2011年3月30日水曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

『昭和の日』反対!!
日米間の密約はまだまだ存在する!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!
沖縄の米軍基地撤去!沖縄と「天皇の免責」の関係は?

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!
時効なき戦争責任・戦争犯罪!!
政府は戦史資料を公開せよ!!


城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
 
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 


●731部隊
『【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』

郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)より
V 私は中国軍の捕虜だった 
   総務部調査課翻訳(情報)班 H・M
中国は訊問ではなく、思想改造で迫る
 我々は、4名1組ほどで雑居房に入れられた。この4名の組み合わせが、実に周到に、注意深くなされているのである。
 私の場合は、ハルピンで思想犯専門の検事をつとめていたS検事、それに若い兵士2人という組み合わせである。2人の兵士も、1人は農村出身者、もう1人は炭鉱労働者出身であった。
 この4人は、いやでも起居をともにせざるを得ない。今まで、農民や労働者とほとんど接触する機会の無かった私とS検事とは、彼らとの語らいや生活を通して、実に貴重なものを学ぶことになった。これも、中国側の狙った効果があったということか。
 時々、中国側の政治指導員がやって来て、我々に討論というか、ディスカッションをさせた。たとえば「日本軍の中国侵略についてどう考えているか、自由に話し合って下さい」という具合である。
 我々は、自由に自分の思っていることを話し合った。政治指導員は、決して、個々の意見を規制したり命令したりはしない。ただ時たま助言めいた口を挟むだけであった。この4人の組み合わせは、時々変わったが、討論は同じように続けられた。
 思うに、厳しい訊問や拷問に訴えるよりも、こうした心底からの反省を呼び起こさせる方法の方が、効き目がある。私も、ずいぶんいろいろなことを考えてみざるを得なかった。
※撫順戦犯管理所では、戦犯たちを冷たく罪人として扱ったのではなく、1人の人間として暖かく接したようだ!!
「撫順戦犯管理所」より
撫順戦犯管理所4
 この管理所で戦犯の指導員をしていた崔(サイ)さんも出迎えてくれた。当時の指導員では現在ただ一人の生存者という。 サイさんの話によれば、中国共産党指導部は、戦犯を死刑に裁くより、平和な日常を尊ぶ“普通の人間”にして日本に帰す方が、将来の中国に有益という判断で、この管理所の運営にあたったという。
 が、日本軍への恨みは深く、そんな管理所の職員を喜んで引き受ける人はいなかった。当時、弱冠21歳の崔さんが戦犯指導員の任務に命じられた。崔さん自身もまた日本人への憎しみを抱く一人だった。気持ちの矛盾に悩みながら、戦犯には自分達よりおいしい食事を与えていたという。

撫順戦犯管理所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
撫順戦犯管理所(ぶじゅんせんぱんかんりしょ、抚顺战犯管理所)は、撫順市順城区にあった中華人民共和国による戦犯管理所。
満州国時代は、撫順監獄であったところを戦犯管理所に改造し、1950年ソ連より引き渡された900人以上の日本人や満州国の戦犯を収容した。満州国戦犯の中で愛新覚羅溥儀が最も有名で、有名な映画「ラスト・エンペラー」は、かつてここで撮影された。日本人戦犯は、1964年迄に帰国し中国帰還者連絡会を結成した。
1987年、観光地として開放的された。2006年、撫順戦犯管理所旧址として、中華人民共和国全国重点文物保護単位(分類近現代重要史跡及代表性建築、編号6-920)に登録された。
主な収容者
•愛新覚羅溥儀、愛新覚羅毓セン、張景恵、張煥相、盧元善
•武部六蔵(国務院総務庁長官)、古海忠之(国務院総務庁次長)、今吉均(満州国警察総局警務処長)、柏葉勇一(撫順警察局長)、斉藤美夫(満州国憲兵訓練所長少将)、富永順太郎(日本特務華北交通防衛本部、いわゆる富永機関)、鈴木啓久(陸軍中将)、藤田茂(陸軍中将)、城野宏(山西省軍司令官)、佐々真之助(陸軍少将)、金子安次(陸軍兵士)

撫順戦犯管理所5
廊下に囲まれた中庭には、戦犯らがつくった日本庭園風の小さな池もあった

「撫順戦犯管理所」より
管理所内には、講堂や医務室、病室などが当時のまま保存されてあり、戦犯の一人一人が大事にされていたことがうかがえる。中庭には運動場もあり、戦犯らが故郷をしのんで歌い踊った野外舞台や、手づくりの日本庭園や池なども保存されていた。

「撫順戦犯管理所の思い出」より
伊東恒・・・過去陸軍士官学校を出て日本軍の指揮官、教育者としての日本の農村漁村の、本当に純朴な靑年を東洋平和の為だとか聖戦だとかでだまし、中国へ侵略にかりたてて来たのです。皆さんもごぞんじのように杭州湾上陸につづいて侵入し、杭州一帯の地域で砲兵を指揮し、何のつみとがもない住民まで砲弾で射ち殺し、平和な部落や寺院を破壊したり放火したりしました。そのご憲兵に変りましてからも一生懸命あの兇悪な憲兵の下士官兵を3000名近く教育しました。そしてこれらの者は中国全土アジア全地域にわたり世界歴史上例のない、野蛮残酷な罪行を行って来ました。こうした私に対する決定をきいた時、ただ本当に申しわけなさでもう私は何とおわびしてよいか分かりません。あの時の感激は一生を通じて忘れることは出来ません。

「中国帰還者連絡会」より
罪を許されて帰国した私たち千余名は、1957年、中国帰還者連絡会を創立し、現在まで40数年間、一貫してそのたたかいをつづけてまいりました。私たちの活動の出発点は、「認罪」(過去の戦争の非を認めること)であります。私たちは、常にこの認罪の立場に立ちながら、二度と日本に侵略戦争への道を許さず、同時に日中友好、ひいては世界の平和に、いささかでも貢献出来ればと考え、残り少ない人生を共に手を携えて活動しております。

 皆さん、わが会の趣旨にご理解を項き、併せてご支援・ご指導を賜りますようお願い致します。なお、会が発行した書籍、『完全版・三光』(晩聲社)、『私たちは中国で何をしたか』(三一書房)、『帰ってきた戦犯たちの後半生-40年史』(新風書房)、季刊『中帰連』等、さらにご一読願えれば幸いに存じます。

寧波細菌戦に関する動画はこれだ!!(11:43)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)

