70年間の沈黙を破って
―ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の2010年総会における謝罪声明
(付)追悼式典におけるDGPPNフランク・シュナイダー会長の談話
「ナチ時代の精神医学―回想と責任」(邦訳)
岩井一正
近年急速な充実ぶりを示しているドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)は、2010年11月のベルリンにおける年次総会の中で、ナチス時代にドイツ精神医学の名のもとに強制移住、強制断種、強制研究の被害を強いられ、また患者として殺害された犠牲者をしのぶ追悼式典を開催した。そして自らの先行組織やドイツの精神科医が与えた不正と苦しみに対して犠牲者およびその家族に謝罪した。
またその後今日まで、あまりに長くつづいた学会の沈黙、些少化、抑圧に対しても謝罪した。約70年を経ての学会としてはじめての罪の確認であり、謝罪であった。この追悼式には3000人の精神科医が参加した。
追悼式典は、DGPPNではじまった目下の調査と討論の過程の具現化である。今進行している研究プロジェクトは、DGPPNの先行組織とその代表者が、精神疾患患者のいわゆる安楽死プログラムや断種、あるいはユダヤ人、ポーランド人の反抗的な精神科医の追放、そしてナチ政権のそれ以外の犯罪にどの程度関与したかを明らかにする予定である。
〈索引用語:ナチズム、強制断種、安楽死、T4活動、医の倫理〉
ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)の年次総会は、例年11月下旬にベルリンの国際会議センターICCで開かれる。日本の精神神経学会にあたるこのDGPPNが今のような規模に発展したのは最近のことである。東西ドイツ統一から10年を過ぎた2000年のアーヘンの会議はまだこじんまりして、参加者も1200人にすぎなかった。しかし、このアーヘン学会で、今後は毎年ベルリンで開くことが決定され、それ以降この10年の学会の成長はめざましかった。一昨年の2009年には近隣各国を含め8612人が参加して、学会自ら、ヨーロッパで最大の精神医学会と称するまでに発展した。2010年には総勢10000人を越えたと報告されている。
ホームページ上の「DGPPNの歴史」に沿って、ドイツ精神医学会の歴史を辿ってみる。ドイツで精神科の専門学会設立に向けての努力が実を結び始めたのは19世紀中頃で、1842年が今日のDGPPNに発展した専門学会の創立の年とみなされている。1844年には“Allgemeine Zuitschrift fur Psychiatrie und paychisch-gerichtliche Medizin"が発刊された。1860年には、精神科医の独立した会議がはじめて開催されている。1864年には学会規約もでき、それ以来ドイツ精神科医協会“Verein der Deutschen Irrnarzte"と自称した。1903年に学会はドイツ精神医学協会“Deutscher Verein fur Psychiatrie(DVP)"の名称を得た。ちなみに第1次世界大戦までのDVPの会員は550人であったという。1906年から1920年まではクレッペリンが、そしてその後は中断を含んで1934年までボネファーが会長を引き受けた。ナチの政権獲得ののち、DVPは、ドイツ神経医学会と一括されて、ドイツ神経科医精神科医協会(DGPN)となり、リューディンが終戦まで会長の地位にあった。ナチ時代の精神医学の詳細については、ここに訳出したシュナイダー会長の講演にゆずるが、25万人の精神障害者がドイツ帝国とその占領地域で「生きるに値しない生命」に分類され、殺戮システムの犠牲になった。戦後の混乱期をへて、1954年に、DVPの後継組織としてドイツ精神科神経科学会(DGPN)が設立された。そして1992年に現在のDGPPNの名称に置き換えられて現在に至っている。
ナチ時代の負の遺産は、戦後のドイツ精神医学に無言の暗い影をおとした。さらに1980年のDSM-Ⅲの出版以降、新興のアメリカ精神医学がドイツ精神病理学から世界の主導権を奪取したとみえた。しかし操作化の波が押し寄せるなかで、ドイツ精神医学は自らの足下を固めなおす努力を水面下で続けた様子である。今日の復興の形について、とりわけザス、ムント、メラー、クロスターケッターらをはじめとする戦後世代の教授たちの功績は大きい。このDGPPNの会議においては彼らが強力なイニシアティブを発揮して、精力的にあちこちのセクションの座長を兼務する姿がみられる。そのような熱心な関与の積み重ねが、年次総会の着実な成長につながったとみることができる。学会発表の多くはまだドイツ語で行われているが、自らの学会の国際化が強く意識されており、ドイツ語がわからない聴衆が散見されれば、セッションの構成を英語に切り替える対応もあちこちのセッションでみかけるようになった。このような弾力性は、ここ2,3年のDGPPNがヨーロッパの精神医学のリーダーシップをとろうとする役割意識の表れにもみえる。
復興の流れに乗って、2010年の会議は、“Psychiatie interdizipliar”「学際的な精神医学」をテーマにして、前年を越える参加者を集め、4日間にわたって催された。ここ数年この学会総会の動向を見守ってきた筆者は今回参加できなかったが、手元の資料や参加した友人たちからの伝聞をもとに紹介を試みる。
今回の総会では、会期後半の11月26日にナチ時代の精神障害者の犠牲者に対する追悼式典が開催された。この期間は平行する他のプログラムは停止して、学会全体がこの催しに専念し、学会発表では3000人の精神科医がこれに参加した。追悼式典の趣旨は、本学会の前身組織やそこに属した精神科医が、ナチ時代に当時の患者および家族に対して不正を働いたことを公式に認め、謝罪するとともに、ナチ体制が終焉した戦後も、沈黙や否認によって彼らをさらに苦しめ続けたという自らの学会の70年の歴史を、はじめて正式に謝罪表明したことにあった。ふりかえってみると、2007年の総会ではこの種のテーマの発表は皆無であったが、2008年には「ナチ時代の精神科医の犯罪と精神医学における回想文化」というシンポジウムが開かれたほか、関連した個別発表もみられた。2009年の総会には、精神医学における倫理のシンポジウムで、ナチの精神医学が取り上げられた。また、会期中に以下の文を決議して、DGPPNの規約の第1章に採択した。そこには「DGPPNは心的患者の尊厳と権利に関する自らの特別な責任を自覚している。この責任は、自分たちの先代組織が国家社会主義の犯罪、集団的患者殺戮、強制断種に関与したことから、自らの中に生じたものである」と謳われている。今年度の総会はこれを踏まえて、追悼式典を催し、これまで真正面から向き合うことのなかったナチ時代の自分たち学会の負の役割を自己批判し、今後さらに分析して詳細を公表しようとの意図が明らかにされたのである。今回のDGPPNの総会は、これによって学問や臨床を越えた倫理的地平において、あらたなエポックを画したと言える。
追悼式典の中心におかれたのは、DGPPN会長のフランク・シュナイダー(アーヘン工科大学医学部精神科教授)の追悼講演であった。これについては、以下に全文を訳出した。この講演の前後には、報道談話や、あらたな事実解明のために選抜された国際的委員会の委員による第3者的な立場からの講演も配置された。また学会会期中、ロビーでは1999年のハンブルクのWPAではじめて催された「回想」の展示が発展形で再現された。主催者は長年この問題に取り組んできたクラナッハ教授である。
ナチ時代の精神障害者の安楽死活動については、会長講演にもあるように、1980年初頭から本格的に研究されはじめた。我が国では1987年に伊東が先駆的にこの事実を指摘したあと、コールティンクが当時の状況や背景を含めた調査を紹介し、また現代の安楽死の扱いにも関連づけて、アクチュアルな警告を発した。そして1995年には、小俣による精密で網羅的な研究が提示された。これによってナチ時代の精神医学の犯罪性は今日では我が国でも十分知られるところとなっている。その水準から見れば、今回の学会表明に目新しい事実は含まれておらず、意義はあくまで、学会が70年の沈黙を破ってはじめて事実の責任を自らに引き受け、患者・家族に謝罪したことにおかれよう。
70年の空白を遅きに失したと非難することはたやすい。2世代以上にわたる歳月の流れのなかで当事者はとっくに死に絶え、糾弾されるべき個人の輪郭も鮮明さを失っている。もっともDGPPNの批判の矢は、個々人よりも、自らに向けられたものである。伝統ある一組織の今日的な機能として、歴史的あやまちを認め、引き受けようとのDGPPNの今回の態度表明によって、当時の学会や個々の精神科医をナチのイデオロギーの一方的な被害者として位置づけてきたこれまでの姿勢は完全に棄却された。そして、より広い時代背景を視野におさめた客観的立場からさらに詳細な事実解明をする方向性が示された。我々にとっても参考にできる態度ではなかろうか。
ナチ時代の精神医学の諸問題は、今後の展開においては、ナチズムに特化された精神医学史の逸話的汚点としての位置づけを脱し、医学倫理と医師の職業への疑問を熟慮するための今日的なテーマに発展するはずである。国際的委員会の座長でもあるRoeickeの最近の論文はそのことを明らかにしている。このような方向性は、すでにこれまでの本邦の研究においても予示されていたものであるが、現実の状況とからみあわせて論議がなされるのは、今回のDGPPNの態度表明がその第1歩を記したこれからの道のりであろう。
あらたな展開の端緒となるべき今回の態度表明は、すでにインターネット上の本学会のサイト(www.dgppn.de)に掲載されており、またその後、DGPPNの機関誌である“Der Nervenarzt"にも掲載された。おそらく英語版もまもなく上梓されると想像される。そのことを承知した上でも、この画期的な態度表明を邦訳し、本学会誌上で広く話題を提供することについては、日本の精神医学の今後に一定の意義があるのではなかろうかと考えた。そのような筆者の趣旨をくみ、翻訳を快諾されたDGPPNシュナイダー会長に感謝する。
皆さん
われわれ精神科医は、ナチ時代に侮蔑し、自分たちに信頼を寄せてきた患者の信頼を裏切り、だまし、家族を誘導し、患者を強制断種し、死に至らせ、自らも殺しました。患者を用いて不当な研究を行いました。患者を傷つけ、それどころか死亡させるような研究でした。
この事実に直面するのに、そしてわれわれの歴史のこの部分と率直に向き合うまでに、どうしてこんなに長い時間がかかったのでしょうか?われわれはこのDGPPNが世界の中でももっとも古い科学的医学的な専門学会であることを誇りにしています。しかしその一方では、この学会の歴史の重要な部分がこんなにも長く闇に葬られ、抑圧されてきたのです。
このことをわれわれは恥ずかしいと思います。
われわれが恥じ入ることが他にもあります。われわれドイツの精神医学の学会は、1945年の大戦後も1度として犠牲者の側にたったことがなかったのです。
