731を問う!!
2017年1月19日木曜日
南京大虐殺=国家犯罪!!
●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦、核開発)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、731部隊での人体実験、また中国各地で行った細菌戦を闇に葬っている!!それだけではない、毒ガスのデータ、原爆開発のデータもアメリカに引き渡し、戦後はアメリカと共同で、極秘裏にCBR兵器の開発を進めている。国民にはその事実を隠蔽し続けている!!核兵器開発の為、原発を手放せないのではないか!!原発と自衛隊との関係はどうなっているのだろうか?〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器)、R(放射能兵器)〕
日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア
井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)
※井本熊男
・1935年(昭和10年)12月:大本営参謀本部作戦課に配属され、以降、一貫して、細菌戦に関して731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当となる
・1939年(昭和14年):支那派遣軍総参謀(作戦主任参謀)
寧波(ニンポー)細菌戦
地底からの叫び声が聞こえませんか??(「八紘一宇」のスローガンのもと行われた残虐行為!!)
731勿忘
731遺跡は日本軍国主義が細菌戦を行ったことの証しであり、
また、日本軍国主義がその犯罪行為の証拠を隠滅しようとしたことの証しでもある。
ー金成民(侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長)
侵華日軍第731部隊本部遺跡CG復元映像
常徳細菌戦
闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)
細菌戦裁判(1997年~2007年)
終戦50周年731部隊
細菌戦被害の人々
(毒ガス戦)
原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】
<終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)
暴かれる毒ガス戦の真実
(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
天皇は知っていた!!
澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!
『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。
石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。
これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。
次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。
石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。
石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)
東京初空襲・浙かん作戦
一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。
※蛍石・・・・用途・加工法・・・古くから製鉄などにおいて融剤として用いられてきた。現在では望遠鏡や写真レンズ(特に望遠レンズ)などで、高性能化のための特殊材料としてキーパーツとなっている。フッ素の貯蔵に用いられることもある。
蛍石を採掘するのも、山東省、河南省、安徽省、江蘇省、浙江省などから強制連行された中国人だった。(約1700人)
1944年疫病がはやり、病気になったものは、隔離され食べ物も与えられず、餓死した。
蛍石の彫り物
赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!
1921年昭和天皇フランス視察
1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察
??A氏(731部隊幹部)の言うには、今事実関係を明らかにすると、それは戦争中の犯罪行為を暴露するだけにとどまらす、戦後の重大な犯罪事実までズルズル数珠つなぎに明らかになってしまうから、だから話が出来ない、ということなのです。??
・731と天皇の戦争犯罪
同じように、おそらく日本政府が恐れているのは、戦争中の日本軍の戦争犯罪が暴かれて賠償の問題になることだけではなく、暴露によって戦後の重大事実が明かになることなのではないかという疑いが大きくあります。
それと同時にもう1つ大きな問題は、天皇の戦争犯罪の問題です。私も鑑定書で書きましたが、中国・浙江省寧波で細菌作戦の時、昭和15年の11月に発令された「大陸指」というのがあります。杉山参謀総長名で出ているものです。その781号によると、大陸指690号によって目下実施中の特殊ガスの試験を大陸命第439号に基づく大陸指第781号を以って終わりにすると、11月末日で終了せよという命令が出ています。特殊ガス試験というのは細菌兵器の実施使用のことです。これは明かに細菌戦の命令指示です。
「大陸命」というのは大本営陸軍部命令の略ですが、天皇が発する命令です。
当時は普通御前会議で昭和天皇と陸軍部の参謀総長、海軍の軍令部長とそれと大体原則的には侍従武官長が列席して、お上に作戦を上奏します。それでOKということになると「大陸命」を作成するわけです。陸軍部がやるわけですが、その「大陸命」を作るとそれに基づき「大陸指」を作成してこれでよろしいかと、お上にお見せするのが慣例でした。いつも必ず見せていた。それでこの通りにというと「大陸指」という参謀総長の発する命令、指令が出るわけです。作戦によっては担当の大本営の担当者、参謀が直接天皇の前へ行って作戦を事細かに上奏、説明します。・・・・・・(中略)・・・・・
瀬島龍三という元大本営の参謀も、「陸軍は大陸命、海軍は大海命といいますが、それがないと軍の用兵は何1つ出来ない、参謀総長や軍令部総長といえども、そういう厳密な手続きを経なければ勝手に軍を動かすことは一切出来なかった」と言っています。ですから「大陸命」に基づいてというところが一番肝心なのですが、その内容はすべて昭和天皇の耳に入っていたということです。ここに731を何としてでも隠蔽しなければならなかった理由があります。・・・・(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
夏草をふみしめ遺跡の前に跪(ひざまず)く
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊がくすぶり続ける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