731部隊では何が行われたのか
アメリカは、天皇・731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占入手した。(21:22)
Unit 731 「731部隊(2/2)~"負の遺産"をめぐる米ソ暗闘(8/12/2007)」
元部隊員の証言!!(7:25)
731部隊 | 日本を変える論客たち
帝銀事件の真犯人は平沢ではなく731部隊員であった!!(8:46)
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
エイズは人為的に作られた!!(6:33)
731細菌部隊と帝銀事件との真相2

問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
②731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
 731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
 戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
 戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
 医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
 テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
ベイツ
日本大使館宛の書簡(1937年12月16日~27日)
(2)金銀街の養蚕室で、婦女が2人強姦された。
(3)胡家菜園11号の農具店で、婦女が2人強姦された。
(4)漢口路11号の本校職員住宅で、婦女が2人乱暴された。
(5)漢口路23号の本校アメリカ人職員住宅で、婦女が1人強姦された。
(6)農業経済系(小桃園)の婦女が、何度も蹂躙の憂き目に遭い、全部逃走した。今日午前中に私がここに調べに来たら、兵士が6人迫ってきて、その1人が、ピストルを私に、指を引き金にかけつつ絶えず突きつけてきたが、私はただ彼に、ここで何か難しい問題がなかったかどうかと、丁寧に聞いただけだった。
 上述しました全く誤りの無い事実には、まだ庶民の悲惨な境遇は含まれていません。うろつき回って群を成した兵士たちが、しばしば1日に10回、1晩に6回も、庶民から婦女を取ろうとし、財貨を略奪するのです。直ちに拘束を強化する必要を示しています。

兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
「南京!南京!」が見られる映画サイト

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2011年3月29日火曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

『昭和の日』反対!!
日米間の密約はまだまだ存在する!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!
沖縄の米軍基地撤去!沖縄と「天皇の免責」の関係は?

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!
時効なき戦争責任・戦争犯罪!!
政府は戦史資料を公開せよ!!


城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
 
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 


●731部隊
『【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』

郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)より
V 私は中国軍の捕虜だった 
   総務部調査課翻訳(情報)班 H・M
中国は訊問ではなく、思想改造で迫る
 私について言えば、私自身が、731部隊について、自分の意志でありのままを供述するようになるまで、そっと見守っていこうという方針だったのである。
 こうした中国側の、先ず相手の思想を改造していこうという考えは、感想文の提出を求めるという形で、具体化された。厳密にではないが定期的に、私は感想文を書かされた。題材は何でもよい、今頭にあることをそのまま書けばよい、ということであった。何を書こうと別に何もいってこない。そうすることで、私の思想の進行状態を観察していたのであろう。
 華東軍区軍事監獄で約2年ほど過ごした後、私は再び撫順監獄へ収監された。そこにはすでに、ソ連軍の捕虜となり、その後中国側の管理下に移された役1000名ほどの日本人戦犯が到着していた。
 この中には、元満州国皇帝溥儀(フギ・・・清朝最後の宣統帝)や旧満州国総務庁の高官、思想犯担当検事から一般兵士までが含まれていた。
 元731部隊関係者は、731部隊林口(リンコウ)支部長の榊原軍医中佐、それに一時部隊に在籍し敗戦時にはすでに部隊を離れていたT軍属(この方は、最近出た『新編・三光』に手記を寄せている)、そして私の3名だけであった。
 ここに集められた人間は、すでに各地の監獄や収容所で一定の思想教育を受けてきたらしく、中国側の対応も一歩進んだものになっていた。

※T軍属とは、前に紹介した田村氏であろう!!
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
細菌戦(731部隊の蛮行)
アメリカ・カナダに証言しに行こうとして、入国拒否をされたあの篠塚さんの731部隊の手記です。篠塚さんは、731部隊の少年兵であった。
田村良雄(帰国後 篠塚良雄に改名)
防疫診療助手 兵長
(略歴)
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地  千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢34歳(当時)

松花江(しょうかこう)流域の大都市として古くから知られている哈爾浜(ハルピン)の東端香坊(こうぼう)に、一本の道路がありました。中国人民はこの道路を殺人道路といって心から憎んでいました。
自動車で30分も走ると道路は次第に狭くなり、今までまっすぐに来た道路はここで急に曲がって平房(へいぼう)駅に向かっていました。この曲がった道の付近を注意してみると草の茂みの中に一本の道路があり、これが731部隊に通ずる道路でありました。
『ノブの日記』の2010年10月6日より)

撫順戦犯管理所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
撫順戦犯管理所(ぶじゅんせんぱんかんりしょ、抚顺战犯管理所)は、撫順市順城区にあった中華人民共和国による戦犯管理所。
満州国時代は、撫順監獄であったところを戦犯管理所に改造し、1950年ソ連より引き渡された900人以上の日本人や満州国の戦犯を収容した。満州国戦犯の中で愛新覚羅溥儀が最も有名で、有名な映画「ラスト・エンペラー」は、かつてここで撮影された。日本人戦犯は、1964年迄に帰国し中国帰還者連絡会を結成した。
1987年、観光地として開放的された。2006年、撫順戦犯管理所旧址として、中華人民共和国全国重点文物保護単位(分類近現代重要史跡及代表性建築、編号6-920)に登録された。
主な収容者
•愛新覚羅溥儀、愛新覚羅毓セン、張景恵、張煥相、盧元善
•武部六蔵(国務院総務庁長官)、古海忠之(国務院総務庁次長)、今吉均(満州国警察総局警務処長)、柏葉勇一(撫順警察局長)、斉藤美夫(満州国憲兵訓練所長少将)、富永順太郎(日本特務華北交通防衛本部、いわゆる富永機関)、鈴木啓久(陸軍中将)、藤田茂(陸軍中将)、城野宏(山西省軍司令官)、佐々真之助(陸軍少将)、金子安次(陸軍兵士)

「撫順戦犯管理所」より
撫順戦犯管理所3
構内に中国帰還者連絡会が建てた謝罪碑

小山さんら戦犯は、シベリア抑留から中国に連れ戻された時、いつ死刑になるかと毎日おびえて暮らしていた。そして食事がきちんと与えられることに乗じて、ひそかに貯え、逃亡を準備していたという。しかし、ここ撫順に収容された戦犯は一人も死刑されずに日本に帰された。これを「撫順の奇跡」というのだそうだ。構内には元戦犯らが建てた「謝罪碑」がある。

