2017年1月20日金曜日

南京大虐殺=国家犯罪!!


●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦、核開発)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、731部隊での人体実験、また中国各地で行った細菌戦を闇に葬っている!!それだけではない、毒ガスのデータ、原爆開発のデータもアメリカに引き渡し、戦後はアメリカと共同で、極秘裏にCBR兵器の開発を進めている。国民にはその事実を隠蔽し続けている!!核兵器開発の為、原発を手放せないのではないか!!原発と自衛隊との関係はどうなっているのだろうか?〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器)、R(放射能兵器)〕



日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア

井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)

※井本熊男
・1935年(昭和10年)12月:大本営参謀本部作戦課に配属され、以降、一貫して、細菌戦に関して731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当となる
・1939年(昭和14年):支那派遣軍総参謀(作戦主任参謀)



寧波(ニンポー)細菌戦





地底からの叫び声が聞こえませんか??(「八紘一宇」のスローガンのもと行われた残虐行為!!)
731勿忘
731遺跡は日本軍国主義が細菌戦を行ったことの証しであり、
また、日本軍国主義がその犯罪行為の証拠を隠滅しようとしたことの証しでもある。
ー金成民(侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長)

侵華日軍第731部隊本部遺跡CG復元映像

常徳細菌戦



闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)



細菌戦裁判(1997年~2007年)



終戦50周年731部隊



細菌戦被害の人々




(毒ガス戦)
原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】
<終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造

日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)



暴かれる毒ガス戦の真実



(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)



(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


天皇は知っていた!!



澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!

『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。



石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。


これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。



次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。



石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。


石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)

東京初空襲・浙かん作戦

一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。

蛍石・・・・用途・加工法・・・古くから製鉄などにおいて融剤として用いられてきた。現在では望遠鏡や写真レンズ(特に望遠レンズ)などで、高性能化のための特殊材料としてキーパーツとなっている。フッ素の貯蔵に用いられることもある。

蛍石を採掘するのも、山東省、河南省、安徽省、江蘇省、浙江省などから強制連行された中国人だった。(約1700人)



1944年疫病がはやり、病気になったものは、隔離され食べ物も与えられず、餓死した。





蛍石の彫り物




赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!

1921年昭和天皇フランス視察

1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察


??A氏(731部隊幹部)の言うには、今事実関係を明らかにすると、それは戦争中の犯罪行為を暴露するだけにとどまらす、戦後の重大な犯罪事実までズルズル数珠つなぎに明らかになってしまうから、だから話が出来ない、ということなのです。??


・731と天皇の戦争犯罪
同じように、おそらく日本政府が恐れているのは、戦争中の日本軍の戦争犯罪が暴かれて賠償の問題になることだけではなく、暴露によって戦後の重大事実が明かになることなのではないかという疑いが大きくあります。
それと同時にもう1つ大きな問題は、天皇の戦争犯罪の問題です。私も鑑定書で書きましたが、中国・浙江省寧波で細菌作戦の時、昭和15年の11月に発令された「大陸指」というのがあります。杉山参謀総長名で出ているものです。その781号によると、大陸指690号によって目下実施中の特殊ガスの試験を大陸命第439号に基づく大陸指第781号を以って終わりにすると、11月末日で終了せよという命令が出ています。特殊ガス試験というのは細菌兵器の実施使用のことです。これは明かに細菌戦の命令指示です。
「大陸命」というのは大本営陸軍部命令の略ですが、天皇が発する命令です。
当時は普通御前会議で昭和天皇と陸軍部の参謀総長、海軍の軍令部長とそれと大体原則的には侍従武官長が列席して、お上に作戦を上奏します。それでOKということになると「大陸命」を作成するわけです。陸軍部がやるわけですが、その「大陸命」を作るとそれに基づき「大陸指」を作成してこれでよろしいかと、お上にお見せするのが慣例でした。いつも必ず見せていた。それでこの通りにというと「大陸指」という参謀総長の発する命令、指令が出るわけです。作戦によっては担当の大本営の担当者、参謀が直接天皇の前へ行って作戦を事細かに上奏、説明します。・・・・・・(中略)・・・・・
瀬島龍三という元大本営の参謀も、「陸軍は大陸命、海軍は大海命といいますが、それがないと軍の用兵は何1つ出来ない、参謀総長や軍令部総長といえども、そういう厳密な手続きを経なければ勝手に軍を動かすことは一切出来なかった」と言っています。ですから「大陸命」に基づいてというところが一番肝心なのですが、その内容はすべて昭和天皇の耳に入っていたということです。ここに731を何としてでも隠蔽しなければならなかった理由があります。・・・・(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)




・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!



夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)


細菌戦実施の新資料・金子論文を読む
シンポジウム:全記録 2012年2月29日

【司会】えーと、時間が5時までということなんですが、ちょっとぐらい延びてもよいということなので、パネリストのお三方からご発言をいただきたいと思います。順番で近藤昭二さん、松村さん、吉見さんという順序でいきたいと思います。

【松村】アメリカはフォート・デトリックが研究所ですけど、イギリスの場合はポートンダウンというところが細菌戦化学戦の研究所なんですね。ソールズベリーという田舎にある、もの凄い防衛で、今でもなかなか入れないんですけどね。ただその資料は、完全に公開されてるんです。ナショナル・アーカイブにあります。戦争中にどういうことをやったか。やっぱり人体実験もやってるんですね、イギリスも。731みたいなことはやってませんけど、やっぱり人体実験なんですね。その記録もあります。何トンとあるんですよ。私はイギリスに行く時に調べるんですけど、余りに多くて、隔靴掻痒で分からない。
 だからその位の資料が日本にも必ずあるんですね。石井部隊が焼却したとか、いろいろありますけども、それでも必ず、どこかにある筈なんですね。これが公開されないと、実態がなかなか分からないんじゃないかという事ですね。






小泉親彦(ちかひこ)



※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。






・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること

(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)





・パネル展





中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。
・細菌戦最大の被害地・浙江省を訪ねるスタディツアー

2016年10月24日 衢州(くしゅう)


2016年10月25日 麗水 (れいすい)


2016年10月25日(火) 麗水№2


2016年10月26日(水) 四路口(しろこう)



2016年10月27日(木) 武義、金華石門


2016年10月28日(金) 金華市街


2016年10月29日(土)義烏市崇山村


台湾義勇隊(金華 )


台湾義勇隊(上)抗日戦争:細菌戦


台湾義勇隊(下)(抗日戦争)


事前学習会


瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」






「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦




話は今につながっている!!

渡邊あきさんは満州の731部隊から無一文で引き揚げたのち、夫婦で食料品店を営みある程度繁盛したという。商売に忙殺され、子供たちを育て、戦後を必死で生きていく中で、部隊の事を思い出す間もなかったが、一方子どもたちにはそのことを隠し続けてきた。

石井隊長の戦後3



筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ


「ミドリ十字」という会社




内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月  厚生省


碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。

薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体


イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴


イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状





国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!


子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ



以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!

ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)


ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した[3]。
施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。
ABCCは調査が目的の機関であるため、
被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった[4]。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。





731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731の流れは国立予防衛生研究所(予研)→国立感染症研究所に姿を変えている!!
エイズ・エボラ出血熱・マーズ・サーズ新型インフルエンザなどの病気は、世界のこういった研究所で作られたのではないか??
一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか??
国立感染症研究所

国立感染症研究所

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!



731細菌部隊と帝銀事件との真相1

防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか???






ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永

第6章 原子力時代の「受忍」

原子力とともに

中泉正徳は、3月いっばいで東京大学医学部の教授を退官した。4月からは、入れ違いで、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教投となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委貝会」の5人の專門委員のひとりに任命された。宮川は、この年、原子力産業会議RI(ラジオアイソトープ)委貝、 日本放射性同位元素協会理事でもあった。


放射能汚染地図「川で何が起きているか?」



海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集



原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書



開示された文書「何で黒塗り?」








・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発を研究していた。陸軍は理研の仁科芳雄のもとで、海軍は京大の荒勝文策のもとで。戦後もアメリカと自衛隊の軍事交流によってその流れは加速している!!

核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も


潜在的核保有国化を目指す日本は、核兵器禁止条約制定目指す決議案に反対!!

非核3原則は嘘だった!!
※2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が明らかになった。
※非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。

日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!

なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか??


◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直

仁科らは確かにアメリカの呼びかけに応えたのである。


 では、アメリカの核の傘のもと日本独自には何をどうしようと、仁科は考えたのだろうか。上記史料に「勿論それはわが国で実現させ得ないのはいうまでもないことである」とあるように、日本がアメリカ同様の水爆保有国になろうとは、当然考えていなかった。ソ連の原爆実験成功のニュースに接するや、生まれたばかりの日本学術会議をうながして(1949年10月の第4回総会)、「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状にかんがみ、原子力に対する有効な国際管理の確立を要請する」[★13] との「原子力に対する国際管理の確立の要請」を出させたように、アメリカの核の傘の下、原子力の国際管理を実現し、そのもとでの原子力の平和利用に徹しようとしていた。当然、原子炉を稼働させれば必ずプルトニウムが蓄積される。核保有国になるのではなく、潜在的核保有国になろうとしていたのである。




湯川秀樹・・・(ウキペディアより)(中略)またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。
ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。

※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。


※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!


