2018年11月9日金曜日

宮川正

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宮川正
被ばく被害を隠ぺいするため暗躍している御用学者と731部隊の関連について投稿したきたが、
今回は731部隊レントゲン班に所属していた宮川正東大名誉教授について調べてみた[1][2][3]。
経歴 ([4]に加筆)
1913年 広島県呉市で生まれる
1937年 東京帝国大学医学部医学科卒業
1944年 731部隊レントゲン班  (終戦まで)
1946年 逓信省病院、国立東京第一病院勤務
1953年 横浜市立大学医学部教授に就任
1956年 東京大学医学部放射線科教授に就任
1973年 東京大学を停年退職、東京大学名誉教授となる。埼玉医科大学教授に就任
1978年 埼玉医科大学放射線医学教授に就任
1980年 埼玉医科大学附属病院副院長を兼務
1983年 埼玉医科大学附属病院院長に就任
1989年 埼玉医科大学学長代行に就任
1993年 埼玉医科大学名誉教授となる
2002年 逝去 88歳
宮川教授は、731部隊に所属していた前歴をずっと隠していたが、何と東大の定年退官直前に
それがバレて、退官記念講義の場で学生から厳しく追及されるハメに陥った[5]。
---------(関連情報[5] p.248 引用ここから)--------------
ある退官記念講演にて
ところで、最近、全日本医学生連合中央書記局で出している「全日本医学生新聞」(1973年4月1日号)が
つぎのような記事を発表している。以下はその全文である。
(中略)
東大宮川教授に対する追及は、3月2日最終講義の場において大衆的に貫徹された。
公開質問状
放射線科 宮川 正教授殿
(中略)
その中で、日中戦争時における細菌兵器と生体実験を行なった731部隊の犯罪性が明らかにされ、
学術会議南極特別委員会に"返り咲い"ていた元731部隊員吉村寿人、北野政次について、
その生体実験を中心に検討小委員会が設けられることになりました。これは新聞にも大きく
報道されたのでご存知のことと思います。
 ところがこの学術会議の場で、宮川教授が731部隊出身であることが明らかにされました。
われわれは防衛医大の問題を考える時「医学者の戦争責任」を決してさけて通ることはできないと
思います。教授は自らの戦争責任とりわけ731部隊に加わっていたことをどのように考えておられるのか、
以下の点について公開の場で見解を明らかにしていただきたく思います。
1、731部隊に加わったのはいつからか、又どのような経緯でそうなったのか。
2、731部隊における教授の任務は何だったのか、そしてどのような活動を行なったか。
3、以上をふまえて教授自身、戦争責任とりわけ医学者としての戦争責任をどのように考えておられるか。
4、防衛医大設置に対してどのように考えどのような態度をとられるか。
昭和48年2月23日                        医学部共闘会議
われわれは以上の公開質問状に対し最終講義の場で回答するよう要求した。
医学者の"名誉"とは?
 それに対し教授はいかなる対応をしたか。
 彼はまず何より戦後20数年たった今日、"隠しおおせた"と思っていた自らの戦争犯罪が
「最終講義」というまさに土壇場で曝露されたことに対し驚きと狼狽を示した。
 「最終講義は授業の場だから答えられない」といったり、
「最終講義はセレモニーでしかないから追及されるくらいならやめてしまってもよい」などと
矛盾したことをいいつつ、公開質問状に回答することを拒否した。
 はては「記念すべき退官記念講演の場で私を追及するなんて君らは残酷だ」となどと
泣き事ともつかぬ事をいいだす始末だった。
 戦後「医学者としての戦争責任」を何ら追及されなかったばかりか逆に医局講座制の頂点に
君臨してきたこの教授が土壇場で演じたのは、自らの戦争責任を大衆の場で明らかにすること
ではなく、自己の"名誉"を必死で守り抜こうとする醜態でしかなかったのだ。
 細菌兵器と生体実験によって中国人民を虐殺した731部隊の犯罪性を捨象し、
「最終講義で追及されることを残酷だ」としか感じとることのできない人間に「医学者」を名乗る
資格はない。
 3月2日、われわれの闘いによって講演後2時間余りにわたって宮川教授に対する大衆的な
追及が展開された。
 われわれの追及に対して、宮川は昭和19年4月から20年8月まで731部隊に所属していたこと、
又放射線によるワクチンの研究を行なっていたことを明らかにしたが、「自分が第何部に
属していたかは知らない」「人体実験はやっていない」などとうそぶき、"核心"にふれる事については
「知らない。忘れた」など一切"黙秘"を押し通すことによって居直り続けた。
 そして「医学者の戦争責任」についても、すべて「戦争が悪い」「天皇の命令だからやった、
反抗すれば殺されていたかも知れない」などということによって自己を免罪し、あげくの果ては
「日本国民全体の中の一人としてなら反省してもよい」などと"反省"にならぬいいわけを
並べたて、彼の本質を大衆の面前で曝露した。
 防衛大に対しても、「よく知らない」「自衛隊の中にも医者は必要だ」といいのがれをし
"軍医養成と軍事医学研究"という指摘をつきつけられるや、「軍医の役割は大きい。軍医は必要だ」
とヌケヌケといってのけた。
 このように居直る宮川教授に対する追及は、席を立つ学生がほとんどいないという熱気の中で
続けられ、731部隊の戦争犯罪を大衆的に確認し貫徹された。
(以下略)
---------(引用ここまで)--------------
退官記念講義は敬意と感謝に包まれて暖かい雰囲気で行なわれるものだが、左翼系学生の
つるし上げにあい散々なものになったようだ。
悪いことはできないものだ。自業自得である。
当時の左翼学生の活動すべてを肯定するつもりはないが、ここでの追及は正義に基づいたものであり、
まともである。(この人たちは今どうしているのか。そして今の学生は何をやっているのか)
彼が731部隊で行なった人体実験の詳細はよくわかっていないが、肝臓にレントゲンを照射して
致死量を確認する実験を行なったという証言がある[6]。
退官記念講義の場で追及されても、実験内容を明らかにできないほど凄惨なものだったのだろう。
ナチスは、強制収用所のユダヤ人の生殖器に大量のX線を照射して不妊にさせるといった
悪魔のような冷酷な実験を繰り返していた。
同じようなことを731部隊でやっていたことは間違いない。
亀井文夫監督の有名なドキュメンタリー「世界は恐怖する 死の灰の正体」の製作に宮川教授は
協力している[7]。
映画の冒頭でコバルト60のガンマ線を小鳥が死ぬまで浴びせる衝撃的な実験が紹介されているが、
恐らく731部隊では中国人を使って同じことをしていたのだろう。示唆に富んだ実験である。
宮川教授は、「記念すべき退官記念講演の場で私を追及するなんて君らは残酷だ」と言ったが、
自分が中国人に対して行なった凄惨な人体実験は残酷でなかったとでも言うのだろうか。
こんな人物に名誉教授を授与するのが東京大学なのである。
戦後、731部隊の他の隊員と同じく、彼は米国に人体実験データを渡すことを条件に免責となった。
弱みを握られているから、当然、米国原子力産業の言いなりであり、以後、彼も放射能被ばくの
過小評価に協力することになる。
1954年に起きた第5福竜丸事件では、被ばく船は800隻もあったと言われているが、第5福竜丸
一隻だけとしたのも宮川教授である[6]。
宮川教授は放射線医学研究所(現・放射線医学総合研究所)の設立に尽力したが、
本来は独立して研究を行なうべき放射線医学もまた原子力産業に取り込まれていく。
米国・原子力産業の意向には一切逆らえないのである。
現在、放医研はIAEA協力センターに指定されているが、実質的にIAEAの傘下組織と
言ってよいだろう[8]。
前稿でも述べたが、宮川教授の弟子の弟子、たった2代下るとあの中川恵一准教授である。
マスコミに頻繁に登場して安全デマを流布している中川氏もまた731直系の御用学者なのだ[9]。
自分の出世や金儲けのために人間をモルモットのように使う731部隊の悪魔のような伝統は、
現在もしっかり受け継がれている。
731直系の御用学者が安全デマを流布して、福島の人たちを危険な放射能汚染地域に
とどまらせようとしていることがその動かぬ証拠である。
731部隊関連の情報は、安倍政権・日本会議が最も闇に葬りたい事実であり、ネット上からどんどん
情報が削除されている[10]。
東大のウェブサイトに載っていた宮川教授の訃報も、私が731との関与を指摘した後、あっという間に
削除された[4]。
不都合な歴史事実を隠ぺいしようとするのは全体主義国家の典型的な特徴である。
まさに現代の焚書と言ってよい。
731関連でこれは重要と思う情報を見つけたら、すぐにコピーを取って保存するよう、
みなさんにお願いしたい。
もっとも、インターネットで世界がつながっている時代に、いくら不都合な真実を隠そうとしても無駄である。
世界中のサイトの情報を削除改変することはできない。
無意味な悪あがきはやめろと言いたい。
過去の過ちをきちんと反省、改心しないから、何度でも同じ間違いを繰り返し、
日本はいつまでもまともな国になれないのだ。


「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—


◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直
 ヒロシマ・ナガサキの経験は、一般の予想に反し、この国の支配層、とりわけ核物理学者たちの脳裏に、反核・平和の志向を植え付けなかった。むしろ彼らの原子力開発への意欲をかき立てた。そしてそのかき立てられた原子力開発への意欲が、やがて1954年3月2日の、中曽根康弘による原子力予算23,500万円の緊急提案をきっかけに噴出した。それが今日にいたる、この国の旺盛な、平和利用に名を借りた原子力開発=原子力発電所設置へとつながったのである。
 だからこの国の原子力開発の裏には、戦前以来の核兵器開発の伝統が息づいている。「ヒロシマ・ナガサキへのリベンジ」 の思いが横たわっている。
 そしてそれが今回のフクシマの事故につながったのではないかと、私は予想する。 その予想を裏付けるために本稿は書かれる。


1945年8月6日広島に原爆が投下された時、日本の原子力の父仁科芳雄は部下(玉木英彦)に次のように言いおいて、調査のため広島に飛んだ。
 今度のトルーマン声明が事実とすれば吾々「ニ」号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ。その時期については広島から帰って話をするから、 それ迄東京で待機して居って呉れ給へ。そしてトルーマン声明は従来の大統領声明の数字が事実であった様に事実であるらしく思はれる。それは広島へ明日着いて見れば真偽一目瞭然であらう。そして参謀本部へ到着した今迄のトルーマンの報告は声明を裏書きする様である。

 残念乍ら此問題に関してはどうも小生の第六感の教へた所が正しかったらしい。要するにこれが事実とすればトルーマンの声明する通り、米英の研究者は日本の研究者即ち理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである。これは結局に於て米英の研究者の人格が49号館の研究者の人格を凌駕してゐるといふことに尽きる。
 万事は広島から帰って話をしよう。それ迄に理論上の問題を検討して置いて呉れ給へ。「普通の水の代りに重水を使ふとしたら、ウランの濃縮度はどの位で済むか、又そのウランの量は如何?」[★1]
仁科は原爆開発においてアメリカに遅れをとったことを、「米英の研究者の人格が49号館の研究者の人格を凌駕し」た証と捉えていた。ではなぜそう捉えたのか、『仁科芳雄往復書簡集』をみれば一目瞭然だが、仁科らもまた戦争中原爆開発にうちこんできたからである[★2]。

しかも彼は、日本の原爆開発が、基礎研究軽視の雰囲気の中で進められたことに強い憤りをもっていた。1942年の技術院設置に関し、それが航空に偏ることに対して「現下の物的並に人的資材の払底して居る時には重点主義で行かねばならないでしょうから、航空技術院も致し方ないでしょう。然しこれは当座の間に合せであって、これで10年も20年も続けて行ったら却って航空も進歩する基礎が失はれ、何時迄たっても外国の模倣の域を脱しないと思ひます。」[★3]と警告を発していたのはそのためであった。               
 だからなおさら、原爆投下の報に接したとき、それを自分たち日本の科学者の全人格的敗北と受け止めたのである。原爆開発は応用工学の成果ではなく、基礎研究の成果だったからである。

 ただこの彼が言いおいた言葉の中で重要なのは実は下線を施した部分である。彼は原爆投下の報に接し、「切腹」の覚悟にまで言及しておきながら、他方で原爆開発(ウラン濃縮)の継続を指示していたのである。そしてその姿勢は8月15日を挟んでも変わらなかった。1946年5月1日付の、アメリカ陸軍省の軍事諜報局長代理E.G. エドワーズ発、アメリカ太平洋陸軍総司令官(サンフランシスコ)宛の次の機密文書には、そのことが明確に示されていた。
陸軍省 軍事諜報局 ワシントン
MID906
主題:日本の核物理研究
アメリカ太平洋陸軍総司令官宛 APO500
サンフランシスコ郵便局長気付
1.仁科芳雄(理化学研究所、東京本郷駒込上富士前町31)から菊池正士(大阪帝国大学、大阪北区中之島)に郵送された1946年3月15日付の書簡がCIS-GHQ1.太平洋陸軍前線司令部、民間検閲部APO500により途中で抜き取られた。筆者は次のように述べている。
「1945年8月31日、学術研究会議会長はわれわれ研究班に研究中止を命令した。しかし他日、彼は、われらの研究続行に異議はなく、1945年度予算を次のように配分したと報告した。」
彼らはまた、サイクロトロンおよびファン・デ・グラフ型加速器の建設、ウランの核分裂の研究とその応用、 および同位体の濃縮と分離の計画の明細を示している。
2.参加人員および実験の状態を含めこれら計画の通報を求める。
(以下略)
軍事諜報局長に代わり
E.G.Edwards中佐 GSC[★4]
普通にいえば懲りない面々というべきか、仁科は1945年8月末になってもまだ 「サイクロトロンおよびファン・デ・グラフ型加速器の建設、ウランの核分裂の研究とその応用、および同位体の濃縮と分離の計画」への予算獲得を諦めていなかったのである。その意図を、「ニ」号研究以来の盟友、大阪帝国大学の菊池正士にもらした手紙が、アメリカ軍によって抜き取られていたのである。



