「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月10日
昨日の夕方、福井氏が訪ねてきた。昨日、日本大使館に会いに行ったのだが、会えなかったのだ。なんと、氏は脅しをかけてきた。
「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」
クレーガーは上海で思った通りを言った。つまり、日本軍に具合の悪い証言をしたのだ。ロンドンからの長い電報、と言っても実は香港からで、クレーガーが書いたことになっているのだが、福井氏はそれを例に出して、クレーガーは日本に悪意を抱いているといった。
「それならどう言えばいいんですか?」私が聞くと福井氏は言った。「ラーベさんの良識に任せます」
「つまり、報道陣にこう言えばいいんですね。南京の状況は日に日に良くなっています。ですから、日本軍兵士の恥ずべき残酷な行為についてこれ以上報道しないで下さい。そんなことをすると、日本人と我々の不協和音をますます大きくしてしまうだけですから、と」
すると非常に満足そうな答えが返ってきた。「それでけっこうです!」
「わかりました。それでは私に、あなたの上官である天谷少将、それからドイツ語を達者に話すという本郷忠夫少佐にもきてもらって、こういう問題を個人的に話し合う機会をいただきたい。我々はあなた方と、つまり日本軍とももうこの辺でよりよい関係を結んで友好的に協力し合いたいと思っているんです。それなのになぜ、鼓楼病院によこしてくれと私たちが懇願している外国人の医者や看護人を南京に入れようとしないのですか?どうして上海から食料品を取り寄せることができないんですか?赤十字病院を訪問できないのはなぜなんです?あそこへ食料を支給しているのは我々なんですよ」
福井氏は肩をすくめ、同じことを繰り返すだけだった。
「もしあちらで不適切な発言をなさると、日本軍を怒らせてしまいます。南京には戻れなくなりますよ!」
中国人の使用人を連れて行ってもいいかと聞くとこういった。
「どうぞ。でもその男は決して南京には戻れませんからね!」
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月10日 木曜日
男子教職員宿舎と隣保館はみじめな光景を呈している。どちらもいまなお避難民で溢れている。午前中、陳さんといっしょに調査に出向いた。比較的に年齢の高い人たちにたいし、安全区外の自宅へ帰るよう再度説得に努めた。若い女性たちのためにそうしてほしいと頼んだのだ。だが、彼女たちは「わかりました」と何度も言うだけで、帰っては行かない。教職員宿舎も 隣保館も避難民の家族で溢れていた。一部屋当たり数家族というありさまだ。床も壁もひどい状態だ。さらに悪いことには、阿片常習者とその妻が部屋の1つにいて、途方もない部屋代を徴収しているのだ。私たちが彼に、女子学院のためになることをしてほしいと言った、というのがその男の言い分だ。私たちは誰も、阿片常習者に対処できるほど器用ではない。
今日の午後は訪問者が4人あった。放送ニュースを伝えるためにやってきたジョン・マギー、スマイス博士を探しにやってきたバスさん、乳児に粉ミルクを与える問題についての相談にやってきたルイス、午後の礼拝のあとやってきた唐博士だ。ちなみに、粉ミルクはたくさんあるものの、乳児のためにそれを使う方法を母親たちに教えることのできる人が足りないのだ。
5時から6時の間に魏師傳と一緒に広東路西へ向かった。私たちが安全区の旗を掲揚した12月11日以来、そこには行っていなかった。戦争による破壊を、まさに語らずして鮮烈に示す証拠であろう。そまつな小屋でさえも大部分が廃屋になっており、なかには焼け落ちたものもあった。人が住んでいるのはごく少数の家だけで、それもお年寄りだった。彼らはどんな生活状況かという質問にたいして、兵士は頻繁にはこない、彼らの中には慎みのある者もいれば、お金がないかと家探しする者もいるし、「花姑娘」(若い娘)を執拗に捜す者もいる、と答えた。夜を過ごすために安全区に戻って行くかなりの人たちと途中で行き合った。
ある家のことだが、そこには男性が4人いた。私たちの見るところでは、彼らは、今でもほとんど人の住んでいない西門地区に出かけて行っては家々から扉や床板を取り外し、それを薪の束にして避難民に売ることによって生計を立てているのだ。もっとも、彼らはそんなことを認めはしなかったであろうが。私は、巻いた布地を黄麻布の袋に何本も入れて持ち歩いている若者と行き合った。彼は、買ったのだ、と言った。おそらく買ったものであろうが、しかし、それは盗品であった。私たちは、たとえ盗品の誘惑がどんなに大きくても、みんながあらゆる種類の盗品の不買運動をしたら、南京の状況は変わるのだ、ということを彼に理解させようとした。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
武器を使わせない世界を。
Imagine,
A world that doesn’t
let weapons be used.
憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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731を問う!!
2009年2月10日火曜日
2009年2月9日月曜日
1938年 南京 2月9日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月9日
昨日の午後、日本大使館から軍事演奏会に招待された。ローゼンはすげなく断ったが、我が委員会のメンバーは、いついかなる時もいやな顔は見せない!我々はプログラムを受け取った。
朝(あした)には日本軍に惨殺された中国人のもとに駆けつけ、夕べにはその同じ軍隊による音楽を楽しめというのは、思えば殺生な話だ。だが、東洋では、偽善が大手を振ってまかり通るこの世界では、いちいち目くじらを立てていても始まらない。面子(メンツ)なんかとっくの昔に棄てている。かくして、かの有名な東アジア式礼儀作法にのっとって、委員会のメンバーはほぼ全員がお目見えとなった!シャルフェンベルグにヒュルター、アリソン、ジェフェリーの駆けつけた。しかもジェフェリーとかわいらしいゲイシャを真ん中に、「ドウメイ」のために記念写真までとるサービスぶりだ。
福井氏から今朝日本大使館に来るよう言われた。上海まで往復する件だと言う。多分、上海に行っても日本の悪口を言わないでくれ、ともう一度念を押すつもりだろう。もし、私が反発すると思っているとしたら、とんだ見当違いだ。けれどもその心配はあるまい。彼は私という人間を知っている。日本人のようにこの私も、心にもないことを言って相手を喜ばせるだろうということも。あとで私がそれに責任を感じるかどうかはまた別の話だ。その辺も承知の上だろう。会社の命令を考えれば、もはや南京に戻ることはありえない。とはいえ、とりあえず戻る許可も取っておきたい。
いよいよ本格的に安全区が解体される!張は、私が休暇でドイツへ帰るので木箱がいると言うと、困ったように首を振った。
「木ですか?棺を作る木さえ満足にないんですよ」
それでもさがしてみるといってくれた。・・・・・・・
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月9日 水曜日
午前中、昨日キャンパスで発生した事件についてのアメリカ大使館宛報告書を作成した。午後、それを持って行ったが、それはともかく、その直前に老邵がやってきて、兵士たちが彼の家にやってきて、いつにもまして粗暴な振る舞いをしたことを報告した。彼は、また引っ越してきてもよいかどうかを知りたかったのだ。午前中、李(音訳)さんとフォースター氏がやってきて長時間いた。フォースター氏は、上海からの2月4日付けの郵便物と、それに加えて、私たちが何よりもありがたがる果物も持ってきてくれた。李さんは、収容所の所長として経験した苦労を私たちに語った。それらは、妙に身近なことのように思われた。
私たちはヘレン・ボートンのことで大変心を痛めているのだが、彼女についての新たな情報を大使館で得ることはできなかった。濾州についての情報は何も得られなかった。私は、あの内陸大平原の略奪ー家屋の略奪や焼き払い、広範囲に行われた男性の殺害、老若を問わない女性の強姦ーを想像することができる。何と、これが友情と協力を得るための戦争であるとは。
アメリカ砲艦パナイ号から回収した貴重品に初めて目を通した。品物はいささかみじめな外見を呈していたと言わざるを得ないが、何週間も長江の水に浸かっていたことを考えれば、おそらく予想よりもよい状態だった。紙幣、その他の書類はすっかり乾いていて、いまでも紙幣は使用が可能だ。アリソンは落胆している様子だった。というのも、南京では事態の改善が遅々として進まないように見えるからだ。
同盟通信社支局長の松本(重治)が数分間(の面会)を求めてきた。彼は飛行機で上海に行くつもりでいるので、長居はできなかったのだ。私としては、彼と知り合いになりたかったのだが。
午後5時ごろ大使館から帰宅する途中で2つの女性グループに出会った。最初のグループは、2人の娘を連れて戻ってきた母親だ。母親が言うには、彼女たちは2日前に帰宅したものの、耐えられなかったそうだ。兵士たちが頻繁にやってきては若い女性を物色したので、いつも隠れていなければならなかったそうだ。どのくらいの期間になるかはわからないが、当然のことながら、私たちとしては彼女たちを受け入れることになる。別の1人は私をひどく悲しませ、落胆させた。彼女は、南京のある大きな学校でかつて教師をしていた人の妻で、学者一家の出身だった。彼女たちは災難に見舞われないように農村に避難したものの、全財産を使い果たしてしまい、状況がどうであれ南京に戻るしかないと決断したのだ。帰りの旅は何と悲しい物語だったことか。14歳の娘と、同じく14歳の姪は、兵士を避けるために靴も靴下も脱いで原野を歩いた。だが、それにもかかわらず、城門を入ろうとした時に姪は3度、娘は1度強姦された。14歳の少女だというのに。時間の点に関しては母親の頭は混乱していた。それほど絶え間なく苦難が続いたのだ。母親は、キャンパスに入れてほしいとは言わなかった。自分は入ることができなくても構わないが、女の子2人が入ることを許可してほしいと懇願した。金陵女子学院の校門は再び開けられた。彼女たちのためにもっと役に立てればよいのだが。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。
Imagine,
A world that promises
not to fight wars with each
other.
戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2月9日
昨日の午後、日本大使館から軍事演奏会に招待された。ローゼンはすげなく断ったが、我が委員会のメンバーは、いついかなる時もいやな顔は見せない!我々はプログラムを受け取った。
朝(あした)には日本軍に惨殺された中国人のもとに駆けつけ、夕べにはその同じ軍隊による音楽を楽しめというのは、思えば殺生な話だ。だが、東洋では、偽善が大手を振ってまかり通るこの世界では、いちいち目くじらを立てていても始まらない。面子(メンツ)なんかとっくの昔に棄てている。かくして、かの有名な東アジア式礼儀作法にのっとって、委員会のメンバーはほぼ全員がお目見えとなった!シャルフェンベルグにヒュルター、アリソン、ジェフェリーの駆けつけた。しかもジェフェリーとかわいらしいゲイシャを真ん中に、「ドウメイ」のために記念写真までとるサービスぶりだ。
福井氏から今朝日本大使館に来るよう言われた。上海まで往復する件だと言う。多分、上海に行っても日本の悪口を言わないでくれ、ともう一度念を押すつもりだろう。もし、私が反発すると思っているとしたら、とんだ見当違いだ。けれどもその心配はあるまい。彼は私という人間を知っている。日本人のようにこの私も、心にもないことを言って相手を喜ばせるだろうということも。あとで私がそれに責任を感じるかどうかはまた別の話だ。その辺も承知の上だろう。会社の命令を考えれば、もはや南京に戻ることはありえない。とはいえ、とりあえず戻る許可も取っておきたい。
いよいよ本格的に安全区が解体される!張は、私が休暇でドイツへ帰るので木箱がいると言うと、困ったように首を振った。
「木ですか?棺を作る木さえ満足にないんですよ」
それでもさがしてみるといってくれた。・・・・・・・
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月9日 水曜日
午前中、昨日キャンパスで発生した事件についてのアメリカ大使館宛報告書を作成した。午後、それを持って行ったが、それはともかく、その直前に老邵がやってきて、兵士たちが彼の家にやってきて、いつにもまして粗暴な振る舞いをしたことを報告した。彼は、また引っ越してきてもよいかどうかを知りたかったのだ。午前中、李(音訳)さんとフォースター氏がやってきて長時間いた。フォースター氏は、上海からの2月4日付けの郵便物と、それに加えて、私たちが何よりもありがたがる果物も持ってきてくれた。李さんは、収容所の所長として経験した苦労を私たちに語った。それらは、妙に身近なことのように思われた。
私たちはヘレン・ボートンのことで大変心を痛めているのだが、彼女についての新たな情報を大使館で得ることはできなかった。濾州についての情報は何も得られなかった。私は、あの内陸大平原の略奪ー家屋の略奪や焼き払い、広範囲に行われた男性の殺害、老若を問わない女性の強姦ーを想像することができる。何と、これが友情と協力を得るための戦争であるとは。
アメリカ砲艦パナイ号から回収した貴重品に初めて目を通した。品物はいささかみじめな外見を呈していたと言わざるを得ないが、何週間も長江の水に浸かっていたことを考えれば、おそらく予想よりもよい状態だった。紙幣、その他の書類はすっかり乾いていて、いまでも紙幣は使用が可能だ。アリソンは落胆している様子だった。というのも、南京では事態の改善が遅々として進まないように見えるからだ。
同盟通信社支局長の松本(重治)が数分間(の面会)を求めてきた。彼は飛行機で上海に行くつもりでいるので、長居はできなかったのだ。私としては、彼と知り合いになりたかったのだが。
午後5時ごろ大使館から帰宅する途中で2つの女性グループに出会った。最初のグループは、2人の娘を連れて戻ってきた母親だ。母親が言うには、彼女たちは2日前に帰宅したものの、耐えられなかったそうだ。兵士たちが頻繁にやってきては若い女性を物色したので、いつも隠れていなければならなかったそうだ。どのくらいの期間になるかはわからないが、当然のことながら、私たちとしては彼女たちを受け入れることになる。別の1人は私をひどく悲しませ、落胆させた。彼女は、南京のある大きな学校でかつて教師をしていた人の妻で、学者一家の出身だった。彼女たちは災難に見舞われないように農村に避難したものの、全財産を使い果たしてしまい、状況がどうであれ南京に戻るしかないと決断したのだ。帰りの旅は何と悲しい物語だったことか。14歳の娘と、同じく14歳の姪は、兵士を避けるために靴も靴下も脱いで原野を歩いた。だが、それにもかかわらず、城門を入ろうとした時に姪は3度、娘は1度強姦された。14歳の少女だというのに。時間の点に関しては母親の頭は混乱していた。それほど絶え間なく苦難が続いたのだ。母親は、キャンパスに入れてほしいとは言わなかった。自分は入ることができなくても構わないが、女の子2人が入ることを許可してほしいと懇願した。金陵女子学院の校門は再び開けられた。彼女たちのためにもっと役に立てればよいのだが。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
おたがいに戦争しないと
約束した世界を。
Imagine,
A world that promises
not to fight wars with each
other.
戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年2月8日日曜日
1938年 南京 2月8日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月8日
朝8時。難民の女性たちがぴったりと体を寄せ合い、押し合いながら庭の真ん中の通路に立っていた。空いているのはここだけだ。そして、私が朝食をすませて本部へ出かける時間になるのを、辛抱強く待っていた。私の姿を見ると一斉にひざまずき、話を終えるまで、じとじとした冷たいセメントの床から立ち上がろうとしなかった。運転手の劉が通訳した。劉は難民に信頼がある。
「日本軍と自治委員会は、君たちが今日ここから出て行かなければならないと公式に発表した。私個人としては、このまま残っていてもちっともかまわないんだ!追い出すつもりはないんだよ!けれども、日本軍がきてここから出ろと命じた場合、1人の外国人にすぎない私にはどうしようもないのだ。いいかい、私には君たちをずっと守ってやるだけの力はないんだよ。どうかわかってくれ!むろん、そういっても日本軍を入らせないよう、出来るだけのことはするつもりだ。お願いだ、私をドイツ大使館に行かせてくれ。そして大使館の責任者と相談させてくれ」
「それじゃあ仕方ないよ」劉が叫んだ。そうとでも言うよりほかなかったのだろう。すると全員が立ち上がり、黙って私を見送った。
今朝、ベイツと一緒に日本大使館へ行き、大使館員を誰か1人、百子亭の殺人現場へ連れて行こうと思っていた。ところが家を出てまもなく、200人ほどの日本兵が行進しているのに出くわした。いよいよ軍部が力ずくで安全区を取っ払うのだ・・・・私は不安になり、取るものもとりあえずアメリカ人たちのところへ駆けつけた。見張りに動員しようと思ったのだ。それから、1人でドイツ大使館にローゼンを訪ねた。彼は2つ返事できてくれた。私の土地と建物へ日本軍が侵入する現場に立ち会おうというのだ。だが、ありがたいことに、何も起こらなかった!部隊の行進は、誰か日本の将官が通るためだったのだ。
おたがいにほっとして一時間ほどわが家で雑談したあと、一緒にアメリカ大使館へ行った。アリソン氏に会い、3人で今日のことを喜び合った。それからローゼン、スマイス、シュペアリング、私、自治委員会のジミーの5人で百子亭へ行った。4つの死体は近くの小さな丘に葬られることになっており、すでに筵(むしろ)にくるまれていた。ジミーは、近所の中国人を探し出して事情を聞いた。それによると老人は自分の力車を取りにきたといっていたが、実際は、椅子を2つ、わら小屋から自分の家へ運ぼうとしたのだという。椅子はどこからか盗んできたのか、安く買ったかしたのだろう。そしてそれを日本兵に見咎められ、発砲されたのだという。老人は重傷を負って倒れ、妻(あるいは姉妹か?)が親戚の男を2人呼んで駆けつけ、運ぼうとしたところ、そろって殺されてしまったのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月8日 火曜日
こんなうららかな日がなぜ人を悲しい気持ちにするのだろうか。説明に窮する。窓外の松の木や薔薇のつるは、きらきらと輝く陽光におおわれていた。身が引き締まるように寒いとはいえ、なぜか小鳥のさえずりに、春到来、春遠からじの感を覚えた。だが、誰が春のすばらしい美しさを楽しめるだろうか。「迎春花」や野生の沈丁花の小枝、水仙、そして薔薇を見れば、1年前には私たちと一緒にいたのに、今は散り散りばらばらになった友人たちのことを思い出すだけであろう。それは、私の生涯には多分再来することのない過去の幸せな時代に私たちがしていた仕事や遊びのことを思い出させてくれるだけであろう。
10時に使用人の1人がやってきて、南山に兵士がいる、と言った。大急ぎでゴム靴を履き、上着を着て駆け出した。イーヴァのバンガローの裏手に兵士が若い女性と一緒にいるところを見つけた。彼の正体を知ろうとしたが失敗した。そこで、退去するよう命じると、彼は腹立たしそうに私を睨みつけたが、そのまま立ち去った。のちにその女性が話してくれたところによれば、彼女は4人の女性と一緒に南の境界に近い池で衣服を洗濯していたそうだ。4人は逃げ出したのだが、彼女は捕まってしまった。兵士が彼女に銃剣を突き付け、服を引き裂こうとしたので、彼女はしぶしぶ服のボタンをはずした。というわけで、私が姿をあらわしたとき、彼女はボタンをはずしている最中だったのだ。はじめはカッとして、彼の銃剣をひったくりーその好機はあったー、そのとき集まっていた使用人たちに、兵士を捕まえるのを手伝ってくれと頼みたいほどだった。しかし、それは分別あることではないと思い、やむなく彼が塀をよじ登って退散するのにまかせた。
午前11時、代理大使(正しくは参事官)の日高氏に渡す報告書を携えて日本大使館へ出向いた。上海へ出発する直前だったが、さいわい、5分ほど彼に面会し、まだ戻ってきていない738人ーキャンパスにいる避難民の夫や父親や息子たちーのために彼の援助を要請することができた。
1時20分、3人の兵士が視察に訪れたが、子どもたちの写真を撮っただけで、困るようなことは何もなかった。2時30分、別のグループー将校と憲兵各1名ーがやってきた。彼らは、かなり上手な中国語を話す人物を同伴していた。彼らにとって、10時に起こった事件は信じがたかったようで、実際信じてはくれなかった。
2時45分、ラーベ氏とルイス氏が、日本大使館のコンサートに私を案内するためにやってきた。私たちは誰も行く気にはならなかったが、しかし、行かなければなるまいと思った。20人編成の楽団の指揮者は、実にすばらしい演奏プログラムを用意していた。にもかかわらず、私は音楽に没入することができなかった。「軽騎兵」序曲が演奏された時、私の心は、12月14日に校門を出て行ったあの行列からどうしても離れなかった。両手を縛られ、日本軍の歩兵と騎兵のうしろから歩いて行った100人ないしそれ以上のあの一般市民の集団、いまだに戻ってこない集団のことだ。そして、「我らの軍隊」が誇らかに演奏された時、破壊された都市や荒廃した農村や強姦された婦女子の姿が絶えず私の目の前に浮かんでいた。私は、音楽を聞いたような気がしない。ドイツ人、イギリス人、アメリカ人を代表して多分20人の欧米人が出席していた。日本大使館の職員たちは私たちに(日本の蛮行を)忘れさせようと試みたのである。
午後、イギリス砲艦ビー号がオランダの高官を乗せてやってきた。郵便物を持ってきていると嬉しいのだが。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
武器をつくったり
売ったりしない世界を。
Imagine,
A world that doesn't
make or sell weapons.
紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2月8日
朝8時。難民の女性たちがぴったりと体を寄せ合い、押し合いながら庭の真ん中の通路に立っていた。空いているのはここだけだ。そして、私が朝食をすませて本部へ出かける時間になるのを、辛抱強く待っていた。私の姿を見ると一斉にひざまずき、話を終えるまで、じとじとした冷たいセメントの床から立ち上がろうとしなかった。運転手の劉が通訳した。劉は難民に信頼がある。
「日本軍と自治委員会は、君たちが今日ここから出て行かなければならないと公式に発表した。私個人としては、このまま残っていてもちっともかまわないんだ!追い出すつもりはないんだよ!けれども、日本軍がきてここから出ろと命じた場合、1人の外国人にすぎない私にはどうしようもないのだ。いいかい、私には君たちをずっと守ってやるだけの力はないんだよ。どうかわかってくれ!むろん、そういっても日本軍を入らせないよう、出来るだけのことはするつもりだ。お願いだ、私をドイツ大使館に行かせてくれ。そして大使館の責任者と相談させてくれ」
「それじゃあ仕方ないよ」劉が叫んだ。そうとでも言うよりほかなかったのだろう。すると全員が立ち上がり、黙って私を見送った。
今朝、ベイツと一緒に日本大使館へ行き、大使館員を誰か1人、百子亭の殺人現場へ連れて行こうと思っていた。ところが家を出てまもなく、200人ほどの日本兵が行進しているのに出くわした。いよいよ軍部が力ずくで安全区を取っ払うのだ・・・・私は不安になり、取るものもとりあえずアメリカ人たちのところへ駆けつけた。見張りに動員しようと思ったのだ。それから、1人でドイツ大使館にローゼンを訪ねた。彼は2つ返事できてくれた。私の土地と建物へ日本軍が侵入する現場に立ち会おうというのだ。だが、ありがたいことに、何も起こらなかった!部隊の行進は、誰か日本の将官が通るためだったのだ。
おたがいにほっとして一時間ほどわが家で雑談したあと、一緒にアメリカ大使館へ行った。アリソン氏に会い、3人で今日のことを喜び合った。それからローゼン、スマイス、シュペアリング、私、自治委員会のジミーの5人で百子亭へ行った。4つの死体は近くの小さな丘に葬られることになっており、すでに筵(むしろ)にくるまれていた。ジミーは、近所の中国人を探し出して事情を聞いた。それによると老人は自分の力車を取りにきたといっていたが、実際は、椅子を2つ、わら小屋から自分の家へ運ぼうとしたのだという。椅子はどこからか盗んできたのか、安く買ったかしたのだろう。そしてそれを日本兵に見咎められ、発砲されたのだという。老人は重傷を負って倒れ、妻(あるいは姉妹か?)が親戚の男を2人呼んで駆けつけ、運ぼうとしたところ、そろって殺されてしまったのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月8日 火曜日
こんなうららかな日がなぜ人を悲しい気持ちにするのだろうか。説明に窮する。窓外の松の木や薔薇のつるは、きらきらと輝く陽光におおわれていた。身が引き締まるように寒いとはいえ、なぜか小鳥のさえずりに、春到来、春遠からじの感を覚えた。だが、誰が春のすばらしい美しさを楽しめるだろうか。「迎春花」や野生の沈丁花の小枝、水仙、そして薔薇を見れば、1年前には私たちと一緒にいたのに、今は散り散りばらばらになった友人たちのことを思い出すだけであろう。それは、私の生涯には多分再来することのない過去の幸せな時代に私たちがしていた仕事や遊びのことを思い出させてくれるだけであろう。
10時に使用人の1人がやってきて、南山に兵士がいる、と言った。大急ぎでゴム靴を履き、上着を着て駆け出した。イーヴァのバンガローの裏手に兵士が若い女性と一緒にいるところを見つけた。彼の正体を知ろうとしたが失敗した。そこで、退去するよう命じると、彼は腹立たしそうに私を睨みつけたが、そのまま立ち去った。のちにその女性が話してくれたところによれば、彼女は4人の女性と一緒に南の境界に近い池で衣服を洗濯していたそうだ。4人は逃げ出したのだが、彼女は捕まってしまった。兵士が彼女に銃剣を突き付け、服を引き裂こうとしたので、彼女はしぶしぶ服のボタンをはずした。というわけで、私が姿をあらわしたとき、彼女はボタンをはずしている最中だったのだ。はじめはカッとして、彼の銃剣をひったくりーその好機はあったー、そのとき集まっていた使用人たちに、兵士を捕まえるのを手伝ってくれと頼みたいほどだった。しかし、それは分別あることではないと思い、やむなく彼が塀をよじ登って退散するのにまかせた。
午前11時、代理大使(正しくは参事官)の日高氏に渡す報告書を携えて日本大使館へ出向いた。上海へ出発する直前だったが、さいわい、5分ほど彼に面会し、まだ戻ってきていない738人ーキャンパスにいる避難民の夫や父親や息子たちーのために彼の援助を要請することができた。
1時20分、3人の兵士が視察に訪れたが、子どもたちの写真を撮っただけで、困るようなことは何もなかった。2時30分、別のグループー将校と憲兵各1名ーがやってきた。彼らは、かなり上手な中国語を話す人物を同伴していた。彼らにとって、10時に起こった事件は信じがたかったようで、実際信じてはくれなかった。
2時45分、ラーベ氏とルイス氏が、日本大使館のコンサートに私を案内するためにやってきた。私たちは誰も行く気にはならなかったが、しかし、行かなければなるまいと思った。20人編成の楽団の指揮者は、実にすばらしい演奏プログラムを用意していた。にもかかわらず、私は音楽に没入することができなかった。「軽騎兵」序曲が演奏された時、私の心は、12月14日に校門を出て行ったあの行列からどうしても離れなかった。両手を縛られ、日本軍の歩兵と騎兵のうしろから歩いて行った100人ないしそれ以上のあの一般市民の集団、いまだに戻ってこない集団のことだ。そして、「我らの軍隊」が誇らかに演奏された時、破壊された都市や荒廃した農村や強姦された婦女子の姿が絶えず私の目の前に浮かんでいた。私は、音楽を聞いたような気がしない。ドイツ人、イギリス人、アメリカ人を代表して多分20人の欧米人が出席していた。日本大使館の職員たちは私たちに(日本の蛮行を)忘れさせようと試みたのである。
午後、イギリス砲艦ビー号がオランダの高官を乗せてやってきた。郵便物を持ってきていると嬉しいのだが。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
武器をつくったり
売ったりしない世界を。
Imagine,
A world that doesn't
make or sell weapons.
紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年2月7日土曜日
1938年 南京 2月7日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月7日
軍服など、道路にばらまかれていた兵士の持ち物をうずたかく積み上げて燃やしたあと、日本軍はやはり道路に置きっぱなしになっている壊れた車に火を放った。むろん、使える部品をあらかじめそっくり取り出しておいてからの話だ。
許さんが知らせてきたのだが、なんでも蓮沼の近くで、明け方に中国人が4人、日本兵に射殺されたとか。1人の老人が、家の近くに自分の力車を隠しておき、取りに行ったときの出来事だという。老人は射殺された。奥さんと親戚の男の人が2人、助けようと駆け寄ったところ、同様に撃たれてしまった。
紅卍字会の使用人2人に案内されて、午前中、ソーンと一緒に西康路の近くの寂しい野原に行った。ここは2つの沼から中国人の死体が124体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。
犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げ込まれたのだ。近くのもう1つの沼には23体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。
殺された女の人の娘と妹をつれて、ミルズと私は午後、現場へ車で向かった。許さんから聞いた話をこの目で確かめるためだ。ホーブズ少佐が以前住んでいた家のすぐ近くだった。
行ってみると野原に男女3名の死体が転がっていた。三つともぴったりくっついている。およそ10メートルほど離れたところに老人の死体があった。竹竿に板をつけた間に合わせの担架がその間に放り出されていた。女の人によばれ、結局殺されてしまった2人は、これで老人を運ぶつもりだったのだ。またしても貧民が犠牲になった。彼らの百姓で小さな畑を持っており、すでに畑を耕していた。すぐそばに粘土でつくったみすぼらしい小屋がいくつかあり、中はからっぽだった。殺された女の人は10ドルほど身につけていたはずだという。娘は言った。「それが母の全財産でした」。けれども見当たらなかった。ミルズも私も深くショックを受けた。あまりのことに涙も見せず、ただ繰り返しお辞儀ばかりしている娘に、私は10ドル握らせた。これで、少なくとも金だけは戻る。帰る前に、妹のほうはそれぞれの遺骸に一握りの土をかけていた。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月7日 月曜日
今朝、私たちの計画を再検討するための女性伝道奉仕者の会議が行われた。私たちは、それぞれの避難民収容棟に係員各1名を配置した。係員の今週の目的は、より詳しく状況を把握すること、元気づけること、直接的な援助をする最善の方法を案出すること、家政及び手芸のクラスー「学校」ではなく「クラス」-の開設について非公式に話し合うことだ。
今朝王さんがやってきて、すでに帰宅した比較的に年齢の高い避難民たちに対する凌辱の事例について報告した。閉鎖されたある収容所の所長が今日2人の娘を連れてきた。彼と彼の妻は、戸部街に住もうとしている。彼が言うには、昨日兵士たちがトラックで乗りつけ、彼の隣人たちの家から上等な寝具をすべて奪い取ったそうだ。さいわい、彼の寝具は新品でもないし、あまりきれいでもなかったため難を免れた。西華門近くの何軒かの家では、兵士たちは若い女性を見つけることができないので、10代の少年を代用しているようだ。
これまでのところ、避難民の報告で行方不明とされている男性の大まかな分類は以下のとおりだ。
商人390人、庭師・農民・日雇い労働者123人、工芸職人・仕立て職人・大工・石工・料理人・機織職人など193人、警察官7人、消防士1人、少年(14-20歳)9人、合計723人だった。これらの人々の大多数は12月16日に拉致され、いまだに帰宅していない。
今日の午後、タイプ書きのラジオニュースをジョン・マギーが私たちに届けてくれた。合肥がいまにも危地に陥りつつあるようだ。農村地域はいったいどんな状況になっているのだろうか。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
Imagine,
A world that spends money
not on armies,
but on people's lives.
アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
クリックお願いします!!
2月7日
軍服など、道路にばらまかれていた兵士の持ち物をうずたかく積み上げて燃やしたあと、日本軍はやはり道路に置きっぱなしになっている壊れた車に火を放った。むろん、使える部品をあらかじめそっくり取り出しておいてからの話だ。
許さんが知らせてきたのだが、なんでも蓮沼の近くで、明け方に中国人が4人、日本兵に射殺されたとか。1人の老人が、家の近くに自分の力車を隠しておき、取りに行ったときの出来事だという。老人は射殺された。奥さんと親戚の男の人が2人、助けようと駆け寄ったところ、同様に撃たれてしまった。
紅卍字会の使用人2人に案内されて、午前中、ソーンと一緒に西康路の近くの寂しい野原に行った。ここは2つの沼から中国人の死体が124体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。
犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げ込まれたのだ。近くのもう1つの沼には23体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。
殺された女の人の娘と妹をつれて、ミルズと私は午後、現場へ車で向かった。許さんから聞いた話をこの目で確かめるためだ。ホーブズ少佐が以前住んでいた家のすぐ近くだった。
行ってみると野原に男女3名の死体が転がっていた。三つともぴったりくっついている。およそ10メートルほど離れたところに老人の死体があった。竹竿に板をつけた間に合わせの担架がその間に放り出されていた。女の人によばれ、結局殺されてしまった2人は、これで老人を運ぶつもりだったのだ。またしても貧民が犠牲になった。彼らの百姓で小さな畑を持っており、すでに畑を耕していた。すぐそばに粘土でつくったみすぼらしい小屋がいくつかあり、中はからっぽだった。殺された女の人は10ドルほど身につけていたはずだという。娘は言った。「それが母の全財産でした」。けれども見当たらなかった。ミルズも私も深くショックを受けた。あまりのことに涙も見せず、ただ繰り返しお辞儀ばかりしている娘に、私は10ドル握らせた。これで、少なくとも金だけは戻る。帰る前に、妹のほうはそれぞれの遺骸に一握りの土をかけていた。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月7日 月曜日
今朝、私たちの計画を再検討するための女性伝道奉仕者の会議が行われた。私たちは、それぞれの避難民収容棟に係員各1名を配置した。係員の今週の目的は、より詳しく状況を把握すること、元気づけること、直接的な援助をする最善の方法を案出すること、家政及び手芸のクラスー「学校」ではなく「クラス」-の開設について非公式に話し合うことだ。
今朝王さんがやってきて、すでに帰宅した比較的に年齢の高い避難民たちに対する凌辱の事例について報告した。閉鎖されたある収容所の所長が今日2人の娘を連れてきた。彼と彼の妻は、戸部街に住もうとしている。彼が言うには、昨日兵士たちがトラックで乗りつけ、彼の隣人たちの家から上等な寝具をすべて奪い取ったそうだ。さいわい、彼の寝具は新品でもないし、あまりきれいでもなかったため難を免れた。西華門近くの何軒かの家では、兵士たちは若い女性を見つけることができないので、10代の少年を代用しているようだ。
これまでのところ、避難民の報告で行方不明とされている男性の大まかな分類は以下のとおりだ。
商人390人、庭師・農民・日雇い労働者123人、工芸職人・仕立て職人・大工・石工・料理人・機織職人など193人、警察官7人、消防士1人、少年(14-20歳)9人、合計723人だった。これらの人々の大多数は12月16日に拉致され、いまだに帰宅していない。
今日の午後、タイプ書きのラジオニュースをジョン・マギーが私たちに届けてくれた。合肥がいまにも危地に陥りつつあるようだ。農村地域はいったいどんな状況になっているのだろうか。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
Imagine,
A world that spends money
not on armies,
but on people's lives.
アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年2月6日金曜日
夏淑琴さん!最高裁 勝訴!!
夏淑琴裁判で夏さんの最高裁での勝訴が確定しました!!
弁護団の声明
最高裁判所第1小法廷は、本日、南京大虐殺事件の被害者である夏淑琴氏に対する名誉毀損に関し、慰謝料の支払い等を求めた事件について、一審被告東中野修道等による上告及び上告受理申立を、いずれも棄却する決定を行った。これによって、夏淑琴氏の勝訴が確定した。
本件訴訟は、夏淑琴氏が1937年12月に南京で発生した旧日本軍による虐殺事件(南京大虐殺事件)において、両親など家族7人を虐殺され、自らも銃剣で刺されて重傷を負うなどの筆舌に尽くがたい深甚な被害を被ったのにもかかわらず、被告東中野修道が、その名誉を毀損する書籍「『南京虐殺』の徹底検証」を被告株式会社展転社等から出版したことに対し、夏淑琴氏が名誉毀損及び人格権の侵害を理由として、損害賠償と謝罪広告の掲載を求めたものである。
すなわち本件書籍は、史料に被害者として登場する「『八歳の少女』と夏淑琴とは別人と判断される」、「『八歳の少女(夏淑琴)』は事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起きるはずもなかった」、「さらに驚いたことには、夏淑琴は日本に来日して証言もしているのである」等と記載され、これらの記述は、原告が「ニセの被害者」であると決めつけ、ウソの証言までしているものと非難するものであり、原告の名誉を毀損するとともに、その人格権を著しく侵害するものである。
一審被告らは、上告審においても、南京事件は国民政府の謀略である等、荒唐無稽の主張と史実の歪曲を重ねたが、最高裁判所もこれらの主張を受け付けなかった。南京大虐殺事件は歴史的事実であり、当時の日本の侵略性を示す事件として世界に広く報道され、国際的な批判を浴びた蛮行であった。大都市における顕著な侵略的事実は、当然のことながら多くの目撃者と記録が残され、現地においては公知の事実であり、大規模な虐殺行為が行われたという歴史的事実は疑いのないところであって、現在の歴史学界における定説といってよい。
過去と向き合い、事実をありのままに受け入れることからしか、侵略の歴史への反省はあり得ないし、真のアジアの平和の構築も実現しない。
夏淑琴氏が、高齢にもかかわらず本件訴訟を提起したのは、自分の悲惨な体験を語り続け、戦の悲惨さと平和の尊さを社会に訴えることが、日中両国民の信頼関係の確立と、アジアの平和にとって必要なことであるという信念に基づく。
最高裁判所が今般、あらためて夏淑琴氏の主張を認め、一審被告らの上告を棄却したことは、本件訴訟のこのような趣旨に照らし極めて大きな意義を有する。誤った歴史観を許さず、歴史の改竄を許さないことによって平和な国際社会を実現することは、日中両国の心ある市民と我々弁護団の共通の願いである。今般の最高裁決定によって、この願いが改めて実現したことを、私たちは高く評価するものである。
2009年2月5日
南京大虐殺・夏淑琴氏名誉毀損事件弁護団
「産経新聞」より
南京事件研究書で賠償確定
2009.2.5 22:05
南京事件の研究書で事件の被害者とは別人と指摘され、名誉を傷つけられたとして、中国人の夏淑琴さんが、著者の東中野修道・亜細亜大学教授と出版元の展転社に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(涌井紀夫裁判長)は5日、教授と同社の上告を退ける決定をした。東中野教授と同社に計400万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。
弁護団の声明
最高裁判所第1小法廷は、本日、南京大虐殺事件の被害者である夏淑琴氏に対する名誉毀損に関し、慰謝料の支払い等を求めた事件について、一審被告東中野修道等による上告及び上告受理申立を、いずれも棄却する決定を行った。これによって、夏淑琴氏の勝訴が確定した。
本件訴訟は、夏淑琴氏が1937年12月に南京で発生した旧日本軍による虐殺事件(南京大虐殺事件)において、両親など家族7人を虐殺され、自らも銃剣で刺されて重傷を負うなどの筆舌に尽くがたい深甚な被害を被ったのにもかかわらず、被告東中野修道が、その名誉を毀損する書籍「『南京虐殺』の徹底検証」を被告株式会社展転社等から出版したことに対し、夏淑琴氏が名誉毀損及び人格権の侵害を理由として、損害賠償と謝罪広告の掲載を求めたものである。
すなわち本件書籍は、史料に被害者として登場する「『八歳の少女』と夏淑琴とは別人と判断される」、「『八歳の少女(夏淑琴)』は事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起きるはずもなかった」、「さらに驚いたことには、夏淑琴は日本に来日して証言もしているのである」等と記載され、これらの記述は、原告が「ニセの被害者」であると決めつけ、ウソの証言までしているものと非難するものであり、原告の名誉を毀損するとともに、その人格権を著しく侵害するものである。
一審被告らは、上告審においても、南京事件は国民政府の謀略である等、荒唐無稽の主張と史実の歪曲を重ねたが、最高裁判所もこれらの主張を受け付けなかった。南京大虐殺事件は歴史的事実であり、当時の日本の侵略性を示す事件として世界に広く報道され、国際的な批判を浴びた蛮行であった。大都市における顕著な侵略的事実は、当然のことながら多くの目撃者と記録が残され、現地においては公知の事実であり、大規模な虐殺行為が行われたという歴史的事実は疑いのないところであって、現在の歴史学界における定説といってよい。
過去と向き合い、事実をありのままに受け入れることからしか、侵略の歴史への反省はあり得ないし、真のアジアの平和の構築も実現しない。
夏淑琴氏が、高齢にもかかわらず本件訴訟を提起したのは、自分の悲惨な体験を語り続け、戦の悲惨さと平和の尊さを社会に訴えることが、日中両国民の信頼関係の確立と、アジアの平和にとって必要なことであるという信念に基づく。
最高裁判所が今般、あらためて夏淑琴氏の主張を認め、一審被告らの上告を棄却したことは、本件訴訟のこのような趣旨に照らし極めて大きな意義を有する。誤った歴史観を許さず、歴史の改竄を許さないことによって平和な国際社会を実現することは、日中両国の心ある市民と我々弁護団の共通の願いである。今般の最高裁決定によって、この願いが改めて実現したことを、私たちは高く評価するものである。
2009年2月5日
南京大虐殺・夏淑琴氏名誉毀損事件弁護団
「産経新聞」より
南京事件研究書で賠償確定
2009.2.5 22:05
南京事件の研究書で事件の被害者とは別人と指摘され、名誉を傷つけられたとして、中国人の夏淑琴さんが、著者の東中野修道・亜細亜大学教授と出版元の展転社に損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(涌井紀夫裁判長)は5日、教授と同社の上告を退ける決定をした。東中野教授と同社に計400万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。
1938年 南京 2月6日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月6日
南京との訣別
通りすがりに、あちこちの防空壕をのぞいてきた。この前の中国の空襲があったとき、みな中に入ろうとしなかったのが印象に残っていたからだ。防空壕にはどれも例外なく地下水で水びたしになっていた。日本兵にあれほどひどい目にあわされたので、空襲など怖くなくなってしまったのだろう。難民たちが大勢、黙って庭で空を眺めていた。なかには飛行機など気にも留めず、わら小屋で普段どおりに過ごしている者もいた。
今日、日本大使館に上海まで往復する許可を申請してきた。「原則的には、この手のものはすべて却下されますが、なんとか努力してみましょう」と福井氏は言ってくれた。ローゼンが推薦状を書いてくれたが、あまり役には立つまい。前にも書いたが、ローゼンは日本人から見て決して好ましい外交官ではないからだ。しかも、かくいう私も国際委員会の代表であり、やはり日本人から好かれているとは言いがたい。とはいえ、いまだに中国本社から滞在継続を認めるといってこない以上、こうするよりほかないのだ。もしそれでも許可が下りたら、外国の砲艦に乗せてもらって行きたいと思っている。
ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告
今日の5日に、日本大使館におきまして、ティーパティーが催されました。新しく任命された日本の駐屯部隊司令官天谷直次郎少将が、当地の在外公館のメンバーを招待したのです。
かなり長いこと待たされた後、我々は席に着くようすすめられました。少将は長ったらしいスピーチを読み上げ、それを福田書記官がつっかえながら英語に訳しました。
まず第一に、少将は日本軍の規律正しさについて述べました。
我が軍はその規律の正しさで世界に知られている。日露戦争においても満州出兵においても、これが破られることはなかった。このたび中国においてこのような事態が起こってしまったのは、ひとえに中国側の責任である。とはいっても、他国の軍隊であったらもっとひどいことが起きたに違いないと確信している。蒋介石は軍のみならず人民全体に抵抗を呼びかけ、それが日本兵の感情を甚だしく害したのである。なぜなら進撃途上で、食糧その他の必需品を一切手に入れることができず、その結果、兵士は人民に怒りをぶつけずにはいられなくなったのだ。南京への進撃はあまりに迅速だったため、食糧の補充は決して容易ではなかった。(こういっておきながら、あとから、食糧補給隊は時間を持て余し、そのためあのような行為に及んだ、という矛盾する発言がありました!)
