2009年1月2日金曜日

1938年 南京 1月2日

1937年の蘆溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに中国に侵略していった日本軍はその当時の中国の首都南京(なんきん)を12月に陥落させた。その南京でどのようなことが起こったかを、南京で避難民を保護する区域をつくり(安全区)その活動の中心的な人々(ここではラーベ【ジーメンス社南京支社支配人、ナチス党支部長代理、南京安全区国際委員会委員長、ドイツ人・男性】とヴォートリン【金陵女子文理学院教授、宣教師、強姦(ごうかん)・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた、アメリカ人・女性】)の日記を引用しながら日ごとに見ています。南京大虐殺と呼ばれている事件です。関心ある人は読んでみて下さい!


「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
1938年(昭和13年)
1月1日・・・南京市自治委員会成立(日本軍の傀儡〔かいらい〕自治委員会・・・ノブ)

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月2日
 本部の隣の家に日本兵が何人も押し入り、女の人たちが塀(へい)を越えて我々のところへ逃げてきた。クレーガーは、防空壕の上からひらりと塀を飛び越えた。塀は非常に高いのだが、警官が一人手伝ってくれたので、私も後を追おうとした。ところが2人ともバランスを崩して落ちてしまった。さいわいかなり太い竹の上だったので、竹が折れただけで、けがをせずにすんだ。その間にクレーガーは兵たちをとっつかまえた。やつらはあわてふためいて逃げていった。ただ、ちょっと様子を見に来ただけだ、というのだ!

 銃剣でのどを突かれた近所の奥さんを私が鼓楼病院に送り込んだのだが、今日ようやく退院が許された。入院費は1日当たりたった80セント。その10日分だ。お金がないというので、私がかわりに払った。

 日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力という言葉を口にしているそばから、病院の左右両側で家が数件焼けた。軍の放火だ。・・・・・・・・・


 安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ。何千というおびただしい人々が道ばたにたたずんでいる。値段の交渉をしている人もある。道路の両側には行商人が鈴なりになって、食料品、タバコ、古い衣服を売っている。
 誰もが日本の腕章や国旗をつけて飛び回っている。横町や道路の間の空き地には、わら小屋が所狭しと建ち並び、難民村ができている。我が家と同じ光景だ。うちの庭には、もはや草一本生えていない。美しかった生垣もあっという間にふみつぶされ、見る影もなくなった。なにしろ大人数だ、しかたあるまい。なによりまず生きることが先決なのだ!
 昨夜、またしても日本兵の乱暴が相次いだ。スマイスが書きとめ、いつものように抗議書として日本大使館に提出した。

 我々がひそかに恐れていたことがついに起こった。中国の爆撃機がやってきたのだ。といったからといって、決して友人としてではない。敵としてだ!かつての日本軍のように、時間通りに爆弾を落としていく。だが、今までのところ、幸いなことにたいていは同じ場所、つまり南の飛行場かその近くに限られている。日本の防空部隊が姿を現したが、人数も少なく、いとも手薄だった。
 空襲がこのまま安全区の外にとどまるかどうかは、あとになってみないとわからない。だが、そうであってほしい。さもないと、今までよりもっと悲惨なことになるかもしれないのだ。今の安全区の込み具合ときたら、日中は上海よりすごい。そんなところに一発爆弾が落ちたが最後、ものすごい数の人命が失われるのだ。そう思っただけでもぞっとする。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月2日 日曜日
 小春日和。家を消失したり、夜具を盗まれた人たちにとっては何よりの恵だ。
 午前、粥の配給中に、年配の日本人女性3人が車で乗りつけた。国防婦人会の代表者たちだった。彼女たちは何も言わなかったが、興味深そうに眺めていた。日本語を話せたら、ここの避難民たちがこうむっている苦難の一端を説明できるのに、と残念でならない。
 10時、李さんと一緒に鼓楼教会へ行った。それは、実に素晴らしい礼拝だった。・・・・


