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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
3、無差別爆撃・三光作戦と「無人区」の設定
日本の中国侵略戦争が長期持久戦の段階に入ってから、日本軍は占領地に対してどのような軍事作戦を実施したのでしょうか。
無差別爆撃
日本軍は、国民政府の抗戦意識を失わせ、屈服、投降を迫るため、1938年から1943年にかけて、膨大な数の飛行機を出動させ、中国抗戦の政治・軍事の中心であった重慶(じゅうけい)に対して「戦略爆撃」を行ないました。そのため、多数の市民が犠牲になりました。
1941年6月5日、日本軍機24機が3隊に分かれてくり返し重慶を爆撃し、空襲は5時間にも及びました。この時、18梯(てい)大地下壕にたくさんの市民が避難しましたが、人数が多すぎたうえに通風が悪かったため、1200人前後の市民が窒息死(ちっそくし)しました。これが有名な「6・5大地下壕事件」です。
中国の辺境に位置するいくつかの省を除いて、他の全省が日本軍機の爆撃を受けました。軍隊・軍事施設と民間人とを区別しない無差別爆撃は、民衆の生活に大きな災難をもたらし、人々の生活を長期間にわたり恐怖に陥(おとしい)れました。
無差別爆撃
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
戴秀英(女、69歳)の証言
1937年の12月13日に日本の侵略者が南京に入った時、私は家中で難民区にいました。2,3日もしない内に、日本軍の2,30人ほどが、武器を携え、難民みんなに広場に集まらせ、集めてから男女分かれて立たせました。日本軍は男の人たちの前に行き、1人1人調べ、凡そ手にたこのできている者や、頭に帽子でたがをかけたあとのある者は、兵隊だったと見なし、トラックで2台ほど一緒に連れて行きました。連れて行かれた人たちは玄武門の近くで銃殺されました。後に、西家大塘でこの人たちの死骸を見つけた人がいました。(井昇安と丁亜慶が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
おたがいに戦争しないと
約束した世界
「相手が攻めてくるから、準備しなければならない」
軍隊は、いつもそう言って大きくなってきました。でも、こちらが準備することで、相手はもっと不安に感じ、さらに軍備を増やしていきます。その結果、安全になるどころか、互いに危険がどんどん増えていきます。
このような競争や衝突を避けるため、国々は「お互いに攻めない」という約束を結ぶ事ができます。
とくに、地域の中でこのような取り決めを行っているところは多く、ヨーロッパには「欧州安全保障・協力機構(OSCE)」が、東南アジアには「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が、アフリカには「アフリカ聯合(AU)」が地域の平和のための枠組みとして存在します。
日本を取り囲む東北アジア地域には、このような枠組みはありません。朝鮮半島は南と北に分断されており、中国と台湾は軍事的ににらみ合っています。日本では多くの人が「北朝鮮が怖い」と感じていますが、逆に朝鮮半島や中国の人たちの間では「日本の軍事化が怖い」という感情が高まっています。
NGOは、「東北アジア地域に平和メカニズムをつくろう」と提案しています。
その一つのアイデアは、東北アジアに「非核地帯」をつくることです。
日本や韓国、北朝鮮は核を持たないことを誓い、一方でアメリカ、中国、ロシアなどの核保有国はこれらの国に「核による攻撃や脅しをしない」という法的義務を負うような条約をつくるのです。すでにこのような非核地帯条約は南半球のほとんどにできており、最近では中央アジアにもできました。
また、日本とロシアの間で争いになっている「北方領土」周辺に平和地帯をつくるとか、中国と台湾それぞれが軍備を減らし平和交流を増やすといった提案がなされています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年5月8日金曜日
南京大虐殺:略奪と強かん
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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
略奪と強かん
南京に侵入した日本軍は、いたるところで略奪、放火をはたらきました。南京城内の南部は、南京で最もにぎやかな商業地区であり人口が密集する住宅地区でしたが、この一帯が最も深刻な被害を受けました。主な通りのいくつかが廃墟と化しました。
日本軍は略奪や放火をはたらきながら、集団で、あるいは個別に、女性を暴行しました。難民区に避難していた女性でもまぬがれることはできず、侵入してきた日本軍に強かんされました。ドイツ人のジョン・ラーベは、1938年1月14日、ジーメンス中国本社(上海)のW.マイアー社長への書簡のなかで「約2万人の中国人女性が強かんされた」と記しています。
日本政府と軍部は、日本国民には厳重な情報統制を行ないましたが、南京大虐殺は世界に報道され、国際世論から厳しい批判を受けたのです。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争(大半が捕虜や民間人のすえもの斬り)が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。
百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5:「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
郝立明(男、71歳)の証言
1937年の冬に、日本軍が南京を占領した時、私たち一家は漢口路の金陵大学難民区の収容所にいました。この難民収容所には難民が一千人余りいたのですが、何日もしない内に、日本兵が20人余り来て難民を全部外に追い立て並ばせました。並ばせてから、歩かせ、鼓楼(今の口腔医院の向かい)まで連行しました。顔いっぱいに髭を生やした日本兵が1人、難民1人1人の手にたこができてるかどうか、頭に帽子のあとがあるかどうかを検査し、あったらば、中央軍だったと疑われて残されるのです。私の兄の郝明友と弟の郝立康とが疑われて残されたので、私は兄と弟が一緒に帰るのを待とうと思って、一方に避けて待っていました。しばらくしたら、日本兵が1人私の方へやってきたので、恐くて大急ぎで家へ走って帰りました。年取った父の郝子傑は眼が悪く、私が1人で帰ってきたのを見て、すぐ私に「兄さんと弟はどうした。どうして帰ってこなんだ。」と聞くので、昼間の場景を父に話しましたが、晩になるとそこから機関銃の音が響いてきました。2日経って、父は子を思う切なる気持ちから、私をそこへ兄と弟とを探しにやりました。その付近の地面と沼とが死体でいっぱいでしたが、日本軍は自分たちの罪悪を覆い隠すため、石灰を死体の上にまいて、見ても分からないようにしていました。それで、兄と弟が見つけられず、それからも2人はもう帰って来ませんでした。こうして日本軍に追い立てられた難民一千人余りの内で、活きて戻ってきたのは2,30人でした。