「撫順戦犯管理所の思い出」より
久保田源次郎・・・わしも年より役として一言いわしていただきます。私は過去25年の長い間日本軍隊の將校として多くの部下を教育し、また部隊長として戦争に出て行きました。こういうことは国家の為だ人民の為だとか日本はますます国力が大きくなるのだとか、あるいは結局のところ自分の名誉であるとさまざまなことを考えてましてあまたのいくさを行いました。その上、東北では十年の間偽満州国、ことに偽蒙古軍官学校に勤めまして、蒙古の純朴な靑年を日本軍の軍隊の手先として中国人をもって中国人と戦わすというように、皆さまとちがったあくらつな考えのもとに多くのことをやって参りました。また師団司令部管区の参謀長として偽蒙古軍の司令官を傀儡と致しまして、その人たちの名前のよって私が自分勝手な命令を出して多くの部下や部隊に多くの人民を惨殺する行為をおこなわせました。いま申しましたように自分の罪行のことを考えると、私は当然死刑もしくは重い刑に処せられ、撫順の管理所において死を待ち、日本に帰れないと考えていましたが、撫順であまたの中国人民の方々の傍聴されている前で起訴を免除されて釈放されるということを聞いた時、まったく夢ではないかと考えました。被害者の方々にまことに済まなかったと、胸がいっぱいです。(同感の声)

「中国帰還者連絡会」より
 この人道的で暖かい待遇は、私たち戦犯に大きな感動と反省とを呼び起こしました。昔、私たちが犬畜生同様に虐待し、財を奪い、焼き、殺して来たその中国人から、今こうして優遇されている。私たちは、中国人の道義性の高さに感動し、このことをどう理解すべきか、真面目に考え始めました。
 こうして私たちは真剣に学習するようになり、世界の変化や日本の実状を知り、ものの道理を弁えるようになりました。特に、自己の過去を反省する学習によって、人間の良心を取り戻し、過去の罪を告白して、中国人民に謝罪する認罪運動を巻き起こすことが出来ました。

寧波細菌戦に関する動画はこれだ!!(11:43)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)

731部隊では何が行われたのか
アメリカは、天皇・731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占入手した。(21:22)
Unit 731 「731部隊(2/2)~"負の遺産"をめぐる米ソ暗闘(8/12/2007)」
元部隊員の証言!!(7:25)
731部隊 | 日本を変える論客たち
帝銀事件の真犯人は平沢ではなく731部隊員であった!!(8:46)
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
エイズは人為的に作られた!!(6:33)
731細菌部隊と帝銀事件との真相2

問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
②731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
 731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
 戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
 戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
 医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
 テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
ベイツ
日本大使館宛の書簡(1937年12月16日~27日)
 12月18日 土曜日
 兵士たちの暴虐と略奪とにより、至る所いまだに悲惨と恐怖とに満ちています。17000人以上が、その多くが婦女と児童とで、現に私たちのキャンパスに住まっていて、安全の保障を渇望しています。彼らが引き続きいっぱいあふれてくるのは、他の所は情況がここよりずっと劣悪だからです。それでも私は、過去24時間のこの相対的には「良好」な境遇の記録を、皆さん方に差し上げなければなりません。
(1)乾河船[Kan Ho Yen]の金陵大学付属中学[University Middle School]。恐怖におののいていた児童が1人、銃剣で突っつき殺され、もう1人重傷で死にかかっている。婦女が8人強姦された。我等の同僚数名が、これらのかわいそうな人に食べ物を少し届け世話してあげようとして、兵士たちに何のいわれなくもなく殴打された。兵士は昼夜を分かたず、何度も囲い塀をよじ上ってくる。この3日間、多くの人が眠るわけにいかず、一種のヒステリックな恐怖状態が生じている。もしもこの類の恐怖と失望とが、兵士に乱暴された婦女たちを、抵抗拒絶へと至らせたならば、壊滅的な虐殺を造成することとなり、皆さん方当局が、そのために責任をとらされることとなる。アメリカの国旗が(日本の)兵士に故なくして引き裂かれた。

兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
「南京!南京!」が見られる映画サイト

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2011年3月28日月曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

1938年3月28日 南京に中華民国維新政府成立。南京事件終焉する!!
日米間の密約はまだまだ存在する!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!
沖縄の米軍基地撤去!沖縄と「天皇の免責」の関係は?

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!
時効なき戦争責任・戦争犯罪!!
政府は戦史資料を公開せよ!!


城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
 
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 


●731部隊
『【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』

郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)より
V 私は中国軍の捕虜だった 
   総務部調査課翻訳(情報)班 H・M
中国は訊問ではなく、思想改造で迫る
 この華東軍区軍事監獄には、約2年間投獄されていた。そしてこの間、いわゆる日本流の取調べや裁判はなかった。ただ、中国流の対応が、なされただけである。
 時々、独房を出て、中国側当局者と面談するのである。
 「君は、なぜこの監獄に入れられているか、分かりますか」という調子で面談は始められる。決して、向こうから、私の経歴を持ち出したり、731部隊のことを口に出したりはしない。
 中国側の態度は、きわめて紳士的であり、私を侮辱するような態度は、いささかも見せなかった。それも、方便としてそういう態度に出ているのでなく、心からそうしているということが、私に伝わってくるようなものであった。
 後になって、ソ連軍や南方で連合軍の捕虜になった人々が受けた苛酷な扱いを知るに及んで、私は唖然とせざるを得なかった。そして、つくづくと、中国人の肚の大きさというか、度量の大きさに感服したのであった。彼らはこちらの思想的な目覚めを、じっと待っているのである。そのための手助けは、できるだけしてあげましょう。しかし、最後はあなた自身が考え、行動するしかないのですという態度で、一貫していた。

※今日本の検察の取調べが問題になっている!!私には、よく分からないが、昔の特高の体質がまだ色濃く残っているのではないか?
又、今の中国の取調べは全く分からないが、その当時の中国はすごく戦犯に対して人道的に対処していたと思う。ソ連の苛酷な抑留生活で死んだ人々や連合軍の裁判で捕虜を上官の命令で殺した兵士が死刑になった(上官は裁かれなかった。)例などを思うと本当に中国の対応は寛大だと思う。

