曜日

1937年 12月14日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波書店)

12月14日・・・この日、昭和天皇より南京占領を喜ぶ「御言葉」が下賜(かし)された。

 陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下御言葉
中シナ方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、
首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。(『南京戦史資料集Ⅱ』)
 
 この夜、南京陥落を待ちかねていた東京では、市民40万人が繰り出して南京陥落祝賀の大提灯行列をおこない、広い皇居の周囲は提灯をもつ大群衆で埋まった。

 南京の長江上流にも、大きい江心洲があり、そこから2、3百メートルの川幅しかなかったので、小舟や筏で簡単に渡る事ができた。12月14日、同洲に敗残兵多数がいるという情報を得て、「残敵掃蕩」に行った国崎支隊の歩兵41連隊(福山)の中隊は最初に投降した捕虜を利用して、残りの中国兵を降伏させることに成功した。その経緯を歩兵41連隊第12中隊「江心州敗残兵掃蕩に関する戦闘詳報」はこう記している。

  中隊長の計画は図にあたり、午後7時30分より続々兵器を持参し白旗を掲げて我が第一線に投  降 す。中隊長は兵器と捕虜を区別しこれが整理をおこなえり。
  これよりさき支隊長に捕虜の処分、兵器の指示を受けしに、武装解除後兵器は中隊とともに、捕   虜は後刻処置するをもってそれまで同島において自活せしめよとの命令あり。(中略)
  捕虜2350人(『南京戦史資料集』)

 2350人の捕虜をどのように「後刻処置」したのか、公刊された資料には記されていない。
しかし、第10軍司令官柳川平助から「国崎支隊は主力を持って浦口付近を占領し、残敵を捕捉撃滅すべし」という丁集団命令が出されていた(『南京戦史資料』)。 

入城式のための「残敵掃蕩」
巧妙心にはやる松井石根司令官と中シナ方面軍司令部が17日に入城式を強行することにしたため、日本軍は14日から17日にかけて、南京城の内外で全力をあげての徹底した「残敵掃蕩・殲滅」作戦を遂行することになった。
 大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有の盛事、敵の首都への皇軍の入城」の一大セレモニーの日に、式場はもちろん、銃内、城外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下が入城するため一時通行禁止となり」(牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
 こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、残虐される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。・・・・・
・・・・・・・・・
(12月14日)昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人員が狩り出されて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢のよい者、目つきの鋭い者、などよく検討して残した。昨日の21名とともに射殺する。(南京戦史資料集)

 ダーティン記者は、民間人の多くを殺害した、城内の「残的掃蕩」の様子をこう記す。

 南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕が  あるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選び出すのである。しかし、多くの場合、もちろん  軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命拾い する場合もあった。
 南京掃討を始めてから3日間で、1万5千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。
 そのとき、さらに2万5千人がまだ市内に潜んでいると強調した。(中略)
 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のよ うに目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっている事が多く、兵隊の気まぐれで、背後から  撃たれたことは明らかであった。(「ニューヨークタイムス」38年1月9日、『アメリカ関係資料編』)

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

12月14日

(この日の記述はない。いろいろな事件への対応に追われて忙しかったのか、編集者がカットしたのか分かりません。)


「南京事件の日々」(ヴートリン著:大月書店)より

12月14日 火曜日

午前7時30分。昨夜、戸外は平穏だったが、人々の心の中には未知の危険に対する恐怖があった。夜明け前に再び城壁に激しい攻撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入する際に、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。時折銃声も聞こえた。・・・・・
 下関の方角でも砲声が聞こえたが、想像するに、それは、長江を渡って北の方へ逃走しようとしている中国兵がぎっしり乗り込んだ小さなサンパンを狙ったものであろう。かわいそうに、あの無情な砲撃では、逃げおおせる見込みはほとんどなかったどろう。・・・・・・・
・・・・・・
 昨夜、日本兵によって無理やり家から追い出された人の話や、さらには、今朝日本兵が働いた掠奪の話も耳に入ってくる。・・・・・・・ひどい目にあわせられた少女たちの話が耳に入ってきているが、確かめる機会がまだない。

 4時に安全区本部へ出向いた。委員長のラーベ氏とルイス・スマイスが日本軍の司令官と連絡をとろうと終日努力していたが、司令官はあすまで不在だ、と言われた。・・・・・・彼らは中国兵に対しては情け容赦なく、アメリカ人にはあまり関心がない。