 午後2時、中国軍機5機が南京市上空に飛来し、爆弾数発を投下した。すると、かつて私たちの側に属していた高射砲の砲声がとどろいた。
 サールはリリア(1)からの手紙を受け取った。日本の新聞記者が持ってきてくれたものだ。彼女がサールから受け取った最新の手紙は11月14日付けだった。彼女はサールにあてて手紙12通、電報6通を送ったが、彼からの返事は受け取らなかった。今日までのところ、南京城内に入ってくることを許された者は一人もいない。

(1)サール・ベイツの夫人リリアは、戦火の南京から避難して日本の東京の世田谷区上北沢に息子と一緒に住んでいた。

※南京からの情報は日本軍が検閲していて配達されなかったのだろう。特に12月の南京の様子は外部に漏らさないようにした。〔ノブ〕

「Imagine 9」より【合同出版】より

想像してごらん、

おたがいに戦争しないと

約束した世界を。

Imagine,

A world that promises

not to fight wars with each other.


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年1月1日木曜日

1938年 南京 1月1日

新年明けましておめでとうございます!!
今年もよろしくお願いいたします!!

1937年の蘆溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに中国に侵略していった日本軍はその当時の中国の首都南京(なんきん)を12月に陥落させた。その南京でどのようなことが起こったかを、南京で避難民を保護する区域をつくり(安全区)その活動の中心的な人々(ここではラーベ【ジーメンス社南京支社支配人、ナチス党支部長代理、南京安全区国際委員会委員長、ドイツ人・男性】とヴォートリン【金陵女子文理学院教授、宣教師、強姦(ごうかん)・暴行を防ぐために献身的な活動を続けた、アメリカ人・女性】)の日記を引用しながら日ごとに見ています。南京大虐殺と呼ばれている事件です。関心ある人は読んでみて下さい!

 1945年、大日本帝国【その当時の日本の呼び名】は戦争に敗れ、戦争は終わりました。その侵略戦争の反省のもとに、アジア・世界の人々に対して「二度と戦争はしません」という誓いとして憲法9条は誕生しました。その9条についてもいろいろと考えてみたいと思います。世界に9条が拡がればと思います!!
 


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1938年1月1日
 昨日の夜9時半、7人の同志が年始に来た。アメリカ人のフィッチ、スマイス、ウィルソン、ミルズ、ベイツ、マッカラム、リッグズの面々だ。手元に残った最後の赤ワインをあけ、一時間ほどおしゃべりした。日頃は意気軒昂のベイツが、疲れ果てて眠り込んでしまったので、早めにお開きになった。私にも中国人の客にとっても休養をとることに依存はなかったから、そろって11時に寝た。・・・・・・

 家に戻ると、盛大な歓迎が待っていた。うちの難民たち「老百姓」(ラオパイシン・・・中国語で名もなき民の意)はずらりと両側に並び、私に敬意を表して、日本軍からもらった何千もの爆竹をいっせいに鳴らした。こうして新しい自治政府を祝うのだ。それから600人全員で私を取り囲み、白い包装紙に朱液で書かれた年賀状を手渡し、いっせいに3度お辞儀した。ありがとう、とうなずいて私が年賀状を折りたたみ、ポケットにつっこむと、まわりから歓声があがった。残念ながら、大きすぎてとてもこの日記帳にはおさめられない。中国人の友人が訳してくれたところによると、

  ラーベさんへ
    どうかよい年でありますよう
       一億があなたのそばにいます!
                  収容所の難民たち
                  1938年


 この「一億」がどういう意味なのか、いまだに私にはよくわからない。たぶんこれは「一億人の善男善女」の意味だろう。張に聞くと、こともなげに言った。
「ドイツ語で新年おめでとうっていうことですよ!」