このほかにも、日本軍はいたるところで火を放って燃やしたので、私の家の近くにあった釣り堀の河に張り出した家が全部焼き尽くされましたし、市民の数多くが帰るに家無く、一家離散して、その惨状は見るにたえないものでした。父が私に家の様子を見に帰らせたのですが、その私が日本軍に見つかって、戸板をはずしてきてたき火に当たれるようにさせてやる羽目になり、日本語が分からなくて、日本兵に足で一蹴りされてしまい、彼らが革靴をはいていたため、蹴られた肋骨にひとしきり激痛が走ったもので、今でも曇天になるとしくしく痛むのです。それに、一度私は、10何歳かの男の子が、日本兵に縄でしばられ、甘露巷に連れて行かれて活きたまま撃ち殺されたのを、この眼で目撃しました。(李雲秀と趙玉珂と高方簡が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
武器をつくったり
売ったりしない世界
世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
略奪と強かん
南京に侵入した日本軍は、いたるところで略奪、放火をはたらきました。南京城内の南部は、南京で最もにぎやかな商業地区であり人口が密集する住宅地区でしたが、この一帯が最も深刻な被害を受けました。主な通りのいくつかが廃墟と化しました。
日本軍は略奪や放火をはたらきながら、集団で、あるいは個別に、女性を暴行しました。難民区に避難していた女性でもまぬがれることはできず、侵入してきた日本軍に強かんされました。ドイツ人のジョン・ラーベは、1938年1月14日、ジーメンス中国本社(上海)のW.マイアー社長への書簡のなかで「約2万人の中国人女性が強かんされた」と記しています。
日本政府と軍部は、日本国民には厳重な情報統制を行ないましたが、南京大虐殺は世界に報道され、国際世論から厳しい批判を受けたのです。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争(大半が捕虜や民間人のすえもの斬り)が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。
百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5:「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
郝立明(男、71歳)の証言
1937年の冬に、日本軍が南京を占領した時、私たち一家は漢口路の金陵大学難民区の収容所にいました。この難民収容所には難民が一千人余りいたのですが、何日もしない内に、日本兵が20人余り来て難民を全部外に追い立て並ばせました。並ばせてから、歩かせ、鼓楼(今の口腔医院の向かい)まで連行しました。顔いっぱいに髭を生やした日本兵が1人、難民1人1人の手にたこができてるかどうか、頭に帽子のあとがあるかどうかを検査し、あったらば、中央軍だったと疑われて残されるのです。私の兄の郝明友と弟の郝立康とが疑われて残されたので、私は兄と弟が一緒に帰るのを待とうと思って、一方に避けて待っていました。しばらくしたら、日本兵が1人私の方へやってきたので、恐くて大急ぎで家へ走って帰りました。年取った父の郝子傑は眼が悪く、私が1人で帰ってきたのを見て、すぐ私に「兄さんと弟はどうした。どうして帰ってこなんだ。」と聞くので、昼間の場景を父に話しましたが、晩になるとそこから機関銃の音が響いてきました。2日経って、父は子を思う切なる気持ちから、私をそこへ兄と弟とを探しにやりました。その付近の地面と沼とが死体でいっぱいでしたが、日本軍は自分たちの罪悪を覆い隠すため、石灰を死体の上にまいて、見ても分からないようにしていました。それで、兄と弟が見つけられず、それからも2人はもう帰って来ませんでした。こうして日本軍に追い立てられた難民一千人余りの内で、活きて戻ってきたのは2,30人でした。
このほかにも、日本軍はいたるところで火を放って燃やしたので、私の家の近くにあった釣り堀の河に張り出した家が全部焼き尽くされましたし、市民の数多くが帰るに家無く、一家離散して、その惨状は見るにたえないものでした。父が私に家の様子を見に帰らせたのですが、その私が日本軍に見つかって、戸板をはずしてきてたき火に当たれるようにさせてやる羽目になり、日本語が分からなくて、日本兵に足で一蹴りされてしまい、彼らが革靴をはいていたため、蹴られた肋骨にひとしきり激痛が走ったもので、今でも曇天になるとしくしく痛むのです。それに、一度私は、10何歳かの男の子が、日本兵に縄でしばられ、甘露巷に連れて行かれて活きたまま撃ち殺されたのを、この眼で目撃しました。(李雲秀と趙玉珂と高方簡が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
武器をつくったり
売ったりしない世界
世界では今、武器貿易を取り締まるための「武器貿易条約(ATT)」をつくることが提案されています。世界的な市民運動の結果、このような条約をつくろうということが2006年に国連総会で決議され、そのための準備が始まっています。
しかし、世界的には武器をつくること自体、また、武器を売ること自体が禁止されているわけではありません。提案されている条約も、武器貿易を登録制にしようというものであり、武器貿易の全面禁止にはほど遠い内容です。
日本は、憲法9条の下で「武器輸出を原則的に行わない」という立場をとっています(武器輸出三原則)。このような日本の立場は、世界でも珍しい先進的なものです。
しかし、一方で、日本はアメリカと共同でミサイル防衛の兵器開発を進めており、この分野は武器輸出禁止の「例外」として認めています。
ミサイル開発に携わる企業からは、武器輸出を認めるよう求める声が高まっています。「日本は将来、憲法9条をなくして、ハイテク技術を駆使して武器をつくり世界に売り始めるのではないか」と心配する人も増えてきています。
私たちは、武器を輸出する国になるのか、それとも「武器の禁止」を世界に輸出する国になるのか、分かれ道にいます。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年5月7日木曜日
南京大虐殺:虐殺
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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
虐殺
日本軍は南京を占領すると、南京城の内外で大規模な掃蕩(そうとう)作戦を展開し、城内に隠れていた敗残兵、いわゆる「便衣兵(べんいへい=私服兵)」や撤退できなかった多数の中国軍兵士の捜索を行ないました。日本軍が行なった「便衣兵狩り」「敗残兵狩り」は、帽子をかぶった頭の跡や肩や手のひらにできたタコなどを調べて、軍人である証拠と見なしたのです。多くの民間人の男性が元兵士と見なされて連行されました。難民区に避難していた男性市民も不幸をまぬがれることはできずに、拉致(らち)、連行されました。
日本軍によって捕らえられた中国の軍人・民間人は、長江沿岸と南京郊外に連行されて集団虐殺されました。日本軍はさらに南京の大通りや路地、住宅、寺院、廟、村など、いたるところで殺戮(さつりく)を続けました。
1946年の中国国民政府の南京軍事法廷の調査によれば、日本軍によって集団虐殺され遺体焼却、証拠を隠滅されたものは19万人余り、個別に虐殺され、遺体を南京の慈善団体が埋葬したものは15万人余りでした。