さらに悪いことには、彼らが受けた新たな差別や不正にも関与しました。今日のような催しがこれまでどうしてできなかったのか、われわれはまだ明言できていません。
約70年たってようやく、この無言に終止符を打ち、科学による解明の伝統に立ち戻ることを、この学会は決意しました。その学会の会長として私は皆さんの前に立っています。独立した依存性のない科学的な委員会が立ち上げられ、現在1つの研究プロジェクトを支援しています。さしあたり1933年から1945年までの期間の学会ならびにその前身である組織の歴史を徹底的に見直そうとするプロジェクトです。
しかしこれで十分というのではありません。今後何年かで期待できる研究成果とは別に、私は、あまりに遅きに失してはいますが、すべての犠牲者とその家族に、ドイツの連盟とそこに属する精神科医が負わせた不正と苦痛に対してお詫び申し上げます。
ドイツ精神医学精神療法神経学会は、犠牲者の存在を認め、彼らの側にたち、自らの過去を認識し、過去から学ぶという意志をもって、そこに明確な標識をおくために、この記念式典を決意しました。
皆さん、この追悼行事によく来てくださいました。かくも大勢お集まりいただいたことに感謝します。
われわれがたったいま(訳注:本講演に先立つプログラムで)聞いた手紙や記録は、精神疾患をわずらった人々がどんな被害を受け、彼らに何がなされたかについてのはっきりした証拠になります。
ナチの精神医学は、われわれの専門領域の歴史の中でもっとも暗い部分です。精神科医とその連盟の代表者は、この時代、彼らの医師としての任務、つまり自分たちを頼る人々を治し、世話するという課題を何重にも軽視し、勝手な解釈に替えたのでした。
精神医学はだまされやすかったし、また自らだましもしました。患者を治療して、殺戮もしました。精神医学は個々の人間に義務を負っていると感じなくなり、社会全体を世話の負担から解放すること、一民族の遺伝素地の改善、最終的には「人々を悲惨さから解放する」ことを進歩とみなしました。そして言うところのその進歩の名のもとに、大勢の人間を虐待し、殺戮したのでした。それに同意しない厄介な同僚は、職場から排除しました。
思い起こせば、1933年から1945年の間に大学や研究施設で働いていた精神科医の約30%が、当時のドイツ帝国から亡命しました。亡命はみずから望んでのものではありません。ユダヤ系の同僚、あるいは政治的な信条ゆえに扱いにくくなった医師たちは、その地位や役割から排除されました。彼らとその家族は職を失い、生活基盤を、収入と財産をなくしました。故郷を失うこともありふれた事態たったのです。このような亡命した同僚たちは、その家族もろとも、異邦人として見知らぬ国で出直さねばならなかったのでした。
ドイツないしオーストリアを離れることができなかった者はたいてい、戦争中は強制収容所ないし絶滅収容所に連れて行かれました。ほとんど生き残れない運命でした。このことはもはや取り返しがつきません。
これらすべてが起こったのは、ドイツ帝国における精神医学研究が優生学と民族衛生学のテーマにだんだん集中した時でした。ナチの世界観の保健、社会、経済政策は、国民の健康と作業能力に貢献できる人間を振興することを目的にしていました。弱い者は排除して、強い者がますます強くなるよう目論まれました。この考え方には宿命的な伝統があります。
19世紀末から、優生学の概念が口にされ、精神障害者の断種が喧伝されました。ドイツ帝国ばかりでなく、スカンジナビアや、英米圏の国々でもみられました。1914年の夏には早くも「不妊と堕胎の法制化計画」がドイツ帝国議会に持ち込まれましたが、第1次大戦がはじまって審議と議案通過は阻害されたのでした。
1933年6月14日、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)自身がそう呼ぶところの、ヒットラーの「政権掌握」からいくらも経たぬうちに、「遺伝病子孫予防法」が議会を通過しました。この法律の公式の注釈に、精神科医であり、1935年から1945年の間、精神医学学会の会長であったエルンスト・リューディンが、関与したのでした。彼は当時、ドイツ精神医学研究所の所長でした。この法律の中で、断種、および強制断種は、「次の世代のための事前配慮」と謳われています。倒錯した表現です。というのも、この表現は、ある人間を苦しめ、傷つけることで、別の人間の幸福をあがなわせているからです。
この法律の中で、躁うつ病と統合失調症は、その種の遺伝性の精神疾患と名付けられました。しかし同じく、てんかんの遺伝型や盲、聾、小人症など多数の疾患もそうなりました。病気の人間は子どもを持つべきではないとされました。劣悪と認定された彼らの遺伝物質は、健常な「国体」をこれ以上汚すべきではないと考えられたのです。
医者はだれしも、言うところの「遺伝病者」を役所にとどけることを義務付けられていました。360000以上の人間がこの法律に基づいて医師から選別されて、断種されました。手術の侵襲で死んだ人は6000人以上でした。
優生学と民族衛生学的思考を背景においてみれば、断種法は、多くの精神科医には模範的と見なされました。エルンスト・リューディンは、われわれの前身組織の会長として、GDPNの年次大会の開催に際して、何度もこれを支持しました。そして世界中の別の国々でも、断種は優生学的な根拠で賛同されていました。もっともドイツでは、該当者の意志に反する断種すらも許されていました。犠牲者にとっては、これは自らのアイデンティティの中核への強烈でひどい侵襲であり、これに対して抵抗のすべもありませんでした。これによって彼らは回復不能な形で身体的無傷という権利を奪われたばかりでなく、親になる権利も剥奪されました。
戦争が終わった後も、犠牲者とその家族は、自分たちの身になされたことについて、恥と沈黙しか残りませんでした。さらに今日までドイツ連邦共和国から国家社会主義の迫害の犠牲者として、はっきり認定されたことはありませんでした。断種法は、以下の述べる当時の法律の解釈からわかるように、国家社会主義的な、ドイツの人種イデオロギーのはっきりした表現であったにも拘わらず、認定されなかったのです。
すなわち、その注釈には「ドイツ国民の様態に応じた遺伝種族保護の目的は、遺伝的に健常な、ドイツ国民にとって人種的に価値のある、子どもの多い家族を、どの時代にも十分な数だけ作ることである」と書かれていました。
私はここで、彫刻家であり、著述家、そして自らが被害者であり、精神医学体験者の連邦同盟の創始者の1人であるドロテア・ブルック女史の後年の活動を、賞賛をこめて称揚したいと思います。彼女はくり返し説明し、警告し、回想しています。数年前に死んだクララ・ノバックもそうです。ノッバック女史の主導によって、1987年に強制断種被害者と「安楽死」被害者が集まり、「安楽死」被害者と強制断種被害者連盟が創設され、以来この連盟は犠牲者の社会的名誉の回復のために戦っています。
しかし強制断種だけではありません。殺人もあったのです。すでに1920年代に、第1次対戦と世界恐慌の影響下に、患者はお荷物になりました。精神科医アルフレート・エーリッヒ・ホッヘは、1920年に出版された「価値なき生命」の抹殺の容認にむけての本の中で、法律家カール・ビルディングと協同して、「厄介もの」の概念をうちだし、「精神的死の状態」と彼は呼んでいますが、言うところの治癒不能の精神疾患のカタログを作りました。1930年にはそれを踏まえて国家社会主義の月刊誌に「生きるに値せぬ生命の死」を要求しました。
ドイツのポーランド侵攻、すなわち1939年9月1日の大戦開始日にさかのぼって、ヒットラーはいわゆる「安楽死」行動を命じました。後に「T4行動」とよばれるこの活動の医学的リーダーには、精神科医、神経医であり、ヴェルツブルグ大学の正教授、ヴェルナー・ハイデが選定されました。この活動と公式の終了に続いたさらなる患者殺人の時期に、終戦まで―正確にはその数週あとまでに―少なくとも25万から30万の心理的、精神的、肉体的な病者が犠牲になったといいます。
1939年10月以降、最初はポツダム広場のコロンブスハウスから、そして続いて1940年4月にはティアーガルテン通り4番地、すなわち今はベルリンフィルハーモニーのある場所から、ドイツ帝国および併合地域の治療、介護施設に、すべての患者を系統的に把握し、選別するためのアンケート用紙が送られました。選別は、本当のところは有用性、つまりは労働能力を基準としてなされたのです。
当時のサービスセンターの場所には、今日ではいわゆる「安楽死」の犠牲者のための紀念板が地面にひっそりと埋められてあり、あとから付け加えられた犠牲者にささげる塑像があるだけです。いわゆる「安楽死」の犠牲者のための、中心的な、国家的な追悼の場所は、いまもまだ存在しません。この事実は、排除やおとしめが存命できた人々やその家族にとってはまだ続いていることのひょうげんばかりでなく、我が国やドイツ精神医学のなかの盲点でもあります。国家的な「T4 」の追悼施設・情報施設の設立への目下の運動を、われわれ専門学会は支援するつもりです。
選ばれた50人の選定者が、各病院の精神科医から返送されたアンケートを評価し、選別し、生か死かを決定しました。この中には当時の著名な精神科医も含まれていました。ヴェルナー・ヴィリンガー、フリートリッヒ・マウツ、フリートリッヒ・パンセもいました。彼ら3人は、戦後われわれのこの学会の会長になったのでした。フリートリッヒ・マウツとフリートリッヒ・パンセはそれどころかわれわれの学会の名誉会員になっています。DGPPNの名誉会員の資格はすべて、その人の死とともに終了するのですが、それでもわれわれは今の時点でこの名誉会員の資格を不当とみなし、これを公式に破棄するつもりです。
灰色のバスは、殺戮の画像的なシンボルですが、このバスに患者たちは治療介護施設から乗せて行かれ、6つの精神科施設に送り込まれました。そこにはガス室がもうけられていたのです。治療施設が殺戮施設になりました。治療から殺戮へ、精神科医はこの運搬を見守り、彼らを信頼する患者の殺人を見守ったのでした。6つの施設というのは、設立の順番でいうと、グラ―フェネック、ブランデンブルグ、ハルトハイム、ビルナーゾンネンシュタイン、ベルンブルグ、ハダマーでした。
1940年1月から1941年8月まで、「T4」活動が公式に持続した2年足らずの間に、7万人以上の患者が殺されました。そして公に抗議して「T4」活動の終結に貢献したのは精神科医ではなかったのです。抗議はおもに教会からでした。決定的だったのは、ミュンスター司教のガレン伯爵クレメンス・アウグスト枢機卿が1941年8月24日に垂れた抗議訓戒でした。この直後に「T4」活動は公式には停止しました。
「T4」活動の推移の中で殺人について得られた知識と経験は、のちに強制収容所で利用されましたが、その際はさらに多くの人々が、何百万人も犠牲となりました。
「T4」活動と平行して、いわゆる「小児安楽死」の流れのなかで、30以上の精神科小児科病院で、身体、精神を病んだ子どもたちが殺されました。これまでは約5000の児童と言われてきましたが、戦後の法廷で殺人者自身が述べたのを、さしあたり無批判に受け入れてきた数にすぎません。数の見積もりが少なすぎたことが、ようやくわかってきました。