撫順戦犯管理所より
撫順戦犯管理所1
戦犯管理所内部の廊下

撫順戦犯管理所の思い出より
・中島宗一 そうですなぁ、わしや偽満州国の警察に長くおったんですが、あの昨日の自分たちに対する処理を宣告された時、検察員先生の方が、ここにいる戦争犯罪者は人道主義に反し、国際法に反した罪行を犯した者と言われました。私もひとつの例をあげてみるならば、日本が東北を侵略した時、これに反抗して立ち上がった抗日軍を指揮した趙尚志将軍を道案内したというたったひとつの理由でオロチョンの方をとらえ、日本刀で首をきり、さらにその上脳味噌を取り黒やきにして薬だといってのんだ、人間では考えられない行爲をした自分が、だんだん人間としての気もちをもつようになり、私のやった事が本当に悪いことであることを知り、当然中国人民に厳重な処罰をうけなくちゃならないというふうに考えていました。それがこのような寛大処理の恩典によくして、あの時の自分は電気にうたれたようになりました(一同同感の声)。あの時の感謝と感激は一生忘れられません。
※オロチョン・・・中国の内モンゴル自治区や黒龍江省の北部に居住する民族

中国帰還者連絡会

【軍事動員された植民地出身者の、戦場における特徴的な仕事のひとつは、「俘虜(ふりょ)監視員」であったといわれる。直接、銃を持たせることへの不安が日本側にあったのかもしれない。
 戦後になると、各地で日本の戦争犯罪を追及する「戦犯裁判」が行なわれた。俘虜監視員は、一転俘虜という「生き証人」によって、いきおい戦犯に指名される確立が高くなったであろう事は容易に想像できよう。
 戦犯として裁かれた朝鮮人・台湾人も多い。朝鮮人148人、うち死刑23人。台湾人173人、うち死刑26人である。(内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』参照)】(岩波新書:『遺族と戦後』:田中伸尚ほか著:「戦犯と国籍」125ページより)
 ※植民地であった朝鮮人や台湾人の多くが戦犯として裁かれた。しかし、彼らは戦後日本国籍を喪失しているのである。戦後補償を考える時に、「国籍を失っても罪は残る」一方で、原爆被害者などの方々は、「国籍を失ったので補償はない」ということになる。又、軍人恩給にしても、戦争犯罪人として、刑死または獄死した者の遺族にも扶助料が支給されたが、植民地出身の軍人には恩給が下りなかった。
 もちろん、あの残虐な生体実験をした731部隊員は誰一人として裁判では裁かれず、石井をはじめ多くの軍人などには恩給が支給された。九大の生体解剖は裁かれた!!

寧波細菌戦に関する動画はこれだ!!(11:43)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)

731部隊では何が行われたのか
アメリカは、天皇・731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占入手した。(21:22)
Unit 731 「731部隊(2/2)~"負の遺産"をめぐる米ソ暗闘(8/12/2007)」
元部隊員の証言!!(7:25)
731部隊 | 日本を変える論客たち
帝銀事件の真犯人は平沢ではなく731部隊員であった!!(8:46)
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
エイズは人為的に作られた!!(6:33)
731細菌部隊と帝銀事件との真相2

問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
②731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
 731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
 戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
 戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
 医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
 テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
ベイツ
日本大使館宛の書簡(1937年12月16日~27日)
 こうした行動が、南京の大多数の住民に生じているものの小さな事例であるということと、貴国政府の上級官吏の通告では、中国の公共の福祉に配慮し外国の財産を保護すると謳っていることとを、貴殿がたが併せ考えてみて下さるよう、丁重に要請します。
 私たちは、プライベートなことを強調したくはないので、他の事例を2つ出しますが、その目的はただただ、制約されないままの兵士たちの常軌を逸した野放図さの如何を、説明するにあります。昨日私たちのアメリカ人同僚の1人が、悪いことをした1人の将校に殴打され、晩には私ともう1人のアメリカ人同僚とが、酔っ払って銃を持った1人の兵士に、ベッドから引きずりおろされました。
 この手紙は、大学に特別な保護を要求するわけではなく、皆さん方の近隣に住む者として、あらゆる平和な住民にとって、災禍が既に異常に危険で緊迫したものになっていることを、強調しているのです。
 日本軍には、力と能率とをもって正常なる振る舞いを維持し、占領区域の人民に秩序の良好な環境の下で仕事をし生活する機会を得させる、責任があると、私たちは信じています。

兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
「南京!南京!」が見られる映画サイト

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2011年3月27日日曜日

この世の地獄!原子力

TBSニュース
ドイツで原発廃止デモ 25万人参加


ドイツで原発廃止デモ 25万人参加  

 福島第一原発の事故を受け、ドイツで「反原発」のうねりが最高潮に達しています。26日には、原発廃止を訴える、これまでで最大規模のデモが行われました。

 「福島にチェルノブイリ、もうたくさん!」(デモのシュプレヒコール)

 「福島は警告する」と書かれた横断幕を掲げ、原発の廃止を訴えるデモ参加者たち。首都ベルリンをはじめ、ドイツ全土で反原発デモが行われ、25万人が参加しました。

 「残念ながら、日本で起きたことはドイツでも起きるおそれがあります」(デモ参加者)

 ドイツでは、安全性を見直すため、国内にある17基の原発のうち、稼働年数の長い8基をすでに一時停止させていますが、反原発運動の高まりは「原発政策」の見直しにも影響を与えそうです。(27日03:55)



転送です(再掲ご了承ください)

反原発 銀座デモ!参加者がふえています―再度お知らせします―

 福島原発震災発生!3/27(日)「反原発 銀座デモ・パレード」 
東電本社前も通ります。
集合時間  1時45分  出発 2時
デモ集合場所:銀座 水谷橋公園
         (ホテル西洋銀座・テアトル東京のとなり)
        地下鉄銀座1丁目または京橋駅下車数分
        解散は日比谷公園(予定)
        ★日比谷公園で最新状況を報告します。


たんぽぽ舎さんより◆地震と原発事故情報 その23◆
      たんぽぽ舎です。【TMM:No1038】
     ◆ 地震と原発事故情報 その23 ◆
    4つの情報(福島第一3号機で作業員被ばく-東電のずさんな安全管理、
たんぽぽ舎へ寄せられたメールご紹介、27日(反原発 銀座デモ)のお知らせ(再度)、原発の基本がよくわかる本の紹介)をお送りします。