 火花の雨の後は、使用人とジーメンスの従業員が総出で行列を作り、おごそかに慣例の新年の叩頭(こうとう)の礼をした。
・・・・・・・

 夜の9時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。戸を開けないでいたらいなくなった。見ていると中学校へ向かった。あそこは絶えず日本兵におそわれている。私は庭の見張りをいっそう厳重にして、2人組みの歩哨(ほしょう)に警笛を持たせた。こうしておけば、いつお越し下さってもすぐにはせ参じられる。だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1938年1月1日 土曜日
元旦!1938年の最初の日だ。「新年おめでとう」という言葉は、のど元から出かかっても消えてしまう。「平和が訪れますように」とだけ挨拶する。7時30分からのスタッフの礼拝集会には9人が参加した。今ではつとめて毎日、この礼拝集会を行うようにしている。今なお外界から完全に遮断されていて、友人たちがどのような状況にあるか分からないので、想像をめぐらしながら祈っている。・・・
・・・・・・・・
 正午、程先生とメリーは、新年の昼食に招かれてバックの家に行った。程先生を出かけさせるには骨が折れた。先生は悲嘆に暮れ意気消沈していて、とても浮かれた気分にはなれないからだ。午後、私が交替して執務室に詰めていると、4時までに2つの事件があった。3時ごろ使用人の一人があわただしく入ってきて、キャンパスに避難している少女一人を兵士が連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。急いで出て行き、図書館のすぐ北の竹林に少女と一緒に兵士がいるところを見つけた。
 兵士は私の声を聞きつけると、あわてて逃げ出した。このあと、ときを同じくしてキャンパスにやってきた兵士2人を追い返した。
 キャンパスの少女たちの中には、全く分別のない子がいる。私たちが精一杯努力しているというのに、建物の中に入っていないで正門の方へぶらぶら出て行くのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 今夜は北里門橋の方角で大きな火災が発生している。略奪が続いているのだ。2、3日前に聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校)内で女性27人が強姦されたが、それでも、強姦事件は減少してきていると思う。今日、憲兵ー確かに優秀なようだーが、、重大な不行跡のかどにより一般兵士若干名(7名)を逮捕したそうだ。彼らは銃殺されたと、人々は憶測している。
 午後、鼓楼広場で大きな集会があり、そこで市の新しい役員が任命された。(1) 
 私たちの地区は、1000人の代表を送るよう求められた。五色旗と日本国旗が盛大に並んでいた。細かな事情は聞いていないが、心痛のあまり食事ものどを通らなかった代表を知っている。あなた方は、この新体制を自発的に、そして熱烈に歓迎している〔かのごとき〕写真をきっと目にすることでしょう。
 元日もすでに夜だが、大使館の警官がまだ来ていないので心配だ。

(1)南京特務機関(機関長佐方繁木少佐)の工作のもとに組織された南京自治委員会の成立式。


「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

武器をつくったり

売ったりしない世界を。

Imagine,

A world that doesn't

make or sell weapons
.


紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。




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2008年12月31日水曜日

1937年 南京 12月31日

今年このブログを読んでくださっている方に感謝いたします。
このブログに付き合ってくれて有難うございました!!
 良いお年をお迎えください!!
来年もよろしくお願いいたします!



