2009年6月27日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

6、罪証を隠滅、狼狽な逃亡
 
 1945年、日本軍のアジアと太平洋の戦場におけるたび重なる敗北に伴い、石井四郎は日本の大勢がすでに去ったことを知り、その年頭に731部隊の留守者リストを作成した。731部隊の行為が国際条約にひどく違反していることを日本関東軍は十分に承知していたことから、その罪を隠すため、731部隊は逃亡前にすべての施設を完全に爆破し、重要物資と核心資料を日本に持ち帰った。

●731部隊隊員の大部分は中国の通化を経過し、丹東及び韓国釜山(ぷさん)を経由し帰国した。
●日本軍投降後、731部隊隊員のほとんどは日本に戻り、少数の支隊隊員だけが捕虜となった。

日本に戻った一部731部隊隊員の名簿と職務
石井四郎初代部隊長
北野政次第二代部隊長。帰国後は図書館の翻訳、「中村公衆衛生研究所」所長や
東京血液研究所所長などの職につく。
菊池斎731部隊第一部細菌研究部部長
太田澄731部隊第二部細菌研究部部長
碇常重医学博士。731部隊炭疽菌研究班班長
園田太郎病理研究班班長。帰国後は芦屋市太原町で病院を開き、院長を務める。
永山太郎731部隊診療部部長。帰国後は内科診療所を開く。
田部井和医学博士。かつては第一部細菌研究部部長を担当し、
帰国後は兵庫県立医科大学細菌学教授。
伊地知俊雄総務部調査課課長
石井剛男731部隊特別班(特設監獄管理)班長
石井三男実験用動物飼育、採血班班長
坂井居江731部隊第三部運輸班班長
西郡彦嗣731部隊細菌検査班班長
関根(安川)隆731部隊細菌研究技師。帰国後は水産大学学長
高橋正彦医学博士。第一部ペスト研究班班長
川上漸病理学博士。第一部川上病理研究班班長、病理解剖技師を担当。
帰国後は慶応大学医学部教授
笠原四郎病理学博士。病毒研究班班長。帰国後は北里研究所濾過性病毒研究部部長。
岡本構造病理研究班班長、解剖技師。帰国後は東京帝国大学の病理学教授
田中英雄昆虫研究班班長。帰国後は大阪市立大学教授
吉村寿人生理学博士、凍傷研究班班長。帰国後は京都府立医科大学生理学教授



日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

周兆坤(男、70歳)の証言

1937年には、家は西芦柴廠178号で、父(その時50歳足らず)と母と兄と私の妻とでみんなで5人でした。家中がむしろを編むのを業としていました。日本軍が入ってくる一日前に、我が家は三岔牌(つまり今の江東郷清江村)に引っ越して住まいました。
 日本軍が南京を占領した2日目の午前8時か9時に、私は様子を見に出て来たいと思い、漢中門までまだ来ない内に、日本軍が何十人か向こうから来ました。日本軍の偉そうにしてたのが軍刀を手にして、私の面前まで来て斬り付けて来、私が首をちょっと左に避けたので、頭の右上の所が斬られて、血がぱっと出ました。幸い私は頭に厚い綿の帽子をかぶっていて、思いがけなくそれが防御になってくれ、そうでなかったらとっくに命は無かったのでした。その後で通訳みたいな人が私は兵士ではないようだと言ったので、日本軍はやっと手を止めて私を放ちました。私を痛みを堪え傷口をしっかり押さえて家に帰り、それからはもう家の門を出られませんでした。頭の傷口は10針以上縫い、1ヵ月余り大事にしてやっと癒着しました。今も頭に長さ3寸余りの傷痕が残っています。(袁史明と湯雲龍が記録)

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

ひとりひとりの安全を

大事にする世界


これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月26日金曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

6、罪証を隠滅、狼狽な逃亡
 
 1945年、日本軍のアジアと太平洋の戦場におけるたび重なる敗北に伴い、石井四郎は日本の大勢がすでに去ったことを知り、その年頭に731部隊の留守者リストを作成した。731部隊の行為が国際条約にひどく違反していることを日本関東軍は十分に承知していたことから、その罪を隠すため、731部隊は逃亡前にすべての施設を完全に爆破し、重要物資と核心資料を日本に持ち帰った。

●細菌実験センターであった「四方楼」は完全に爆破され、特設監獄に監禁された最後の被験者たちも爆破前に全員毒ガスで殺され、死体も焼却された。しかし、その数が多いため、短期間に全部は焼却できず、731部隊運輸班は焼却しきれない死体を秘密裏にトラックで運び松花江に捨てた。
●隊員たちは、動力班の3台の機会で、被験者のレントゲンと日本に持ち帰れない重要資料を毀棄(きき)してから機械を爆破した。その他、兵器班、高橋班、焼却炉などの施設も爆破された。
 