 アメリカ軍によるサイクロトロン(加速器)の破壊に抗議して、仁科がいかに熱っぽく、連合国軍最高司令官D.マッカーサーに「サイクロトロンは原子爆弾の製造には全く関係ありません。十分な量のウランさえあればサイクロトロンなしで何個でも原子爆弾を造ることができます。しかし十分なウランがなければ、たとえ多くのサイクロトロンをもっていても1個の原子爆弾も製造することはできません。(中略)私たちのサイクロトロンは原子爆弾製造と何の関わりももったことがありません」。我々のサイクロトロンは「生物の世界を支配する自然法則を発見し、農学、林学、水産学、医学のしっかりとした基礎と発展を創出するための」 [★5]ものだと力説してみせても、それが偽りであることは明らかであった。アメリカ軍もそのことは熟知していた。それがこの史料からわかる。だからGHQの判断を飛び越えて、アメリカ本国の判断で、理研と阪大のサイクロトロンは破壊されたのである。朝永振一郎をはじめ「ニ」号研究に携わった多くの関係者が、仁科はより大型のサイクロトロンをつくることには熱心であっても、できたサイクロトロンを使って「生物の世界を支配する自然法則を発見」するための研究を行うことにはさほど熱心でなかったと証言していることは、そのことを裏付けている[★6]。




 しかしアメリカは仁科の虚偽をあえて暴こうとはしなかった。表面上は、 それを聞き入れるかのような姿勢さえ示した。アメリカ軍によるサイクロトロンの破壊(海中投棄)は科学への冒涜だといった世論を、アメリカ国内で盛り上げたりしたのも、その姿勢の現れだったのかもしれない。ではアメリカはなぜ仁科に対して寛大だったのか。次の、GHQ経済科学局科学技術課次長H.C.ケリーが、経済科学局長W.F.マーカットに宛て送った1948年9月3日付の報告書が、その疑問に答えてくれる。


主題:合衆国による日本科学者の利用
1.貴方の1946年3月の口頭による要請にこたえ合衆国による日本科学者の利用の可能性を調べた。
2.日本は理論科学に優れた指導者をもっている。実験科学では、仁科や菊池といった2、3の例外を除けば、むしろ弱い。理論科学者たちは、理論原子核物理学の分野で際立った寄与をしてきた。Oppenheimer博士のような最良の助言者によれば、核理論の発展において彼らは合衆国とほとんど肩を並べている。実験核物理学における彼らの寄与はほとんど無視できるほど小さい。
3.日本の科学者が合衆国に行くとすれば、学者として、安全に責任をもつ民間の機関をスポンサーとして行くべきであり、ドイツの場合のように彼らを輸入すべきではない。ドイツ科学者の輸入による—アメリカの科学者自身にさえよる—負の宣伝効果を見れば、われわれの方法がより実際的なものであることが分かる。
4.合衆国に行くべき最初の科学者の一人は京都帝国大学の教授、湯川博士である。彼は中間子理論の発案者であり、Oppenheimerによって世界の最も優れた理論物理学者10人の中に数えられている。湯川博士は、プリンストンの高等研究所の任用を受け9月2日に発った。この計画は、極東委員会の議論のため、早めることはできなかった。
5.貴方の承認があれば、同じ路線が将来もとられるであろう。傑出した日本科学者は、非友好的な国々よりもアメリカに向かうよう、あらゆる手段で奨励されるであろう。[★7]



 アメリカは早い段階から、少なくとも1946年3月以前の段階から—ということは事実上終戦直後から—、戦争中に長足の進歩をとげた日本の原子力研究を、破壊するのではなく、利用しようとしていたのである。それは731部隊の細菌兵器技術を利用しようとしたのと、動機において同じであった。GHQ経済科学局に核物理学の専門家H.C.ケリーとG.W.フォックスを派遣した(1946年1月来日)のも、そのためであった。吉川秀夫によるケリーの伝記『科学は国境を越えて』(三田出版会、1987年)は、ケリーが来日に際して、軍関係者から「『われわれは日本がわれわれの計画について、 どのくらい知っているかということも知りたいのだ』と、まるで諜報部員みたいなこと」[★8]を言われたことを、ケリー自身の回想をもとに記している。しかし1948年秋までは、アメリカもその計画を表立って実行に移すわけにはいかなかった。「極東委員会の議論のため、早めることはできなかった」からである。


ソ連も入る極東委員会は、日本の核開発に終始否定的だった。1947年1月30日には「日本人が現在原子力の分野において研究を行ない、または原子力を開発もしくは利用することを許されるべきではないと考える」との決定を下し、「核分裂性核種の生産を目的とするすべての研究または開発」 「化学元素の天然同位体混合物より核分裂性の同位体を分離または濃縮することを目的とするすべての研究または開発」を禁止した。さらには 「医療用ラジウムの如き許可された目的をもつ…放射性物質の採掘、処理および精製」でさえ、連合軍最高司令官の監督下におくことを条件とした[★9]。この極東委員会の姿勢を、アメリカもはばからなくてはならなかったからである。だから冷戦が激化し始め、そのはばかりが必要なくなるまで、アメリカは、日本の学術研究体制の刷新運動—その帰結が1949年1月の日本学術会議の結成—の中心に仁科を据えるなど、仁科らの研究チームを雲散霧消させないよう意を用いなくてはならなかったのである。 だからアメリカは仁科に寛容だったのである。





しかし冷戦が激化し始めると状況は一変した。アメリカは公然と日本の原子力技術の利用に乗り出してきたのである。その証となるのが上記の、マーカット宛ケリー書簡であった。確かに、書かれてあるようにアメリカは、湯川秀樹をはじめ多くの核物理学者をアメリカに招聘し、恵まれた研究環境を与え、彼らをアメリカの核開発に、直接・間接に巻き込んでいった。 その招聘された核物理学者の中には、長岡半太郎の5男で、やがて日本の核戦略の決定に重要な役割をはたす嵯峨根遼吉などもいた。仁科も、短期間であるが、1950年3月3日から4月6日まで、アメリカ科学アカデミーの招きでアメリカ各地の原子力施設を訪問している。

 そしてこのアメリカの働きかけに、仁科らは積極的に応えたのである。もしそうでなければ、「世界で唯一の被爆国」の知的リーダーに、次のような発言(1949年6月読売科学講演会において)は生まれない。世界平和は「更に威力の大きな原子爆弾」(実際には水爆)の恐怖によってしか実現できないとの発言である。


 次に第二の方法は科学技術の進歩に全力をつくすことである。前述の通り科学は真理探究という人の本能の現れであるから、これを抑制することは不可能である。勿論科学の成果を武器に応用することは、科学者の良心的努力によつてある程度は防ぎ得るであろうからそれを実行することは必要である。然し、前述の通り今日の国際情勢から推して、そんな方法のみによつて科学の成果を戦争に利用させぬようにすることは不可能であろう。


そこで考えられることは、寧ろ科学の画期的進歩により、更に威力の大きな原子爆弾またはこれに匹敵する武器をつくり、若し戦争が起つた場合には、広島、 長崎とは桁違いの大きな被害を生ずることを世界に周知させるのである。勿論それはわが国で実現させ得ないのはいうまでもないことである。
今日原子爆弾をつくることが国際間で競争となった観があるのは原子爆弾の被害を十分認識していない人が多いためである。




 若し世界各国が多くの人を広島及び長崎に送り、惨害の現状を目のあたり見聞させておつたならば恐らく、 平和を望む声は現在よりも遥かに強まったに相違ない。
 若し現在よりも比較にならぬ強力な原子爆弾ができたことを世界の民衆が熟知し、且つその威力を示す実験を見たならば、戦争廃棄の声は一斉に昂まるであろう。 [★10]

 しかもこれは、「思想により戦争を地球上から追放すること」「人の心底に「戦争は罪悪である」という観念を堅く植えつける」こと(「第一の方法」[★11])は本質的に不可能だという認識の上に放たれた言葉だった。
 1950年11月11日、当時はアイオワ州立農工科大学にいたG.W.フォックスから仁科芳雄宛に、次のような書簡が送られているが、この書簡は逆に、仁科からフォックス宛の「いまアメリカで弾みをつけつつある再軍備プログラム」への積極的協力の申し出の存在を窺わせる。
 当然「再軍備プログラム」とは、冷戦と朝鮮戦争の勃発を機に始まった水爆開発のことを意味していた。


私たちはいま非常に忙しくしています。しかし純粋研究から、いまアメリカで弾みをつけつつある再軍備プログラムに直接結びついた研究にはまだ転換されていません。朝鮮での事態の転換は本当に悲しいものです。 お手紙をいただいた頃から、一般的な戦争ではないにしても、疑いもなくより大きな混乱を惹き起こす方向に事態は向かっています。朝鮮の偶発的な事件に赤い中国がはっきりと軍隊を投じた現在、次の数週間のうちに情況がどう変わるか誰にも分かりません。責任のありかを言うことは困難ですが、すべての面倒なことの背後にはロシアがいることは確かです。1950年にロシアで造られ、捕獲された爆弾が国連の開催期間中に展示されましたが、ロシアはそれに何らかの接触をしたこともないし、どこで造られたかも知らないと言っています。このような嘘は、われわれも理解を超えていますし、情況を大変難しいものにします。

とうとう占領が、ある意味では、日本の軍隊の核を造りつつあるということに注目しています。7万5千人の警察隊が形成過程にあります。専門的には警察予備隊と呼ばれていますが、もし戦争が起きたら自分自身を守れるように明らかに日本は再軍備をスタートさせました。私たちは日本とアメリカの関係がどうあるべきかをしばしば議論しました。世界的な事件の悪い方向への転換は私たちを決定的に結びつけると思います。共産主義が世界中に蔓延するとき、日本人のような国民を武装解除することは馬鹿げています。[★12]
 仁科らは確かにアメリカの呼びかけに応えたのである。


 では、アメリカの核の傘のもと日本独自には何をどうしようと、仁科は考えたのだろうか。上記史料に「勿論それはわが国で実現させ得ないのはいうまでもないことである」とあるように、日本がアメリカ同様の水爆保有国になろうとは、当然考えていなかった。ソ連の原爆実験成功のニュースに接するや、生まれたばかりの日本学術会議をうながして(1949年10月の第4回総会)、「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状にかんがみ、原子力に対する有効な国際管理の確立を要請する」[★13] との「原子力に対する国際管理の確立の要請」を出させたように、アメリカの核の傘の下、原子力の国際管理を実現し、そのもとでの原子力の平和利用に徹しようとしていた。当然、原子炉を稼働させれば必ずプルトニウムが蓄積される。核保有国になるのではなく、潜在的核保有国になろうとしていたのである。


 ではそれは仁科一人の孤立した考え方だったのだろうか。当然、日本独立時の宰相吉田茂の考え方でもあった。
 仁科と吉田の、並々ならぬ親交の深さから想像するとそうなる。仁科の長年の部下玉木英彦は、後に「1950年の夏のある日、吉田首相が箱根に先生を招いて二人きりで懇談したいといってきたことがあった」[★14]と思い出を語っているが、仁科と吉田の関係は、何か重大なことがおこると、それについて二人だけで議する間柄だったのである。
 そして1954年3月2日に原子力予算23,500万円を国会に上程し、この国の原子力開発に道を開いた、中曽根康弘にも受け継がれた考え方であった。



 それは、中曽根が、原子力予算提出にあたって、次の如く、当時サンフランシスコにいた嵯峨根遼吉から強い影響をうけたと述べていることからも想像できる。 
 嵯峨根といえば、先にも述べたように、仁科が湯川とともにアメリカに送り込んだ、若き核物理学研究者の一人だったからである。その発言には、仁科の思いが乗り移っていたはずだからである。


 アイゼンハワーが「アトム・フォー・ピース」といい出してアメリカに原子力産業会議ができて、軍用から民間の平和利用に移行するときでした。それで、これはたいへんだ、日本も早くやらないとたいへんなことになるぞ、とサンフランシスコに戻って、バークレーのローレンス研究所にいた理化学研究所の嵯峨根遼吉博士に領事公邸にきてもらって2時間ぐらい話を聞きました。嵯峨根さんはひじょうにいい助言をしてくれました。一つは、「国家としての長期的展望に立った国策を確立しなさい。それには法律をつくって、予算を付けるというしっかりしたものにしないと、ろくな学者が集まってこない」と。それから、一流の学者を集めるにはどうしたらいいかとか、そういう話を聞いて帰ってきました。[★15]


