2018年7月1日日曜日

満洲天理村


満州天理村「生琉里」の記憶: 天理教と七三一部隊


目次
第1章 日本の宗教教団の大陸進出
第2章 天理教の教義と苦難の歴史
第3章 いざ満州へ―風間博の回想による満州「天理村」の実相
第4章 天理村と隣接した七三一部隊
第5章 ソ連参戦と七三一部隊の撤退
第6章 天理村からの逃走―ソ連国境の状勢そして敗戦
第7章 帰国への道

弾圧を受けながらも逞しく生き延び、満州に天理村を建設するに至った天理教団は七三一部隊にも協力していた! 満州開拓の裏にあった知られざる実態と驚くべき史実を、元開拓団員の赤…

評者:寺尾紗穂 / 朝⽇新聞掲載:2018年04月07日
満州天理村「生琉里」の記憶―天理教と七三一部隊 [著]エィミー・ツジモト
奈良の天理市に拠点を持つ天理教は戦前、旧満州に開拓団を送り込んだ。他の開拓団でもよく聞くように、満州人の家屋と畑をわずかな金で手放させ、そこに天理教の人々が移り住んだ。その村と日本軍の七三一部隊が隣接していたという。細菌戦研究のために人体実験を行っていた悪名高い部隊である。その研究棟建設時から天理村の男たちが労働力として借り出されていた。
本書では親子二代で、父親は建設に従事、息子は証拠隠滅のため殺害された「マルタ(人体実験用の捕虜はこう呼ばれた)」を数日にわたり焼却し、建屋を爆破したという証言が登場する。さらに、協力を強いられた天理村自体が、研究棟を超えて試験的に周辺に撒(ま)かれたペスト菌の被害を受けていたことにも本書は言及する。ペスト菌拡散に使われることになるハツカネズミの飼育は、関東軍から天理村小学校に飼育依頼がなされていた。読み進めるにつれて、ことの異常さが露呈していく。
宗教団体の戦争協力は天理教に限ったことではなく、戦後過ちを認めた団体も多くある。しかし、執拗(しつよう)な弾圧を受けてきた新興宗教の多くは、存続のための有効な方策として国家への協力を選んでおり、過去の反省もほとんどなされていないと著者は指摘する。天理教もまた「大陸開拓の聖業」をなした、として負の側面を多く語らない。「ひとはいちれつ みなきょうだい」という教祖中山みきの教えを胸に大陸に渡った信者たちが経験させられたことは、帝国主義の特筆すべき醜悪な側面であり、数少ない証言者の悲痛な告白が、単なる歴史の皮肉とは片付けられぬ、事実の重苦しさを伝える。
一見硬質な歴史本のように見えながら、証言者の痛切な思いが作品全体に血液のように巡っている。国家と宗教という問題のみならず、宗教と個人、「個人にとっての宗教」についても多くを問う意欲作である。

米国出身の国際ジャーナリスト。日系移民の歴史や捕虜問題などを取材。著書に『消えた遺骨』。

”満州天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶: 天理教と七三一部隊 ”
より
本書は、戦前の国家神道のもとで、政治がいかに宗教を利用していたか、それに呼応して宗教団体がいかに自らの教義をゆがめていったかを、天理教による満州移民の実態を通して記述したものだ。

日清日露戦争を経て日本は大陸に侵出してゆくが、昭和に入って満州事変から中国への侵略、傀儡国家としての満州国設立といった情勢の中で、日本政府は満州への移民政策を推進する。
こうした国策に呼応して天理教教団も移民の希望者を募り、信者を満州開拓団として送り出していった。
当時の日本の農村は困窮を極めていて、その一方で満州での開拓農業をバラ色に宣伝していたため、およそ3000人近くの信者が満州へ移民として渡っていった。
しかし、その実態は期待とは大きく外れるものだった。

開拓団の土地は元々満州人の農地であり、それを関東軍が半ば強制的にとりあげて日本からの移民に割り当てていた。
天理教信者の開拓団の村「生琉里」は周囲を壁て囲み、その外側には電流を通した鉄条網を敷き、鉄製の門には関東軍の兵士が警備するという物々しいものだった。
さらに移民たちには武器が貸与され、軍事教練も行われた。
つまり単なる移民ではなく武装移民であり、いざという時には関東軍の補完勢力となることが期待されていたのだ。