「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
12月31日、アメリカ大使館員アリソンが米砲艦オアフ号に乗って南京の下関(シャーカン)埠頭に到着、大使館業務再開を要請したが、日本軍司令部に拒否された。理由は、中国兵の掃蕩がまだ続いているので、危険であるということだった。
「今日午後2時30分に到着する。岸辺はまるで殺戮場であり、市内のあちこちで小規模な火災が発生しているのが見え、銃声も聞こえる」とアリソンは国務省への電報で報告している。(「アメリカ関係資料編」)。アリソンが目撃した殺戮場の光景こそ、24日以後厳しく行われてきた「兵民分離」の名による中国人成年男子の集団殺戮の現場だった。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)
12月31日
 今日、うちの難民(男2人)が、外をぶらついていたところを日本兵に連れて行かれて、略奪品を運ばせられた。昼、家に戻ると、かみさんの一人がひざまずいて訴えた。「お願いです!うちの人を連れ戻してください。でないと、殺されてしまいます!」みるも哀れな姿だった。しかたなく私はそのかみさんを車に乗せて、中山路でようやく連中を見つけた。
 武装した兵隊20人と向き合う。案の定2人を引き渡そうとはしない。私の立場はちょっと具合の悪いものだった。何とか連れ戻すことができたときには心底ほっとした。
 家に戻ってから難民を集めて、この2人の愚か者をみなの前で叱り飛ばした。馬鹿なことをして捕まっても知らんからな。630人もいる人間のあとをそのたびに追っかけちゃいられない。いったい何のためにここに逃げてきたんだ?また、私が助けに行くと思ったら大間違いだ。こんなことが続いたら、いずれ取り返しのつかないことになる・・・・。
 日本兵は、新年に3日、休みをもらう。兵たちがうろつかないように安全区を封鎖するといっていたが、あてになるものか。
 明日は、1938年1月1日。いよいよ「自治委員会」がおごそかに樹立される。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月31日 金曜日
 今朝登録が行われた。学院にいる女性260人ではなく、17歳から30歳までの避難民女性およそ1000人の登録だ。彼女たちは9時には中央棟の前に整列させられ、まず日本軍将校の、次には詹栄光氏の訓示(いずれも中国語)を聞かされた。いろいろな事項が申し渡されたが、私には聞こえなかった。ただ、こんなことが耳に入った。「結婚に際しては旧来の慣習に従い、両親に段取りを決めてもらわなければならない。劇場へ行ったり、英語を学んではならない・・・・。中国と日本が一体になることによって強くなるのだ・・・・。」訓示が終わると、彼女たちは一列縦隊で一部は南に、一部は米飯売り場として私たちが囲いをした場所を通過して北へ進んで行った。ほとんどの婦女子が第一段階の切符をもらったが、髪の毛がカールしていたり、身なりが良すぎるなど、目だって見えるという理由で20人ほどが選び出された。母親か、さもなければ他の誰かが保証人になるということで、後に、全員が解放された。・・・・・・・・
 女性の登録が一通り終わると、男性の登録が再開されることになった。門衛の社によれば、夜中の2時には男性が並び始めたそうだ。列は5時には寧海路からはるか実験学校にまで達したようだ。登録は1月3日まで停止になった。・・・・・


 新年には中国に、南京に、そして金陵女子文理学院にどんなことが起こるのだろうか。信念を失ってはいけない。


「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん、

軍隊のお金をみんなの

暮らしのために使う世界を。

Imagine,

A world that spends money

not on armies,

but on people's lives
.



アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2008年12月30日火曜日

1937年 南京 12月30日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
新しく設立された自治委員会は、五色旗(北京政府時代の中国国旗)をたくさん作った。
1月1日に大がかりな公示がある。その時、この旗が振られることになっている。この「自治委員会」は我々に取って代わろうとしている。仕事を引き継いでくれると言うのなら文句はない。だが、どうも金目当てのような気がしてしかたがないのだ。
 こちらから何一つ引き渡さない。あくまでも、ごり押しされた場合にかぎる。ただし、その時も粘れるだけ粘るつもりだ。思うに、日本の外交官たちは日本軍のやり方を恥ずかしく思っているいるらしい。だからドイツの旗がついた家が40軒も略奪にあい、しかもそのうち何軒も焼き払われたなどということはうやむやにしておきたいのだ。

 ぬかるみとゴミにまみれた通称ジーメンス・キャンプの我が庭のわら小屋の中で二晩続けて子どもが生まれた。男の子と女の子。こんな宿しか産婦に与えられない世の中なのだ。
 医者も、助産婦も、看護婦もいない。おむつもない。親たちの手には汚れたぼろきれ数枚だけ。私はそれぞれの親に10ドル贈った。「お礼に」と、女の子は「ドーラ」、男の子は「ジョニー」と名づけられた。いやあ、うれしいね!(ラーベの奥さんの名は「ドーラ」です。)


