2021年2月24日水曜日

細菌戦の系譜

中国侵略戦争
細菌(生物)戦争
『BCGと人体実験』 美馬聡昭著

731部隊 ペスト研究、攻撃用か(1988年朝日新聞)
防疫研究室と昭和天皇の関係
1940年と2020年の東京オリンピック
731部隊と国立感染症研究所の問題
731部隊 行動示す新資料・埋もれた公文書
ABC企画委員会
731部隊・100部隊展
記憶の継承を進める神奈川の会

細菌(生物)戦争

米中の生物兵器開発?

20201107 UPLAN 西里扶甬子「生物戦部隊731研究の現在地~今を生きる日本人が知るべきこと」







原告たちのあまりに理不尽な被害

JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子



軍人恩給はあるのに、慰安婦には恩給がない!!

MYさん(城田すず子)は、1957年秋、ベテスダ奉仕女母の家に転がり込んだ。実家のパン屋が破産して16歳で売られ、国内外を転々とした末に更生の道を見つけたが、再転落しそうだとのこと。いずみ寮開設までの5か月間、軽井沢の古い家に奉仕女と住まわせていた。いずみ寮入所後の1958年11月、脊椎骨折で倒れ、絶対安静の病床で、小コロニーの第一歩としてのパン工場建設を夢見ながら自らの半生を口述した。扉に「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」という聖句が書かれている。

この本のあとがきには次のような彼女の言葉が載っている。

「兵隊さんや民間人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばれて、足手まといになると、放り出され、荒野をさまよい、凍り付く原野で飢え、野犬や狼の餌になり、土にかえったのです。

軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦はちがっても、特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。兵隊用は一回五〇銭か一円の切符で行列をつくり、女は女は洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ、なんど兵隊の首を絞めようと思ったことか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴に放り込まれ、親元に知らせるすべもない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・」




      「噫(ああ) 従軍慰安婦」石碑

1965(昭和40)年、深津文雄牧師は、社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設「かにた婦人の村」(かにた村)を設立した。

1984(昭和59)年、一人の寮生が自ら従軍慰安婦体験を牧師に告白する。この告白「石のさけび」を受けて、施設内にある小高い丘に1本のヒノキの柱を建てたのは「戦後40年」のことだった。翌年そこには、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が痕隆された。

「韓国挺身隊問題対策協議会」の代表ユン・ジョンオクさんは、1980(昭和55)年より、北海道・沖縄・タイ・ラバウルの朝鮮人慰安婦の足跡を訪ね、1988(昭和63)年8月の来日の際にこの石碑を訪れた。

これが、韓国KBSテレビによるドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』の制作を生み、韓国内はもちろん諸外国にも大きな世論を巻き起こしていった。

戦争責任があいまいなまま半世紀以上が過ぎ、現在もなお、従軍慰安婦問題はアジア各国を巻き込む論争となっている。この石碑を通じて、地域から世界を見ることができる。
(安房文化遺産フォーラムの記事より)













自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。


731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第1回

731部隊と人権ー裁判から考える

お話:南典男さん(弁護士)

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第2回

731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会第3回







パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
      医学と人権を考える―

『従軍日記』 小津安二郎

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も続く歴史改ざん!!           





※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!


  新宿・謎の人骨100体・731部隊【歴史解説】

1989年7月22日、新宿で謎の人骨が大量に発見された

    歴史改ざん(「風を読む」)


     

 

 

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。


今、世界中で猛威を振るっている新型コロナウィルス。これは、細菌戦(生物戦)ではないのか?
過去に、日本が中国で行なった細菌戦のように。(以下は現在分かっている細菌戦)

 日本政府・日本医学界が、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に立ち向かわない限り、オリンピック開催はないであろう。

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」


1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土 壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置



10分で学びなおす 「731部隊」より(『週刊現代』より)









 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 

731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。


NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日


 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

 







 1929(昭和4)年 実験医学雑誌第13巻雑報


雑報

◎黒屋博士近況

佐藤教授に宛てた私信であるが同教援の承諾を得て、ここに掲載することにする。

 

佐藤秀三先生

          黒屋政彦

10月17日夜       

もう12ヶ月で多分練習も終わる事ができると思います。そしたら何か仕事をやらしてもらうつもりです。今この研究所の主たる仕事は酵母の糖類に対する化学的作用で殊にその中間産物としてのメチルグリオキサールを捉えることに懸命になっています。殊にこの糖類に対する分解の行程は酵母ばかりでなく大腸菌、乳酸菌、植物細胞、肝臓及び筋肉の細胞についてもある程度まで、同様の行程を取るものだという事が証明されています。僕も練習を終えれば、多分その方の仕事の一部を受け持つことになるでしょう。


 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

 

   

この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時ではないのか?