日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
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「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

馬金義(男、76歳)の証言

 日本軍が南京を占領した時、私は29歳で、妻と銅坊苑5号に住んでいました。私は夫子廟のある食べ物屋で料理人をしていました。
 1937年12月16日の午前9時過ぎに、私が中庭に立っていた時、門を猛烈に叩くのがいて、鍾という隣人が門を開けると、頬にひげをいっぱい生やした日本兵が1人入って来て、自転車を1台押し、刀を体にかけていましたが、様子からして下級将校でした。私を手招きし、自分について来るようにとの素振りなので、私は付いて出て行くしかありませんでした。道々通りの両側とも火が盛んに燃えているのしか見えないみたいで、日本軍が勝手に火を放ち焼きまくっているのでした。私が付いて行き三坊巷の前の電報局の所まで行くと、門に「清水大隊」という札がかかっていました。門を入ると日本兵が私を指し「中国兵だ」と言いました。すると日本兵が4,5人かかって来て手で殴るやら脚で蹴るやら、着ていた綿入れを引き破るやらし、黒い布で目隠しをして、「スーラスーラトィ」(死んじまえ、死んじまえ)と言いました。私の腰のベルトを外して首に巻き、2人が片方ずつ持って、同時に力を入れて引っ張り、私が気を失うと、少し緩め、気が付くと、又力を込めて引っ張りました。そんな風に締めたり緩めたりして、私を何回か目がくらんで分からなくさせたのです。
 もう直ぐ暗くなろうとする頃に、私が気が付いたら、むしろが1枚体にかかっていて、電報局の後ろの花壇に横たわっていましたが、周りは何処もかしこも死体ばかりで、ぞっとしました。やがて、日本兵が2人むしろを2枚持ってやって来て、私を脚で2度蹴り、1度はちょうど左の目を蹴ったのですが、痛いのを堪えて動かなかったので、私が死んだと思い、身を巡らして行ってしまいました。
 暗くなり、あたりに人声がしなくなってから、私はゆっくり囲い塀の辺まで這って行きましたが、塀の外は高家巷の四聖堂に通じていて、塀の脇の大きな木の下に肥え桶が置いてあったので、私は木につかまり肥え桶の上に立って塀に這い上がり逃げ出ました。上浮橋一帯は日本軍が見張っていて、家には帰れず、水倉巷の妻の兄弟の家まで行って隠れるしかありませんでした。左の目がはれて開けられず、腿も塀を跳び越えた時に転んで悪くしてしまい、行き来に不便で、体がとても弱り、1ヶ月余りふせっていてやっと次第に回復しました。やがて上浮橋を見張っていた日本軍が撤収したと聴いて、やっと杖を突き付き家へ帰りました。私の左の目はこの時から視力が減退して、半年で失明し、一生私は1つ眼の障害者に成ったのです。(劉淑芳と梅嘉福と顧蘇寧が記録)

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界



また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月25日木曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

4、1942年に浙贛鉄道で実施した細菌戦

《井本熊男日記》731部隊遠征軍の浙贛作戦実施に関する記述から以下は大意
常徳細菌戦の実施成功後、1942年春には、規模のより大きな細菌戦の企画活動を開始。以下は攻撃目標:
1、昆明
2、麗水、玉山、桂林、衢県、南寧(沿線飛行基地)
3、濠(豪?)州の各地要所
太平洋戦争の侵略作戦が一段落した後、日本軍は中国内地の麗水、玉山、桂林、衢県、南寧など華中、華南の都市攻撃を企み、同時にアメリカのアラスカ、オーストラリアとインドをも攻撃目標として討議したが、1942年の細菌戦進行地点は中国の華中、華南にある上述の都市にすることを決めた。



日本軍は玉山撤退の際、井戸に細菌入りのオイル缶を投入すると同時に、空中から大量のノミを投じた。この井戸の水を飲んだ村民の多くは嘔吐、下痢し、間もなく死んだ。
 
日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
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華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
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731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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中国人戦争被害者の要求を支える会

