2016年8月16日火曜日

マレーシアの旅


●戦争のことを考えるならば、天皇や自民党の議員は、東南アジア、中国、韓国などの現地を訪れ、現地の人の声を聞くべきだ。高嶋伸欣先生の「東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅」は、今年で、通算41回目を数える。根気よく、現地を巡り、現地の戦跡を訪ね、慰霊し、研究をしている。そして、あの戦争で日本軍は、どんなことをしたのかを明らかにしている。今回ブログで採り上げるのは、その高嶋ツァーに初めて参加し、そのあと、もっと現地の戦跡を巡ってみたいと考え、なんと自分で自転車を買って、巡った人の旅行記だ。今、多くの日本人が過去のことを忘れ、ひたすら今の自分の生活に追われているのとは、余りにも対照的なので、この貴重な体験談を採り上げる。ぜひ、お読みください!!


●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良



マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良
8月17日(月)
12時頃、KLIA2にてツァーの皆さんと挨拶を交わしお別れしました。今夜の帰国便で帰られる東山さん・龍野さんとKL市内へ向かい、小嶋さんに調べて頂いた自転車屋で皆さんとお別れしました。 自転車屋は3軒周りましたが、どれも予想以上に高く、購入は翌日に持ち越す。

8月18日(火)
スーパーマーケットのほうが安いというので、そこで購入(約13,000円)。後部に荷台がないためリュックザックは背負うことにする。
お線香やライター等必要な物を準備する。


8月19日(水)
KL市内を抜けるのが大変。高速道路入口で警官に自転車で走行していいか尋ねるとOKとのこと。 KL~ラワング~クアラ・クブバルと高速道路と国道1号線を交互に走りながら辿り着く。サドルが硬く、形が合わないためか、尾てい骨に激痛を感じながら走った。走行距離 約70キロ。


高速道路を自転車走行!


8月20日(木)

クアラ・クブバルを出発し、高速道路を走行中、ペダルが根元から取れてしまい困っていると、運良くパトカーが止まってくれた。

自転車は危ないから走ってはいけない!と注意されスリム・リバーの自転車屋まで送ってもらいました。中国系のご夫婦は愛想よく対応してくれました。サドルカバーも取り付け1号線を北上、スンガイの町へ。華人義山はわかりましたが、どうしても三烈士墓のお墓は見つけることが出来なかった。走行距離約65キロ。



8月21日(金)
昨夜またペダルが取れてしまい、再度自転車屋で修理。後部に荷台を取り付け、これでリュックザックを背負わずに済む。昼頃出発し、13 キロ先のビドーの町へ。予想より大きな町だった。ビドーの墓碑について5人に尋ねてみたが、知っている者は誰もいなかった。13キロ走行



8月22日(土)
ビドーのKTCホテル ⇒ 中華料理店(劉建彰さん) ⇒ 冷水河の忠魂記念碑 ⇒ CHUI CHAK(チュイ・チャー)の大屠殺遺址 ⇒ 冷甲の抗日殉難者公墓 ⇒ 夕食
9:25 KTCホテル出発。昨夜『マレーシア』 71頁に、ビドーのお墓の写真を発見。134頁のコラムには「写真を入手した場合、その写真を地元の人に見せて訪ねると、ほぼ確実に目的地に辿り着ける。また、地元の人に道順を訪ねながら、交流の契機とされることを願っている。」と書かれています。よし、この写真を見せながら再度訪ねてみようと思いました。中国系の店員に聞くこと3軒目。郵便局の相向かいの中華料理店を自信ありげに紹介された。訪ねてみると、所々日本語の単語が聞かれた。20年前に日本で5年間住んでいたという。千葉の外語学院で日本語を勉強し、東京で仕事をされたそうです。さらに驚くことに2008年に高嶋先生を案内して知っているという。

名前は劉建彰さん(↑写真の左。右が鈴木さん)。石油を扱う工場に勤務されていて、今日は土曜日なので実家のお店を手伝っていたという。なんと幸運!そしてペラ州の墓碑の分布図を見せると、ビドー周辺のお墓は説明出来ないほど複雑で一人で行くには無理があるよう。唯一冷水河の忠魂碑は解りやすいようです。また、安順の勇士記念碑は、戦後の統治期にイギリス政府に撤去されて無い、という貴重な情報などたくさん教えてもらいました。劉道南先生(昨年のツァーでイポーとその周辺を案内して下さった。12月にはアジア・フォーラム横浜の証言集会で貴重な証言をしていただいた。)のことも知っており、電話番号まで調べて頂きました。さらに、24 日(月)朝7時半KTCホテルに遺族の方が集まり、ビドーのお墓参りをするという。もしご迷惑でなかったら、私も同行したい!と申し出ると快くOKの返事が返ってきた。このような経緯に至るまでに様々な人に連絡をとって頂きました。またご家族の皆さんも親切に接して頂いた。
皆さんにお礼を述べお店を後にしました。
11:40
こうして期待を胸に膨らませビドーを出発。
1号線を左折し58号線を直進。