・・・・・・・・
 貧しい人々の家に、そして、一部の裕福な家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らは、日本国旗を作ってそれを掲げていれば、少しはましな扱いをしてもらえるだろうと考えてそうしたのだ。
 金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空き地は日本兵であふれ、校門のすぐ前にも兵士が8人ぐらいいた。彼らが立ち去るまで私は校門のところに立っていたが、そのおかげで、陳師傳を彼らから奪い返す事ができた。私がそこへ行かなかったら、彼らは彼を案内役として連れ去ったであろう。学院の使い走りの魏は今朝使いに出されたまま、まだ戻ってこない。連行されたのではないかと思う。・・・・・・・・
 今夜はみなとても怖がっているが、昨夜ほどのことはないだろうと思う。日本兵は目下、安全区の東にある地区へ移動しているようだ。・・・・・・・・

※血に染まる長江(「南京事件:笠原著)より
 佐々木到一の私記は、「軽装甲車中隊午前10時ごろ、まず下関に突進し、公岸に蝟集(いしゅう)しあるいは江上を逃れる敗敵を掃射して、無慮1万5千発の弾丸を撃ち尽した」と記している。同じ第16師団の歩兵第33連隊の「南京付近戦闘詳報」は、こう記している。

 午後2時30分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛及び速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること2時間、殲滅せし敵2千を下らざるものと判断す。(「南京戦史資料集」)・・・・・・・・・


「Imagine 9」【合同出版】より


基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界


 戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。

 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。

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2008年12月13日土曜日

1937年 12月13日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より

12月13日・・・日本軍、「残敵掃蕩」を開始
大殺戮の開始
「あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし」
 12月12日深夜に南京城を陥落させた中シナ方面軍は、翌13日朝から南京城内外の「残敵掃蕩」を開始した。各師団、各部隊に担当地域が割り当てられ、作戦は徹底、周到なものになった。第10軍(丁集団と称した)司令官柳川平助中将は、こう下令した。

    丁集団命令(丁集作命甲号外)  12月13日午前8時30分
1、〔丁〕集団は南京城内の敵を殲滅せんとす。
1、各兵団は城内に対し砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、とくに敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す(『南京戦史資料集』)
・・・・・
 上海派遣軍第九師団の歩兵第六旅団長秋山・・少将は、「南京城内掃蕩要領」及び「掃蕩実施に関する注意」で次のことを指示した。
 1、遁走せる敵は、大部分便衣(べんい)に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す
 1、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし(『南京戦史資料集』)
 「便衣」とは中国語で平服の意味で、「便衣兵」は軍服ではなく民間人の服を着ている「私服兵」「ゲリラ兵」をさした。「便衣兵」と認定するには武器携帯を確認する必要があったが、右のような指示は、一般の青壮年男子を敗残兵とみて「掃蕩」の対象にすることを意味した。しかも「逮捕監禁」といっても、日本軍は「捕虜はつくらぬ方針」で臨んだのである。

 13日の「残敵掃蕩」の模様を、・・・・南京に踏みとどまっていたダーティン記者はこう報じた。
月曜日(13日)いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。(中略)
無力な中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。(中略)
 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることも会った。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。
年齢・性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖に駆られて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。(『ニューヨーク・タイムス』38年1月9日、『アメリカ関係資料編』)

 このような敗残兵にたいする集団殺戮は、長江沿いの下関地区一帯でもっとも大規模におこなわれた。・・・・・・・ハーグ陸戦条約にもとづけば、すでに軍隊の体をなさず、戦意を失っているそれらの敗残兵の大軍にたいしては、投降を勧告し、捕虜として処遇してやる必要があった。しかし、日本軍がおこなったのは殲滅=皆殺しだった。同地域の「残敵掃討作戦」を担当した第16師団の佐々木到一支隊長は、その日の「戦果」をこう記している。

 この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である。(中略)
午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。
その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯がばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。
白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。(「佐々木到一少将私記」)
  

 日本軍だって食糧補給がなく現地徴発=略奪で食をつないでいるくらいだから、捕虜にしても食わせるものがない、だから始末=殺害してしまえ、ということである。・・・・・
 投降兵、敗残兵を捕虜として収容しないで、殺害せよというのは、第16師団の方針でもあった。師団長中島今朝吾中将は日記(12月13日)に「捕虜掃蕩」という項目で次のように記している。
 
 だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、5千、一万の群集となればこれが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。(中略)
・・・・・・・・・・
この7、8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、2百に分割したる後、適当の箇所に誘きて処理する予定なり。(『南京戦史資料集』)

 この13日に第16師団だけで、処理(処刑)して殺害しようとした投降兵、敗残兵は2万3千人を超える膨大なものとなった。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より

