731を問う!!
2016年8月16日火曜日
731=国家犯罪!!
●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、細菌戦を闇に葬っている!!
日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア
井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)
寧波(ニンポー)細菌戦
闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)
細菌戦裁判(1997年~2007年)
終戦50周年731部隊
細菌戦被害の人々
(毒ガス戦)
原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】
<終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)
暴かれる毒ガス戦の真実
(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
天皇は知っていた!!
澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!
『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。
石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。
これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。
次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。
石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。
石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)
東京初空襲・浙かん作戦
一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。
赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!
1921年昭和天皇フランス視察
1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
【談話】金子論文発見について思うこと―
中村明子(感染症研究者)
★以下のQ&Aは、電話で中村明子先生にお聞きしたことを、まとめたものです。
Q.先生も確か、予研(国立予防衛生研究所)にいらしたんですよね?
A.私が予研に就職した頃、そこには優秀な先輩の研究者がたくさんいました。その後私は大学に籍を移しますが、細菌戦裁判の弁護団からペストの流行について検証を頼まれ、そこで初めて、予研のあの先輩もこの先輩も731部隊にいた人だった、ということを知りました。
Q.先生が検証を引き受けてくださったお陰で、判決でも細菌戦の事実が認められました。
A.他にもそういうことが出来る人がいるのに引き受け手が無くて、結局私が引き受けたんです。中国南部のペスト流行について調査してみたら、最初にペストノミがばら撒かれたことによるヒトへの第一次感染があって、そのペスト菌がネズミを感染させて、一定期間を経て第二次感染が起こる、という流行のパターンを検証することが出来ました。こういう流行の仕方は、細菌が人為的にばら撒かれたことを示している・・・・そういう鑑定意見書を書いたんです。
※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!
『細菌戦資料センター会報10号』より
小泉親彦(ちかひこ)
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。
・パネル展
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
話は今につながっている!!幽霊が出る!!
石井隊長の戦後1
<群馬大病院>二つの外科、手術数競う 死亡事故調査委
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
「ミドリ十字」という会社
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴
イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状
国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!
子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
第4章 日米軍事医学交流
「特殊研究」関係者の原爆調査
田宮猛雄が率いる東京帝国大学伝染病研究所(伝研)は、8月29日、赤痢に似た症状で死亡する事例が相次いでいる事態に関して広島県衛生課から調査依頼を受け、草野信男助手、臨床医2名、細菌專門医計5名を広島に派道した。田宮は、東京帝大医学部長、伝研所長であると同時に、陸軍防疫研究室の嘱託だった。伝研調査班は、厳島の寺に安置されていた女性の遺体を解剖、 次に広島から30キロあまり離れた賀茂郡西条町(現・東広島市)の陸軍傷痍軍人西条療養事務所で3体ほどの被爆者の遺体を解剖し、他の医師が解剖した剖検材料とともに東京に持ち帰った。
※戦時中、陸軍軍医学校防疫研究室は平房の731部隊と連絡を取り合い、嘱託の教授らがいろいろと実験等にアドバイスを与えていた。平房などで行われた実験データ等は、防疫研究室に送られていた。
・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直
では、アメリカの核の傘のもと日本独自には何をどうしようと、仁科は考えたのだろうか。上記史料に「勿論それはわが国で実現させ得ないのはいうまでもないことである」とあるように、日本がアメリカ同様の水爆保有国になろうとは、当然考えていなかった。ソ連の原爆実験成功のニュースに接するや、生まれたばかりの日本学術会議をうながして(1949年10月の第4回総会)、「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状にかんがみ、原子力に対する有効な国際管理の確立を要請する」 [★13] との「原子力に対する国際管理の確立の要請」を出させたように、アメリカの核の傘の下、原子力の国際管理を実現し、そのもとでの原子力の平和利用に徹しようとしていた。当然、原子炉を稼働させれば必ずプルトニウムが蓄積される。核保有国になるのではなく、潜在的核保有国になろうとしていたのである。
※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!
海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集
開示された文書「何で黒塗り?」
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
放射能汚染地図「川で何が起きているか?」
原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書
●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!
・「中国軍の公式報告によれば昭和12年より昭和20年に至る間中国における日本軍は1312回に亘り毒ガス及び細菌を使用せり・・・・」
毒ガスと抗がん剤(船瀬俊介VS内海聡)
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
・日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より
・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
(時代背景)
1995年当時の内閣は、日本社会党の村山富市氏であった。村山氏はこのとき、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。
このときは、国民の関心が自衛隊に集まっている時であった。
その中での、地下鉄サリン事件、そして、自衛隊の出動・事件の対処がある意味称賛される。これは、何を意味するのだろうか?
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。
地下鉄サリン事件
医学者とは1
松本サリン事件・地下鉄サリン事件が起きる前に、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護の措置を熟知していたのは日本では自衛隊化学学校だけである。その自衛隊のサリン製造技術がオウムに漏れていなかったのか??
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態(実物のサリンは持ち出せないが、データ資料の管理はどうなっていたのだろうか?)???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。
【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】
【この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。】
(『悪魔の白い霧』下里正樹著)
自衛隊は、毒ガスのデータを1950年代に米軍(米軍は、ナチスドイツの文献資料を日本から入手して毒ガスを製造)から入手し、開発を進めていた。
・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
週間金曜日 2013年6月28日号
自衛隊とサリン 第6回
「大宮駐屯地グランドに毒物入り一斗缶10缶を埋めた」
・「われわれはモルモットかよ!」-新型防護マスクの“人体実験”
・環境汚染の恐れは無いか、近くに民家や学校も
・「今も続く毒ガス製造と遺棄の解明が必要」
・防衛大臣、化学学校ともに事実上の取材拒否
サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
日本は国内外にも約44トンのプルトニウムを保有している(2012年9月、日本政府発表)。核兵器1発に使用されるプルトニウムの量は約4キログラム(IAEA=国際原子力機関によると倍の8キログラム)とされるので、数字上は5500~1万1000発の原子爆弾を作ることが可能だ。
陸上自衛隊の毒ガスは、どこまでが「防護研究」なのかを明確にしないまま、極秘裏に開発が進められた。そのため、国民(国会)のチェックはおろか、その事実さえ知られずに半世紀にわたりサリンが作られ続けてきたのである。
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!