12:20
冷水河新村に到着。道の両側にお店が連なっており、最も手前のお店に訪ねに入りました。いつも通りの片言の英語と墓碑の分布図を見せると、「アー・ユー・ジャパニーズ?」と娘さんが聞いてきた。以前にも日本の方たちが訪れたことを察しました。道順の確認を再度していると、「ついて来て!」と娘さんが母親のバイクに股がり誘導してくれました。すぐ裏手の広い空き地にその記念碑はあり、数メートル間隔で3基並んでいました。縦長のかまぼこ型をした墳墓の高さは30センチほど。中央の碑には「華僑損躯(「損躯」は、「わが
身を捧げる」という意味)忠魂紀念碑。
1948年2月28 日建立」と赤く刻んであります。

事件は 1944年1月23 日の夜、数台のトラックで運ばれてきた人たちがいた。女性も子供もいたようだというが、どこから来たか、誰か、今となっては不明という。一軒の家に全
員が閉じ込められ、火がかけられ全員が殺された。

遺骸は三つのお墓に分けて葬られた。碑は村人により建立されたようです。ここでも罪の
無い一般住民が犠牲になられた。

それぞれに三礼し、お線香を手向けました。墳墓には赤・黄色のかわいらしいお花が所々咲いていました。もし次回訪れる機会があったら、日本の花の種を墳墓一面に蒔いてはどうだろうか!との考えが浮かび、色とりどりの花で覆われた姿を想像しました。しかしそれ以上に、この事件を多くの人に知ってもらうことが犠牲者の最も望むことではないのか!と思う。その最初の願いに応えていく努力はしていきたいと思います。その場を後にすると、裏手にある豪邸の前で呼び止められ、談笑が始まりました。この豪邸は案内してくれた母親の姉妹のご自宅であるという。高級車も停まっている。
皆さん笑顔がたえずとても親近的だ。記念撮影をし、ランブータンをもらい別れました。

右が案内してくれた母娘。左が母親の姉妹。



13:00
冷水河新村を出発。58号線を右折しA129号線を進む。パームヤシ園が続くなか、青空の下、風を感じながらのサイクリングは心地よい。左手に広大な水田が現れ、しばらく行くとCHUI CHAKの町が現れた。

14:00
CHUI CHAKに到着。食堂に入ると20人ほどの男女が、テーブルを囲ってビールを飲み交わしていた。店員の女性に大屠殺遺址の場所を訪ねると、すぐ店内がその話題で騒がしくなった。若い男性が威勢よく話しかけてくるが、言葉がわらない。ノートに書いた「和平学。日本の加害の歴史(事実)を学んでいる」などの文字を見せ、手を合わせるポーズをすると、少しは通じたようである。そして、『マレーシア』を見せると興味津々に眺めていた。皆さんのネットワークを駆使し、情報収集をしてくれている様子。幾度となく電話を掛けなおし、しばらくすると、バイクに乗った男性が現れ、皆が駆け寄った。そして「これから行くから車に乗って!」と促され、女性店員からは「日なたに当たっている自転車を軒先に移動しなさい!」と助言され移動する。リュックを荷台につけたままで、鍵も掛けないことに一瞬不安も過ったが、皆さんの好意的な人柄は信用できると思った。車は少し走り、そこからは二台のバイク、計四人で前進する。悪路の未舗装をすっ飛ばし飛ばされないように必死で掴んでいた。一キロ以上進んだ所で右折し、パームヤシ園の中へ入って行く。左手には小川が流れている。どうやらこの辺りに大屠殺遺址はあるようだ。ジャングルの中、皆で必死に探すがどうしても見つからない。地元の人に連絡を取りあい、スマートフォンのGPS で位置確認をし、様々に手を尽くす。再びバイクに股がり右往左往するが見つからない。そして、ここには2つの碑がありもう1つのお墓に行こう、ということになった。そこはT字路を右折した右手の辺り。私が墓碑を指すと、ここだ!という。墓碑には、廖追明先生之墓 と書かれているように読める。この方が抗日戦での犠牲者なのか否かは分からない。お線香を皆に手渡し、四人で三礼をする。