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)

「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 

本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。


3部

 

第1審判決に対する中国の各界の支援の声


3章 浙江省支援者から

 

731細菌戦裁判報道記録

 

陳江苹(金華テレビ局記者)

 ー実況中継のビデオ放映ー(崇山村にて撮影)1

崇山村の細菌戦被害者の家族に対してのインタビュー

 

 判決のあった翌日の8月28日、細菌戦訴訟の原告団、裁判支援団、日本弁護団及び日本の支援者たちは衆議院議員と共に、日本の外務省、厚生労働省、防衛庁に対して申し入れをしました。

  731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われて

いるのではないか?

     731部隊の行なった細菌戦

 

●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??
安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難

 

           

2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

           

731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)
旧満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます!

731部隊新発見公文書の中身とは 細菌研究を明記

 

 

 

 

 

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 

 

四月二一日

午前六時起床 雨珍しく見る 風はなく 一段と庭のつぼみが大きく見える。

春雨がしとしとと鳴る 満州にも春が来た 本当に春雨だ 少しは寒いようにも思われるが 降り方は本当に春をしのばせる。雨間をついて時々顔を出す太陽の光に 今にも破れんとする杏の花がいっそう頼もしく眺められる




大江健三郎著

「ヒロシマノート」岩波新書(1965年発行)

 

 







挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950年86日ポツダム書店発行)より

 

Ⅲ モラリストの広島

 この奇妙に感じられるほど鋭敏な廉恥心の持主が広島市民病院のベッドで繰り返す言葉、≪とうとう生き恥をさらしてしまった≫。老人が自決を覚悟したのは、フルシチョフが核実験再開を声明し、日本原水協がそれに直接抗議する勇気を持たなかった、あの憂鬱な1961年9月のことである。

 

 


唯一の戦争被爆国 日本政府は核兵器禁止条約に署名・批准してください!

  日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 

●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行


Ⅰ 731部隊


731部隊破壊と証拠隠滅作業

ロ号棟に書かれた血文字が一生忘れられない

 

篠原鶴男(しのはらつるお)

731部隊・教育部

〈略歴〉

1926年生まれ
1945年5月 731部隊入隊(教育部に所属)第8分隊
1945年8月 帰国
■この証言は鹿児島731部隊展(1994年1月)の『報告集』をもとに本人がまとめたも

 

部隊での生活

 “マルタ”は中国大陸でスパイとして逮捕され、“有罪”になった人達〔“特移扱”で裁判なしに731部隊に送られた人々〕です。そんな人を731部隊はもらい受け、医学実験に使う為に78棟に入れておりました。それらの棟の入口には憲兵が常駐しており、厳重に警戒していました。


 

 『証言 人体実験(731部隊とその周辺)』


中央档案館、中国第2歴史档案館、吉林省社会科学院編
江田憲治、兒嶋俊郎、松村高夫編訳


六 第731部隊の各支隊


1 関東軍第100部隊

 

問:細菌室を設立した時、関東軍からどのくらい経費を受け取ったか。

答:2,3回受け取り、全部で10万円位だったと記憶している。



●毒ガス戦
・『日本軍の毒ガス兵器』  松野誠也著

4章

毒ガス使用禁止をめぐる国際的な動向と日本軍の対応

 

2, 日本陸軍初の毒ガス戦  台湾霧社事件

 

日本軍初の実戦使用

一方、地上では、11月18日に地上部隊による総攻撃が行われ、タイヤル族がこもるマヘボ渓谷に対して午後から催涙性ガス弾100発が撃ち込まれたが効果は確認できなかった。(同前)。水越幸一台中州知事が石塚英蔵台湾総督に送った電報では、日本に協力的な現地人に偵察へ行かせたところ、臭気が甚だしく涙が出たので渓谷の水を飲んだらおさまったことから「更に猛烈なるものにあらざれば効力なし」との報告が行われたとしている(山辺健太郎編『現代史資料 台湾2』)

 



 


 ・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)




 