細菌戦実施の新資料・金子論文を読む
シンポジウム:全記録 2012年2月29日
【司会】えーと、時間が5時までということなんですが、ちょっとぐらい延びてもよいということなので、パネリストのお三方からご発言をいただきたいと思います。順番で近藤昭二さん、松村さん、吉見さんという順序でいきたいと思います。
【松村】戦後、イギリスとアメリカとカナダで、細菌戦のための秘密の定期的な会合を持っておりました。その議事録は公開されているんですけれども、それを見ますと、フェル・レポートが出た時、つまり1947年6月20日付なんですけど、その後全ての医療器具とか実験報告とかがアメリカに着きます。で、着いた時に、その直後の会談の中で、アメリカの委員が、大変なものが今届いたと、これは我々の予想していた以上のものだと。これはもの凄い実験をやっているんだと。その貴重なデータが入ったんだということを報告するんですね。それが議事録に残っている。3ページぐらいなんですけど。ところがその後の会合ではそのことが全く出て来ないんですね。月に1回ぐらい会合があったんですけど。つまりアメリカは、凄いのが入ったとその時は喜んで報告したんだけど、これを独占しようとしたんですね。そういう記録があります。
小泉親彦(ちかひこ)
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。
・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)
・パネル展
中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。
・細菌戦最大の被害地・浙江省を訪ねるスタディツアー
2016年10月24日 衢州(くしゅう)
2016年10月25日 麗水 (れいすい)
2016年10月25日(火) 麗水№2
2016年10月26日(水) 四路口(しろこう)
2016年10月27日(木) 武義、金華石門
2016年10月28日(金) 金華市街
2016年10月29日(土)義烏市崇山村
台湾義勇隊(金華 )
台湾義勇隊(上)抗日戦争:細菌戦
台湾義勇隊(下)(抗日戦争)
事前学習会
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
話は今につながっている!!
11月20日の石井が、アメリカ人、通訳を入れて6名ですね。日本人側は、石井ともう一人Mと称している、書かれている人等が、招聘してですね、そこで会っているという、これが、非常に今まで分からなかったこと、新事実ですね。
石井隊長の戦後2
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
「ミドリ十字」という会社
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。
薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体
イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴
イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状
国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!
子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!
ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)
ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した[3]。
施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。
ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった[4]。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。
731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731の流れは国立予防衛生研究所(予研)→国立感染症研究所に姿を変えている!!
エイズ・エボラ出血熱・マーズ・サーズ新型インフルエンザなどの病気は、世界のこういった研究所で作られたのではないか??
一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか??
国立感染症研究所
国立感染症研究所
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか???
ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
第6章 原子力時代の「受忍」
原子力とともに
1956年3月16日、宮川正は、恩師の中泉正徳が国連科学委員会に出かけている間、「原水爆実験に関する問題」を審議する衆議院外務委員会に参考人として出席した。
宮川は、第五福龍丸の船員以外の日本人の被災について、第八順光丸等の乗組買が放射線障害と思われる症状で苦しんでいたにも関わらず、「これといって目立った放射性障害というものはおそらくなかっただろうと思います」と推論を展開している。宮川は、米国原子力委員会から発表されていた、4月20日以降8月末日までのエニウェトク環礁付近での原水爆実験に関しても、 「ビキニ程度あるいはそれ以下の実験であれば、おそらく今度の海産物も安全度以内のものでとどまるであろう」と楽観的な見解を示した。
放射能汚染地図「川で何が起きているか?」
海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集
原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書
開示された文書「何で黒塗り?」
・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発を研究していた。陸軍は理研の仁科芳雄のもとで、海軍は京大の荒勝文策のもとで。戦後もアメリカと自衛隊の軍事交流によってその流れは加速している!!
核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も
潜在的核保有国化を目指す日本は、核兵器禁止条約制定目指す決議案に反対!!
非核3原則は嘘だった!!
※2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が明らかになった。
※非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。
日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!
なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか??