しかし、これだけではありません。というのも、中枢で企画された「T4」活動が公式に終了したあとも、殺人は続いたのでした。そのような「安楽死」の辺縁期には精神化施設の中で、患者は―おそらく数万人にも昇る―医薬品の過量投与によって殺され、計画的に餓死させられました。ベッドをあけるため、金を節約するためでした。患者は食事を与えられたとはいえ、死に至るわずかの量でした。ヴァルトハイム治療介護院の院長ゲルハルト・ヴィッシャーは、1943年に新入院に関連してきわめて簡潔に以下のように報告しています。
「もしもベッドを空けるために必要な手段を、いつものようにスムーズに行使しなければ、私はこのような入院を決して引き受けることはできないだろう。とはいえ、それに必要な薬が手元にないのだ」
これらすべてのことは今日では想像もできませんが、精神科医が自分の患者、すなわち治療や介護を頼って自分の所に来た人間を殺害に委ね、また選別して、自ら殺害を医学的、科学的に―えせ科学的に―監督したのでした。小児、成人、老人の殺人です。
ある統合失調性精神病を病んだ患者についての1939年の病歴がベルリンの連邦資料室に残されています。そこには次のような記載があります。
「かわりなし。精神的に死んでいる。病歴はここで終わりとする。今後も何ら変化はないからである。唯一記載に値するのは、死亡の日付である。」
殺人の前に多くの患者で「研究」が行われました。倫理的に許されない実験であり、科学と研究の価値と何ら関係のないものです。一例をあげるならば、ミュンヘンのドイツ精神医学研究所の研究者ユリウス・ドイセンと協同したハイデルブルグ大学精神科の正教授カール・シュナイダーの「安楽死」の文脈での精神的に病んだ子どもや少年についての仕事です。患者で費用のかかる実験が行われ、次いで死亡させ、剖検をしました。患者の研究は治療介護院でも実行されました。たとえば、カウフボイレンの結核菌の植え付け、ヴェルネックでの多発性硬化症のウィルス起源説の研究、あるいは安楽死犠牲者での神経病理学的研究です。最後の研究の患者は、この研究のために取り分けて安楽死へと選別された患者でなされたものでした。これらは、カイザー・ヴィルヘルム脳研究所のユリウス・ハラーフォーデンによって、ハンス・ハインツの指導するブランデンブルグ―ゲルデン病院と協同してなされたのでした。
殺された多くの患者の遺体とそれぞれのプレパラートは、研究目的で強く所望され、このプレパラートに基づいて得られた研究結果は、戦後もまだなお発表されました。ベルリンのブーフにあるカイザー・ヴィルヘルム脳研究所では、少なくとも295の「安楽死」犠牲者の脳が研究に利用されました。そして今に至るまで、殺された患者のプレパラートに対して安易な扱いがなされてきました。
精神科施設以外では、たとえばチュービンゲンの精神科医ロベルト・リッターのシンチとロマでの研究が行われました。この研究は大がかりな系譜的疫学的な研究であり、いわゆる「ジプシー」の同定と選別基準を見いだすことに貢献しましたが、彼らはそう認定されたら、アウシュビッツの強制収容所の「ジプシー棟」に連れて行かれたのでした。
国家社会主義の時代に精神医学でなされたこれらすべての不正に対しては、確かに抵抗が存在したし、サポタージュもありました。医者の50%以上は国家社会主義的組織、NSDAP、SA、ないしはSSの会員でした。しかし逆に見れば、医者の半数は会員ではなかったことになります。すなわち制裁をこうむることなく利用できる行動の余地はあったのです。抵抗は必ずしも否定的な個人的結束を迎えたわけではなかったのです。
抵抗を行使した者もいました。しかし総じてそれは少数、あまりに少数でした。とりわけ開業医の中にそのような者が存在しました。彼らは1934年から1939年の間、該当する公務医と保健局に、遺伝疾患の可能性の存在を一例も報告しなかったのです。その理由は、大病院でないところでは、患者との接触がよりダイレクトであり、より直接だったことにあったのかもしれません。このことは、今日われわれに対する警告でもあります。われわれの日常において、われわれが世話し付き添う患者たちを見失ってはいけないのです。われわれの医師としての仕事の基本方針は、彼らだけであって、社会のイデオロギーではありません。ただただ1人1人の人間なのです。
人間の尊厳は常に1人1人の人間の尊厳です。このことの軽視を、法が主導するするようなことがあってはなりません。グスタフ・ラートブルグは1946年に法と正義の間の矛盾例を次のように記載しています。定められた法は、原則的には正義に優先する。しかし実定法の正義に対する矛盾が耐え難い程度までに達し、法律が「正しくない法」として正義に譲歩せねばならない場合は別である。(・・・)正義が一度として求められず、まず正義の中核をなす公平性が実定法の制定の際に意識して否認される所では、その法律は、「正しくない法」であるだけでなく、そもそも法の本質を欠いている。
戦後は、ドイツの多くの他領域でも起こった現象が見られました。抑圧です。精神科専門学会も精神科医たちも―ゲルハルト・シュミットやヴェルナー・ライプブラントのようなわずかな例外を除いて―起こったことを自らに認めようとしませんでした。このことをわれわれは恥入り、暗澹たる気分になります。
今日までよくわからないのは、前に名前を挙げたヴェルナー・ハイデ教授の歴史です。彼は「T4」活動の医学的指導者でした。戦後彼は抑留命令によって捜索されました。にも拘らず、彼はフリッツ・サヴァーデ医学博士の名で1950年から1959年までシュレースヴィッヒ=ホルシュタイン州で司法鑑定人として第2の経歴を築いてきました。彼はその正体の情報を得た医者や法律家にかくまわれました。しかしその二重アイデンティティを同じように知ることになったその他の大勢の人々は、何も行動しなかったのです。このことは、われわれの科の内部でも外部でも知られたことでした。
このことと同時に、早期に解明の試みは阻害され、困難になりました。アレキサンダー・ミッチャーリッヒとフレド・ミイルケが1947年に「人間侮蔑の独裁」という記録をニュルンベルグの医師法廷に公開した時、多くの医師は、職業身分の体面を気にかけて、異議を唱えました。1949年の2番目の記録「人間らしさを失った医学」については、死の沈黙で迎えられました。
リューベック大学神経科病院の前の主任であったゲルハルト・シュミット教授は、1945年の11月20日にすでにラジオで、精神科患者と精神遅滞者に対する犯罪の講演を行っています―しかしこれに関する彼の本の原稿は、幾度も試みたにもかかわらず、20年の長きにわたって、出版社を見つけることはできませんでした。私は何年も前にこの本を読んで、非常に衝撃を受けました。しかし戦後ドイツの精神科医たちは、犯罪の詳細が公表されることで、ドイツ精神科医全体の再興と―当時まだ保たれていた―名声に傷つくことを恐れたのでした。誤った見解、致命的な見方です。自らの責任を認識するはずの学問的な共同体性の破綻です。シュミット教授はそのライフワークに対して、1986年にその年にはじめて授与されることになったドイツ精神医学神経学会(DGPN)のヴィルヘルム・グリージンガー賞を贈られました。ほとんど忘れられており、かつ遅きに失していましたが、われわれの学会の稀な輝ける歴史的瞬間でした。
そして政治はどうだったでしょうか?1956年に連邦法は国家社会主義の迫害の犠牲者に対する損害賠償を遡及的に決議しました。1965年、これは最終的なBEG(連邦賠償法)にまで拡大されました。したがって、人種的、宗教的、ないし政治的な理由で迫害された犠牲者はすべて、1969年まで損害賠償要求を申請することができたのです。しかし強制断種者と安楽死犠牲者の家族はそれができませんでした。人種的な理由で迫害されたのではなかったからです。このことも、犠牲者の後々までの侮辱にあたりましたが、われわれは沈黙していました。
1960年代の補償のための連邦委員会の聴聞会の鑑定人の一部は、国家社会主義で強制断種を正当とみなし、殺害計画に関与した、当の精神科医でした。1961年4月13日、ヴェルナー・ヴィリインガーは、議事録によれば、賠償金の支払いを以下のような皮肉な理由付けで退けました。「強制断種の賠償を実行すると、神経症的な訴えや悩みがでてこないか、という疑問がある。それによって、その人間のこれまでの健康と幸福能力だけでなく、その作業能力も損なわれるおそれがある」。
1974年になって、遺伝健康法がようやく失効しました。しかし形式的には継続しました。1988年には、ドイツ連邦議会は、遺伝健康法をもとに企てられた強制断種は国家社会主義的な不正であったと確認しました。10年後に連邦議会は、遺伝建康法廷の決定を法律によって廃止することを決めました。しかし、2007年になってはじめて、遺伝病の子孫を避ける法律がドイツの連邦議会から追放されたのです。基本法(訳注:ドイツ連邦共和国、すなわち西ドイツの憲法に相当する。1949年制定)との矛盾があり、それゆえに事実上は基本法の発効の時点ですでに効力は失われていたはずでした。DGPPNはこの法律の追放のための動議を当時支持したのでした。
しかし、1965年の連邦損害賠償法はその後も存続しました。それゆえ強制断種され、また殺された精神障害者は、今日まで、ナチ政権の犠牲者として、人種的な理由からの日迫害者としてはっきりと認定されていません。この点に関しては、遅きに失せぬうちに政治が動かねばなりません。この不正も廃棄されてはじめて、犠牲者のこれまで続いた苦しみとその運命が、ドイツ国家の側からも適切にあがなわれたことになるでしょう。
精神医学に関しては、1960年代後半と1970年代にこれまでの事の推移をあらわした最初の発表が個々になされました。ハンズ・ヨルク・ヴァイトブレヒト、ヴァルター・リッター・フォン・バイヤー、そしてヘルムート・エールハルトです。しかし3人とも精神医学を犠牲者として描写しています。1972年のドイツ精神医学神経学会DGPNの130年の歴史の本では、次のようになっています。
「当時の精神医学の代表者は、みかけは広範な権能がありながら、『安楽死』のような行為を援護したり、賛同したり、促進したりしたことはなかった。この時代の個々の精神科医の誤った行動や犯罪を『ドイツ精神医学』に責を負わせようとする試みが幾度も繰り返されたが、これはそれゆえ客観的に根拠なきものとして、はねつけることができる。」
筆者は1970年から1972年までのDGPNの会長、ヘルムート・エールハルトです。彼は自身がNSDAPの会員であり、強制断種に賛成する鑑定書を作成していたのでした。彼は1961年の連邦議会の損害賠償法の公聴会においてもなお、遺伝健康法の「素材的中身」はナチの発明品でもなんでもなく、「その中核的内容においては、実際に当時の、そして今日の科学的確信すら一致する」と強調しました。犠牲者に対するあらたな嘲笑であり、おとしめです。
たしかに、患者殺戮に対する精神医学の専門学会の公式な賛同表明がなかったのは本当です。しかし正しくはまた、反対表明もなかったのです。発言もなく、弁解もなく、警告もありませんでした。