かくて中曽根が1954年3月2日、原子力予算23,500万円を国会に緊急上程したとき、仁科のめざした、アメリカの核(水爆)の傘の下、原子力の平和利用を通じた潜在的核保有国化をめざすという考え方は日本の国是となったのである。
しかもその1954年3月2日という日は、1953年12月8日、国連においてアイゼンハワーアメリカ大統領が、原子力の平和利用と国際管理をめざすAtom for the peace演説を行った直後であり、何よりもアメリカが南太平洋ビキニ環礁において初の実用水爆実験に成功した1954年3月1日の翌日であった。仁科の考え方の国是化を内外に宣するのに、最もふさわしい日だったのである。
 

ではなぜ吉田や中曽根ら、戦後日本の政治的リーダーたちは、仁科の考える核戦略を受け入れたのだろうか。
 次の中曽根の回顧が参考になる。
…政府も経済企画庁の中に原子力担当課を設置して、翌55年8月にジュネーブで国連の第1回原子力平和利用国際会議が開かれたときにも代表団を送ることができました。駒形作次博士をトップに代表団を組んで、私や前田正男、志村茂治、松前重義さんが顧問となっていっしょに行きました。…
しかも、その4人というのは、当時の四大政党から一人ずつ出ているわけですからね。
そう、志村茂治君は社会党左派、松前重義さんは右派、前田正男君は自由党でした。全員が賛成したのですね。みんな賛成しました。…
つまり、 社会党左派まで賛成したということですか。
もちろん、成田君も勝間田君もそうですが志村茂治君が主導してくれていましたから。それで、まず原子力基本法が問題になりました。社会党が「平和と公開、民主、自主の原則を入れろ」 というわけですよ。それで「平和利用はもちろんだが、民主とか自主というのはどういう意味だ、公開はどの程度か、産業秘密もある」 といろいろ議論しました。
(中略)
私が原子力問題であれだけ思い切ってやれたのは後援者がいたからですよ。 一人は三木武吉さん、あの人はやはり先端を行く人でした。原子力にひじょうに関心を持っていて、「中曽根君、思い切ってやれ」と支援してくれましたね。私は副幹事長でしたから、三木さんとはしょっちゅう顔を合わせていたんですが、会うたびに激励されました。[★16]


 彼らにとって当時、何をおいても解決しなくてはならなかったのは、国論を二分していた、〈再軍備・改憲〉論と〈非武装中立・護憲〉論の対立を止揚し、独立国日本の安定した政治基盤を形作ることであった。そのためには、社会党のいう〈非武装中立・護憲〉論を許容してもなお国家が崩壊しない、国防上の保障をつくりあげる必要があった。その国防上の保障が、実は原子力の平和利用と、それによる潜在的核保有国化であったのである。平和利用であれば社会党のいう〈非武装中立・護憲〉論とも矛盾しないし、中曽根が回顧しているように社会党からも積極的な支持がえられる。しかもそれが実現できれば、本格的な再軍備に今すぐ着手しなくてもすむ。それを—国民の戦争体験の傷も癒える—将来の課題に先送りすることもできるからである。だから、多分、吉田や中曽根は仁科の発想にとびついたのである。

 だからであろう、中曽根にとって、原子力予算の提案を機に原子力の平和利用体制を構築することと、自由党と民主党の合同(自由民主党の結成)を進め、さらにその延長上に自由民主党と日本社会党の二大政党体制(1955年体制)を実現することは、実はコインの裏表の関係にある仕事だったのである。歴史家伊藤隆の「日本民主党では副幹事長にされていますが、これはどういう役目なんですか」との質問に、中曽根が「三木武吉さんが私を副幹事長にしたんです。 私は別に運動もしなかった。要するに、三木さんが保守合同をやろうというのに対して、私は私なりに持論をぶつけていたわけです。それを見て、三木さんは「あいつは面白いやつだ。あれを使え」と考えたんだと思います。…とにかく副幹事長になったことは、原子力政策を推進する上でたいへんプラスになりました。 そういう意図もあって、三木さんは私を副幹事長にしたのではないか、そして、 その三木さんに知恵を付けたのは岩淵辰雄さんではなかったかと思います。」 [★17]と答えているのは、そのことを裏付けている。
 以上、戦後日本の原子力開発は、その成立の経緯からいって、明らかに戦前日本の原爆開発の流れを汲み、裏声で語られる安全保障政策としての側面をもっていた。


 
 しかし、裏声で語られる安全保障政策に、人を説得するだけの正当性は生まれない。だから、原子炉や原子力発電所の建設は、各地で住民の激しい反対運動に遭い、それにあうや、たちまちそれを突き破ることが容易でない袋小路に陥ってしまったのである。1956年9月の原子力委員会において決定された「原子力開発利用長期計画」に基づき建設が予定された「関西研究用原子炉」(現京都大学研究用原子炉)の場合も、同じであった。湯川秀樹 (京大) ら推進派の必死の説得にもかかわらず、建設案はことごとく、予定地住民の反対にあい、葬り去られていった。宇治市案、高槻市案、交野市案、四条畷市案が、浮上しては消えていった。


 ではこうした現実を前に、原子力(原発)開発推進派は、いかなる対処法をとったのだろうか。「関西研究用原子炉」の場合を例にとると、二つの方法をとった。
 一つは、「関西研究用原子炉」推進派の中心人物、大阪大学の伏見康治が「四条畷で討死してから私は大阪府の役人や大学の事務局に話を任せていたのでは到底だめだと考え、京大の物理の教授である四手井綱彦氏と特に色々と善後策を相談した。この方は、いわゆる民主団体に接触のある方で、私の考え方は民主団体の援助を受けようというのである。




この考えを煮つめていって、 まず門上登志夫という人物を仲介役として働いて頂くことにして、お願いに参上したものである。」[★18]と後に回顧しているように、いわゆる 「民主団体」の影響力を味方にとりいれるという方法であった。そもそも、原子力の平和利用による潜在的核保有国化というのは、〈再軍備・改憲〉派と〈非武装中立・護憲〉派の対立を止揚し、独立の土台となる政治的安定をつくりだすための方策であった。客観的には、そのことへの自覚を、ともすれば反対運動の中心に立ちがちな 「民主団体」 の幹部たちに促すという方法であった。そして 「関西研究用原子炉」の場合において、その方法は功を奏した。1960年4月11日には、学界、財界、「民主団体」、大阪府の4者からなる「大学研究用原子炉設置協議会」が設置され、以後、同協議会が用地さがしの中心にすわったからであった。[★19]


 そしてもう一つは、立地自治体の貧困・困難をみすかし、利益誘導をテコに立地促進をはかるという方法であった。国鉄(現 JR) 阪和線熊取駅に快速電車を止めることを条件に、市町村合併をめぐり当時町内が貝塚派と泉佐野派に激しく引き裂かれていた大阪府泉南郡熊取町に、最後は立地を決めたのである。
しかしこうしたやり方には当然副作用が伴った。その結果、原子炉や原発の立地に、科学的で客観的な安全基準がいらなくなってしまったからである。「大学が、原子炉を設置するという観点より、どのような技術的考慮をすれば、地元住民が問題としている点について、その納得を得られるかという事等を配慮しながら精密な調査を行う」[★20]ことが立地の前に行なう「精密調査」の中身になってしまった。所詮は原子力に対しては素人にすぎない住民の主観的「納得」が、最大の安全基準になってしまったからである。
 かくて、「想定外」が想定されない、根拠なき安全神話が生まれ、それが一人歩きする土壌が生まれたのである。

■註
★1—玉木英彦宛書簡(1945年8月7日)中根良平・仁科雄一郎・
04
仁科浩二郎・矢崎裕二・江沢洋編 『仁科芳雄往復書簡集』 III、みすず書房、2007年、1142頁。
★2—仁科は1942年6月には海軍技術研究所(中佐伊藤庸二)から、1943年7月には陸軍航空本部から依頼を受けて、 核兵器開発に取り組んでいる。 そして後者の依頼をきっかけに始まったのが 「ニ」 号研究であった。
★3—菊池正士宛書簡(1941年10月4日)『仁科芳雄往復書簡集』II、1033頁。
★4—『仁科芳雄往復書簡集』III、1240頁。
★5—D.マッカーサー宛書簡(1945年12月12日)『仁科芳雄往復書簡集』III、1195頁。
★6—朝永は「仁科先生」と題した小文で「先生の見透しは時にはあまりに遠大すぎたこともある。特にわが国情においては、今少し近小の見透しであった方が実効があったと思われることもあった。 小さいサイクロトロンが出来たなら、 これをつかって小さいながらいろいろ有益な研究をすることもできただろうに、先生はそういう小成に安んずることを好まれない。…いつもさきへさきへと急がれる。」(玉木英彦・江沢洋編『仁科芳雄』みすず書房、1991年、4~5頁)と書いている。
★7—『仁科芳雄往復書簡集』III、1343~1344頁。
★8—吉川秀夫『科学は国境を越えて』三田出版会、1987年、134頁。★9—『仁科芳雄往復書簡集』III、1302頁。
★10—「原子力と平和」『仁科芳雄遺稿集 原子力と私』学風書院、1950年、104~105頁。
★11—同 前、102頁。
★12—『仁科芳雄往復書簡集』II、1450頁。
★13—日本学術会議編『日本学術会議25年史』1977年、15頁。★14—玉木英彦「科学研究所と仁科先生」朝永振一郎・玉木英彦編『仁科芳雄—伝記と回想』みすず書房、1952年、95頁。
★15—中曽根康弘『天地有情—五十年の戦後政治を語る』文芸春秋、1996年、167頁。
★16—『天地有情—五十年の戦後政治を語る』168~171頁。
★17—同 前、186頁。
★18—伏見康治『時代の証言』同文書院、1994年、271頁。
★19—門上登志夫『実録関西原子炉物語』日本輿論社、1964年。
★20—熊取町教育委員会『「京都大学研究用原子炉」の誕生』(熊取町史紀要第4号) 1996年、 17頁。



驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く


驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/205.html
投稿者 魑魅魍魎男 日時 2014 年 5 月 16 日 09:10:14: FpBksTgsjX9Gw
    

御活躍中の御用医学者と731部隊の関係を調べてみた。意外と簡単に結びつくので驚いた。
(以下敬称略)
まずは長崎大学から。
==== 長崎大学医学部(旧長崎医大) ====
山下俊一、高村昇らが活躍(暗躍)する長崎大医学部は元731部隊関係者の巣窟であった。
少なくとも次の4人が関係者だと言われている。
林一郎(病理) 長崎大学名誉教授・日本先天異常学会会長
斎藤幸一郎 (生理) 長崎医科大学教授・金沢医科大学第1生理学教室教授 
青木義勇 (細菌) 長崎医科大学教授 
福見秀雄 (細菌・防疫) 長崎大学学長・長崎大学教授・ 国立予防衛生研究所(予研)第6代所長
福見秀雄は1980年に長崎大学学長に就任。
同年、長瀧重信が医学部教授に、のちに医学部長になっている。
長瀧の教え子が山下俊一、そのまた教え子が高村昇である。
長崎大医学部は、731部隊直系の研究組織と言ってよい。
そして、そこから御用学者が何人も出ていることは決して偶然ではない。

==== 重松逸造 ====
重松逸造は御用医学者を語る上で極めて重要な人物、キー・パーソンである。彼は終戦当時、ラバウルで海軍軍医をしており、731部隊で研究していたわけではないようだ。
しかし彼の恩師や同僚は731関係者が非常に多い。とくに長崎大教授たちとは深い交流があった。
福見秀雄とは共著で論文を書いているし、林一郎とも知己であった。
斎藤幸一郎とは金沢大で働いている。
その金沢大(旧金沢医大)も、戸田正三、石川太刀雄丸、二木秀雄などが在籍し、長崎大と並ぶ731出身者の巣窟であった。
重松は彼らから731部隊の悪魔的な思想・精神をしっかりと受け継いだと考えてよい。
米国が組織した原爆傷害調査委員会(ABCC、Atomic Bomb Casualty Commission)の
日本側初代代表は都築正男だったが、GHQの原爆に関する研究発表禁止に反発し追放処分となり、その後継者となったのが重松である。(まともな人間がハネられるのは原子力ムラの常である)
ABCCはデータを取るだけで全く治療をしてくれない、と原爆被爆者の激しい非難を浴びた。
そのABCCは1975年に放射線影響研究所(放影研)に改組され、重松は第3代理事長となり、1981年から16年にも渡り、原爆被害の隠蔽・過小評価に尽力した。
そのあとを継いだのが弟子の長瀧重信で、第4代理事長に就任した。
重松、長瀧とも1960年前後にハーバード大学に留学している。
当時は、特別なコネでもなければ海外渡航はできなかった時代である。
奨学金をもらい留学"させてもらった"のかもしれない。要するに米国(IAEA)のヒモつきだ。
恩義があるから米国の言いなりであり、原爆の被害を過小評価するのは当然のことであろう。
(アメとムチは米国のお家芸であり、安倍首相の祖父・岸信介はA級戦犯だったが、無罪放免と引き換えに米国の走狗となった)
重松は水俣病、イタイイタイ病、スモン病など多くの公害、薬害事件において、事実を隠蔽・改ざんし、常に政府・企業側に有利な報告をでっち上げている。
また長瀧らとチェルノブイリ原発事故の調査をし、住民に健康被害はないとのトンデモ報告書をまとめ、全世界から非難を浴びた。(このときの後援者がIAEAと結託した笹川財団である)
重松はIAEA、ICRP、WHOの委員も務めている。
彼は筋金入りの御用である。困ったことに弟子も多い。
2年前に彼が亡くなったときには、あちこちで歓声が上がったという。むべなるかなである。