原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)








●毒ガス問題
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 北 宏一朗

海軍の毒ガス工場・相模海軍工廠 (寒川町)で、どのような化学兵器が作られていたのか、化学実験部=海軍技術研究所(平塚)では?





・「中国軍の公式報告によれば昭和12年より昭和20年に至る間中国における日本軍は1312回に亘り毒ガス及び細菌を使用せり・・・・」


毒ガスと抗がん剤(船瀬俊介VS内海聡)



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ



・日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より


・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

アメリカとの合同軍事演習が緊密化し盛んに行なわれているが、兵器の共同研究も進んでいるのではないか。日本の進んだミサイル技術は、アメリカで試されるという。いろいろな軍事技術の交流があるのだから、核兵器の技術も十分に手に入っているのではないか?

(時代背景)
1995年当時の内閣は、日本社会党の村山富市氏であった。村山氏はこのとき、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。
このときは、国民の関心が自衛隊に集まっている時であった。
その中での、地下鉄サリン事件、そして、自衛隊の出動・事件の対処がある意味称賛される。これは、何を意味するのだろうか?


死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。
地下鉄サリン事件



医学者とは1




松本サリン事件・地下鉄サリン事件が起きる前に、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護方法を熟知していたのは日本では自衛隊化学学校だけである。その自衛隊化学学校のサリン製造技術及び防護方法がオウムに漏れていたのではないか??

『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態(実物のサリンは持ち出せないが、データ資料の管理はどうなっていたのだろうか?)???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。


【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】

【この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。】
(『悪魔の白い霧』下里正樹著)

自衛隊は、毒ガスのデータを1950年代に米軍(米軍は、ナチスドイツの文献資料を日本から入手して毒ガスを製造)から入手し、開発を進めていた。

・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。


週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
 その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。








※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!


日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)


国会答弁書





●オウム真理教教と闘った男


富士河口湖町女性交流センター
「みずうみ通信」より
〈わが町の戦後史〉
~戦中・戦後の記憶をたどって~
シベリア抑留の一コマ(続)
富士ヶ嶺 竹内精一

日本に帰れる望みはなくなったのだから。奇克に着き、待っていた船に乗り、満州とソ連の国境を流れる幅千mもある大河を渡り、ソ連領におりた。再び行軍を続けて、炭鉱の町ライチイヒンスク市に着いた。10月20日で雪が降っていた。この収容所が1万人余りの人が生活する場所で、旧軍隊の組織そのままだったので、階級の下の兵は、殴られたり、上官の意見は良くても悪くても、従わなければならず、日が経つにつれて、不平不満は、物凄いものであった。しかも、1年目は、気候も厳しく、どうなるか不明で、敗戦の為、気力もなく、その上、食事さえ上官がピンハネするので、下に行くほど、少量になり、いつも空腹だった。話に出るのは、いつ帰れるとか、父母、兄弟、妻子の話や、食い物のことに終始していた。そのため、栄養失調で死亡する者は、召集兵や初年兵が多かったのを見れば、うなづけるものであった。このような状況から、2年目に入り、人員の多い下級兵士が集まり、反軍闘争を始めた。先ず階級章を廃止、軍の編成替えをすることを要求していった。流れは大きく動き出し、ソ連側も不測の事態を考え、将校は、全員1か所に移し、編成替えも行った。作業班長は選挙で選ぶことになり、私も、70名位の班の長に選ばれた。


・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
だが、このとき運び出された8300トンのサリンは、貯蔵量のほんの一部、知花弾薬庫には、まだまだ大量の神経ガスの残されてあった!!

日本軍の毒ガス被害



昭和天皇の“沖縄メッセージ”




●多磨霊園と大日本帝国



・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。



木戸幸一(きどこういち)

