2009年5月21日木曜日

731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂

『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  細菌戦の企画

20世紀の20年代の末、日本はかつてない経済危機に陥り、国内の矛盾から抜け出すため、日本当局は海外侵略に賭けた。田中義一をはじめとする日本内閣は「満蒙分離政策」という中国解体の国策を策定し、日本の軍部がこれに積極的に呼応した。国土が狭く、資源が乏しいという日本の実情から、多くの日本軍人が資源やエネルギーを節約できる新兵器の開発を考え始めた。当時は軍医少佐だった石井四郎が細菌学の軍事的使用と細菌戦計画の実施を主張したのである。「9・18事変」以後
、石井四郎は軍部の支持の下に、日本陸軍軍医学校内に「防疫研究室」を創立し、細菌戦計画を本格的に実施し始めた。1933年から、石井四郎は関東軍の中国東北占領という機を利用し、主な研究活動を日本から中国の東北に移し、731部隊をつくり、中国侵略戦争で細菌戦実施の準備に入った。

 ●1927年の6月から7月にかけて、当時の日本首相である田中義一は「東方会議」を開いた。会議では'積極的な’対中国政策が決定され、「満蒙」(中国の東北3省及びモンゴル地区)は日本に対して、国防及び国民の生存に重要な利害関係を持つとし、日本側の「満蒙」における「特殊利益」が損害を受ければ、日本は断固たる自衛政策をとり、それを守ることを決定した。

 ●1931年9月18日の夜の10時20分、日本関東軍は中国の瀋陽北部柳条湖付近の鉄道を爆破し、中国軍隊にその罪を着せ、瀋陽にいる中国軍隊駐屯地の本営を奇襲して瀋陽城を砲撃し、内外を揺るがす「9・18事変」を引き起こした。


   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  林秀珍(女、56歳)の証言
 1937年には、わが家は御史廊で、野菜作りを生業としていました。その年の冬、私は両親に付いて難民区に避難し、金陵大学(今の南京大学)に住まいました。
 1937年の冬、日本兵が入って来て間もなく、ある晴れた日に、突然日本兵が2,30人来て、難民区にいた中国人何百人かを大きな内庭に追い立て、男の青年をつかみ出し、3列にして、麻縄で縛り上げ、4,50人ずつ五台山の方へ、みんなで100人余り連れて行きました。その人たちは五台山まで連れて行かれみんな機銃掃射で殺されたのです。その時私は日本軍が難民を縛るのを見かけ、恐くてずうっと震えていました。
 日本兵はまだ誰か家に隠れていないかと、難民のすまっている所に捜しに来ては、箱を銃剣で突っつき開け、衣服を放り投げ、金目の物は全部持って行きました。その時私のお母さんが隅でご飯をこしらえていたのを、日本軍が銃剣で頭をたたいたり、足でけったりして、お母さんにお父さんを出させようとしましたが、お母さんはおどされて声が出ませんでした。そんな風に恐いのとやきもきしたのとで、明くる日、べっとり血を吐きました。
 私たちは難民区で年を越し、外が安定してから、やっと御史廊の家に帰りました。その時私はやっと9歳でした。ある時大人の人に付いて太平門外まで行って見かけたのですが、東側も西側も斜面になっている所で、紅卍字会の小さな旗を手に持った人たちが、日本軍に殺害された中国人の屍を、麻袋に積み重ねるようにうずたかく積み上げ、その上を土でたっぷりおおったので、遠くから見ると2つの小さな泥と土の家みたいで、2つの塊それぞれが20数立方メートルもあり、上にそれぞれ長さ5尺ほど、幅4,5寸くらいの木の札をさし、その上には墨で字が書いてありましたが、何と書いてあったか今はもう覚えていません。けれどもその場景は、私はっきり覚えています。本当にすさまじかったです。
 私たちが家に帰って間もなく、家の人について出てきて浮き橋まで来たら、屍が7つ麻縄で縛って河に漬けられているのを見ましたが、紅卍字会(こうまんじかい)が片付けた屍でした。こうした数々の血の負債1つ1つを、私たち永遠に忘れる事ができません。(劉銘慧が記録)

 
      「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界



みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月20日水曜日

731部隊・南京大虐殺

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●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●南京大虐殺の「この事実を・・・」を日本人は謙虚に読むことは、必要なことではないかと思う。どんな状況が南京で起こっていたのかをもっと日本人は知るべきだと思う。もちろんその被害者の方々もPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語)より