少し満足感を得、村に戻るとワンタンスープをご馳走してくれた。私が客だからかたくさんもそってくれる。中には私の嫌いな肉がたくさん入っている(↓)が、感謝の思いから無理矢理口に放り込んだ。談笑しながら、楽しいひと時を過ごした後、お礼に握手を交わすと、ごく当たり前のように立ち去って行った。その見返りを求めない親切心には、心が洗われるようだった。
それと同時に私のような日本人がたくさん訪れたら、大変だろうな、と思わせるほど親身になって協力して頂いたのでした。


16:10
CHUI CHAK 出発。

16:30
冷甲到着。唯一見つけたホテルに投宿。すぐさま本を頼りに冷甲の墓碑へ行ってみることにした。やはり容易には行けない。中国系の住民に聞いてみると、現在位置から町の方向にあるようだ。また、道順のやりとりで苦戦していると「案内してやるよ。」とバイクで誘導してもらうことに。必死にペダルを漕ぐ。しばらく行くと、砂利道に変わり、さらに進んだ左手に墓碑は建立していた。近づいてみると、「抗日同志殉難烈士記念碑」と刻まれている。事件は 1942年4月4日に発生した。この「ランカップ住民虐殺事件」については『マレーシア』76 ~77頁に詳しい。子供たちをも虐殺され、生き残った人々は益々日本軍への抵抗の機運を倍加させていったという。
バイクで誘導してくれた男性(↓)にお線香を手渡し、一緒に三礼をして手を合わせた。男性は手を合わせまま微動だにしなかった。5分ほど経過したところでようやく終わりの仕草に入り、私も手を下ろした。帰り道ホテルの近くまで送ってくれた所で、「それじゃ!」という感じで走り去って行った。今日はたくさんの人たちにお世話になりましたが、皆さんの無償の親切心はどこからくるのかが、わからなかった。感謝の思いを抱き、彼の後ろ姿を見送った。


19:30
ホテル着


8月23日(日)
午前中再度ランカップのお墓参りをしてから、ビドーの町へ戻る。夕方劉建彰さんに会いに中華料理店へ向かう。少し立ち寄っただけでしたが、夕食をご馳走してくれました。お礼をし別れた後、明日のためにお花を購入してホテルへ帰る。走行距離約35キロ。

8月24日(月)
KTCホテル ⇒ ビドー孤墳墓 ⇒ 抗日烈士墓 ⇒ 昼食 ⇒ イポー市育才中学
⇒ 洞窟元日本軍武器庫 ⇒ ドクター・シーニバサガン公園 ⇒ 首がさらされたロータリー ⇒ シビル・カシガスさんのお墓 ⇒
夕食 ⇒ バスターミナル⇒ ビドー

7:15
KTCホテルのロビーで待機していると、男性から声を掛けられました。愛想の良いこの男性は、韓應基さん。霹靂反菜納斯稀士歷支援會等委會の副主席をされていて、これから行くビドーの墓碑を案内してくださる方である。奥さんの廖玉清さん、娘さんの韓旭紅さんともそれぞれ挨拶を交わしました。片言の英語と筆談を交えて、これまでの経緯を話しました。ここでも『マレーシア』は好評で興味津々に読まれていた。ページをめくりながら、ハッと気づいたように「劉道南さんは私の友達だ。この後一緒にイポーへ行こう!」と言われ、話しは急展開。当初、5人ほどの遺族の方に同行させてもらうイメージでしたが、予想以上に人が集まってきて、団体旅行に出掛けるかの勢いであった。

8:10
ホテルを出発。車両は、バイク3台・四駆3 台で総勢25名ほど。ビドーの町を通りすぎ右折した道は、ダート。デコボコ道で慎重にゆっくりと前進していく。40分ほど進むと、もうこれ以上車両が入れない道幅となり、ここからは歩いて行くことになる。辺りはうっそうとしたジャングルで、お墓までまだ2 キロはあるという。遺族は70代と思われる男性の方。その方を家族の人たちが支え合いながら、皆がそれぞれのペースで進んで行く。道のりは険しく、その上ひざが少し悪いようで、足をズルようにして呼吸を乱しながら一歩一歩進んでいく姿が印象的であった。


9:45
やっとの思いで、孤墳墓碑(右欄上)へ到着。到着後、お墓周辺の掃除をしてから、バナナ・オレンジ・ビスケット・揚げパン・お酒などたくさんのお供え物と花束が供えられた。黄泉の国で不自由しないようにと紙銭が一枚一枚燃やされる。墓碑の周りには、たくさんのろうそくが立てられ、お線香が供えられた。