==== 広島大学医学部 ====
長崎大と比べて、広島大には731部隊の主だった関係者は在籍していなかったようだ。
しかし放影研、重松逸造との関係は深い。
まずは原子力安全委員会委員の久住静代(放射線影響学)。20ミリシーベルト提案者である。彼女は重松の教え子であり、放影研、広島大学原爆放射能医科学研究所(原医研)で働いている。
次に神谷研二教授。原医研所長であり、福島県立医科大学副学長に就任した。
この人も重松の弟子であり、長瀧重信とも仕事をしている。
原医研では2006年に放射性ヨウ素131のずさんな取り扱いが内部告発で明らかになり、文科省による立ち入り調査を受けた。
しかし研究総括責任者の神谷は政治力を駆使、「訓告」だけですんだ。
ほかにも原医研では不祥事が多く、1969年に患者に他人のがん細胞を注射し、体内で生成された抗体をまた元のがん患者に注射するという731顔負けの人体実験が発覚、担当助教授は辞任した。
また2005年、腫瘍外科研究分野の教授が医師派遣に絡む受託収賄容疑で逮捕された。


==== 国立公衆衛生院 (現国立保健医療科学院)====
東大系の研究所では、国立公衆衛生院、東大医科学研究所(旧伝染病研究所)、
国立感染症研究所(旧国立予防衛生研究所)の3つが731部隊との関わり合いが深い。
まず国立公衆衛生院であるが、関東大震災の復興援助として、ロックフェラー財団から建物・設備が寄贈されたのがその始まりである。
ここの疫学部長に就任したのが野辺地慶三である。彼は1923年、ハーバード大学に留学、帰国後数々の業績をあげ「公衆衛生の父」と呼ばれている。
1958年にはABCCの疫学部長に就任している。
この人物も731部隊、そして米国との関わり合いが深い。
戦後、百日咳の研究で、731部隊の最高幹部であった北野政次、安東洪次と協力している。
重松逸造は野辺地の教え子で、1966年に疫学部長に就任している。
国立公衆衛生院は2002年、改組により国立保健医療科学院となり、現在は、汚染食品からの被ばくは小さいなど安全キャンペーンをやっている。

==== 東大医科学研究所(旧伝染病研究所) ====
上昌広教授、坪倉正治医師の所属する医科学研究所(医科研)は、初代所長があの北里柴三郎で、由緒ある、エリート医学者のための研究所である。
しかし第7代所長・田宮猛雄は731部隊への人材供給役であった。
宮川米次(第5代伝研所長)、細谷省吾、小島三郎、柳沢謙、金子順一、安東洪次、緒方富雄、浅沼靖などの研究者が731部隊に関与したと言われる。戦後、何食わぬ顔で東大教授になった人もいる。
戦後、731部隊長・北野政次が伝研に現れたとき、もっとも北野を庇護したのがこの田宮であったと言われる。
戦後、田宮は731部隊で得た成果を利用し、リケッチアによる伝染病、つつが虫病の研究で有名になり、国立がんセンター初代所長、そして日本医師会会長まで登りつめ、医学界のボスとして君臨した。
水俣病では田宮委員会を組織し、熊本大医学部の有機水銀中毒説をつぶし、被害を拡大させた。田宮が初代所長になった国立がんセンターだが、ここも問題が多い。
上昌広は、2001年から国立がんセンターで造血器悪性腫瘍の臨床研究をしていた。
国策遂行が最優先され、臨床試験を効率よく行なうために、重篤患者を切り捨て他の病院に回すのが当たり前だったと語っている。患者の命よりも研究成果が重視されるのだ。
「国立病院に生き続ける陸海軍の亡霊」 (MRIC Vol.198 2008/12/22)
http://mric.tanaka.md/2008/12/22/_vol_198.html
ちなみに、2011年9月に山下俊一は、日本対がん協会(垣添忠生会長)から「朝日がん大賞」を受賞したが、垣添は元国立がんセンター総長であった。まさにズブズブの関係だ。フィルムバッジを福島住民に配布することを提言したのもここ。
ここも汚職など不祥事が相次ぎ、2010年に独立行政法人へ移行、国立がん"研究"センターと改称している。
インタビューで、上教授は福島で収集したデータが高く売れると話している。
http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/595.html
住民の命、健康を守ろうという姿勢は全くうかがえない。彼にとって福島は金ヅルでしかないようだ。
"モルモット"が逃げ出さないよう、後輩の坪倉正治を福島に派遣して安全デマを流布している。
「将来奴ら(福島県民)は、集団訴訟とかするんやろなあ」と酔って話したという話も伝わっている。
しかしまるで他人事、責任感は全く感じられない。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/aacebb2e3d5f936dce460130bdfd2f30



==== 国立感染症研究所・旧国立予防衛生研究所(予研)====
戦後、米軍命令で予研が設立され、伝染病研究所から約半数が移籍している。
ここもまさしく731部隊の牙城、再就職先であり、柳沢謙(結核研究)、そして前述の福見秀雄など何人もの731関係者が在籍した。
そして、戦後も米軍と協力して密かに人体実験を続け、犠牲者を出している。
ここにそのまとめがある。福見秀雄の名前が何度も出てくる。
出展は、新井秀雄著「科学者として」(幻冬社)
「わしの本の予定と、『予研』問題のコンジョいる入門講座」 (宮崎学 2000/11/6)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/yoken.htm
薬害エイズの非加熱製剤を合格させたのも予研である。
また予研は1947年から1975年にかけてABCCに協力をしている。
1989年、住民の反対を押し切って、東京・新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地に予研の建物を建設工事中、大量の人骨が見つかった。ここには731部隊の日本における拠点があったため、その関連性が疑われている。
犠牲者の怨霊のしわざだろうか、ぞっとする事件である。
予研は薬害エイズ等であまりにも評判が悪くなったためか、1997年に国立感染症研究所に改称された。
(不祥事が起きると組織名を変えてごまかすのが日本の伝統である)
福島関連では、被ばくとは直接関係ないこともあって、この研究所の御用活動は今のところ目立っていない。
しかし、マイコプラズマ肺炎や風疹など得体の知れない感染症が流行し始めており、今後は要注意である。
これは稼ぎ時とばかりに、製薬会社とグルになって、効果ゼロかつ危険な副作用をもつワクチンをでっち上げ、強制接種すべしと圧力をかけるかも知れない。
ちなみに、ここの先生方は子宮頸がんワクチンの恐ろしい副作用を「気のせい」と判断している。


==== 放射線医学総合研究所 (放医研) ====
中川恵一准教授が所属する放医研では、宮川正名誉教授が重要人物である。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1232/4.html
この訃報には陸軍軍医として戦時医療に従事されたとあるが、実は731部隊レントゲン班であった。何をしていたかは容易に想像がつく。
戦後、東京大学医学部放射線科教授、埼玉医科大学教授などを歴任している。
放医研の立ち上げに尽力。放医研は原子力総本山のIAEAとも深い協力関係にある。
彼の弟子が、元放医研所長の佐々木康人教授(現・日本アイソトープ協会・常務理事)であり、ICRP委員も勤めている。その教え子が、われらが中川先生である。
驚くべきことに、彼の恩師をたった2代さかのぼれば731部隊にたどり着くのである。
また中川と同じく、安全だ安全だと繰り返す明石真言は、この研究所の理事である。
ここも法令違反など度重なる不祥事が起きている。そのうち名称が変わるであろう。
いつも内部被曝は無視するから、放射線外部被曝研究所とでも名付けたらよかろう。
以上、簡単にまとめてみたが、みなさんの感想はいかがだろうか。




あまりにも御用医学者たちが731部隊と簡単に結びつくのにびっくりしたのではないだろうか。正直、私も驚いた。
活躍中の御用医学者の恩師をさかのぼれば、直接または重松逸造を介して731部隊関係者にたどりつく。
世の中は広いようで狭い。すべて御用の道は731に通ず、というわけだ。
日本の医学界イコール731部隊であり、御用医者のみならず誰をさかのぼっても731部隊に行き着く、という指摘もあるが、これは荒っぽい性急な議論であろう。
なぜなら、731関係者が多かった組織ほど重大な社会問題を引き起こしているからである。
予研がそうであり、また731部隊員の受け皿であったミドリ十字(旧日本ブラッドバンク)も薬害エイズを引き起こした。人命軽視、成果・利益最優先の結果である。


本来ならきちんと裁判を行ない、731部隊の行なった残酷な人体実験の責任を明確にし、関係者を処罰し、医学界から追放すべきだった。
しかし米国と闇取引をして、実験の成果を渡す代わりに全員が無罪放免になった。米国も共犯である。
731関係者は何一つ罪を問われなかったために、人命を軽視し、人間を当たり前のように実験台に使い、成果を自分の昇進や金儲けに使うおぞましい伝統が日本の医学界に生き残り、はびこってしまった。




 国家のため医学のためという大義名分の下に、何千人もの捕虜や住民を丸太(マルタ)と称して使い、血も凍るような凄惨な人体実験を繰り返した731部隊の思想・精神は、脈々と後進に受け継がれているのだ。
 そして今、その何百倍、何千倍という規模の人体実験が福島を中心に行なわれているのである。
731の人体実験の背景には、日本人の民族的優越感があり、劣等民族は犠牲になって当然という差別意識があった。長年そう思っていたが、福島の事故でこれは正しくないことを思い知らされた。
彼らは、自らの利益のためには、たとえ同胞であろうと誰でも容赦なく犠牲にするのだ。

御用医学者たちが鼻血を必死で否定するのも、被ばく被害に気づかれて、"モルモット"が汚染地帯から逃げ出してしまうと困るからである。
私は、福島その他の汚染地帯にいる人たちに何度でもこう言いたい。
「あなたたちは、あの悪魔のような731部隊の末裔によってモルモットにされているのですよ。
彼らの言うことを信じてはいけません。
犠牲になりたくなければ、一刻も早くお逃げなさい」

ヒロシマからフクシマへ


ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
プロローグ

赤茶けた小冊子
広島市の旧市民球場の北東にこんもりと樹木が生い茂った一画がある。この地域は、原爆投下以前、陸軍第五師団の根拠地であり、戦後は原爆スラムと呼ばれる住宅地に接する再開発計画地域だった。70年代、ここに美術館や図書館などが整備され、市内でも屈指の文化拠点となった。
2011年の沖縄慰霊の日の午後、私はその一画に向かっていた。原爆投下目標にされた相生橋にも通じる東西の相生通りと南北の鯉城通りが交差する紙屋町の交差点の横断歩道が10年前に廃止されたため、その一画に行くには、地下街に降りて、「ひろしま美術館」の矢印に従って出ロを探さなければならない。若い娘たちが足をとめるブティックやネイルアートの店を横目で見ながらどうにか地上にでて、美術館に辿り着くと、ようやく目的の広島市立中央図書館が見えてくる。そこは中央公園の一部で、樹木に囲まれた歩道をしばらく歩くと、夏でも涼やかな風が汗ばんだ首筋を冷やしてくれる。

図書館のエントランスに入ると、私は、すぐに2階の郷土資料室を訪ねた。731部隊の技師として1943年まで活動していた石川太刀雄丸が原子爆弾について書いた記事の掲載誌を手にしてみたかったからだ。私がその資料の存在を知ったのは、この図書館が被爆60周年記念事業として2005年夏に開催した「被爆文献初期作品展」の展示資料目録だった。そこに石川の名前を見つけ、石川が原爆の被害調査のために広島を訪れたという記録との符合に驚愕した。図書館員にあらかじめ収蔵資料データベースで調べておいた請求番号を示すと、館員は端末を叩いて「書庫に取りにいって参りますので少々お待ち下さい」と告げた。書架に櫛比(しっぴ)する本の背を眺めてしばらく待っていると、若い館一員が薄い透明フィルムに包まれた赤茶けた小冊子を両手に載せて来た。全部で20ぺージ前後の薄っぺらいB5サイズのその雑誌は、1945年12月21日発行の「興論」の第4号だ。表紙の用紙が本文のもの同じという粗末なもので、目次に「廿世紀の神話 原子爆弾 石川太刀雄」とある。