そしてわずかの個人を除いて、ドイツの精神科医とわれわれの専門学会の会員の大多数は、その指導者層に至るまでが、研究、学問、実践において、選別、断種、殺戮の計画、実行、科学的な根拠づけに当時あきらかに関与しました。
ナチ時代のドイツの精神医学の歴史の研究は1980年代の初頭からは本格的にはじまりました。精神科医としては、クラウス・ドェルナー―最初は1969年で、1980年代に入っていくつかの著作を書いた―、アムスム・フィンツェン、そしてヨアヒム・エルンスト・マイアーが主にあげられます。歴史家としては、ゲルンハルト・バアダー、ディルク・ブラジウス、ハンズ・ヴァイルター・シュムールをあげておきます。1983年にはエルンスト・クレーのナチ国家における「安楽死」という目覚まし的な本が出版されました。当時わたしは信じられぬ思いでこれを読み、暗澹としました。これも私に衝撃を与えた本でした。
1992年のケルンで―この時学会はDGPPNと名を変えました―ウヴェ・ヘンリック・ペータース会長のもとに行われたいわゆる150周年記念大会の枠組みで、会員総会において決議文が採択されました。その中で学会は、精神病患者、ユダヤ人やその他の迫害された人々へのホロコーストを振り返って、嫌悪感と哀しみを表明しました。当時はまだ施設的および個人的な罪や精神科医および専門学会の巻き込まれについては論及されませんでした。とはいえ、それは明確で必要な発言でした。
今年度のこの学会の期間中、われわれは「回想のなかで」の展示を加工し、アップデートして再現しています。この展示は1999年ハンブルグにおける世界精神医学会WPAの世界学会で、はじめて大きな国際的な公開の場にだされたものでした。そして展示に随伴してシンポジウムも催されました。当時ドイツを世界学会の主催国とし、DGPPNを主催学会とする決定が国際的に下されたことは、精神科の世界的集まりの宥和的なサインでした。だから犠牲者を追悼し、われわれの科の特異な過去と対峙することに本気で取り組むのは、大事な義務だったのです。
この2年足らずの間に、DGPPNの内部で、自分たちの歴史とどう取り組むべきかについての徹底的な討論過程が巻き起こりました。これらの討論はちぐはぐにはならず、一致した結論に至りました。ちょうど1年前についにDGPPNの会則が補完されました。最初のパラグラフにうたわれています。
「DGPPNは心的患者の尊厳と権利に関する自らの特別な責任を自覚している。この責任は、自分たちの先代組織が国家社会主義の犯罪、集団的患者殺戮、強制断種に関与したことから、自身の中に生じたものである。」
この討論過程のさらなる帰結として、本年初頭にDGPPNの理事会によって、国家社会主義の時代の先代学会の歴史の解明のための国際的委員会が設立されました。委員には4人の著名な医学および科学歴史家がつきました。座長はギーゼンのロェルケ教授、そしてウィーンのザクセ女性教授、ハンブルクのシュミーデバッハ教授、オクスフォードのベインドリング教授です。この委員会はその決定において、DGPPNから独立を保っています。というのも、われわれはこの仕事においても完全な透明性を望んでいるからです。われわれは、われわれ自らの過去の解明について、委員会の各位に対して、その支援と助力に非常に感謝します。
この委員会は、この専門学会が主導し財政をまかなっている研究プロジェクトにも同行します。シュムール教授とツァラシク女性教授が関与するプロジェクトで、そこで明らかにされるべきは、DGPPNの先代組織とその代表者が、1933年から1945年の間、いわゆる安楽死プログラム、心的患者の強制断種、ユダヤ人精神科医と政治的に好ましくないとされた精神科医の追放、その他の犯罪にどの程度関与したかです。
最終報告は2年足らずのうちにできあがる予定です。その後、第2の研究期には、第2次大戦後の時代について同様に研究がなされるはずです。これもまた重要です。どのような結果が出て、どのような人物が関与していたのか、いわゆる「第3帝国」のひどい犯罪行為から、いつ、どのような教訓が引き出されたのか。
これについては、われわれは確実に言えること以上に予感をしています。
「精神的死」、「お荷物的存在」、「生きるに値しない人生」―これらすべての言葉は、口にすることだけでもつらい言葉です。これらは深く衝撃を与え、動揺させる言葉です。そして精神科医が言論統制、強制断種、殺人に積極的に関与していたことを知ると、われわれは恥と怒りと大きな哀しみで一杯になります。
恥と哀しみは、私が今その会長としてここに立っているこの組織が、犯罪行為から70年もたってはじめて、自らの過去と国家社会主義の時代の先代組織の歴史を系統的に把握分析し始め、そして―歴史的な細部の解明はまだ別に残されたまま―強制移住、強制断種、強制研究、そして殺人の犠牲者に許しを請うことです。
私はドイツ精神医学精神療法神経学会の名において、国家社会主義の時代にドイツ精神医学の名においてなされ、ドイツの精神科医によって実行され与えられた苦しみと不正に対して、またそれに続く時代のドイツ精神医学の長い沈黙、些少化、抑圧に対して、犠牲者とその家族にお詫びを申し上げます。
多くの犠牲者も、そして殺されなかったものも、そしてその親族たちも、いまではもう生きていません。その限りで、この謝罪は遅きに失したものです。しかし生きているものにとって、その子孫にとってはあるいはまだ間に合うかも知れません。なかには今日われわれと一緒に列席している方もおられます。そして今日のすべての心的に病んだ人々にとって、そしてDGPPN自身にとっても、あるいはまだ間に合うかも知れません。
苦悩と不正、まして死は、取り返しがつきません。しかしわれわれは学ぶことができます。そして多くを学びました。精神医学、そして医学全体、政治、社会を、そしてわれわれは皆で、人道的な、人間的な、個々の人間を指向した精神医学を打ち出し、作業し、犠牲者を常に念頭におきつつ、心的患者の烙印や排除に対して戦うことができます。
われわれ精神科医は、人間に対する価値評価に陥ってはなりません。われわれは教え、研究し、治療し、寄り添い、治癒に導きます。侵すことのできない人間の尊厳は、常に個々の人間の尊厳であり、われわれはいかなる法律やいかなる研究目的によっても、これを軽視する方向に導かれてはなりません。
われわれは学んだのです。まさに機能停止の状態から学びとったのです。このことは、たとえば、移植前の診断学や安楽死のように、あまりにも早急に人間の「価値」や「無価値」を、論じようとする目下の医学倫理学的な討議にも幸いにも軌を一にしています。これらの討論は、難問として残されています。しかし、目的は私にとって、DGPPNにとって、きわめて明瞭です。人道的な医学のために、人間の尊厳を守る未来のために、そしてあらゆる人間の尊厳を尊重するために、われわれは働こうではありませんか。
ご清聴ありがとうございました。
Prof.Dr.Frank.Schneider(アーヘン)
ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)会長
※この談話は、2010年11月23日のDGPPN理事会で、本学会の公文書として満場一致で採択された。カールステン・フルファイント文学修士(ベルリン)、フォルカ―・ロェルケ教授(ギーセン)に貴重な示唆とコメント提供に対して感謝する。
「御言葉」
※また海軍は、南京陥落時、軍艦で揚子江を巡視しながら、揚子江上の敗残兵を掃射した。
南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
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南京大虐殺の真相
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マギーフィルム(字幕付き)
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フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」
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南京大虐殺
南京事件を調査せよ!!
南京事件 兵士たちの遺言
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教科書検定で南京事件の犠牲者数「未確定」、中国が反発
※また海軍は、南京陥落時、軍艦で揚子江を巡視しながら、揚子江上の敗残兵を掃射した。
●天皇制を考えよう!!(日中戦争時、人間ではなく「現人神」であった昭和天皇の戦争責任は重大だ!!)
政府が特例法案を閣議決定 6月中に成立へ 譲位は実現すれば光格天皇以来、約200年ぶり
昭和天皇の戦争責任を問わないでいいのだろうか??
象徴天皇制 自由で闊達な議論が必要!!加計問題!!
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池上彰のニュースそうだったのか!! 2時間スペシャル 16 08 1
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・上のビデオでは日本の戦時中の昭和天皇=現人神、国家神道のことについては全く触れられていない!!
戦時中は、御真影を拝み、宮城遥拝して、果ては大日本帝国の為に、自らのの命を捧げ、結果多くの国々に多大な加害を与え、又自国にも大きな犠牲を出し、大日本帝国は崩壊した!!
戦後、自ら犯した侵略戦争の反省が十分なされないまま、以前の大日本帝国の亡霊が、今現在、復活してきている!!
昭和天皇の戦争責任をメディアは全く触れないでいる!!国民もその状況に慣れ切っている!!
昭和天皇は、戦局を詳しく見て、重大な判断を下していた!!
明治憲法の「天皇は神聖にして侵すべからず」とか、国家無答責などの論理は働かないほど罪を犯したのではないか??
皇族も、戦争に積極的に関わった!!
・伏見宮博恭(ふしみのみや ひろやす) :対中強硬派・対米強硬派
1933年10月、軍令部条例を改正して、軍令部長を「軍令部総長」という権威ある名称に変更した。これは、陸軍の参謀総長は天皇を輔翼する帝国全軍の参謀総長と位置づけられ、戦時に設定される大本営において、陸海軍の大作戦を計画するとされてきたことに対抗しての名称変更であった。
・・・
伏見宮は、1932年、海軍軍令部長に就任。32年7月には元帥となり、東郷元帥と共に海軍の元老となった。33年10月には、軍令部長を軍令部総長より権威のある名称に変更、41年4月即ちアジア太平洋戦争開始の年まで、海軍史上異例の9年間もその座に君臨し、皇族の特権を盾にワンマンぶりを発揮しつつけた。日本の軍隊が天皇の軍隊であったがゆえにもった特質である。
伏見宮が長期にわたり軍令部総長として権勢をふるったため、海軍のトップには、実績や能力に関係なく、伏見宮に受けが良い人物(いわゆる寵臣)、別の言い方をすれば、伏見宮に逆らわずに取り入ろうとする人物が、抜擢されることになった。
第1の寵臣・・・嶋田繁太郎 第2の寵臣・・・永野修身’おさみ) 第3の寵臣・・・及川古志郎
※安倍のお友達内閣と似ていませんか?