1.福島第一3号機 作業員3人被ばく…東電のずさんな管理体制浮き彫り…
 東京電力は24日、福島第一原発3号機のタービン建屋で電源復旧作業中だった東電協力社員の3人が、40~50分間に170ミリシーベルト以上を被ばくし、内2人の両足には放射性物質が付着していたため、福島県立医大病院に搬送したと発表した。(25日各紙発表)25日に、千葉市の放射線医学総合研究所に送る。同日他の建屋の作業も中断し、復旧作業は遅れるというが、現場作業者の被ばくは深刻で、今回の被ばく事故も、明らかに「人災」だ。3人を含め、24日現在で今回の事故による累積被ばく線量が100ミリシーベルトを超えている作業員は24日で計17人になった。東電は、3人とも防護服やゴム手袋を着用し、線量計も20ミリシーベルトでアラームが鳴るように設定し、アラームが鳴ったとの情報もあるが、「なぜ高い線量の中で作業を続けたのかは不明」という。実際には、前日の作業終了後に測った線量が低かったため、24日は作業前に線量を確認していなかった。
 さらに搬送された2人は長靴ではなく、普通の作業靴をはいており、作業現場にたまっていた約15cmの水に浸かった状態で作業をしていた。東電責任者は、現場に立ち会っていなかった。180ミリシーベルトと言えば、放射線業務従事者が、「法定の5年間にさらされてよい放射線の限度100ミリシーベルトをはるかに超えている。250ミリシーベルトを1度にまとめて受けた場合に、白血球の減少が 始まると計算されている。この責任を、誰がとるのか。現場の作業員さんの中には、「誰かがやらなければならない仕事を粛々と進めているだけ」と多くを語らない場面もあるようだが、自分たちの労働現場については、雇用主を通すなど、是非声を上げほしい。
 小出裕章・京都大原子炉実験所助教は、「今回の被ばくは、敷地全体が汚染されていることの表れだ。電源が回復し、1つ1つの機器を動かしていく段階だが、多くの作業員が大量の被ばくを覚悟しなければいけない。被曝限度を引き上げてもすぐに限界に達する状態だ。次々と人が必要になるが、特殊技能を持った人員は確保できるか心配だ」と話している。(3月25日毎日新聞3面)こうした事態を招く原子力発電自体、ゴメンだ!廃炉に向けて、ともに進もう。

2.たんぽぽ舎に、うれしいメールがいくつも寄せられています。
その一つを紹介します。
「いつもメールをありがとうございます。
特に、今回の原発大事故についての情報・分析を感謝しています。
27日のデモ行進に、体調が許せば参加したいと思います。
 昨年頃、「原発なしで暮らせる」という趣旨の冊子の案内を拝見した記憶がありますが、その趣旨の冊子(文献)があれば、教えて下さい(購入できるかどうかも)。
 私は阪神淡路地震が起きたとき、すぐに、このような地震があるのだから原発はやめるべきだ、という投書を朝日新聞に送りましたが、採用されませんでした。
もう一度、その声をあげようと思っています。」大河原礼三(79)歳

3.反原発 銀座デモ(上記>
4.“原発の基本”がよくわかる本を推薦します!
小林公吉著「原子力と人間―闇を生む光」星雲社(たんぽぽ舎で扱っております。)
   第1章 原子力がやってきた
   第2章 原子力の正体
   第3章 原子力といっしょの暮らし その1 原子力発電
   第4章 原子力といっしょの暮らし その2 放射線
  第5章 原子力のない暮らし≪とことん話そう≫
                            
私は、この本が大好きです。
今毎日私たちを襲ってくる放射性生成物は、どういう物質で、原子力発電の燃料からどのように生まれるの? 何故生まれるの?世の中は、こうしたことを「常識」として知っている理科系の人間ばかりではないでしょう。
先生は「分りにくいことを分りやすく伝える」努力を続けてこられた高校の先生として、生徒に向かうかのようなやさしさを持って、膨大な原子力の世界を平明 に教えてくださいます。原子力の事故は、チェルノブイリなど有名なものだけではなく、隠された深刻な事故が多く存在し、ヒバクで大勢の人々が苦しんでいること。今後深刻に成らざるを得ない食品汚染と内部ヒバク、「放射線単位」の読み解き方。そして1番心配な事故は「地震」によって起こると、今を予言していらっしゃいます。『人類は、原子力発電と共存できるのか。』先生の問いは、最終的にそこに向かい、エネルギー問題について重要な示唆を与えてくださいます。今、こうした非常時であるからこそ、私はこの1冊を落ち着いて読み、原子力についての知識を身につけておくことを、是非お勧めします。         
                  (たんぽぽ舎 槌田春美)
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※たんぽぽ舎より、メールマガジンを発信中。(無料)
 今、「地震と原発事故情報」を発信しています。
 希望者は、たんぽぽ舎あて、Eメールアドレスをお伝え下さい。
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  たんぽぽ舎      たんぽぽ舎は、月曜~土曜-
             13:00~20:00のオープンです。
             日曜・休日は、お休みです。
   〒101-0061
   東京都千代田区三崎町2-6-2ダイナミックビル5F
    TEL 03-3238-9035 FAX 03-3238-0797
    HP http://www.tanpoposya.net/

・・南京への道・史実を守る会・・・・・・・
URL:http://www.jijitu.com ML_URLhttp://www.egroups.co.jp/group/honda_sien/
mail:honda_sien-owner@egroups.co.jp
FAX:020-4624-2381

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

1938年3月27日 南京では日本軍の虐殺が続いていた!!
日米間の密約はまだまだ存在する!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!
沖縄の米軍基地撤去!沖縄と「天皇の免責」の関係は?

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!
時効なき戦争責任・戦争犯罪!!
政府は戦史資料を公開せよ!!


城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
 
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 


●731部隊
『【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』

郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)より
V 私は中国軍の捕虜だった 
   総務部調査課翻訳(情報)班 H・M
「戦犯として奉天市公安局地下独房へ
この翻訳が終わると、私は再び奉天に戻された。しかし、今度はすぐに、汽車で、北京に送られた。北京華東軍区軍事監獄に収監されたのである。昭和27年4月のことであった。
 ここでもまた独房暮らしである。とても寒かった。私は長い獄中生活で、ついに喀血してしまった。当局は治療を申し出てくれたが、私は辞退した。好意はうれしかったが、私の経験から予想される中国側の化学療法は、好ましいものではなかったからである。
 私は、自分の置かれている環境をできるだけ冷静に分析して、自己診断を行なった。
その上で、自分なりに治療法を考え出したのである。といっても、独房の中の囚人にできることは、たかが知れている。
 私が考え出した治療法とは、とにかく歩くことであった。狭い独房の中を、それこそ檻の中の虎のように休み無く動き回るのである。私は、この方法で、1日に約40キロ歩くことにした。
 独房の生活は、単調であった。退屈であった。私は、何か読む物をくれと、折に触れて、要求した。そうすると、時々、思い出したように、中国共産党機関紙「人民日報」が差し入れられた。