2章 地図から消えた神秘の大久野島

 最初の毒ガス被害者


「被害者」はまた「加害者」でもある

付記・「毒ガス島」を訪れる


記録2 村上初一館長と「毒ガス資料館」

私がはじめてここに来たのは14歳の時で、それから19歳まで教えられたのは化学兵器は人道的な兵器であるという事だけです。だから私達は犯罪だとは考えてはいなかったのです。しかし、化学毒剤を製造している私達の環境は非常に劣悪で、被害者が1人また1人と増えていったのですが、その時私は恐怖を感じると同時に、化学兵器は決して『人道的』兵器ではないと意識せざるを得なかったのです。とはいものの、あの戦争時代に私達のこのような考えは反映させることができませんでした・・・・。











 

 

 

日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題







 

●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

汚された泉

井戸へ放り込み惨殺

杉本千代吉(すぎもとちよきち)

大尉

〈略歴〉

学歴 中学高卒業

旧部隊名 第59師団第54旅団第45大隊

出身県 静岡県

年齢 38歳(1919年生まれ)

 

「おい!」当番兵の運んできた高粱桿にどっかと腰を下ろした山野は軽く顎をしゃくった。こうしたことに慣れきっている兵隊たちは、待っていたとばかりバラバラ飛び出すと、寄ってたかって農民の体を探し出した。キセルと刻みタバコの入った手製の布袋、そして火打石が地面に放り出された。

 


2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 



●日米安保条約・自衛隊を問う!!
自衛隊は、防護のためと言って、旧日本軍の細菌兵器・毒ガス兵器使用の反省・謝罪もないまま新たな生物兵器・化学兵器を作っているのだろうか??憲法9条を持ち、生物兵器・化学兵器禁止条約を批准しているにも関わらず!!


日本の毒ガス


在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)で米陸軍が化学、生物、放射線、核(CBRN)の対応訓練を予定していることに対し、厚木基地爆音防止期成同盟(爆同)など関連4団体が4日、同基地正門前で抗議集会を開き、訓練の中止を訴えた。

 訓練実施は1月28日に、日米合同委員会で合意。防衛省南関東防衛局が大和、綾瀬市に連絡した内容によると、訓練場所は、同基地を共同使用する海上自衛隊が管理する区域内にある滑走路南端の約2万平方メートル。今月5日から9月30日まで使用することで合意した。

 米側は訓練への参加部隊に関し米本土所属と説明しているが、参加人員や日程については知らせていない。危険物の持ち込みや騒音の発生はないなどの情報提供にとどまっている。

 CBRNへの対応訓練は同基地で過去に例がなく、周辺住民に不安が広がっている。

 今月4日には同基地正門前に爆同など住民団体から約60人が集まり「危険な訓練をやめろ」などと声を上げた。爆同の石郷岡忠男委員長は「昨秋には迎撃ミサイル訓練があった。米空母艦載機部隊の移駐後に空いた施設を使った新たな訓練場になることを危惧している」と強調。基地司令官宛てに、基地の機能強化につながる運用などに抗議する要請書を提出した。


CBRNとはchemical weapon:化学兵器、biological weapon:生物兵器、radiation:放射能物質、nuclear weapon:核兵器を意味する。従来はCBRだけで用いられることが多かったが、近年は核兵器Nを加えてCBRN(日本語ではシーバーンと発音する)として用いることが多くなっている。

●情報公開裁判
なぜここまでして、国は衛生学校や化学学校で作っていた機関誌を公開しないのだろうか?


『化学学校記事』 情報公開裁判(第17回)

3月3日(水)11時

「703法廷」東京地裁民事3部

これまで防衛省は 『化学学校記事』 1号~12号 (1967年) までの発行は認めたが、 私たちが入手し提出した「16号」(1970年)について頑なに発行を認めませんでした。しかし19年末「16号」関係者の証言が得られたとしてやっと「16号」の発行を認めました。また、発行元が「大宮化学学校修親会」 と記されている事から「他団体の発行で関係ない」「1冊も保管していない」 と主張しています。 現在 「16号」 関係者の詳細証言と何年、 何号まで発行していたのかを追及しています。

 周知のとおり戦前の日本軍は、毒ガス・生物兵器を実戦使用し多数の軍民に残虐な被害を与えました。 旧軍を引き継いで発足した自衛隊も発足直後から秘密裏に化学兵器を所持、 研究していますが、現在ではCBRN(化学兵器・生物兵器・放射線・核)攻撃への防護のためと称して、研究・演習を行っています。