天皇制ファシズムと「国家神道」、そして柳田國男が温存した「神道」のドグマとは? 岩上安身による島根大学名誉教授・井上寛司氏インタビュー3日目
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15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
1、戦争における医学者・医師たちの犯罪
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く
にしやま・かつお=滋賀医科大学名誉教授、 15年戦争と日本の医学医療研究会事務局長、「戦争と医の倫理」の検証を進める会代表世話人、軍学共同反対連絡会共同代表
■「医学犯罪」検証のとりくみl本誌では、一2007年9月号特集「戦争体験をどう継承するか」において、莇(あざみ)昭三(城北病院名誉院長・全日本民医連名誉会長・15年戦争と日本の医学医療研究会名誉幹事長)先生に「15年戦争中の『医学犯罪』と私たちの今日の課題」を執筆していただきました。一昨年、政府与党は安保法制の採決を強行しました。
防衛省では、安全保障技術研究推進制度が導入され、一昨年(2015年)には3億円の予算の配分が開始され、昨年は6億円、今年は110億円と急激に拡大されました。
敗戦を契機として、まき起こった学術体制の民主的改革を求める運動の中で1949年に創立された日本学術会議では、1950年の「戦争のための科学研究には従わない声明」、1967年の「軍事目的のための科学研究を行わない声明」と、2度にわたって戦争や軍事目的のための研究を拒否する誓いの見直しの動きが出るなど、軍事研究復活の動きが風雲急を告げています。
そこで、莇先生の論考以降の医学界・医療界における取り組みを踏まえて、 15年戦争中の「医学犯罪」について、いろいろ伺いたいと思います。
今言われた一昨年からの情勢の変化を私も大変危険だと思つています。15年戦争中の「医学犯罪」を論じる際にも、その視点が重要だと思います。
その際も、 莇先生の論考を継承すべきと考えます。
その後の活動と検証結果を一言では語れませんので、その都度、書などにまとめられて公表されているものをお読みいただきたいと思います(文末に掲載)。
■「医学犯罪」の舞台はどうつくられたか
―医学界・医療界、医学者・医師は、先の戦争にどのように加担したのでしょうか。また、731部隊をはじめ、どのような規模で、どのような形でおこなわれていたのでしょうか。
「戦争医学犯罪」というと「731部隊」と思われがちですが、私たちは、そのような予断を避け、解明しようということで始めました。
2000年に15年戦争と日本の医学医療研究会(略称、戦医研)が発足した当時、先の戦争、すなわち1931年から1945年8月の日本敗戦(ポツダム宣言受諾) に至るまでの15年戦争の間における史実解明の課題として、
①日本の医学医療の軍事化の経過、
②医学医療の軍事化に積極的に協力し、進めた学会・医学者、そして協力を拒否した人々の経緯、
③研究テーマの軍事的な制約、 戦時体制からくる研究費・研究体制の制約による医学医療の歪み・停滞、
④欧米諸国との交流の断絶による日本の医学医療の停滞、
⑤戦時体制による日本の医療の崩壊をあげました。
その後の調査研究で、日本の医学者・医師らが主に海外の地で、何万人ともいわれる人々を、様々な実験の材料や手術の練習台にして殺害した主たる舞台となったのは、 石井四郎(1920年、京都帝国大学医学部卒業)が組織した、731部隊をはじめとする軍事医学研究機関のネットワーク(「石井機関」ともいわれる)だけでないことを明らかにしました。さらに、日本の医学界・医療界、医学者・医師の戦争加担を間題にする際、731部隊を抜きにして語ることはできないことや731部隊はかつての日本の医学界・医療界における最悪の戦争医学犯罪であることを明らかにしました。
■731部隊による人体実験・細菌兵器使用
―731部隊の罪悪をもう少し具体的にお話しください。
731部隊は、現中国黒竜江省の省都・哈爾浜市近郊の平房に、 1939年頃までに完成した細菌兵器開発の一大軍事基地にありました。731部隊では、実験材料にされる人々は、特別に定められた「特移扱」と呼ばれる手続きで憲兵隊により供給されて、「マル夕」と称されていました。敗戦までの5年間に少なくとも3000名が送り込まれ、生存者はいませんでした。21世紀になって、中国では、証拠隠減の焼却跡から発掘された憲兵隊の「特移扱」資料の調査が進み、300名以上の氏名が判明しつつあり、被害遺族からの訴えも出始めました。
2007年4月までに確認できた罪悪としては、ヒトを「サル」と偽って日本病理学会でも発表された「流行性出血熱感染実験」、米国で見つけられた、731部隊のデータを手に入れた米軍の報告書に記されていた炭疽、ぺスト、チフス、パラチフスAおよびB、赤痢、コレラ、鼻疽の「細菌感染実験」(被験者の50%に感染を引き起こす病原体の最小量も記されている)、「凍傷実験」、「水だけを飲ませる耐久実験」、「ぺストワクチン実験と生体解剖」、「毒ガス兵器の野外人体実験」、「毒物の経口摂取・注射の人体実験」、「細菌兵器の実戦使用」があげられます。
731部隊による人体実験や中国各地の細菌兵器の実戦使用による被害者や遺族の一部は、日本国を相手取って謝罪と賠償を求めるために日本の裁判所に提訴しました。中国人180人が原告となった731部隊細菌戦被害国家賠償請求訴訟(1997年提訴)では、最高裁判所が2007年5月9日に国家無答責(当時は国が戦争被害について賠償する法律は制定されていなかったこと) を理由にして上告を棄却し、原告の敗訴が確定しました(www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/795/005795_hanrei.pdf)。損害賠償の請求は認められなかったのですが、 「細菌戦の事実の有無について」「は原告らが立証活動をしたのみで、被告は全く何の立証(反証)活動もしなかったので」「制約ないし問題があることを認識しつつ」証拠に基づき第一審が判決で示した戦争医学犯罪の事実の存在の認定は確定しました。
2011年には、細菌兵器による攻撃についての新資料「陸軍軍医学校防疲研究報告」の第一部60号が見つけられました。同報告では、1940~42年に中国で、731部隊が行った6つの作戦をとりあげ、使用したぺスト・ノミの量と感染者数や結果に基づいて計算した作戦効果(ぺスト・ノミ使用量別の致死数)をまとめた表が示されています。同表の結果は、裁判で認定された、損害の発生した日や場所と辻褄が合うものした。新資料は、これまで「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府に根拠がないことを暴露するものであったのです。
2015年には、731部隊の跡地で心臓部ともいわれていた建物「ロ号棟」の基礎部分(東西170m、南北140 m四方)の中国による全面発掘が完了し、新館の展示スペースとともに8月15日に公開されました。この発掘は、元731部隊員の証言に基づいて作成された平面図を実証したもので、「ロ号棟」の存在が戦後70年にして白日のもとにさらされました。
■731部隊以外でも
―731部隊・「石井機関」以外では、どのような罪悪がくりひろげられていたのでしょうか。
以下のような事実が明らかになりました。
1945年の5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部第一外科の石山福二郎教授やその弟子たちが、撃墜されたアメリカ軍B29の搭乗員捕虜8名を手術実験で殺害した「九州帝国大学医学部事件」。1941年1月31日から2月11日にかけて内蒙古で、中国人を手術材料と称して用い、凍傷、テントでの手術、止血、輸血などについて研究する野外演習を行った「冬季衛生研究」。各地の陸軍病院での「手術演習」。台北帝国大学医学部(1928年3月16日、勅令第30号による台北帝国大学の設立.。1936年1月1日医学部設置)における「現地人44名の生体よりマラリア脾腫(ひしゅ)を剔出(てきしゅつ)して材料とした研究」。京城帝国大学医学部(1924年京城帝国大学開学、1926年5月医学部設置)にみられた植民地支配、医学のもつ植民地支配上の効果を期待して設立された満州医科大学(1911年に南満鉄道株式会社が創立した南満医学堂が前身、1922年に満州医科大学に昇格)の解剖学教室の「生体解剖」がありました。そのほかにも、占領地の大学や研究所以外における「非人道的な人体実験」、植民地における本邦よりも過酷な「ハンセン病対策」、将兵への伝染を防ぐための軍用「慰安婦」の性病罹患検査など軍医による「慰安所の衛生管理」などもあげられます。
2、戦争医学犯罪に医学界・大学医学部はどうかかわったのか
■731部隊と大学
―今述べられた罪悪とのかかわりで、 とりわけ大学医学部は、どのように戦争に加担していたのでしょうか。大学研究の戦争への加担という点で、特徴的なことはあるのでしょうか。
まず、731・「石井機関」に特にかかわる戦争加担についてお話しください。
731部隊などには、軍医将校の他に「技師」という身分の医学者がいました。 彼らは京都大学医学部の細菌学教室・生理学教室・病理学教室、東京大学伝染病研究所、慶応大学医学部細菌学教室、金沢医科大学細菌学教室等の出身です。2008年に出版された『京大医学部病理学教室100年史』で紹介された「石井発言」では、教室、学部、大学として組織的関与に発展していった様子が如実に語られていることが明らかになりました。筆者の請求によって「要審査」が解かれ公開された国立公文書館の留守名簿は目下解析中で、731部隊・「石井機関」にかかわる新たな人物が明らかになると思われます。
「石井機関」の中枢的役割を果たしていたとされる陸軍軍医学校防疫研究室の報告書「陸軍軍医学校防疫研究報告第二部」には共同発表者や論文指導者に大学の研究者の氏名が多く見られます。これらの研究者は「嘱託」という身分であり、その所属は東京大学、慶応大学、長崎大学、京都大学、大阪大学、金沢医科大学、北里研究所、北海道大学、干葉医科大学等でした。また「指導教官」という名目で東大教授、慶応大学教授、干葉医大教授等が名前を連ねています。さらに、防疫研究室の「委託研究」を行っていた教授の教室に所属していた医学者たちは陸軍軍医学校防疫研究室や731部隊関連の研究に組織的にかかわっていたと言えます。その他に論文末尾に「謝辞」を受けている研究者も多数いました。 陸軍軍医学校は博士の学位の授与を認められていなかったことから、731部隊関係者の学位授与の審査は先ほど述べた大学医学部や医科大学などで行われ、大学の総長や学長から出された申請を受けて文部大臣が学位授与を認可していたことが明らかとなっているのです。
日本病理学会総会では731部隊関係者が「特殊研究」、ヒトを「サル」とした研究報告がなされていました。多くの医学者たちはそれが何かを知っていたと思われます。戸田正三京都大学医学部長や正路倫之助教授【京大教授のまま佳木斯(ジャムス)医科大学教務主任、生理学教授に赴任)】は当時たびたび満州に出向いていました。また、恩師である京都帝国大学医学部病理講座教授で石井の指導教授でもあった清野謙次や名古屋医科大学医学部細菌学教授の鶴見三三も平房に招待されていました。官立金沢医科大学の定例教授会記録(1942年1月19日)には、第2病理学講座の後任教授選考に当たっての「京都には尚石井と一言う人ありて研究も大に宜しく石井部隊におらるる由なるが--相談を持て行かば承諾を得んかと思う--」という学長発言が記録されていることから、「石井部隊」という名称が一般に使用されていたことが伺われます。