  前言
第二次世界大戦期間中、日本の軍隊は大本営の命令に基づき、国際条約に背いて細菌戦と化学戦を実施し、大戦中に細菌戦と化学戦を実戦に用いた唯一の軍隊となった。中国を侵略した日本関東軍第731部隊(元‘満州第731部隊‘)は、細菌兵器の研究と細菌戦の実施を専門とした部隊である。
 第一次世界大戦以来、日本軍国主義者はコストが安く強い殺傷力をもつ兵器の研究を続けた。細菌兵器と化学兵器の使用を禁止したジュネーブ議定書が1925年国際的に締結されたにも拘らず、日本の大本営は軍医の石井四郎の主張を採用し、まずは日本陸軍軍医学校に「防疫研究室」を設置。1932年に石井四郎の研究活動を当時占領したばかりの中国の東北に移し、関東軍内に「防疫給水部」と称する防疫特務機関ー加茂部隊を設立した。1936年、天皇署名の軍令陸甲7号により、この加茂部隊を基にしてハルビン郊外の平房地区にて「関東軍防疫部」を発足した。そしてのち1940年には、この部隊を「関東軍防疫給水部」と改め、表向きには「満州第731部隊」と称した。(?)(秘匿名、満州第731部隊、正式名、関東軍防疫給水部本部では?)
 第731部隊は、日本軍が大規模な細菌戦の実験と実戦準備をするための基地であり、当時日本国内の医学会の著名な医学者を集め、当時の最も進んだ設備と条件を備え、組織的な化学犯罪を行なっていた。この基地では、人類文明を壊滅させる威力をもつ恐ろしい各種細菌が培養され、人間に対する生体実験を行なうという恐ろしい多くの研究を行なっていた。1939年から1945年にかけて、平房地区一ヶ所だけで少なくとも3000人の中国と他国の戦争捕虜及び諸理由で連行された人々が細菌実験の犠牲者として無残に殺され、さらにこの基地から出発した日本軍人は中国各地にて細菌戦を行ない、多くの罪無き命を奪った。中国では、細菌戦が実施されたすべての地方で731部隊隊員の痕跡を見つける事ができる。中国の戦争記録には、中国侵略の日本軍は中国の20幾つのの省と市で細菌戦を行なっていたとある。攻撃、退却、あるいは掃討中に用いられた細菌兵器は、いずれも中国の多くの地方で人々に大きな傷害を与えている。1945年8月、日本軍の投降直前に、第731部隊は実験用の囚人を全員殺害し、全ての施設を破壊し証拠を隠滅した後、ここでの真実を絶対に外部に漏らさないという命令を受け、日本国内に逃げ帰り解散したのである。
 日本は、第二次世界大戦で細菌戦を実戦に用いた唯一の国であり、数千人の生きた人間を実験材料とした国である。したがって日本は、細菌戦では最も強く、そのレベルも最も最高の国である。戦争終結後、世界各国の平和を愛する人々は戦争の歴史を見つめなおし、戦争の教訓を考える時、誰もが日本軍のこの残忍非道な暴行に怒りを覚えた。
 今日、人類社会は長い歴史を経て高度な文明に向かっている。しかし、我々は今日の繁栄した人類社会構築ために払われた大きな代償、そして歴史上、人類文明が踏みにじられたあの一幕を忘れてはならない。今なお、あの歴史的事実を否定する者がいるし、あの苦痛の時代への認識fが薄くなりつつある人もいる。文明と進歩、平和と発展は世界の人々が求める前途であり、このために努めていく目標でもある。ここに展示された血の滴る写真とその被害者たちの声無き叫びが、文明と野蛮、平和と戦争に対する人々の正しい選択の助けとなることを願っている。