12月13日

日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領しただけで、まだ内部には踏み込んでいない。

本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、私が役員として加わった。ここしばらくはこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。
 委員会のメンバー3人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよく分かった。砲撃が激しくなった時に医者も看護人も患者を放り出して逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気を取りもどした。
 外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われている。入口には手押し車があり、原形をとどめていない塊が乗っていた。見たところ遺体にみえたが、ふいに足が動いた。まだ生きているのだ。

・・・・・・・・・ふと前方を見ると、ちょうど日本軍が向こうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は2日後に来ると言った。日本軍は北へ向かうので、我々はあわてて回れ右をして追い越して、中国軍の3部隊を見つけて武装解除し、助けることができた。全部で6百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。
 ・・・・・・・鉄道部のあたりでもう一部隊、4百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるように指示した。
・・・・・・・・・
安全区の境で、市街戦が始まりでもしたら、逃げている中国軍が、安全区に戻ってくるのは火を見るより明らかだ。そうなったら安全区は非武装地帯ではなくなり、壊滅とまではいかなくても徹底的に攻撃されてしまうことになる。
 我々はまだ希望を持っていた。完全に武装解除していれば、捕虜にはなるかもしれないが、それ以上の危険はないだろう、と。・・・・・

 本部に戻ると、入口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江を渡って逃げようとして、逃げ遅れたのに違いない。我々に武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。・・・・・

 町をみまわってはじめて被害の大きさがよく分かった。百から2百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから撃たれたのだろう。
 日本軍は10人から20人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツ人のパン屋、キースリングのカフェも襲われた。・・・・中山路と太平路の店のほとんど全部。・・・・・・・
・・・・・・・・・・近所の家も皆こじ開けられ、略奪されていた。フォスターは、日本兵が数人で自分の自転車を盗もうとしているのを見つけた。我々を見ると日本兵は逃げ去った。日本のパトロール隊を呼び止め、この土地はアメリカのものだからと、略奪兵を追い払うように頼んだが、相手は笑うだけで取り合おうとしなかった。

 2百人ほどの中国人労働者の一団に出会った。安全区で集められ、しばられ、連行されたのだ。我々が何を言ってもしょせんむだなのだ。
 元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、4百ないし5百人がしばられて連行された。機関銃の射撃音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたに違いない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。・・・・・・

 日本軍につかまらないうちにと、難民を125人、大急ぎで空き家にかくまった。韓は近所の家から、14歳から15歳の娘が3人さらわれたといってきた。・・・・・・
・・・・・・・・・・・
 被害を報告するため、今朝6時からずっと出歩いていた。韓は家から出ようとしない。日本人将校はみな多かれ少なかれ、ていねいで礼儀正しいが、兵隊の中には乱暴なものも大ぜいいる。そのくせ飛行機から宣伝ビラをまいているのだ。日本軍は中国人をひどい目にあわせはしないなどと書いて。

 絶望し、疲れきって我々は寧海路五号の本部に戻った。あちこちで人々が苦しんでいる。我々はめいめいの車で裁判所へ米袋を運んだ。ここでは数百人が飢えている。外交部の病院にいる医者や患者の食糧はいったいどうなっているのだろうか。本部の中庭には、何時間も前から重傷者が7人横たえられている。いずれ救急車で鼓楼病院に運ぶことができるだろう。なかに、脚を打たれた10歳くらいの少年がいた。この子は気丈にも一度も痛みを訴えなかった。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より

12月13日(月曜日)

 激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。・・・・・城内でもさかんに銃撃が行われた。実際、私はぐっすり眠りに付くこともなく、日本軍が中国軍を南京城外に追い出し、退却して行く中国軍を銃撃しているのであろう、と夢うつつに考えていた。何か事が起こるのではないかと、誰もが服を着たままだった。5時を少し回ったころに起き上がって、正門のところへ行ってみた。・・・・門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過して行き、中には民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。今朝、キャンパス内にたくさんの軍服が落ちているのが見つかった。近所の人たちがキャンパスに入りたがっているが、しかし、私たちとしては、キャンパスの中でなくても安全区にいれば安全なのだということ、また、安全区内であればどこでも同じくらい安全なのだということを彼らに分からせようと努力してきた。
 粥場、つまり炊き出し所で今朝初めて粥が出された。寄宿舎の人たちには、キャンパスにやってきた順番に粥を食べさせた。10時半には粥はすっかりなくなっていた。・・・・・


 午後4時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。確かめるために南山公寓に行ってみると、案の定、西山に数人の日本兵がいた。まもなく別の使用人が私を呼びに来て、家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鵞鳥(がちょう)を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・