彼らは馴れない土地での農作業に励むが、さらに「生琉里」には不幸が待ち受けていた。
隣接した土地に、細菌兵器を開発するための731部隊の本部が建設されることになったのだ。
「生琉里」の中から男たちが731部隊の施設の建設に使役される。もちろん、当初はどういう施設かは知らされていなかったが、命にかけても秘密を守るよう指示され、彼らも特別の施設であることはうすうす気づく。
やがてトラックで次々と、「マルタ」と呼ばれる被験者が運ばれてくる。彼らは全員が生きてここを出ることはなかった。
すると「生琉里」の男たちの作業は、今度は死体処理になってゆく。来る日も来る日も穴を掘って中へ死体を投げ込み、その上に薪を並べて重油をそそぎ火をかけて燃やすという作業だ。
731部隊の「マルタ」というのは、中国人捕虜かと思っていたら、実際は違っていた。朝鮮人やロシア人も含まれ、なかには女学生や幼い少女、生後3ヶ月の幼児までいたのだ。細菌兵器の効果をあらゆる世代に試したかったんだろう。若い女性は性病の被検対象にされていた。
およそ3000人がこの施設で犠牲になったとある。

あまりのおぞましさに、読んでいるのが辛くなる。

ソ連が参戦してくると、今度は731部隊の痕跡を完全に無くすための作業に駆り出される。
生存していたマルタはみな青酸ガスで毒殺し、焼却する。
施設は各所の爆薬をしかけ、完全に爆破する。
この作業に従事した者だけは「生琉里」には戻さず、秘密は墓場まで持ってゆけという命令のもとに、特別の輸送ルートで日本へ帰国させた。

残された「生琉里」の人々にはさらに大きな苦難が襲う。
731部隊ではネズミを使った動物実験も行っていたので、そうした動物たちが隣接の「生琉里」の中に紛れ込んできて、細菌感染により最初は家畜、やがては開拓団の人たちからも死者が出てくる。
そして敗戦からソ連の参戦に至る過程では、ソ連人や現地人による日常的な略奪や暴行に遭う。日本政府からも関東軍からも見捨てられ、棄民にされてゆく。
そして、生きのびて日本へ引き揚げる苦難の道が、この先に待っている。

「生琉里」の生き残りの人たちの大半が口を閉ざす中で、著者のインタビューに応じてくれた風間博氏は、こう述べている。
「よその国に軍隊を持って入り、土地を取ってしまったら侵略なんや。中国の人には申し訳ないことをしたし、我々も辛かった。もう、こんな事を繰り返してはいかん。」
風間博氏はここに至った天理教教団の責任を追及しているが、教団は未だに認めていないとのこと。
天理教の「せかいは いちれつ みな きょうだい」という教義は、どこへ行ってしまったのか。

こうした不幸を二度と繰り返さすよう、こうした時代に二度と戻らぬよう、多くの方に読んで欲しいと願い、紹介した次第。


満洲天理村

アジア資料センターより
作成者名称(日本語) 在哈爾賓総領事 森島守人
資料作成年月日 昭和9年12月8日(1934/12/08)
画像数 54
組織歴/履歴(日本語) 外務省//在哈爾賓総領事//在満洲国大使
内容 一 昭和九年十二月十五日接受 普通第一八七八号 昭和九年十二月八日 在哈爾賓 総領事森島守人 外務大臣廣田弘毅殿 件名 私立天理村尋常高等小学校設立ニ関スル件 本件ニ関スル十二月七日付在満大使宛拙信公領第一七七八号写送付ス 公領第一七七八号 昭和九年十二月七日 在哈爾賓 総領事森島守人 在満洲国 特命全権大使菱刈?殿 私立天理村尋常高等小学校設立ニ関スル件 本年十一月初旬当館管内阿城県第三区天理村ニ移住シ来レル天理教青年会移民団(四三戸、二〇五名)家族子弟ニ対シ小学校教育ヲ施ス為右移民地ニ私立尋常高等小学校開設セラルルコトトナリ同校設立者天理村建設事務所長深谷?郎ヨリ設立認可申請アリタルニ付小学校令



歴史
満州天理村の出現
天理鉄道の連絡していた「天理村」は天理教信徒が入植した開拓地であった。元は清代の1806年に地元民による入植が行われ「永発屯」「福昌号」と称していたが、天理教の開拓団により新たに「天理村」が形成された。