   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉金様(男、64歳)の証言

 1937年12月の末(民国26年の冬)は、私は16歳で、とても寒く、綿入れの服を着ていて、家は踹布坊5号でした。日本軍が入ってきてから、一家6人で難民区へ逃げて行き、上海路東瓜市のある洋館に入りました。私と父、母、兄、兄嫁、それに1歳にならない姪でしたが、2日したら、母と兄嫁と姪とは金陵女子大学に移って行きました。2日目に日本軍が道路づたいに何十人か捕まえ、縄で縛りましたが、家(難民区での)にも日本兵が数人跳び込んで来て、私と兄をも縄で捕まえて行きました。あれは午前中だったと覚えているのですが、日本軍が道沿いに3,40人ほど捕まえ、古霊庵の竹林の中(今の西康路)まで引っ張って行って、ある山の斜面に留めました。それから日本兵が10何人か上ってきて先ず銃床で捕まえられてきた人を殴りましたが、その中の1人で、顔にいっぱい髭を生やしている、小隊長らしいのが、捕まってきた人を個々に細かく訊問し、1人1人手と脚を調べました。言葉が分からず、手や脚を伸ばして見せるしかなくて、私と兄とは、ユートィアオ(油条=細長い揚げパン)を揚げるのを仕事にしていると説明しましたが、やがて日本軍は捕まえてきた人を2つに分けて、一方を斜面の上に、一方を下にしました。斜面の上に立ったのが20人余りで、下のほうに立ったのが15,6人でした。それから、斜面の下に立った人たちの縄をほどき、坂のもっと下に追い立て、何分か行ってから、手榴弾が爆発する音が聞こえました。こうやって、その15,6人はみんな殺害されたのです。私たちはたまげてしまいましたが、幸いに九死に一生を得、逃げ帰って来てからはあの洋館には住まえず、難民区の近くにちっぽけな小屋を組んで住まったところ、すぐそばに防空壕が1つありました。防空壕の中に住まっている一家は、元々は大中橋に住んで、大きいコンロでお湯を沸かす商売をしていた人で、名前ははっきり覚えていませんが、日本軍が発見して、その一家をみんな防空壕で殺してしまいました。その所にも住めなくなり、やがてまた難民区に逃げ込んで行き、私は捕まって人夫にさせられ、紅い腕章をもらって、物を担いだり雑用をしたりしていて、情勢が静まってから、私たち家の者みんな旧の住まいに戻りました。(王瑞屏と魏福仲g記録)



      「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月19日火曜日

元日本兵の証言

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

  元日本兵の証言

2003年11月17日、東京高等裁判所の法廷に、近藤一(はじめ)さんという83歳になった元日本兵が立って、日中戦争の時に自分が日本軍の兵士として中国の民衆にくわえた残虐行為の事実を証言しました。その裁判は、日本軍が山西省(さんせいしょう)の北部の抗日根拠地に対して三光作戦を実施した時に日本軍のために性暴力の被害を受けた中国人女性たちが、日本政府が事実を認めて誠実に謝罪を行ない、必要な補償をすることを求めて起こしたものでした。次に紹介するのは、その時の近藤さんの証言の一部です。


 私たちは教育によって、中国人は人間以下の人種だと教え込まれ、中国人を殺そうが豚や鶏を殺すのと同じで別に罪にもならないし、殺すことは天皇のため、日本の国のためになると思っていました。1941年9月ごろ、山西省北部の抗日根拠地に掃討作戦に行きました。八路(はちろ)軍がいるという情報が入ると、その部落に進撃します。すると八路軍は逃げますから、逃げた後の部落に入って、金や物資、衣料などを略奪し、隠れている女性を探して、何人かの兵隊で輪かんしてしまうのです。強かんや輪かんのあとは殺すのが通例でした。
 1943年の春、山西省と河北省の間の山地に掃討作戦に行き、各部落の家を壊して農民が住めないようにして、広い区域を「無人区」にしました。壊した家のレンガをつかい、中国人の男子を使役(しえき)に使って、10数個のトーチカを建てましたが、工事が終わると中国人は必ず殺しました。
 私は、私を含めた日本軍兵士が中国で殺した罪の無いたくさんの人々のこと、強かんや輪かんをして殺したり、辱めたりした女性たちのことを思うと、夜も眠れない気持ちになります。私たちの犯した罪の重さや被害者の苦しみは消えることはありませんが、日本の国としての誠心誠意の償い(つぐない)があれば、少しは私たちの心の重みも楽になります。