すると、ラマ僧がラマ教を唱え始め、皆さんで三礼をして手を合わせました。

再び遺族の方2人と私でひざを着き、頭を下げました。男性の母親が呂嬌さんという犠牲者の方で、そのご家族と友人の方たちが今回のメンバーでした。墓碑の中央には、18人の犠牲者の氏名が刻まれ、右側に事件が起きた1942年10月15 日の文字が、左側には1948年4月3日建立との文字が読みとれます。事件の背景には、錫鉱山で従事していた華僑労働者が採掘した錫を抗日組織などのゲリラに提供し、密通していたと疑われたことにある。事件当日、露天堀労働者の寮があったこの場所で、建物内に18人を閉じ込めた。その際、日本軍は労働者が逃げないように手の甲を針金で貫通させ、数珠つなぎにし、火を放った!実際の犠牲者数は、18人以上であったとも言われています。氏名からは 4人が女性であることがわかる。私は、この事件の詳細について知ったのは、帰国してからである。当初どうしてこんなにも山奥で殺害されたのだろう?被害者は、一般住民なのか抗日兵士なのか?と疑問を抱いたままでした。その謎が解け日本軍の残虐さを知りました。遺族お二人は、思いを熱く語りかけるように深々とお祈りをして、終えることになりました。
11:00
お供え物は、天国で困らないようにと燃やされ、後片付けを終えてから出発しました。帰りも無理をせずゆっくりと下る。女子学生の一人は、遺族の休憩用に椅子を背負い、様子を伺いながら休ませていた。汗を拭き取り水分を補給し、うちわで扇ぎ、皆が連帯している様子。そのような光景を何度か繰り返しながら、停車所へ辿り着きました。
11:50
次は抗日烈士之墓へ向かいます。相変わらず道は酷く右往左往しながら、どこをどう通っているのか解らない。地元の人のみが知る道であろう。

12:20
そんなパームヤシ園の中、突如現れたのが、抗日烈士之墓でした。文字はだいぶ薄れていてほとんど読むことが出来ない。こちらは簡素にお供え物・ろうそく・お線香を供え、皆で三礼し手を合わせて黙祷しました。事件の詳細については知り得ませんでした。



13:00
さらに車で20分ほど進みようやく舗装路に出、ビドーの町外れにある中華料理店へ皆で集まり昼食となりました。

 テーブルには、たくさんの料理が並べられどれも美味しく頂いた。廖夫人は、私に気を遣ってくれ、料理をたくさんよそってくれる。突然の依頼にも関わらず、見ず知らずの私に皆が本当に親切に接してくださいました。今回のお墓参りは、毎年行っているのではなく、たまたまであった為、本当に幸運であったと思う。食事を終え皆さんにお礼を述べ、遺族の方2人に会釈をして別れました。

13:45
レストランを出発。韓さんご家族は、イポーに在住しており、これからイポーへ向かうことになった。雨が降りしきる中、高速道路を一路北上。韓さんの計らいにより、4時頃劉道南先生にお会いできるとのこと。

14:40
イポー市着。まず最初に訪れたのが、育才中学。校内に入ってすぐ現れたのが高さ5メ
ートルほどの立派な殉難記念碑でした。
 真下にはたくさんのお花が献花されていた。詳細はわかりませんが、民間人と抗日兵士が犠牲になられたそうである。



その後、体育館へ向かい、中へ入ると、手前側のスペースを利用して抗日戦争の展示パネルコーナーとなっていました。


これから行く予定である墓碑などが、写真付きの解説でズラリと紹介されていた。旭紅さんはそれらを一所懸命に英語で説明してくれた。半知半解ではあるが、その熱心さになんとなくわかったつもりになる。そんなやり取りをしている中、劉道南先生・徐聲文さん・鄭淑娟さんがお見えになった。(徐ご夫妻には、のちに大変お世話になる。)徐さんは30年ほど前ニュージーランドに留学中、3 年間日本語を学び、帰国後日系会社に勤務された経歴をもつ。日本語が堪能なので、通訳係になって頂く。鄭夫人は、以前勤務されていた中学で劉先生と同僚の関係であり、現在も中学で歴史を教えています。劉先生からも歴史を学んでおり、大変教育熱心な方です。その夫人の計らいにより徐さんを連れてこられました。展示パネルの数は、ざっと70以上はあるように思います。旭紅さんの説明を徐さんが日本語で話してくれるので、とても助かります。
展示の中で最も目を引きつけられたのは、

さらし首の写真(↑)でその形相からは、旧日本軍の残虐非道ぶりが骨の髄まで響いた。その背景にあった、差別的民族観や厳しい軍紀・刑罰で縛られた日本軍特有の体質、天皇を頂点とした過った国家体制など、これらが総体して成せたことではないかと思いました。これらの展示はそっくり持ち帰って、日本各地で開催できたら素晴らしいなと思いました。時間の都合もあり、まだ途中でしたが、皆さんと記念撮影をしてその場を後にしました。別れ際、劉先生から、30日なら案内して頂けるとのこと。先生のご好意に甘えさせて頂くことにしました。