1889.7.18(明治22)~ 1977.4.6(昭和52)
昭和期の宮内政治家、侯爵
生い立ち[編集]
1889年7月18日に東京赤坂において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。
学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下にあたる。「学習院高等科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学へ行けというような話」があり、木戸、原田、織田は京都帝国大学法科大学政治学科に入学し、河上肇に私淑した。同校卒業後は農商務省へ入省した。農商務省が農林省と商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。
公職入り[編集]
1915年に農商務省に入り、工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。父の死去に伴い、1917年8月30日、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任した[1](1945年12月27日辞任[2])。
商工省では臨時産業合理局第一部長兼第二部長を務め、吉野信次と岸信介が起案した重要産業統制法を岸とともに実施した[3]。1930年、友人であった近衛文麿の抜擢により、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。
1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて日本の陸軍皇道派が起こした226事件では杉山元や東條英機をはじめとする陸軍統制派と連携して事件の処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、中央政治に関与するようになる。
1937年の第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣、1939年の平沼内閣で内務大臣を歴任する。文部大臣兼厚生大臣として1940年に開催予定であった東京オリンピックの開催権返上を決定したのが木戸である[4]。
1940年には近衛と有馬頼寧とともに「新党樹立に関する覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった。
1940年から1945年に内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードした。親英米派でも自由主義者でもなかったが、親独派として知られた。几帳面な官僚主義的性格の持ち主で、天皇の信頼は厚かった。西園寺が首班指名を辞退したのちは、幸一が重臣会議を主催して首班を決定する政治慣習が定着、終戦直後にいたるまで後継総理の推薦には幸一の意向・判断が重要となる。とりわけ1940年11月に西園寺が死去したのちは、木戸は首班指名の最重要人物となった。
東條の首班指名[編集]
開戦の是非を巡る近衛と陸海軍との軋轢と、日米交渉の行き詰まりによって第3次近衛内閣は1941年10月に総辞職した。後継候補としては、陸軍将官でもあった東久邇宮稔彦王による皇族内閣が東條も含めた広い支持を集めており、近衛もこの案を昭和天皇に奏上した。ところが天皇は「若し皇族総理の際、万一戦争が起こると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思つた」ために否定的であった。そこで内大臣室にて辞表提出後の近衛と後継について密談した木戸は、及川古志郎海相と東條英機陸相の名を挙げるも、及川では陸軍が陸相を出さないだろうと反論される。こうして後継候補決定に最も影響力を有する2人の間では東條指名で固まった。
同月17日に宮中で開かれた重臣会議において、林銑十郎から東久邇宮の出馬を求める声が挙がった。これに対し、「万一皇族内閣の決定が、開戦ということになった場合を考えると、皇室をして国民の怨府たらしむる恐れなきにあらず」と述べ反対した木戸が東條を推す。すると若槻禮次郎には、東條では外国に対する印象が悪くなる、木戸の考えは「やけのやん八」ではないか、と反論された。かといって及川では陸軍の同意が得られぬと、海軍出身の岡田啓介と米内光政が述べると、代わりの宇垣一成であっても同様と阿部信行が発言した。他にこれといった人物も挙がらぬ中、最終的に阿部、広田弘毅、原嘉道からの賛同を得た木戸は、その日の午後に天皇へ東條を後継内閣首班とすることを奉答した。
木戸が東條を推挙した理由としては様々な説が唱えられてきた。木戸は戦後になって、当時既に対米戦争の開戦と敗北は必至であるとみており、皇族が開戦時の首相では問題になると考えたと述べている。「対米開戦を主張する陸軍を抑えるには現役陸軍大臣で実力者である東條を使うしかなく、また東條の昭和天皇に対する忠誠心は非常に強いので、首相になれば天皇の意向に沿って開戦反対に全力を尽くしてくれるだろう」との考慮があったとされることも多い。昭和天皇も東條の首班指名を聞いて「虎穴にいらずんば虎子を得ずだね」とコメントしていることもこの説の傍証となっている。
木戸も日米戦争の焦点となった支那駐兵問題について、撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の杉山元参謀総長や東條英機陸軍大臣とは連帯関係にあった。
第二次世界大戦初期こそ東條内閣を支えたが、戦局が不利になると和平派重臣と提携して東條を見限り、和平工作に傾倒した。東條内閣、小磯内閣の総辞職を経た戦争末期には、重光葵と2人で終戦工作に取り組み、昭和20年(1945年)6月には和平方針案の「木戸試案」を作成、鈴木貫太郎内閣の面々や陸海軍に和平方針を説いて回るなど、和平派の中心人物の一人として動いた。徹底抗戦を主張する陸軍に「木戸試案」を納得させたことで和平への動きは大きく高まることになった。その反面、暗殺計画が持ち上がるほど本土決戦派から疎まれた木戸は、8月15日未明には、横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長として横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、平沼や鈴木と同様に自宅を焼き討ちされた(宮城事件)。
極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇の戦争責任などに関して、自らの日記(『木戸日記』)などを証拠として提示した。東京裁判期の日記と併せ公刊されている(東京大学出版会)。日本語で372枚にも及ぶ宣誓供述書で「隠すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が軍国主義者と戦い、政治的には非力であったかを述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いた。しかし、結果的には連合国との開戦に対して明確に反対しなかったことから、イギリス代表検事であるアーサー・S・コミンズ・カーからは、「“天皇の秘書”であるなら、親英米派であった天皇の意向に沿って行動するのが道徳であろう」として、「不忠の人間」であると強く批判された。結局、木戸の日記や証言は天皇免訴の決定的証拠にはならず、東條の証言によって天皇の免訴は最終的に決定することになった。
この『木戸日記』は、軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、軍人被告の激しい怒りを買うことになった。武藤章や佐藤賢了は、巣鴨拘置所と法廷を往復するバスの中で、幸一のことを指差しながら同乗の笹川良一に向かって「笹川君! こんな嘘吐き野郎はいないよ。我々軍人が悪く言われる事は、別に腹は立たんが、『戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました』とは、なんという事をいう奴だ。この大馬鹿野郎が」と吐き捨て、それを聞いていた橋本欣五郎も「本来ならこんな奴は締め上げてくれるんだが、今はそれもできんでね」と罵り、幸一もこの時ばかりは、顔を真っ赤にして俯きながら手持ちの新聞紙で顔を覆い隠したという。
その木戸も終身禁固刑の判決を受け、服役する。なお、幸一に対する判事団のジャッジは、荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れたという結果だった。