中国での天理教信徒の活動は1905年頃から記録が見られるが、それから四半世紀ほどの間は宗教の布教活動という範囲に留まっていた。当時の天理教は地位が極めて不安定であり、神道事務局の傘下で神道の一派として扱われ、弾圧を何度も加えられていた。1908年に神道事務局から独立した後も散発的に弾圧が行われるなどしており、天理教全体が政府に強い反発を持っていた。

このことから国策である中国大陸進出にも批判的立場であったが、1931年頃に北海道・東北地方が大凶作となり、満州への開拓民入植が有効な経済政策と認識されるに至り、天理教内部からも満州への集団移住を行うべきとの意見が出されるようになった。また内務省からも天理教で国家的事業を行うことを提案されていたこともあり満州入植計画が具体化していった。

天理教の一機関である「天理教青年会」は1932年に入植地選定と購入を目的に役員を現地派遣、秋に哈爾浜市の郊外、松花江の支流・阿什河右岸地区を入植地と定めた。しかしこの地方は匪賊の活動が活発であり、独自の土地購入には危険が伴うとして、関東軍の依頼を受け土地買収を行っていた東亜勧業に依頼し、そららと共に買収作業を行うこととなった。

1934年1月16日、関東軍より開拓民の移民許可を受けた教団は、青年会員の中から信仰の篤い者を選び、移民団の結成を開始した。現地では5月26日に集落の起工式を行い、途中河川氾濫や匪賊の襲撃被害により工事が遅延しながらも完成、9月7日には上棟式を行った。「生琉里」(ふるさと)と命名された中央集落は中心部に教会を設置、その周りに村事務所・学校・診療所などの共用設備、さらにその左右に住居地を配置し小規模な城壁都市を形成していた。

ここに11月9日から入植が開始、翌1935年には入植者の増加によりもう一つ西側に「西生琉里」(にしふるさと)という集落を造成し、双方を合わせて「天理村」と称するようになった。

宗教団体による開拓村という特殊な性格に加え、当時の大消費地であった哈爾浜市近郊であり農産品の販売が好調であり順調に開拓が進められた。更に新規入植者に対しては希望に応じて1年後の出世払いでの融資を行うなど特異な制度は新聞でもたびたび取り上げられている。

天里屯・・・旧天理村の区画をそのまま使用している。




天理鉄道ウキペディアより
天理鉄道(てんりてつどう)は、満州国浜江省哈爾浜市(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)の満州国鉄三棵樹駅から、同省阿城県第三区天理村(現在の同省ハルビン市道外区民主郷天里屯)の天理村駅までを結ぶ私鉄路線を運営していた鉄道事業者、またはその路線。通称「天理村鉄道」で、時刻表などではこちらが使用された。
日本の近鉄天理線の前身となった「天理軽便鉄道」と名称が酷似しているが、両社は無関係である。

概要
当線の線形については不明点が多いが、三棵樹駅の東から出た後駅の北側を通る国道上を併用軌道で走り、4.2km地点から専用軌道となった後、南西側から天理村の西の集落・西生琉里(にしふるさと)を経て終点の天理村駅まで連絡していたことが判明している。

終点の天理村駅は天理村の中心地であったが、村全体が城壁都市のような造りの上に、その中に整然と住居を造りつけてあったため、駅は村の外側の平原に建設された。現存する写真によるとホームも低く土盛りをしただけのごく簡単な構造であり、ホーム上に「天理村」と書かれた駅名標2本と電柱が1本立っている簡素なものであった。ただし有効長と幅は大きめに設計されている。

路線データ
営業区間:三棵樹-天理村
路線距離(営業キロ):15.4km
軌間:762mm
駅数:6駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(ガソリン動力)
既述の通り営業キロ15.4kmのうち4.2kmは併用軌道となっている。日本では軽便鉄道の標準軌間である762mmを採用しているが、1000mm軌間のいわゆる「メーターゲージ」が多い中国では珍しい軌間となっている。

天理村軽便鉄道の開通
そんな天理村の大きな問題点が交通であった。哈爾浜市からの距離は約16kmと近距離であり、トラックによる輸送は他の開拓村に比べるとはるかに恵まれていた。

しかし哈爾浜市と連絡する国道は未舗装であったため、春季になると雪解け水により周囲の河川が氾濫、道路が水没することがしばしば発生していた。また匪賊の活動拠点であったため、その襲撃被害も少なからず発生している。