日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)
国会答弁書
・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
だが、このとき運び出された8300トンのサリンは、貯蔵量のほんの一部、知花弾薬庫には、まだまだ大量の神経ガスの残されてあった!!
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●マレーシアの旅
●多磨霊園と大日本帝国
・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう
慶応3年9月28日(1867年10月25日) - 昭和27年(1952年)8月22日)84歳没
日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。
美作(岡山県)津山藩士平沼晋の子。号を機外。1888(M21)司法省に入り、1905大審院検事、06民刑局長を兼任、大逆事件で主任検事を務め社会主義抑圧のため暗黒裁判を指揮。 西園寺(8-1-1-16)内閣司法次官。12(T1)~10年間検事総長、21大審院長、山本内閣法相。24退官し貴院議員・枢密顧問官。 社会運動や西洋物質文明を害毒とし、同年復古的日本主義による国民教化を目指し国本社を創始。日大総長兼任。 34(S9)枢府議長。極端な右傾を警戒される不満から帝人事件・国体明徴運動を影で指揮し倒閣。36の2・26事件後枢府議長。 39内閣を組織。在任中、総親和を掛声に国民精神総動員を強化、だが独ソ不可侵条約締結で「複雑怪奇」の迷句で退陣。40近衛内閣の国務相・内相。敗戦後A級戦犯。
<コンサイス日本人名事典>
*大正15年10月28日に騏一郎が男爵を授爵した。
*平沼騏一郎の墓所内には騏一郎の墓石の左側に平沼恭四郎の墓石が建つ。平沼騏一郎には実子がなく、兄の平沼淑郎(よしろう)の孫娘・中川節子と夫の恭四郎が一家養子となり、その長男が小泉内閣の経済産業大臣の平沼赳夫である。
なお、平沼は戦後、A級戦犯として収監された巣鴨プリズン内での重光葵との会話の中で、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったことがあるとされ、西園寺を敵視していたことが伺える[5]。
太平洋戦争後、A級戦犯として終身刑が言い渡されるが、1952年病気仮釈放。直後に死去した。刑務所内では深夜に泣き叫ぶなどの奇行が多かったという。
●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!
毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。
情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず
自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!
お役人のお仕事・・・いかにまずい資料を隠すか??
お粗末な日本政府の情報公開
・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしいではないか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?
・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!
※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!
情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。
審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??
「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)
※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。満州事変を起こしたあの謀略戦争の開始、あれは関東軍が先走ったと言われているが、その関東軍の上層の命令が無ければ出来ない、そして結果的には大元帥陛下、天皇が承認しなければ出来ない、そういう組織が日本の軍隊だ!!
●『日本の国家機密』(秘密国家日本の実態)
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第2篇 自衛隊の機密
第1章 作戦用兵
1 軍令事項
軍政と軍令
参謀本部条例(明治41年軍令陸第19号)の第1条は、「参謀本部は、国防及び用兵の事を掌る所とす」と定めていた。軍令部令も同文であった。ここにいう国防とは兵力をもって国家を防衛することをいい、用兵とは外敵もしくは内敵にたいし、または治安維持のために軍隊を運用することを意味していた(日高巳雄『軍機保護法』152ページ)。軍令事項とはこのように広範囲のものであったが、具体的になにが含まれるかについては多くの問題があった。陸軍と海軍では相当の差異があり、また軍部の台頭にともなって軍令事項の範囲が拡大されていった。本来は軍政事項であった兵力量の決定が、昭和初年以降は軍令に含められたのが、その一例であろう。
(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30
※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。
●現在の日本
日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。
日本の原爆開発
核融合はやるべきではない!!
この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所
原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?
”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中にさせられる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』
●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。
南京麻薬貿易に関する報告
B.ヘロイン
アヘンの交易と同様に、ヘロインにも恐るべき破壊性がある。ヘロインの営業総額の新たな伸びも、邪悪な世界に立ち込めていて、(上述した)金額とだいたい同じであろうし、それと関わっている人数も、それ以上かも知れない。
ヘロインは吸飲がずっと簡便で、しかもごく小量で効き目が生じる。時価で言うと、中等程度の麻薬中毒の人1人で、廉価なアヘンなら毎日5角ないし1元吸わねばだめだが、ヘロインなら3~4角で済むと、普通は見なされている(政府筋の吸飲所で扱っている精製してないアヘンや、吸飲用ランプの特別価格は、2角ないし5元と等しくなく、アヘンの精製未精製の規模や質や様式によって決まる)。
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
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(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より
軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)
お粗末な日本政府の情報公開
※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
世界初の「南京大虐殺辞典」出版される
●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)
映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん
2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。
<克明な記録に圧倒>
残留孤児という名前は承知しているが、その悲劇の主人公がどう生きてきたのか、まったく知らない日本人ばかりであるが、その疑問に「この生あるは」は、一つの回答を与えている。
いえることは、中島さんは実に幸運な中国生活を過ごしてきたことが理解できる。克明な記録に圧倒される。幼少の記録を多くの人間にとって記憶にないかわずかだ。異常な運命が、それを克服したものであろうか。
70年前の人々が、現代に生き生きと蘇っている。
発売元 亜東書店 03-3835-7091
中国語版 北京三聯書店「何有此生」
●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
医学者とは5
ガン治療のウラ 2/8
「こんな家に住んではいけない」船瀬俊介の船瀬塾
悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄5/6 ラジオ深夜便
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十四章 創り直された君主制
第15章東京裁判
昭和天皇は1942年にはすでに、主要な戦争犯罪人を裁判にかけることが連合国の公式の戦争目的となっていることを知っていた。1943年11月のモスクワ宣言は連合国のこの目的を確認した。1945年7月のポツダム宣言はその点を再確認し、さらに同年8月8日にロンドンで署名された国際軍事裁判所(IMT)憲章は、連合国の戦争犯罪政策を明確に示した。このように、8月9日から10日にかけて天皇と政府指導者たちが降伏の検討を進めていたとき、 戦争犯罪問題は重大関心事となっていたのである。1945年9月11日、マッカーサーが戦犯容疑者の第一次逮捕・拘禁命令を発すると、戦犯問題への関心はより高まった。容疑者のなかには、天皇が信頼を寄せていた総理大臣―支配下にあった憲兵隊による残忍な抑圧だけでなく、食糧配給の不公正さゆえに、日本の国民から恨みを買った―東条大将が含まれていた。
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
敗戦
(その5)
苦しい判決
ウェッブ裁判長は、大男で、疲れを知らぬ、鋭い執念を持つ男だった。その青い目が濃い眉毛の下から射るような視線をおくり、深いしわが口のまわりに刻まれていた。彼の鼻は大きく、彼の指揮は英国のチャーチル風だった。彼は自分の職務に、高い尊厳、完璧さ、独立不羈の気概を抱いていた。もし、出勤の際、彼の秘書が時間通りに迎えに来なかったり、あるいは、彼の運転手がアメリカ人MPから不正な交通券を受け取ったりしたならば、総司令部は彼からの手厳しいメモ書きを覚悟しなければならなかった。もし、法廷のエアコンやイヤホーン装置が故障したなら、これまた、ウェッブの報告事項に取り上げられなければならなかった。東京のどこにも、ウェッブとマッカーサーほどの無味乾燥したスタイルを受け入れている場所はなかった。(136)
昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に
マレーシアの旅
●戦争のことを考えるならば、天皇や自民党の議員は、東南アジア、中国、韓国などの現地を訪れ、現地の人の声を聞くべきだ。高嶋伸欣先生の「東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅」は、今年で、通算41回目を数える。根気よく、現地を巡り、現地の戦跡を訪ね、慰霊し、研究をしている。そして、あの戦争で日本軍は、どんなことをしたのかを明らかにしている。今回ブログで採り上げるのは、その高嶋ツァーに初めて参加し、そのあと、もっと現地の戦跡を巡ってみたいと考え、なんと自分で自転車を買って、巡った人の旅行記だ。今、多くの日本人が過去のことを忘れ、ひたすら今の自分の生活に追われているのとは、余りにも対照的なので、この貴重な体験談を採り上げる。ぜひ、お読みください!!