 近藤さんは「命のかぎり戦争の事実を語っていきたい」と全国で証言活動をつづけています。



  近藤一さんの戦場体験

    516部隊

   731部隊

  
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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  徐恵如(女、65歳)の証言
 1937年の冬は、わが家は西街でした。日本人が入ってきた2日目の朝、私たち戸の隙間からのぞいていたのですが、日本人が中国人をたくさん縄で一緒に縛ったのが、次から次へとわが家の門を通り過ぎて行き、一時間ほどかかって、みんな行ってしまってから、機関銃の音が響くのが聞こえました。その後、私たちは寧海路の陰陽営で池の水がみんな紅くなっているのを見かけました。この中国人たちは日本人に陰陽営に追い立てられて集団虐殺されたのだ、と一般市民がみんな言っていました。
 西街に近い珍巷里で、私たちと一緒に住んでいた一般市民20人余りも、みんな避難したのですが、やはり日本人が入ってきた日の午後、日本人2人が来て、私たちを全部部屋から追い出し、割りに顔つきのいい婦人を1人残して、その婦女を輪かんしたのです。
 私の夫の王徳富は皮細工人でした。ある日、夫が毘○寺で、ある日本人に出会い、その日本人が鞄(かばん)を縫わせたので、縫い終わってお金をもらおうとしたところ、日本人は銃剣を抜いて殺そうとしました。夫は吃驚して皮加工師の天秤すら放り出し、いち早く逃げ出しました。
 日本人が銃剣を投げつけて来ましたが、幸いに走る方が早くて刺されなかったのです。
 (景宝龍と高洪等が記録)  ○・・・日本語に無い漢字。

     「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


大事にする世界



これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

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2009年5月18日月曜日

憲法9条

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

鳳儀萍(ほうぎひょう)-強制労働者の証言

 1944年8月、14歳の中学生になったばかりの鳳儀萍さんは、上海の四川路(しせんろ)を歩いていたところ、日本軍の見張りの兵隊に敬礼しなかったとしてつかまりました。そして、日本へ強制連行され、北海道栗山町角田炭鉱で強制労働に従事させられました。
 毎朝5時、日本人の現場監督に木刀(ぼくとう)や鞭(むち)でたたき起こされて、石炭掘りに行かされ、夜の10時まで働かされました。食べるものはごくわずかな米、たくあん、ジャガイモだけでした。
 1年もたたないうちに、彼と一緒に強制労働をさせられた290余名の中国人労働者のうち、90人が既に死亡していました。彼は幸い、九死に一生を得て日本の敗戦まで生き続けることができました。
 1945年11月、明優丸に乗って上海に帰りました。帰ってみると、母親が自分の行方不明を嘆き、心配するあまりに亡くなっていたことを知りました。
 1949年8月、鳳儀萍さんは国立江蘇(こうそ)医学院医学部に入学しました。その後、広州医学院泌尿器科の教授を務めました。(既に退職)。彼は、今でも角田炭鉱で死亡した強制労働者の名簿を保管しています。

    516部隊

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1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  王錦龍(男、65歳)の証言

 1937年に日本軍が南京に入ってくる前は、私の家は大紗帽巷25号でした。南京が陥落した時私たちは難民区に逃れ、陰陽営入りました。1937年12月下旬のある日の午前中、私が1人で上海路に行ったら、そこで日本軍が縄で40人余りを縛っているのが見えました。これを見て、私はびっくりし駆け戻って隠れたのですが、10分くらいしたら、機関銃の音がひとしきり聞こえました。40人余りが機関銃で撃ち殺されたのです。
 ある日の午後、やはり陰陽営の近くで、ある日本兵が銃剣で12歳の子どもを1人刺し殺すのを見かけました。
 わが家としばらく一緒に住まって避難したもう1軒の家に、17歳のお嬢さんがいました。ある日の午後、日本兵が2人闖入して来て、このお嬢さんを輪姦してしまいました。(姚彦花が記録)

  
    「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月17日日曜日

「慰安婦」制度

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 5、日本軍の性暴力

  日中戦争中、日本軍は中国の女性に対して、どのような性暴力を加えたのでしょうか。被害女性たちは、身体を傷つけられただでなく、精神をも深く傷つけられました。そのことを念頭に置いて、事実を見ていきましょう。