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月30日 木曜日
 男性の登録は今も続いている。5時前、寧海路に整列する人たちの声が聞こえた。私は6時30分に起床して、そして、すでに6時にはキャンパスの外で並んでいた男性教職員や使用人たちの列に加わった。・・・・・・・登録するための第一段階である行列は、四列縦隊の形ではるか漢口路まで続いていた。最前列の男性は、午前5時からずっと並んでいると言った。
 午後、ニューヨークと呉博士に電報を送ることができるかどうかを確かめるため、再び大使館に出向いた。依然として電報は打てなかったが、大使館員たちは、数日中にはアチソンが南京に戻ってくると期待している。・・・・・・・・
 校門を入ると、一人の母親がやってきて私の前にひざまずき、今日キャンパスで服務していた兵士が24歳の娘を連れ去った、と訴えた。私は、すぐに母親を連れて詹(せん)氏の家を訪ね、そのことを報告した。詹氏も日本大使館も、今夜のうちに娘を見つけるのは無理だが、明日の朝その兵士が特定されたら、厳しく処分されるだろう、と言った。大使館員によれば、6人の兵士がすでに厳しく懲罰されたそうだ。「処刑された」という意味で彼はそう言ったと思うが、定かではない。
 明日は17歳から30歳までの女性の登録が行われる。その目的が何なのか正確なところはわからないが、聞くところによると、一番活発に反日宣伝を行っている年齢層を把握するためだそうだ。女性たちはみな、このことでおびえているが、私にはどうもよくわからない。
 午後、王さんと刁(ちょう)さんは、日本大使館で開かれた会合に出席した。元日に大がかりな宴会、つまり歓迎会が行われるらしく、熱狂的な歓迎ぶりが中国人民に期待されているようだ。各地区からかなりの数の代表を出してもらいたいそうだ。目下、「自治政府」樹立に向けて準備が進んでいる。旧来の五色旗(中華民国旗)が使用されるらしい。明日古い旗を探してみよう。



「Imagine9」【合同出版】より

想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。

Imagine,
A peaceful world without war.

でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのかな
一つひとつ考えてみよう。

But,how can such a world be made?
let's think about it
.



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2008年12月29日月曜日

1937年 南京 12月29日

南京事件」(笠原著:岩波新書)より
【溧水県】12月、柘搪(しゃとう)鎮に日本軍は拠点を設置して駐屯、以後付近の農民が殺害され、婦女が強姦される(被害は日中戦争期間で村民29名が殺害、婦女28名が強姦された)。

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月29日
(本には29日の記述がありません。ここには28日の日記の後半部分を掲載します。)

フィッチにあてたフォスターのこの手紙を見れば、南京の状態が一発でわかる。この50体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだの一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。

 スマイスと私は、日本大使館に行き、福井氏や岡という少佐と2時間話し合った。岡少佐は、トラウトマン大使から私たちのことを頼まれているそうで、次のように言った。今南京にいるドイツ人は全部で5人だが、一緒に暮らしてもらえないか。そうすればこちらとしても保護しやすい。もしそれに賛成できない場合は、日本軍による保護をあきらめる旨一筆書いてもらいたい、と。私はきっぱり言った。「身の安全ということなら、中国人と同じでけっこうですよ。日本軍は中国人を保護すると約束しているんですからね。もしも中国人を見殺しにするつもりだったら、トラウトマン大使や他のドイツ人と一緒にさっさとクトゥー号で逃げていましたよ」
 岡少佐はいった。「私はあなた方の命を守るように頼まれているんです。それはともかく、日本兵に持ち物を奪われたり壊されたりしたことが証明できれば、政府が弁償するか、かわりのものを支給するかします。」それについては、ただ次のように答えるしかなかった。「南京陥落後の12月14日に委員会のメンバー全員で街を見まわりましたが、ドイツ人の家も持ち物も無事でした。略奪や放火、強姦、殺人、撲殺、こういうことが始まったのは日本軍が進駐してきてからです。誓ってもいいですがね。同じことはアメリカ人の財産にもいえるんですよ。舞い戻ってきた中国軍によって略奪された家はわずかで、みんな太平路にありました。その中には外国人の家は一軒もありませんでした。」・・・
・・・・・・・・・


 南京のことはどうか上海には黙っていてください、と福井氏から頼み込まれた。つまり、日本大使館にとって具合の悪いことは知らせないでくれということなのだ。私は請け合った。そうするほかないじゃないか?日本大使館を通さなければ手紙が出せないのだから。だが、いつの日かきっと、真実が白日のもとにさらされる日が来る。
 この時とばかり私は福井氏に、12月13日に銃殺された我が家の近くの中国兵の死体をいいかげんに埋葬するよう、軍部にかけあってくれないかと頼んでみた。福井氏は約束してくれた。

 それから、今後安全区に衛兵を派遣することになったと聞かされた。日本兵が入り込まないようするためだというのだ。あるとき私は、その衛兵とやらをじっくり観察してみた。日本兵は誰一人呼び止められるのでもなく尋問されるでもない。それどころか、奪ったものを抱えて日本兵が出てくるのを見てみぬふりしていることもある。これで「保護します」とは聞いて呆れる!