●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良
8月17日(月)
12時頃、KLIA2にてツァーの皆さんと挨拶を交わしお別れしました。今夜の帰国便で帰られる東山さん・龍野さんとKL市内へ向かい、小嶋さんに調べて頂いた自転車屋で皆さんとお別れしました。 自転車屋は3軒周りましたが、どれも予想以上に高く、購入は翌日に持ち越す。
8月18日(火)
スーパーマーケットのほうが安いというので、そこで購入(約13,000円)。後部に荷台がないためリュックザックは背負うことにする。
お線香やライター等必要な物を準備する。
8月19日(水)
KL市内を抜けるのが大変。高速道路入口で警官に自転車で走行していいか尋ねるとOKとのこと。 KL~ラワング~クアラ・クブバルと高速道路と国道1号線を交互に走りながら辿り着く。サドルが硬く、形が合わないためか、尾てい骨に激痛を感じながら走った。走行距離 約70キロ。
高速道路を自転車走行!
8月20日(木)
クアラ・クブバルを出発し、高速道路を走行中、ペダルが根元から取れてしまい困っていると、運良くパトカーが止まってくれた。
自転車は危ないから走ってはいけない!と注意されスリム・リバーの自転車屋まで送ってもらいました。中国系のご夫婦は愛想よく対応してくれました。サドルカバーも取り付け1号線を北上、スンガイの町へ。華人義山はわかりましたが、どうしても三烈士墓のお墓は見つけることが出来なかった。走行距離約65キロ。
8月21日(金)
昨夜またペダルが取れてしまい、再度自転車屋で修理。後部に荷台を取り付け、これでリュックザックを背負わずに済む。昼頃出発し、13 キロ先のビドーの町へ。予想より大きな町だった。ビドーの墓碑について5人に尋ねてみたが、知っている者は誰もいなかった。13キロ走行
8月22日(土)
ビドーのKTCホテル ⇒ 中華料理店(劉建彰さん) ⇒ 冷水河の忠魂記念碑 ⇒ CHUI CHAK(チュイ・チャー)の大屠殺遺址 ⇒ 冷甲の抗日殉難者公墓 ⇒ 夕食
9:25 KTCホテル出発。昨夜『マレーシア』 71頁に、ビドーのお墓の写真を発見。134頁のコラムには「写真を入手した場合、その写真を地元の人に見せて訪ねると、ほぼ確実に目的地に辿り着ける。また、地元の人に道順を訪ねながら、交流の契機とされることを願っている。」と書かれています。よし、この写真を見せながら再度訪ねてみようと思いました。中国系の店員に聞くこと3軒目。郵便局の相向かいの中華料理店を自信ありげに紹介された。訪ねてみると、所々日本語の単語が聞かれた。20年前に日本で5年間住んでいたという。千葉の外語学院で日本語を勉強し、東京で仕事をされたそうです。さらに驚くことに2008年に高嶋先生を案内して知っているという。
名前は劉建彰さん(↑写真の左。右が鈴木さん)。石油を扱う工場に勤務されていて、今日は土曜日なので実家のお店を手伝っていたという。なんと幸運!そしてペラ州の墓碑の分布図を見せると、ビドー周辺のお墓は説明出来ないほど複雑で一人で行くには無理があるよう。唯一冷水河の忠魂碑は解りやすいようです。また、安順の勇士記念碑は、戦後の統治期にイギリス政府に撤去されて無い、という貴重な情報などたくさん教えてもらいました。劉道南先生(昨年のツァーでイポーとその周辺を案内して下さった。12月にはアジア・フォーラム横浜の証言集会で貴重な証言をしていただいた。)のことも知っており、電話番号まで調べて頂きました。さらに、24 日(月)朝7時半KTCホテルに遺族の方が集まり、ビドーのお墓参りをするという。もしご迷惑でなかったら、私も同行したい!と申し出ると快くOKの返事が返ってきた。このような経緯に至るまでに様々な人に連絡をとって頂きました。またご家族の皆さんも親切に接して頂いた。
皆さんにお礼を述べお店を後にしました。
11:40
こうして期待を胸に膨らませビドーを出発。
1号線を左折し58号線を直進。
12:20
冷水河新村に到着。道の両側にお店が連なっており、最も手前のお店に訪ねに入りました。いつも通りの片言の英語と墓碑の分布図を見せると、「アー・ユー・ジャパニーズ?」と娘さんが聞いてきた。以前にも日本の方たちが訪れたことを察しました。道順の確認を再度していると、「ついて来て!」と娘さんが母親のバイクに股がり誘導してくれました。すぐ裏手の広い空き地にその記念碑はあり、数メートル間隔で3基並んでいました。縦長のかまぼこ型をした墳墓の高さは30センチほど。中央の碑には「華僑損躯(「損躯」は、「わが
身を捧げる」という意味)忠魂紀念碑。
1948年2月28 日建立」と赤く刻んであります。
事件は 1944年1月23 日の夜、数台のトラックで運ばれてきた人たちがいた。女性も子供もいたようだというが、どこから来たか、誰か、今となっては不明という。一軒の家に全
員が閉じ込められ、火がかけられ全員が殺された。
遺骸は三つのお墓に分けて葬られた。碑は村人により建立されたようです。ここでも罪の
無い一般住民が犠牲になられた。
それぞれに三礼し、お線香を手向けました。墳墓には赤・黄色のかわいらしいお花が所々咲いていました。もし次回訪れる機会があったら、日本の花の種を墳墓一面に蒔いてはどうだろうか!との考えが浮かび、色とりどりの花で覆われた姿を想像しました。しかしそれ以上に、この事件を多くの人に知ってもらうことが犠牲者の最も望むことではないのか!と思う。その最初の願いに応えていく努力はしていきたいと思います。その場を後にすると、裏手にある豪邸の前で呼び止められ、談笑が始まりました。この豪邸は案内してくれた母親の姉妹のご自宅であるという。高級車も停まっている。
皆さん笑顔がたえずとても親近的だ。記念撮影をし、ランブータンをもらい別れました。