京都帝国大学医学部同窓会誌には、「本学が生んだ巨人、学を以て国を護る熱血の人、石井四郎陸軍々医少将閣下(大9=大正9年卒<西山注、1920年>)は、4月19日午前5時59分入洛、故渡邊助教授の遺族に部隊長としての誠心あふれる弔慰を棒げた後、翌20日懐かしの母校に卒業後21年ぶりに来学、堂々たる体躯に親愛の情をこめて、日曜にもかかはらず、内科講堂を立錐の余地なきまでに埋めた学生・生従・職員は勿論、小川学部長、松本教授以下の各教授を前に、諄々として熱烈に、日本の進むべき道、医学の行くべき道、京大学風の趨(おもむ)くべき道を説くのであった」という記述があります。
■医学界全体が戦争に加担した
―個々の大学というより、医学界の戦争加担ということで見なければならないということでしょうか
文部省科学研究費(1918年創設)の重要項日として採用された医学分野の題目や新たに大学に附置された医学研究所にも軍事化の傾向がみられました。学術研究会議(1920年設立)には科学研究動員委員会が設置され、多くの戦時研究班を擁していました。1942年には、日本の東南アジアへの侵入と符号して「日本人の南方に於ける生活に関する科学的研究」が総合課題とされ、関連分野の5カ年共同研究計画となっています。昭和恐慌を契機に1932年に設立された「日本学術振興会」も、1937年頃から軍部や商工省の意向に沿つて、次第に国策的研究をすすめる機関(医学・衛生学は第8部門)となりました。
日本医学会(1902年設立)は、ほぼ4年に1回、全国の大学医学部・医科大学・医学研究機関の医学者が参集する医学会(1948年に、日本医師会の改組設立に伴い、日本医学会と日本医師会は統合。戦後は、「日本医学会総会」として)を開催しています。この医学会も戦争動員の場となりました。第9回(1934年、東大)では「石井式無菌濾過機」や陸軍の衛生車、衛生飛行機などが陳列されるなど、軍部の影響が如実に出始め、第10回(1938年、京大)は、陸軍省医務局からの強い要請を受けて、特別に「戦時体制下医学講演会」のテーマで「軍部と医学会が提携して医学報国の大旆(たいはい)」をかかげて開催され、総会招待講演ではナチス・ドイツ軍の将校が毒ガスの講演を行い、第11回(1942年、東大)の主題は、「戦場医学の確立」と「大東亜医学会」を結成する機運を助成することとされ、「戦場医学」と称された演題が次々と発表されました。
病理学、細菌学、外科、内科等の学会でも、戦争関連の論文発表が増えました。このような機運が高まる中で、「戦時中においては、学会(協会)の総力を動員して、後方戦力の労働力の確保に大いに貢献するところがあった」と言われた日本産業衛生学会(1927年)、ハンセン病患者の絶対隔離を求めた日本癌病学会(1927年)、「生命の根本を、浄化し--国家を繁栄せしむ--」との趣旨を掲げた日本民族衛生学会(1930年)等が設立されました。
1938年の日本の全医師数は6万3000人弱でしたが、軍医の損耗度が高いとして、1942年度までの軍医需要を3万人とし、さらに1943年度以降の大需要を5万人との見積もりで、1939年度から大学医学部・医科大学における3年の修業年限の臨時付属医学専門部の強行設立が始まりました。敗戦時までに新設医専は帝大、官立、公立、私立あわせて51校に達しました。そのうち「外地」は7校でした。
医学教育の軍事化・医学生の戦時動員もあげられます。1939年から、軍事教練が全大学の学部学生の必修科目となり、医学部でも、現役の配属将校による軍事教練が課され、軍事講習の授業も実施され、軍隊内の衛生・防疫および戦傷について学ぶ軍陣医学(現在の軍事医学にあたる)の講義も行われました。同年より、「学生衛生部隊」が全国の大学医学部の学生により組織され、夏季休暇時等に各地に「衛生調査」等の名目で派遺されました。
■さらなる戦争加担を邁進
―戦時下、医療界は、どのようにさらなる戦争加担に邁進していったのでしょうか。
1942年2月、従来の医師法などを改正し制定された「国民医療法」は「国民体力の向上を図るを以て日的」(第1条)とし、「富国強兵」策を遂行するための方策(開業の制限、新卒医師への動務地の指定、医師の徴用制度、無医地区での公営医療機関の設置、医療機関の整備統合など)を掲げました。さらに従来の医師の任務は「医事衛生の改良発展を図る」というものでしたが、この「国民医療法」の第3条で「医師及び歯科医師は国民体力の向上に寄与するを以てその本分とす」と明記し、国の方策遂行に寄与するという新しい任務を規定しました。
医師会はかねてより戦争への協力姿勢を取っていましたが、1942年に改組され、いわゆる「官制医師会」が創られました。医師会の規約では、日本医師会の会長は厚生大臣の指名制となり、日本医師会の総会は道府県医師会会長と特別議員で構成するとされ、国策への協力が医師会の大目標とされました。国民体力管理医、健民修練所指導医、「産業戦士に対する優先受診方実行」と「重要工場事業所の医療保健への協力」、動労報国隊員の健康管理、健民運動耐寒心身鍛錬への協力、町内会の耐寒心身鍛錬への協力などが次々と下部医師会に指示されました。「国民体力ノ向上二関スル国策二即応シ医療ノ普及ヲ図ルコト」を目的とする日本医療団も1942年に創設されました。
看護師は戦時召集令状で応召義務を課せられ従軍看護婦として戦地に派遺されましたがその大部分は日本赤十字社からでした。
3、戦後、日本の戦争医学犯罪は裁かれなかったのか
■隠蔽・極秘取引・タブー・無視と検証・克服
―これらのことについて、戦後の医学界・医療界、医学者・医師はどのように向き合ってきたのでしょうか。団体の動きや、個人の発言などもふくめて紹介してください。
おもに731・「石井機関」にかかわる当事者の去就について述べます。
1945年8月15日の日本の敗戦以前に、当時の日本政府と軍部は国際的な非難を恐れ、「国体護持」のため、731部隊の証拠隠減を工作しました。
ドイツの医学者・医師が裁かれた1946年12月9日から1947年8月20日にかけて米国が単独で担当したドイツ・ニュルンべルクにおける医師裁判と異なる経緯をたどりました。日本では、米国の細菌戦研究におけるソ連からの立ち遅れを克服するために、「米国への731部隊のデー夕提供と引き換えに、関係者の訴追を免責する」という極秘の取引が連合軍総司令部(GHQ、実体は米軍) と731部隊トップとの間で交わされたのです。731部隊に関係した医学者・医師は、公に露わにならず、そのほとんどが、何食わぬ顔で医学界・医療界に留まり、悪弊を断ち切ることなく、戦後の医学界・医療界などの重職につき、中には叙動、までされました。
1946年に設立された民主主義科学者協会、新日本醫師聯盟(後に新日本医師協会、通称新医協に発展的に解消)などでは、科学者のみならず教育者、知識人の戦争協力について調査し戦犯者として摘発、追放しなければならないという意見がひろく起こっていました。当時の新医協機関紙の調査により、防疫給水部の名で呼ばれ、細菌爆弾やいろいろの細菌謀略のために少なからぬ細菌学者や病理学者が研究に参加し、その間非道な人体実験が行われ、また部分的に実戦に使用されたことは、軍医として徴収された多くの医師が知っていたこともわかりました。
ソ連では、捕虜とした731部隊員たちに対して独自に裁判(ハバロフスク裁判、1949年12月)が行われ、その公判書類の日本語版は1950年には日本でも入手できました。日本の国会でも、1950年3月1日の衆議院外務委員会における聴涛克己議員のハバロフスク裁判に関わる質問がなされましたが、当時の法務大臣は「さような事実があったといたしましても、 ただいま申し上げました通り、それは連合国で処置されるのでありまして、日本国みずからが自分の戦争犯罪について判断することも処置することもできないのであります」などと答弁し、真摯に向き合いはしませんでした。中国でも、1956年に捕虜の731部隊員に対する特別軍事法延での裁判が行われました。しかし、これにも日本の医学界・医療界、政府は向き合いはしませんでした。
戦中だけではなく戦後にも陸軍軍医学校防疫研究報告が医学博士の学位授与のための論文として提出されていたことも明らかにされました。さらに2012年に着手した、京大や東大の学位授与記録の調査では、731部隊と関係が深かった諸教授が戦後も学位審査委員として学位授与に関与したことなどが明らかになりました。前述した2011年に明らかになった細菌兵器による攻撃についての新資料は、元部隊員が学位授与(1949年)に際して提出した論文の一部で、主査は、戦中に東大の伝染病研究所で指導に当たった教授で当時、医学部長、日本医学会会長でした。京大の学位授与記録調査では、1959年9月になっても学位が授与されており、その主査および副査2人中1人は元部隊員で戦後京大医学部教授になった人物でした。
日本医師会は、日本医師会年次代議員会(1949年3月30日)で「日本の医師を代表する日本医師会は、この機会に、戦時中に敵国人に対して加えられた残虐行為を公然と非難し、また断言され、そして時として生じたことが周知とされる患者の残虐行為を糾弾するものである」 という声明文を決議して世界医師会(第1回総会、1947年9月18日)への加盟が認められました。しかし、日本医師会は731部隊問題については声明文の決議で解決済みとして、自ら検証をすることを怠り、現在に至っています。
世界医師会は、権力に屈して医師の使命に背反したナチ医学の過ちを繰り返すまいということで、1948年9月にスイス、ジュネーブで開催された世界医師会第2回総会で採択したジュネーブ宣言 (2006年までに5回改訂) では「私は、たとえいかなる脅迫があろうと、生命の始まりから人命を最大限に尊重し続ける。また、人間性の法理に反して医学の知識を用いることはしない」を明示しました。日本医師会も1951年に「医師の倫理」を定めたのですが、「医師は、正しい医事国策に協力すべきである」という、ジュネーブ宣言とは程遠い規定が盛り込まれていました(2000年に「医の倫理綱領」に改定)。
その後、731部隊関係者の多くが役員になり、戦中開発した技術の応用で起業(朝鮮戦争勃発5カ月後の1950年11月)した「日本ブラッドバンク」(1964年に「ミドリ十字」に社名変更)は、血液製剤による肝炎や薬害エイズの問題を惹き起こしました。
■発足当時の学術会議における戦争医学犯罪の検証
―世界でも類例のない公選制で選ばれた日本の科学者の議会ともいわれる日本学術会議は1949年の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」で「これまでのわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、 科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う」と述べています。そこでは、戦争医学犯罪についてはどのような反省がなされたのでしょうか。
日本学術会議は日本の科学者の内外に対する代表機関として、新たに7分野に分類された全国の科学者の分野ごとの無記名投票により選出される210 人の会員で構成されることなどが日本学術会議法(1949年7月10日制定)で規定されていました。