「石川太刀雄」とは石川太刀雄丸の別名だ。発行人は1937年12月まで金沢医科大学の講師を務めた後、731部隊で結核と梅毒の研究班を率いていた二木秀雄。出版元の「興論社」の本社の住所を見ると、「金沢市石浦町28」と印刷されてぃる。石川の論文には、原爆が爆裂した上空の距離、キノコ雲の高さ、熱線量などが実数で示されているが、全員即死の爆心からの半径、重症化する患者が多いエリアの半径の数値等は伏せ字になっている。1945年10月1日、都築正男が原爆症についての論文を「総合医学」2巻14号に発表しているが、伏字の分量は都築論文のほうが数倍多い。
 原爆に関する記述が徹底的な検閲によって、 あらゆるメディアから削除されていた米軍占領下の日本で、なぜ、石川は、原爆の物的・人的被害の許細を把握することができたのだろうか。謎を解くカギは、原爆投下直後から数度にわたって広島に派道された京都帝大の原爆調査班の成り立ちにあった。

京都帝大調査班にまぎれて

原爆投下直後にただちに調査班を広島に派遺した京都帝大は、9月3日から4日にかけて、さらに第2次調査班として医学部と理学部の教投らを広島に派道した。班員は杉山繁輝、菊池武彦、真下俊一各教投ら40名にのぼり、2班にわかれて広島に入った。
 広島市長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』(1979年、岩波書店)には、この京都帝大調査班に「後に金沢医科大学の石川太刀雄(病理学)らが加わった」 との記述がある。金沢大学文学部の古畑徹教授の講演(2006年12月16日、金沢大学サテライトプラザ)によれば、杉山教授は、731部隊の病理解割の顧問であった清野謙次教授の門下で、1943年まで金沢医科大学の教授を兼務し、陸・海軍への研究協カにも力を注いでいた。同年9月、杉山教投の後任として金沢医大病理学第2講座の教援に就任したのが清野の門下生のひとり、石川太刀雄丸だった。石川は、1938年3月10日から1943年7月まで、731部隊でぺストや流行性出血熱等の研究に携わる傍ら、病理解剖を担当していたため、解剖には慣れていた。





9月10日、陸軍のスタッフォード・ウォーレン大佐を含む日米原爆調査団が、 大野陸軍病院を訪間している。広島平和記念資料館のウェブサイト「バーチャル‘ミュージアム」には、9月11日に大野陸軍病院で撮影された京都帝大調査班と米軍人それぞれ2名の写真が掲載されている。被爆者の遺体の解剖結果を説明している様子だという。同じ日、大野陸軍病院で撮影されたもう1枚の写真には、 口髭をたくわえているスタッフォード・ウォーレンに良く似た米軍人と都築正男博士が写っている。杉山教授らは9月5日から17日までに22例の病理解剖をおこなった。解剖に関する資料は、2枚の写真にあるような場面で米軍側に提供されたのだろうか。
 
 9月17日、広島県を枕崎台風が襲い、夜10時30分頃、大野陸軍病院の山側一帯で山津波が起り、 一瞬にして主要な病棟を呑みこんだ。この災害は、入院中の被爆者らのほぼ全員と職員合計156人が命を落とすという大惨事となった。京都大学原爆災害総合研究調査班も、25人中、真下教授、杉山教授他の研究班員11人が亡くなった。石川ら金沢医大の研究者の足取リは明らかではないが、山津波の夜は、すでに大野陸軍病院を離れており、難を逃れた。

 731部隊の協力者でもあった木村廉医学部長らが救援隊として9月22日、京都を出発、翌日広島に着いた。木村も、他の教官らとともに「原子爆弾傷恵者血清の細菌学的研究」を共同でまとめ、学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に対し、報告している。都築正男が1946年12月、木村廉に送った通知によれば、京都帝大医学部ととにも、石川が所属する金沢医大にも政府の学術研究会議事務局から研究費が配分され、支払われていたことがわかる。原爆投下後1年以上が経過しても研究が継続されていたことが窺える。長く継続して原爆調査を行った理由は何だったのだろうか。 2010年8月6日に放送されNHKスぺシャル「封印された原爆報告書」での三木輝雄元陸軍軍医少佐の証言によっても原爆調査を731部隊などの戦争犯罪から逃れるためのカードとして使ったことが指摘されている。

 一般に、原爆の人体被害調査や放射能影響研究といえば、被災者の救援・治療、放射能汚染の危険から国民を保護するための賞賛すべき科学者・医学者の行動として理解されている。確かに、少なくない医療関係者によって真面目な治療・援護活動も地道に続けられてきた。しかし、その一方で、大国の軍事的な戦略や原子力事業の維特・拡大のために調査データが「利用」されるケースがあったのも現実だ。福島原発事故による汚染を憂慮する少なくない人々がこうした歴史の暗部に気づき始め、福島原発事故に言及する科学者・医学者の言動をチェックし始めている。

第1章 「美談」の眩惑
理想の科学者像に魅せられて

 福島第1原子力発電所の事故で放射能による汚染が心配されはじめていた頃、 1954年の第五福龍丸事件から1956年にかけての科学者の放射能汚染や放射線による人体への影響の調査研究活動のことがインターネット上でしきリに語られるようになった。ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図 福島原発事故から2か月」(2011年5月15日放送、NHK教育テレビ)の中では、第五福龍丸事件の直後に核実験の海域近くまで航海を続けて放射能の測定を実施した「俊鶻丸」の調査活動も紹介された。汚染の広がる地域や海域に自ら駆け付けて放射能を検査し、放射線量を測定したうえで事態を評価するという科学者本来のあリ方が見えてくるのだろう。フクシマの事態を安全だとコメントする今日の科学者との対照のなかで、理想とされる科学者群像として捉えられているようだ。

 確かに、1954年の第五福龍丸事件から1956年にかけて、焼津まで出かけて汚染された船体を調べ、乗組員を診断、あるいは、水産市場に自ら出向いて魚介類を汚した放射能を調査した医学者、科学者が大勢いた。全国各地で科学者個人、大学・研究機関の自発的な調査研究活動が広がり、その後の世界的な原水爆禁止運動や科学者運動の拡大に影響を与えた。福島第1原子力発電所の事故後の3月27日に亡くなった生物物理学者の西脇安博士も、第五福龍丸事件が起こると、大阪の市場で魚介類の放射能を調査し、夜行列車で焼津に駆けつけ、船内から「死の灰」を採取した。西脇は、1954年8月29日から9月1日にかけてべルギーのリエージュ大学で開催された国際放射線生物学会議で、 後にノーベル平和賞を受けるジョセフ・ロートブラット博士らにこれらのデータを提供した。ロートブラットは、このデータにもとづいて使用された核爆弾が新型の 「汚い爆弾」だということを解明し、これに反対する世界的な科学者の運動のきっかけをつくった。



国家プロジェクトの光と影

 しかし、当時、大掛かりな調査研究活動の中核をなしたのは、厚生省所轄の「原爆症調査研究協議会」とその後継の「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」を核とする、国家的プロジェクトだった。
 1954年10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」には、同様に国家プロジェクトだった1945年の広島・長崎の学術調査団に参加した医学者、科学者が再結集した。原爆症研究の第一人者、都築正男をはじめとして、東大からは、中泉正徳、木村健二郎ら、東京第一病院からは熊取敏之ら、元理研から山崎文男、田島英三らが連絡協議会に関わっていた。

 原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会は、厚生省、文部省、運輸省、農林省だけでなく、1956年には原子力局も参加しておリ、原子力の平和利用を推進する科学者を中心にして、総括部会委貝26名、医学部会委員11名、専門委員9名、環境衛生部会委員17名、專門委員9名、食品衛生部会委員15名、專門委員15名、広島長崎部会委員13名、專門委員2名という学術界全体に影響を及ぼし得る布陣をしいた。連絡協議会の権威は厚生省も認めており、1956年5月6日、連絡協議会特別委員会の答申にもとづいて、厚生省が放射能許容度を「国際基準の10分の1とする」と発表したこともあった。

 連絡協議会の重要人物を中心に、広島・長崎の原爆調査や第五福龍丸事件以降の放射能影響調査に参加した科学者、医学者の有力な部分は、戦後の米国主導の核戦略・原子力推進体制をサポートし、結果的に国民には「受忍」を強いる有識者集団を形成していった。連絡協議会は、1960年3月28日、1958年7月に海洋観測で赤道海域を航行中に米国の水爆実験の死の灰を浴び、翌年8月3日、急性白血病で死亡した海上保安庁観測船「拓洋」の永野博吉首席機関士の死因について「核実験の放射能とは直接関係ない」と米国に都合のよい結論を出している。








第2章  原子力ムラの源流
 
原爆症研究組織が平和利用支持の拠点に

「原爆症調査研究協議会」は、1953年11月、広島・長崎の被爆者の原爆後遺症の治療方法究明のために設置された連絡組纖だった。事務局は、広島と長崎にある米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)にそれぞれ支所(原子爆弾研究所)を置き、 連携していた国立予防衛生研究所内にあり、米国の原爆の人体影響研究の補完を前提としていた。第五福龍丸事件以降は拡充され、臨床小委員会は国立東京第一病院や、東大医学部の若手の医師によって補強され、乗組貝の治療、放射性降下物による環境や農・水産物の汚染調査にあたっていた。

 「原爆症調査研究協議会」は、折から始まった国家の原子力事業推進体制と結びついた。特に、後継の「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」や併設」された日本学術会議放射線影響調査特別委員会は、1955年以降の原子力委員会や日本原子力研究所、原子力産業会議、放射線審議会、原子力安全委員会の役員等、原子力行政に関わる人物を数多く輩出した。今日の「原子力ムラ」の源流となる組織のひとつだった。その中には、広島・長時の原爆調査団、すなわち文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会や日米合同調査団、陸軍軍医学校や大本営等の調査団に関わった科学者、 医学者も少なからず含まれている。

 1956年5月から7月にかけて、原子力委買会の專門委買には、山崎文男、都築正男が任命されていた。日本原子力研究所の理事には木村健二郎らが名を連ねた。日本学術会議放射線影響調査特別委員会の委員長だった茅誠司は、 1956年9月には原子力委員会参与に任命されていた。芽は、同時に、原子力産業会議の顧問、放射性同位元素協会会長でもあった。特別委員会幹事だった藤岡由夫は、1956年12月発足の原子力委員のひとりとなった。




学者集団と原子力産業の接近

中泉正德は、1956年9月に原子カ委員会参与となり、あわせて日本原子カ産業会議参与、日本原子力研究所理事に就任した。中泉は、原爆が投下された時に設置された文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学科会の委員であリ、第五福龍丸事件では東大医師団の中心となって働いた放射線医学の権威だった。中泉は、原子力の平和利用には賛成の立場で、1954年3月30日の参議院連合審査会で、「原子力の平和的な応用ということは、非常に望ましいことであって、大いにやらなければならんことだ」と答えていた。

 中泉は、1956年度末で東京大学医学部を退官すると、同年5月には米国の原爆医学調査機関「原爆傷害調査委員会」(ABCC)の準所長に就任し、原爆影響の日米共同研究に道を拓いた。中泉の門下生で陸軍軍医学校のレントゲン教官として広島の原爆調査に携わった御園生主輔も、後年、ABCCとの連携を謳う放射線医学総合研究所所長の座についた。広島の原爆調査に参加し、第五福龍丸の乗組員の主治医として有名になった熊取敏之も、放射線医学総合研究所の部長となり、後年、御園生の後任者として、同研究所の所長となった。



 広島・長崎の原爆調査のための「文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会」に参加した古株の科学者らも原子力事業との連携に活路を見いだした。1945年8月8日に技術院の広島の調査に参加した松前重義は、1955年には社会党右派の衆議院議員として、与党議員とともに原子力合同委貝会を立ち上げ、原子力基本法を成立させた。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会電力通信科会長だった瀬藤象二は、1956年、原子力委員会專門委員、原子力委員会参与に任命され、後に日本原子力事業株式会社会長に就任した。

 物理化学地学科会委員だった菊池正士は、原子力委員会参与をへて、1959 年には日本原子力研究所理事長に就任した。同じ物理化学地学科会委員を務めた嵯峨根遼吉は、原子力委員会参与となり、その後、日本原子力研究所副理事長、日本原子力発電株式会社副社長などを務めた。1957年9月に第1回の会合が開催された放射線審議会には、文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会医学科会委員だった都築正男と物理化学地学科会委員だった木村健二郎が会長と会長代理となり、中泉も、医学科会委員だった筧弘毅らとともに、委員として名を列ねた。


こうして、被爆や放射線障害の実相を誰よりも科学的に理解し、原水爆禁止や死の灰の恐怖を訴えていた科学者、医学者たちは、実験用原子炉建設、アイソトープの活用などを入り口にして、内部被曝、低線量被曝の問題から目をそらしはじめ、原子力行政、原子力関連産業の利益共同体に取リ込まれていった。
 こうした戦後の原爆調査研究の歪んだ歴史の反省抜きには、広島・長崎、第五福龍丸の体験をフクシマの現実には活かすことはできないだろう。

第3章  残党の系譜

予研主導の研究集約組織

 原爆症調査研究協議会を調べてみると、戦時中の「特珠研究」畑の研究者との繋がりに気づく。そこには、石川太刀雄丸の名前こそないが、協議会事務局は、陸軍軍医学校防疫研究室の元嘱託ら、石井機関の残党が集まる国立予防衛生研究所(予研)内にあった。協議会の会長には731部隊の司令塔「陸軍軍医学校防疫研究室」嘱託だった予研の小林六造所長が就任していた。
1954年5月1日には、第五福龍丸事件に対応し、日本学術会議に放射線影響調査特別委員会が設置されることになったが、この委員会でも小林六造は医学班の班長を務めた。医学班には、都築正男、中泉正徳に加えて、ABCCの槙弘、予研の永井勇らがいた。