  
中帰連

  
ハイナンネット
 
  
南京への道:史実を守る会

  
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

黄広林(男、66歳)の証言

 解放前は、家が貧しく、私は1936年に父母や弟妹たちについて南京へ来て、中華門の龍泉巷7号に住み、餅や団子を造ったり飯を蒸したりして生計を立てていました。1937年には日本軍が攻め込んできて、五台山の近くの難民キャンプに移り住むよう迫られました。その時私は18歳でした。12月13日に、日本の侵略者が南京を占領しました。12月14日の午前中に、私は一緒に住まっていた丁乃成(今は溧水の孔鎮郷の人)とそのほかの青年2人(1人は今は溧水県の和風郷黄家大隊甘村の人で、もう1人は南京の人)とを誘い、中華門の家まで見に行きました。私たち4人が一緒に楊公井まで来た時に、日本兵の一隊が正面から、馬や羊を牽いて私たちの方へ来るのに出逢い、日本軍2人が前まで来たので、羊や馬を牽かせるのに私たちを引っ張ろうとするだろうと、私は思いました。ところが、この日本軍2人は私たちを縦に並ばせました。私は一番後ろに並びました。日本軍の1人が銃を持ち上げ、私たちの前の3人を1人1人撃ち殺しました。私に撃って来ようとした時に、私はいち早く駆け出し、何十メートルか遠くまで駆けていて、日本軍が私を目掛けて一発撃ちましたが、当たりませんでした。私は道端の溝につまづき倒れ込みました。直ぐに日本軍2人が来て、まず左の腰を一太刀(ひとたち)突っついたので、私が向きを変えると、又右肩の上と、右の肋間、右の腰と、背中とに四太刀突いて来ました。こうして、私は日本軍に五太刀突っつかれ、傷口が7つでき、今も傷痕が7箇所残っています。私はその時気を失いました。しばらくして、ぼんやりとながらも革靴の音が聞こえなくなったようだったので、家へ帰ろうと何とか起き上がり、街の中心まで来た時に、又日本軍2人に出くわし、私の前までやって来た2人は、私がかぶっていた帽子をつかみ下ろし、額と手とをなでて、それから、又何やらぺちゃくちゃ喋っていてから、行ってしまいました。私は全身傷が痛いのを堪えて、何とか引きずり引きずり五台山までやってきたのは、もう夕方時分でした。
 私は難民キャンプに戻ったら、父と母が私を見るなり、首を抱いて大泣きに泣き出しました。そしたら、私は身体中の力が抜けてしまって、立っていられなくなり、地べたに倒れこんでしまいました。私と一緒に街へ行った2人の奥さんたちが、日本軍に夫たちが撃ち殺されてしまっていたと知って、吠えるかのように泣く様が何とも悲惨で、何と痛ましかったことでしょう!父や母が私の衣服が血でべったり体に引っ付いているのを見て、はさみで綿入れを切り開いたら、全身に血の斑点が広がっていて、傷口の中は膿だらけでした。ぼろや綿で傷口を拭いてくれ、私を隠してくれたので、幸い寒い時で、ただれずに、2ヶ月余りも休んだら、傷がだんだん好くなって来ました。今思い出すとこの不幸なめぐり合わせは、何とも痛ましく忘れがたいことです!(姜継安が記録)

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

4、1942年に浙贛鉄道で実施した細菌戦

1942年4月18日、日本侵略軍の上海第13軍団と武漢第11軍団は、浙贛戦役を配置し、浙贛鉄道を貫通させよとの大本営の命令を受けた。戦いは5月から始まり、日本軍は金華、衢州、玉山、広豊、麗水などの地区を相次いで占領し、浙贛鉄道沿線にある3空港を破壊した。しかし兵力不足のため、日本軍は以上地区での長期駐屯ができず、破壊した空港も再建できないため、大本営は「浙贛行動」という細菌戦の実施を731部隊に命じた。1942年8月、731部隊はまたも遠征部隊を編成し、南京の「栄」字第1644部隊と共同行動をとった。この遠征隊は120人の士官と雇用隊員で編成され、7月に汽車でハルピンを出発し、まずは南京華中派遣軍防疫給水部「栄」字第1644部隊の陣営に駐屯した。出発前、731部隊はすでに倉庫で炭疽菌、パラチフス菌とペスト菌など約130キロの細菌瓶を箱に詰め、1644部隊の専用空港に送り、そこから「給水」の標識がある飛行機で南京へと運送した。細菌投入は空中投下と地面投入の方法がとられた。作戦実施の日本軍に対する同時感染防止のため、731部隊は投下地点を住民が避難した後の無人の町や村とし、住民は帰還後に即時感染した。空中投下はのち中国側が国際社会に激しく訴えたため、一度は地面投入のみに変更された。

 
日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
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731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