16:15
育才中学を出発し、市内見学へ。最初に向かったのは、日本軍の武器庫であった洞窟。次にドクター・シーニバサガン公園へ。サッカー場も併設され、この敷地内で殺害されたそうですが、詳しいことは今となってはわからないという。更に車を走らせ、目に飛び込んできたのは、王冠のような形をした金色の物体。ロータリーのシンボル的な役割を果たしている感じを受けるが、ここでもさらし首として見せしめにされていた場所でもあるという。降りしきる雨の中、撮影ポイントへと懸命に移動してくれる。そして、シビル・カシガスさんが
眠るカトリック墓地(↓)へ向かった。墓碑に目をやると、1899 年9月3日に生まれ、 1948年6月12日に亡くなられたことが解る。イポー市内の診療所で働いていた彼女は、日本軍侵攻後は、郊外のパパンに診療所を開設。そこで抗日軍兵士の治療や薬を無料で提供するなどしていた。しかし、こうした事実が日本軍に知れ逮捕される。凄惨な拷問にあうが、最後まで抗日軍の居場所などは明かさなかった。拷問により背骨を砕かれ、立つことも歩くことも座ることもできず、出獄のさいは、這って出てきたという。深々と頭を下げ黙祷した。


17:10
 その後、旧市街にある中華料理店へ連れて行って頂いた。日本のうどんに似た地元名物の料理は、とても美味しく食が進んだ。ワンタンスープや一品料理も夫人がよそってくれ頂いた。食後は、自然と日本の現状についての話題になった。「日本の学校教育では、あまり加害の歴史を教えない。天皇の戦争責任も広く認知されていない。」などのことを筆談で交わした。さらに歴史教科書問題や靖国神社、今大問題になっている安保法案の文字が飛び交い、一斉に不快感が現れた。「日本の首相の謝罪は、口先だけで心の中では全く別のことを考えている。安倍首相は今すぐ変えるべきだ。」との声に全く同感の思いで頷くしかなく、皆さんの不満な気持ちは容易に想像できた。韓さんからは、「歴史を覚えることは、若い人に恨みを覚えるのではなく、平和を大事にすること。」との言葉をノートに記してもらった。

18:10
中華料理店を出発し、インディア・モスクの隣の洋風建築物に少し立ち寄った。旧日本軍との関係は、言葉の壁でよくわかりませんでした。
韓さんから守衛の男性を紹介されると以前日本で仕事をされた経験があり、片言の日本語で挨拶を交わした。そして、ビドーに戻るためアマンジャヤ・バスターミナルへ送ってもらい、チケットを手配して頂きました。「バスの終点はタンロング・マリムだから最初のビドーで降りなさい。眠ってはいけませんよ。」と何度も丁寧に教えてくれました。バスの停留所は、KTC ホテルのすぐ近くなので、歩いて行けるとのこと。更にバスに乗り込み乗客の中からビドーで降りる人を見つけ、一緒に降りるよう配慮までしてくれました。今日1日ご家族の皆さんには、何から何までお世話になりっぱなしで、何と申してよいかわからないほどです。社交的で親身になって接してくれた韓さん。いつも温かな心遣いをしてくださった廖夫人。そして、言葉の解らない私に積極的に話し掛けてくれ、いつも親切に接してくれた旭紅さん。本当にありがとうございました!ご家族のご多幸を願いバスに乗り込みました。バスは、予定通り19時30分に出発した。

20:30
ビドー着。数分歩きKTCホテルに到着。

8月25日(火)
10時40分ビドーを出発し、13時20分ティモの町へ到着。墓碑の場所を尋ねにお店に入りましたが、言葉も書いてくれた地図もよく解らなかった。進んだ先で迷っていると、後からバイクで駆けつけてくれ、そのまま案内してくれた。しかし案内してくれた先は二又路を左折した所。三烈士墓は右折した「地摩埠旅塚」と書かれた門の左脇にあることを後で知った。結局その場でお線香を供え三礼をして後にした。15 時にカンパールの町に到着。町並みは戦後直後を思わせる佇まいがあちこちで見られた。 走行距離 約38キロ

8月26日(水)
カンパールを8時45分に出発し、マリム・ナワールには10時に到着。中国系の店員に尋ねにいくと、隣近所に相談するなどして、私が困らない状況になるまで対応してくれました。
暫くすると、主人が戻って来るから車で案内してくれるとのこと。車で10分ほど進むと三烈士墓のお墓(↓)へ到着。