 
同年10月15日、政府は、「原爆症調査研究協議会」を拡大・強化し、厚生省内に「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」を発足させた。会長には、日本医大の塩田広重学長が就任し、総括、臨床、環境衛生、食品衛生、広島・長崎の5部会が編成され、75人の医学者・科学者が結集した。
連絡協議会の事務局は、国立予防衛生研究所ではなく、厚生省内に置かれたが、副会長には、またしても小林六造予防衛生研究所所長が就任し、「広島・長崎部会」部会長には731部隊の兄弟部隊として知られる南京第1644部隊の一員だった予研の小島三郎副所長が任命された。
連絡協議会には、さらにもうひとり731部隊の関係者がいた。環境衛生部会に4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査などを報告した、横浜医科大学放射線科の宮川正教授もかつては闇の部隊の一員だった。


731部隊宮川班

 宮川正は、1913年2月8日、海軍の街、広島県呉市に生まれた。父の仕事の関係で東京都に移り、海軍士官の親睦組織「水交社」のある飯倉で育った。旧制第八高等学校をへて、東京帝国大学に進学した。晩年、東京大学医学部の名誉教授であったため、亡くなった時、同大学の「学内広報」(1232号、東京大学広報委買会、2002年3月13日発行)に訃報が掲載された。訃報に添えられた略歴によると、宮川は、1937年に東京帝国大学医学部医学科を卒業後、同大学助手を経て陸軍軍医将校として「戦時医療に従事した」とされる。助手時代の1941年10月、『日本医学放射線学会雑誌』にX線計測器に関する論文「蓄電器式電離槽ニ就イテ」を別の研究者とともに共同で発表している。指導したのは、第五福龍丸の乗組員の診療にあたった東京大学放射線教室の中泉正徳教授だった。1942年12月1日、宮川は、博士論文「エックス線回転照射を行いし食道ガン患者の剖検所見より『エックス』線配量問題を論ず」によって東京帝国大学から医学博士の学位を授与された。

 1944年3月3日、宮川は、関東軍防疫給水部本部に配属され、731部隊のレントゲン担当となった。第1部細菌研究部第3課の吉村寿人の下には、レントゲン担当のふたつの班―宮川が班長を務める宮川班と在田勉(任期・1939年4月5日~1944年8月25日)が班長を務める在田班があった。


 西野瑠美子が取材したレントゲン班の元隊貝の証言によれば、男性用の収容棟と女性・子ども用の収容棟にそれぞれ1ヵ所ずつレントゲン室があったとされる。
細菌に感染させるマルタ(被験者)の健康診断のためのエックス線撮影が主な仕事で、部隊敷地内の隊員と家族のための診療所でもレントゲン診断を行った(西野瑠美子「731部隊―歴史は継承されないのか―元部隊員たちを訪ねて」[『世界』1994年4月号掲載])。健康なマルタの病変の経過を見ることが部隊の関心対象だったため、健康診断を受けさせ、健康と判定されたマルタだけが人体実験の対象になった。


 レントゲン班でも、人体実験が行われていた。西野が取材したレントゲン班の元隊貝の証言によれば、「レントゲンを肝臓に当てる実験にたちあった」といい、レントゲン班では、細菌に感染したマルタのレントゲン撮影を一定の期間をおいて実施したとされる。


 これと似通った匿名の731部隊班長の証言が吉永春子の書き下ろし『731 追撃・そのとき幹部連は」(2001年、筑摩書房)に収録」されている。肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行ったという証言は、TBSテレビで1976年8月15日に放送されたドキュメンタリーのために吉永らが行ったインタビューの中で行われたものだった。内容から、匿名の証言者は宮川ではなく、もうひとつのレントゲン班の班長と推察される。

 宮川は、戦後、亀井文夫監督の記録映画「世界は恐怖する―死の灰の正体」(1957年)の撮影に協力している。この映画には、宮川も理事を務めていた日本放射性同位元素協会(後の 「日本アイソト-プ協会」)や山崎文男、村地孝一らの科学者も協力していた。映画には、放射線を長時間、実験用のマウスに照射して死に至るまで観察する実験が記録されている。ネズミへの放射線照射の映像は、映画の中では、あくまで放射線の恐ろしさを実感させる素材として使われているが、一面では731部隊が死に至る人体実験の様子をフィルムに記録したという証言を彷彿させるものだった。1960年8月には、茨城県東海村の日本原子力研究所で宮川らがネズミにガンマ線を照射し、被曝時の生体変化を観察する実験を実施すると報道されたこともあった。
 宮川が731部隊でレントゲン班の責任者だったことは消せない事実だが、宮川が直接行ったとする人体実験の具体的な証言や記録は今のところ確認されていない。



公職追放されず

 731部隊の各部の責任者ら幹部は、1945年の8月末には帰国していたといわれているが、宮川正の復員時期は明らかではない。宮川は、敗戦後、東京帝大医学部の放射線教室に戻ることもなかった。前述の宮川の略歴によれば、敗戦の翌年の1946年に「逓信省病院」から医師としての再スタートを切ったとされる。ちなみに、職員とその家族限定の職域病院であるはずの東京逓信病院には石原莞爾が同年8月まで膀胱癌治療のために入院し、院内でGHQの尋問を受けた記録がある。

 宮川は、GHQの統治下で戦犯として罪を問われることもなく、公職追放の指定も受けなかった。GHQによる戦犯訴追を免責されたとされる731部隊の幹部も、石井四郎が1952年3月24日付で公職追放解除と戦後の国会答弁で報告されているように、公職追放の対象となった時期があった。戦時医療体制下で各都道府県医師会の支部長を務めたことのある医師たちも、新しい医師会の役員人事から除外された。軍医経験者に対する風当たりも強く、1946年8月3日には、海軍軍医を長く務めた都築正男東大医学部教授が公職追放指定により、失職している。幹部クラスの軍医経験者の中には、極東軍事裁判で、捕虜虐待死等の嫌疑で戦犯として訴追され、死刑に処された者もいる。これらの事例とは対照的に、宮川が公職追放を受けなかったのはいったいなぜなのだろうか。

第4章 日米軍事医学交流

「特殊研究」関係者の原爆調査

日米合同調査団への参加あるいは剖検材料の提供等、米車の原爆調査に協力した日本人の名薄(笹本征男がまとめたもの)には、石川太刀雄丸の他に陸軍軍医学校防疫研究室元嘱託の緒方富雄東京帝大教授の名前も見える。また、文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の医科学会委員の名簿には、陸罩軍医学校防疫研究室元嘱託の木村廉京都帝大教授の名前も確認できる。



 1945年8月7日、731部隊等「特殊研究」関係者の免責措置のために動いたという参謀本部第2部長の有末精三は、吉島飛行場から広島に入った。8月8日タ方、到着したばかりの仁科博士、陸軍省軍事課の新妻清一中佐らの一行に出会った。仁科らは、8月10日、京都帝国大学の調査班と邂逅、,その晩、陸海軍の調査隊と調査結果を持ち寄り、「特殊爆弾」の正体が原子爆彈であることを確認しあった。新妻が保存していて後に広島平和記念資料館に寄贈された「特殊爆弾調査資料」という綴りは、広島爆撃調査報告書の草案として知られている。新妻は8月15日に、731部隊関係の資料を含む特殊研究関連資料の焼却を指示した「特珠研究処理要領」を発した人物でもある。

 田宮猛雄が率いる東京帝国大学伝染病研究所(伝研)は、8月29日、赤痢に似た症状で死亡する事例が相次いでいる事態に関して広島県衛生課から調査依頼を受け、草野信男助手、臨床医2名、細菌專門医計5名を広島に派道した。田宮は、東京帝大医学部長、伝研所長であると同時に、陸軍防疫研究室の嘱託だった。伝研調査班は、厳島の寺に安置されていた女性の遺体を解剖、 次に広島から30キロあまり離れた賀茂郡西条町(現・東広島市)の陸軍傷痍軍人西条療養事務所で3体ほどの被爆者の遺体を解剖し、他の医師が解剖した剖検材料とともに東京に持ち帰った。


分析の結果, 「広島における原子爆弾症の病理解剖(西条療養所の剖検例)」を文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に報告している。伝研調査班は、9月と10月にも広島で追加調査を行って70あまリの臨床例を調査している。 草野が戦後原水爆禁止運動に尽カしたからといって、田宮らの免責のための原爆調査に結果的に「貢献」したことを帳消しにできるだろうか。


 各調査団の軍医、医学者、科学者の多くは米軍の調査団にも協力した。米軍の調査団の中には、陸軍のスタッフォード・ウォーレン大佐、フリーデル中佐、海軍のシールズ・ウォーレン大佐のように、米国国内の放射能・放射線の影響を調べる人体実験に関係していた者が含まれていた。米側の医学者にとっても日本側の「特殊研究」の医学者の免罪が必要だった。徒に日本側の犯罪行為を追及すれば、自分の医療犯罪の発覚にも繁がる畏れがあった。「特殊研究」に従事してきた者どうし、戦勝国と敗戦国の違いを起えて研究成果を分かち合うために米軍側の医学者たちは日本の「特殊研究」者たちを許すことにしたのかもしれない。




千数百人の原爆調査
 笹本征男が日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』第1・第2分冊(1953年、日本学術振興会)や米罩の英文報告書から抽出して作成した名薄は、500人にも満たず、笹本自身も実際は、この数倍またはそれ以上の科学者が関わっているだろうと推定していた。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学科会には、委員33名、研究員150名の他に、助手1500名がいたとされる。

 日米合同調査団への参加あるいは剖検材料の提供等、米軍の原爆調査に協力した日本人の名薄(笹本征男による)には、東京帝大医学部の都築正男、中泉正德、筧弘毅、熊取敏之の他に陸軍軍医学技の御園生圭輔、大橋成一、平井正民、井深健次、山科清といった医学者、軍医の名前も見える。
 宮川の恩師である東京帝大の中泉正徳教授も日米合同調査団、文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学科会委員として調査活動に参加した。

 東京帝大医学部出身で、中泉の門下、陸軍軍医学校X線料教室教官の御園生圭輔は、出張中の山形で8月6日の広島への原爆投下を知った。8月12日、御園生が東京に戻ると、陸軍省の第2次調査班員として、ローリッツェン検電器を携えた理研の木村一治、村地孝一らとともに、その日のうちに夜行列車で東京を出発し、広島に向かうことになった。

8月14日の朝に広島へ到着し、宇品の陸軍船舶練習部の駐屯する元大和紡績広島人絹工場に立ち寄った。元大和紡績広島人絹工場には、被爆直後から次第に重傷者が運ばれてきて、翌8月7日朝には収容者は数千人にも達していた。その後、調査班は、被爆者が収容されている似島の検疫所に出向き、ローリッツェン検電器を用いて人骨から相当量の放射能を確認した。陸軍軍医学校軍医の調査班は、医務局長に提出していた災害調査報告を9月1日付から「戦災再調査」と変更して原爆調査を継続し、8月末から9月中旬頃にかけて、東京帝大医学部関係者を加えた広島戦災再調査班を派遣し、原爆症後期障害の総合的調査を行なった。御園生も、11月21日まで調査を続けている。



 8月25日、宇品の元大和紡績広島人絹工場は「広島第一陸軍病院宇品分院」となった。9月9日、トーマス・ファーレル大将に加えて、スタッフォード・ウォーレン大佐らが、都築正男の案内で宇品分院を訪れた。
東京大学の第3内科(坂口内科)の熊取敏之医師は、この宇品分院で、原爆の医学的被害の調査にあたった。熊取は、東京帝国大学医学部医学科を卒業し、9月14日に設置された文部省の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学科会に参加していた。調査と分新結果は、熊取らによって、「放射線症恵者の熱、倦怠感および発症集計(広島市における調査)」他の3つの報告にまとめられている。戦後、御園生の後をついで就任した放射線医学総合研究所の所長を辞した後、熊取は、国会で当時のことを次のように回想している。
「被爆後ほぼ2カ月を経たときでありましたが、引き取り手のない白骨がところどころに散乱いたしまして、皮膚の出血性斑点を示す者とか火傷の痕跡のある者等、 一面の破壊像とともにいまだに目に焼きついております。」(1994年12月7日の参議院厚生委員会)

 
宇品分院では、東側の空地に3か所の焼き場を用意し、看護生徒数十人が担架で遺体を運び、衛生兵たちが亡くなった収容者の遺体を荼毘にふしていた。10月の分院の閉鎖までの間、軍医や医学者によって、約100体の死体解割が、分院の一室で行なわれた。米車は、内臓などのめぼしい剖検資料、診察記録等をすべて没収した。分院では、生存者の治療よりも解剖が優先される場面が多く、患者の介助・救援活動に従事したのは、多くは看護婦と衛生兵だった。