天谷少将は徹底的に中国側を批判しました。
中国軍はまず第一に日本の将校を狙った。そのため、将校たちは兵卒の軍服を着なければならなかった!中国人スパイもまた、発火信号などを用いて、参謀本部の所在地を目に付くようにして、砲兵隊や航空兵に参謀本部を攻撃させたのである!
南京に関していえば、外国人、とりわけ「ある国家」の人間がでしゃばって裁判官の役割を果たしている。外国人の介入がなければ、南京における日本と中国の関係は間違いなくもっとうまくいったに違いない!日本軍に抵抗するよう中国軍にけしかけたのはこれらの外国人に他ならない。外国人に損害を与えた点に関しては、いかなる批判にも甘んじよう。だが、こと中国との関係については、干渉されたくはない。
最後に、天谷少将は、何か意見があるかと我々に訊ねました。私はすでにこの「スピーチ」のおかしな論理に反感を抱いており、在外公館の最古参者ではありますが、何も言う気になれませんでした。一方アメリカ大使館の南京責任者アリソン氏は、原稿の写しを要求しました。すると、あろうことか、突如として今のは全くの即興だったというのではありませんか。たった、今、少しでも明るい方へと時々原稿を動かしながら、少将が眼鏡をかけて一語一語読み上げ、福田書記官がもう一枚の原稿からとつとつと訳していたというのに!
天谷少将の挨拶に話を戻しますと、さしあたって次のような結論が引き出されましょう。つまり、中国軍の抵抗により日本軍はかなり動揺したということです。ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、愛国心の強い日本人には自明の理だと思うのですが。ところが、際限なくのぼせ上がった日本人は決してこの事実に目を向けようとしませんでした。およそ2年前、満州国の外交部次長であり、日中戦争の最高責任者の1人である大橋忠一氏は豪語したものです。中国の主力軍など、日本の2師団もあればわけなくおさえられるだろう、と。
将校、いやそれどころか参謀本部についても天谷少将が不安を感じたという事実は、中国進軍について、日本が全く別のイメージを抱いていたことを如実に物語っています。
南京住民が日本人を受け入れなかった理由を外国人のせいにしようとする天谷少将の試みは的外れとしか申せません。なにより、南京に残っている外国人が、リーダーとして同盟国であるドイツの人間、しかもナチ党員であるジョン・ラーベ氏を据えたことを考えれば、それは明らかです。
また、少将が「ある国家」にアメリカをも含めととしても事情は変わりません。アメリカ人はドイツ人と共に密接に提携して共に行動してきました。ドイツ人がしたことはすべてアメリカ人が加わり、無条件に承認したのです。ドイツ人とアメリカ人が敢然と間に立つことがなかったら、日本軍の殺戮は著しく増加していたと思われます。ですから、日本は外国人に心から感謝して当然なのです。
我々外国人の予想に反して、日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、中国人民は非の打ち所のない規律を示し、比較的重要でない事柄を除けば外国の国旗を尊重したのです、一方日本軍のほうは、南京がとっくに平穏な兵站基地になったあとも、人を殺し、強姦し、街を焼き払い、あらゆるものを、ドイツ人はじめほかの外国人の所有物をも襲ったのです。
ラジオのニュースによりますと、ドイツの外交政策の転換により、日本は自国の中国政策が追認されるのではないかと大きな望みをかけている模様です。けれどもその際、日本はあることを見逃しております。ほかならぬ防共協定の創案者(ヒトラーのこと)が、日本によるこの高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。
漢口との郵便連絡がうまくいきません。よって、この報告書を外務省に直接提出します。
ローゼン
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月6日 日曜日
立春は2月4日だった。いくらか暖かくなった。日が照っている。新しい春を告げる鳥たちがあたりでさえずっている。再び春を迎えるにはあまりにも悲しいように思われる。
目の具合が悪いので、今日は家にいた。具合の悪いのが左手であったら、そのほうがよいのだが。その場合には、少なくとも読み書きだけはできるだろうに。
今日は兵士1名が訪れただけだった。王さんが彼を案内した。避難民は2月8日までに収容所を出なければならないそうだ。私たちの収容所については事情が違うー現在、大部分が若い女性だーという理由で、何か思い切ったことをしてくれるのだろうか。
午後の集会は素晴らしかった。・・・・・・・・
昨日ブランチとマッカラム氏が、年齢の高い避難民男性2人を自然科学研究所に連れて行き、そこに住まわせるようにした。残存している生物学標本を損壊されないようにするためだ。2人は大喜びで行った。彼らの年齢では、いくらなんでも過激な青年だと非難されることなどありえない。あの立派な植物標本の損壊とともに無に帰した努力のことを思い出す。
今朝ルイスがやってきて、栄養不良者に与えるミルクと肝油の割合について指示を出した。その少しあとでプラマーがやってきて、避難民用として300ドルを提供してくれた。贈与分の100ドルと、最終的には500ドルになる貸付資金のうちの200ドルだ。(安全区国際)委員会は、直接的な救援がどうしても必要なので、学校の開設という考えに賛成ではあるものの、その資金を別に用意することは不可能だと思っている。
今日はたくさんの重爆撃機が市街上空を飛んでいる。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。
Imagine,
A peaceful world without war.
でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな
一つひとつ考えてみよう。
But,how can such a world be
made?
let's think about it.
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
クリックお願いします!!
2月6日
南京との訣別
通りすがりに、あちこちの防空壕をのぞいてきた。この前の中国の空襲があったとき、みな中に入ろうとしなかったのが印象に残っていたからだ。防空壕にはどれも例外なく地下水で水びたしになっていた。日本兵にあれほどひどい目にあわされたので、空襲など怖くなくなってしまったのだろう。難民たちが大勢、黙って庭で空を眺めていた。なかには飛行機など気にも留めず、わら小屋で普段どおりに過ごしている者もいた。
今日、日本大使館に上海まで往復する許可を申請してきた。「原則的には、この手のものはすべて却下されますが、なんとか努力してみましょう」と福井氏は言ってくれた。ローゼンが推薦状を書いてくれたが、あまり役には立つまい。前にも書いたが、ローゼンは日本人から見て決して好ましい外交官ではないからだ。しかも、かくいう私も国際委員会の代表であり、やはり日本人から好かれているとは言いがたい。とはいえ、いまだに中国本社から滞在継続を認めるといってこない以上、こうするよりほかないのだ。もしそれでも許可が下りたら、外国の砲艦に乗せてもらって行きたいと思っている。
ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告
今日の5日に、日本大使館におきまして、ティーパティーが催されました。新しく任命された日本の駐屯部隊司令官天谷直次郎少将が、当地の在外公館のメンバーを招待したのです。
かなり長いこと待たされた後、我々は席に着くようすすめられました。少将は長ったらしいスピーチを読み上げ、それを福田書記官がつっかえながら英語に訳しました。
まず第一に、少将は日本軍の規律正しさについて述べました。
我が軍はその規律の正しさで世界に知られている。日露戦争においても満州出兵においても、これが破られることはなかった。このたび中国においてこのような事態が起こってしまったのは、ひとえに中国側の責任である。とはいっても、他国の軍隊であったらもっとひどいことが起きたに違いないと確信している。蒋介石は軍のみならず人民全体に抵抗を呼びかけ、それが日本兵の感情を甚だしく害したのである。なぜなら進撃途上で、食糧その他の必需品を一切手に入れることができず、その結果、兵士は人民に怒りをぶつけずにはいられなくなったのだ。南京への進撃はあまりに迅速だったため、食糧の補充は決して容易ではなかった。(こういっておきながら、あとから、食糧補給隊は時間を持て余し、そのためあのような行為に及んだ、という矛盾する発言がありました!)