※どこの戦犯管理所も撫順のようにはいかなかった様だ。撫順は特別だったのかもしれない。北京の監獄での生活は寒く、単調なものと書いている。それにしても、自分の症状を的確に判断して、中国の治療を断り、自分なりに健康法を考え出した力はさすが医学者だと思う。
 この方は731部隊に在籍したのはわずかな期間で、731部隊で行なった仕事も、ソ連の文献の翻訳に携わり、生体実験にかかわらなかった。この人が監獄生活で大変な思いをしたのに比べると、酷い生体実験を行なったほとんどの幹部たちのその後は、裁きを受けて監獄に入ることも無く、職を得て日本で活躍した、何という違いだろう!! 
寧波細菌戦に関する動画はこれだ!!(11:43)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)

731部隊では何が行われたのか
アメリカは、天皇・731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占入手した。(21:22)
Unit 731 「731部隊(2/2)~"負の遺産"をめぐる米ソ暗闘(8/12/2007)」
元部隊員の証言!!(7:25)
731部隊 | 日本を変える論客たち
帝銀事件の真犯人は平沢ではなく731部隊員であった!!(8:46)
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
エイズは人為的に作られた!!(6:33)
731細菌部隊と帝銀事件との真相2

問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
②731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
 731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
 戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
 戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
 医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
 テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
ベイツ
日本大使館宛の書簡(1937年12月16日~27日)
 12月17日 金曜日
 皆さん方のお部屋でも、皆さん方ご自身の隣人の部屋でも、一目瞭然でしょうが、恐怖と残酷な統治とがいまだに続いています。
(1)昨夜兵士たちが、わが難民をいっぱい収容している図書館に絶え間なくやってきては、財貨や懐中時計や婦女を銃剣でゆすった。人々はすでに財貨も腕時計も無く、過去2日ですでに何度も略奪されていたので、この兵士たちは窓を叩き壊し、乱暴に人々を突き飛ばした。我等の地位の高い職員が、こうした状況の下で、銃剣でつつかれ傷を負った。
(2)図書館では、この地区の他のところと同様、昨夜多くの婦女が兵士たちに強姦された。
(3)兵士が我等の門衛を殴打したのは、彼が兵士に、蹂躙に供する娘さんを用意しなかったからだった。
(4)昨晩何軒かの、アメリカ国旗が掛かっていて、大使館の掲示が貼り出してあるアメリカ人の住宅が、付近をうろつき回っていた兵士たちに闖入され、あるところは数回闖入された。これらの住宅には、我がアメリカ人同僚3名が現に住まっている建物が含まれている。

兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
「南京!南京!」が見られる映画サイト

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2011年3月26日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

1938年3月26日 南京では日本軍の虐殺が続いていた!!
日米間の密約はまだまだ存在する!!

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!
沖縄の米軍基地撤去!沖縄と「天皇の免責」の関係は?

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)


新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!
時効なき戦争責任・戦争犯罪!!
政府は戦史資料を公開せよ!!


城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
 
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 


●731部隊
『【真相】
石井細菌戦部隊―極秘任務を遂行した隊員たちの証言』

郡司陽子編(1982年11月30日初刷:徳間書店)より
V 私は中国軍の捕虜だった 
   総務部調査課翻訳(情報)班 H・M
「戦犯として奉天市公安局地下独房へ
私が連行された所は、奉天市公安局の地下にある独房であった。狭いコンクリートの独房には、裸電球が1つ、ポツンとぶら下がっているだけである。夜ともなると、寒くて仕方がなかった。
 足元をよく見ると、南京虫が死んでいる。戸外で運動できるのは、1日1回、15分だけである。食事は、朝昼晩と3食であったが、いずれも塩汁である。ただ、どういうわけか、土曜の夜には、この塩汁の中に、豆腐が2、3切れ入っていた。私にとって、このわずか2、3切れの豆腐が、どれほどか待ち遠しく、また楽しみなものであったことか。
 それでも不思議なもので、私は痩せなかった。といっても、むくみがきただけのことであるが。こうして、4ヶ月をこの独房で過ごした。その間、いわゆる取調べは、全く無かった。
 4ヶ月ほど経った頃、私は突然、撫順監獄(戦犯管理所)に移送された。今度は、奉天の地下室と比べて、まるで天と地ほどにも違う、素晴らしい待遇であった。鉄格子こそはまっていたものの、もはや地下室ではなく、清潔な独房が与えられた。
 3度の食事も奉天の時とは比べものにならないほどのご馳走となり、煙草もふんだんに与えられた。そして私は、この独房で、翻訳の仕事を与えられたのである。
 翻訳は、政府の仕事らしかった。大部のソ連の衛生学書を訳すのである。翻訳し終わるのに、数ヶ月を要した。

※大変な奉天での監獄生活であったと思う。ただ、中国当局の対応で驚くのは、日本軍の監獄でよく行なわれていた厳しい取調べや拷問がなかったことである。また、食事も粗末ではあるか3度出たことも不思議だ!!当時の中国の状況も戦後の混乱で大変だったと思う。
 さらに驚くのは撫順監獄に移送されてからは、待遇が素晴らしくよくなり、ご馳走が出て、取調べのことは書いてないがほとんど無かったのではないか?そして、翻訳の仕事を与えられた。
 この撫順戦犯管理所では、自由な時間もあり、運動もできた。最初は、自分たちは上官の命令で人を突き殺したり、焼き殺したりので、自分たちには全く罪はないと言っていた戦犯たちも、時間が経つに連れて自分たちの非道な所業を自ら告白し、悔い改めるようになっていった。ここ撫順に収容された戦犯は一人も死刑されずに日本に帰された。これを「撫順の奇跡」というのだそうだ。この方々が、日本に帰られてから、「中国帰還者連絡会」を立ち上げ、戦後の日本で自らが中国で行なった非人道的な所業を地道に証言していった!!