東京裁判の判決書では、「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示される」としています。
■第16師団師団長・中島今朝吾(けさご)の12月13日の日記
大体捕虜にはしない方針なので片端よりこれを片付けることにした。・・・・佐々木部隊だけでも処理したものは約1万5千、太平門における守備の一中隊が処理したものは1300、仙鶴門付近に集結したものは約7,8千人あり、まだ続々と投降してくる。【南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集』(偕行社、1989年)】
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争(大半が捕虜や民間人のすえもの斬り)が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。
百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5:「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
李其宏(男、74歳)の証言
私は李其宏といい、日本軍が入ってきた時、漢口路の難民キャンプにいました。ある日午前9時過ぎに、日本兵が来て大々的な捜索をし、私たちを並ばせて歩かせ、10列にして、鼓楼の大鐘亭に連れて行きました。その時連れて行かれたのが700人余りいましたが、1人ずつ検査をし、気に入らないのは、1つぶん殴ってから、一方により分けました。私は検査されてから放たれて帰り、私と一緒に放たれて帰ったのが13人いましたが、それ以外の一方により分けられた700人余りは、大方巷の土地廟の空き地の所まで駆り立てられて集団虐殺されました。後に被害者の家族が死体確認に行ったところ、どれも既に腐りただれていて、見るに忍びないすさまじさでした。
1938年の5月に、私が中央門で廃品を回収するのに縦長の篭を天秤で担いでいたら、日本軍が私をこそ泥かと疑い、私を捕まえて憲兵司令部(新街口の中国銀行の中)で訊問し、ひざまずかせて、サーベルで首筋を擦り擦りし、「スーラスーラトィ」(死んじまえ、死んじまえ)と言い、それから日本兵3人で私を地に投げ倒したので、気を失い、水をぶっかけられて気が付きましたが、投げ倒されて着物のあちこちが破けてしまいました。それから私を保秦街の警察庁に移して一晩を無為に過ごさせ、2日目に又城南地方裁判所に移して、裁判官が訊問しましたが、私はこそ泥だとは認めないので、裁判官はどうしようもなく、私を釈放しました。(劉君が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
武器をつくったり
売ったりしない世界
「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」
これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
虐殺
日本軍は南京を占領すると、南京城の内外で大規模な掃蕩(そうとう)作戦を展開し、城内に隠れていた敗残兵、いわゆる「便衣兵(べんいへい=私服兵)」や撤退できなかった多数の中国軍兵士の捜索を行ないました。日本軍が行なった「便衣兵狩り」「敗残兵狩り」は、帽子をかぶった頭の跡や肩や手のひらにできたタコなどを調べて、軍人である証拠と見なしたのです。多くの民間人の男性が元兵士と見なされて連行されました。難民区に避難していた男性市民も不幸をまぬがれることはできずに、拉致(らち)、連行されました。
日本軍によって捕らえられた中国の軍人・民間人は、長江沿岸と南京郊外に連行されて集団虐殺されました。日本軍はさらに南京の大通りや路地、住宅、寺院、廟、村など、いたるところで殺戮(さつりく)を続けました。
1946年の中国国民政府の南京軍事法廷の調査によれば、日本軍によって集団虐殺され遺体焼却、証拠を隠滅されたものは19万人余り、個別に虐殺され、遺体を南京の慈善団体が埋葬したものは15万人余りでした。
東京裁判の判決書では、「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示される」としています。
■第16師団師団長・中島今朝吾(けさご)の12月13日の日記
大体捕虜にはしない方針なので片端よりこれを片付けることにした。・・・・佐々木部隊だけでも処理したものは約1万5千、太平門における守備の一中隊が処理したものは1300、仙鶴門付近に集結したものは約7,8千人あり、まだ続々と投降してくる。【南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集』(偕行社、1989年)】
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争(大半が捕虜や民間人のすえもの斬り)が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。
百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5:「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
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南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
李其宏(男、74歳)の証言
私は李其宏といい、日本軍が入ってきた時、漢口路の難民キャンプにいました。ある日午前9時過ぎに、日本兵が来て大々的な捜索をし、私たちを並ばせて歩かせ、10列にして、鼓楼の大鐘亭に連れて行きました。その時連れて行かれたのが700人余りいましたが、1人ずつ検査をし、気に入らないのは、1つぶん殴ってから、一方により分けました。私は検査されてから放たれて帰り、私と一緒に放たれて帰ったのが13人いましたが、それ以外の一方により分けられた700人余りは、大方巷の土地廟の空き地の所まで駆り立てられて集団虐殺されました。後に被害者の家族が死体確認に行ったところ、どれも既に腐りただれていて、見るに忍びないすさまじさでした。
1938年の5月に、私が中央門で廃品を回収するのに縦長の篭を天秤で担いでいたら、日本軍が私をこそ泥かと疑い、私を捕まえて憲兵司令部(新街口の中国銀行の中)で訊問し、ひざまずかせて、サーベルで首筋を擦り擦りし、「スーラスーラトィ」(死んじまえ、死んじまえ)と言い、それから日本兵3人で私を地に投げ倒したので、気を失い、水をぶっかけられて気が付きましたが、投げ倒されて着物のあちこちが破けてしまいました。それから私を保秦街の警察庁に移して一晩を無為に過ごさせ、2日目に又城南地方裁判所に移して、裁判官が訊問しましたが、私はこそ泥だとは認めないので、裁判官はどうしようもなく、私を釈放しました。(劉君が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
武器をつくったり
売ったりしない世界
「武器はどこから来るのでしょうか?