第5章放射線医学への「脚光」の下で

予研・ABCC体制

 1946年11月30日から翌月の初めにかけて、ABCCの人体実験医オースチン・ブルースら調査団が公職追放中の都築正男の案内で東京帝国大学付属病院を訪問した。その際、中泉正德が酵母菌や藻類に放射線を照射する戦前の実験結果について報告している。調査団と都築は、研究室の付いた專用列車で移動し、京都帝大、大阪帝大、呉市、広島市、広島赤十字病院、九州帝大、長崎市、長崎医科大学病院等を訪問し、12月22日に東京に戻っている。ブルースら調査団と都築は、12月26日、東京帝大伝研の田宮猛雄、27日には陸軍軍医学校防疫研究室元嘱託の緒方富雄とも面会している。 伝研所所長や防研の有力な元嘱託―「石井機関」の研究者と会うことによって、ABCCに協力する日本人側の研究者の人脈づくりを模索したものと考えられる。

 ブルースらABCCは、広島・長崎の被爆者に対する長期的な遺伝調査計画を立案し、その実行のために都築の継続的な協力を求めた。広島赤十字病院の一部を借り受け、ABCCが開設。これに対して、GHQは1947年3月24日付で、都築に対し、公職追放の6ヵ月猶予と原爆の医学的影響調査研究の継続を認める決定を下した。
1947年5月21日、GHQと日本政府は、東京帝大から伝染病研究所を切り離し、 これを国立予防衛生研究所(予研)として設立した。戦前の「特珠研究」を継続しながら、ABCCの調査研究にも対応する体制づくりが始まった。5月30日、シールズ・ウォーレン海軍軍医大佐らが広島市を訪問した後、6月3日と6日に、ABCCの遺伝計画に関して、予研関係者との会談が行われ、シールズ・ウォーレン、小林六造、小島三郎、公職追放中の都築正男らが出席した。シールズ・ウォーレンもまた米国国内での人体実験に関わってきた軍医だった。

 
7月1日、ABCCが正式発足した。予研とABCCの連携体制が構築されることが確実になると、GHQ民政局は、同年7月18日に、都築正男の公職追放除外を取り消す決定を出している。中泉正德は、都築にかわって、原爆症研究の権威になっていった。1948年1月、予研が正式にABCCの研究に参加した。2月3日には、予研原爆傷害部遺伝委員会とABCCの合同会議が東京都内で開かれ、日本側から小林六造、永井勇、前月に起きた帝銀事件の被害者の遺体解剖を行った医学者、古畑種基らとともに中泉も出席している。中泉が予研やABCCの関係者に認められていた証しだろう。

大学教授、政府組織の委員へ

宮川正は、1949年「科学朝日」8月号の皆川理らとの座談会「放射能とは何か」に国立東京第一病院の医師として登場し、放射線の医学的な利用等について説明している。国立病院の勤務医になったことは、731部隊時代の行動について「お咎めなし」のお墨付きが得られていた証しだろう。ちなみに同月号には、奇遇にも731部隊の支援者であった清野謙次が「日本人種の生い立ち」を寄稿している。宮川は、1953年に横浜医科大学の教授となり、やがて放射線治療の分野で名が知られるようになっていった。横浜医大の当時の学長、高木通磨は、東京帝大教授、伝染病研究所員、同仁会華北中央防疫処長などを歴任した人物だった。


同仁会は、731部隊と繋がりの深い宮川米次東大名誉教授(1959年死去)が副会長を務めていた医療機関だった。華北中央防疫処では発疹チフスのワクチン製造用のシラミの飼育箱を中国人労働者の皮膚に密着させ、吸血させたという報告が1943年発行の同仁会の刊行物に掲載されている。731部隊の関係者の戦友会である「精魂会」の名薄(日韓関係を記録する会編『資料・細菌戦』[1979年、晩聲社]を見ると、横浜医科大学時代以降の連絡先と思われる住所が掲載されている。宮川(正)と731部隊の関係者との繋がりは戦後もある時期まで、維持されたものと考えられる。



宮川は、戦後は主に放射線治療を専門としており、原爆症の研究には関与していなかった。恩師の中泉正徳は、単独講和条約が発効した後の1952年5月、都築正男とともに、日本学術会議に設置された「原子爆弾災害調査研究班」の世話人となっていた。第五福龍丸事件が起こると、宮川は、4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横決市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。これが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部会の委員に任命されることになった。小林六造が副会長、小島三郎が「広島・長崎部会」 部会長という予防衛生研究所が重要ポストを占めるこの組織は、広島・長崎の被爆者の治療指針や放射性物質障害の有無に対する健康診断基準、放射性物質に対する許容度の考え方等を示すと同時に「原子力の平和利用」を是とする科学者・医学者の拠点のひとつになっていった。



第6章 原子力時代の「受忍」

原子力とともに

 1956年3月16日、宮川正は、恩師の中泉正徳が国連科学委員会に出かけている間、「原水爆実験に関する問題」を審議する衆議院外務委員会に参考人として出席した。
 宮川は、第五福龍丸の船員以外の日本人の被災について、第八順光丸等の乗組買が放射線障害と思われる症状で苦しんでいたにも関わらず、「これといって目立った放射性障害というものはおそらくなかっただろうと思います」と推論を展開している。宮川は、米国原子力委員会から発表されていた、4月20日以降8月末日までのエニウェトク環礁付近での原水爆実験に関しても、 「ビキニ程度あるいはそれ以下の実験であれば、おそらく今度の海産物も安全度以内のものでとどまるであろう」と楽観的な見解を示した。

 中泉正徳は、3月いっばいで東京大学医学部の教授を退官した。4月からは、入れ違いで、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教授となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委貝会」の5人の專門委員のひとりに任命された。宮川は、この年、原子力産業会議RI(ラジオアイソトープ)委貝、 日本放射性同位元素協会理事でもあった。


 宮川は、陸上で待機して航海前と帰還後に乗組員や船体等の放射線量を計測する要員のひとりとして、5月26日からスタートする俊鶻丸の第2次調査に参加した。俊鶻丸2次調査は、水産庁主導だった1954年の第1次調査と異なり、原子力委員会主導の調査になっていた。技術顧問団の団長は、原子力委員の藤岡由夫で、計測班顧問にも原子力研究所理事の木村健二郎が加わっていた。当時の『原子力委貝会月報』によれば、5月26日12時半から竹芝横橋で挙行された壮行式には、正力松太郎原子力委員会委貝長ら関係者が参列し、経済団体連合会出身の石川一郎原子力委員のリードによる万歳三唱もあった。原子力委員会の正力委員長の「はしがき」のある「昭和31年版 原子力白書」には、俊鶻丸の第2次調査について、「核爆発影響の調査研究は今後の原子力平和利用に伴う放射線障害防止に資するところ少なからず」との見地から準備が進められたという記述がある。

 宮川は、1956年に日本学術会議原子力問題委員会の放射線影響調査特別委員会委員に選ばれたのに続いて、翌年5月25日には、原子力委員会の放射能調査專門部会(部会長・都築正男)委員にも任命された。宮川は、1958年9月1日、ジュネーブで開かれた第2回原子力平和利用国際会議にもアイソトープ・生物学関連の、ふたつのグループの貴任者のひとりとして出席している。
 731部隊関係者のなかで、原子力行政にこれほどまでに、食い込んだ者は、宮川以外には見当たらなぃ。そうした意味で宮川は部隊の元関係者の中では特異な存在だった。宮川は、その後、医用アイソトープや医用原子炉の活用に突きすすんでいったが、発電用の原子炉に対しては、意外にも核実験と本質的には同じものとして懐疑的だった。


 1957年「中央公論」7月号の中島健蔵らとの座談会「死の灰のゆくえ」では、原子力エネルギー利用と核実験を比較して宮川は、次のように述べている。
「(原子力エネルギー利用は)核爆発実験を一時に行うのを徐々に行うわけですが、フィッション・プロダクト(引用者注=「核分裂生成物」) ということに関してはやはり同じです」「核爆発実験だからこそ、こんなに汚染されてはいけないというけれども、これがもし発電とかその他の平和利用ということであれば、あるいは文句がいえないかもしれない。けれども障害の面においては同じなんです」


「受忍」論の追認

陸軍軍医として広島の原爆調査にあたった御園生圭輔は、戦後、長らく結核予防会の保生園の責任者を務めていた。御園生の上司だった隈部英雄(当時、結核予防会專務理事)が、1955年5月30日、都築正男とともに、英、仏、ソなビ9ヵ国の医学者と協力して、放射線影響国際学術懇談会を、東京、大阪、広島、長崎で開催したこともあったが、御園生はこの会議で活躍した形跡がなぃ。 中泉正德の門下生という共通のコネクションがあったのだろうか、 1957年には、宮川正が「総論」を書き、「肺臓」の項目を御圍生主輔が書いた論集『X線診断学」(文光堂書店)も出版されているが、御園生は宮川のように、1950年代の原子力の平和利用ブームに乗って原子力行政に関わることはしなかった。


 御園生は、1967年から1978年まで国立放射線医学総合研究所(放医研)所長を務めた。御圍生は、放医研所長になると、宮川らとともに政府と原子力委貝会の方針を追認する有識者としての役割を果たすようになった。1969年5月、原子力委員会は、「サイクロトロンによる中性子線医用懇談会」を設置したが、メンバーには御園生の他、広島・長崎の原爆調査にも参加した筧弘毅、山崎文男と並んで、宮川の名前もあった。

御園生(みそのう)は、放射線医学総合研究所所長5年目の1971年11月10日、衆議院科学技術振興対策特別委貝会で、国立予防衛生研究所の柳沢謙(陸軍軍医学校防疫研究所元囑託)所長とともに、広島県選出の大原亨議員(日本社会党)のABCCの調査研究活動に関する質問に次のように答弁している。

大原:ABCCの調査研究活動の中で、たとえば広島、長崎の市民だけではなしに、全国的にいろいろな問題が提起されました。市民がモルモットになっておるのではないか、あるいは米国の原子力戦争のいわゆる軍事利用の側面をになっておるのではないか......

柳沢:ABCCと予研とのこの研究は、先ほどモルモットがわりとかとおっしゃいましたけれビも、東西古今、これ以後あってはならない実験でー実験といえば実験で、落とされたわけですから、ありますので、これはしっかりとひとつやってやってくれ。そしてまた、発表された研究については非常に高く各国が評価しているということも、私はいろいろな外人から聞いておる次第であります。

大原:私は放医研の所長にお伺いしたいのは、いまお話があリましたABCCの今日までの研究の結果についての評価ですね、これについて放医研はどのような評価をされているか、お考えを持たれるか、端的にお伺いしたい。

御園生:ABCCがいままでなさいました研究調査結果というものは、これはもちろん原爆被爆者の医療という点で非常に有効な役割りを果たしておリますけれども、それ以外に原子力の平和利用という上から考えまして、人間についての貴重なデータという意味から申しまして、われわれのやっておりますいろんな研究あるいはその他の研究所や大学で行なっております研究を人間について評価しようとする場合には、このABCCの従来の研究調査結果というものは非常に大きな役割りを持っておりまして、そういう意味でわれわれはABCCの業績を非常に高く評価しております。

柳沢の狼狽と御園生の柳沢への配慮の意図が窺える。


 ところで、御園生の恩師である中泉正德がABCCの準所長として活動したのは、1956年から1964年にかけてのことだった。中泉を知るシーモア・ ジャブロンは、1991年に次のように回想している。
「日本人放射線科医の長老であった中泉正徳氏は、ABCCと日本の放射線学界との関係を円滑にすることができた。」(放射線影響研究所公式ウェブサイト内)


 1979年5月18日、御園生は、厚相の諮問機関である原爆被爆者対策基本問題懇談会の委員の7人のひとりに選ばれた。当時、御園生は、1974年から原爆被爆者医療審議会長でもあった。1980年12月11日、答申が出されたが、戦争という「非常事態」下では、その被害について国民には等しく受忍する義務があるとしていた。原爆の後遺障害の特殊性を指摘しながらも被爆者への援護は「国民的合意を得られる公正要当な範囲」に制限していた。原爆の後遺症被害の特殊性の指摘はあったものの、内部被曝による被害は軽視された。


 御園生が原子力安全委員会委員長在任中の1986年5月28日付で、原子力安全委員会の下部機関「ソ連原子力発電所事故調査特別委員会」が発表した「調査報告書」では、「チェルノブイリ事故と同様な事態になることは極めて考え難いとの結論に達した」と日本の原発の安全性を強調し、「我が国の防災対策の枠組みを変更すべき必要性は見出されないとの結論を得た」と対策の見直しは、不要であるとされていた。
 


 1988年4月、御園生の後を継いで放医研所長となっていた熊取敏之は、「チェルノブイリ原発事故被曝者の放射線障害―実態と治療」(『日本臨床』46巻・4号)という報告を書き、事故被災者、周辺住民の疫学調査が「人における放射線影響に関し、極めて貴重なデータを提供し、将来の原子力開発に大きな貢献をなすものと思う」と、疫学調査の目的が被災者の治療のためではなく原子力開発の発展のためであるとも受け止められかねない発言をした。第五福龍丸事件で乗組員の治療に尽力した熊取も御圍生と同様に原子力産業の守護神のひとりになってしまっていた。