 午後7時30分、粥場を運営している人たちから、米を貯蔵してある、校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。フランシス・陳と二人でその兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。門の衛兵は、こちらが顔を合わせるのも気後れするような荒くれだった。後にこのことで安全区の責任者のところに行き、あすその問題の解決に努力してもらうことにしたが、その取り扱いには慎重を期すべきだとする点では、みなの意見が一致した。

 今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の公報・無線通信すべてが止まっている。私たちは、透過不可能な地帯に隔てられて全く孤立している。あすアメリカ砲艦パナイ号から呉博士と、それにニューヨークにも無線電報を打つ事にしよう。金陵女子文理学院に関しては、これまでのところ職員も建物もどうにか無事だが、これから先のことについては自信がない。みんなひどく疲れている。
私たちはほとんどいつも、全身染み込んだ疲労に耐え切れずに、太くて低いうめき声を発している。8今夜は武装を解いた兵士が安全区に大ぜいいる。城内で捕らえられた兵士がいるかどうかは聞いていない。)

「Imagine 9」解説【合同出版】より


武器を使わせない世界

 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。

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2008年12月12日金曜日

1937年 12月12日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波書店)より

 12日、戦勝報道にわいた日本国内では、官庁と教育界、マスコミ、ジャーナリズムの肝いりで、南京陥落祝賀行事が繰り広げられた。同日の新聞は「きょう帝都は歓喜のどよめき/そらッ!南京陥落だ!/宮城前に奉祝の群れ/讃えよ世界最大の誇り」(『東京日日新聞』)と報じた。宮城前には、朝から東京外国語学校の生徒700名が校長に引率されて日の丸を手に祝賀に訪れたのをはじめ、東京都下の学生の奉祝パレードがおこなわれ、さらに一般の群衆にまじって、校長・教師の先導で東京府内の各学校の生徒たちが終日宮城を訪れ、戦勝祝賀の行進をしていった。
 東京府の府庁舎の空には「祝南京陥落」のアドバルーンが上げられ、銀座などの大通り商店街に日の丸、旭日旗、そして「南京陥落」と書いた幟(のぼり)が飾られた。・・・・・・・

 12日、南京では夜明けとともにかつてなく激烈な日本軍の攻撃が開始された。完全に南京の制空権を掌握していた日本軍機は、中国軍陣地に容赦ない爆撃をくわえ、南京城壁を包囲するかたちで陣地を据えた日本軍の砲列は、城壁と城内に向けて猛烈な砲火を浴びせた。
 南京城の南の中華門外の重要拠点である雨花台陣地には、第六師団(熊本)と第114師団(宇都宮)が猛攻をくわえ、正午までに同陣地を占領した。第六師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、さらに城内にも砲撃を撃ちこむ。このため、南京の中心街に砲弾が落ち、硝煙が街をおおい、各所に火の手があがった。雨花台の北端に進出した第11師団(善通寺)は、中華門から東の雨花門にかけての城壁に集中攻撃を開始した。・・・・・・・

 12日、日本海軍機、アメリカ砲艦パナイ号を撃沈。南京防衛軍司令長官 唐 生智、撤退命令を出す。深夜、南京陥落。



「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月12日
 日本軍はすんなりと占領したのではないかという私の予想は見事に外れた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうてい無理だ。朝の8時に、再び砲撃が始まった。

 11時に唐将軍の委任により龍上校と周上校がやってきた。3日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。
 休戦協定の内容はーこの3日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。我々は、まずアメリカ大使宛の電報、次に調停を依頼する唐将軍の手紙を作成し、最後に軍使に関する取り決めをまとめあげた。軍使は、白旗に守られて、前線にいる日本軍の最高司令官にこの手紙を渡さなくてはならない。・・・・・夕方6時頃、ようやく龍が姿を見せる。龍は言った。「残念ながら、せっかくの努力が水の泡でした。すでに日本軍は城内の前まで攻めてきているため、時すでに遅し、とのことです」・・・・・

 18時半・・・紫金山の大砲はひっきりなしにとどろいている。あたり一面、閃光と轟音。突然、山がすっぽり炎につつまれた。どこだか分からないが、家や火薬庫が火事になったのだ。紫金山の燃える日、それは南京最後の日。昔からそういうではないか。南部から逃げてくる人たちが、安全区を通って家へ急ぐのが見える。その後から中国軍部隊がぞろぞろ続いている。日本軍に追われていると言っているが、そんなはずはない。一番後ろの連中がぶらぶらのんびり歩いているのを見れば分かる。
 この部隊は中華門、あるいは光華門で手ひどくやられ、パニック状態で逃げてきた事がわかった。次第に落ち着き、最初は気が狂ったように逃げていたのだが、いつしかのんびりとした行進にかわっていたというわけだ。それはともかくとして、日本軍がもう城門の前まで攻めてきていること、したがって最終戦が目前に迫っていることは、もはや疑いようがない。・・・・・
・・・・