3人でお線香を手向け深々と頭を下げ、手を合わせた。町へ戻ると自転車は店の前に置かれてあった。こちらでは、鍵を掛けなくても住民を信頼できる安心感がある。これからトロンホまで行くことを話すと、みんなで紙に道順を記し丁寧に教えてくれました。


皆さんに感謝を述べ11時10分に出発。14時にトロンホ着。しかし、不安が的中しこの町にはホテルがないという。ここでもまた中国系の住民が隣人に相談してくれ、一室(↓)を提供出来る所を案内してくれました。

本人が解らなくても、周囲の人に相談し最後までしっかりと対応してくれる姿勢は、本当にありがたい。トロンホの中華義山もお墓がたくさんありすぎて特定することができず、お参りすることが出来なかった。
走行距離、約40キロ

8月27日(木)
トロンホを9時に出発。73号線に入ってからやや道幅が狭くなる。パリットには、10時 40分着。こじんまりとした町である。食堂でワンタン麺を注文し食後に尋ねてみると、またしてもご主人が車で先導してくれるとのこと。中華義山に着くと、抗日烈士墓(↓)はパッと目につくほど存在ありげに建立していた。


今日は一人なので、しっかりと清掃することができ、気持ちも新たにバツ・ガジャへ向かう。14時30分着。
その後、中国系住民に先導されて元日本軍監視下の監獄(↓)へ。


外観からしか見えないが、林謀盛、シビル・カシガスさんらが、ここで凄惨な拷問を受けた。夕食は、インドカレーとレモネードでたったの100円。2杯食べてしまった。走行距離 約40キロ


8月28日(金)
バツ・ガジャを9時に出発。11時20分カンパンの村へ到着。シビル・カシガスさんが開設した診療所の建物(↓)が見えた。2階の窓は所々穴があいており、外観も非常に古びている。


 しかし、この村の大半が診療所と同じ年代の建物であることが外観から想像できた。73年前を思わせる佇まいに我を忘れ、1時間弱散歩した。イポーの町には、13時10分到着。その後、徐聲文さんに連絡をして15時に待ち合わせをする。徐さんには、日本軍が武器の倉庫として利用していた洞窟(↓)、


シビル・カシガスさんが眠るカトリック墓地、さらし首とされていたロータリー、そして極楽洞と案内して頂いた。夕食は、鄭淑娟夫人・息子さんも合流して皆さんとご一緒させて頂いた。


8月29日(土)
9時に徐さんが迎えに来られ、タイピンの英連邦墓地(↓)


・抗日殉難僑胞公墓(↓)へと案内して頂いた。

36人が犠牲になられた抗日墓地では、73歳の方がお参りされていた。

夕方には、サタ・ウタラの公墓(↓)へ訪れました。


地元の方で以前高嶋先生を案内された、王聲根さんがご一緒してくれました。また、王さんの父親である王家海さんの姿も見られました。家海さんは『マレーシア』の80頁に紹介されている王家昆さんの弟さんである。その他、炭焼きで有名なクアラ・セペタンガや現スルタン公邸が存在するクアラ・カンサーの町も案内してもらい、夕食は行きつけの食堂でご馳走になりました。お礼の気持ちも込め、自転車をプレゼントしました。


8月30日(日)
ホテル ⇒ 空爆が行われた休羅町 ⇒
136部隊の本部 ⇒ ドクター・シーニバサガン公園 ⇒ 洞窟・元日本軍の武器庫 ⇒ アンダーソン・スクール ⇒ 元慰安所の建物
⇒ 元司令部の建物 ⇒ 東亞大旅店 ⇒ 日本人墓地 ⇒ 劉先生のご自宅 ⇒ 昼食
⇒ アマンジャヤ・バスターミナル ⇒ KL

9:00 連泊したホテル・バジェットメダンキッドでチェックアウトを済まし、徐聲文さん・鄭淑娟夫人と合流しました。近くの食堂でマレーシアの伝統的な朝食、カヤトースト、中国茶をご馳走になる。しばらくすると、劉道南先生が迎えに来られました。劉先生が運転手兼ガイドをされ、徐さんが私の日本語通訳に、そして鄭さんは今後の歴史教育のため同行して学ばれるとのこと。時間をつくって頂いて、本当にありがたく思います。今日は半日に亘りイポー市内の各戦跡を案内してくださいます。最初に向かったのは、空爆の被害にあった休羅町。キンタ川の橋のたもとに車を止め、説明が始まった。
 1941年12月8日に日本陸軍は、コタバル海岸に上陸し、続いてタイ領シンゴラ・パタニに上陸した。12月22日にタイピンが陥落し、同日にイポーも攻撃を開始された。三機一組で計三組で編制した爆撃機は、キンタ川に架かる休羅町橋の破壊が目的でした。しかし一発目は、橋を渡って最初の交差点左手地点へ落下。二発目は、橋のたもとに建っているホテルの地点で爆発した。当時はガラス販売店であったという。さらにホテルから東の方角で開かれていたバザールは、祝日で冬至であったため午前中は大勢の買い物客で賑わっていた。そこへ日本軍の銃撃が始まり、多くの市民が犠牲となった。という説明でした。目の前のホテルを見ながら橋を渡り、一発目の爆撃地点を確認しながら、交差点を右折する。少し進んだ右手の方向に136 部隊(イギリス軍が組織した抗日軍)の本部が置かれていたという建物へ行く(↓)。