天谷少将は徹底的に中国側を批判しました。
中国軍はまず第一に日本の将校を狙った。そのため、将校たちは兵卒の軍服を着なければならなかった!中国人スパイもまた、発火信号などを用いて、参謀本部の所在地を目に付くようにして、砲兵隊や航空兵に参謀本部を攻撃させたのである!
南京に関していえば、外国人、とりわけ「ある国家」の人間がでしゃばって裁判官の役割を果たしている。外国人の介入がなければ、南京における日本と中国の関係は間違いなくもっとうまくいったに違いない!日本軍に抵抗するよう中国軍にけしかけたのはこれらの外国人に他ならない。外国人に損害を与えた点に関しては、いかなる批判にも甘んじよう。だが、こと中国との関係については、干渉されたくはない。
最後に、天谷少将は、何か意見があるかと我々に訊ねました。私はすでにこの「スピーチ」のおかしな論理に反感を抱いており、在外公館の最古参者ではありますが、何も言う気になれませんでした。一方アメリカ大使館の南京責任者アリソン氏は、原稿の写しを要求しました。すると、あろうことか、突如として今のは全くの即興だったというのではありませんか。たった、今、少しでも明るい方へと時々原稿を動かしながら、少将が眼鏡をかけて一語一語読み上げ、福田書記官がもう一枚の原稿からとつとつと訳していたというのに!
天谷少将の挨拶に話を戻しますと、さしあたって次のような結論が引き出されましょう。つまり、中国軍の抵抗により日本軍はかなり動揺したということです。ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、愛国心の強い日本人には自明の理だと思うのですが。ところが、際限なくのぼせ上がった日本人は決してこの事実に目を向けようとしませんでした。およそ2年前、満州国の外交部次長であり、日中戦争の最高責任者の1人である大橋忠一氏は豪語したものです。中国の主力軍など、日本の2師団もあればわけなくおさえられるだろう、と。
将校、いやそれどころか参謀本部についても天谷少将が不安を感じたという事実は、中国進軍について、日本が全く別のイメージを抱いていたことを如実に物語っています。
南京住民が日本人を受け入れなかった理由を外国人のせいにしようとする天谷少将の試みは的外れとしか申せません。なにより、南京に残っている外国人が、リーダーとして同盟国であるドイツの人間、しかもナチ党員であるジョン・ラーベ氏を据えたことを考えれば、それは明らかです。
また、少将が「ある国家」にアメリカをも含めととしても事情は変わりません。アメリカ人はドイツ人と共に密接に提携して共に行動してきました。ドイツ人がしたことはすべてアメリカ人が加わり、無条件に承認したのです。ドイツ人とアメリカ人が敢然と間に立つことがなかったら、日本軍の殺戮は著しく増加していたと思われます。ですから、日本は外国人に心から感謝して当然なのです。
我々外国人の予想に反して、日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、中国人民は非の打ち所のない規律を示し、比較的重要でない事柄を除けば外国の国旗を尊重したのです、一方日本軍のほうは、南京がとっくに平穏な兵站基地になったあとも、人を殺し、強姦し、街を焼き払い、あらゆるものを、ドイツ人はじめほかの外国人の所有物をも襲ったのです。
ラジオのニュースによりますと、ドイツの外交政策の転換により、日本は自国の中国政策が追認されるのではないかと大きな望みをかけている模様です。けれどもその際、日本はあることを見逃しております。ほかならぬ防共協定の創案者(ヒトラーのこと)が、日本によるこの高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。
漢口との郵便連絡がうまくいきません。よって、この報告書を外務省に直接提出します。
ローゼン
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月6日 日曜日
立春は2月4日だった。いくらか暖かくなった。日が照っている。新しい春を告げる鳥たちがあたりでさえずっている。再び春を迎えるにはあまりにも悲しいように思われる。
目の具合が悪いので、今日は家にいた。具合の悪いのが左手であったら、そのほうがよいのだが。その場合には、少なくとも読み書きだけはできるだろうに。
今日は兵士1名が訪れただけだった。王さんが彼を案内した。避難民は2月8日までに収容所を出なければならないそうだ。私たちの収容所については事情が違うー現在、大部分が若い女性だーという理由で、何か思い切ったことをしてくれるのだろうか。
午後の集会は素晴らしかった。・・・・・・・・
昨日ブランチとマッカラム氏が、年齢の高い避難民男性2人を自然科学研究所に連れて行き、そこに住まわせるようにした。残存している生物学標本を損壊されないようにするためだ。2人は大喜びで行った。彼らの年齢では、いくらなんでも過激な青年だと非難されることなどありえない。あの立派な植物標本の損壊とともに無に帰した努力のことを思い出す。
今朝ルイスがやってきて、栄養不良者に与えるミルクと肝油の割合について指示を出した。その少しあとでプラマーがやってきて、避難民用として300ドルを提供してくれた。贈与分の100ドルと、最終的には500ドルになる貸付資金のうちの200ドルだ。(安全区国際)委員会は、直接的な救援がどうしても必要なので、学校の開設という考えに賛成ではあるものの、その資金を別に用意することは不可能だと思っている。
今日はたくさんの重爆撃機が市街上空を飛んでいる。
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。
Imagine,
A peaceful world without war.
でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな
一つひとつ考えてみよう。
But,how can such a world be
made?
let's think about it.
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年2月5日木曜日
1938年 南京 2月5日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月5日
強姦などの暴行は、2月1日から2月3日までのたった三日間でまたもや98件もあった。さいわいわが家の収容所では、今日も問題は起きなかった。けれども、事態のひどさはこの中国人の手紙が雄弁に物語っている。収容所の責任者であるこの人が言うには、そこの中学では5000人だった難民が8000人に増えたそうだ。
金陵大学付属中学からの手紙 1938年2月5日 於南京
拝啓 ラーベ様
書面をもって報告させていただきます。保護を求めて戻ってくる難民の数は増える一方です。そして、家には長くはいられないと口々に訴えております。といいますのも、日本兵に絶え間なくひどい目にあわされるからです。娘を出せと言われ、言うことを聞かなければ殺すと脅迫されるのです。
ラーベ様、あなたやあなたのご友人たちの他、私どもには誰一人頼れる人はありません。なにとぞ、ドイツ、アメリカ、日本の大使館と話し合ってくださるようお願いいたします。難民たちは、私のところに助けを求めてやってくるのですが、助けてやりたくとも私にはどうすることもできないのです。
自治委員会には日本に対する影響力は全くありません。委員会から、難民を助けることのできるのは国際委員会だけだと言われました。自治委員会の妻たちでさえ、一般民と同じように強姦されているありさまなのです。それなのに、なぜ自治委員会が難民たちに自分の家に戻れと言えるのか、私には理解できません。安全区の外に出たら最後、身を守るすべがないことは、自治委員会にもよくわかっているのですから。
難民たちがいかに悲惨な状況にあるか、それを言い表す言葉はとうてい見つかりません。
なにとぞ中国をお見捨てにならぬよう、我々をお救い下さるよう、神に祈るばかりです。あなた様やそのご友人たちが手をさしのべてくださらなかったら、いったい誰が助けてくれると言うのでしょう。お願いです、どうか、ご友人たちと一緒に考えてください。
敬愛するラーベ様、あなたは私たちの師です。これを書きながら、私は涙をおさえることができません。あなたに神のご加護がありますように。そして私たちのためにもお祈りくださいますよう。
敬具
D・G・ライムズ
14時15分
またもや中国機が上空を飛んでいる。とにかく飛行機に中国の印がついていることだけは確かだ。パイロットがどこの国の人間かはわからない。ロシア人でないといいが。ロシア人だとすると、ハーケンクロイツの旗を掲げてもあまり効き目はないだろうから。
収容所を2月8日に閉鎖するという新たな指令が出た。大混乱になり、いっこうにおさまらない。これまでに、約三分の一が出て行った。残ったのは大半が女の人だ。ここから出て行きたくないのだ。今日、鼓楼病院の医師たちから連絡があった。脚気の患者が2人運ばれてきたという。米飯だけのかたよった食事では不思議はない。上海に「薬を送れ」と電報を打つことにした。
我々ドイツ人は、ラジオのニュースで一様に大きなショックを受けている。国ではプロンベルグ、フリッチュ、そのほか数人の将官が辞任、ないし解任されたというではないか。外交政策を考慮して、という話だが、1日も早く詳しいことを知りたい。そうでなくてさえ、目の前に悲惨な出来事がごまんとあるというのに、この上、祖国の平和を憂えなければならないとは・・・・・・。勘弁してくれ!