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月29日  水曜日
この地区及び、城内全域の多数の男性の登録が続いている。9時になるずっと前から校門のはるか向こうまで長蛇の列がつながっている。日本兵の態度は、今日は昨日にもまして厳しかった。昨日は、兵士であったことを自ら申告するよう求め、その場合には労働をさせて賃金を支払うことを約束した。今日は男性の手を調べて、疑わしいと思う者を選び出していた。もちろん、選び出された多くの者は兵士ではなかった。よろしくとりなしてほしいと頼みに来た母親や妻は数え切れない。
彼女たちの息子は仕立て職人であったり、製パン職人であったり、商人であった。残念ながら、私には何もしてやることができなかった。・・・・・・

・・・・・・・登録票は一般の日本兵士にたいしてはさほど効果がなく、彼らに破り捨てられた事例が何件かあるそうだ。
 午後、アメリカ大使館へ出かけた。今のところ外国人はまだ誰も南京に戻っていなかったし、彼らがいつ帰任できるのか、大使館は正確な情報を得ていない。今日に至るまで、私たちは依然として外界から遮断されているし、大使館員であれ商社員であれ、外部からいかなる外国人も入ってくることができない。南京が陥落してから2週間以上が経っている。軍用物資の輸送のため、上海への列車運行が開始されるそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・一人の女性が話しかけてきた。彼女は、郊外の国立競技場に近い孝陵衛からやってきた、と言った。彼女の話では、町は中国軍によって最初は一部が焼失し、そのあと日本兵によって完全に焼き払われたそうだ。10人家族のうち、あとに残されたのは彼女と彼女の夫、それに孫1人の3人だけである。息子2人、娘3人、嫁1人と孫1人は散りぢりになってしまい、どこにいるのか見当もつかないという。これは、毎日私たちが耳にする数多くの悲惨な話の一つに過ぎない。
 城内にいる兵士は少なくなっているので、略奪も減ってきている。もっとも、多少の略奪と焼き払いはあいかわらず続いている。ここの避難民もわずかながら減少している。登録のため、今日は粥の提供は一回しかできなかった。キャンパスは泥の海になっている。
 今夜も大使館の警官1名と女子学院の警備兵3名が任務についている。



「Imagine9」【合同出版】より

考えてみよう、

日本の憲法9条のこれから。


 日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
 2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。

 また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
 そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2008年12月28日日曜日

1937年 南京 12月28日

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
【江浦県】12月27日、日本軍40人が村々を捜索してまわり、農民や難民17人を殺害、婦女6人を強姦(『江浦県誌』)


「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月28日
 あいも変わらず、放火がくりかえされる!
 まるで重い病にでもかかっているようだ。おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。酔った勢いで、日本兵がますます乱暴を働くに決まっているからだ。心配するな、といいながらも、今ひとつ力がこもらない。それはそうだろう、そういう我々自身、自分の言葉を信じていないのだから!
 誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。そのため何万人もの人が登録所に詰めかけた。安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。
 私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。ここではハーゲンクロイツのついた私の車を知らない者はない。何とかして道を開けようとして、ぶつかり、押し合い、へし合いしている。・・・・・