これらの問題を解決するため当初は新規道路の建設も提案されたが、最終的に軽便鉄道建設を行うことを決定、天理村村役場である「天理村事務所」が中心となり建設準備が推進された。そして1935年10月15日、満州国の私設鉄道法に依拠し、当時の村長・橋本正治を事業主とした三棵樹-天理村間の軽便鉄道「天理村軽便鉄道」敷設の特許を交通部に申請した。

建設に関しては関係資材を陸軍特務機関の協力を得て自己調達している。そのうち線路は経営難から満州国政府が補償買収し、廃止予定の斉昂軽便鉄路が使用している9kgレール・15kgレール(16kgレールとも)を満州国政府から譲渡されることとなっていた。

1936年6月26日、生琉里西門外の起工式により着工され、9月9日に交通部より特許が下りている。しかし工事を受注した業者が建設放棄を行うなどの問題も発生し、また資金難のために一時村から切り離して「哈爾浜産業鉄道股份有限公司」という会社を設立し、予定線より延長し賓県までの鉄道として再検討すべきとの異論も出され工事は難航、そのため西生琉里集落まで延伸した段階で工事を中断、1937年8月20日に三棵樹-西天理村間を先行開業させている。しかし開業に際して交通部への届出が行われず無断開業となっている。

交通部への届出を行い正式に営業認可が下りたのは同年12月14日であり、これと同時に西天理村-天理村間を開業させ、全線が開業した。

株式会社化
ところが開業直後、工期が延期されたことや、村の負債蓄積により村営での営業が困難となり、建設段階で提案された村と鉄道を分離させる案が再度提案された。今回は村側も経営分離を承認、天理村軽便鉄道は民営化されることになった。

当初は社名を「天理村鉄道股份有限公司」として会社設立が計画されたが、1938年1月の創立総会において、社名を「哈爾浜産業鉄道株式会社」とする株式会社として組織されることが決定、同年2月16日に会社設立の上鉄道を譲渡、天理村軽便鉄道は「哈爾浜産業鉄道」と改称され、1940年12月24日にはさらに「天理鉄道」と改称されている。

この間の鉄道営業の詳細は不明な点が多いが、ガソリン機関車が穀物袋を満載した無蓋車を多数連結して牽引する写真が残されている。また天理村では生産農産物品目が多く、また上述したように哈爾浜近郊という立地条件もありその営業は好調に推移したものと考えられている。

1942年4月1日から天理鉄道の経営は前年に設立された「天理村開拓協同組合」に委託され、そのまま終戦に至っている。

終戦後
終戦前後の営業形態に関しては戦後運行停止となっていること以外に終戦の混乱のために不明の点が非常に多い。

8月15日に日本がポツダム宣言を受諾すると、村を警備していた陸軍特務機関の兵士が退去し、村の治安維持機構が消滅。終戦の旨が満州に伝わり8月18日に満州国皇帝・愛新覚羅溥儀が退位して満州国が崩壊する頃には、匪賊の被害にたびたび遭うようになり、天理村の治安はかなり混乱したものとなった。

さらに8月27日になるとソ連軍が村に進駐し村人の一部を連行した。更に匪賊の襲撃もあり鉄道の運行が行える状態ではなく、少なくともこの時期までには運行を停止していたと考えられる。

旧天理村民はその後もソ連軍・匪賊のみならず中国共産党軍にまで攻撃される中、1946年9月13日に日本へ引揚げが開始された。しかし中国残留日本人、いわゆる「残留孤児」が発生し問題となっている。