晩年[編集]
1955年に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退する。後に青山のマンションに転居する。1969年、傘寿の際には、昭和天皇から賜杖を下賜されている。1974年製作の海外ドキュメンタリー『秘録 第二次世界大戦』のインタビューに出演している。
1977年4月6日、宮内庁病院で胆汁性肝硬変のため87歳で没した。遺骨は東京都府中市多磨町の多磨霊園に埋葬された。
発言[編集]
戦後(1945年11月)のインタビューの中で、次のように証言している。「陛下や私があの原子爆弾に依つて得た感じは、待ちに待つた終戦断行の好機を此処に与へられたと言ふのであつた。それらの心理的衝撃を利用して此の際断行すれば、終戦はどうやら出来るのではないかと考へたのだ。……私ども和平派はあれに拠つて終戦運動を援助して貰つた格好である」。こうして、原爆は和平派にとって、戦争終結という大目的のために政治的に利用すべき「口実」として「非常に好都合なもの」(鈴木貫太郎首相)であった[6]。つまり日本の和平派が軍部の強硬派から襲撃を受けず、終戦の機会を得たことを意味している。
1945年(昭和20年)3月3日、宗像久敬に対して、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け入れてもよい、という話をしている。さらに「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国位のものではないか」とし、「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることになるのではないか」と述べている。(「宗像久敬日記」)






●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!

防御の為と言って、毒ガスを製造しているのだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
自衛隊の新任務 「支持しない」が半数以上

PKO派遣部隊130人、青森から南スーダンへ出発
自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!




お役人のお仕事・・・いかにまずい資料を隠すか??
お粗末な日本政府の情報公開



この情報公開裁判で「衛生学校記事」「化学学校記事」等の公開を求めているが、それらにはどのような記述がみられるのか。特に核兵器については、どのような部署で防護の研究が行われているのだろうか。日本は、唯一の被爆国でありながら、その悲惨な状況を国民に知らせることはなかった。日本政府、学術会議等のリーダーたちは、加害の事実をことごとく隠蔽し、戦争の反省を深くすることなく、アメリカの傘下に入り、再軍備に走っていることが下記の論文から、よくわかる。また、原発と自衛隊の関係はどうなっているのだろうか。防衛省は、「衛生学校記事」「化学学校記事」等を全面公開をし、防衛費を増額していったい何をやっているのか、しっかりと国民に伝える義務がある!!憲法9条を全く無視していないか??

敗戦前の隠蔽工作、そして戦後の核・ミサイル開発

新妻清一(1945年1月において陸軍省軍務局軍事課課員)について
・・・さらに(1945年8月)13日に新妻は広島を離れるが、東京に戻ると8月15日付けで「特殊研究処理要領」を軍事課名でまとめ、関係方面に通知した。その内容は、「一 方針 敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急措置ス」とし、「二 実施要項」で、ふ号登戸関係、731部隊、100部隊等に連絡するよう指示している。
このように新妻は広島に投下された兵器が原爆であることを熟知していたにもかかわらず、その事実を隠蔽し、一般に知らせることを避け、それと同時に登戸研究所、731部隊等陸軍の秘密研究の隠滅も図ったのである。



5、敗戦後の新妻―米軍の監視対象者から自衛隊の幹部へ
新妻は敗戦後米軍の監視対象者となり、731部隊やウランの保有量等様々な問題について尋問されたが、徹底した事実の隠蔽を図った。彼がサンダースから尋問を受けていたまさにその時期、45年11月10日付けの八木秀次からの手紙を受け取っている。それは雑誌『科学知識』が原子力や原爆の特集号を出すにあたって、新妻に原稿を依頼するものであった。その手紙で八木は新妻について次のように述べている。