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直
とうとう占領が、ある意味では、日本の軍隊の核を造りつつあるということに注目しています。7万5千人の警察隊が形成過程にあります。専門的には警察予備隊と呼ばれていますが、もし戦争が起きたら自分自身を守れるように明らかに日本は再軍備をスタートさせました。私たちは日本とアメリカの関係がどうあるべきかをしばしば議論しました。世界的な事件の悪い方向への転換は私たちを決定的に結びつけると思います。共産主義が世界中に蔓延するとき、日本人のような国民を武装解除することは馬鹿げています。[★12]
※湯川秀樹・・・(ウキペディアより)(中略)またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。
※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
●毒ガス問題
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 北 宏一朗
海軍の毒ガス工場・相模海軍工廠 (寒川町)で、どのような化学兵器が作られていたのか、化学実験部=海軍技術研究所(平塚)では?
・「中国軍の公式報告によれば昭和12年より昭和20年に至る間中国における日本軍は1312回に亘り毒ガス及び細菌を使用せり・・・・」
毒ガスと抗がん剤(船瀬俊介VS内海聡)
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
・日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より
・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
アメリカとの合同軍事演習が緊密化し盛んに行なわれているが、兵器の共同研究も進んでいるのではないか。日本の進んだミサイル技術は、アメリカで試されるという。いろいろな軍事技術の交流があるのだから、核兵器の技術も十分に手に入っているのではないか?
(時代背景)
1995年当時の内閣は、日本社会党の村山富市氏であった。村山氏はこのとき、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。
このときは、国民の関心が自衛隊に集まっている時であった。
その中での、地下鉄サリン事件、そして、自衛隊の出動・事件の対処がある意味称賛される。これは、何を意味するのだろうか?
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。
地下鉄サリン事件
医学者とは1
松本サリン事件・地下鉄サリン事件が起きる前に、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護方法を熟知していたのは日本では自衛隊化学学校だけである。その自衛隊化学学校のサリン製造技術及び防護方法がオウムに漏れていたのではないか??
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態(実物のサリンは持ち出せないが、データ資料の管理はどうなっていたのだろうか?)???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。
【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】
【この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。】
(『悪魔の白い霧』下里正樹著)
自衛隊は、毒ガスのデータを1950年代に米軍(米軍は、ナチスドイツの文献資料を日本から入手して毒ガスを製造)から入手し、開発を進めていた。
・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
週間金曜日 2013年5月17日号
自衛隊とサリン 第1回
「私は自衛隊で毒ガス・サリンの製造に関わっていた」
世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊はサリンを製造していたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも・・・・。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら(これは事実であった!!)、毒ガスのをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。(塗り替えられた!!)
※日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。同条約によれば、「生産量が年間1トン以下なら生産施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約によって禁止されていない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止期間(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産・保有・廃棄などが可能だ。防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月まで、計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!
日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)
国会答弁書
●オウム真理教教と闘った男
富士河口湖町女性交流センター
「みずうみ通信」より
〈わが町の戦後史〉
~戦中・戦後の記憶をたどって~
シベリア抑留の一コマ(続)
富士ヶ嶺 竹内精一
10月18日に残っていた1万人に、出発命令が出た。一体どこに、それぞれ勝手に、日本に帰れるとか、ソ連に連れて行かれるとか言いながら、孫呉を後にした。行軍をしてしばらく夜が迫って来る頃、小さな湖に着いた。ここは、黒河、ハルピン、奇克の三叉路で、野営することになった。夜で、解らなかったが、朝、明るくなった周辺を見て、その異様な光景に言葉が出なかった。日本兵の4、5百の死体であった。奇克は、山梨郷土部隊の一個大隊が守備していたが、戦争が始まり退却して、孫呉の陣地に向かった時に、黒河方面から南下して来たソ連の歩兵と遭遇し白兵戦となり、壊滅した場所だったと聞いた。その友人も、実際にソ連兵に押さえられたが、左利きの為、帯剣を抜くことができて、それで助かったと聞いた。この辺りのことをよく知る古兵に言わせると、北へ向かえば黒河を通りソ連、北東は、奇克からソ連、南は、北安、ハルピンで日本への望みがある。出発して直ぐ北東に向かった。ソ連だ。行き先はソ連だ。皆、意気消沈して、歩みはのろくなった。
・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
だが、このとき運び出された8300トンのサリンは、貯蔵量のほんの一部、知花弾薬庫には、まだまだ大量の神経ガスの残されてあった!!