右が案内してくれた母娘。左が母親の姉妹。
13:00
冷水河新村を出発。58号線を右折しA129号線を進む。パームヤシ園が続くなか、青空の下、風を感じながらのサイクリングは心地よい。左手に広大な水田が現れ、しばらく行くとCHUI CHAKの町が現れた。
14:00
CHUI CHAKに到着。食堂に入ると20人ほどの男女が、テーブルを囲ってビールを飲み交わしていた。店員の女性に大屠殺遺址の場所を訪ねると、すぐ店内がその話題で騒がしくなった。若い男性が威勢よく話しかけてくるが、言葉がわらない。ノートに書いた「和平学。日本の加害の歴史(事実)を学んでいる」などの文字を見せ、手を合わせるポーズをすると、少しは通じたようである。そして、『マレーシア』を見せると興味津々に眺めていた。皆さんのネットワークを駆使し、情報収集をしてくれている様子。幾度となく電話を掛けなおし、しばらくすると、バイクに乗った男性が現れ、皆が駆け寄った。そして「これから行くから車に乗って!」と促され、女性店員からは「日なたに当たっている自転車を軒先に移動しなさい!」と助言され移動する。リュックを荷台につけたままで、鍵も掛けないことに一瞬不安も過ったが、皆さんの好意的な人柄は信用できると思った。車は少し走り、そこからは二台のバイク、計四人で前進する。悪路の未舗装をすっ飛ばし飛ばされないように必死で掴んでいた。一キロ以上進んだ所で右折し、パームヤシ園の中へ入って行く。左手には小川が流れている。どうやらこの辺りに大屠殺遺址はあるようだ。ジャングルの中、皆で必死に探すがどうしても見つからない。地元の人に連絡を取りあい、スマートフォンのGPS で位置確認をし、様々に手を尽くす。再びバイクに股がり右往左往するが見つからない。そして、ここには2つの碑がありもう1つのお墓に行こう、ということになった。そこはT字路を右折した右手の辺り。私が墓碑を指すと、ここだ!という。墓碑には、廖追明先生之墓 と書かれているように読める。この方が抗日戦での犠牲者なのか否かは分からない。お線香を皆に手渡し、四人で三礼をする。
少し満足感を得、村に戻るとワンタンスープをご馳走してくれた。私が客だからかたくさんもそってくれる。中には私の嫌いな肉がたくさん入っている(↓)が、感謝の思いから無理矢理口に放り込んだ。談笑しながら、楽しいひと時を過ごした後、お礼に握手を交わすと、ごく当たり前のように立ち去って行った。その見返りを求めない親切心には、心が洗われるようだった。
それと同時に私のような日本人がたくさん訪れたら、大変だろうな、と思わせるほど親身になって協力して頂いたのでした。
16:10
CHUI CHAK 出発。
16:30
冷甲到着。唯一見つけたホテルに投宿。すぐさま本を頼りに冷甲の墓碑へ行ってみることにした。やはり容易には行けない。中国系の住民に聞いてみると、現在位置から町の方向にあるようだ。また、道順のやりとりで苦戦していると「案内してやるよ。」とバイクで誘導してもらうことに。必死にペダルを漕ぐ。しばらく行くと、砂利道に変わり、さらに進んだ左手に墓碑は建立していた。近づいてみると、「抗日同志殉難烈士記念碑」と刻まれている。事件は 1942年4月4日に発生した。この「ランカップ住民虐殺事件」については『マレーシア』76 ~77頁に詳しい。子供たちをも虐殺され、生き残った人々は益々日本軍への抵抗の機運を倍加させていったという。
バイクで誘導してくれた男性(↓)にお線香を手渡し、一緒に三礼をして手を合わせた。男性は手を合わせまま微動だにしなかった。5分ほど経過したところでようやく終わりの仕草に入り、私も手を下ろした。帰り道ホテルの近くまで送ってくれた所で、「それじゃ!」という感じで走り去って行った。今日はたくさんの人たちにお世話になりましたが、皆さんの無償の親切心はどこからくるのかが、わからなかった。感謝の思いを抱き、彼の後ろ姿を見送った。
19:30
ホテル着
8月23日(日)
午前中再度ランカップのお墓参りをしてから、ビドーの町へ戻る。夕方劉建彰さんに会いに中華料理店へ向かう。少し立ち寄っただけでしたが、夕食をご馳走してくれました。お礼をし別れた後、明日のためにお花を購入してホテルへ帰る。走行距離約35キロ。
8月24日(月)
KTCホテル ⇒ ビドー孤墳墓 ⇒ 抗日烈士墓 ⇒ 昼食 ⇒ イポー市育才中学
⇒ 洞窟元日本軍武器庫 ⇒ ドクター・シーニバサガン公園 ⇒ 首がさらされたロータリー ⇒ シビル・カシガスさんのお墓 ⇒
夕食 ⇒ バスターミナル⇒ ビドー
7:15
KTCホテルのロビーで待機していると、男性から声を掛けられました。愛想の良いこの男性は、韓應基さん。霹靂反菜納斯稀士歷支援會等委會の副主席をされていて、これから行くビドーの墓碑を案内してくださる方である。奥さんの廖玉清さん、娘さんの韓旭紅さんともそれぞれ挨拶を交わしました。片言の英語と筆談を交えて、これまでの経緯を話しました。ここでも『マレーシア』は好評で興味津々に読まれていた。ページをめくりながら、ハッと気づいたように「劉道南さんは私の友達だ。この後一緒にイポーへ行こう!」と言われ、話しは急展開。当初、5人ほどの遺族の方に同行させてもらうイメージでしたが、予想以上に人が集まってきて、団体旅行に出掛けるかの勢いであった。
8:10
ホテルを出発。車両は、バイク3台・四駆3 台で総勢25名ほど。ビドーの町を通りすぎ右折した道は、ダート。デコボコ道で慎重にゆっくりと前進していく。40分ほど進むと、もうこれ以上車両が入れない道幅となり、ここからは歩いて行くことになる。辺りはうっそうとしたジャングルで、お墓までまだ2 キロはあるという。遺族は70代と思われる男性の方。その方を家族の人たちが支え合いながら、皆がそれぞれのペースで進んで行く。道のりは険しく、その上ひざが少し悪いようで、足をズルようにして呼吸を乱しながら一歩一歩進んでいく姿が印象的であった。