建物には77番地である数字が表示され覚えやすい。本部の活動は1944年の元旦からで一階は「建益棧」という米屋として隠蔽し、二階で林謀盛らが情報収集を行うための事務所としていたとのこと。車を走らせその抗日戦の英雄である「林謀盛通り」(↓)を案内してもらい、



次に向かった先は、ドクター・シーニバサガン公園(↓)。


 以前韓さんが、案内してくれた公園である。今日は日曜日のせいか、家族連れで賑やかだ。園内には地名の由来となったイポーの木が見られる。この木からイポー原住民の武器である毒矢の毒が採れるのだそうだ。イポー市郊外には奇抜な形をした岩山がたくさん見られ、洞窟も多く点在する。その洞窟を利用して日本軍が武器や食料の倉庫代わりにしていたという場所へ案内してもらう。残念ながら入口は閉鎖され入ることは出来ない。すぐ脇にはカラフルに彩られたヒンズー寺院があった。

11:20
再び移動し訪れたのは、憲兵隊の本部が置かれていた、アンダーソンスクール。英国の植民地時代の1901年に建てられた広大な建物は、軍部の設置に都合よく、他に病院や慰安所が近くにあったのも理由のようでした。現在は中学校として使われています。次はその慰安所があった場所へ向かいました。しばらく進んだ市街地にその建物はあった。実際に街路に立ち道を挟んだ位置から眺めてみる。交差点の角から5 軒目までが元慰安所の建物であった(↓)。

当時の店名は階級順に「百花楼・桂花楼・万花楼・彩花楼・聚花楼」となっていたようです。百花楼は、最も高級な軍人専用であったというので、外観の最も良い左角の建物ではないかと思いました。慰安婦は20代の中国人であったとのこと。性病が広がらないように、一週間に必ず身体検査が義務付けられていました。また慰安所内は、煙草はOKだが酒は禁じられていました。建物の入口には、FRANCE TAIPEIの文字があり、現在は結婚ドレスなどの貸衣装店になっているようです。そこから僅か一分ほど歩くと、日本軍憲兵隊の司令部だった建物がありました。外観はとても綺麗で番地である007がよく目立つ(↓)。

現在は、ゲストハウスとして改装され、日本料理やイタリア料理も振る舞われる。たまたま居合わせたご主人に劉先生が話し掛けると、主人はえらく喜んでいた。我が家の隠された歴史事実を知り、歴史好きには良い宣伝になる、と持参してこられた写真資料のパネルを何枚も見せて頂いた。中へも案内され、一階は改装工事をしていた。この地下で林謀盛やシビル・カシガスさんらを拷問していたのである。
そして136部隊が情報交換していたという東亞大旅店へ(↓)。

当時としては高級ホテルであったという。

こうして戦跡巡りをしていると、主要な建物の多くは抗日戦との何らかの繋がりがあることが見えてきます。これらの貴重な建物は、今後歴史を継承していく上でも、取り壊されることなく、保存してほしいと願います。最後に日本人墓地(↓)を案内してくれました。

道路沿いに面したこの墓地は、明治後期に設置されたという。実際に敷地内に入って墓碑を眺めてみると、明治(西暦1868年~1912年)の文字が多く目につく。パンフレットによると、墓石数119柱のうち80柱が明治の没年で、それほど昔から多くの日本人がこの地に住んでいたことに驚きました。現在直接管理しているのは、墓地敷地内に住居を構えているサロジャンさんで、その彼女らしき人に慰霊堂に案内された。帳簿に目をやると、ポツポツと日本人も来られているようである。その後、劉先生の好意によりご自宅へ招いて頂きました。