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●多磨霊園と大日本帝国
・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
杉山元(すぎやまはじめ)
1880(明治13)~ 1945(昭和20)65歳没
大正・昭和期の陸軍軍人(元帥)
日露戦争に中尉で出征、課爪駐剳武官・飛行第2大隊長・国際連盟空軍代表随員をへて、1922(T11)初代の陸軍省航空課長となり、陸軍航空育ての親となる。 23陸軍省軍事課長、国際連盟陸軍代表、28(S3)陸軍省軍務局長、以後陸軍次官・第12師団長・航空本部長・参謀次長兼陸大校長などをへて、36教育総監となり、同年陸軍大将。 37近衛内閣の陸相、日中戦争拡大派を支持した。38北支那方面軍司令官・軍事参議官、40~44まで参謀総長。太平洋戦争の指導にあたり、43元帥。 44教育総監・小磯内閣の陸相、45本土決戦にそなえ第1総軍司令官となったが、敗戦直後 の9月に自決した。
<コンサイス日本人名事典>
杉山啓子(すぎやま けいこ)
生年不詳~ 1945.9.12(昭和20)
陸軍元帥杉山元の妻
杉山元は1945(S20)8月15日御詑言上書を認めると、9月12日第一総軍司令官室において自決した。 言上書の内容は数百万の将兵の生命と巨億の国費を費やし、さらに家屋、家財を失い、宸襟を悩まし、その罪は万死するも及ばないというものだった。啓子は元の自決を確かめると自宅に帰り、あとを追って自刃した。乃木希典夫妻の自刃に比すべきものといわれている。
付け加えだが、杉山元は自殺を図った拳銃の引き金がひけないと聞きに行き、安全装置をはずしてもらいやっと事を遂げたのに対し、妻の啓子は短刀一突きで事を遂げたという逸話が残る。
<日本女性人名辞典など>
来歴・人物
1924年(大正13年)から陸軍大臣をつとめた宇垣一成に重用され、1928年(昭和3年)には陸軍省軍務局長に就任。1931年(昭和6年)には宇垣を首班とする軍事政権樹立を図る三月事件に小磯國昭、二宮治重らとともに関与した。同年9月の満州事変勃発時には陸軍次官として「正当防衛」声明を発表している。
同年11月、荒木貞夫が陸相となり、いわゆる皇道派が陸軍内の実権を握ると、宇垣側近とみられた杉山は次官を更迭され、1932年(昭和7年)2月に久留米第12師団長に親補される。その後は皇道派、統制派の抗争が続くが、荒木の辞任、真崎甚三郎の教育総監更迭を契機に皇道派は勢いを失う。杉山は陸軍航空本部長を経て1934年(昭和7年)8月には参謀次長兼陸軍大学校校長に就任、省部中央に復帰した。1936年(昭和11年)の二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。事件後には教育総監、同年に陸軍大将となり、梅津美治郎、東條英機ら統制派中枢に担がれる形で陸軍の重鎮への道を歩む。
1937年(昭和12年)、林銑十郎内閣下の陸軍大臣に就任、続く第一次近衛内閣でも留任。盧溝橋事件では強硬論を主張し、拡大派を支持。1938年(昭和13年)辞任。軍事参議官となり、同年12月北支那方面軍司令官となり山西省攻撃を指揮。
1939年(昭和14年)、靖国神社臨時大祭委員長。1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)まで参謀総長に就任し、太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる。1943年(昭和18年)元帥。
1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲を機とした東條英機首相兼陸相の参謀総長兼任の際には、山田乙三教育総監とともに統帥権独立を盾として抵抗するが、昭和天皇と木戸幸一内大臣に対する宮中工作をすませた東條に屈して辞任。しかし同年7月、サイパン失陥によって倒閣運動が勢いを増すと、東條は参謀総長を梅津美治郎に譲り内閣の延命を図る。杉山も山田に代り教育総監に回るが、結局東條は失脚。小磯國昭に組閣の大命が降下すると、小磯の陸軍への掣肘を抑えようとする梅津ら陸軍中枢の意向を受け、陸軍大臣に再任される。1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎内閣が成立すると阿南惟幾に陸相を譲り、本土決戦に備えて設立された第1総軍司令官となったが、敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。
・杉山メモ[編集]
参謀総長時代に会議(御前会議・大本営政府連絡会議)の内容などを記したメモランダムの写しが戦後『杉山メモ』として公刊され、当時の軍・政府上層部の動向を知る貴重な資料となっている。
・エピソード[編集]
・帝国国策遂行要領決定時に「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と対米戦争の成算を昭和天皇に問われた参謀総長の杉山は「太平洋方面は3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」と楽観的な回答をする。これに対して天皇は「汝は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私にむかって申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」と語気荒く問いつめた。答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」と言い訳すると、天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」と一喝し、杉山は言葉を失ったという[注釈 1]。
・終戦直前に元帥として天皇に意見を求められた杉山は、同じく元帥で開戦時の軍令部総長である永野修身とともに「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と奏上したという。ただ、同時に諮問された同じく陸軍元帥の畑俊六は「これ以上の戦争遂行は難しい」という主旨の返答をしている。
・綽名は「便所の扉」。理由は「どちらでも、押した方向に動く」「日和見主義者」であったことから。[5]「グズ元」とも。大兵肥満な容貌[注釈 2]とスローモーな感じからきたあだ名とされる。実際、杉山は運動が苦手であった。・・・・
※澤田日誌に見る杉山元参謀総長
※澤田茂・・・1939年10月2日に参謀次長となり、1940年12月2日支那派遣軍隷下の第13軍司令官に就任し、浙贛作戦で主作戦の指揮をとる。
「澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです
石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。
これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。」
『「澤田日誌」からみた浙贛作戦における日本軍の細菌戦』松野誠也より
●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!