 日本軍「慰安婦」制度

 1931年末、日本海軍は、将兵(将校と兵士)の性の要求を解決するため、上海(しゃんはい)の日本風俗店を特別慰安所に指定しました。1932年3月、上海派遣軍副参謀長・岡村寧次(やすじ)らは、性病が将兵に広がることと、日本兵の強かん事件が多発し世論の非難を招くことを防ぐため、海軍のやり方をまねて慰安所の設置を決定しました。最初は日本国内から「慰安婦団」を招いて、将兵に性を提供するための場所を設置しました。これが日本軍「慰安婦」制度の始まりです。
 日本軍「慰安婦」制度は、「満州国」に広まり、日本の中国侵略戦争の拡大にともなって、中国各地に広げられていきました。1937年12月、南京で中国人女性に対する大規模な暴行事件が起こると、日本軍は華中(かちゅう)一帯に慰安所を設置するようになりました。
 「慰安婦」制度は、中国人女性への強かんや日本軍将兵が性病にかかるのを防ぐという名目で設置されましたが、実際には両方とも防ぐことはできませんでした。「慰安婦」にされたのは、主に朝鮮人女性や中国人女性でした。戦場とされた中国の場合は、女性が日本軍の作戦のなかで拉致されたり、仕事があるとだまされたり、抗戦中に捕虜となった女性が強制されたりして「慰安婦」にさせられました。日本の植民地だった朝鮮の女性の場合は、朝鮮国内で仕事があるとだまされて、遠い戦場へ連れて行かれた場合が多かったといいます。
 アジア太平洋戦争がはじまると、陸軍中央が慰安所の設置に乗り出し、フィリピン、インドネシアなどの東南アジア・太平洋地域で現地の女性を「慰安婦」にするなどして、慰安所を広げていきました。
 日本軍は慰安所の設置、管理、統制、「慰安婦」の募集、輸送に関与し、日本の外務省、内務省、朝鮮総督府、台湾総督府など日本の国家機関も「慰安婦」募集や移送に関りました。その意味で、「慰安婦」制度は、日本の軍・国家ぐるみの「女性に対する戦争犯罪」ということができます。
 慰安所の女性たちは外出の自由、身体の自由がなく、「慰安」をことわれば、殺されるかもしれない状況におかれました。人格をもった女性の性を戦争をつづけるための道具にしたのです。英語では「慰安婦」のことを「sexual slave」(性奴隷)という表現をします。「慰安婦」にされた女性たちは心身に深い傷を負(お)い、生涯にわたりトラウマに苦しんだのです。
 
 ■上海崇明島で生活していた朱巧妹は、戦争中に日本軍によって「慰安婦」にされ、耐え難い苦難を受けた。日本軍の暴行に憤慨した彼女の夫は、抗日ゲリラ隊に参加して、犠牲になった。彼女は、2005年2月、95歳で亡くなった。


 
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  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  余揚金華(女、67歳)の証言

 1937年に日本軍が南京を占領した後、冬月25日に、金陵女子大学で日本軍が身分証を発行した時、青壮年を一方に追い立て、間もなくトラックが3台来たのに一緒に乗っけて100人余りを、陰陽営まで連れて行きました。この人たちが引っ張られて少ししたら、機関銃の音がひとしきり聞こえましたから、全部銃殺されたのです。
 日本軍が入って来て4週間くらいしてからでしたか、一度、鼓楼医院の両側の横丁で、アメリカ人が中国人で動員された人たちを指図して、日本軍に殺害された中国人の屍を100余り防空壕まで引きずって埋めさせているのを、この眼で見ました。(秦景沢と陳玉蓮が記録)

 
    「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界



「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月16日土曜日

強かん行為

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『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 5、日本軍の性暴力

  日中戦争中、日本軍は中国の女性に対して、どのような性暴力を加えたのでしょうか。被害女性たちは、身体を傷つけられただでなく、精神をも深く傷つけられました。そのことを念頭に置いて、事実を見ていきましょう。

 強かん行為

 日本軍の兵士の多くが、中国の農村において、女性を発見すると強かんに走りました。日本軍は、部隊の戦闘力を高め、士気の低下を防ぐ事ができるとして、兵士たちが中国の女性に暴行を加えることを容認していました。しかし陸軍刑法では、強かんに対しては厳罰が規定されていました。そのため日本兵は、被害女性が憲兵に訴えることを恐れて、強かんした女性を殺害してしまうことが少なくありませんでした。
 1937年12月、日本軍の第18師団(牛島部隊)は、安徽省(あんきしょう)の蕪湖(ぶこ)に侵攻すると、現地の逃げ遅れた女性たちの多くを強かんしました。そして暴行を加えた女性を全員刺殺してしまいました。
 日本軍は60歳を超えた老女から10余歳の少女まで、区別することなく暴行を加えました。被害を受けた女性の身体は傷つき、子どもを産めない身体にされた人もいました。そして誰もが精神のトラウマ(後遺症)に苦しんだのです。

