731を問う!!
2020年1月8日水曜日
映画「ひろしま」を観て
映画「ひろしま」を観て 五井信治
この映画では、戦時中の大日本帝国の加害の事実が全く出てこないが、広島は軍都であり、日中戦争やアジア太平洋戦争戦争に大きな役割を果たしていた。
大久野島には、毒ガス工場が作られ、中国において、毒ガスを大量に使っていた。その軍都・広島に大日本帝国の敗色が濃くなった8月6日、アメリカはそれまでに巨費を投じて開発し、完成させた原子爆弾を投下した。
今まで、私は、原爆投下の際のきのこ雲の写真や映像は何度も見ているが、その時の広島にいた人たちの様子をリアルに表現した映画は初めて見た。人間が溶けて、階段に影だけが残るシーン、多くの人の皮膚がケロイド状になり、さ迷い歩き水を求めて川に入っていくシーン、原爆の恐ろしさを改めて強く感じた。
原爆の放射能を浴びて、生き残った人々も、すぐに治療される態勢は全くなく、壊れかけた建物に収容され、苦しんで死んでいき、その遺体は集められてガソリンをかけられ、燃やされた。原爆投下後、広島市から少し離れた似島(にのしま)の検疫所が、野戦病院となり、その建物に収容された人もいたが、そこでも患者がひしめき合い、勿論ベッドや包帯・医薬品などはほとんどない大変な惨状の中で、治療と言ったら、軟膏を塗ったりする程度のことしかできなかった。そこで死んだ人は、防空壕のようなところに無造作に葬られ、しゃれこうべになった。2018年時点でもその発掘調査が行われているという。
似島の近くの観光地宮島では、戦後、しゃもじとともに、そのしゃれこうべの模型が土産物として売られていたシーンに私は、寒気を感じた。
原爆投下前の広島には、大規模な空襲は無かった。アメリカが、広島を原爆投下の標的にしていたからだ。
8月6日、いつものように朝から勤労動員や学徒動員が広島では行われていた。そこに1発の原爆が投下され、広島は一瞬にして地獄と化した。
原爆の怖さは、一瞬にして多くの人々の命が奪われるだけでなく、被爆した人や、投下後に広島に救援に入った人々も、放射能の影響を受け、一生後遺症に悩まされることだ。ガンの多発(白血病など)などにおかされる。また、胎児にも影響し、2世、3世の健康問題にも影を落とす。
映画では、日本の原爆開発を進めていた仁科芳雄が、原爆投下後、広島に入り、現地を視察した後、軍部との会議の席上、「これは原子爆弾だ。」というと、軍部は「原子爆弾だと発表すると、民心に不安を与える」ということで、その発表はできないというシーンがあった。その当時の大本営発表も、大日本帝国に不利な情報は流さないように隠蔽をしていた。
悲惨な状況は、人間関係にも深いひびを入れる。2人の子ども(兄・妹)が、疎開先から広島に入り、原爆投下後に、父親を探し求めて、訪ね歩き、やっと収容所で、顔の変わった父親と対面するシーンがあった。お兄さんの方は父親と認め、「父さん!」と叫ぶが、妹の方は「父ちゃんじゃない」と叫んで、その場から立ち去ってしまう。そのまま、妹は行方不明になり、兄は、その後ずっと妹を探し続けることになる。このような、家庭崩壊もたくさんあってであろう。
戦後の日本は、日本国民自らが天皇の戦争責任を問うことなく、象徴天皇制と憲法9条をもつ憲法を作ったが、戦力を保持しないはずの日本が、朝鮮戦争が勃発すると、広島の街にも「軍艦マーチ」が流れ、工場では大砲の弾が作られていくという現実があった。若者は悩み、仕事をやめ、戦災孤児らを連れて、似島にわたり、防空壕に埋められた原爆被爆者の本物のしゃれこうべを掘り起こし、売ることを考えたが、それが警察に発覚し、取り調べを受けることになる。
戦後の広島では、私の想像もつかないいろいろなドラマが展開されたと思う。その一端を、この映画は垣間見させてくれた。
原爆投下直後、大日本帝国政府は、アメリカの原爆投下を非難したが、すぐに、現地に科学者や医学者を送り込み、原爆の威力調査し、2年以上かけて181冊の報告書を作成し、それを英訳して、アメリとの戦後処理の取引に使うことを画策する。そこには、被爆者を助けようとすることは一切なく、アメリカとの戦後処理の交渉を有利に進めることだけがあった。
1947年には、原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島に設置され、被爆の追跡調査だけが行われ、治療はほとんどされなかった。
この映画の公開された翌年の1954年には、ビキニ環礁で広島で落とされた原爆の核出力が1000倍の水爆実験(ブラボー実験)が行われ、第5福竜丸をはじめとする日本漁船の1000隻近くが、死の灰を浴び、被爆した。被害額は、事件が発覚した3月から8月までの6か月間で、26億円に達し、その後も増え続けていたが、日本政府が最終的に決着した金額は200万ドル(当時の為替レートで7億2千万円)だった。そして「この見舞金で、ビキニ事件のに関してのアメリカの責任を今後一切問わない」という政治決着をはかった。第5福竜丸の22人の乗組員には一人200万円前後が、その年に亡くなった久保山愛吉さんには550万円が慰謝料が支払われた。しかし、他の漁船で被爆した人たちには、慰謝料は無かった。また本土にも死の灰は降り、汚染された。