昨年着手した創立の頃の日本学術会議に関わる調査では、敗戦後の平和と民主主義を希求する情勢のなかで、日本学術会議でも学術体制の平和的・民主的改革を求める努力がなされたのですが、それに対して731部隊関係者らが異議を強硬に主張していたことが見えてきました。
学術会議総会議事速記録を閲覧したところ、第1回総会で、国会議事録のような議事録を作成するという提案が否決され、以降の長きにわたって学術会議総会の公式の議事録が作成されていないこと、当初議事概要が作成されていたものの第8回以降途絶えたことが明らかになりました。
第1回総会の「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)」の審議経過では、731部隊関係の会員らが「これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し」のくだりに「戦争中」あるいは「戦時中」を入れる提案に対し、「すでに国家が戦争になってしまったならば戦争に協力し、 科学者が国家のために尽くすということは、一面から言うと当然のことであります」「憲法によってすでに戦争を放棄し、将来戦争というものは、 われわれ国民にとっては全然問題外のことであって、将来戦争ということを考えてこういう声明をする必要はない」などと猛反対し、賛成少数で否決にいたっています。
1950年4月28日の第6回総会では「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」が採択されました。その時も「日本の科学者も戦争を感知せざるを得ない情勢に立ち至つている」という中段の提案は、彼らの口火で、「戦争が非常に近いと言うことはいったいどういう根拠があって言っておるのか」などの議論となり、削除されました。その2ヵ月後に朝鮮戦争が起こりました。
また、1952年の第13回総会では、「細菌兵器使用禁止に関するジュネーブ条約の批准を国会に申入れる」提案に対して、「現在日本では戦争を放棄しているのだから、戦時に問題になる条約を批准するのは筋違い」「4,50年も前に解決している問題でありまして、今日ほとんど実用になりません」などと反対し、賛成わずかで否決されています。
―731部隊に属していた医師・医学者自身の特徴的な証言はあるのでしょうか。
731部隊に属していた医師で、当時のことを自著で表している者は少数です。吉村寿人元731部隊技師(京大医学部卒、戦後京都府立医大学長などを務める)は「私が属していた部隊に戦犯事項があったことが最近、森村誠一氏の『悪魔の飽食』に記載され、それがべストセラーになった為に国内の批判を浴びる様になった。<中略>個人の自由意志でその良心に従つて軍隊内で行動が出来ると考える事自体が間違つている。<中略>個人の良心によって行動の出来る様な軍隊が何処にあるだろうか。<中略>私が戦時中に属していた部隊において戦犯行為があったからとて、直接の指揮官でもない私が何故マスコミによって責められねばならないのか、全くのお門違い」などと弁明しています(『喜寿回顧』吉村先生喜寿記念行事会、1984年)。これは、ニュルンべルク裁判では退けられた、被告の弁明「医師たちは人体実験を行わなければ生命の危険にさらされたかもしれない」 「医師たちは命令に従っただけである」と同類にほかなりません。
敗戦直後から医学界・医療界の民主化に奔走した秋元寿恵夫医師は「これまで、40年近くになる長い間、第731部隊が犯した戦争犯罪については、問われれば答えるが、 あえて自分から何もいうまいという態度を取り続けてきた」としながら、1982年に自著『医の倫理を問う第731部隊の経験から』において、「血清学者として石井部隊に勤務した者が、今なお深い罪の意識を背負いながら、戦争と癒着した医学研究の恐ろしさを告発し、医の倫理とは何かを問う」ています。
湯浅謙医師による、中国太原の陸軍病院で行った生体解剖の証言は、極悪非道な医師の行為が731部隊だけではなかったことを明らかにしました。
4、ドイツではどのように向き合ったのか
■二ュルンぺルクにおける訴追
―ところで、医学の戦争への加担とぃうことでは、世界で、とりわけドイツではどのように向き合ったのでしょうか。
ナチス・ドイツ政権下における医学者・医師の非人道人体実験には、超高度(標高20000mに相当する低気圧)、低体温、マラリア、毒ガス、サルファ剤等の薬品、骨・筋肉・神経の再生および骨移植、海水飲用、流行性黄だん(肝炎)、断種、発疹チフスなど、毒物、焼夷弾治療、障害者の「安楽死」、仮病対策、電気ショック、子宮癌の早期診断法、双子の利用、肝臓移植、血液確定、敗血病などに関する実験がありました。これらがドイツでは裁かれました。
1947年米国主導で、ニュルンべルク国際軍事裁判における医師たちの訴追は「共同謀議」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「犯罪組織への所属」の4点にわたって行われました。被告弁護側の抗弁・反論は、検察側のヒポクラテスの誓いなどを典拠にして断罪され、許容できる人体実験の条件が判決で示されました。これが「ニュルンべルク綱領」です。「ニュルンべルク綱領」は、前述のジュネーブ宣言や1949年10月にロンドンで開催された世界医師会第3回総会(1949年10月)で採択された国際医倫理綱領(2006年までに3回改訂、「医師の一般的な義務」の4項目には「医師は、患者や同僚医師を誠実に扱い、人格や能力に欠陥があったり、欺まん、またはごまかしをするような医師の摘発に努めるべきである」という規定がある)、1964年6月フィンランド、ヘルシンキで開催された第18回世界医師会総会で採択され、以後、人体実験に関する倫理規定の基本をなすヘルシンキ宣言(2013年までに9回改訂)の基礎となりました。
1970年代頃からはベルリンの医師たち自身が、かれらの職能団体にたいして、 ナチズムの中で医師層が果たした役割に批判的立場を示すことを要求しました。1988年にはベルリン医師会が圧倒的多数で「ナチズムの中で医師層が果たした役割と忘れることのできない犠牲者の苦しみを思い起こす」という声明を出し、1989年にベルリンで開かれたドイツ医師会年次大会では、 「ワイマール共和国時代とナチズム時代の医学」というテーマで展示会が行われ、『人間の価値―1918年から1945年までのドイツの医学』(邦文版、風行社、1993年)が刊行されました。
ところが、私が2002年に、同書の著者と面談した際には、「世界医師会に西ドイツ医師会が加盟する際に約束した医師会会員へのジュネーブ宣言の配布は実行されずに放置されていた」「日本ではドイツが進んでいるかのように言われるが、遅々たるものだ」「ドイツ医学界の重職には元ナチ党員が多数を占めていた」「1994年には、ドイツ医師会会長歴(西山注:1973~1977年)があり、9年間務めていた世界医師会の財務理事(西山注:2010年7月、逝去)が辞任に追いやられたが、それはナチ親衛隊将校で戦争医学犯罪を犯したことが暴露されたから」「彼を推薦し、サポートし続けたドイツ医師会長が後任(西山注:1999年迄、以降名誉会長で現在に至る)」と聞きました。
■ドイツのとりくみと困難
それにしてもドイツの方が日本より進んでいると思われるのですが、日本との関係で見ておかなければならなぃことはあるのでしょうか
ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)は、2010年11月26日に、70年間の沈黙を破り約3000人の精神科医が参加した追悼集会が開催され、ナチス時代に精神科医によって25万人以上の精神障害者が死に追いやられたことを認める追悼講演を会長が行い、精神医学や学会としての思想や組織のあり方を振り返り、「施設的および個人的な罪や精神科医および専門学会の巻き込まれ」を問題にしました。
2012年5月にはニュルンべルク医師裁判が行われた地において開催されたドイツ医師会年次大会が、全会一致でナチ時代の医学犯罪について重大な共同責任を認め、ドイツ医師会の中に歴史研究を行う委員会を設けるという声明が出されました。
自らの過ちに関するDGPPNのドイツ内外での移動展示は、紆余曲折がありましたが、2015年に日本でも開催され、その間に2010年当時のDGPPN会長の講演も行われました。
5、いまどんな議論が必要か
■日本ではまだ広く知られていない戦争医学犯罪
―現在、日本では、どのような議論がなされているのでしょうか。また、いま、軍事研究への大学や研究機関の動員という問題が大きな問題となっているときに、どんな議論がなされる必要があるとお思いですか。
日本の医学者・医師の先の戦争における医学犯罪があまりにも知られていないことがまずあげられるでしょう。
ナチス・ドイツの戦争医学犯罪のように国内外で、あるいは医学界・医療界で議論が広く活発に行われているかというと、残念ながらそうではありません。
私たちは、その都度論点整理をしながら、問題提起をし、それなりの前進があったと思いますが、国の内外あるいは医学界・医療界で世論を動かすほどにはいたっていないように思います。
国際的には、前述したように、米国政府が、極秘の取引により共犯者となり、隠蔽してきた歴史があります。ナチス・ドイツの戦争医学犯罪の検証が進められているドイツでも日本の戦争犯罪・人道に反する罪についてはほとんど議論にはなっていません。
日本の医学界・医療界が60年以上隠蔽し、今もって自省の動きが見られないというのは国内外の世論、議論の程度や国が戦争責任を果たしていないことを反映しているともいえます。
しかし、ナチス・ドイツの戦争医学犯罪を踏まえて、世界医師会はジュネーブ宣言や医の国際倫理綱領で「医師は、常に何ものにも左右されることなくその専門職としての判断を行い、専門職としての行為の最高の水準を維持しなければならない」などの条項を採択し、「患者の人権擁護」のためには患者、医師、医師会、それぞれの自律が必要だとしてきました。このような国際的に普遍的な考え方にたつならば、国政の如何などとは関係なく、日本の医学界・医療界が自省の議論を尽くす必要があります。
「戦争と医の倫理」の検証を進める会が2012年に京都大学で主催した国際シンポジウムに参加したドイツの精神科医は「ドイツでは過去との関わりをできるだけ回避しようとする動きがずっと以前から一般的で、ニュルンべルク裁判は要するに勝者の恣意による判決だ、という乱暴な考えさえ多くの所で出ている」「ニュルンべルクは扉を開けた。しかし、研究の倫理への道、医学の社会的責任への道はまだ遠く、なすべきことはまだ多い」などと書いています。
第27回日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会が、2007年4月に国際シンポジウムを主催した際に、招いた米国の生命倫理学者は「過去の世代の不正は、それがとりわけ隠蔽された場合には、現在の世代の重荷としてそのまま残されると言えます。731部隊の場合、米国が一度日本の科学者たちとこのような取引をしたために、日本が抱えていた秘密が、我々の抱える秘密にもなってしまいました」「調査を行い、過去に何が起こったのかを誠実に、率直に、正確に報告することによって、そして過去と対峙することによって、我々は常々持ちたいと望んできた価値観を肯定するのです。最も重要なのは、そうすることによって、過去との共犯関係から若い世代を解放し、過去の不正に対する責任を負う必要をなくすことです。隠蔽や共犯の伝統を保持するよう若い世代に求めるのではなく、代わりに彼らをこの責任から完全に解放することです」と述べました。
戦争医学犯罪の検証について国際的な連携・協力をするための議論が必要だと思います。