9:45
やっとの思いで、孤墳墓碑(右欄上)へ到着。到着後、お墓周辺の掃除をしてから、バナナ・オレンジ・ビスケット・揚げパン・お酒などたくさんのお供え物と花束が供えられた。黄泉の国で不自由しないようにと紙銭が一枚一枚燃やされる。墓碑の周りには、たくさんのろうそくが立てられ、お線香が供えられた。
すると、ラマ僧がラマ教を唱え始め、皆さんで三礼をして手を合わせました。
再び遺族の方2人と私でひざを着き、頭を下げました。男性の母親が呂嬌さんという犠牲者の方で、そのご家族と友人の方たちが今回のメンバーでした。墓碑の中央には、18人の犠牲者の氏名が刻まれ、右側に事件が起きた1942年10月15 日の文字が、左側には1948年4月3日建立との文字が読みとれます。事件の背景には、錫鉱山で従事していた華僑労働者が採掘した錫を抗日組織などのゲリラに提供し、密通していたと疑われたことにある。事件当日、露天堀労働者の寮があったこの場所で、建物内に18人を閉じ込めた。その際、日本軍は労働者が逃げないように手の甲を針金で貫通させ、数珠つなぎにし、火を放った!実際の犠牲者数は、18人以上であったとも言われています。氏名からは 4人が女性であることがわかる。私は、この事件の詳細について知ったのは、帰国してからである。当初どうしてこんなにも山奥で殺害されたのだろう?被害者は、一般住民なのか抗日兵士なのか?と疑問を抱いたままでした。その謎が解け日本軍の残虐さを知りました。遺族お二人は、思いを熱く語りかけるように深々とお祈りをして、終えることになりました。
11:00
お供え物は、天国で困らないようにと燃やされ、後片付けを終えてから出発しました。帰りも無理をせずゆっくりと下る。女子学生の一人は、遺族の休憩用に椅子を背負い、様子を伺いながら休ませていた。汗を拭き取り水分を補給し、うちわで扇ぎ、皆が連帯している様子。そのような光景を何度か繰り返しながら、停車所へ辿り着きました。
11:50
次は抗日烈士之墓へ向かいます。相変わらず道は酷く右往左往しながら、どこをどう通っているのか解らない。地元の人のみが知る道であろう。
12:20
そんなパームヤシ園の中、突如現れたのが、抗日烈士之墓でした。文字はだいぶ薄れていてほとんど読むことが出来ない。こちらは簡素にお供え物・ろうそく・お線香を供え、皆で三礼し手を合わせて黙祷しました。事件の詳細については知り得ませんでした。
13:00
さらに車で20分ほど進みようやく舗装路に出、ビドーの町外れにある中華料理店へ皆で集まり昼食となりました。
テーブルには、たくさんの料理が並べられどれも美味しく頂いた。廖夫人は、私に気を遣ってくれ、料理をたくさんよそってくれる。突然の依頼にも関わらず、見ず知らずの私に皆が本当に親切に接してくださいました。今回のお墓参りは、毎年行っているのではなく、たまたまであった為、本当に幸運であったと思う。食事を終え皆さんにお礼を述べ、遺族の方2人に会釈をして別れました。
13:45
レストランを出発。韓さんご家族は、イポーに在住しており、これからイポーへ向かうことになった。雨が降りしきる中、高速道路を一路北上。韓さんの計らいにより、4時頃劉道南先生にお会いできるとのこと。
14:40
イポー市着。まず最初に訪れたのが、育才中学。校内に入ってすぐ現れたのが高さ5メ
ートルほどの立派な殉難記念碑でした。
真下にはたくさんのお花が献花されていた。詳細はわかりませんが、民間人と抗日兵士が犠牲になられたそうである。
その後、体育館へ向かい、中へ入ると、手前側のスペースを利用して抗日戦争の展示パネルコーナーとなっていました。
これから行く予定である墓碑などが、写真付きの解説でズラリと紹介されていた。旭紅さんはそれらを一所懸命に英語で説明してくれた。半知半解ではあるが、その熱心さになんとなくわかったつもりになる。そんなやり取りをしている中、劉道南先生・徐聲文さん・鄭淑娟さんがお見えになった。(徐ご夫妻には、のちに大変お世話になる。)徐さんは30年ほど前ニュージーランドに留学中、3 年間日本語を学び、帰国後日系会社に勤務された経歴をもつ。日本語が堪能なので、通訳係になって頂く。鄭夫人は、以前勤務されていた中学で劉先生と同僚の関係であり、現在も中学で歴史を教えています。劉先生からも歴史を学んでおり、大変教育熱心な方です。その夫人の計らいにより徐さんを連れてこられました。展示パネルの数は、ざっと70以上はあるように思います。旭紅さんの説明を徐さんが日本語で話してくれるので、とても助かります。
展示の中で最も目を引きつけられたのは、
さらし首の写真(↑)でその形相からは、旧日本軍の残虐非道ぶりが骨の髄まで響いた。その背景にあった、差別的民族観や厳しい軍紀・刑罰で縛られた日本軍特有の体質、天皇を頂点とした過った国家体制など、これらが総体して成せたことではないかと思いました。これらの展示はそっくり持ち帰って、日本各地で開催できたら素晴らしいなと思いました。時間の都合もあり、まだ途中でしたが、皆さんと記念撮影をしてその場を後にしました。別れ際、劉先生から、30日なら案内して頂けるとのこと。先生のご好意に甘えさせて頂くことにしました。
16:15
育才中学を出発し、市内見学へ。最初に向かったのは、日本軍の武器庫であった洞窟。次にドクター・シーニバサガン公園へ。サッカー場も併設され、この敷地内で殺害されたそうですが、詳しいことは今となってはわからないという。更に車を走らせ、目に飛び込んできたのは、王冠のような形をした金色の物体。ロータリーのシンボル的な役割を果たしている感じを受けるが、ここでもさらし首として見せしめにされていた場所でもあるという。降りしきる雨の中、撮影ポイントへと懸命に移動してくれる。そして、シビル・カシガスさんが
