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にほんブログ村ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、戦争になると残虐な行為が必ず起きますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
上海から南京へ
盧溝橋(ろこうきょう)に続いて日本軍は、1937年8月13日、上海に侵攻しました。そして中国の抗戦意志をくじくため、8月15日から12月まで、中国の首都であった南京に対して無差別爆撃を行ないました。
上海の戦闘で、日本軍は中国軍の強力な抵抗の前に苦戦を強いられ、3ヶ月後にようやく上海を占領しました。日本軍は引き続き、3つのルートに分かれて、南京へ進撃競争を始めました。日本軍の各部隊は南京へ向かう途中、「現地の徴発によって給養(軍事物資をまかなう)すべし」という命令に基づいて徴発を行ない、徴発行動にともなう殺害、放火、強かん、略奪などの行為を各地で繰り広げたのです。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。 百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5::「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
呉連城(男、80歳)の証言
日本軍が入ってくる前、私は小揚村6号に住んでいました。日本軍が入ってきてから、寧海路14号の難民区に入りました。
その頃、国民党の各レベル裁判所の上級職員たちは1人残らずとっくに逃げてしまい、裁判所は国民党の敗残兵たちを収容する収容所になっていました。国際委員会には警官が2人いて、張というのが隊長で、もう1人が王といい、私と1つ家屋に住まっていました。
張が私と同じ家屋の隣人たち3人とに、自分たちと一緒に国民党の高級裁判所へ行って敗残兵たちの秩序を維持するよう命じました。警官2人が門に立ち、私たち4人に中へ行かせました。私たちが入っていっても半時間もしないうちに、日本兵の部隊が鼓楼に来て、高級裁判所の門まで来ると、2人の日本兵が跳び込んでいって腕に負傷している国民党兵を1人引きずり出し、門のところでその場で撃ち殺しました。この情況は一目見て私は、これは危険だと感じ、同じ塀囲い内だった隣人3人と大方巷1号の囲い塀を乗り越えて逃げました。これが日本軍が入ってきた最初の日の午前に発生したことです。その後、高級裁判所にいた人たちは、2人の警官をも含めて、みんな日本軍に下関(シャーカン)へ引っ張られ機関銃で撃ち殺されました。2日目の晩、私は大方巷の西の南西橋の沼に、何百もの中国人の死体を発見しました。そこから九死に一生を得た人が私に話してくれたのでは、日本軍は私たち中国人を河の中まで追い立て、行かない者は銃剣で突っついて行かせ、追い立てた後、周りに機関銃を据え付けて掃射したのでした。そこで、何百人もがたちまちの内に水の中で死に、水が一面真っ赤に血で染まったのです。(陳家栄が記録)
「Imagine9」【合同出版】より9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」
ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。クリックお願いします!!
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5月3日は憲法記念日ですね。今の憲法が施行された日ですね。
特に憲法9条の解釈をめぐっては、いろいろと拡大解釈が出てきて問題が多いように思います。
どうしたら憲法9条が本当に実のあるものになるか、この3日に私たちは、よく考えるべきだと強く思います。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
1、戦場における民衆と難民
日本が侵略戦争を始めてから、中国の民衆の生命は、どのような脅威を受けたのでしょうか。その家庭や財産は、どのような損害を受けたのでしょうか。中国の民衆はどのような戦争状況を生きたのでしょうか。
強制連行と強制労働
日中全面戦争の当初から、日本国内では労働力不足が問題となりました。日本の政府と軍部・企業は、中国の労働者を強制連行して労働力の確保をはかる方法を採用することにしました。日本の当局は、宣伝を使ってかどわかしたり、県や村に強制的に徴集させたり、あるいは武力で脅して(おどして)拉致、連行するなどして、大量の労働者を確保しました。これらの労働者には日本へ送られた者もいますが、多くは満州に強制連行されました。
アジア太平洋戦争に突入して以後、日本は中国の全占領地で強制労働をさせて体制を推し進め、中国人労働者を使って各地の資源開発や軍事施設の建設を急ぎました。戦局が悪化するにつれて、日本国内の膨大な数の青年・壮年を徴兵して戦線へ送り出したため、国内の労働力はいっそう欠乏しました。日本は1943年から、強制連行した中国人労働者を日本全土や朝鮮、さらには南太平洋にまで送り出すようになりました。
中国人労働者は、各地で残酷な酷使と迫害を受けました。満州に強制連行された労働者たちは、銃剣を持った日本兵の監視下で労働を強制され、おもに鉱山での採掘や道路建設の作業に従事させられました。労働条件は大変劣悪で、死亡率はきわめて高いものでした。死亡した労働者を埋葬した場所は、「万人坑(まんにんこう・・・万人はたくさん、坑は埋葬地の意味)」となりました。
中国から日本に強制連行された4万人の労働者は、35の企業、135ヶ所の作業場に振り分けられました。日本の外務省の統計報告によれば、過酷な労働と劣悪な生活条件のために、少なくとも6800人が死亡しました。
1000名近くの中国兵捕虜と民間人が連行された、秋田県の花岡鉱山では、鹿島組(現在の鹿島)が強制した過酷な労働のため、死者が続出しました。1945年6月30日夜、鹿島組出張所の中国人労働者たちは、残酷な虐待と迫害に耐えかねて一斉蜂起をし、集団で脱走しました。しかし、日本の憲兵隊に鎮圧され、暴行と拷問で100人が殺害されました。これが有名な花岡事件です。花岡鉱山では合わせて419人の中国人労働者が命を奪われました。
追記:詳しく知りたい方は下記をクリックしてみてください!!
中国人戦争被害者の要求を支える会
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
○明霞(女、70歳)の証言 ○・・・日本語では見当たらない字
1937年の12月に、日本の帝国主義が南京を占領した時、私の家は漢西門から堂子街から華僑招待所の難民区に避難していました。12月27日の午前9時頃、日本兵が難民区に闖入してきて、難民全てに機関銃3挺の狙いを付け、中年と青年の男子をみんな捕まえて、1人又1人と数珠繋ぎに縄で縛り、大方巷の沼に連行して、機関銃で掃射しました。この時だけで何百人も撃ち殺したので、沼に水が真っ赤に染まりました。難民区全体が泣き声の渦となり、老人は息子の、婦女は夫の、子どもは父の悲運を嘆いて泣きました。でも日本兵が来たらもう泣かないでいるのは、泣いた者は殺されるからです。私の夫の○栄貴がこの時の虐殺で銃殺されたのですが、わずか35歳でした。夫の死後、私は1歳にならない娘を抱いて家に帰りました。けれども、家も日本兵に焼かれてしまいました。私が結婚した時に購入して整えた家具も、銅や錫の皿も器も、衣服や布団も、陶磁器や装飾品も、みんな無くなってしまいました。母1人子1人残されて、生活のめどが無いのが、私の一生の苦痛となりました。日本兵は本当に残酷です!(慇紅英と曹義富と陳小敏が記録)
「Imagine9」【合同出版】より9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人の命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。クリックお願いします!!