政府・防衛省の隠蔽体質は民主主義の否定、更に戦争への道にも通じる危険なものです。

全資料公開に向けて皆さまの支援、 傍聴をお願いします。


●「衛生学校記事」情報公開裁判 423日(金)14:00~103号法廷

◎「衛生学校記事」「化学学校記事」その他自衛隊に関する

情報をお持ちの方は下記のアドレスまでご連絡ください。

連絡先:exhibition731@yahoo.co.jp


自衛隊におけるCBRN対応
         長岡大学教授  兒島 俊郎

3 陸上自衛隊内部におけるCBRN研究

2)化学兵器関係資料

そこでまず本資料の内容から見ていこう。本資料もレジメ的性格なものではあるが、その部分も2つに分かれている。その最初のレジメ部分の項目である。

 

2節 化学火力計画

2、幕僚計画

 a, 要旨

 b、作戦間化学幕僚の任務(1)作戦計画(2)化学目標分析(3)運用統制

 c、化学火力効果の事後分析(1)情報源(2)化学情報所要(3)消費した化学弾薬(4)化学攻撃の効果

 

 





1957(昭和32)年7月『衛生学校第1号』発刊



 


●『BC兵器』久保綾三著(1969年)
※以下の記述から、自衛隊では、いま世界で流行している新型コロナウィルスなどの生物兵器の研究も大分以前からやっているといるのではないかと思われる。

4、日本本土も汚されている

Ⅱ 自衛隊と生物・化学兵器―その思想と作戦

1、自衛隊の装備・訓練を探る

不戦屈敵戦略

 

自衛隊の化学兵器作戦演習がこのところめだっている。「公害事前調査」に名を借りた大々的な演習が瀬戸内海方面と東北地方で集中的に実施されたのは69年6~7月の間である。その実態については後述の通りであるが、こうした「生物・化学兵器」を使ってのいわゆる“細菌・毒ガス戦”の演習が本格的に行われることについては2つの大きな意味をもっている。

 



 


 

 ●昭和天皇の戦争責任を問う!!


天皇万歳に浮かれる無責任国家  田中利幸より

重要なことは、アメリカが、日本占領支配のために、裕仁の戦争責任を隠蔽してまでも、彼の天皇としての「権威」を政治的に利用したことである。つまり、私たちが本当に問わなければならないのは、「絶対的権力を保持していた国家元首の戦争犯罪・責任の免罪・免罪の上に制定された民主憲法が、果たしてどこまで真に民主主義的であるのか?」ということである。


 


 



●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 

2001年ピュリッツァー賞受賞

 

 


※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
  

     



4部 内省なきその人生

1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

 

第十四章  創り直された君主制

 トルーマン政権に衝撃を与えるべく、マッカーサーは、天皇が戦争犯罪人として裁判に付された場合に直面するであろう悲惨な結末を予言し、すでに述べたアイゼンハワー宛の電報を結んだ。

 天皇を告発するならば、日本国民の間に必ずや大騒乱を惹き起こし、その影響はどれほど過大視してもしすぎることはなかろう。天皇は、日本国民統合の象徴であり、天皇を排除するならば、日本は瓦解するであろう。・・・最小限にみても、おそらく100万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならないであろう。



 



731部隊員が戦犯免責され、ABCC(原爆傷害調査委員会)に協力した。その結果、アメリカの原爆投下を日本政府は問うことは無く、また被爆者は、ABCCに治療されることもなかった。そして日米安保条約の下、核兵器の廃絶に日本政府は後ろ向きである!

 

日本には多くの被爆者がいるのに、日本政府はなぜ核兵器禁止条約に署名しない?

●地球の異常気象の最大の原因は、今までの2000回以上の核実験や原発事故などの放射能汚染で地球が壊れてきているからではないのか??米の原爆投下責任と核実験をしてきた国の責任を問う!!


※私が考える、今の異常気象の要因は

1、1940年代から60年代にかけて大規模に行われた、核実験による環境破壊の影響

2、都市化したコンクリート(アスファルト)ジャングルによるヒート・アイランド現象

3、その結果による、交通機関(電車・バス・乗用車・航空機・船舶)やオフィス・住居などの冷暖房による排熱

4、自動車社会の排ガス

5、原子力発電による温排水の排出・・などに拠っているのではないか?

 

 

 

●核実験(ウキペディアより)

若くして白血病で亡くなった夏目雅子、本田美奈子、また五輪候補選手だったスイマーが白血病になったのは、放射能の影響ではないのか?