眠るカトリック墓地(↓)へ向かった。墓碑に目をやると、1899 年9月3日に生まれ、 1948年6月12日に亡くなられたことが解る。イポー市内の診療所で働いていた彼女は、日本軍侵攻後は、郊外のパパンに診療所を開設。そこで抗日軍兵士の治療や薬を無料で提供するなどしていた。しかし、こうした事実が日本軍に知れ逮捕される。凄惨な拷問にあうが、最後まで抗日軍の居場所などは明かさなかった。拷問により背骨を砕かれ、立つことも歩くことも座ることもできず、出獄のさいは、這って出てきたという。深々と頭を下げ黙祷した。
17:10
その後、旧市街にある中華料理店へ連れて行って頂いた。日本のうどんに似た地元名物の料理は、とても美味しく食が進んだ。ワンタンスープや一品料理も夫人がよそってくれ頂いた。食後は、自然と日本の現状についての話題になった。「日本の学校教育では、あまり加害の歴史を教えない。天皇の戦争責任も広く認知されていない。」などのことを筆談で交わした。さらに歴史教科書問題や靖国神社、今大問題になっている安保法案の文字が飛び交い、一斉に不快感が現れた。「日本の首相の謝罪は、口先だけで心の中では全く別のことを考えている。安倍首相は今すぐ変えるべきだ。」との声に全く同感の思いで頷くしかなく、皆さんの不満な気持ちは容易に想像できた。韓さんからは、「歴史を覚えることは、若い人に恨みを覚えるのではなく、平和を大事にすること。」との言葉をノートに記してもらった。
18:10
中華料理店を出発し、インディア・モスクの隣の洋風建築物に少し立ち寄った。旧日本軍との関係は、言葉の壁でよくわかりませんでした。
韓さんから守衛の男性を紹介されると以前日本で仕事をされた経験があり、片言の日本語で挨拶を交わした。そして、ビドーに戻るためアマンジャヤ・バスターミナルへ送ってもらい、チケットを手配して頂きました。「バスの終点はタンロング・マリムだから最初のビドーで降りなさい。眠ってはいけませんよ。」と何度も丁寧に教えてくれました。バスの停留所は、KTC ホテルのすぐ近くなので、歩いて行けるとのこと。更にバスに乗り込み乗客の中からビドーで降りる人を見つけ、一緒に降りるよう配慮までしてくれました。今日1日ご家族の皆さんには、何から何までお世話になりっぱなしで、何と申してよいかわからないほどです。社交的で親身になって接してくれた韓さん。いつも温かな心遣いをしてくださった廖夫人。そして、言葉の解らない私に積極的に話し掛けてくれ、いつも親切に接してくれた旭紅さん。本当にありがとうございました!ご家族のご多幸を願いバスに乗り込みました。バスは、予定通り19時30分に出発した。
20:30
ビドー着。数分歩きKTCホテルに到着。
8月25日(火)
10時40分ビドーを出発し、13時20分ティモの町へ到着。墓碑の場所を尋ねにお店に入りましたが、言葉も書いてくれた地図もよく解らなかった。進んだ先で迷っていると、後からバイクで駆けつけてくれ、そのまま案内してくれた。しかし案内してくれた先は二又路を左折した所。三烈士墓は右折した「地摩埠旅塚」と書かれた門の左脇にあることを後で知った。結局その場でお線香を供え三礼をして後にした。15 時にカンパールの町に到着。町並みは戦後直後を思わせる佇まいがあちこちで見られた。 走行距離 約38キロ
8月26日(水)
カンパールを8時45分に出発し、マリム・ナワールには10時に到着。中国系の店員に尋ねにいくと、隣近所に相談するなどして、私が困らない状況になるまで対応してくれました。
暫くすると、主人が戻って来るから車で案内してくれるとのこと。車で10分ほど進むと三烈士墓のお墓(↓)へ到着。
3人でお線香を手向け深々と頭を下げ、手を合わせた。町へ戻ると自転車は店の前に置かれてあった。こちらでは、鍵を掛けなくても住民を信頼できる安心感がある。これからトロンホまで行くことを話すと、みんなで紙に道順を記し丁寧に教えてくれました。
皆さんに感謝を述べ11時10分に出発。14時にトロンホ着。しかし、不安が的中しこの町にはホテルがないという。ここでもまた中国系の住民が隣人に相談してくれ、一室(↓)を提供出来る所を案内してくれました。
本人が解らなくても、周囲の人に相談し最後までしっかりと対応してくれる姿勢は、本当にありがたい。トロンホの中華義山もお墓がたくさんありすぎて特定することができず、お参りすることが出来なかった。
走行距離、約40キロ
8月27日(木)
トロンホを9時に出発。73号線に入ってからやや道幅が狭くなる。パリットには、10時 40分着。こじんまりとした町である。食堂でワンタン麺を注文し食後に尋ねてみると、またしてもご主人が車で先導してくれるとのこと。中華義山に着くと、抗日烈士墓(↓)はパッと目につくほど存在ありげに建立していた。
今日は一人なので、しっかりと清掃することができ、気持ちも新たにバツ・ガジャへ向かう。14時30分着。
その後、中国系住民に先導されて元日本軍監視下の監獄(↓)へ。
外観からしか見えないが、林謀盛、シビル・カシガスさんらが、ここで凄惨な拷問を受けた。夕食は、インドカレーとレモネードでたったの100円。2杯食べてしまった。走行距離 約40キロ
8月28日(金)
バツ・ガジャを9時に出発。11時20分カンパンの村へ到着。シビル・カシガスさんが開設した診療所の建物(↓)が見えた。2階の窓は所々穴があいており、外観も非常に古びている。
しかし、この村の大半が診療所と同じ年代の建物であることが外観から想像できた。73年前を思わせる佇まいに我を忘れ、1時間弱散歩した。イポーの町には、13時10分到着。その後、徐聲文さんに連絡をして15時に待ち合わせをする。徐さんには、日本軍が武器の倉庫として利用していた洞窟(↓)、