■世界と日本での議論の進展
―今も戦争が絶えないもとで、国際的には医学界・医療界ではどんな議論が行われているでしょうか。
人体実験に関する国際規範であるヘルシンキ宣言やその源流となったニュルンべルク綱領も、医学者・医師が軍事研究に従事すること自体については踏み込んではいませんし、世界医師会や世界の医学界・医療界において国際紛争の解決に際しての「戦争と武力による威嚇又は武力の行使」 の禁止や武器生産の禁止についてはほとんど議論されていませんでした。2005年になって、世界で最もよく知られ、評価の高い医学雑誌Lan cet(ランセット) では出版社のエルゼビアの傘下に軍需産業の会社があることが明らかにされ、「兵器と健康を売る医学雑誌の偽善」の論争が起こり、国際的な運動の結果、軍需産業から一切経済的支援を受けないことになり、「生物医学研究者に対する軍需産業との関係についての提案」もなされました。この時には、最大の人為的災害は戦争であり、最も被害を受けるのは女性と子どもであり、国際的な公衆衛生上の課題であるという趣旨のWHO(世界保健機構)の報告についても議論されました。
―それに対し、日本の科学者の世界では、全体の問題としてどう議論されていますか。
その場合、今問題になっている日本学術会議がどうであったかの議論が必要だと思われます。
今、学術会議では「国民は個別的自衛権の観点から、自衛隊を容認している。大学などの研究者がその目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきではないか」に関して議論がなされています。このような問題提起が学術会議で出てくる背景には、日本学術会議の創立の頃だけでなく、その後も先の戦争中における日本の科学者の戦争加担の検証がなされていないことがあるのではないかと考え、学術会議総会の記録の調査に着手しました。明らかになったのは、国会のような議事録がないため、議事詳細は議事速記録を通じてしか知ることができないこと、学術会議総会議事速記録は図書館に収蔵されているが図書館所蔵でないため、日本学術会議事務局に閲覧許可申請をしなければならないこと、他方、学術会議の運営審議会資料などは図書館所蔵のため日本学術会議図書館利用規程に基づき、閲覧許可申請をしなければならないこと、日本学術会議図書館は国立国会図書館の支部であるにもかかわらず、「一般公衆」などについては「館長が特に承認した者」でないと利用できないとされるなど著しく利用が制限されていること、複写サービスは、原則として行わない。 ただし、館長の許可を得たときは、利用者において複写又は撮影を行うことは妨げないことなどです。これらの制度は国立国会図書館制度の趣旨や国立公文書館の制度に合うように見直されないままでは、検証は困難です。
学術会議は、1984年には公選制が廃止され、学会推薦・内閣総理大臣任命制へと改悪され、学会などで推薦された者が会員に任命される制度となりましたが、学術会議では731部隊に関する初めての議論が行われていたことが、2003年の日本学術会議生命科学の全体像と生命倫理特別委員会報告「生命科学の全体像と生命倫理―生命科学・生命工学の適正な発展のために―」の報告により明らかなりました。同報告では「生命倫理を考える契機になった近代史上の最初の事件の一つとしてあげておかなければならないのは、第2次世界大戦中のナチスによる大量虐殺や大学医学部医師も参加した日本軍731部隊による非人道的な人体実験である。これら事件は人間として余りにも常軌を逸したものであって、いくら厳しく糾弾されても足りるものではない。このうち、731部隊の事件に医師たちも参加していたことは長い間隠蔽されてきたが、ナチスによる事件については敗戦国ドイツに対する1945年の国際軍事裁判で明らかにされた」と明記されています。
さらに、2005年の平和問題研究連絡委員会報告「21世紀における平和学の課題」では、日本学術会議としても日本の未決の戦争責任などの諸問題を学術的に解明することが重要であると述べられていました。
このように、731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上(そじょう)にのる兆しが出てきました。
しかし、2005年に学術会議会員の選考法がさらに改悪され、学術会議会員が自ら選考する方法となった後に公表された学術会議の諸文書には、戦争医学犯罪のみならず、日本の科学者の軍事研究への加担の歴史や戦争責任全般についての学術的解明について、言及したものは見当たりません。731部隊などの戦争医学犯罪だけではなく戦争責任全般についての学術的解明が日本の学術界の俎上にのったことを契機に、それまでの不作為も含めて、学術会議自身が自らの課題として検証を進めることは、1950年、1967年の2度にわたる戦争や軍事日的のための研究を拒否する誓いの見直しにストップをかけ、軍事研究復活阻止にもつながると思います。
■立法府の動きにどう向き合うのか
―立法府での議論についても、無関心でいてはいけないと思いますが、いかがですか。
日本政府は、国会で「日本国みずからが自分の戦争犯罪について判断することも処置することもできない」などと無責任な答弁を繰り返してきました。しかし、裁判では、被害の存在を認定したのみならず、「国際慣習法による国家責任が生じていた」ことを認め、「何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において」「高次の裁量により決すべき」とされました。立法府での議論が求められていると思います。
立法府では、「戦争及び人道に対する罪に対する時効不適用条約」の批准も議論されなければならないと思います。この条約は、1968年11月26日の国連第23回総会で決議(日本政府は棄権)され、1970年11月11日に発効しました。戦争犯罪と人道に反する犯罪について時効は「その犯罪の行われた時期にかかわりなく、適用されない」と規定しています。私たちの検証によって、731部隊や日本医学会等の組織的な加担とともに、それらを構成していた個々の医学者・医師の犯罪性も少なからず明らかにされてきました。その中には、感染実験でぺストを発症させ、治療もせずに死亡に至るまで経過を観察した人体実験を行い、その結果を、学位論文として提出する際、実験対象を「サル」と偽る明白な不正を行い、学位授与を申請した者、そのような学位授与の申請を受理し、学位授与を認めた者もいますが、全て裁かれずに世を去りました。そのようなことを繰り返させない・繰り返さないことにつながると考えられるからです。
1999年以降の有事法制により、有事の際に全国の医療機関や医師が担うべき役割が規定されました。政府が「有事」とみなせば、病院などを管理下に置き、医師・看護師などには公用令書(かつての召集令状、赤紙)が届けられ、医薬品等も調達物資の対象となり、命令に反すると罰則の対象にもなります。
私たちが同法に従うことになれば、「いつか来た道」をたどることになりかねません。それでも「命令には従わざるを得ない」 という声が多数であったという結果を示す調査もあります。良心的兵役拒否権は国際連合やヨーロッパ評議会のような国際機関では基本的人権「良心の自由」として認知され、推奨されており、法制化が図られている国もあります。日本国憲法では許されていない国の武力による威嚇または武力の行使のもとでの医療従事者への命令を拒否する権利の保障についても議論されねばならないのではないでしょうか。日本の医学界・医療界が国の内外で、軍縮、戦争放棄に取り組むことも医学者・医師の戦争医学犯罪の防止につながると改めて思います。
―戦争放棄、軍事研究復活阻止が決定的に重要であるとしても、「命令には従わざるをえない」ということについてはどう考えればいいでしょうか。
「戦争と医の倫理」の検証を進める会などで一致協同して取り組んでいる根底には戦争医学犯罪を繰り返さない、繰り返させない、ということがあります。戦争は人を狂気にします。今日ではPTSDに分類される戦争神経症などは先の戦争でも日本の軍や医学界・医療界の課題でした。
被害者やその遺族の無念・怨念も癒えることはありません。戦後も狂気が癒えず入院したままで世を去った人々や今も入院中の人々がいます。だから医師・医学者は「戦争に反対だ。でも戦争になったらお仕舞」では済まないのです。戦争で医師が狂気に陥り、戦争に賛成し参加すれば、治療や予防という医師の役割に相矛盾します。その意味で「繰り返さない」ということは、医師・医学者自身が、人間の一尊厳、人権、命と健康の擁護を貫ける強靭な倫理観を持つことであり、検証の意義はそこにもあります。
■今後の検証で重要なこと
―今後さらに検証を進めるうえで重要なことはなんでしょうか。
国政、日本学術会議、日本医師会、日本医学会で検証を行うという意思決定がなされていない状況を考慮しなければなりません。これまでは「戦争と医の倫理」の検証を進める会などは、4年に1回開催される日本医学会総会での意思決定を期待して主に日本医師会や日本医学会に働きかけてきましたが、今後はどうするかということが問われているように思います。この間の検証で、個々の専門医学会や大学医学部、医科大学が自省すべき史実も明らかとなっていますが、その気配が見られないところにどのように働きかければ自省が進むのかの議論です。具体的には、戦中の医学部教授会の議事録の開示、不正・非人道性が疑われる論文を学会誌に掲載した当該学会(日本病理学会、日本感染症学会など)における検証、不正・非人道性が疑われる学位授与論文が受理されている大学(京都大学、東京大学、新潟大学など)における当該学位授与の検証、九州大学医学部「生体解剖」事件に関する九州大学における検証、731部隊や戦中の学術に関する学術会議における検証などです。
また、国政レベルの検証に関して追加しておきたいのは国の資料の開示の問題です。1958年に米国から返還された731部隊と細菌戦に関する文書とその目録の公表や自衛隊の『衛生学校記事』の開示など防衛省が所蔵する旧陸軍防疫給水部資料の全面開示が行われていません。
厚生労働省社会・援護局業務課が2010年3月に、保管していた戦没者等援護関係の資料については、公開と後世への伝承を図るため、原則として戦後70周年に当たる2015年度までの5カ年の間に国立公文書館に移管することを発表し、ほぼ予定どおり実行されました。移管された資料に記載された人数は延べ約2300万とのことです。国立公文書館ですでに公表された一覧表から、防疫給水という名のついた部隊の留守名簿が約70あることがわかりました。開示については「要審査」のため時間を要しましたが、731部隊、北京にあった1855部隊、シンガポールにあった9420部隊等については入手することができ、目下分析中です。しかし、それらは「要審査」とされ、審査期間は通常30日程度よりはるかに長期を要するなどの問題があります。これらの問題が一刻も早く解決され、全てが開示されれば、731部隊・「石井機関」の全容を明らかにする大きな一歩となると思われます。
―ありがとうございました。
[参考となる本]
第27回日本医学会総会出展「戦争と医学」展実行委員会編『戦争と医の倫理』(かもがわ出版、2007)、
「戦争と医の倫理」の検証を進める会『パネル集「戦争と医の倫理」』、
15年戦争と日本の医学医療研究会編では『N0 MORE731 日本軍細菌戦部隊』(文理閣、2015)、
同『戦争・731と大学・医科大学』(文理閣、2016)、
拙著『戦争と医学』(文理閣、2014、中国語版有)、
川嶋みどり共著『戦争と看護婦』(国書刊行会、2015)など。