月の砂漠の犠牲者 夏目雅子と本田美奈子

核実験(かくじっけん,英語:Nuclear weapons testing)とは、核爆弾の新たな開発や性能維持を確認したり、維持技術を確立したりするために、実験的に核爆弾を爆発させることを指す。1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われた。そのエネルギーはTNT換算で530メガトン(大気圏内は440メガトン)でこれは広島へ投下されたリトルボーイ3万5千発以上に相当する。

歴史上重要な核実験

歴史上重要な核実験の一覧を次に示す。広島と長崎の原子爆弾の投下に加え、既定の兵器のその国における初の核実験、さもなければ、例えばこれまでに最も大きな核実験だったなど顕著だった核実験が含まれる。すべての核出力(爆発力)は、推定エネルギーと等価とされるTNTの質量(kt)で与えられる。

表中の「実用兵器/非実用兵器」は、実験された装置が(理論実証装置と対照的に)実際の戦闘において仮定として使われることができたかどうかを意味する。


 

 

 

 

 




●核なき世界へ!!Toward a Nuclear-Free Future




●核融合もすべきではない!!
20170303 小出裕章先生にきいてみた!!〜土岐市核融合科学研究所 重水素実験について






なぜ、日本は広島・長崎・ビキニ・JCO臨界事故・福島と5度も被爆しているにに、日本医学界は「脱原発!!」と叫ばない!!

       

      

原爆投下された直後、日本は自らが原爆調査をして、731部隊(人体実験や細菌戦)の事もあるので、アメリカの心証を良くしようと考えた。そして科学者を総動員して原爆調査(被爆者を救済するための調査ではなく、原爆の威力調査)を181冊の調査書にまとめて、英訳し、アメリカに渡した。その後、731部隊員は、731で研究したデータを渡し、戦犯免責を受けた。原爆調査書は被爆者の治療には全く生かされず、日本の医学界は、原爆の放射能被害については、何も言及しなかった。そればかりか、その後のアメリカの原爆・水爆実験も批判せず、その被害を過小評価した。そして日本政府が、原子力の平和利用として原発を推進する政策にも、大きく加担している。

XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

・・・第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。

2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。

封印された原爆報告書




水爆実験
水爆実験ブラボーで被爆したのは第5福竜丸1隻ではなく、延べ1000隻近くの漁船が
被爆した!!














 

           

JCOの臨界事故


福島第1原発事故

核兵器廃絶
徳仁・日本政府・日本医学界は、731部隊のことを謝罪し、戦争被害者の救済、戦争をしない政策にお金をかけるべきだ!

日本はなぜ戦争責任問題を解決できないのか
水俣病


731部隊(unit731)
昭和天皇の戦争責任を問う!!天皇制反対!


『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』

 

原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

正義とは何か。本書は1995年から2014年の20年に及ぶ「戦後補償裁判」の記録である。この裁判で原告となった中国人戦争被害者は全体の被害者数からしたら実に僅かな数字だ。だから、私たち日本人は彼ら原告の背後に数千万の中国人戦争被害者がいることを肝に銘じて、原告たちのあまりに理不尽な被害を、本書を通じ知ってほしいと願っている。そしてこの日本という国の正義とはいったい何なのか考える機会になればと思った。

私は1989年に新宿区戸山で発見された人骨問題がきっかけで、戦後補償問題に首を突っ込むことになった。この本を読んで当時のことを思い出すとともに、知らなかった弁護団の苦労や裏話を知ることになった。

 

 

戦後補償裁判の弁護団の中心となる小野寺利孝弁護士が、94年に北京を訪れた際、ある記者から聞かされたのは、「中国人戦争被害者の訴えをきちんと受け止めない日本への危惧」だった。「日本側がこの問題に正面から向き合わず、人々の心に届く真の謝罪や補償がなされないままでは、中国の民衆の中に対日不信の巨大なマグマが蓄積されていくばかりだ」。小野寺弁護士はそれを日本の弁護士への批判と受け取った。もし戦争被害の問題に直接向き合うなら、被害者に直接会い、その要求を受け止める必要があると考えた。しかし、当時は今のように自由に中国に行くことができず、被害者に直接会うことは難しかったと思う。

 

 

そして会うことはできても、互いに意思疎通ができるかは大きな問題であったはずだ。全ての中国人戦争被害者は日本人をひどく憎んでいるだろう。案の定、被害者たちは訪ねてくる日本の弁護士を信用しなかった。そんな彼らを原告として裁判をするために、弁護士たちはどんな思いをして彼らと向き合っていたのだろうか。裁判にこぎつけるまでに、弁護団が払った努力と時間と費用は途方もないものだろう。しかし、被害者たちの心の奥から絞り出される事実の重さと、次第に弁護士に対して心を開いていく原告たちとの交流の対価としては、惜しむものではなかっただろう。ただただ正義のために弁護士たちは寸暇を惜しんで、中国へと飛んで行った。「事実を認めて、謝罪してほしい」。ある弁護士が常日頃、国に対して口にしていたことだ。