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月5日 土曜日
中国の暦によれば、昨日が立春。今日は日差しがとても暖かい。雪はすっかり融けてしまった。
目が充血し、扁桃腺炎の気味があったので、終日ずっと部屋にいた。王さんが終日私の執務室にいた。客を迎えたり、行方不明の人たちを職業別に分類するためだ。可能であれば、その件で日高さんに会いたい。ほかの職員は、彼らがこの1週間のうち3日を費やして入手した資料の分類作業をしている。安全区国際委員会から救援が得られるかどうかは、私たちの勧告いかんで決まる。この大問題に対処するには、南京にいる練達の職員も何と無力なことだろう。午前中、私たち5人は3時間を費やして、国際委員会に提出する勧告を作成した。
昨日自宅に帰った女性のうち4人が今朝戻ってきた。この4人の中の1人である40歳の女性は、城門から出る際に衛兵に3ドルを強奪された上、そこから少し先に行ったところで別の兵士によって退避壕へ連れて行かれた。彼女を拉致した兵士は、畑の向こうからやってくる女性(20歳)の姿を見ると彼女を解放した。危険を冒して自分の家ーというよりは家の残骸ーに帰るくらいなら、このキャンパスで餓死するほうがましだと、年齢の高い女性たちまでもが考えるのも不思議ではない。1週間以内に全員が安全区に戻ってくるだろう、と予言する人もいる。全く気の毒な女性たちだ。何たる窮地であろう。
門衛でさえも気づかないうちに、かなりの数の若い女性たちがこっそり入ってきている。彼女たちは閉鎖された難民収容所からきたのだ。昨日私たちは、避難民がよその収容所からこの収容所へ殺到するのを食い止めようとした。
今日キャンパスにはいまなお約4000人ー大多数は若い女性ーがいると思う。現在までに37件の出産と27件の死亡があったが、死亡者のうち5件は成人である。今日は文科棟の階下のホールから階上の教室に若い女性たちを移すつもりだ。そうすれば玄関ホールをきれいに片付けることができるし、ぜひそうする必要がある。階段下のガラスで囲まれた場所にはいまなお女性たちがいる。ガラスの家に住んでいる人たち、というわけだ。
午後、警戒警報がとてもはっきり聞こえた。それは、どんなに多くのことを私に思い出させたことか。多分、中国軍の飛行機が句容へ向かっていたのだろう。
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2月5日
強姦などの暴行は、2月1日から2月3日までのたった三日間でまたもや98件もあった。さいわいわが家の収容所では、今日も問題は起きなかった。けれども、事態のひどさはこの中国人の手紙が雄弁に物語っている。収容所の責任者であるこの人が言うには、そこの中学では5000人だった難民が8000人に増えたそうだ。
金陵大学付属中学からの手紙 1938年2月5日 於南京
拝啓 ラーベ様
書面をもって報告させていただきます。保護を求めて戻ってくる難民の数は増える一方です。そして、家には長くはいられないと口々に訴えております。といいますのも、日本兵に絶え間なくひどい目にあわされるからです。娘を出せと言われ、言うことを聞かなければ殺すと脅迫されるのです。
ラーベ様、あなたやあなたのご友人たちの他、私どもには誰一人頼れる人はありません。なにとぞ、ドイツ、アメリカ、日本の大使館と話し合ってくださるようお願いいたします。難民たちは、私のところに助けを求めてやってくるのですが、助けてやりたくとも私にはどうすることもできないのです。
自治委員会には日本に対する影響力は全くありません。委員会から、難民を助けることのできるのは国際委員会だけだと言われました。自治委員会の妻たちでさえ、一般民と同じように強姦されているありさまなのです。それなのに、なぜ自治委員会が難民たちに自分の家に戻れと言えるのか、私には理解できません。安全区の外に出たら最後、身を守るすべがないことは、自治委員会にもよくわかっているのですから。
難民たちがいかに悲惨な状況にあるか、それを言い表す言葉はとうてい見つかりません。
なにとぞ中国をお見捨てにならぬよう、我々をお救い下さるよう、神に祈るばかりです。あなた様やそのご友人たちが手をさしのべてくださらなかったら、いったい誰が助けてくれると言うのでしょう。お願いです、どうか、ご友人たちと一緒に考えてください。
敬愛するラーベ様、あなたは私たちの師です。これを書きながら、私は涙をおさえることができません。あなたに神のご加護がありますように。そして私たちのためにもお祈りくださいますよう。
敬具
D・G・ライムズ
14時15分
またもや中国機が上空を飛んでいる。とにかく飛行機に中国の印がついていることだけは確かだ。パイロットがどこの国の人間かはわからない。ロシア人でないといいが。ロシア人だとすると、ハーケンクロイツの旗を掲げてもあまり効き目はないだろうから。
収容所を2月8日に閉鎖するという新たな指令が出た。大混乱になり、いっこうにおさまらない。これまでに、約三分の一が出て行った。残ったのは大半が女の人だ。ここから出て行きたくないのだ。今日、鼓楼病院の医師たちから連絡があった。脚気の患者が2人運ばれてきたという。米飯だけのかたよった食事では不思議はない。上海に「薬を送れ」と電報を打つことにした。
我々ドイツ人は、ラジオのニュースで一様に大きなショックを受けている。国ではプロンベルグ、フリッチュ、そのほか数人の将官が辞任、ないし解任されたというではないか。外交政策を考慮して、という話だが、1日も早く詳しいことを知りたい。そうでなくてさえ、目の前に悲惨な出来事がごまんとあるというのに、この上、祖国の平和を憂えなければならないとは・・・・・・。勘弁してくれ!
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月5日 土曜日
中国の暦によれば、昨日が立春。今日は日差しがとても暖かい。雪はすっかり融けてしまった。
目が充血し、扁桃腺炎の気味があったので、終日ずっと部屋にいた。王さんが終日私の執務室にいた。客を迎えたり、行方不明の人たちを職業別に分類するためだ。可能であれば、その件で日高さんに会いたい。ほかの職員は、彼らがこの1週間のうち3日を費やして入手した資料の分類作業をしている。安全区国際委員会から救援が得られるかどうかは、私たちの勧告いかんで決まる。この大問題に対処するには、南京にいる練達の職員も何と無力なことだろう。午前中、私たち5人は3時間を費やして、国際委員会に提出する勧告を作成した。
昨日自宅に帰った女性のうち4人が今朝戻ってきた。この4人の中の1人である40歳の女性は、城門から出る際に衛兵に3ドルを強奪された上、そこから少し先に行ったところで別の兵士によって退避壕へ連れて行かれた。彼女を拉致した兵士は、畑の向こうからやってくる女性(20歳)の姿を見ると彼女を解放した。危険を冒して自分の家ーというよりは家の残骸ーに帰るくらいなら、このキャンパスで餓死するほうがましだと、年齢の高い女性たちまでもが考えるのも不思議ではない。1週間以内に全員が安全区に戻ってくるだろう、と予言する人もいる。全く気の毒な女性たちだ。何たる窮地であろう。
門衛でさえも気づかないうちに、かなりの数の若い女性たちがこっそり入ってきている。彼女たちは閉鎖された難民収容所からきたのだ。昨日私たちは、避難民がよその収容所からこの収容所へ殺到するのを食い止めようとした。
今日キャンパスにはいまなお約4000人ー大多数は若い女性ーがいると思う。現在までに37件の出産と27件の死亡があったが、死亡者のうち5件は成人である。今日は文科棟の階下のホールから階上の教室に若い女性たちを移すつもりだ。そうすれば玄関ホールをきれいに片付けることができるし、ぜひそうする必要がある。階段下のガラスで囲まれた場所にはいまなお女性たちがいる。ガラスの家に住んでいる人たち、というわけだ。
午後、警戒警報がとてもはっきり聞こえた。それは、どんなに多くのことを私に思い出させたことか。多分、中国軍の飛行機が句容へ向かっていたのだろう。
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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