ヨーロッパやアメリカから来るのです。彼らは、武器貿易の達人です。アフリカの私たちは戦う必要も、殺しあう必要もないのです。だから、憲法9条は、アフリカにこそ導入されるべきだと思います。9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ってこさせないようにする事ができます。」
これは、2007年1月にナイロビで開催された「世界社会フォーラム」で、ケニアの青年が語った言葉です。アフリカには、スーダンやソマリアなど、数多くの内戦に苦しんでいます。子どもたちまでもが兵士とさせられ、武器をもたされ、傷つき、多くの民間人が命を落としています。
世界でもっとも多く武器を輸出している国々は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オランダ、イギリス、中国といった大国です。これらの国々から、中東、アジア、アフリカ、中南米へと、武器が売られています。紛争で使われる小型武器は、世界中に6億個以上あり、さらに毎年800万個がつくられていると言われています。これらの武器によって、世界で年間50万人の死者が出ていると推定されており、これは「一分で一人」をいう計算になります(「コントロール・アームズ・キャンペーン」による)。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年5月6日水曜日
南京難民区
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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
南京難民区の設置と解散
日本軍の南京侵攻が直前に迫った1937年11月、南京に留まっていた宣教師など外国人の代表は、危険な状況にある南京を離れることができない難民のために、避難できる場所を設定しようと、「南京安全区(難民区)国際委員会」という国際救援組織を設立しました。安全区内には25ヶ所の難民収容所が設けられ、最も多かった時には、約25万人の難民を収容しました。
ところが日本軍は、1938年2月、南京安全区国際委員会を解散するように命じ、一般の市民は難民区から出て家に戻るように命令したのでした。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争(大半が捕虜や民間人のすえもの斬り)が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。
百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5:「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
劉文静(男、57歳)の証言
1937年の12月13日に、日本の侵略軍が南京を占領しました。その時、私はもう大方巷12号の難民区に入っていました。日本軍が入って来て3日目くらいの午前8時半頃に、日本軍は売国奴の王承楚を利用し、アメリカ大使館の建物に住まっていた老若男女の難民を、全部近くの菜園と広場とに駆り立てました。私が住まっていた所が丁度広場の向かいだったので、2階にいて聞こえたのですが、何か技能ある者はみんな立って出て来い、仕事をさせてやるから、と売国奴が言いました。けれどもしばらくしても、誰一人として立ち上がりませんでした。それで、日本軍が人々の群の中に捕まえに行き、百人余りくらい捕まえ引き出してから、縄でその人たちを縛りました。お昼頃、日本軍はこの人たちの口に1つずつシャオピン(焼餅=固めのパン)をくわえさせ、午後3時過ぎになって、機関銃を据え付け、この人たちを撃ち殺したのです。
その日の午後4時過ぎに、私は住まっていた所でこの目で見たのですが、山西路の方向から礼帽をかぶった中年の男がやってきたのを、日本軍が発見し、すぐに持ち物検査にかかってから、この人を放ち歩かせました。ところがこの人がそれほど行かない内に、日本軍は銃を構えてこの人を撃ち殺したのです。(秦景沢と陳玉蓮が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
軍隊のお金を
みんなの暮らしのために使う世界
世界中の政府は、2000年に、貧困をなくすための一連の目標に合意しました。国連の「ミレニアム開発目標」と呼ばれるもので、2015年までに次のような目標を達成するとしています。
●極端な貧困や飢餓をなくす(1日1ドル以下で暮らす人を半減する)。
●すべての子どもたちが、女の子でも男の子でも差別なく、学校に行けるようにする。
●赤ちゃんが栄養失調で命を落としたり、お母さんが出産時に亡くなってしまうことを防ぐ。
●HIV(エイズ)、マラリアなどの感染症の広がりを止める。
こうした目標を達成するためには、世界的に軍事費を減らし、人々の暮らしや発展のためにお金を回すことが不可欠です。
国連憲章には、「世界各国は軍事費に回すお金や資源を最小限にしなければならない」(第26条)と書かれています。世界のNGO(非政府組織)は、この国連憲章26条を今こそ実行し「軍事を減らして人々の発展に回そう」という運動を始めています。そうした世界の人々の中からは「国連憲章26条と日本国憲法9条は、同じ目標のための双子のようなものだ。ともに発展させよう」という声が上がっているのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ずと言ってよいほど引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
南京難民区の設置と解散
日本軍の南京侵攻が直前に迫った1937年11月、南京に留まっていた宣教師など外国人の代表は、危険な状況にある南京を離れることができない難民のために、避難できる場所を設定しようと、「南京安全区(難民区)国際委員会」という国際救援組織を設立しました。安全区内には25ヶ所の難民収容所が設けられ、最も多かった時には、約25万人の難民を収容しました。
ところが日本軍は、1938年2月、南京安全区国際委員会を解散するように命じ、一般の市民は難民区から出て家に戻るように命令したのでした。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争(大半が捕虜や民間人のすえもの斬り)が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。
百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5:「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
劉文静(男、57歳)の証言
1937年の12月13日に、日本の侵略軍が南京を占領しました。その時、私はもう大方巷12号の難民区に入っていました。日本軍が入って来て3日目くらいの午前8時半頃に、日本軍は売国奴の王承楚を利用し、アメリカ大使館の建物に住まっていた老若男女の難民を、全部近くの菜園と広場とに駆り立てました。私が住まっていた所が丁度広場の向かいだったので、2階にいて聞こえたのですが、何か技能ある者はみんな立って出て来い、仕事をさせてやるから、と売国奴が言いました。けれどもしばらくしても、誰一人として立ち上がりませんでした。それで、日本軍が人々の群の中に捕まえに行き、百人余りくらい捕まえ引き出してから、縄でその人たちを縛りました。お昼頃、日本軍はこの人たちの口に1つずつシャオピン(焼餅=固めのパン)をくわえさせ、午後3時過ぎになって、機関銃を据え付け、この人たちを撃ち殺したのです。