 今日、方々から新たな報告が入った。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ。こうして文字にするのさえ、ためらわれるほどだ。難民はいくつかの学校に収容されている。登録前、元兵士がまぎれていたら申し出るように、との通告があった。保護してやるという約束だった。ただ、労働班に組み入れたいだけだ、と。何人か進み出た。ある所では、50人くらいだったという。
彼らは直ちに連れ去られた。生き延びた人の話によると、空き家に連れて行かれ、貴重品を奪われたあと素裸にされ、5人ずつしばられた。それから日本兵は中庭で薪に火をつけ、一組ずつ引きずり出して銃剣で刺したあと、生きたまま火の中に投げ込んだというのだ。そのうちの10人が逃げ延びて塀を飛び越え、群衆の中にまぎれこんだ。人々は喜んで服をくれたという。
 これと同じ内容の報告が3方面からあった。
もう一つの例。これはさっきより人数が多い。こちらは市の西部にある古代の墓地跡で突き刺されたらしい。ベイツはいまこれについても詳しく調べている。ただ、いざ報告する時には、誰から聞いたか分からないよう、よくよく気をつけなければならない。知らしてきた人にもしものことがあったら大変だ。
 フィッチが上海から手紙を受け取った。委員会に3万5千ドルの寄付が集まったというロータリークラブからの報告だ。金をもらっても仕方がない。必要なのは、人間、それもこちらに来て協力してくれる外国人なのだ。だが、日本軍は誰も南京に入れようとしない。
 日本大使館の役人は我々の立場をもう少しましなものにしたいと思っているようだ。
だが同じ日本人同士でも、こと軍部が相手だと歯が立たないらしい。すでに我々の耳に入っていることだが、軍部は日本=中国委員会を認めようとしない。これは、日本大使館が設けたもので、ちょうど我々の委員会のような性格のものだ。初めてここへ来た時、いみじくも福田氏が言っていた「軍部は南京を踏みにじろうとしています。けれども、我々は何とかしてそれを防ぎたいと考えています!」

 残念ながら福田、田中、福井の誰一人、軍部の考えを変えさせることはできなかった!



「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
12月28日 火曜日
 現在、登録期間という新しい段階を迎えようとしている。午前八時、女子学院が安全区第5地区の登録所になった。男性が先に登録されることになるらしい。キャンパスにいる男性を集めた。まず最初に、通訳を介して彼らに訓示があり、そのあと、以前兵士だった者は正直に申し出ること、その場合、危害を加えられることはないが、労働隊に入れられると説明があった。最近まで兵士であったという意味なのか、かつて兵士であったという意味なのか、私にははっきりはわからない。
最初に申し出た男は、Y.H.陳の奉仕者仲間の一人だった。彼が兵士だったのは最近のことではないということがその後わかったので、解放してもらうよう目下努力しているところだ。男性は4列縦隊に並び、登録票を渡されたあと、登録場所になっている陳春芳の家(キャンパスの北東隅にある)へ向かって行進した。私は興味があったので、男性の顔つきをしげしげと観察した。概して、彼らは、老人か大怪我をした人か、そうでなければ、足の不自由な人たちだった。なぜなら、登録に行かれるような若者たちは、みな死んでしまっていないからだ。

 そうこうしているうちに岡中佐が来訪した。彼は、すべてのアメリカ人を保護することを上海で約束してきたと強調したあと、私たちが一ヶ所にまとまって生活することを要求した。私たちとしては、責任ある各自の部署を離れるわけにはいかない、と彼に伝えた。中佐も私も、お互いに穏やかに丁重に振舞いながらも、きちんと主張し合い、ここまでのところでは、私の方がこの戦いに勝利した。
・・・・・・・・・・・・

 午後、ミルズが来訪した。彼の報告によれば、中国人の財産だけでなくあらゆる外国人の財産が、程度の差こそあれ、ほとんどすべて略奪されたそうだ。私たちの住宅に関しては被害は軽い方だ。もしも私が一度に4ヶ所ほどまわることができたなら、多分それらも持ち去られなかったろう。私たちが略奪をこうむったその責任は、すべて私にある。私の行動がのろすぎたからだ。・・・・・・・

・・・・・・・・・・
      赤字、アンダーラインは引用者ノブがしました。

[Imagine9」【合同出版】より

考えてみよう、

日本の憲法9条のこれから。


「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2008年12月27日土曜日

1937年 南京 12月27日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
12月27日
 サンタクロースのまねをしようと思い、126人いる難民の子どもたちに20セント硬貨を贈ることにした。ところがさんざんな目にあってしまった。・・・・・・・

 鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎこまれてきた。5ヶ所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ200人の元兵士がより分けられたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは、銃殺されたのではなく、銃剣で突き刺されたのだ。目下この方法が取られている。さもないと、我々外国人が機関銃の音に耳をそばだてて、なにかあったのか、とうるさいからだ。

 今日、張と韓が、新街口(ポツダム広場)に日中合弁商店ができて、ありとあらゆる食料品が買えると知らせに来た。私は韓と一緒に確かめに行った。そしてーはからずも、この建物に放火する現場を目撃したのだ!日本軍はこの街を破壊しようというのか!