 20時・・・南の空が真っ赤だ。庭の防空壕は、避難してきた人たちでふたつともあふれそうになっている。ふたつある門の両方でノックの音がする。中に入れてもらおうと、女の人や子どもたちが必死で訴えている。ドイツ人学校の裏の塀を乗り越えてがむしゃらに逃げ込んできた男たちもいる。
 これ以上聞いていられなくなって、私は門を二つとも開けた。防空壕はすでにいっぱいなので、建物の間や家の陰に分散させた。ほとんどの人はふとんを持ってきている。庭に広げてある大きなドイツ国旗の下で寝ようというちゃっかりした連中もいる。ここが一番安全だと思っているのだ。

 榴弾がうなる。爆弾はますます密に間近に降ってくる。南の方角は一面火の海だ。轟音がやまない。私は鉄のヘルメットをかぶった。忠実な韓のちぢれ毛の頭にものせてやった。我々は防空壕に入らないからだ。入ろうとしてもどっちみち場所はないが。番犬のように庭を見回り、こちらで叱りつけ、あちらでなだめる。しまいにはみな言うことを聞くようになった。・・・・・
・・・・・

 真夜中になってようやく静かになった。私はベッドに横たわった。北部では、交通部の立派な建物が燃えている。

 ふしぶしが痛い。48時間というもの、寝る間もなかったのだ。うちの難民たちも床につく。事務所には30人、石炭庫に3人、使用人用の便所に女の人と子どもが8人、残りの100人以上が防空壕か外、つまり庭や敷石の上や中庭で寝ている!!・・・・

 夜の9時に龍が内密に教えてくれたところによると、唐将軍の命により、中国軍は今夜9時から10時の間に撤退することになっているという。後から聞いたのだが、唐将軍は8時には自分の部隊を置いて船で浦口に逃げたという。
 それから、龍は言った。「私と周の二人が負傷者の面倒をみるために残されました。是非力を貸していただきたいんです」本部の金庫に預けた3万ドルは、このための資金だという。私はこれをありがたく受け取り、協力を約束した。いまだ何の手当ても受けていない人たちの悲惨な状況といったら、とうてい言葉でいいあらわせるものではない。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月12日 日曜日
夜8時30分、このメモを書いているが、市の南西地域で激しい砲声がとどろいている。絶えず窓ガラスが震動するので、用心のため窓際から離れている。一日中激しい爆撃が続いた。・・・・
・・・・・・・
今や日本軍機は意のままに飛来して爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機による反撃は何もない。犠牲がほとんど効果をあげていないとすれば、城壁外側のすべての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払ったことは、とんでもない誤算であったと確信する。・・・・
・・・・・・・・・

 あいかわらず避難民がやってくる。現在、三つの建物はすでにふさがっており、文科棟への収容を開始している。あいにく、中国赤十字会が運営することになっている粥場いまだに開業していないので、食料を持ってこなかった避難民にとっては最悪の状態が続いている。・・・・・
・・・・・・・・・
 午後5時、英語による礼拝に出かけた時、紫金山の上の部分三分の一のところを取り巻くように帯状に火の手があがっているのが見えた。どのようにして火災が発生したのかは聞いていないが、松の木がたくさん焼失したことは確かだ。

 夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなかった。今夜彼らは、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族の中に若い娘がいるからだ。今夜、城内では眠れる人はほとんどいないだろう。市の南部と、それに下関が依然として燃えているのが南山公寓から見えた。・・・・・・


「Imagine 9」解説【合同出版】より


 武器を使わせない世界

 世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。


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2008年12月11日木曜日

1937年 12月11日 南京

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
 誤報におどる国民
 12月11日午後、南京城の水西門・漢中門の西側の湿地帯で、一中隊から小隊長二人の戦死を出すほど苦戦をしいられていた第六師団(熊本・師団長 谷 寿夫中将)の歩兵第45連隊の前田吉彦少尉は、歩兵大36旅団無線から伝えられたラジオ・ニュースを知って驚いた。日本の内地のいたるところで、南京陥落の捷報に祝賀の万歳がわきおこり、提灯行列がくり出されたというのである。
 「このニュースを聞いたこの現時点で南京の守備軍は以前頑強に抵抗を続けあり、上空には高射砲弾幕が絶え間なく、城壁付近また砲煙におおわれ銃砲声の間断なきを聞くというのはいったいどうしたわけなのか?いったい陥落なんて誰が言い出したデマなんだろう」と陣中日記(12月11日)に書いている。(「前田吉彦少尉日記」『南京戦史資料集』)。
 日本国内ではこの日、「皇軍勇躍南京へ入城/敵首都城頭に歴史的日章旗・・・・・・」と各新聞がいっせいに大々的な南京陥落報道を行った。この日の夜、東京では祝賀提灯行列がくりだし、国会議事堂にイルミネーションが点じられた。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月11日
8時・・・水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃に備えているのだ。・・・・・
 爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居座っているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区からはすでに軍隊を撤退していると日本軍にいえないじゃないか。