その日の午後4時過ぎに、私は住まっていた所でこの目で見たのですが、山西路の方向から礼帽をかぶった中年の男がやってきたのを、日本軍が発見し、すぐに持ち物検査にかかってから、この人を放ち歩かせました。ところがこの人がそれほど行かない内に、日本軍は銃を構えてこの人を撃ち殺したのです。(秦景沢と陳玉蓮が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
軍隊のお金を
みんなの暮らしのために使う世界
世界中の政府は、2000年に、貧困をなくすための一連の目標に合意しました。国連の「ミレニアム開発目標」と呼ばれるもので、2015年までに次のような目標を達成するとしています。
●極端な貧困や飢餓をなくす(1日1ドル以下で暮らす人を半減する)。
●すべての子どもたちが、女の子でも男の子でも差別なく、学校に行けるようにする。
●赤ちゃんが栄養失調で命を落としたり、お母さんが出産時に亡くなってしまうことを防ぐ。
●HIV(エイズ)、マラリアなどの感染症の広がりを止める。
こうした目標を達成するためには、世界的に軍事費を減らし、人々の暮らしや発展のためにお金を回すことが不可欠です。
国連憲章には、「世界各国は軍事費に回すお金や資源を最小限にしなければならない」(第26条)と書かれています。世界のNGO(非政府組織)は、この国連憲章26条を今こそ実行し「軍事を減らして人々の発展に回そう」という運動を始めています。そうした世界の人々の中からは「国連憲章26条と日本国憲法9条は、同じ目標のための双子のようなものだ。ともに発展させよう」という声が上がっているのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年5月5日火曜日
南京大虐殺:南京陥落
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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ず引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
南京陥落
12月1日、日本の大本営は松井石根(いわね)指揮下の中支那(なかしな)方面軍(上海派遣軍と第10軍よりなる)に対し「中支那方面軍司令官は海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」と命令し、日本軍の南京侵攻が開始されました。中国国民政府は10余万の防衛軍を配備しましたが、日本軍は早くも南京の近郊を占領し、飛行機と重砲で南京城内を爆撃し、12月13日、南京はついに陥落しました。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争(大半が捕虜や民間人のすえもの斬り)が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。
百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5:「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
孫淑珍(女、61歳)の証言
1937年には、私は14歳でした。その頃私たちは山西路に近い難民区のアメリカ大使館にいました。日本軍が入って来て何日もしないで、外で物音がするのを聞き、門から出られませんでした。それで間垣の隙間から外を見ました。そしたら見えたのです。日本軍が中国人のお兄さん2、30人くらいをそばの沼まで駆り立て、ガソリンとたきぎとで火をつけて、みんな活きたまま焼き殺し、それから水の中に引きずり落としたのです。(秦景沢と陳玉蓮が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
軍隊のお金を
みんなの暮らしのために使う世界
1年間に世界で120兆円、日本で5兆円という、想像もつかないほど巨額のお金が、戦争のため、又はその準備のために使われています。1発数千万円ないし数億円もかかるようなミサイルを何百発も準備することが、「国を守るため」として正当化されています。
世界の軍事費は、今世紀に入ってから特に増え続けています。世界の軍事費の約半分はアメリカの軍事費なのですが、そのアメリカが、2001年の「9.11テロ」をきっかけに、「テロとの戦い」と称してイラクを攻撃したり、世界中のアメリカ軍を強化したりして、軍事費を増やしているからです。
その一方でアメリカ国内では、社会保障や教育すら十分に受けられない人々が増えています。ハリケーンがアメリカを襲った時、これらの貧しい人々が最も大きな被害を受けました。これによって「超大国アメリカ」の中の貧困問題が目に見える形で浮かび上がりました。
世界的には、いわゆる北の先進国が莫大な軍事費を使う一方で、南の途上国では貧困が広がっています。「人類の5分の1が住む国々では、人々は1杯2ドルのコーヒーを当たり前に飲んでいるのに、別の5分の1が住む国々では、人々は一日1ドル以下で暮らし、子どもたちは蚊帳(かや)がないためにマラリアなどの病気で死んでいる」(国連開発計画=UNDP,2005年)というのが、世界の格差の現実です。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、侵略軍は残虐な行為を必ず引き起こしますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
南京陥落
12月1日、日本の大本営は松井石根(いわね)指揮下の中支那(なかしな)方面軍(上海派遣軍と第10軍よりなる)に対し「中支那方面軍司令官は海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」と命令し、日本軍の南京侵攻が開始されました。中国国民政府は10余万の防衛軍を配備しましたが、日本軍は早くも南京の近郊を占領し、飛行機と重砲で南京城内を爆撃し、12月13日、南京はついに陥落しました。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争(大半が捕虜や民間人のすえもの斬り)が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。
百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5:「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
孫淑珍(女、61歳)の証言
1937年には、私は14歳でした。その頃私たちは山西路に近い難民区のアメリカ大使館にいました。日本軍が入って来て何日もしないで、外で物音がするのを聞き、門から出られませんでした。それで間垣の隙間から外を見ました。そしたら見えたのです。日本軍が中国人のお兄さん2、30人くらいをそばの沼まで駆り立て、ガソリンとたきぎとで火をつけて、みんな活きたまま焼き殺し、それから水の中に引きずり落としたのです。(秦景沢と陳玉蓮が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