■第59師団第54旅団第110大隊伍長・富島健司の手記

 私は、1943年の暮れ、1ヶ月近く、渤海(ぼっかい)湾の沿岸地帯を荒らしまわったときのことを思い出しました。私は、男の人を見かければ、手当たりしだいに殴り、むごたらしい殺しかたをした。女の人を見つけたら「命だけは助けてやるから、俺の言うことを聞け」とわめきたて、辱めた(はずかしめた)。それでも哀願したり、拒もうものなら「この野郎、こんなに武士の情けをかけているのに、分からん奴だ」と、生きていけなくなるほど殴りつけ、銃剣で殺していったのだった。(中国帰還者連絡会編『新編 三光 第一集』光文社、より)


    

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  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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     「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  葛秀華(女、65歳)の証言
 
 中国侵略日本軍が1937年の冬月11日に南京を占領した時、わが家は陰陽営難民区西橋5号に引き移って住まいました。そこは家がかなり多く、難民がたくさん住まっていました。冬月の14日だったと私ははっきり覚えているのですが、その日午前8時か9時に、日本兵が西橋5号まで捜査に来て、家屋内に銃が5挺あったと分かった途端に、日本兵は家に住まっていた若い人たちほとんどを捕まえました。私の2番目の兄で25歳だった葛長華は、先に叫び声を聞きつけて、床下に隠れたのと、兄嫁が子どもを産んで床に寝ていたのとで、捕まらずに済みました。日本兵はみんなで300人余り捕まえて行き、その人たちを一緒に二条巷や西橋や陰陽営の近くの沼の水辺に追い立てました。18歳だった私は、もう結婚していて、沼の近くの寧海路58号にあった姑の家に住んでいたので、そのところで私を中2階に隠してくれました。中2階では外が見えるのですが、外からは中が見えないのです。午後3時か4時頃かに、とても曇った日でしたが、日本軍が機関銃を据え付け、捕まえてきた300人余りを機関銃で掃射し、その人たちが全部撃ち殺されたのを目撃しました。日本軍が死体を沼の中に押し入れたので、沼の水が真っ赤に染まりました。この時の虐殺で、前から石鼓路に住んでいた汪さんの家の伯父さんや叔父さんたち兄弟7人が同時にやられ、それに私の実家のお隣趙大泉さんの家の息子3人も殺されたのです。
 今また前のことを思い出すと、ほんとに憤慨に堪えません。日本の侵略軍は中国人民にとてつもない大罪を犯したのです!(秦景沢と陳玉蓮が記録)

  

   「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが


平和をつくる世界



ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月15日金曜日

遺棄化学兵器の危害

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大日本帝国が行なった国家的犯罪!!それは大規模であり、あまりにも計画的で冷酷・残虐な施設・部隊である!!
 その部隊の主要なメンバーたちの大半は、驚くことに、裁判にかけられることも無く、戦後の医学会・製薬会社等で活躍できたのだ!!


『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

日本軍による中国民衆への残虐行為

 4、細菌戦・毒ガス戦と人体実験

  第2次世界大戦中、日本は国際法に違反して化学兵器と生物兵器(細菌兵器)を製造し、使用しました。そのため、中国の人々がどのような危害をこうむったのか、実態を見てみましょう。

 遺棄(いき)化学兵器の危害

 1925年に調印されたジュネーブ議定書は、化学兵器や生物兵器(細菌兵器)の使用を禁止していました。そのため、731部隊は、敗戦直前に撤退する時に、捕虜を殺害、建物を破壊して証拠の隠滅をはかり、重要な資料と物資は日本に持ち帰りました。その時、病原菌を植えつけられたネズミや家畜が周辺に逃げ出したため、ハルビン近郊ではペストが流行し、1950年代初めになってようやく終息(しゅうそく)しました。
 日本軍が大量の化学兵器(毒ガス弾・毒ガス筒)を中国に遺棄して撤退したため、戦後になって、遺棄毒ガスによる死傷事件、絶えることなく発生しています。最近の数年間においても、日本軍が秘密裏に埋めた毒ガスが発見され、死傷者が出ています。化学兵器禁止条約に基づいて、日本と中国は1999年、「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」を結び、日本政府の責任で、遺棄毒ガスの解体、処理の作業を始めました。