日本では原水爆禁止運動が市民を中心に巻き起こったが、日本政府は、アメリカの進める原子力の平和利用の政策を強力に推進し、科学技術庁を設置し、原発を次々に作っていった。勿論元731部隊員らはこれらの政策に積極的に動員され、活躍し、被爆の影響を矮小化している。
1955年末からは、「原子力平和利用博覧会」が日比谷で大々的に行われ、翌年に全国を巡回し、広島でも1956年の5月から6月にかけて行われる。その結果、2011年の福島第1原発事故が起こる前までは、54基の原発が日本で稼働し、2018年現在、約45tのプルトニウムを保有するまでになった。
広島・長崎に原爆が投下され、50年代にも、ビキニ等の核実験によって、また被爆をし、1999年の東海村JCOの臨界事故で死亡者を出し、そして2011年に福島第1原発の事故が起こった。、今まで、日本では多くの方々が被爆している。
「ひろしま」という映画で描かれた被爆者の悲惨さを思うと、2度と戦争は起こすものではないし、日本こそ、「核廃絶!、脱原発!」と叫ばなければ思う。この映画を通して多くの方に放射能の影響について、考えてもらいたい。
※参考資料
①原爆投下目前の広島には、大規模な空襲は無かった。広島を原爆投下の標的にしていたからだ。
映画にも、広島に空襲のサイレンだけがなって、空襲が無かった場面がありましたが。
ウキィペデアの日本への原子爆弾投下に以下のように書いてあります。
・・・
1945年5月28日、第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された[32]。
投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。
これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。
②勿論元731部隊員らはこれら【原発の平和利用】の政策積極的に動員され、活躍し、被爆の影響を矮小化している。
原爆投下後、日本は原爆の威力調査はやりましたが、アメリカも広島では比治山にABCCの支所を作って1947年から原爆傷害の調査を始めます。
このABCC(原爆傷害調査委員会)に協力するのか、国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)です。
そこの所長は、「教えてゲンさん」によると
*小林六造 (当時)京大教授、防疫研究室嘱託
(戦後)国立予防衛生研究所 初代所長
*小島三郎 (当時)東大伝染病研究所教授、栄1644部隊所属 サルモネラ菌の研究
(戦後)国立予防衛生研究所 第2代所長
文部省百日咳研究班員
*小宮義孝 (当時)華中衛生研究所(栄1644部隊関連)
(戦後)国立予防衛生研究所第4代所長
*柳沢謙 (当時)陸軍軍医学校防疫研究室で嘱託として結核研究 凍結乾燥BCG
(戦後)国立予防衛生研究所 第5代所長
*福見秀雄 (当時)陸軍軍医学校防疫研究室 インフルエンザ
(戦後)国立予防衛生研究所 第6代所長
文部省百日咳研究班員
(注)1951年、国立東京第一病院に入院中の乳児たちに、
両親に告知や許可を受けずに大腸菌を飲ませる実験を行なった
*村田良介 (当時)1644部隊
(戦後)国立予防衛生研究所 第7代所長
*宍戸亮 (当時)防疫研究所嘱託
(戦後)国立予防衛生研究所第8代所長
多くの731部隊関係者が予研の所長になり、1948年から、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式にABCCの調査プログラムに参加しています。
つまり、被爆者の治療をするのではなく、放射能の人体に対する影響を追跡調査をしたのでした。
所長が、731部隊関係者であることから、その他にも多くの隊員がいたと思われます。
また、1954年の3月1日のビキニでのブラボー実験で、第五福竜丸事件が起こると、元731部隊員の宮川正(レントゲン班の班長、当時横浜市立大教授)は、4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横決市内の上水道の放射性物質の測定を開始する。これが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部会の委員に任命されることになる。
(引用文献:ヒロシマからフクシマへ「戦後放射線影響調査の光と影」 堀田伸永)
勿論、放射能汚染を矮小化するためです。この人は1956年に東大医学部の教授になります。
(東大医学部放射線科・宮川正教授は退官記念講義で731部隊員だったことを曝露・追及された
:http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/109.html)
その他に、戦後復員して厚生省に入り、強制不妊手術を推進していた同じく元731部隊員の長友浪男は、1957~1958年に、科学技術庁(原発推進の官庁)に出向しています。
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