撫順戦犯管理所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
撫順戦犯管理所(ぶじゅんせんぱんかんりしょ、抚顺战犯管理所)は、撫順市順城区にあった中華人民共和国による戦犯管理所。
満州国時代は、撫順監獄であったところを戦犯管理所に改造し、1950年ソ連より引き渡された900人以上の日本人や満州国の戦犯を収容した。満州国戦犯の中で愛新覚羅溥儀が最も有名で、有名な映画「ラスト・エンペラー」は、かつてここで撮影された。日本人戦犯は、1964年迄に帰国し中国帰還者連絡会を結成した。
1987年、観光地として開放的された。2006年、撫順戦犯管理所旧址として、中華人民共和国全国重点文物保護単位(分類近現代重要史跡及代表性建築、編号6-920)に登録された。
主な収容者
•愛新覚羅溥儀、愛新覚羅毓セン、張景恵、張煥相、盧元善
•武部六蔵(国務院総務庁長官)、古海忠之(国務院総務庁次長)、今吉均(満州国警察総局警務処長)、柏葉勇一(撫順警察局長)、斉藤美夫(満州国憲兵訓練所長少将)、富永順太郎(日本特務華北交通防衛本部、いわゆる富永機関)、鈴木啓久(陸軍中将)、藤田茂(陸軍中将)、城野宏(山西省軍司令官)、佐々真之助(陸軍少将)、金子安次(陸軍兵士)

「撫順戦犯管理所」より
撫順戦犯管理所8
講堂の反省台ー戦犯らは壇上から罪状を告白するなどして人間教育を受けた

1949年9月、日本の侵略を打ち破り中華人民共和国を成立させた中国共産党は、日本人戦犯を各地の戦犯管理所に収監し、戦争犯罪の記録を克明に記録させたという。撫順管理所もその一つで、今回同行させていただいた小山一郎さんはここに5年間、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)らとともに収監され、「人間改造」教育を受けた。

「撫順戦犯管理所の思い出」より
中島宗一・・・そうですなぁ、わしや偽満州国の警察に長くおったんですが、あの昨日の自分たちに対する処理を宣告された時、検察員先生の方が、ここにいる戦争犯罪者は人道主義に反し、国際法に反した罪行を犯した者と言われました。私もひとつの例をあげてみるならば、日本が東北を侵略した時、これに反抗して立ち上がった抗日軍を指揮した趙尚志将軍を道案内したというたったひとつの理由でオロチョンの方をとらえ、日本刀で首をきり、さらにその上脳味噌を取り黒やきにして薬だといってのんだ、人間では考えられない行爲をした自分が、だんだん人間としての気もちをもつようになり、私のやった事が本当に悪いことであることを知り、当然中国人民に厳重な処罰をうけなくちゃならないというふうに考えていました。それがこのような寛大処理の恩典によくして、あの時の自分は電気にうたれたようになりました(一同同感の声)。あの時の感謝と感激は一生忘れられません。
※オロチョン・・・中国の内モンゴル自治区や黒龍江省の北部に居住する民族

「中国帰還者連絡会」より
私たちは、先の日中15年戦争の間、日本軍国主義の積極的な手先となって数多くの非人道的な罪を犯し、敗戦後、中国の「撫順戦犯管理所」(969名)と「太原戦犯管理所」(140名)とに、戦犯として拘留されました。

 中国の戦犯管理所では強制労働がないばかりか、有り余る時間が私たち戦犯に与えられました。中国政府の戦犯にたいする方針は「戦犯とても人間である。その人格を尊重せよ」という人道主義の政策であり、管理所の全工作員も個人の恨みを超えて、この政策を忠実に実行されました。工作員たちは、日々コウリャン飯を食べながら、戦犯には白米飯と豊かな副食を精一杯調え、罵る戦犯には笑顔で応え、病人には高価な貴重薬を惜しげもなく投与しました。その他、衛生・運動・文化・学習などすべてに好い条件を保証されました。

中国『撫順戦犯管理所』が60周年式典

●3月26日(土)午後1時半~5時 以下のような学習会が予定されています。予定のつく方はどうぞ!!場所:中野区勤労福祉会館3階大会議室
3月26日

寧波細菌戦に関する動画はこれだ!!(11:43)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)

731部隊では何が行われたのか
アメリカは、天皇・731部隊員に戦犯免責を与え、データを独占入手した。(21:22)
Unit 731 「731部隊(2/2)~"負の遺産"をめぐる米ソ暗闘(8/12/2007)」
元部隊員の証言!!(7:25)
731部隊 | 日本を変える論客たち
帝銀事件の真犯人は平沢ではなく731部隊員であった!!(8:46)
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
エイズは人為的に作られた!!(6:33)
731細菌部隊と帝銀事件との真相2

問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
②731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
 731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
 戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
 戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
 医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
 テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!

●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
ベイツ
日本大使館宛の書簡(1937年12月16日~27日)
 12月16日、木曜日
 今日午前に差し上げました手紙の第2項に、少し補充させて下さいますように。
 私の学校の農業経済系(小桃園)[Agricultural Economics Department(Hsiano T’ao Yuan)]で強姦された者は、30人を超えていて、それは夕べ日本軍が大勢、絶えずやってきてはやらかしたのです。私はすでにそれを全部調べて、報告事項の正確さを確かめました。
 市街のその部分の状況は極めて悲惨なものです。皆さん方が軍当局に、すでに充分に表明しておられ、同時に充分な同情の想いをも表しておられるのを、私たちは確信しております。数万の一般市民にとっては、命を保つのが当面の急務なのです。
 金陵大学は安全区に位置していて、この地域の環境と存在という問題から影響を直接受けています。何がしかの(日本の)上級官吏が以前に友好的な態度を表明され、安全区の働きの趣旨を了解されました。他の人たちは冷ややかで猜疑的でした。何とかその人たちに、(安全区)国際委員会が始まってから今までにやったことを、すべてはっきりと知っていただきたいです。どの事務室も建物も、安全区国際委員会のメンバー誰しもの行動も、毎日いつでも門戸を開いていて検査が受けられます。委員会は情勢が正常に回復し、人道主義的な救済はもう要らないということで、解散されるならば、大いに喜び小躍りするでしょう。私たちはただただ最大限の努力をし、極めて困難な条件の下で、あの戦争で家から追い出され、いまだにはなはだしい恐怖の只中で生活している人たちのために、住まいと食物とを提供しているだけなのです。

兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
「南京!南京!」が見られる映画サイト

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2011年3月25日金曜日

この世の地獄!原子力

ヤフーの掲示板からの転載です!!
         転送歓迎です

◆ 地震と原発事故情報 その22 ◆    
6つの情報(3月25日山田太郎さんのお話、3/26は夕方の部も開催、若者たちが東電糾弾行動、30キロ圏外も100ミリシーベルト、反原発政党が得票倍増、原子力安全委員長が謝罪)