12:20
到着すると盧觀英さんが出迎えてくださり、中へ案内されると、書籍がぎっしり詰まった書斎が現れ、日頃より丹念に研究されていることが伺い知れました。中国茶を頂きながら、たわいもない話しをしました。マレーシアでは政府について公に批判することは、国内治安法によって規制されていましたが、そんな中教員だった劉先生は、学校運営に関する批判的な意見を出し、そのため投獄・解雇された体験の持ち主である。普段は穏やかな笑顔を湛えていますが、時折見せる表情には、おかしいことにはおかしいと言動されてきた意志の強さを感じました。私も見習いたいところであります。盧觀英さんも同じく学校の教師をされていた方で、とても落ち着いた穏やかな話し方をされる方です。先生がふいに立ち上がり引き出しから私に見せてくれたのは、吉池さんからプレゼントされた歴史書関係の本でした。中には、「靖国神社」というちょっと近寄り難い本もありましたが、日本語のため詳細については、ご存知ないようでした。私が『マレーシア』を帰国したら送ります、と言うと「日本語は解らないから」と言われました。一息ついたところで、近くの食堂へランチに出掛けました。私が肉が苦手なので、バイキング方式の、自分で選択できるお店へ案内してくださいました。マレーシアに来てから、中華料理店で食事する円卓での食事スタイルは、とても気に入りました。

食後に抗日戦争に関する事実を調べ始めた動機を尋ねてみると、歴史に興味があったことや戦争に関する話題がなかなか報道されないからだとおっしゃっていました。他人がやらないなら、自ら進んで行動しようとする姿勢は、高嶋先生と共通するようにも思われます。ペラ州で抗日戦の研究をされているのは、唯一劉先生だけでその先生から歴史を教わっているのが、徐さんの奥さんである鄭夫人です。
その夫人の祖父は、20キロ郊外のある町で自転車店を営んでいた時、突然現れた日本兵に自転車を強奪されたそうで、父親が当時6歳の時の出来事であったと教えてもらいました。その奪われた自転車は銀輪部隊の一部として、横暴な振る舞いも犯しながら、マレー半島を縦断したのではないかと、想像してしまいます。
また、3年8ヵ月の占領時代での犠牲者数は、約45 万人でそのうち7割が華僑の人々、一般住民の被害者が多かったとのことです。お腹も落ち着いたところで、テーブルを後にしました。今日はお忙しい中、無理して時間を作って頂きました。適確で効率よく数多くの戦跡を案内して頂いたお陰で、占領した側の日本軍と占領された側の兵士や市民の当時の様相をおぼろげながら思い描くことができました。直接ガイドして頂くことは、本当に貴重な体験となりました。改めて感謝申し上げます。劉ご夫婦にお礼の挨拶をし、別れました。その後、KL行きのバスターミナルへ徐ご夫婦が送ってくれました。ご夫婦には、一昨日の午後からお世話になっており、ご自宅へも招いて頂きました。軽食を頂きながら雑談をした後、近くの食堂へ息子さんと共に連れて行ってもらいご馳走してくださいました。昨日は徐さんが運転兼ガイドをして頂き、今日も半日以上私に付き添って頂きました。
道中徐さんの馴染みの店で地元特産のフルーツやその土地土地のお土産も買って頂きました。食事も当たり前のように会計してくださり、何から何までお世話になりっぱなしでした。何とお礼を申していいかわからないほどで、わずかばかりの気持ちからKLで購入した自転車をご家族にプレゼントしました。車は、バスターミナルへ着き、14時30分発のチケットを手配して頂きました。徐ご夫婦の見返りを求めない無償の親切心には、感謝の気持ちで溢れ返ります。また、その親切心はどこから来るのであろうかと、考えてしまいます。今回たくさんのマレーシアの人たちと接して強く感じたことは、人と人との距離が近いな、ということでした。周囲の人に関心を持ち関わることで助け合い協力し合いながら生活している姿を多く見かけました。周囲の人に関心を向け心を届けることは、戦争・戦後責任に関心を抱き考えていくことと共通する部分があるように思います。ご夫婦の親身的な人柄の良さには、本当に助けられ、お世話になりました。心から感謝の気持ちを伝え握手を交わし、バスへ乗り込みました。

14:30
イポーのアマンジャヤ・バスターミナルを出発。

18:10
KL到着。

8月31日(月)
KL市内観光
9月1日(火)
抗日戦展示パネルの写真とビデオ撮影をするため、イポー市へとんぼ返りをする。しかし残念ながら終了していた。この道中でも中国系
の方の親切を何度も受けました。
9月2日(水)
KLIA2から日本へ。

※マレーシアを自転車で戦跡巡りすることは、なかなかできるものではないと思う。
よくできたと私は思います!!
地元の人々が親切丁寧に現場を案内してくれたり、又その方々との交流もたくさんあったことが驚きです。私は読んでいて、日本軍の残虐な行為で亡くなった方を今現在も親族の人が心を込めて供養している姿を初めて知りました。
鈴木さん、ありがとうございました!!
一時期、マレーシアの方のディリーモーション(動画)のアクセス回数が増えました?
理由は不明です。

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