シビル・カシガスさんが眠るカトリック墓地、さらし首とされていたロータリー、そして極楽洞と案内して頂いた。夕食は、鄭淑娟夫人・息子さんも合流して皆さんとご一緒させて頂いた。
8月29日(土)
9時に徐さんが迎えに来られ、タイピンの英連邦墓地(↓)
・抗日殉難僑胞公墓(↓)へと案内して頂いた。
36人が犠牲になられた抗日墓地では、73歳の方がお参りされていた。
夕方には、サタ・ウタラの公墓(↓)へ訪れました。
地元の方で以前高嶋先生を案内された、王聲根さんがご一緒してくれました。また、王さんの父親である王家海さんの姿も見られました。家海さんは『マレーシア』の80頁に紹介されている王家昆さんの弟さんである。その他、炭焼きで有名なクアラ・セペタンガや現スルタン公邸が存在するクアラ・カンサーの町も案内してもらい、夕食は行きつけの食堂でご馳走になりました。お礼の気持ちも込め、自転車をプレゼントしました。
8月30日(日)
ホテル ⇒ 空爆が行われた休羅町 ⇒
136部隊の本部 ⇒ ドクター・シーニバサガン公園 ⇒ 洞窟・元日本軍の武器庫 ⇒ アンダーソン・スクール ⇒ 元慰安所の建物
⇒ 元司令部の建物 ⇒ 東亞大旅店 ⇒ 日本人墓地 ⇒ 劉先生のご自宅 ⇒ 昼食
⇒ アマンジャヤ・バスターミナル ⇒ KL
9:00 連泊したホテル・バジェットメダンキッドでチェックアウトを済まし、徐聲文さん・鄭淑娟夫人と合流しました。近くの食堂でマレーシアの伝統的な朝食、カヤトースト、中国茶をご馳走になる。しばらくすると、劉道南先生が迎えに来られました。劉先生が運転手兼ガイドをされ、徐さんが私の日本語通訳に、そして鄭さんは今後の歴史教育のため同行して学ばれるとのこと。時間をつくって頂いて、本当にありがたく思います。今日は半日に亘りイポー市内の各戦跡を案内してくださいます。最初に向かったのは、空爆の被害にあった休羅町。キンタ川の橋のたもとに車を止め、説明が始まった。
1941年12月8日に日本陸軍は、コタバル海岸に上陸し、続いてタイ領シンゴラ・パタニに上陸した。12月22日にタイピンが陥落し、同日にイポーも攻撃を開始された。三機一組で計三組で編制した爆撃機は、キンタ川に架かる休羅町橋の破壊が目的でした。しかし一発目は、橋を渡って最初の交差点左手地点へ落下。二発目は、橋のたもとに建っているホテルの地点で爆発した。当時はガラス販売店であったという。さらにホテルから東の方角で開かれていたバザールは、祝日で冬至であったため午前中は大勢の買い物客で賑わっていた。そこへ日本軍の銃撃が始まり、多くの市民が犠牲となった。という説明でした。目の前のホテルを見ながら橋を渡り、一発目の爆撃地点を確認しながら、交差点を右折する。少し進んだ右手の方向に136 部隊(イギリス軍が組織した抗日軍)の本部が置かれていたという建物へ行く(↓)。
建物には77番地である数字が表示され覚えやすい。本部の活動は1944年の元旦からで一階は「建益棧」という米屋として隠蔽し、二階で林謀盛らが情報収集を行うための事務所としていたとのこと。車を走らせその抗日戦の英雄である「林謀盛通り」(↓)を案内してもらい、
次に向かった先は、ドクター・シーニバサガン公園(↓)。
以前韓さんが、案内してくれた公園である。今日は日曜日のせいか、家族連れで賑やかだ。園内には地名の由来となったイポーの木が見られる。この木からイポー原住民の武器である毒矢の毒が採れるのだそうだ。イポー市郊外には奇抜な形をした岩山がたくさん見られ、洞窟も多く点在する。その洞窟を利用して日本軍が武器や食料の倉庫代わりにしていたという場所へ案内してもらう。残念ながら入口は閉鎖され入ることは出来ない。すぐ脇にはカラフルに彩られたヒンズー寺院があった。
11:20
再び移動し訪れたのは、憲兵隊の本部が置かれていた、アンダーソンスクール。英国の植民地時代の1901年に建てられた広大な建物は、軍部の設置に都合よく、他に病院や慰安所が近くにあったのも理由のようでした。現在は中学校として使われています。次はその慰安所があった場所へ向かいました。しばらく進んだ市街地にその建物はあった。実際に街路に立ち道を挟んだ位置から眺めてみる。交差点の角から5 軒目までが元慰安所の建物であった(↓)。
当時の店名は階級順に「百花楼・桂花楼・万花楼・彩花楼・聚花楼」となっていたようです。百花楼は、最も高級な軍人専用であったというので、外観の最も良い左角の建物ではないかと思いました。慰安婦は20代の中国人であったとのこと。性病が広がらないように、一週間に必ず身体検査が義務付けられていました。また慰安所内は、煙草はOKだが酒は禁じられていました。建物の入口には、FRANCE TAIPEIの文字があり、現在は結婚ドレスなどの貸衣装店になっているようです。そこから僅か一分ほど歩くと、日本軍憲兵隊の司令部だった建物がありました。外観はとても綺麗で番地である007がよく目立つ(↓)。
現在は、ゲストハウスとして改装され、日本料理やイタリア料理も振る舞われる。たまたま居合わせたご主人に劉先生が話し掛けると、主人はえらく喜んでいた。我が家の隠された歴史事実を知り、歴史好きには良い宣伝になる、と持参してこられた写真資料のパネルを何枚も見せて頂いた。中へも案内され、一階は改装工事をしていた。この地下で林謀盛やシビル・カシガスさんらを拷問していたのである。
そして136部隊が情報交換していたという東亞大旅店へ(↓)。
当時としては高級ホテルであったという。
こうして戦跡巡りをしていると、主要な建物の多くは抗日戦との何らかの繋がりがあることが見えてきます。これらの貴重な建物は、今後歴史を継承していく上でも、取り壊されることなく、保存してほしいと願います。最後に日本人墓地(↓)を案内してくれました。