寄稿を願うべき方として仁科博士に9月初め頃お願いいたしたることあり、総合的に原子爆弾については貴官が中心となり居られることと承知いたします。

八木は戦時期に軍と学会をつなぐ役割を果たした人物であり、彼が仁科に新妻を紹介されたということは、新妻が深く軍の原爆研究に関わっていたことを示すものと言えよう。
このように新妻は電波兵器の開発と原爆研究に深くかかわっていた。その知識と経験によって、新妻は戦後自衛隊で再び役割を担うことになる。

新妻は敗戦後第一復員局において旧軍関係の業務の処理に当たり、1954年には防衛技術研究所に入所し、企画室において企画業務に従事した。翌1955年には防衛研究所教官兼務となる。以後新妻は核及びミサイル、レーダー関連の専門家として活躍することになる。
(「核とミサイルに関する新妻清一関連資料」(1) 軍事史研究グループ(松村高夫、兒嶋俊郎)より



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!

答申が出るまでになんと4年のかかっている!!その間、防衛省は、審査会にどんな返答をしていたのか?全く無視していたのか?
防衛省と規模がでかくなって、何をやっているのか、全く見えない省である。すべて秘密裏に行っている??



情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

12月21日(水)『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』の公開を求める裁判が東京地裁522号法廷でありました。
最初は、情報公開法でその2点を開示請求していたのですが、保有していないことを理由に、行政文書不開示を防衛省は決定しました。それに対し、原告は、行政不服審査法に基づき異議申し立てをしました。その審議会が、防衛省の意向に沿って、不開示は正当であるとの結論を出すまでに、4年も年月をかけているのです。全く何もやっていなかったのではと思ってしまいます。防衛省と審査会とのやり取りはどんなことがあったのか、4年間の経過をきちんと説明してくださいと、弁護士は切実に訴えました。また原告は、いまだに、細菌戦被害・毒ガス被害で悩む中国の被害者のためにも、きちんと公開すべきだと陳述しました。
化学学校記事の第12号には、杉田論文「自衛隊員が語る旧軍技術研究」として次のような細菌戦に関する記述があります。
「-日本は1931年(昭和6年)満州に細菌戦遂行のため〈731〉部隊を編成した。研究所、部隊は逐次整備され1935年(昭和10年)には、ねずみ2000匹を使用してノミを飼育し、ペスト菌の培養量だけでも毎日10㎏に及んだ。
1938年 華中戦線 細菌大量使用
1939年 ノモンハン 細菌大量使用
1940年 重慶爆撃 ペスト菌、コレラ菌使用
1941年 湖南省 細菌作戦
1943年 華中、華北 細菌作戦
その戦績は、衛生部隊としてかつてない大きな成果をあげたとして感謝状36回授与にみられる」

今、現在の研究では、細菌戦を始めたとされるのは1939年のノモンハン事件の時です。この論文が確かだと、ノモンハン事件の前に細菌戦が38年に華中で行われていたこと、また、重慶でも細菌戦が実施されていたこと、1942年の浙贛作戦以降の43年にも細菌戦が行われていることになります。

今、まさに、この『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』『衛生学校記事』そして『731部隊関連資料』の全面公開を実現させ、細菌戦・化学戦の戦中・戦後の実態を解明し、今の日本の現状でいいのかを考える時に来ています。
米軍と共同でCBR兵器の開発を密かに行なってはいないのか?非核3原則を唱えながら、防御のためと言いつつ、裏で何を行っているのだろうか。明らかにしたい!!
〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器=細菌兵器等)、R(放射能兵器=核兵器)〕、防衛省は国民にその実態を明らかにしなければなりません。
憲法9条はないがしろにされ、軍事研究がどんどんとスピードアップされている現状を打破しなければと強く思います!!

次回、『化学学校記事』情報公開裁判は、3月1日午前11時~東京地裁522法廷、傍聴よろしくお願いします。







審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??

裁判所の決定




「ABC企画ニュース」より


10月11日(火)14:00から、東京地裁419号法廷で、第12回目の防衛省の『衛生学校記事』の公開を求める裁判が行われました。岩井裁判長は、被告の防衛省に対し、詳しく調べるように、具体的な名前まで挙げ(防衛省が管轄する図書館のすべて、例えば、衛生学校図書館、彰古館等)さらに防衛省の外局も調べるように、また、あった場合は、その経緯も報告するように命じました。
また、ある程度時間がかかってもよいということで、よく調べてくださいということでした。
原告側からは、防衛研究所にある資料と金原節三目録の資料とは同じではないかということで、同一のものであることも確認してくださいということが付け加えられました。
 次回の裁判は2017年の2月28日(火)東京地裁419号法廷



「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。満州事変を起こしたあの謀略戦争の開始、あれは関東軍が先走ったと言われているが、その関東軍の上層の命令が無ければ出来ない、そして結果的には大元帥陛下、天皇が承認しなければ出来ない、そういう組織が日本の軍隊だ!!