軍隊のお金を
みんなの暮らしのために使う世界
1年間に世界で120兆円、日本で5兆円という、想像もつかないほど巨額のお金が、戦争のため、又はその準備のために使われています。1発数千万円ないし数億円もかかるようなミサイルを何百発も準備することが、「国を守るため」として正当化されています。
世界の軍事費は、今世紀に入ってから特に増え続けています。世界の軍事費の約半分はアメリカの軍事費なのですが、そのアメリカが、2001年の「9.11テロ」をきっかけに、「テロとの戦い」と称してイラクを攻撃したり、世界中のアメリカ軍を強化したりして、軍事費を増やしているからです。
その一方でアメリカ国内では、社会保障や教育すら十分に受けられない人々が増えています。ハリケーンがアメリカを襲った時、これらの貧しい人々が最も大きな被害を受けました。これによって「超大国アメリカ」の中の貧困問題が目に見える形で浮かび上がりました。
世界的には、いわゆる北の先進国が莫大な軍事費を使う一方で、南の途上国では貧困が広がっています。「人類の5分の1が住む国々では、人々は1杯2ドルのコーヒーを当たり前に飲んでいるのに、別の5分の1が住む国々では、人々は一日1ドル以下で暮らし、子どもたちは蚊帳(かや)がないためにマラリアなどの病気で死んでいる」(国連開発計画=UNDP,2005年)というのが、世界の格差の現実です。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年5月4日月曜日
南京大虐殺 and IMAGINE 9
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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
上海から南京へ
盧溝橋(ろこうきょう)に続いて日本軍は、1937年8月13日、上海に侵攻しました。そして中国の抗戦意志をくじくため、8月15日から12月まで、中国の首都であった南京に対して無差別爆撃を行ないました。
上海の戦闘で、日本軍は中国軍の強力な抵抗の前に苦戦を強いられ、3ヶ月後にようやく上海を占領しました。日本軍は引き続き、3つのルートに分かれて、南京へ進撃競争を始めました。日本軍の各部隊は南京へ向かう途中、「現地の徴発によって給養(軍事物資をまかなう)すべし」という命令に基づいて徴発を行ない、徴発行動にともなう殺害、放火、強かん、略奪などの行為を各地で繰り広げたのです。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。 百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
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「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
呉連城(男、80歳)の証言
日本軍が入ってくる前、私は小揚村6号に住んでいました。日本軍が入ってきてから、寧海路14号の難民区に入りました。
その頃、国民党の各レベル裁判所の上級職員たちは1人残らずとっくに逃げてしまい、裁判所は国民党の敗残兵たちを収容する収容所になっていました。国際委員会には警官が2人いて、張というのが隊長で、もう1人が王といい、私と1つ家屋に住まっていました。
張が私と同じ家屋の隣人たち3人とに、自分たちと一緒に国民党の高級裁判所へ行って敗残兵たちの秩序を維持するよう命じました。警官2人が門に立ち、私たち4人に中へ行かせました。私たちが入っていっても半時間もしないうちに、日本兵の部隊が鼓楼に来て、高級裁判所の門まで来ると、2人の日本兵が跳び込んでいって腕に負傷している国民党兵を1人引きずり出し、門のところでその場で撃ち殺しました。この情況は一目見て私は、これは危険だと感じ、同じ塀囲い内だった隣人3人と大方巷1号の囲い塀を乗り越えて逃げました。これが日本軍が入ってきた最初の日の午前に発生したことです。その後、高級裁判所にいた人たちは、2人の警官をも含めて、みんな日本軍に下関(シャーカン)へ引っ張られ機関銃で撃ち殺されました。2日目の晩、私は大方巷の西の南西橋の沼に、何百もの中国人の死体を発見しました。そこから九死に一生を得た人が私に話してくれたのでは、日本軍は私たち中国人を河の中まで追い立て、行かない者は銃剣で突っついて行かせ、追い立てた後、周りに機関銃を据え付けて掃射したのでした。そこで、何百人もがたちまちの内に水の中で死に、水が一面真っ赤に血で染まったのです。(陳家栄が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」
ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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ガザ地区でもイスラエル軍の不法行為によって一般市民が多数虐殺されたと報道されていますが、戦争になると残虐な行為が必ず起きますね。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
2、南京大虐殺
南京大虐殺は、1937年12月に日本軍が当時の中国の首都・南京の占領前後から、中国の軍人・民間人に対して行なった殺害、放火、強かん、略奪などの暴力行為の総称です。それらはどのように発生したのでしょうか。
上海から南京へ
盧溝橋(ろこうきょう)に続いて日本軍は、1937年8月13日、上海に侵攻しました。そして中国の抗戦意志をくじくため、8月15日から12月まで、中国の首都であった南京に対して無差別爆撃を行ないました。
上海の戦闘で、日本軍は中国軍の強力な抵抗の前に苦戦を強いられ、3ヶ月後にようやく上海を占領しました。日本軍は引き続き、3つのルートに分かれて、南京へ進撃競争を始めました。日本軍の各部隊は南京へ向かう途中、「現地の徴発によって給養(軍事物資をまかなう)すべし」という命令に基づいて徴発を行ない、徴発行動にともなう殺害、放火、強かん、略奪などの行為を各地で繰り広げたのです。
追記1:この時期、日本刀が軍刀として用いられ、多くの将校等が携行しました。上海攻略戦と上海近郊から南京への進撃過程で、M少尉・N少尉による100人斬り競争が行なわれたり、Tが300人斬りをしたり、その他の兵士の中にも、日本刀によって多くの捕虜や一般人をすえもの斬りにした者がいました。 百人斬り裁判
追記2:日本のマスメディアは、ナチス・ドイツの犯罪などはよく取り上げるが、日本軍が中国・アジアで行なった蛮行については取り上げる機会が少ないように思う。加害の事実をもっと国民に知らせるべきだと思う。又、「百人斬り競争」に関する訴訟で多くの事実が発掘されたのだから、「百人斬り競争」などの検証番組を作っても良いと思う。
追記3:日本では南京大虐殺を何とか数を少なくしようとか、否定しようとかいうような動きがあるが、目を海外に転ずれば、たくさんの「南京大虐殺」に関する映画がつくられている。日本人と他の国々の人々との認識にずれが生じているのではないかと強く思う。
南京大虐殺を描いた『ジョン・ラーベ』、日本で上映禁止
追記4:夏淑琴さん裁判
史実を守る会
追記5::「南京大屠殺紀念館写真撤去」報道の続報
追記6:南京大虐殺について詳しく知りたい人は下記をクリックしてみてください!!