道路沿いに面したこの墓地は、明治後期に設置されたという。実際に敷地内に入って墓碑を眺めてみると、明治(西暦1868年~1912年)の文字が多く目につく。パンフレットによると、墓石数119柱のうち80柱が明治の没年で、それほど昔から多くの日本人がこの地に住んでいたことに驚きました。現在直接管理しているのは、墓地敷地内に住居を構えているサロジャンさんで、その彼女らしき人に慰霊堂に案内された。帳簿に目をやると、ポツポツと日本人も来られているようである。その後、劉先生の好意によりご自宅へ招いて頂きました。
12:20
到着すると盧觀英さんが出迎えてくださり、中へ案内されると、書籍がぎっしり詰まった書斎が現れ、日頃より丹念に研究されていることが伺い知れました。中国茶を頂きながら、たわいもない話しをしました。マレーシアでは政府について公に批判することは、国内治安法によって規制されていましたが、そんな中教員だった劉先生は、学校運営に関する批判的な意見を出し、そのため投獄・解雇された体験の持ち主である。普段は穏やかな笑顔を湛えていますが、時折見せる表情には、おかしいことにはおかしいと言動されてきた意志の強さを感じました。私も見習いたいところであります。盧觀英さんも同じく学校の教師をされていた方で、とても落ち着いた穏やかな話し方をされる方です。先生がふいに立ち上がり引き出しから私に見せてくれたのは、吉池さんからプレゼントされた歴史書関係の本でした。中には、「靖国神社」というちょっと近寄り難い本もありましたが、日本語のため詳細については、ご存知ないようでした。私が『マレーシア』を帰国したら送ります、と言うと「日本語は解らないから」と言われました。一息ついたところで、近くの食堂へランチに出掛けました。私が肉が苦手なので、バイキング方式の、自分で選択できるお店へ案内してくださいました。マレーシアに来てから、中華料理店で食事する円卓での食事スタイルは、とても気に入りました。
食後に抗日戦争に関する事実を調べ始めた動機を尋ねてみると、歴史に興味があったことや戦争に関する話題がなかなか報道されないからだとおっしゃっていました。他人がやらないなら、自ら進んで行動しようとする姿勢は、高嶋先生と共通するようにも思われます。ペラ州で抗日戦の研究をされているのは、唯一劉先生だけでその先生から歴史を教わっているのが、徐さんの奥さんである鄭夫人です。
その夫人の祖父は、20キロ郊外のある町で自転車店を営んでいた時、突然現れた日本兵に自転車を強奪されたそうで、父親が当時6歳の時の出来事であったと教えてもらいました。その奪われた自転車は銀輪部隊の一部として、横暴な振る舞いも犯しながら、マレー半島を縦断したのではないかと、想像してしまいます。
また、3年8ヵ月の占領時代での犠牲者数は、約45 万人でそのうち7割が華僑の人々、一般住民の被害者が多かったとのことです。お腹も落ち着いたところで、テーブルを後にしました。今日はお忙しい中、無理して時間を作って頂きました。適確で効率よく数多くの戦跡を案内して頂いたお陰で、占領した側の日本軍と占領された側の兵士や市民の当時の様相をおぼろげながら思い描くことができました。直接ガイドして頂くことは、本当に貴重な体験となりました。改めて感謝申し上げます。劉ご夫婦にお礼の挨拶をし、別れました。その後、KL行きのバスターミナルへ徐ご夫婦が送ってくれました。ご夫婦には、一昨日の午後からお世話になっており、ご自宅へも招いて頂きました。軽食を頂きながら雑談をした後、近くの食堂へ息子さんと共に連れて行ってもらいご馳走してくださいました。昨日は徐さんが運転兼ガイドをして頂き、今日も半日以上私に付き添って頂きました。
道中徐さんの馴染みの店で地元特産のフルーツやその土地土地のお土産も買って頂きました。食事も当たり前のように会計してくださり、何から何までお世話になりっぱなしでした。何とお礼を申していいかわからないほどで、わずかばかりの気持ちからKLで購入した自転車をご家族にプレゼントしました。車は、バスターミナルへ着き、14時30分発のチケットを手配して頂きました。徐ご夫婦の見返りを求めない無償の親切心には、感謝の気持ちで溢れ返ります。また、その親切心はどこから来るのであろうかと、考えてしまいます。今回たくさんのマレーシアの人たちと接して強く感じたことは、人と人との距離が近いな、ということでした。周囲の人に関心を持ち関わることで助け合い協力し合いながら生活している姿を多く見かけました。周囲の人に関心を向け心を届けることは、戦争・戦後責任に関心を抱き考えていくことと共通する部分があるように思います。ご夫婦の親身的な人柄の良さには、本当に助けられ、お世話になりました。心から感謝の気持ちを伝え握手を交わし、バスへ乗り込みました。
14:30
イポーのアマンジャヤ・バスターミナルを出発。
18:10
KL到着。
8月31日(月)
KL市内観光
9月1日(火)
抗日戦展示パネルの写真とビデオ撮影をするため、イポー市へとんぼ返りをする。しかし残念ながら終了していた。この道中でも中国系
の方の親切を何度も受けました。
9月2日(水)
KLIA2から日本へ。
※マレーシアを自転車で戦跡巡りすることは、なかなかできるものではないと思う。
よくできたと私は思います!!
地元の人々が親切丁寧に現場を案内してくれたり、又その方々との交流もたくさんあったことが驚きです。私は読んでいて、日本軍の残虐な行為で亡くなった方を今現在も親族の人が心を込めて供養している姿を初めて知りました。
鈴木さん、ありがとうございました!!
一時期、マレーシアの方のディリーモーション(動画)のアクセス回数が増えました?
理由は不明です。
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