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)
12月27日 月曜日
 今日は休息をとっている。この2日間気分がすぐれず、寝ているように、と友人たちが強く勧めてくれた。メリーがここにいてくれるおかげで休息がとれた。言い訳がたってありがたかった。
・・・・・・・・・


 城内では、依然として破壊が続いている。火災の煙がもうもうと立ち昇っているところを見ると、現在は北里門橋の方角が破壊されているようだ。南門から北里門橋までの間にある商店は軒並み略奪され、焼き払われてしまったのではないかと思う。略奪はいまやトラックを使って行われ、じゅうたんやベッドといった大きな備品が持ち去られている。それらは句容に運ばれているらしい。けさ校門内に入ってきた女性の話では、個人の住宅での略奪は依然として続いており、銅貨のような小銭さえも盗まれているそうだ。メリーによれば、日本兵がトラックで学院に乗り込み、少女3人を要求したが、彼女がその筋の手紙を見せると、出て行ったという。
 
 金陵女子文理学院が難民収容所としてどのような状態になっているかは、私の筆の力ではとうてい伝えることができない。清潔さを表彰するブルーリボン賞を学院が受賞できないのは言うまでもない。400人の避難民を初めて受け入れた時には、清潔保持という理想をもち、毎日部屋とホールの掃き掃除をさせ、紙くずを拾わせようと努力した。しかし、いまはそうではない。一万人余の避難民がいる状況では、キャンパスをトイレ代わりに使わないよう説得するだけで精一杯だ。芝生の部分を歩かせるというハリエットの理想は完全に実現されたが、その結果、芝生はほとんど残っておらず、多くの場所に、とりわけ、粥が配られている場所には泥の水溜りができている。
 樹木はいずれもむごたらしい使い方をされ、潅木の中には、踏みつけられて跡形もないところもある。晴れた日には決まって、木という木はは高い木も低い木も、手すりにも柵にもあちこちに、あらゆる種類と色のおむつやズボンがかけられている。キャンパスにやってくる外国人たちは、このような金陵女子文理学院は見たことがない、と笑い出す。
 今日までに赤ちゃんの誕生が14件、死亡が4件あった。ここでは看護婦は程先生しかおらず、先生はひどい過労に陥っている。


「Imagine9」【合同出版】より


世界は、

9条をえらび始めた。


・平和を探ることが人類の進化だと思います。
私たちが本気になって平和を模索しなければ、いろいろな問題は改善されるどころか、悪化してしまいます。(アメリカ、40代・女性)

・日本が軍隊を持たないという約束を破ろうとしているのではないかと、私はとても心配しています。日本政府が憲法9条を守り。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という決断を決して変えることがないことを願っています。(ベルギー、40代・男性)

・日本の皆さんが9条を世界に広げようとしている大義を、私たち、ケララ州コーチンの市民は、心から支持し、その取り組みに全面的に協力と支援をいたします。(インド、50代・女性)

・私の地域では、たえまない暴力が解決のめどもつかないまま50年間続いています。戦争は、プレイステーションのゲームではなく、マンガでもありません。あなたの愛する人の現実の死なのです。日本が戦争を放棄したことの意味を、もう一度見つめてください。(レバノン、20代・女性)

・武器や核兵器による絶え間ない脅威は、世界の病というべきものです。
私の国、コスタリカは武器をもたない国であり、世界のほかの国々も同じようにあるべきだと思います。現在の日本の憲法9条は非常に素晴らしいものであり、いかなる権力によってもこれは変えられるべきではないと思います。日本は永遠に平和な国として存在するべきです。
(コスタリカ、60代・男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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