9時・・・ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者。・・・・・ホテルにとまっていた車が二台炎上。さらにもう一発、榴弾(今度は中学校)。死者13人。軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。・・・・・
・・・・・・
 けが人が大ぜい中山路に運ばれていく。砂袋・引き倒した木、有刺鉄線の柵ででバリケードを作っているが、こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手は穏やかな物腰ながら断固拒否した。病院から龍に電話で報告すると、早速唐将軍に問い合わせるとの返事。

18時・・・記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイで発ったのだ。・・・・・・
・・・・・・・・
 午後8時、韓を呼び、家族を連れて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにすすめた。
あそこの防空壕のほうが安全だ。しかもわが家は、今日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃をうけるだろう。それなのに韓はまだ家を出て行こうとはしない。
   

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月11日
 何日間も終日終夜、城外ーとくに南西方向ーだけでなく城内にも激しい砲撃が加えられた。この小さなくぼ地では、砲声はそれほど大きくなかったし、恐怖を覚えるほどではなかったが、市街は悲惨だった。ジョン・マギーの情報では、福昌ホテルや首都劇場の前、さらにまた、新街口広場にはたくさんの死骸が横たわっているとのこと。市の南東部でしていた激しい砲撃も、夜になるとやんだようだった。マギーは、破壊をまぬがれた、下関の一部地域もきっと今夜焼き払われるだろう、とも言った。こうした破壊や加害に対し、我慢できないほどの激しい憤りがこみ上げてくる。・・・・
 相変わらず避難民がキャンパスに入ってくる。正午には850人ほどになった。その上、三家族が東の中庭に、そして、隣保館には約120人の避難民が生活している。北側の二つの寄宿舎の間にむしろの小屋を造り、知り合いの人にそこで食料品を売ってもらうつもりだ。強く要求しているのにもかかわらず、正門の外に設置された粥(かゆ)場はいまだに開業していない。避難民たちは、安全区について無邪気な考えを持っており、空襲の最中に道路の真ん中に突っ立っていても何の不都合もないのだと考えているようだ。今夜の記者会見で私たちは、そういう場合は家の中に入っているか、そうでなければ塀の陰に隠れているよう避難民に促すことを求められた。・・・・・
・・・・・・・・
 今夜の記者会見には20人ーすべて外国人ーが出席した。4人の新聞記者のほかは、ドイツ人二人とロシア人青年一人を除けば、あとはすべて宣教師だった。サール・ベイツから、中国軍の指揮系統が崩壊し始めているといういささか憂鬱な報告があった。下級将校が防衛司令長官の命令に従わず、いまだに兵士や大砲が安全区内に残されている。実際、今朝私は、キャンパスの敷地内で塹壕が掘られているのを発見した。
 これを書いている間にも、市の南東と南西の方角で激しい爆撃音と機関銃の音が聞こえる。人々の予想では、敵は三日のうちには城内に入るだろうが、その間にはすさまじい破棄をおこなうだろう、というのだ。
 たしか、明日は日曜日だ。今では毎日が同じ調子で明け暮れる。・・・・・・・
・・・・・・・・・・

「Imagine 9」【合同出版】の解説より
 

おたがいに戦争しないと

約束した世界


 地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。

2008年12月10日水曜日

1937年 12月10日 南京

12月10日、中シナ方面軍参謀副長武藤章大佐と同参謀中山寧人(やすと)少佐は、通訳官をともなって中山門ー句容街道において午後一時まで投降勧告の「回答」を待っていたが、中国側の軍使は来なかった。・・・・こうして10日の午後から12日にかけて、昼夜を分かたず壮絶な南京城攻防戦が展開されることになった。「南京事件」(笠原著:岩波新書)より


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月10日
 不穏な夜だった。昨日の夜8時から明け方の4時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやいうところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退する事ができたという。今朝早く分かったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、誰もがそう思っている。・・・・・・
・・・・・・・
 