1.緊急学習会・その6のご案内  
  日 時:3月25日(金)午後6:00開場 6:30~8:45
  資料代:800円
  会 場:たんぽぽ舎
  テーマ1 原発技術者からみた「原発のアキレス腱」
      講師:山田太郎さん(元・東芝原発技術者)
目からウロコと評判の小冊子『原発を並べて自衛戦争はできないー原発と憲法の関係』(15頁)の筆者が講師です。
   原発のアキレス腱についての今回の話も『目からウロコの話』になると思います。

  テーマ2 サクラ調査の目的と意味-「福島原発事故放射能とサクラ調査」
       お話:奥田智子(サクラ調査ネットワーク)

2.3月26日(土)『たんぽぽ舎22周年の集い』―緊急講演会に切り替えます。        
  2部(午後と夕方)構成になります。お間違いないように

  会 場:全水道会館会議室 (JR水道橋駅東口下車2分)

 イ.13:30開場   ◆満員締め切り◆
  14:00~17:00記念講演(お二人の講師)
  テーマ1、「『大地震が近づく浜岡原発』―原子炉時限爆弾―」
        講師:広瀬 隆さん(作家)
  テーマ2、「全てが人災、福島原発・同時多発事故」
   講師:槌田 敦さん(核開発に反対する会代表)
 ロ.17:30開場
  18:00~20:30(広瀬隆さんお一人の講演)
  テーマ 「『大地震が近づく浜岡原発』―原子炉時限爆弾―」
        講師:広瀬 隆さん(作家)
  資料代:1000円

 ★イ.の1部は申込多数のため、受付を締め切らせていただきました。
  そこで、2部を、同じ会場で開催致します。
  よろしくお願いいたします。

3.警察権力の不当な規制を撥ね退け青年労働者が東電糾弾に起ちあがる

●3月20日午後1時、東電本社へ抗議行動に来た3人に対して20人近い警察官が立ちふさがった。
他の人たちは通行できるのに我々だけは道路を渡って反対側に行けと命じる。「どういう法律や条例に基づいて通さないんだ」と何度も抗議しても何も答えず、仲間のひとりを3人がかりで引きずって道路の反対側に連れて行く。
50人を超す警察官が警備する東電本社に向かい、その責任を糾弾し、すべての原子力被災者に謝罪し補償すること、またすべての原発を止めることなどを要求した。
通行する市民に福島原発事故が想定外ではなく、また天災でなく人災であることなどを訴え、ビラを渡した。受け取る人が多く、特に子供連れの母親はほとんど取ってくれる反面、「原発は必要なんだよ」と反発する者もごく少数ではあるが現れ、反応が明確に出ていた。
フリーター労組の若者を中心につぎつぎと参加者が現れ、USTREAMはライブで中継し、またTBSなどの民放もカメラを回し(たぶん放映はなし)、台湾の記者も取材していた。
●福島の被曝者、とりわけ子供たちの事を考えると胸が張り裂ける思いです。
天災の津波と人災の原発事故で被災した東北地方の人達の生活はまったく先が見えません。
福島原発事故は首都圏の経済も直撃します。私はタクシー労働者ですが、規制緩和、不況、リーマンショックで営業収入はがた減りで、職場では過労による脳梗塞などの死亡が相次ぎ、生活苦による首つり自殺もあります。
3.11以後営業収入は一段と減り、「生活保護か死ぬかどっちかだよ」という声がでています。まさしく人々の命と暮らしを破壊する原発です。
 しかし今回の青年労働者を中心とした東電糾弾行動は規模は小さくても反原発運動の可能性を切り開く戦いでした。

●当日の行動はUSTREAMで見ることができます。
http://www.ustream.tv/recorded/13441127
3月21日現在1000人を超す視聴者です。最初の34分は飛ばして下さい。(S)

4.30キロ圏外も100ミリシーベルト 事故後屋外被ばく量試算-原子力安全委員会発表

政府の原子力安全委員会(斑目春樹委員長)が23日、「緊急時迅速放射能影響予測」(SPEEDⅠ=スピーディ)の試算結果として明らかにしたところによると、福島第1原子力発電から半径20km圏外の地点で、事故後から24日までずっと屋外にいたと仮定すると、大気中の放射性ヨウ素を取り込むことによる甲状腺の被ばく総量は
100ミリシーベルトを超える危険性があることが分かった。
 この試算は、放射性ヨウ素の影響を受けやすい1歳児が対象。100ミリシーベルトは甲状腺がんの予防のため、安定ヨウ素剤を服用する基準だが、枝野官房長官は、「直ちに避難や屋内退避をする状況ではないが、風下の場合は、念のため窓を閉め、屋内にとどまってほしい」と注意を呼び掛けた。
 100ミリシーベルトを超える範囲は北西に最大55キロ、南に同45キロにまで広がっていた。北西側では福島県伊達市や川俣町、南側では同県いわき市までが含まれる。
「SPEEDⅠ(スピーディー)」は、今回のような事故を想定して2010年度予算で7億8000万円が計上され開発されたシステムだが、「生データを公表すれば誤解を招く」として事故以来試算結果が明らかにされていないことに批判が集まっていた。 (3月24日 東京新聞 1面要約)

5.反原発政党が得票率倍増=独州議会選

  http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011032100079

ドイツ東部のザクセン・アンハルト州で20日、州議会選挙が行われ、反原発を掲げる環境政党の90年連合・緑の党が得票率を前回の3.6%から7.1%にほぼ倍増させた。福島第1原発の事故が影響したとみられる。

6.原子力安全委員長 事故想定で謝罪

政府の原子力安全委員会の斑目春樹委員長は22日の参院予算委員会で、東日本巨大地震による東京電力福島第1原子力発電の事故に関し、「(原発設計の)想定が悪かった。想定について世界的に見直しがなされなければならない。原子力を推進してきた者の一人として、個人的には謝罪する気持ちはある」と述べ、陳謝した。社民党の福島瑞穂氏の質問に答えたもの。
 斑目氏は2007年2月の中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)運転差し込め訴訟の静岡地裁での証人喚問で、非常用発電機や、制御棒など重要機器が複数同時に機能喪失することまで想定していない理由を問われ、「割り切った考え。すべてを考慮すると設計ができなくなる」と述べていた。福島氏はこの証言を取り上げ「割り切った結果が今回の事故につながった」として謝罪を求めた。(読売3月23日)

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