    516部隊

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  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
 大方巷、鼓楼、虎踞関、陰陽営、古林寺、五台山、三牌楼などの地での集団虐殺

  劉世尭(男、82歳)の証言

 1937年の冬月6日は、中国侵略日本軍が間もなく南京を占領しようとしていて、城内の住民は雑然とあちこち駆け回って難を逃れようとしていました。五台山の難民区の収容所に区分されて、本部が五台山の永慶寺に置かれた、という話でした。わが家はこの時五台山に1軒借りて先に住み着いていました。「中央軍」は南京を死守し、南京城と存亡を共にする、と言われていたのに、11月9日(農暦)になって彼らは闘わずに逃げてしまい、南京城内を混乱に陥れました。私の両親と初めの妻と子どもとは冬月6日の午後、雲南路の金陵大学農業専修科の2階へ駆け込んで住まいました。私の初めの妻は日本軍の南京占領で驚き脅えたことで、病気になり2年足らずで亡くなりました。この事が私には終生忘れられません。
 冬月8日に、難民収容所の本部から人が来て、沈という人と連携し、国際救済委員会の第35難民収容所が出来ました。沈というのが私と太平路の「美最時」革靴店の責任者とに共同で班長をやらせ、2人に現状を維持するよう責任を負わせました。冬月9日には、難民区の中は難民がとても多く、子女を抱え年寄りを支え泣くに泣けない有り様でした。2日目の晩になって、「中央軍」の兵士は銃器や弾薬を投げ棄て思い思いに逃げ出しました。35難民収容所には2000人余り難民がいて、押し合いへし合い、身の置き所も無いようでした。冬月11日の朝、日本大使館に日本の国旗が揚がったのを見て、難民たちはいっそう恐れ不安がりました。私は2階に住まっていたので、ずっとはっきり見えたのです。午前9時頃かに、突然日本兵が数人来て、収容所に闖入してくるや、いきなり発砲して1人を傷つけ、たちまち数十人捕まえて行って、それっきり帰って来ませんでしたから、きっと殺害されたのです。しかも、日本軍は毎日夜になると婦女をひったくりに来て、引っ張って行き強姦したのです。太平路や中華路一帯が日本軍に放火されて燃え、夜間に赤々とした焔(ほのお)が天を焦がしました。
 日本軍は殺し焼き犯し掠め(かすめ)、悪事の限りを尽くしたのです。
 冬月14日に、私は2階で見たのですが、日本軍は雲南路の角で道を通る中国人を捜査して捕まえ、午前10時過ぎまでに、数千人連れて行きました。お昼時分に機関銃の音が絶えず聞こえただけでした。この難民収容所の後ろに、沼が1つあって、2階で見たのですが、日本軍は湖南路から中国人をたくさん捕まえてきて、沼に向かって5人1列でひざまずかせ、それに発砲する度に、1列ずつ中国人が倒れていき、水際に倒れる者もあれば、沼の中に倒れる者もあるのでした。何日か後に、沼をさらって発見された屍がみんなで83ありました。
 一番初めは、日本軍は中国の同胞を数百名清涼山へ追い立て、そこの大きな防空壕に押し入れ、燃焼弾と機関銃とでその人たちをみんな殺してしまうという、全く残忍なひどいものでした。
 凶悪な大虐殺の後しばらくして、日本軍は南京に住んでいる者に良民証を持たせようとし、それが無ければ命に保証はないことにしました。冬月の末に、父と寧海路に行きましたら、良民証をもらう人がたくさんいました。その時、人の群の中に売国奴がいました。張栄光といって、江西の人だと言われていましたが、それが自動車の上に立って言うには、およそ壮丁や人夫に徴発された者と中国兵になった者で、そうだったと言う者は、皇軍は殺さずに、食べる者を与え、旅費を支給して家に帰らせるが、およそそうだと言わずに、調べられて判明した者は1人残らず銃殺される。売国奴のこの話を聞いて本当と信じ、立って出てきたのが数千人といました。間もなく、日本軍が車でこの人たちを運んで行ってから、いくらもしない内に、機関銃の音が聞こえました。この人たちも日本軍に集団虐殺されたのです。(何月英が記録)

 

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女性たちが


平和をつくる世界



戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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