明日は、4月29日「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
4、総力戦体制
第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。
国民を戦争へ総動員する仕組み
1940年、ナチス・ドイツの「電撃的勝利」に目を奪われた日本では、ナチスばりの一国一党の実現をめざして次々と政党が解散、10月には「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」が発足します。これにより複数政党制を前提とする議会制度は消滅します。
同年、政府は労働組合を解散させ、戦争協力のため「大日本産業報国会」を設立して、ストライキなどを全面的に禁止しました。
また、この当時すでに食料、衣料、燃料その他の生活必需品は配給制となっていましたが、町内会、部落会、隣組がその配給ルートとなっていたため、国民は誰もそこから逃れることができなくなっていました。こうした生活統制組織は、国民を互いに監視させあう役割も果たすことになりました。
雑誌や新聞、映画からラジオ、小説にいたるまで、すべての情報が検閲を受け、戦争を賛美・肯定するものだけが掲載や放送を許されました。政府は増加する戦死者を「英霊(えいれい)」としてたたえ、お国のために戦争で死ぬことは「名誉」なことだとして、新たな兵士を戦場へ送り出していきました。
このように、天皇を頂点にした軍部の支配体制の下で、政治・経済・軍事・文化・メディア・教育・生命など、すべてが戦争のために統制・動員されていきました。こうして、日本のファシズム体制が確立したのです。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
李桂芳(女、92歳)の証言
主人の杜金龍は1937年12月のある日、下関の和記洋行に避難していて、日本兵に捕まりました。そして中山埠頭まで引っ張られ、日本軍に機関銃で集団殺害されました。(陳平穏が口述により整理)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
基地をなくして緑と海を
取りもどしていく世界を。
Imagine,
A world that gets rid
of military bases and
reclaims
the forests and the
oceans.
森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。
おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
2009年4月27日月曜日
総力戦体制
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
4、総力戦体制
第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。
「国民精神総動員」と国家総動員法
日中全面戦争の開始から間もない1937年9月、政府は「挙国一致(国を挙げて団結する)」「尽忠報国(じんちゅうほうこく・・・忠義を尽くして国に報いる)」をスローガンに「国民精神総動員運動」に着手します。各道府県に実行委員会がつくられ、やがて町には町内会、村には部落会、さらに隣近所で隣組(となりぐみ)が組織され、それを通して貯蓄や献金、勤労奉仕などが強制的に割り当てられて行きました。
続いて翌38年4月には国家総動員法が公布されます。この法律では、戦争遂行のために必要な「物的資源」は議会の承認なしに勅令(ちょくれい・・・天皇の命令)で統制・運用できるとされ、「人的資源」もまた物資と同様、必要に応じて動員できるとされていました。そしてその戦闘力・労働力としての「人的資源」の供給を確保するため、同年に発足した厚生省によって国民の「健康状態」も戦時体制の中に組み込まれ、管理されていったのです。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
黄張氏(女、90歳)の証言
私の家は1937年は下関の宝塔橋の城壁に引っ付いた所でした。その年に日本兵が入ってくる前に、私たちの村の近くの人たちが、宋さんの家の土手に穴を1つ掘りました。日本兵が入ってきてから、私たちみんなで40人余りが穴に入りました。私たちが入ってすぐ、一群の日本兵に見つかり、みんな出て来いと日本軍が怒鳴りました。その時、私は真っ先に走り出てきて、地にひざまずいて泣きついてから、大急ぎで逃げ出しました。遠くまで走らないうちに、銃声が聞こえて、駆け出て来なかった人たちが、みんな日本軍に機関銃で掃射され死んでしまいました。その後、私は逃げていく道で、又日本兵に捕まり、他に捕まった人たちと一緒に、宝塔橋の方へ銃殺に連行されました。その道で見ましたが、どこもかしこも日本軍に撃ち殺された死体ばかりでした。宝塔橋の和記洋行(今の下関肉聯廠)の入口脇の河辺まで連行された時、そこには既に何千人もの捕まえられて来た人たちがいました。その時、日本兵はもう河辺に機関銃を据え付けていて、人の群に掃射した途端に、私たちみんな倒れました。私は死体に押さえつけられていて、傷を受けていませんでした。日本兵が行ってしまうのを待って、私は死体の堆から這い出し、あるよく知っている人の家まで逃げて行って避難し、やっとのことで生き残って来られたのでした。(陳平穏が口述により整理)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
武器を使わせない世界を。
Imagine,
A world that doesn’t
let weapons be used.
憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
4、総力戦体制
第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。
「国民精神総動員」と国家総動員法
日中全面戦争の開始から間もない1937年9月、政府は「挙国一致(国を挙げて団結する)」「尽忠報国(じんちゅうほうこく・・・忠義を尽くして国に報いる)」をスローガンに「国民精神総動員運動」に着手します。各道府県に実行委員会がつくられ、やがて町には町内会、村には部落会、さらに隣近所で隣組(となりぐみ)が組織され、それを通して貯蓄や献金、勤労奉仕などが強制的に割り当てられて行きました。
続いて翌38年4月には国家総動員法が公布されます。この法律では、戦争遂行のために必要な「物的資源」は議会の承認なしに勅令(ちょくれい・・・天皇の命令)で統制・運用できるとされ、「人的資源」もまた物資と同様、必要に応じて動員できるとされていました。そしてその戦闘力・労働力としての「人的資源」の供給を確保するため、同年に発足した厚生省によって国民の「健康状態」も戦時体制の中に組み込まれ、管理されていったのです。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
黄張氏(女、90歳)の証言
私の家は1937年は下関の宝塔橋の城壁に引っ付いた所でした。その年に日本兵が入ってくる前に、私たちの村の近くの人たちが、宋さんの家の土手に穴を1つ掘りました。日本兵が入ってきてから、私たちみんなで40人余りが穴に入りました。私たちが入ってすぐ、一群の日本兵に見つかり、みんな出て来いと日本軍が怒鳴りました。その時、私は真っ先に走り出てきて、地にひざまずいて泣きついてから、大急ぎで逃げ出しました。遠くまで走らないうちに、銃声が聞こえて、駆け出て来なかった人たちが、みんな日本軍に機関銃で掃射され死んでしまいました。その後、私は逃げていく道で、又日本兵に捕まり、他に捕まった人たちと一緒に、宝塔橋の方へ銃殺に連行されました。その道で見ましたが、どこもかしこも日本軍に撃ち殺された死体ばかりでした。宝塔橋の和記洋行(今の下関肉聯廠)の入口脇の河辺まで連行された時、そこには既に何千人もの捕まえられて来た人たちがいました。その時、日本兵はもう河辺に機関銃を据え付けていて、人の群に掃射した途端に、私たちみんな倒れました。私は死体に押さえつけられていて、傷を受けていませんでした。日本兵が行ってしまうのを待って、私は死体の堆から這い出し、あるよく知っている人の家まで逃げて行って避難し、やっとのことで生き残って来られたのでした。(陳平穏が口述により整理)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
武器を使わせない世界を。
Imagine,
A world that doesn’t
let weapons be used.
憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月26日日曜日
総力戦体制
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
4、総力戦体制
第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。
テロリズムから軍部独裁へ
「満州事変」の後、日本の国内では陸海軍の青年将校を中心にテロリズムが荒れ狂うようになりました。1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸などを襲撃、首相を暗殺しました(5.15事件)。その後も陸軍の中堅将校の策動が続きますが、36年2月26日にはついに陸軍の青年将校たちが約1500人の兵を動かしてクーデターを決行しました。反乱兵たちは首相官邸や陸軍省、警視庁などを占拠して大蔵大臣など要人3名を殺害しました(2.26事件)。
当時、陸軍内部では、クーデターで軍部の独裁政権を樹立して国家改造=「昭和維新」を断行しようとする皇道派(こうどうは=急進派)と、既成の政治勢力も巻き込んで軍の主導で総力戦体制をつくろうとする統制派とが激しい派閥抗争を続けていました。皇道派の反乱は、統制派によって3日間で鎮圧されましたが、これ以後、武力による威嚇効果を背景に、統制派は政治への影響力を決定的に強め、翌年には軍事費を約3倍に激増させます。そして37年7月、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに中国に対する全面侵略戦争へと突き進んでいくのです。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)紅い家から出かけて、九龍橋を過ぎ光華門外の飛行場にまっすぐ着いたと思ったら、この日本軍は飛行場に駐留するよう命令を受けていたのでした。飛行場に1ヵ月余りほど駐留したのですが、日本軍が又人夫を1人捕まえてきたので、私たち分担して飯を作り、家畜に食わせ、給養を受け取りました。毎週1回、夫子廟の六華春酒楼にある兵站部に給養を取りに行くのですが、日本軍が1人私たちを連れて行くのに、驢馬1匹と、自転車を1台引っ張っていきました。「民心を安定させる」こと1ヵ月余りで、街に人が多くなったので、私たち走って逃げようと相談しました。私が驢馬をひき、もう1人が自転車を押し、城内に入ったこの時とばかりに、人が多く混乱した機に乗じて、私たち上海路の難民区に逃げて行き、あちこち尋ね歩き、分かれて3ヶ月余り会えずにいた親族の者を2人とも探し出せて、本当に悲喜こもごもでした。
以上が私の南京大虐殺の時にこの目で目撃し生き残ってこられた体験と経緯で、50何年か前に南京が侵略された事実を青年たちに知ってもらおうと書き出したものです。(段月萍が1987年来の手紙に依って整理)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。
Imagine,
A world that promises
not to fight wars
with each other.
戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
4、総力戦体制
第一次世界大戦以降、戦争は軍隊だけでなく、国家の総力をあげて戦う総力戦となりました。日本の場合、総力戦のための仕組みはどのようにつくられたのでしょうか。
テロリズムから軍部独裁へ
「満州事変」の後、日本の国内では陸海軍の青年将校を中心にテロリズムが荒れ狂うようになりました。1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸などを襲撃、首相を暗殺しました(5.15事件)。その後も陸軍の中堅将校の策動が続きますが、36年2月26日にはついに陸軍の青年将校たちが約1500人の兵を動かしてクーデターを決行しました。反乱兵たちは首相官邸や陸軍省、警視庁などを占拠して大蔵大臣など要人3名を殺害しました(2.26事件)。
当時、陸軍内部では、クーデターで軍部の独裁政権を樹立して国家改造=「昭和維新」を断行しようとする皇道派(こうどうは=急進派)と、既成の政治勢力も巻き込んで軍の主導で総力戦体制をつくろうとする統制派とが激しい派閥抗争を続けていました。皇道派の反乱は、統制派によって3日間で鎮圧されましたが、これ以後、武力による威嚇効果を背景に、統制派は政治への影響力を決定的に強め、翌年には軍事費を約3倍に激増させます。そして37年7月、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに中国に対する全面侵略戦争へと突き進んでいくのです。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)紅い家から出かけて、九龍橋を過ぎ光華門外の飛行場にまっすぐ着いたと思ったら、この日本軍は飛行場に駐留するよう命令を受けていたのでした。飛行場に1ヵ月余りほど駐留したのですが、日本軍が又人夫を1人捕まえてきたので、私たち分担して飯を作り、家畜に食わせ、給養を受け取りました。毎週1回、夫子廟の六華春酒楼にある兵站部に給養を取りに行くのですが、日本軍が1人私たちを連れて行くのに、驢馬1匹と、自転車を1台引っ張っていきました。「民心を安定させる」こと1ヵ月余りで、街に人が多くなったので、私たち走って逃げようと相談しました。私が驢馬をひき、もう1人が自転車を押し、城内に入ったこの時とばかりに、人が多く混乱した機に乗じて、私たち上海路の難民区に逃げて行き、あちこち尋ね歩き、分かれて3ヶ月余り会えずにいた親族の者を2人とも探し出せて、本当に悲喜こもごもでした。
以上が私の南京大虐殺の時にこの目で目撃し生き残ってこられた体験と経緯で、50何年か前に南京が侵略された事実を青年たちに知ってもらおうと書き出したものです。(段月萍が1987年来の手紙に依って整理)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。
Imagine,
A world that promises
not to fight wars
with each other.
戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月25日土曜日
「大東亜共栄圏」のまぼろし
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜共栄圏」の実態
しかし、日本が「大東亜戦争」を開始した本当の目的は、政府が決定した「南方占領地行政実施要領」(1941年11月20日)に述べられているように、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施して、治安を回復し、重要国防資源を急いで獲得し、作戦軍が自活できるようにする」ところにありました。重要国防資源とは石油、錫(すず)、タングステン、ゴムなどであると書かれています。「自活する」とは、日本軍が占領した現地で、食糧をはじめ軍の維持・活動に必要な物資を手に入れるということです。
大東亜会議の開催を決めた1943年5月の御前会議(天皇の出席した重要会議)で決定した「大東亜政略指導大綱」では、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定、重要資源の供給地として開発し、民心を把握するように務める」と定められました。
以上に見たように、欧米列強に取って代わった日本の占領地支配は、「大東亜共栄圏」とは名ばかりで、戦争遂行のための資源、資材、労働力の調達を目的にしたものでした。東南アジアの占領地では、鉄道建設や軍用道路建設、飛行場建設などの土木工事や鉱山労働に多くの現地住民が強制動員されました。シンガポールやマレーシアでは、多数の華僑(中国系住民)が反日活動の疑いをかけられて虐殺されました。やがてインドネシアやフィリピン等日本軍の占領地で組織的な抗日運動が展開されるようになります。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)12月20日頃のある日、朝早く邁皋橋を出て、通りに沿って城内に向かい、和平門を入り鼓楼を通って新街口まで来て、中山東路の方へ曲がり大安宮や太平路に来ました。道沿いの家屋は焼かれたのが多く、特に太平路は、大小の商店がみんな焼き尽くされていて、私の居た太平路54号も、焼け落ちて一面の瓦礫となっていました。楊公井まで来たら、中華書局とその向かいの中正書局はまだ焼かれていませんでしたが、ガラスの棚は打ち壊され、いろんな書籍が街いっぱいに放り出されていました。白下路を通り、内橋から中華路まで来たら、中華路にあった大小の商店は、みんな焼き尽くされ、一番大きな三履靴屋と何軒かの大きい呉服屋とは、どこもただ骨組みが何本か残っているだけか灰塵の堆になっているかで、正に一面の焦土、満身創痍(そうい)でした。
中華門を出ると、又もや一面のむごたらしい場景で、道路にはいろんな風に惨殺された死体がいっぱいごろごろしていて、2日前に降った雪も、まだこれらの屍に覆いをかけられずにいました。道路の真ん中は、軍の車やタンクに轢(ひ)かれてぺしゃんこになった胴体や、圧しつぶされた頭が、雪で紅に染まり、泥水と脳味噌とが、見分けられないほどぐしゃぐしゃになっていました。南門(中華門)のすぐ外の大橋のそばに、4,50歳くらいの婦人が、ズボンをはぎ取られ、股の内側に木の棒が1本差し込まれている、何とも見るに忍びないものでした。それなのに道を行く日本軍の一隊は、これを見てかか大笑したのです。
更に前へ行って、掃帚巷に入ると、又も一面の焦土で、塀は壊れ壁は崩れていて、雪が降った後なのに、まだ煙が出ているところもあるのです。掃帚巷から洋炮局を抜け養虎巷を通って、まっすぐ通済門の方向へ向かいました。まもなく通済門だという所に、ある平民の住宅があり、煉瓦も紅く瓦も紅いために、住民が紅い家と呼んでいたのですが、部隊はそこで休憩しました。ここの住民はほとんどみんな難を逃れて行ってしまっていましたが、ある理髪師1軒だけがまだ行っていなくて、この理髪師の若い奥さんが日本軍に発見されてから、輪姦されてしまいました。この日本軍の一隊が出て行く時に理髪師をぶち殺したばかりか、この若い婦人の陰部に強力な花火の「天地響」を差し込んで、その場で爆死させてしまいました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
武器をつくったり
売ったりしない世界を。
Imagine,
A world that doesn't
make or sell weapons.
紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜共栄圏」の実態
しかし、日本が「大東亜戦争」を開始した本当の目的は、政府が決定した「南方占領地行政実施要領」(1941年11月20日)に述べられているように、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施して、治安を回復し、重要国防資源を急いで獲得し、作戦軍が自活できるようにする」ところにありました。重要国防資源とは石油、錫(すず)、タングステン、ゴムなどであると書かれています。「自活する」とは、日本軍が占領した現地で、食糧をはじめ軍の維持・活動に必要な物資を手に入れるということです。
大東亜会議の開催を決めた1943年5月の御前会議(天皇の出席した重要会議)で決定した「大東亜政略指導大綱」では、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定、重要資源の供給地として開発し、民心を把握するように務める」と定められました。
以上に見たように、欧米列強に取って代わった日本の占領地支配は、「大東亜共栄圏」とは名ばかりで、戦争遂行のための資源、資材、労働力の調達を目的にしたものでした。東南アジアの占領地では、鉄道建設や軍用道路建設、飛行場建設などの土木工事や鉱山労働に多くの現地住民が強制動員されました。シンガポールやマレーシアでは、多数の華僑(中国系住民)が反日活動の疑いをかけられて虐殺されました。やがてインドネシアやフィリピン等日本軍の占領地で組織的な抗日運動が展開されるようになります。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)12月20日頃のある日、朝早く邁皋橋を出て、通りに沿って城内に向かい、和平門を入り鼓楼を通って新街口まで来て、中山東路の方へ曲がり大安宮や太平路に来ました。道沿いの家屋は焼かれたのが多く、特に太平路は、大小の商店がみんな焼き尽くされていて、私の居た太平路54号も、焼け落ちて一面の瓦礫となっていました。楊公井まで来たら、中華書局とその向かいの中正書局はまだ焼かれていませんでしたが、ガラスの棚は打ち壊され、いろんな書籍が街いっぱいに放り出されていました。白下路を通り、内橋から中華路まで来たら、中華路にあった大小の商店は、みんな焼き尽くされ、一番大きな三履靴屋と何軒かの大きい呉服屋とは、どこもただ骨組みが何本か残っているだけか灰塵の堆になっているかで、正に一面の焦土、満身創痍(そうい)でした。
中華門を出ると、又もや一面のむごたらしい場景で、道路にはいろんな風に惨殺された死体がいっぱいごろごろしていて、2日前に降った雪も、まだこれらの屍に覆いをかけられずにいました。道路の真ん中は、軍の車やタンクに轢(ひ)かれてぺしゃんこになった胴体や、圧しつぶされた頭が、雪で紅に染まり、泥水と脳味噌とが、見分けられないほどぐしゃぐしゃになっていました。南門(中華門)のすぐ外の大橋のそばに、4,50歳くらいの婦人が、ズボンをはぎ取られ、股の内側に木の棒が1本差し込まれている、何とも見るに忍びないものでした。それなのに道を行く日本軍の一隊は、これを見てかか大笑したのです。
更に前へ行って、掃帚巷に入ると、又も一面の焦土で、塀は壊れ壁は崩れていて、雪が降った後なのに、まだ煙が出ているところもあるのです。掃帚巷から洋炮局を抜け養虎巷を通って、まっすぐ通済門の方向へ向かいました。まもなく通済門だという所に、ある平民の住宅があり、煉瓦も紅く瓦も紅いために、住民が紅い家と呼んでいたのですが、部隊はそこで休憩しました。ここの住民はほとんどみんな難を逃れて行ってしまっていましたが、ある理髪師1軒だけがまだ行っていなくて、この理髪師の若い奥さんが日本軍に発見されてから、輪姦されてしまいました。この日本軍の一隊が出て行く時に理髪師をぶち殺したばかりか、この若い婦人の陰部に強力な花火の「天地響」を差し込んで、その場で爆死させてしまいました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
武器をつくったり
売ったりしない世界を。
Imagine,
A world that doesn't
make or sell weapons.
紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月24日金曜日
「大東亜共栄圏」のまぼろし
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜会議」の招集
1943年11月、東條英機首相は、アジアに新しい秩序が形成されたことを誇示(こじ)するために「大東亜共栄圏」の代表を塔橋に集め、大東亜会議を開きました。
招集されたのは、日本軍が占領しているところにつくられた傀儡(かいらい)政府、すなわち「満州国」、中国・南京の汪精衛(おうせいえい)政権、タイ、ビルマ、フィリピン、「自由インド仮政府」の代表たちでした。会議では次のような大東亜共同宣言を採択、発表しました。
■米英は自国の繁栄のために、他民族を抑圧し、大東亜に対しては侵略、搾取(さくしゅ)を行ない、大東亜を隷属化(れいぞくか)し、安定をくつがえそうとした。これが大東亜戦争の原因である。大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の束縛から解放して、共存共栄、自主独立、人種的差別のない共栄圏を建設し、世界平和の確立に役立てようとするものである。(要約)
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)12月15日の晩は霜が降りました。夜が明けないうちに、朝ご飯を食べ出発しました。侵略者たち10数人は、馬を一匹ひいた私を加え、長江沿いに上元門の方へ進んで行きました。至るところ死体ばかりで、そのほか、江辺には軍用の糧食や被服が山のように積まれていて、それに庶民が捨てていった箱や篭や行李に、小さな車、大きなトラック、戸板をはずされた店の品物が至る所に放り出されているの等でいっぱいでした。更に前へ進むと、銃器や弾薬が、山のように積まれているのが見えました。上元門まで行って、老虎山のふもとから、引き続き邁皋橋の方向へ行くと、道沿いのおよそ村で建物のある所では、どこも昨日挹江門(ゆうこうもん)の内側で見かけた状況と同様に、家々の入口には年寄りや子どもが座っていて、そこから遠くないところに、その家の青壮年の死体が1つか2つ転がっているのでした。人々は泣きもせず、話もせず、間が抜けて、感覚もなしに、くり返しくり返し「掃蕩(そうとう)」にやってくる侵略者に捜査されるに任せ、家中のちょっとでも銭になるものは洗いざらい持っていかれ、かめや壷や缶などまでも門の外に持ち出され、落として粉々にされてしまい、鶏や豚などの家畜は、言うに及ばずでした。
この日本軍10数人は、邁皋橋の通りのかたわらのある農家の家に落ち着きました。彼らは自分たちの欲しがる金目の物、金銀首飾りなどを捜索して略奪したほか、人を捕まえて虐殺しました。2,3日で、無辜(むこ)の農民を13人捕まえ、その中に軍人で変装したのがいたのかも知れませんが、とにかくその13人を閉じ込め縛り付けました。3日目に、その人たちは日本軍に家の後ろの小さな沼に連れて行かれ、1対1で「射撃練習」の的にされて銃殺されました。私の任務は毎日米を研いで飯をつくることで、毎日夜が明けないうちに、池で米を洗わなければならず、この惨死した13の死体を一目見て、身の毛がよだってしまったのですが、それでも米を研ぎに行かなければいけなかったのです。ここに5日ほど泊まっていて、一度雪が降ったので、何とか死体に覆いをかぶせた恰好(かっこう)になりました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
Imagine,
A world that spends
money
not on armies,
but on people's lives.
アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜会議」の招集
1943年11月、東條英機首相は、アジアに新しい秩序が形成されたことを誇示(こじ)するために「大東亜共栄圏」の代表を塔橋に集め、大東亜会議を開きました。
招集されたのは、日本軍が占領しているところにつくられた傀儡(かいらい)政府、すなわち「満州国」、中国・南京の汪精衛(おうせいえい)政権、タイ、ビルマ、フィリピン、「自由インド仮政府」の代表たちでした。会議では次のような大東亜共同宣言を採択、発表しました。
■米英は自国の繁栄のために、他民族を抑圧し、大東亜に対しては侵略、搾取(さくしゅ)を行ない、大東亜を隷属化(れいぞくか)し、安定をくつがえそうとした。これが大東亜戦争の原因である。大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の束縛から解放して、共存共栄、自主独立、人種的差別のない共栄圏を建設し、世界平和の確立に役立てようとするものである。(要約)
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)12月15日の晩は霜が降りました。夜が明けないうちに、朝ご飯を食べ出発しました。侵略者たち10数人は、馬を一匹ひいた私を加え、長江沿いに上元門の方へ進んで行きました。至るところ死体ばかりで、そのほか、江辺には軍用の糧食や被服が山のように積まれていて、それに庶民が捨てていった箱や篭や行李に、小さな車、大きなトラック、戸板をはずされた店の品物が至る所に放り出されているの等でいっぱいでした。更に前へ進むと、銃器や弾薬が、山のように積まれているのが見えました。上元門まで行って、老虎山のふもとから、引き続き邁皋橋の方向へ行くと、道沿いのおよそ村で建物のある所では、どこも昨日挹江門(ゆうこうもん)の内側で見かけた状況と同様に、家々の入口には年寄りや子どもが座っていて、そこから遠くないところに、その家の青壮年の死体が1つか2つ転がっているのでした。人々は泣きもせず、話もせず、間が抜けて、感覚もなしに、くり返しくり返し「掃蕩(そうとう)」にやってくる侵略者に捜査されるに任せ、家中のちょっとでも銭になるものは洗いざらい持っていかれ、かめや壷や缶などまでも門の外に持ち出され、落として粉々にされてしまい、鶏や豚などの家畜は、言うに及ばずでした。
この日本軍10数人は、邁皋橋の通りのかたわらのある農家の家に落ち着きました。彼らは自分たちの欲しがる金目の物、金銀首飾りなどを捜索して略奪したほか、人を捕まえて虐殺しました。2,3日で、無辜(むこ)の農民を13人捕まえ、その中に軍人で変装したのがいたのかも知れませんが、とにかくその13人を閉じ込め縛り付けました。3日目に、その人たちは日本軍に家の後ろの小さな沼に連れて行かれ、1対1で「射撃練習」の的にされて銃殺されました。私の任務は毎日米を研いで飯をつくることで、毎日夜が明けないうちに、池で米を洗わなければならず、この惨死した13の死体を一目見て、身の毛がよだってしまったのですが、それでも米を研ぎに行かなければいけなかったのです。ここに5日ほど泊まっていて、一度雪が降ったので、何とか死体に覆いをかぶせた恰好(かっこう)になりました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
Imagine,
A world that spends
money
not on armies,
but on people's lives.
アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月23日木曜日
「大東亜共栄圏」のまぼろし
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜新秩序の建設」
今度の対米英戦は、支那事変(日中戦争)をも含め大東亜(だいとうあ)戦争と呼称(こしょう)する。
大東亜戦争と称するのは、大東亜の新秩序建設を目的とする戦争であることを意味するもので、戦争地域を大東亜のみに限定する意味ではない。(要約)
「大東亜の新秩序建設」というのは、1940年7月に近衛文麿(このえふみまろ)内閣によって発表、宣伝された構想です。日本がドイツ、イタリアと同盟して欧米列強の世界支配を崩壊させ、欧米勢力の植民地支配から「アジアを解放」して、「八紘一宇(はっこういちう・・・世界を天皇のもとに1つの家とする)」の「大精神」のもとにアジア諸民族がともに栄える「大東亜共栄圏」を実現させる、というものでした。
日本は占領した先ざきで神社を建て、神道(しんとう)を強制して天皇を現人神(あらひとがみ・・・人の姿となってこの世に現れた神)として崇拝させようとし、学校教育その他の場で日本語を「東亜の共通語」として学ばせようとしました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)この日本軍一個小隊の人馬は、命令で戦場を掃蕩しに出てきたもので、海軍部から薩家湾へ向かう街路を行ってから、城壁に懸かる側へと曲がりました。そこはほとんどが城内の野菜農家で、どこの家の小屋のかたわらにも、年寄りや子どもが、戸口にぼんやり座っていましたが、どの家からも遠くないところに銃殺された青壮年の男の死体が1つか2つ転がっていました。その人たちはいわゆる戦場掃除の日本軍に2度、3度と捜索されて、家に入って行かれなかった人たちだったのです。
この方向を、ぐるっと一巡りしてから、又挹江門を出て、まっすぐ中山埠頭に突き当たりました。その道は江辺と同じように、どこも銃殺された死体がいっぱいで、人が死体の上を歩き、車が死体の上を転がって、平たく押しつぶされた頭や腹、脳みその飛び散ったのと、見るも無惨なありさまでした。
この10数人の日本軍が、中山埠頭の左側にある家屋に泊まって夜を過ごすことになり、赤々と火を焚いて、私に兵隊たち皆の飯ごうに米を入れさせ、手探りで岸まで洗いに行かせ、それから火に掛けて飯を炊かせました。この晩に私が一生忘れられないことが2つ起こりました。1つは、歩哨を置いたのが海軍の陸戦隊で、歩哨に立った水兵もしょっちゅう家に入って来て火に当たるのですが、入ってきてからいつも小銃の先っぽの剣に付いた血をぬぐうのです。それは大概昼間生き残ったのが夜になって逃げようとして、銃剣の下に死んだものでしょうが、と言うのは日本軍が家に入ってくるときは、いつも叫び声が聞こえてきてから、入って来て銃剣の血をぬぐうのだからです。2つ目は、私を捕まえてきた日本軍が食べ終わってから、私を引っ張り出したので、私はてっきり私を殺そうとするのだと思いました。出てから真っ暗闇の真夜中に、私を引っ張ってあっちを手探り、こっちを撫で回しで、触れるのは死人ばかり、固くなったのもあり、刺し殺されたばかりのもあり、探るたびに血がべったり付くのです。最後に手に触れたのが小さい乗用車2台で、その車からソファのマットを引っ張り出して初めて、眠るのに使うのだと分かりました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。
Imagine,
A peaceful world
without war.
でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのか
な
一つひとつ考えてみよう。
But,how can such a
world be made?
let's think about it.
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜新秩序の建設」
今度の対米英戦は、支那事変(日中戦争)をも含め大東亜(だいとうあ)戦争と呼称(こしょう)する。
大東亜戦争と称するのは、大東亜の新秩序建設を目的とする戦争であることを意味するもので、戦争地域を大東亜のみに限定する意味ではない。(要約)
「大東亜の新秩序建設」というのは、1940年7月に近衛文麿(このえふみまろ)内閣によって発表、宣伝された構想です。日本がドイツ、イタリアと同盟して欧米列強の世界支配を崩壊させ、欧米勢力の植民地支配から「アジアを解放」して、「八紘一宇(はっこういちう・・・世界を天皇のもとに1つの家とする)」の「大精神」のもとにアジア諸民族がともに栄える「大東亜共栄圏」を実現させる、というものでした。
日本は占領した先ざきで神社を建て、神道(しんとう)を強制して天皇を現人神(あらひとがみ・・・人の姿となってこの世に現れた神)として崇拝させようとし、学校教育その他の場で日本語を「東亜の共通語」として学ばせようとしました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)この日本軍一個小隊の人馬は、命令で戦場を掃蕩しに出てきたもので、海軍部から薩家湾へ向かう街路を行ってから、城壁に懸かる側へと曲がりました。そこはほとんどが城内の野菜農家で、どこの家の小屋のかたわらにも、年寄りや子どもが、戸口にぼんやり座っていましたが、どの家からも遠くないところに銃殺された青壮年の男の死体が1つか2つ転がっていました。その人たちはいわゆる戦場掃除の日本軍に2度、3度と捜索されて、家に入って行かれなかった人たちだったのです。
この方向を、ぐるっと一巡りしてから、又挹江門を出て、まっすぐ中山埠頭に突き当たりました。その道は江辺と同じように、どこも銃殺された死体がいっぱいで、人が死体の上を歩き、車が死体の上を転がって、平たく押しつぶされた頭や腹、脳みその飛び散ったのと、見るも無惨なありさまでした。
この10数人の日本軍が、中山埠頭の左側にある家屋に泊まって夜を過ごすことになり、赤々と火を焚いて、私に兵隊たち皆の飯ごうに米を入れさせ、手探りで岸まで洗いに行かせ、それから火に掛けて飯を炊かせました。この晩に私が一生忘れられないことが2つ起こりました。1つは、歩哨を置いたのが海軍の陸戦隊で、歩哨に立った水兵もしょっちゅう家に入って来て火に当たるのですが、入ってきてからいつも小銃の先っぽの剣に付いた血をぬぐうのです。それは大概昼間生き残ったのが夜になって逃げようとして、銃剣の下に死んだものでしょうが、と言うのは日本軍が家に入ってくるときは、いつも叫び声が聞こえてきてから、入って来て銃剣の血をぬぐうのだからです。2つ目は、私を捕まえてきた日本軍が食べ終わってから、私を引っ張り出したので、私はてっきり私を殺そうとするのだと思いました。出てから真っ暗闇の真夜中に、私を引っ張ってあっちを手探り、こっちを撫で回しで、触れるのは死人ばかり、固くなったのもあり、刺し殺されたばかりのもあり、探るたびに血がべったり付くのです。最後に手に触れたのが小さい乗用車2台で、その車からソファのマットを引っ張り出して初めて、眠るのに使うのだと分かりました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。
Imagine,
A peaceful world
without war.
でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのか
な
一つひとつ考えてみよう。
But,how can such a
world be made?
let's think about it.
