2016年8月20日土曜日

九大生体解剖事件


日本で、米兵の生体解剖したら、戦後大問題!!
九大石山教授は自殺までした。
 中国で多くの人を生体解剖しても、なぜ問題にならない???
731の罪業は許されるのか???

九州大学生体解剖事件 (2/2)


アメリカが無差別爆撃をしたと言うが、
その前に日本は中国で無差別爆撃を行っていた!!
これも、大きな問題ではないのか??


九大生体解剖事件、90歳医師の償い 最後の生き証人


九州帝国大(現・九州大)で終戦間際、捕虜の米兵8人を実験手術で死亡させる「九大生体解剖事件」が起きた。事件を目の当たりにした福岡の医師は、その記憶にさいなまれながらも、向き合い、戦争と医の倫理を問い続けている。


7月、事件を伝える展示会が福岡市中央区のイベントホールであった。企画したのは、事件のただ一人の生き証人となった産婦人科医の東野(とうの)利夫さん(90)=福岡市中央区。手記などの資料や書籍、背景や経緯を記したパネルの前で、来場者の質問に答えた。

戦後70年を迎えた昨夏、自身の医院で初めて展示会を開いた。その後も事件について知りたいと医院を訪れる人が相次ぎ、再び展示することにした。「(事件は)決して消えないトラウマ。焼き付いています」。不安を落ち着かせる薬や睡眠薬を使うようになって半世紀近い。

事件との関わりは偶然だった。1945年5月、当時19歳。医学生になってまだ1カ月余りで、解剖学講座の雑用係だった。校舎に横付けされたトラックから、目隠しをされた捕虜2人が降りる所に居合わせ、解剖実習室の場所を尋ねる将校を案内した。部屋には、捕虜のほか医師や軍服の将校ら十数人が入り、東野さんも続いた。

ログイン前の続き薬で眠った捕虜の「手術」が始まった。肋骨(ろっこつ)を切除し、右肺を摘出。「人間は片肺を取っても生きられる」と執刀医が言ったと記憶している。血管から大量の血液が抜かれ、代わりに海水が輸液されたが、捕虜は二度と目を覚まさなかった。同じ日にもう1人が解剖台に寝かされ、今度は東野さんが輸液用の海水のガラス瓶を持たされた。

絶命した捕虜の体から、標本が採取された。後片付けを命じられた東野さんは、血の広がったタイル張りの床をバケツの水で流した。「あの気持ちは何とも言いようがない。異様な空気だった」


戦後、東野さんは連合国軍総司令部(GHQ)の厳しい尋問を受けた。訴追はされなかったが、軍事法廷で証言をさせられた。執刀した教授は判決を待たずに自殺。重労働25年の判決で9年余りを獄中で送った別の教授は60年代、臨終の床で「ビー、ニジューキュ」とうわごとを繰り返した。

その頃、東野さんは医院を開業していた。医師としての責任を感じ、真相究明を思い立った。関係者を訪ね歩き、米国立公文書館などで資料を収集。「汚名 『九大生体解剖事件』の真相」(文芸春秋、79年)にまとめた。

それでも「心の区切り」はつかない。昨年5月、捕虜たちの搭乗機B29の撃墜現場に近い大分県竹田市の山中で毎年営まれる慰霊祭に、約10年ぶりに参列。資料の展示も決めた。

敵国への憎悪を募らせ、戦争の勝利を信じたあの頃。「命を救うはずの大学医学部の人間が過ちを犯した」。語っても、今の若い人は理解できないのでは、との不安が拭えない。それでも資料を残し、伝えることが「償い」と考える。訪れる人には、語ろうと。

「大事なのは残された人間の態度。過ちをタブーにすること。それが本当の過ちです」

■九大歴史館、新入生が見学

継承の取り組みは九大医学部でも続く。

医学部や九大病院のある病院キャンパス(福岡市東区)の正門そばに昨年4月に建った九州大学医学歴史館。事件を伝える1枚のパネルと、「九州大学五十年史」(1967年)の関連ページが展示されている。今年4月、新入学生が見学する時間が設けられた。

九大では、軍事法廷の判決が出た直後の48年、医学部などが「反省と決意の会」を開催。五十年史によると「たとえ国家の権力または軍部等の圧力が加わっても、絶対にこれに屈従しない」ことを決意した。

戦後70年の昨年3月の医学部教授会では、事件で死亡した米兵への「哀悼の意」を表明。「医師としてのモラルと医学者としての研究倫理を再確認し、今後もこの(国家権力や圧力に屈従しないとする48年の)決意を引き継ぐことを固く誓う」と決議した。

「長い歴史の中では深く反省するべき事も起こりました」。今年3月の医学部卒業式で、学部長の住本英樹教授(58)は祝辞で事件に触れ、学生たちに語りかけた。「負の部分も含めて過去を冷静に見つめ直すことが、私たちを正しい道へと導いてくれるものと信じています」(田中久稔)

◇〈九大生体解剖事件〉 1945年5月、大刀洗(たちあらい)飛行場(福岡県)を爆撃した米軍のB29が日本軍機の体当たり攻撃で撃墜された。捕らわれた米兵8人が九州帝国大に運ばれ、臓器摘出などの実験手術の末に全員死亡した。戦後、軍将校や同大教授ら30人が戦犯として起訴され、23人が有罪となった。うち5人は絞首刑を宣告され、後に減刑された。事件は遠藤周作の小説「海と毒薬」の題材になった。

“戦争の狂気”九大生体解剖事件 2014 8 15 1


九州大学生体解剖事件 (2/2)


九州大学生体解剖事件を語る






0 件のコメント:

フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中