 東部では、決戦の準備が始まったらしい。大型の大砲の音がする。同時に空襲も。
 このままでは、安全区も爆撃されてしまう。ということは、血の海になるということだ。道路は人であふれかえっているのだから。ああ、日本からの返事さえ、日本軍の承諾さえあれば!・・・
・・・・・・・
 今夜のうちに南京が陥落しても少しも不思議ではない、というのが大方の意見だ。とはいっても、今のところはまだその気配はないが、おもてはひっそり静まり返っている。婦人や子どもをふくめ、たくさんの難民がまたもや通りで眠っている。

 深夜2時半
 服を着たまま横になる。夜中の二時半、機関銃の射撃とともにすさまじい砲撃が始まった。榴弾が屋根の上をヒューヒューうなり始めたので、韓一家と使用人たちを防空壕へ行かせた。私はヘルメットをかぶった。南東の方角で大火事が起こった。火は何時間も燃え続け、あたりを赤々と照らし出している。家中の窓ガラスがふるえ、数秒ごとに規則正しく打ち込んでくる砲弾の轟音で家がふるえる。五台山の高射砲砲兵隊は狙撃され、応戦している。わが家はこの射線上にあるのだ。南部と西部も砲撃されている。ものすごい騒音にもいくらか慣れて、再び床に就いた、というより、うとうとした。
こんなありさまでは眠ろうにも眠れるものではない。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
 午前7時30分の時点では、爆弾はたぶん夜通し続くと思っていたが、ときおり街路を行き交う人の足音が聞こえる以外は、奇妙なくらい静かだった。朝7時に警戒警報が鳴ったが、いまだに飛行機の飛来はない。今は機関銃の銃声がはるか南の方角に聞こえる。依然として暖かく、晴天が続いている。
・・・・(前述のことを取り消さなければならない。朝食に行くと、ほかの人たちはみな、朝4時ごろまで夜通し銃声が聞こえたことを話題にしていた。どうやら、私のほうがすっかり疲れてしまって、物音は何も聞いていなかったようだ。)
 引き続き今朝も難民がやってくる。かつての教職員宿舎はほぼ満員になっているし、中央棟も満員になりかけている。・・・・
・・・・・・・・・
 安全区の旗を掲揚するのを手伝うため、午後、F・陳と一緒に西の境界まで行った。希望としては、明日までにすべての中国軍に出て行ってもらい、その旨の電報を日中双方に送る事ができれば、と思う。外出中に激しい空襲があり、何発かの爆弾が神学校の西に投下された。私は、落下する爆弾のヒューッという音や対空射撃の閃光を初めて体験した。私たちは飛行機が頭上から去るまで塚の間に身を隠していた。
 激しい撃ち合いがほとんど終日続いていた。日本軍が光華門のすぐ近くまで迫っているそうだ。市外周辺のあちこちでほとんど一日中火災が目撃されている。今夜は西の空が真っ赤に染まっている。
・・・・・・・・
 今夜の記者会見では、南京が引き渡されたあとの難民の問題が提起された。この先数ヶ月間、誰が彼らの面倒を見るのだろうか。
 城外に取り残された12歳の少女の母親は、ほとんど一日中校門の外に立ちつくし、群衆の中に娘がいないかと食い入るように見ていた。


「Imagine 9」【合同出版】より



おたがいに戦争しないと

約束した世界


 「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
 軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
 このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。

 日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
 NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
 その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
 また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。

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2008年12月9日火曜日

1937年 12月9日 南京

9日の夕方、「日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜(むこ)の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってし、これを犯さず」という大日本陸軍総司令官松井石根名の南京防衛軍に対する「投降勧告文」(日本語と中国語)を日本軍機から城内8ヶ所に投下した。(「南京事件」:笠原著)より


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月9日
 いまだに米を運び込む作業が終わらない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力(クーリー)がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。・・・・
・・・・
 さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながら言うところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ40人いた歩哨のうち、誰ひとり生きてはいなかったという。

 燃え盛る下関を通り抜けての帰り道は何ともすさまじく、この世のものとも思われない。安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の7時にたどり着き、どうにか顔だけは出せた。そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まできているとのことだ。あるいはその手前に。中華門と光華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区中に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も看護士も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちのよってどうにか持ちこたえている。
安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちいっぱいになった。われわれは部屋を2つ立ち入り禁止にした。武器と弾薬をみつけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と武器を差し出した。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月9日(木曜日)
 今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らし出している。午後はほとんど、北西以外のすべての方角からもうもうと煙が立ち昇っていた。中国軍のねらいは、すべての障害物、たとえば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり身を守るのに役立つ物を取り除くことなのだ。AP特派員のマグダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。この2日間に大挙して城内に避難してきたのは、これら焼け出された人たちである。こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か一日遅らせるとしても、人々にこれほどの苦難を与えてまでもする価値があるのか疑問だ。・・・・・
・・・・・・
 今夜、記者会見の最中に大きな砲弾が新街口に落下し、みなびっくりして椅子から飛び上がった。
青ざめた人もいたのではないかと思う。これは、私たちが初めて体験した砲撃だった。今日は飛行機の爆音がただの一時間も絶えることはなかった。・・・・・今後、記者会見はなくなるかもしれない。