防御の為と言って、毒ガスを製造しているのだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているでしょう。
情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
自衛隊の新任務 「支持しない」が半数以上
PKO派遣部隊130人、青森から南スーダンへ出発
自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!
お役人のお仕事・・・いかにまずい資料を隠すか??
お粗末な日本政府の情報公開
この情報公開裁判で「衛生学校記事」「化学学校記事」等の公開を求めているが、それらにはどのような記述がみられるのか。特に核兵器については、どのような部署で防護の研究が行われているのだろうか。日本は、唯一の被爆国でありながら、その悲惨な状況を国民に知らせることはなかった。日本政府、学術会議等のリーダーたちは、加害の事実をことごとく隠蔽し、戦争の反省を深くすることなく、アメリカの傘下に入り、再軍備に走っていることが下記の論文から、よくわかる。また、原発と自衛隊の関係はどうなっているのだろうか。防衛省は、「衛生学校記事」「化学学校記事」等を全面公開をし、防衛費を増額していったい何をやっているのか、しっかりと国民に伝える義務がある!!憲法9条を全く無視していないか??
敗戦前の隠蔽工作、そして戦後の核・ミサイル開発
新妻清一(1945年1月において陸軍省軍務局軍事課課員)について
・・・さらに(1945年8月)13日に新妻は広島を離れるが、東京に戻ると8月15日付けで「特殊研究処理要領」を軍事課名でまとめ、関係方面に通知した。その内容は、「一 方針 敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急措置ス」とし、「二 実施要項」で、ふ号登戸関係、731部隊、100部隊等に連絡するよう指示している。
このように新妻は広島に投下された兵器が原爆であることを熟知していたにもかかわらず、その事実を隠蔽し、一般に知らせることを避け、それと同時に登戸研究所、731部隊等陸軍の秘密研究の隠滅も図ったのである。
5、敗戦後の新妻―米軍の監視対象者から自衛隊の幹部へ
新妻は敗戦後米軍の監視対象者となり、731部隊やウランの保有量等様々な問題について尋問されたが、徹底した事実の隠蔽を図った。彼がサンダースから尋問を受けていたまさにその時期、45年11月10日付けの八木秀次からの手紙を受け取っている。それは雑誌『科学知識』が原子力や原爆の特集号を出すにあたって、新妻に原稿を依頼するものであった。その手紙で八木は新妻について次のように述べている。
寄稿を願うべき方として仁科博士に9月初め頃お願いいたしたることあり、総合的に原子爆弾については貴官が中心となり居られることと承知いたします。
八木は戦時期に軍と学会をつなぐ役割を果たした人物であり、彼が仁科に新妻を紹介されたということは、新妻が深く軍の原爆研究に関わっていたことを示すものと言えよう。
このように新妻は電波兵器の開発と原爆研究に深くかかわっていた。その知識と経験によって、新妻は戦後自衛隊で再び役割を担うことになる。
新妻は敗戦後第一復員局において旧軍関係の業務の処理に当たり、1954年には防衛技術研究所に入所し、企画室において企画業務に従事した。翌1955年には防衛研究所教官兼務となる。以後新妻は核及びミサイル、レーダー関連の専門家として活躍することになる。
(「核とミサイルに関する新妻清一関連資料」(1) 軍事史研究グループ(松村高夫、兒嶋俊郎)より
※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!