南京事件資料集
南京事件小さな資料集
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
呉連城(男、80歳)の証言
日本軍が入ってくる前、私は小揚村6号に住んでいました。日本軍が入ってきてから、寧海路14号の難民区に入りました。
その頃、国民党の各レベル裁判所の上級職員たちは1人残らずとっくに逃げてしまい、裁判所は国民党の敗残兵たちを収容する収容所になっていました。国際委員会には警官が2人いて、張というのが隊長で、もう1人が王といい、私と1つ家屋に住まっていました。
張が私と同じ家屋の隣人たち3人とに、自分たちと一緒に国民党の高級裁判所へ行って敗残兵たちの秩序を維持するよう命じました。警官2人が門に立ち、私たち4人に中へ行かせました。私たちが入っていっても半時間もしないうちに、日本兵の部隊が鼓楼に来て、高級裁判所の門まで来ると、2人の日本兵が跳び込んでいって腕に負傷している国民党兵を1人引きずり出し、門のところでその場で撃ち殺しました。この情況は一目見て私は、これは危険だと感じ、同じ塀囲い内だった隣人3人と大方巷1号の囲い塀を乗り越えて逃げました。これが日本軍が入ってきた最初の日の午前に発生したことです。その後、高級裁判所にいた人たちは、2人の警官をも含めて、みんな日本軍に下関(シャーカン)へ引っ張られ機関銃で撃ち殺されました。2日目の晩、私は大方巷の西の南西橋の沼に、何百もの中国人の死体を発見しました。そこから九死に一生を得た人が私に話してくれたのでは、日本軍は私たち中国人を河の中まで追い立て、行かない者は銃剣で突っついて行かせ、追い立てた後、周りに機関銃を据え付けて掃射したのでした。そこで、何百人もがたちまちの内に水の中で死に、水が一面真っ赤に血で染まったのです。(陳家栄が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
中米の国・コスタリカも平和憲法をもっています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。
軍隊の廃止によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
ところが、2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクへの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ!」
裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法はただ単に守ればよいものではありません。平和憲法は人々のもの。人々が使うためにあるのです」
ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。
スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたっています。
こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくる事ができます。「イマジン 9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、皆さんと考えたいと思います。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年5月3日日曜日
憲法記念日、強制連行
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5月3日は憲法記念日ですね。今の憲法が施行された日ですね。
特に憲法9条の解釈をめぐっては、いろいろと拡大解釈が出てきて問題が多いように思います。
どうしたら憲法9条が本当に実のあるものになるか、この3日に私たちは、よく考えるべきだと強く思います。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
1、戦場における民衆と難民
日本が侵略戦争を始めてから、中国の民衆の生命は、どのような脅威を受けたのでしょうか。その家庭や財産は、どのような損害を受けたのでしょうか。中国の民衆はどのような戦争状況を生きたのでしょうか。
強制連行と強制労働
日中全面戦争の当初から、日本国内では労働力不足が問題となりました。日本の政府と軍部・企業は、中国の労働者を強制連行して労働力の確保をはかる方法を採用することにしました。日本の当局は、宣伝を使ってかどわかしたり、県や村に強制的に徴集させたり、あるいは武力で脅して(おどして)拉致、連行するなどして、大量の労働者を確保しました。これらの労働者には日本へ送られた者もいますが、多くは満州に強制連行されました。
アジア太平洋戦争に突入して以後、日本は中国の全占領地で強制労働をさせて体制を推し進め、中国人労働者を使って各地の資源開発や軍事施設の建設を急ぎました。戦局が悪化するにつれて、日本国内の膨大な数の青年・壮年を徴兵して戦線へ送り出したため、国内の労働力はいっそう欠乏しました。日本は1943年から、強制連行した中国人労働者を日本全土や朝鮮、さらには南太平洋にまで送り出すようになりました。
中国人労働者は、各地で残酷な酷使と迫害を受けました。満州に強制連行された労働者たちは、銃剣を持った日本兵の監視下で労働を強制され、おもに鉱山での採掘や道路建設の作業に従事させられました。労働条件は大変劣悪で、死亡率はきわめて高いものでした。死亡した労働者を埋葬した場所は、「万人坑(まんにんこう・・・万人はたくさん、坑は埋葬地の意味)」となりました。
中国から日本に強制連行された4万人の労働者は、35の企業、135ヶ所の作業場に振り分けられました。日本の外務省の統計報告によれば、過酷な労働と劣悪な生活条件のために、少なくとも6800人が死亡しました。
1000名近くの中国兵捕虜と民間人が連行された、秋田県の花岡鉱山では、鹿島組(現在の鹿島)が強制した過酷な労働のため、死者が続出しました。1945年6月30日夜、鹿島組出張所の中国人労働者たちは、残酷な虐待と迫害に耐えかねて一斉蜂起をし、集団で脱走しました。しかし、日本の憲兵隊に鎮圧され、暴行と拷問で100人が殺害されました。これが有名な花岡事件です。花岡鉱山では合わせて419人の中国人労働者が命を奪われました。
追記:詳しく知りたい方は下記をクリックしてみてください!!