●『日本の国家機密』(秘密国家日本の実態)
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より

第2篇  自衛隊の機密

第3章 防衛力整備



2  年度業務計画と予算

業務計画の構成

 防衛力整備5ヵ年計画を年度ごとに具体化したものが業務計画である。したがって業務計画には、作戦用兵に関するものは含まれない。業務計画を毎年、作成しているのは、陸海空各自衛隊と統幕会議、技術研究本部、調達実施本部および防衛施設庁である。
 業務計画制度は米軍から導入されたもので、1951年12月、「警察予備隊の綜合業務計画に関する訓令」が定められ、これにもとづき翌52年2月「警察予備隊の業務計画に関する隊則」が制定された。

侵略戦争の反省に立って、憲法9条にのっとり、世界をリードできないものか??




●現在の日本

日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
戦後、全く戦争の反省をしないばかりか、あの戦争を肯定しようとしているのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造(チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。)→山下俊一(福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。)

日本の原爆開発




核融合はやるべきではない!!

この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?



”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)


科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中にさせられる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』






●南京大虐殺
・南京大虐殺から80年、今年の12月13日は、80年前の日中戦争で南京が陥落した日だ。そして、虐殺が始まる。(もちろん、南京に至る過程でも、残虐行為を繰り返していた!)

12、南京攻略に反対した参謀本部
11月中旬、日本軍は上海全域を制圧した。上海派遣軍の本来の作戦目的だった。
陸軍中央にとっては、上海派遣軍の士気の低下、軍紀の弛緩、不法行為の激発が深刻な問題になっていた。
11月15日、第10軍は軍主力をもって独断南京追撃を敢行することを決定。20日、参謀本部に第10軍から、「集団は19日朝、全力をもって南京に向かってする追撃を命令」という報告が届く。
11月24日、中支那方面軍から「南京を攻略するを要す」という意見書が参謀本部に届く。
11月20日、大本営が設置される。
11月24日、第1回大本営御前会議が開かれる。

外務省は、持っている情報をきちんと開示せよ!!
ある書物には、こう書いてあるが、この真偽はいかがなものか?
「1938年の1月17日に、廣田弘毅外務大臣は東京からワシントンDCの連絡員に次のような電文を転送したが、それをアメリカの情報機関が傍受し、暗号を解読してから、1938年2月1日に英語に翻訳した。

数日前に上海に戻ってから、私は南京やその他の地区で日本軍によって行われていると報告されている虐殺行為を調査した。信頼できる目撃者の口頭の説明と、信頼性について疑念の余地のない人たちの手紙により、日本軍がフン族のアッチラを思わせるような態度で振舞ってきて、現在もそういう風に振舞っているという確証を得ることができる。30万人を下ることがない中国の民間人が殺戮された。そのほとんどは血も凍るようなことだ。」


南京の情報を遮断するために、海軍はパナイ号は故意に撃沈した?

「そこで電報を(漢口にいる蒋に)打ち、同時に東京へ一通送る必要があった。電文が起草され、ベイツと僕とでそれを携えて“パナイ”号へ行ったのだが、・・・・・・その翌日“パナイ”号はさらに上流へと出発し・・・時ならぬ終着駅でもある処へと向かった。あらゆる通信がかくして切断され、僕らはそれ以上停戦を促す何事もなしえなかった。(ミルス:「夫人への手紙」より)

パナイ号撃沈


安倍首相は、なぜ中国へ行って謝罪しない??パールハーバーよりも先ではないか!!

当時、南京にいたアメリカ人牧師マギーがとらえた南京虐殺
フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」


マギーフィルム(日本語訳付き)



フィッチ

フィッチ(George Ashmore Fitch)が中国の蘇州で1883年に生まれたのは、長老教会の宣教師ジョージ・フィジーとメアリー・マックレランとの子としてであった。1906年にウースター・カレッジで文学士号を得、続いてニューヨークのユニオン神学校に進んだ。1909年に按手礼を受けて中国へ戻り、上海青年会で働いた。
南京虐殺の時期には、フィッチは南京青年会の責任者だった。南京安全区国際委員会の働きに積極的に参与し、安全区の総幹事となった。南京大虐殺に関する彼の日記が、1937年12月13日に南京が陥落した後初めてこの地を離れる許可を得た外国人によって上海へ持ち出された。フィッチが書いているように、「私の物語が上海でセンセーションを引き起こしたのは、首都失陥後のそこの情況についての最初のニュースだったからで、コピーされ印刷されて広範囲に伝わった」。
1938年にフィッチはアメリカ各地を旅行し、南京大虐殺を紹介し記録フィルムを放映した。中国に戻ってYMCAや国際連盟の救援本部で奉仕し、続いて朝鮮と台湾のYMCAで働き、1961年に隠退した。
本書には彼の日記と友人宛の書簡2通が収録してある。