答申が出るまでになんと4年のかかっている!!その間、防衛省は、審査会にどんな返答をしていたのか?全く無視していたのか?
防衛省と規模がでかくなって、何をやっているのか、全く見えない省である。すべて秘密裏に行っている??
情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。
12月21日(水)『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』の公開を求める裁判が東京地裁522号法廷でありました。
最初は、情報公開法でその2点を開示請求していたのですが、保有していないことを理由に、行政文書不開示を防衛省は決定しました。それに対し、原告は、行政不服審査法に基づき異議申し立てをしました。その審議会が、防衛省の意向に沿って、不開示は正当であるとの結論を出すまでに、4年も年月をかけているのです。全く何もやっていなかったのではと思ってしまいます。防衛省と審査会とのやり取りはどんなことがあったのか、4年間の経過をきちんと説明してくださいと、弁護士は切実に訴えました。また原告は、いまだに、細菌戦被害・毒ガス被害で悩む中国の被害者のためにも、きちんと公開すべきだと陳述しました。
化学学校記事の第12号には、杉田論文「自衛隊員が語る旧軍技術研究」として次のような細菌戦に関する記述があります。
「-日本は1931年(昭和6年)満州に細菌戦遂行のため〈731〉部隊を編成した。研究所、部隊は逐次整備され1935年(昭和10年)には、ねずみ2000匹を使用してノミを飼育し、ペスト菌の培養量だけでも毎日10㎏に及んだ。
1938年 華中戦線 細菌大量使用
1939年 ノモンハン 細菌大量使用
1940年 重慶爆撃 ペスト菌、コレラ菌使用
1941年 湖南省 細菌作戦
1943年 華中、華北 細菌作戦
その戦績は、衛生部隊としてかつてない大きな成果をあげたとして感謝状36回授与にみられる」
今、現在の研究では、細菌戦を始めたとされるのは1939年のノモンハン事件の時です。この論文が確かだと、ノモンハン事件の前に細菌戦が38年に華中で行われていたこと、また、重慶でも細菌戦が実施されていたこと、1942年の浙贛作戦以降の43年にも細菌戦が行われていることになります。
今、まさに、この『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』『衛生学校記事』そして『731部隊関連資料』の全面公開を実現させ、細菌戦・化学戦の戦中・戦後の実態を解明し、今の日本の現状でいいのかを考える時に来ています。
米軍と共同でCBR兵器の開発を密かに行なってはいないのか?非核3原則を唱えながら、防御のためと言いつつ、裏で何を行っているのだろうか。明らかにしたい!!
〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器=細菌兵器等)、R(放射能兵器=核兵器)〕、防衛省は国民にその実態を明らかにしなければなりません。
憲法9条はないがしろにされ、軍事研究がどんどんとスピードアップされている現状を打破しなければと強く思います!!
次回、『化学学校記事』情報公開裁判は、3月1日午前11時~東京地裁522法廷、傍聴よろしくお願いします。
審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??
裁判所の決定
「ABC企画ニュース」より
10月11日(火)14:00から、東京地裁419号法廷で、第12回目の防衛省の『衛生学校記事』の公開を求める裁判が行われました。岩井裁判長は、被告の防衛省に対し、詳しく調べるように、具体的な名前まで挙げ(防衛省が管轄する図書館のすべて、例えば、衛生学校図書館、彰古館等)さらに防衛省の外局も調べるように、また、あった場合は、その経緯も報告するように命じました。
また、ある程度時間がかかってもよいということで、よく調べてくださいということでした。
原告側からは、防衛研究所にある資料と金原節三目録の資料とは同じではないかということで、同一のものであることも確認してくださいということが付け加えられました。
ということで、次回の裁判は2017年の2月28日(火)東京地裁419号法廷
「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)
※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。満州事変を起こしたあの謀略戦争の開始、あれは関東軍が先走ったと言われているが、その関東軍の上層の命令が無ければ出来ない、そして結果的には大元帥陛下、天皇が承認しなければ出来ない、そういう組織が日本の軍隊だ!!