エピローグ

広島・長崎の原爆調査や第五福龍丸事件以降の乗組貝の診断や放射能調査に加わった人々のほとんどが鬼籍に入った。
 中泉正徳は、ABCC準所長を辞した後、原爆小頭症の研究班を率いて、救済に繋がる解明を行い、1977年に亡くなった。御園生圭輔は、阪神淡路大震災が起きた1995年に82歳で亡くなった。
御園生は、広島第一陸軍病院宇品分院の様子を写した写真帳を大切に保存していた。被爆者手帳をあえて申請しなかったという。

熊取敏之は、2004年に亡くなった。第五福龍丸事件30周年を特集した、アイソトープ協会の1984年の会報に当時の回想を寄稿した熊取は、米国側の乗組員に対する過酷な検査の申し入れに対して、患者の意思を尊重した結果、最終的に拒否したことや、久保山無線長が米軍によって撃沈されることを怖れ、核実験による被災を全く打電しなかったことを書き残している。熊取も、若い頃の初心だけは忘れていなかったのだろう。チェルノブイリ事故からの教訓として、熊取は、「大事故の潜在的可能性がある限り」「医療に関わる者は真剣に事故対策を考えることを強調したい」(『日本臨床」46巻・4号、1988年4月、前掲論文)と警告もしていた。


 中泉らも関与した原爆症調査研究協議会は、第五福龍丸事件以前の1954年2月の段階で「原子爆弾後障害症治療指針」を策定しており、俗にいう「ブラブラ病」を「慢性原子爆弾症」として位置づけ、「慢性原子爆弾症の人々に、何らかの異常を認めた場合には、たとえ対症的の処置だけでも、これを施して善処するのが臨床医学の責務ではあるまいか」(1954年8月、日本医師会雑誌第34巻第12号)としていた。この指針は、その後改訂を重ね、近年の原爆症認定訴訟のよリどころにもなっており、1958年8月13日の厚生省公衆衛生局長通知「原子爆弾後障害症治療指針について」の叩き台にもなったが、その後、政府はこの治療指針を闇に葬ろうとした。
 

 日本の原爆影響研究、放射線影響研究は、1950年代の半ばまで先進的な役割を果たしたが、やがて米国優位の研究体制と原子力産業への迎合によって歪められ、被爆者と国民への「受忍」の押しつけに加担してしまった。この負の歴史は、原子力関係労働者の被曝死の「隠蔽」や、今日の福島原発事故の被災者への「受忍」強制へと繋がっている。こうした事実と向き合った真摯な反省を抜きにして、「ヒロシマ・ナガサキの経験をフクシマへ」のスローガンを掲げても空しいだけだ。

 参照文献・サイト一覧(本文中に出典を明記したものは原則的に除く)
『昭和31年版原子力白書』(1954年、原子力委員会)
『原子力年鑑1957年版』(1957年、日本原子力産業会議)
第五福龍丸平和協会編『ビキニ水爆被災資料集』(1976年、東京大学出版会)
日韓関係を記録する会編『資料・細菌戦』(1979年、晩聲社)
広島原爆障害対策協議会編『第20回原子爆弾後障害研究会講演集』(1980年、広島原爆障害対策協議会)
三宅泰雄『かえれビキニへー原本爆葉止運動の原点を考える』
(1984年、水曜社)
川名英之『ドキュメント 日本の公害 第4巻 足尾・水俣・ビキニ』
(1989年、緑風出版)
核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒ口シマ―原爆災害調査の記録』(1991年、機関紙共同出版)
中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年、技術と人間)
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典」(1991年、東京大学出版会)
笹本征男『米軍占領下の原爆調査―原爆加害国になった日本』
(1995年、新幹社)
『金沢大学50年史 通史編』(2001年、金沢大学創立50周年記念事業後援会)
岩垂弘『「核」に立ち向かった人びと』(2005年、日本図書センター)
古畑徹「731部隊と金沢」(2006年12月16日、金沢大学サテライトプラザにおけるミニ講演、金沢大学学術情報リポジトリKURA)
科学技術庁原子力局『原子力委員会月報」各巻一覧
(内閣府原子力委頁会ウェブサイト内)
ヒロシマ平和メディアセンターウェプサイト(申国新聞社)
国会会議録検索システム(国立国会図書館)           以上










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4、相野田健治の回想(1)-731部隊に召集

相野田による回想では、ソ連の侵攻が始まった8月9日以降で最初の大混乱は11日だった。
この日、石井部隊長が平房に戻り、恐ろしいほどの形相で部隊員を前に演説を行った。その様子を、昨日のことのように相野田は思い出すことができた。
「731部隊の秘密は、どこまでも守り通すのだ!もしも機密を漏らすようなことがあっては、この石井はどこまでも追いかけて捕まえてやる!」
この言葉が呪縛となり、あの日から60年以上を経た今も、自分の耳の奥で響いているという。
8月12日夜、施設内におけるすべての死体遺棄作業は完了した。だがその後、彼らには重ねて過酷な作業が課せられた。施設そのものの破壊である。

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最初の毒ガス被害者

幸見さんが死んでから、工場の中は恐怖で重苦しい雰囲気が立ち込め、多くの人は自分がどんな仕事に従事しているかということを初めて意識した。しかし、その時は既に遅かった。工場側でも慌てて急に多くの規定を作り、作業員たちに厳格に守ることを命じた。同時に人心を安定させ、作業員の気分を慰撫するために、「十姉妹」を鳥かごに入れて各所にぶら下げた。つまり、小鳥は人より毒剤に対しての感覚が敏感であったから、小鳥に異常があったらすぐに措置を講じようというものだ。だが、それでも作業員の不安と怖れを消すことはできなかった。しかも、戦況がひっ迫してくると、毒ガスの大量生産を迫られ、安全のための処置はどこかに押しやられてしまった。

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■731部隊による人体実験・細菌兵器使用

―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。

2007年4月までに確認できた罪悪としては、ヒトを「サル」と偽って日本病理学会でも発表された「流行性出血熱感染実験」、米国で見つけられた、731部隊のデータを手に入れた米軍の報告書に記されていた炭疽、ぺスト、チフス、パラチフスAおよびB、赤痢、コレラ、鼻疽の「細菌感染実験」(被験者の50%に感染を引き起こす病原体の最小量も記されている)、「凍傷実験」、「水だけを飲ませる耐久実験」、「ぺストワクチン実験と生体解剖」、「毒ガス兵器の野外人体実験」、「毒物の経口摂取・注射の人体実験」、「細菌兵器の実戦使用」があげられます。

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―1918年から1945年までのドイツ医学
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■ダッハウ強制収容所の人体実験

83 ダッハウ強制収容所で低温実験を行っているホルツレーナーとラッシャー
ジークムント・ラッシャーはかねてより医学の自然療法的・擬似療法的な方法に関心を持っていた。だから彼がダッハウで「ヴェレダ」社の凍傷防止クリームのテストをしたのも偶然ではなかった。この3年前に彼は肺炎に罹った国防軍兵士に擬似療法の薬品を使う一連の実験を行うことを提案し、それを実現させていた。

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立は、ほかの多くの日本人の「現実主義者」と並んで、国際紛争の解決手段として戦争に頼ることをすべての国に禁ずるような新倫理基準を要求する、英米などの自由主義国・民主主義国にはっきり不満を抱いていた。彼はこれを、英米が戦後の国際秩序を自己の利益のため固定化しようとする試みだと考えた。しかし公式には、立もまた新国際法にみなぎる平和の倫理を拒否しなかった。だが、抜け穴探しと自衛権定義の拡張によって、彼は条約を掘り崩し、紛争解決手段としての武力行使を事実上すべて正当化したのである。


●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法9条を生かそう!!


2018年11月8日木曜日

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●第4章天理村と隣接した731部隊

4、相野田健治の回想(1)-731部隊に召集

ここまでの相野田健治の回想は8月9日以前、つまりソ連が侵攻してくる前のことである。同席していた風間も、同じ思いを抱いていた。風間は、天理教の教えに疑問を抱く相野田の思いに共感し、思わず『天理教青年会史』を取り上げ、堰を切ったようにある部分を読み上げた。
「≪住み慣れた土地を後にして家族共々移住して行ける諸君は、天理教全体の代表者として北満に「ふるさと」を建設すべき使命を帯びた人衆である。決して平々坦々たる道ばかりではなく、言うに言われぬ困難に遭遇せられることであろう。しかし、常に一貫した信念で、全体が只1つの信仰に結ばれ合って、各自の生活にいそしんでもらいたい。信仰によって終始し、あらゆる困難にうちかってもらいたい(中略)これこそ道の今日としての神様へのご奉公であり、また世界に対する勤めだろうと思う≫・・・・」(山澤廣昭『天理教青年会史 第4巻』、天理教青年会本部、昭和61年8月26日発行、122~123頁)

風間たち第1次移民団を前に、教団本部が贈った言葉である。
「侵略し、挙句の果ては細菌兵器部隊のお手伝いをしたんや。それが“神様へのご奉公”なんか?おまけに、“世界に対する勤めやと思う”などと親神様が言うはずはないわ。これは、中山みきへの裏切りやで」
本を手にし、憤りを抑えながら震える声で風間は呟いた。

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日本は、日中戦争で国際法に違反して、毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店より
第2章 地図から消えた神秘の大久野島

最初の毒ガス被害者

いったい、幸見さんはどのようにして害を受けたのか?彼がゴム管を青酸ガス槽の中に入れて酸を注入しようとしていた時、その飛沫が防毒マスクと前掛けにかかったのだ。防毒マスクの吸入缶の中和層は、もうとっくに毒剤で腐食し効力を失っていたので、毒剤は体内に吸収されて重大な事故に発展してしまった。この種の青酸は本来なら極めて恐ろしい毒性を備えたもので、人が臭いをかいだだけでしばらくは知覚を失うというものだから、いったん接触したらどんな人でも難を逃れることはできないだろう。幸見さんはこのように簡単に生命を奪われたのだ。

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●特集 軍拡に走る安倍政権と学術①

15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪

西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表


■731部隊による人体実験・細菌兵器使用

―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。

731部隊は、現中国黒竜江省の省都・哈爾浜市近郊の平房に、 1939年頃までに完成した細菌兵器開発の一大軍事基地にありました。731部隊では、実験材料にされる人々は、特別に定められた「特移扱」と呼ばれる手続きで憲兵隊により供給されて、「マル夕」と称されていました。敗戦までの5年間に少なくとも3000名が送り込まれ、生存者はいませんでした。21世紀になって、中国では、証拠隠減の焼却跡から発掘された憲兵隊の「特移扱」資料の調査が進み、300名以上の氏名が判明しつつあり、被害遺族からの訴えも出始めました。


●『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学
Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳


■ダッハウ強制収容所の人体実験
イギリスの戦闘機よりも高い高度を飛ぶことができるようにするため、ドイツ空軍は高度18kmまで上昇することができる戦闘機を開発した。だがこのような高さに人間の身体が堪えられるものかどうかまだ確かめられていなかった。12km以上の環境における飛行士自身の、また志願者による実験は、被実験者のひどい苦痛のため中断されなければならなかった。そのためヒムラーと空軍からの依頼を受けて、空軍軍医大尉のラッシャー、ドイツ航空実験研究所所長のジークフリート・ルッフと彼の協力者ハンス・ヴォルフガング・ロンベルグは、ダッハウ強制収容所の200人の囚人を「超高度圏からの救出の実験」に使うことを計画した。低気圧の部屋で20kmまでの模擬実験を行うこの「極限実験」、約80人が死亡した。

知ってるつもり「731部隊と医学者たち」



●ニュース
不正入試「断じていけないこと」 東京医大学長会見、何度も謝罪

映画「MMRワクチン告発」日本の配給会社が公開中止を発表

東海第2延長認可 元原電理事・北村俊郎さん、今の原発事業は虚構 形式主義から脱却すべき

<安倍首相>辺野古移設「政府と沖縄の考え方違う」

野党、石井国交相に決定取り消し要求=辺野古埋め立てめぐり

「県民の思いを理解して」 訴える海の上をオスプレイ

元徴用工集団訴訟へ説明会、韓国

韓国高官「日本の反応は不適切」と不快感

リニア談合、大林組と清水建設の罰金刑が確定

自衛隊の車両が...住宅大破 隊員2人けが

元水俣市議の日吉フミコさん死去 患者支援に尽力

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松本元死刑囚らの死刑執行文書、ほぼ全て黒塗りで開示

“旧優生保護法”強制的な不妊手術 事業として推進(18/04/27)


真相を解明していないからこうなるのだろう!!
オウム13人死刑で「上川陽子法相」一生SPつきの生活

●昭和天皇の戦争責任を問う!!大嘗祭反対!!


●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
こうして若い天皇の世界観は、立のそれと同様、型にはまった固定的なものとなった。立は、条約は中国における権益を守るために日本が武力を行使することを禁じておらず、条約の持つ道徳的側面は考慮する必要がないと進言した。そのときもその後も、立は自衛権の定義を拡張解釈すること、満州における権益と治外法権を守るのに将来武力干渉が必要になった場合、条約が日本にそれを許す「抜け道」を用意することに力を注いだ。彼の立場は、アメリカの世論とは対照的に条約に懐疑的な当時の日本の知識人の意見とまったく同じだった。

●日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

憲法9条を生かそう!!


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