ピーター氏への手紙(1938年2月14日)
親愛なるピーターさん:
僕はもともとは僕らで学校を活用して、時が来たら何か計画し、そこで旅館でもやったらと思っていたんだが、現在の事態の進展の具合から見て、1個の協会としては、たとい何か役に立つことをする機会があったとしても、ほとんど期待できない。経費の点が言うまでもなく、もっとも難しい問題になっていて―ここには僕らを支援してもらえる選民はいないようで、(YMCA)全国委員会にも、ほんのわずか戦時緊急救援活動に使えるお金があるだけなんだ。僕としてはしぶしぶだったけど、最終的にはやはり、僕らのここでの目下の働きを停止するのに、同意したんだ。理事会がもう1つの難題で―今のところは、理事会のメンバーは1人も南京にいなくて、誰かがここへ戻ってくるには、まだまだ長い時間がかかると、僕は思っている。
 人員についてだが―王廷とS.Y.張とだけがここにいた職員で、他にも用務員さんが17名いた。僕と王廷とが目下のところ安全区委員会で奉仕していて、全国委員会が張と用務員2名とに財産管理の賃金を出している。その他の用務員はみんな辞めさせ、賃金は1月中旬まで出したが、そのうちの2人、何〔Hu〕くんと李じい(音訳)とには、委員会の本部で働かせている。用務員3人に学校を清掃させていたが、今月の末にはやはり辞めさせねばならない。




しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分




昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・

(日中戦争)『昭和天皇』「上」(ハーバード・ビックス著:講談社学術文庫より)
近衛は、すぐに日中戦争に関する第2次声明を、1938年11月3日に発表した。日本は「東亜新秩序」の建設を目標とすることを堅持しつつも、それは国民党政府の参加を拒むものではないと宣言したのである。7週間後の12月22日、近衛は重要な第3回めの声明を出し、その後日本の戦争目的と考えらるようになる「近衛三原則」を明らかにした。第1に中国は満州国を正式に承認し、「善隣友好」関係を確立しなけれならない。これは暗に中国が抗日活動を止めることを示唆していた。第2に、中国は日本と共同して共産党と闘わなけれならない。これは日本が中国内に軍隊を駐留させる権利を得ることを意味した。第3は両政府間で広範な経済提携が図られなければならないということであり、華北ならびに内蒙古の天然資源を開発する日本の権利を承認することを含んでいた。


軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)

※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)



お粗末な日本政府の情報公開








※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景



※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。








●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん


2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。



<克明な記録に圧倒>
 残留孤児という名前は承知しているが、その悲劇の主人公がどう生きてきたのか、まったく知らない日本人ばかりであるが、その疑問に「この生あるは」は、一つの回答を与えている。
 いえることは、中島さんは実に幸運な中国生活を過ごしてきたことが理解できる。克明な記録に圧倒される。幼少の記録を多くの人間にとって記憶にないかわずかだ。異常な運命が、それを克服したものであろうか。
 70年前の人々が、現代に生き生きと蘇っている。


発売元 亜東書店 03-3835-7091 
中国語版 北京三聯書店「何有此生」







●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
医学者とは5


ガン治療のウラ 8/8





●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十七章  静穏な晩年と昭和の遺産

52年6月、天皇は伊勢神宮を、7月には明治神宮を参拝した。10月16日には、彼はとうとう靖国神社の参拝を復活させた。その後1975年までに彼は靖国神社を8回訪れている。まるで占領も改革も全くなかったかのようであった。彼は、靖国神社が戦争に宗教的エネルギーを注ぎ込む役を果たしたため国家から切り離されたことなど、完全に無視したのである。



●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第五章
ペリー来航(9)
(その1)


内的恐怖

ビドゥル提督の不法侵入のわずか数週間前、学習院の教育のもとで成長した最初の天皇が皇位に就いていた。その名は孝明(こうめい)天皇といい、強健、粗野かつ男前で傲慢な16歳の若者だった。彼は1800年前の最初の天皇、神武のように、細長顔に鼻梁の張った大きな鼻をもっていた。一世紀を費やした古典的学問に鼓舞されて、彼は熱心な神道信者となっており、長く飼いならされ休眠していた彼の家系の、生来の戦争の才能を信じていた。




昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に

























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