●『日本の国家機密』(秘密国家日本の実態)
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第2篇 自衛隊の機密
第3章 防衛力整備
1 中期5ヵ年計画
4次防の本質
最終決定後に公表される主要項目の内容がどのようなものになるにせよ、それは決して4次防の真の狙いをしめすものではない。3次防までの公表文が、まだしも各計画の特徴の片鱗をしめしていたのに比べて、4次防公表文は無内容な官僚の作文にとどまるだろう。すでに決定された大綱は、作文どころか、3次防のコピーにすぎなかったのである。その性格と目標は、防衛庁庁議で決定される計画正文を検討することによって、はじめて明瞭となる。だが、それは「極秘」文書として、あくまでも秘匿されるであろう。
侵略戦争の反省に立って、憲法9条にのっとり、世界をリードできないものか??
●現在の日本
日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
戦後、全く戦争の反省をしないばかりか、あの戦争を肯定しようとしているのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造(チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。)→山下俊一(福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。)
日本の原爆開発
核融合はやるべきではない!!
この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所
原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?
”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)
科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中にさせられる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』
●南京大虐殺
・南京大虐殺から80年、今年の12月13日は、80年前の日中戦争で南京が陥落した日だ。そして、虐殺が始まる。(もちろん、南京に至る過程でも、残虐行為を繰り返していた!)
11、南京攻略戦の参加部隊
外務省は、持っている情報をきちんと開示せよ!!
ある書物には、こう書いてあるが、この真偽はいかがなものか?
「1938年の1月17日に、廣田弘毅外務大臣は東京からワシントンDCの連絡員に次のような電文を転送したが、それをアメリカの情報機関が傍受し、暗号を解読してから、1938年2月1日に英語に翻訳した。
数日前に上海に戻ってから、私は南京やその他の地区で日本軍によって行われていると報告されている虐殺行為を調査した。信頼できる目撃者の口頭の説明と、信頼性について疑念の余地のない人たちの手紙により、日本軍がフン族のアッチラを思わせるような態度で振舞ってきて、現在もそういう風に振舞っているという確証を得ることができる。30万人を下ることがない中国の民間人が殺戮された。そのほとんどは血も凍るようなことだ。」
南京の情報を遮断するために、海軍はパナイ号は故意に撃沈した?
「そこで電報を(漢口にいる蒋に)打ち、同時に東京へ一通送る必要があった。電文が起草され、ベイツと僕とでそれを携えて“パナイ”号へ行ったのだが、・・・・・・その翌日“パナイ”号はさらに上流へと出発し・・・時ならぬ終着駅でもある処へと向かった。あらゆる通信がかくして切断され、僕らはそれ以上停戦を促す何事もなしえなかった。(ミルス:「夫人への手紙」より)
パナイ号撃沈
安倍首相は、なぜ中国へ行って謝罪しない??パールハーバーよりも先ではないか!!
当時、南京にいたアメリカ人牧師マギーがとらえた南京虐殺
フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」
マギーフィルム(日本語訳付き)
フィッチ
フィッチ(George Ashmore Fitch)が中国の蘇州で1883年に生まれたのは、長老教会の宣教師ジョージ・フィジーとメアリー・マックレランとの子としてであった。1906年にウースター・カレッジで文学士号を得、続いてニューヨークのユニオン神学校に進んだ。1909年に按手礼を受けて中国へ戻り、上海青年会で働いた。
南京虐殺の時期には、フィッチは南京青年会の責任者だった。南京安全区国際委員会の働きに積極的に参与し、安全区の総幹事となった。南京大虐殺に関する彼の日記が、1937年12月13日に南京が陥落した後初めてこの地を離れる許可を得た外国人によって上海へ持ち出された。フィッチが書いているように、「私の物語が上海でセンセーションを引き起こしたのは、首都失陥後のそこの情況についての最初のニュースだったからで、コピーされ印刷されて広範囲に伝わった」。
1938年にフィッチはアメリカ各地を旅行し、南京大虐殺を紹介し記録フィルムを放映した。中国に戻ってYMCAや国際連盟の救援本部で奉仕し、続いて朝鮮と台湾のYMCAで働き、1961年に隠退した。
本書には彼の日記と友人宛の書簡2通が収録してある。
ピーター氏への手紙(1938年2月14日)
親愛なるピーターさん:
ずうっと前から君に手紙を書きたかったんだが―お互いに「さよなら」と言い合ってから、もう3ヵ月近くにもなり、毎日君に会いたかった。言うまでもないけど、かなり長いこと全く手紙が書けなくて、そのあと救援活動に忙しく、どうしても書かなくてはいけないこと以外には、書く時間がなかったんだ。話す事はいっぱいあっても、もう延ばすわけにはいかず、ここの形勢を君に言っておかなければと思うんだ。
(南京の)YMCA の建物が12月20日に焼き払われたのを、伝え聞いているかと思う。後ろの食堂と入浴やシャワーの設備と母屋1階西南角の君の小部屋が、まだそのままな以外は、実際のところ、建築物全体がやられている。ロッカーが僕らの駆けつける前に、叩き壊されていたが、幸いなことに、書類はほとんどまだあった。お金はもちろんなかったけど、あらゆる文書がだめになったものと、心配していたんだ。S.Y.張も劉華も陳一雷も今そこにいるけど、価値の高い品物をいくつか持ち出したんだ。学校はまだ燃やされていないが、洗いざらい持っていかれてしまっている。そこはまず中国の軍隊が使って、続いて日本の軍隊に一時期使われたんだ。先週僕は上海でS.C.龍やウィルパーと相談して、学校の建物は放棄し、まだ使える家具は中華路22号へ移し、賃貸権は再臨イエス会に返すことにした。
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・
(日中戦争)『昭和天皇』「上」(ハーバード・ビックス著:講談社学術文庫より)
日本にとって武漢はまさに戦争の分岐点だった。この時点で攻撃能力は究極的に限界に達していたのである。武漢三鎮陥落の知らせが伝わると、以前、報道機関が南京陥落を (早まって)最初に伝えたときと同様に〔南京攻略戦の時には、実際に南京を占領する前に南京「陥落」を報道機関が報じてしまった〕、国中がわきかえった。サイレンが鳴り、号外が出され天皇はかつて満州事変の折にしたように、軍服姿で白馬に跨り群衆の前に登場した。
軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)
※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
お粗末な日本政府の情報公開
※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。
●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)
映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん
2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。
<戦争を知らない世代の必読本>
日本の歴史教育は、特に近現代史のそれはあまりにも問題がありすぎる。多くの日本人は、日中戦争や侵略について、ほとんど理解しないまま大人になっている。
このことが、隣人との友好の阻害要因となっている。残留孤児について知らない若者が多いだろう。この中島本を学生に教えるといい。歴史を教える教師の副読本にしたらいい。
発売元 亜東書店 03-3835-7091
中国語版 北京三聯書店「何有此生」
●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
医学者とは4
ガン治療のウラ 7/8
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十七章 静穏な晩年と昭和の遺産
かつての国歌「君が代」(天皇の治世は永遠に)が流れ、モーニングにシルクハット姿の天皇は、皇后良子(ながこ)とともに壇上に立って、次のような「お言葉」を読み上げた。
今次の相次ぐ戦乱のため、戦陣に死し、職域に殉じ、また非命にたおれたものは、挙げて数うべくもない。衷心その人々を悼み、その遺族を想うて、常に憂心やくが如きものがある。本日この式に臨み、これを思い彼を想うて、哀傷の念新たなるを覚え、ここに厚く追悼の意を表する
7年前、彼は降伏の詔書で同じ言葉を述べている。そのとき彼が意図していたのは国体の護持であった。いまそれは戦没者遺族に接近して国民を結びつける言葉に変容し、さらに、巧妙かつ間接的に、天皇自身の戦争責任の問題にけりがついたことを示していた。
首相の吉田が、戦没者が日本の平和と将来の発展の基礎を築いたと弔辞で述べたことも注目される。吉田によれば、彼らが国家の 「犠牲」になったことで、死者はその後継者と結びついているのだった。続く4半世紀の間、保守政権は一様に「犠牲者」の言葉を繰り返し強調するようになる。
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
第五章
ペリー来航(9)
(その1)
内的恐怖
1846年、アメリカの提督、ジェームス・ビドゥルは、二人の軍人を従えて、強引に東京港に入り、アメリカ人漂流者に良好な取扱いを与え、そして領事館員の駐留を約束する協定に署名するよう要求した。将軍はそれをいんぎんに拒絶し、幕府の警備艇を出動させた。できる限り穏やかに、警備艇はアメリカの船を包囲し、その錨を切り、綱をマストや支柱に取り付け、否応なしに外海にまで曳航した。アメリカの水夫は帆を張ったが、あいにく風が弱く、小舟に乗って命がけの二百人余りの笠をかぶった男の漕ぐ櫓の力がまさっていた。温情のあるビドゥル提督は、その沈着な拒絶を受入れ、さらなる指令を得るために帰国した。
昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に
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