 避難民たちの話は心痛むものだ。今日、ある女性がさめざめと泣きながら私のところへやってきた。
話を聞くと、用事があって南京にきたのだが、彼女の12歳の娘は城門を通してもらえず、彼女の方も、城門の外にいる娘のところへ行かせてもらえない、というのだ。娘は、戦闘が最も激しく行われている光華門のあたりにいる。
 三汊河からやってきた女性は、気が狂ったように母親を捜し回っていた。キャンパスには母親がいないことがわかったので、私たちは彼女を聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校)へ行かせた。
 明日は日本軍が全力を挙げて城内突入を図るだろうが、その場合には、おそらく、激しい戦闘の一日になるだろう。(のちに福田から聞いた話では、実際、前衛部隊は12月10日に光華門に達したが、撃退されたそうだ。)


「Imagine 9」【合同出版】より



武器をつくったり


売ったりしない世界



 世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
 しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
 
 日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
 しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
 私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。

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2008年12月8日月曜日

1937年 12月8日 南京

いつもの日記に入る前に、1941年の今日12月8日はどんな日であったのでしょうか?
「日中戦争が泥沼化する中で日本が行った仏印進駐(1939年、北部/41年、南部)などによって、アメリカは1941年、石油・鉄くずなどの輸出を禁止し、日米間の外交は行き詰まりました。そこで日本軍は南進つまり東南アジアを侵略し、油田地帯を占領することで石油を確保しようと考えましたが、それは対米英開戦を意味し、マレー半島侵攻とハワイ真珠湾攻撃の同時作戦を決定したのでした。・・・
12月8日未明、英領マラヤのコタバルに日本軍先遣隊が上陸を開始、イギリス軍との戦闘が始まりました。」【アジア・フォーラム横浜ニュースレター】より) そして、真珠湾を奇襲するとともに、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦を布告し、アジア・太平洋戦争に突入しました。その突入した日が今日、12月8日。テレビ・新聞などのメディアはほとんどこのことを報道しないでしょう。故意に無視していると思う。
 
8日・・・日本軍、南京城包囲を完成。
「南京の真実」(ラーベ著:講談社より)
 今日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。残りの家族が40マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けていたので迎えに行く時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここに来ているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。
・・・・・・・・・・
 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところが見つからない家族が、日が暮れていく中、この寒空に、家の蔭や路上で横になっている。我々は全力をあげて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼き出された人たちが次々と送られてくる。我々はさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動をしていながら、少しも実があがらないからだ。・・・・
・・・・

我々はみなお互い絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。せっかく揚げた安全区の旗をまたもや全部持っていかれてしまった。安全区は縮小されることになったというのだ。大砲や堡
塁(ほうるい)のために予備の場所がいるからだという。どうするんだ?そうなったら、何もかも水の泡になってしまうかもしれないじゃないか。日本軍にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。そうなったら、安全区どころか場合によっては大変な危険区になってしまう。明日の朝早く、境界をもう一度調べてみなければ。・・・・・・・・



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月8日(水)
今朝9時、避難民受け入れの訓練を行い、その要領を把握した。・・・地域住民は寄宿舎に入ってもらい、無錫(むしゃく)などの都市からの避難民は中央棟に収容することにしている。地域住民の世帯には隣保館で生活することを許可しており、そこは、すでにかなりいっぱいになっている。・・・・
 今夜は、初めての避難民を受け入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、何と心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。
 赤色の丸に十字の「安全区」の旗がきょう掲揚された。
 今夜の私は、容貌は60歳、気持ちは80歳だ。避難民の受け入れを手伝いたかったので、記者会見には参加しなかった。・・・・
・・・・

 アメリカ大使館の通達には次のように書かれている。「諸外国の外交官の撤去にともない、残留アメリカ大使館員は今晩アメリカ砲艦パナイ号に乗船し、同艦内に臨時の大使館事務所を開設する。大使館員は、明日の日中は陸上の大使館に戻るものとする。下関門閉門の情報が入った場合には、パナイ号は三汊河の現在の碇泊(ていはく)地点から運行を開始する。南京城壁の乗り越えに用いるロープは、M・Sベイツ博士に保管してもらうことになっている・・・・。」
 

「Imagine 9」【合同出版】より


武器をつくったり

売ったりしない世界


「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」

 これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
 世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。

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