 

 15年に及ぶ侵略の間に、犯した日本の加害の残虐性は筆舌に尽くしがたい。裁判で証言台に立つ原告の話す内容は、人々の心を抉(えぐ)るものだった。

本書冒頭の平頂山事件は、本多勝一氏が「中国の旅」でも書いているが、1932年9月に起きた日本軍による三千人にも及ぶ住民虐殺である。写真を撮ると騙して住民を崖の下に集めて機銃掃射して殺した。証拠を隠滅するために崖を爆破し、それが発掘されたのは1970年のことだった。今では記念館としてその跡を留める。累々と続く遺骨の中に、苦痛に歪む表情を残した人骨、子供を庇った親子の骨に、今なお心が痛む。

 



 李秀英さんは南京事件の時に、強姦されそうになって拒絶したために日本兵から銃剣で全身29か所も刺された。彼女は妊娠中で子供は流産した。その時のことはアメリカ人牧師ジョン・マギーによって映像が残っている。南京で彼女に会ったとき、李さんは古い人民服を着て、虐殺記念館のベンチに丸くなって座っていた。いつも彼女はとても悲しい表情をしていた。その理由を私は裁判の証言で知った。失った子は戻らない。いつも他の子供を見るたびに自分の子を想い、子供が死んだために自分が生き残ったと彼女は言った。

 

 

敬蘭芝さんという女性は、鉄道で働く夫が憲兵隊に捕まり、拷問を受けた後731部隊に送られた。彼女自身も酷い拷問を受け、壮絶な過去を清算できずに戦後を生きていた。彼女のもとに日本人が訪れたのは被害から50年が経とうとしていた時だった。戦後補償運動の道を開いた一人、今は亡き渡辺登さんが敬さんを訪ねた時、「日本人とは会いたくない」と頑なに拒絶をした。その後、弁護士も何度も彼女を訪ね、いつしか心が打ち解けていく。交流が生まれ、互いに信頼し合うようになった。敬さんは731裁判の原告となって東京地裁の証言台に立ち、彼女の訴えに国側弁護人が涙を流した。

 

 

中国人慰安婦裁判もまた、その証言は衝撃的だった。被害者の女性たちはみな、ある日突然日本軍がやって来て拉致され、監禁され毎日強姦されたのだ。被害者の一人李秀梅さんは証言の途中、大声で泣き出してしまった。日本兵士から性的被害にあった女性の数は未知数だ。多くは犯され殺され、道端に捨てられた。生き残ったとしても彼女たちはPTSDを抱え、その障害は、家族にも精神的な負担を与えている。

 

さて、これら悪魔の所業ともいえる加害について、日本の裁判所がどう判決を下したかと言えば、本書を読んでいただきたいが、多くは「国家無答責」で棄却されている。これは戦前の憲法で天皇の国家は何をしても許されるというもの。この国に正義はあるのだろうか。

しかし、この国が正義を果たさなかったとしても、この20年にわたる戦後補償裁判が残したものは、決して小さいものではなかった。それは事実を明らかにし、広めることができたこと。日中友好が後押しされたこと。市民運動に多くの人が参加したことなどだ。

 

実は、遺棄毒ガス弾事件だけは戦時中のことではなく、「現在進行形の問題」である。日本軍が遺棄した毒ガス弾によって健康被害を受けた被害者の中には、多くの子供たちがいた。裁判は一審は勝ったものの、高裁、最高裁と棄却された。しかし裁判が終わった今でも、市民団体「遺棄毒ガス中国人被害者を支援する会」が支援を継続している。また、弁護団と全日本民医連が共に中国での被害者の検診活動を行う、非営利法人「化学兵器被害者支援日中未来平和基金」は、昨年3月に東京都によって「認定NPO」となった。

正義とは何か。裁判という法律論で負けたとしても、私たちには普遍的な正義を行使する力はある。戦後補償裁判によって培われた日中友好の絆は、損なわれることのないように次世代につなげていきたい。それには真実を語り継ぐことだ。語り継いで、つながって、二度と再び戦争をしないと誓うことだ。

*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美・根岸恵子・志水博子、ほかです。

フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中