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月22日水曜日
アジア太平洋戦争
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
第二次世界大戦の一環となる
日本に続いてドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したので、戦争は文字通り第二次世界大戦となりました。
長期にわたり戦争を計画、準備してきた日本軍は、イギリス軍やアメリカ軍がヨーロッパの戦争を優先して戦闘準備が整っていなかったため、両国の軍隊を次々と攻撃して撤退させ、開戦後半年のうちに、イギリス領のマレー半島・香港・シンガポール・ビルマ(現ミャンマー)、オランダ領東インド(現インドネシア)、アメリカ領のフィリピンなど、東南アジア、南太平洋の一帯を占領して軍事支配化に置きました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)私が日本軍にくっついて和記洋行から出て、煤炭港の汽車を渡す船の埠頭を抜けて行くと、銃器や弾薬、軍用の糧食に被服、民間の財物などが山と積まれていて、誰も関与する者がいないのでした。煤炭港の渡し船埠頭を通り越した途端、全く驚かされたことには、死体があちらにもこちらにもごろごろしていて、首が斬られてぶら下がっているものもあり、身2つになっているのもあり、腕を切られたり腿を切られたりしているのもありで、死人が死人を押し付けているのでした。煤炭港から駅の方へ行くと、敵軍が9人軍刀で人を斬っているところで、2人の人の頚が斬られて2つになっているのを、日本の将校がハッハッハと大笑いしているのでした。下関駅の近くの広場でも、殺された人は似たように状態で、何十匹もの軍馬も難を免れてはいませんでした。私はこんなにも凄惨な場景を見て、すごく恐くなりました。夢中でくっついて行き、下関駅を抜けて、挹江門外のある湖の辺りの小学校の中まで行きました。この3人の日本軍は全く附いてなくて、ここに日本軍が10人足らず泊まっていて、3人が来たら出発しようと待っていたのですが、門から入ったところで上官に出くわし、3人とも2つずつ物すごい横びんたをなぐられ、又くどくど何か話した後、出発となりました。私はこの様子を見たので、馬を3人に渡して、又和記洋行に帰ろうとしたところが、何と1人1人に打たれ、腹いせが私の頭上にかかってきて、3度も物すごく横びんたをなぐられ、付いて行かされてしまいました。
10何人かの日本軍が、私というこの馬をひいた子どもを連れて、学校から出、挹江門の方向へ前進しました。道路はどこも昨日虐殺された死体ばっかしで、血がまだ地上に流れていたり、崩れて頭だかなんだか分からなくなっているのがあったりで、そんなのがごろごろ転がっていました。挹江門まで来た時、城門の高殿はもう焼かれてしまっていながら、城壁の上からは死体が幾つか縄で吊り下げられているのが見えました。挹江門を入ると、道に沿って少なくない死体があり、海軍部の門まで来たら、又もや一面の死体で、血が流れ流れて、道路が真っ赤に染まっていました。その日私は江辺で列にもぐり込んだ時に拾った白力士(パイレックス)の靴を履いていたのですが、たちまちの内に赤力士の靴になってしまいました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
第二次世界大戦の一環となる
日本に続いてドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したので、戦争は文字通り第二次世界大戦となりました。
長期にわたり戦争を計画、準備してきた日本軍は、イギリス軍やアメリカ軍がヨーロッパの戦争を優先して戦闘準備が整っていなかったため、両国の軍隊を次々と攻撃して撤退させ、開戦後半年のうちに、イギリス領のマレー半島・香港・シンガポール・ビルマ(現ミャンマー)、オランダ領東インド(現インドネシア)、アメリカ領のフィリピンなど、東南アジア、南太平洋の一帯を占領して軍事支配化に置きました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)私が日本軍にくっついて和記洋行から出て、煤炭港の汽車を渡す船の埠頭を抜けて行くと、銃器や弾薬、軍用の糧食に被服、民間の財物などが山と積まれていて、誰も関与する者がいないのでした。煤炭港の渡し船埠頭を通り越した途端、全く驚かされたことには、死体があちらにもこちらにもごろごろしていて、首が斬られてぶら下がっているものもあり、身2つになっているのもあり、腕を切られたり腿を切られたりしているのもありで、死人が死人を押し付けているのでした。煤炭港から駅の方へ行くと、敵軍が9人軍刀で人を斬っているところで、2人の人の頚が斬られて2つになっているのを、日本の将校がハッハッハと大笑いしているのでした。下関駅の近くの広場でも、殺された人は似たように状態で、何十匹もの軍馬も難を免れてはいませんでした。私はこんなにも凄惨な場景を見て、すごく恐くなりました。夢中でくっついて行き、下関駅を抜けて、挹江門外のある湖の辺りの小学校の中まで行きました。この3人の日本軍は全く附いてなくて、ここに日本軍が10人足らず泊まっていて、3人が来たら出発しようと待っていたのですが、門から入ったところで上官に出くわし、3人とも2つずつ物すごい横びんたをなぐられ、又くどくど何か話した後、出発となりました。私はこの様子を見たので、馬を3人に渡して、又和記洋行に帰ろうとしたところが、何と1人1人に打たれ、腹いせが私の頭上にかかってきて、3度も物すごく横びんたをなぐられ、付いて行かされてしまいました。
10何人かの日本軍が、私というこの馬をひいた子どもを連れて、学校から出、挹江門の方向へ前進しました。道路はどこも昨日虐殺された死体ばっかしで、血がまだ地上に流れていたり、崩れて頭だかなんだか分からなくなっているのがあったりで、そんなのがごろごろ転がっていました。挹江門まで来た時、城門の高殿はもう焼かれてしまっていながら、城壁の上からは死体が幾つか縄で吊り下げられているのが見えました。挹江門を入ると、道に沿って少なくない死体があり、海軍部の門まで来たら、又もや一面の死体で、血が流れ流れて、道路が真っ赤に染まっていました。その日私は江辺で列にもぐり込んだ時に拾った白力士(パイレックス)の靴を履いていたのですが、たちまちの内に赤力士の靴になってしまいました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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