中国人戦争被害者の要求を支える会
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
○明霞(女、70歳)の証言 ○・・・日本語では見当たらない字
1937年の12月に、日本の帝国主義が南京を占領した時、私の家は漢西門から堂子街から華僑招待所の難民区に避難していました。12月27日の午前9時頃、日本兵が難民区に闖入してきて、難民全てに機関銃3挺の狙いを付け、中年と青年の男子をみんな捕まえて、1人又1人と数珠繋ぎに縄で縛り、大方巷の沼に連行して、機関銃で掃射しました。この時だけで何百人も撃ち殺したので、沼に水が真っ赤に染まりました。難民区全体が泣き声の渦となり、老人は息子の、婦女は夫の、子どもは父の悲運を嘆いて泣きました。でも日本兵が来たらもう泣かないでいるのは、泣いた者は殺されるからです。私の夫の○栄貴がこの時の虐殺で銃殺されたのですが、わずか35歳でした。夫の死後、私は1歳にならない娘を抱いて家に帰りました。けれども、家も日本兵に焼かれてしまいました。私が結婚した時に購入して整えた家具も、銅や錫の皿も器も、衣服や布団も、陶磁器や装飾品も、みんな無くなってしまいました。母1人子1人残されて、生活のめどが無いのが、私の一生の苦痛となりました。日本兵は本当に残酷です!(慇紅英と曹義富と陳小敏が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人の命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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5月3日は憲法記念日ですね。今の憲法が施行された日ですね。
特に憲法9条の解釈をめぐっては、いろいろと拡大解釈が出てきて問題が多いように思います。
どうしたら憲法9条が本当に実のあるものになるか、この3日に私たちは、よく考えるべきだと強く思います。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本軍による中国民衆への残虐行為
1、戦場における民衆と難民
日本が侵略戦争を始めてから、中国の民衆の生命は、どのような脅威を受けたのでしょうか。その家庭や財産は、どのような損害を受けたのでしょうか。中国の民衆はどのような戦争状況を生きたのでしょうか。
強制連行と強制労働
日中全面戦争の当初から、日本国内では労働力不足が問題となりました。日本の政府と軍部・企業は、中国の労働者を強制連行して労働力の確保をはかる方法を採用することにしました。日本の当局は、宣伝を使ってかどわかしたり、県や村に強制的に徴集させたり、あるいは武力で脅して(おどして)拉致、連行するなどして、大量の労働者を確保しました。これらの労働者には日本へ送られた者もいますが、多くは満州に強制連行されました。
アジア太平洋戦争に突入して以後、日本は中国の全占領地で強制労働をさせて体制を推し進め、中国人労働者を使って各地の資源開発や軍事施設の建設を急ぎました。戦局が悪化するにつれて、日本国内の膨大な数の青年・壮年を徴兵して戦線へ送り出したため、国内の労働力はいっそう欠乏しました。日本は1943年から、強制連行した中国人労働者を日本全土や朝鮮、さらには南太平洋にまで送り出すようになりました。
中国人労働者は、各地で残酷な酷使と迫害を受けました。満州に強制連行された労働者たちは、銃剣を持った日本兵の監視下で労働を強制され、おもに鉱山での採掘や道路建設の作業に従事させられました。労働条件は大変劣悪で、死亡率はきわめて高いものでした。死亡した労働者を埋葬した場所は、「万人坑(まんにんこう・・・万人はたくさん、坑は埋葬地の意味)」となりました。
中国から日本に強制連行された4万人の労働者は、35の企業、135ヶ所の作業場に振り分けられました。日本の外務省の統計報告によれば、過酷な労働と劣悪な生活条件のために、少なくとも6800人が死亡しました。
1000名近くの中国兵捕虜と民間人が連行された、秋田県の花岡鉱山では、鹿島組(現在の鹿島)が強制した過酷な労働のため、死者が続出しました。1945年6月30日夜、鹿島組出張所の中国人労働者たちは、残酷な虐待と迫害に耐えかねて一斉蜂起をし、集団で脱走しました。しかし、日本の憲兵隊に鎮圧され、暴行と拷問で100人が殺害されました。これが有名な花岡事件です。花岡鉱山では合わせて419人の中国人労働者が命を奪われました。
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中国人戦争被害者の要求を支える会
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺
○明霞(女、70歳)の証言 ○・・・日本語では見当たらない字
1937年の12月に、日本の帝国主義が南京を占領した時、私の家は漢西門から堂子街から華僑招待所の難民区に避難していました。12月27日の午前9時頃、日本兵が難民区に闖入してきて、難民全てに機関銃3挺の狙いを付け、中年と青年の男子をみんな捕まえて、1人又1人と数珠繋ぎに縄で縛り、大方巷の沼に連行して、機関銃で掃射しました。この時だけで何百人も撃ち殺したので、沼に水が真っ赤に染まりました。難民区全体が泣き声の渦となり、老人は息子の、婦女は夫の、子どもは父の悲運を嘆いて泣きました。でも日本兵が来たらもう泣かないでいるのは、泣いた者は殺されるからです。私の夫の○栄貴がこの時の虐殺で銃殺されたのですが、わずか35歳でした。夫の死後、私は1歳にならない娘を抱いて家に帰りました。けれども、家も日本兵に焼かれてしまいました。私が結婚した時に購入して整えた家具も、銅や錫の皿も器も、衣服や布団も、陶磁器や装飾品も、みんな無くなってしまいました。母1人子1人残されて、生活のめどが無いのが、私の一生の苦痛となりました。日本兵は本当に残酷です!(慇紅英と曹義富と陳小敏が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
「戦争をしない、軍隊をもたない」という日本国憲法9条がどうしてできたか知っていますか。
それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。
日本はアジア太平洋地域で2000万人の命を奪いました。日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本では300万人が戦争で亡くなったのです。
第二次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。
その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人々に対する「二度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人々が平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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