旧天理村はそのまま接収され、現在も当時の区画のまま、村名も「天里屯」としてハルビン市道外区に属する行政区画として現存している。

年表
1934年(康徳元年)9月7日 - 満州天理村生琉里集落完成。
1934年(康徳元年)11月 - 天理教青年団による移民開始。
1935年(康徳2年)9月11日 - 満州天理村西生琉里集落完成。
1935年(康徳2年)10月15日 - 天理村事務所、「天理村軽便鉄道」として三棵樹-天理村間の鉄道敷設の特許を交通部に届出。
1936年(康徳3年)6月26日 - 生琉里西門外において起工式執行、工事開始。
1936年(康徳3年)9月9日 - 鉄道敷設特許。
1937年(康徳4年)8月20日 - 三棵樹-西天理村間開業。ただし届出なしの無断開業。
1937年(康徳4年)12月14日 - 営業認可。同時に西天理村-天理村間開業。
1938年(康徳5年)1月 - 村財政緊迫のため民営化決定。商号を「哈爾浜産業鉄道株式会社」とすることを決定。
1938年(康徳5年)2月16日 - 新会社に鉄道譲渡、「哈爾浜産業鉄道」となる。
1940年(康徳7年)12月24日 - 「天理鉄道」と改称。
1942年(康徳9年)4月1日 - 天理村開拓協同組合に経営委託。
1945年(康徳12年)8月9日 - ソビエト連邦軍、満州に侵攻開始。
1945年(康徳12年)8月15日 - 日本がポツダム宣言を受諾。この後、村を警護していた陸軍の特務機関の兵士が退去。匪賊の被害続出。
1945年(康徳12年)8月18日 - 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀退位。満州国崩壊。
1945年8月27日 - 村にソビエト連邦軍が侵攻、村人の一部を連行。匪賊の襲撃も発生。少なくともこの時点までに運行停止。



満洲における「神道」 -代表的な人物を例として

「満洲天理村」の「病気治し」の生き神
満洲で積極的に布教を行った天理教も、明治時代以降の重要な新宗教であった。1934 年にハルビン郊外にいた「開拓民」の信者は「天理村」という開拓村まで建設した。その村は「教派神道」の一団体として国家に認定されている。教団の二面性は、教義上の「普遍主義」と実際上の活動の「国家主義」に見出すことができる。農業移民を送ったり、村内で天照大神と明治天皇を奉斎する神社を建てたりし、日本の満洲開拓に精力的に協力する一方で、天理王命を中心に、自らの秩序に従った独立体制を作るという目的が明確である。天理村に新田石太郎という代表的な人物がいた。天理村の村長に中国の人を対象とした布教に出るように命じられ「布教師」に任命された。最初は村外の人とコミュニケーションがとれず、単独巡回布教者の厳しい生活を経験した。しかし、「病気治し」の能力のおかげで満洲に住んでいる信者を獲得し、1943 年に教会を建設し、約 2000 戸の中国人信者に「神様」のように慕われるようになった。敗戦後、中国人やソ連軍から被害を被った村の死傷者や、いわゆる「残留孤児」を援助したⅳ。新田石太郎の事例は、「教派神道」の教団の二面性を示すと同時に、満洲における単独布教と農民生活の厳しさを示している。また、天理教の布教者の活動を考察すれば、大本教の例と同様に「病気治し」と「千年王国主義」が近代日本の宗教の重要なポイントであったことが理解できる。



怪奇な存在ハルビン郊外の天理村

『満洲の移民村を訪ねて』足立茂藤英(1938)

九 怪奇な存在ハルビン郊外の天理村
 ハルビンには前述の訓練所と共にもう一つ移民視察者の視るべきものがある。
 天理教青年三十万人が一年一円の会費で今日を作ったと云われる天理教移民「天理村」である。天理村はハルビン東々北方三里半の地にあって、面積一千三百町歩、「生琉里(ふるさと)」と称する部落が、新旧二ヶ所あり、支那街の城郭の如き四角な壁にかこまれている。ハルビン滞在の一日、北満経済調査所に勤むる同窓佐藤武夫君と共にここを訪れた。多分九月一日だった。村民全部と遠くハルビンからも信者が集まって、月始めの礼拝が教会堂で行われていた。僕等はうっかり教会に入って信者と一緒に妙な踊りでもやらされては大変と、暫く外の芝生で礼拝の終るのを待った。天理村に行くには、ハルビン郊外浜北線の小駅、三棵樹(さんかじゅ)駅から軽便鉄道の便がある。この軽便は天理村経営のもので十万円の巨費を投じてついこの程開通したばかりのものである。天理村の経営が如何に大規模なものであるかは、この軽便によっても想像されよう。
 ここの村長は橋本正治氏といい、助役に元代議士馬場義興という変わった人がいる。なおおどろいたことには、我が同窓昭和四年農科卒業の、只野整助君が農務主任として働いていたことだ。只野君は剣道三段の猛者で、在学中は多分剣道の主将をやっていた人だ。僕の二年あとだが名前だけは記憶がある。最初僕は農専の専門家として天理教に雇われた位に思っていた。ところがそうではない。バリバリの信者で農事よりも伝道師の方が本職だという。
 昭和九年開村に当たって本部から派遣される直前までは郷里宮城県の気仙沼中学に教師をやっていた。信仰は少年時代からのことだという。夫婦揃って天理教の学校まで出ているというから驚くの外はない。
 天理村では只野君を始め、見るもの聞くもの全く我々に奇異の感を与える。この村では村民を「村方」と称し、七四戸、三百余名の人がいる。この移民は入植後四ヶ年一人の退団者もないことを誇りとし、流石信仰の団体だけのことはあるといわれている。村民の住宅等は極めて粗末であるが、教会堂を始め、中央の諸設備はなかなか立派で、拓務省移民※3に遥かに優るものがある。高等小学校、診療所、電報、電話まであり、ハルビンには販売所や、連絡所を持ち、なかでもハルビンという大市場まで軽便鉄道を持っていることは羨ましい。また村には自警団が組織され、在郷軍人分会もある。いま学校には五人の教師に六九人の生徒が学び、診療所には一名の女医に、二名の看護婦と二名の産婆がいる。
 次に営農状況を見るに、各戸ごとに西瓜(スイカ)、蔬菜(そさい)の如き換金作物を一町歩宛作り、余る耕地は本部の直営で、小麦、大豆、粟(あわ)、高粱(こうりゃん)の如き一般作および煙草の如き特殊作物を全部満人の雇用労力すなわち苦力(クーリー)を雇って経営している。今年の作は個人経営が六〇町歩、直営が四三〇町歩余りである。この営農計画は助役馬場氏の立案であるというが、直営の如きは驚くほど周密な計画の下に行われている。ピンからキリまでソロバンで割り出されているのだ。
 この点が、天理村は企業的だ、地主的だ、搾取農だとひどく一部から非難される点である。天理村は信者の奉仕献納によって成立しているときいていたが、対外的には徹底した打算で動いていることは奇妙に感ぜられる。今夏天理村で生産された水瓜(スイカ)は天理水瓜と銘うってハルビン市内至る所に売られている。きけば新京、チチハルにまで進出しているとのこと、さてどれほどの採算がとれているか? 商人上がりの馬場氏が如何にソロバンが上手でも、農業は商業と勝手が違う。決してソロバン通りにいっていないことは天理財政の内幕がかなり苦しく、ハルビンあたりで天理村の支払いが悪いのどうのととかくの噂を生んでいることでも察せられる。最近は営農資金を満拓から借り出して一息ついているという。天理村は金がいくらでもある様に見えるが、それは表面だけのこと。これは天理教青年会本部で立替え、三年据えおき二〇年間の償還となっておりこれが無利子だ。一年一六五円位宛の償還になり、十町歩の土地代をも含むものらしい。
 天理村は百万円計画で始まり、すでに七〇万円費やしたという。営農成績より村長の資金やりくり上手に世人は敬服している。軍関係では天理村を相当問題視しているとのことだ。ハルビン訓練所の飯島君の如きも糞みそに言っていた。曰く、
「只野君はロボットだ。馬場なんという男は大阪の綿布問屋上りじゃないか。あんな男に農業が判るものか、もう今秋あたりは暴動がおきて潰れて仕舞うから見ておれ」
と、一方馬場氏曰く、
「農業移民の理想型を自分が示して見せる。如何なる経済学者が束になって来ようとビクともしないぞ」と。
 天理村が一面企業的な営業方針をとっていることは、ハルビンという大市場を控えている場所柄無理からぬことである。ただ過度の雇用労力の使用、特殊作物に偏するやり方は、勢い投機的になり、健実な歩みを必要とする農業移民には危険であろう。また我が満州農業移民の根本精神にも反することであるから注意を要する。
 なお奇異に感じたことの一つは、この村の人たちのいずれも屈託のない、極めて楽天的な顔をしていることだ。信仰心によって安心立命を得ているせいかも知れぬ。かの国防を論じ国策をとなえ、眼じりをつり上げている拓務省移民にはややもすれば窮屈な悲壮な色が見られた。こういう、拓務省移民に慣れた僕等の眼には、何のくったくのないゲラゲラ笑っているこの村の人達の笑顔は気味悪い位に感ぜられた。何だか狐につまれた様な一日であった。












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