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本人の受けた害

呉芝生(男、72歳)の証言

 日本兵が入ってくる半月前に、私たちは元々住んでいた大丁家巷38号から難民区へ引き移り、今の華僑橋の近くに住まいました。私と弟の呉芝坤とは「仁○」と呼んでた家に一緒に住まい、母と前の妻の蔡芙蓉とは別の所に一緒に住まいました。1937年の冬月23日(「送竃」節)の午前中に、私と芝坤と一緒にドイツのシーメンス電器会社の南京事務所へ米を買いに行ったのですが、米を買う人がたくさんで、押し合いへし合いながら米を買っていた時に、不意に日本兵が2,3人やって来て、男の人を捕まえては頭を見たり、手を見たりして、「中央軍」がどうかを検査しました。私は人に文書を書き写してやる「代書屋」でしたが、やはりとても恐い気持ちでした。私は芝坤を人込みの中に押しやって、いち早く駆け出しましたが、日本兵に見られ、後頭部に狙いをつけられ一太刀やられました。途端に、首が血だらけになり、ネクタイがびっしょりになりました。私は死んだ振りをして腹ばいとなり、日本兵が一蹴りしましたが、私が動かないのを見て行ってしまいました。やがて弟と別の米を買ってた隣の人とが私を抱えて家に帰らせ、香炉の灰を傷口に塗って血を止めてくれました。その後、私は「仁○」で横たわって静養し、弟に世話してもらいました。今も後頭部の傷痕ははっきり見え、凸型になっていて、長さ2ミリ半です。
 前の妻の蔡芙蓉は、その頃23歳で、日本兵に引っ張られました。岳父があちこち人に頼んで、蒼義成という通訳を見つけて方法を考えてもらい、一月近くしてやっと娘を帰らせてもらいました。(徐朝春と董明征が記録) ○は漢字に変換できない字

 
憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

女性たちが

平和をつくる世界


ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。

 
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月23日火曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

3、1941年に湖南常徳で実施した細菌戦

 常徳は中国湖南省にあり、ここは四省の相接地であることから重要な交通要地である。抗日戦争時代は中国の重要な糧食備蓄基地であった。その重要な役割の破壊と食糧の供給阻止のため、731部隊は日本関東軍司令部から「中国軍隊占領下の重要中枢区常徳及び鉄道道路沿線地区を破壊すべし」との命令に基づき、第2次遠征隊を派遣した。第2部部長太田澄大佐が100人以上の部下を率いて、1941年の年始と年末の2回にわたり常徳地区で、大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳県県庁所在地及びその郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。

《井本熊男日記》の731部隊による常徳作戦から:以下は大意

 11月4日、目的地は天気良好との知らせを受け、増田美保少佐が97式小型爆撃機を操縦し。5:30出発。6:50に目的地上空に到達。濃霧のため、飛行高度を下げて投下地点探索。地上800メートルの上空で群雲発生したため、1000メートル以下の投下を決定。(投下中に投下物を入れた箱が十分開かなかったため、最後は投下物を洞庭湖に投下。投下物はペスト・ノミ36kgとその他の予定穀物。)
 11月6日、常徳付近にて中毒事件発生(日本軍の一飛行機が常徳付近で投下し、投下物に接触した人はいずれも強い中毒反応が起きた。)
 11月20日、ペストが大流行。各戦区で。衛生防疫材料を全面的に収集。


日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
化学兵器CAREみらい基金ブログ

  
大久野島(毒ガス島)

  
中国人戦争被害者の要求を支える会

  
中帰連

  
ハイナンネット
 
  
南京への道:史実を守る会

  
根津公子さんのページ
  

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

沙官朝(男、77歳)の証言

(昨日の続き)日本兵が見るなり、後ろから追って来ました。私は人力車をひいていましたから、脚で走るのは速いし、大きな通り小さな横丁とよく知っていたしで、日本兵が力いっぱい追っても追い付かず、私に向けて発砲射撃してきて、一発が肩に当たりました。2人は満足したみたいで、かか大笑いして去って行きました。私は隣6人が腹ばいに地に倒れ、どれもこれも日本軍の蛮刀の下に惨死しているのを目にし、自分自身も又何太刀かと一発食らい、刀傷と銃傷とを受けて、悔やむ想いと急く想いとで、狂わんばかりに懸命に走り、人里離れた路を何本か近道し、木料市や小王府園一帯に沿って難民区までまっすぐ走って行きました。難民区に帰ってからは、傷口が痛くてたまらなく、妻が見るなり気をもんで、私に手を貸して鼓楼医院に連れて行き、医者が見て入院させてくれました。11日入院しましたが、寝ていたのは267号ベッドだったと覚えています。そこに寝泊りしていても平穏だったわけではないのは、日本軍がしょっちゅう医院に調べに来ようとするからでした。医者が私に、日本兵に刺されたと言っては駄目で、爆撃で受けた傷だと言うようにと、言い含めてくれました。果たせるかなある日の夕方日本兵が病院に来て、私の布団をまくって聞いてきたので、私は医者に言われていた通りに話したのですが、暗くなっててはっきり見えなかったこともあってか、うまくごまかすことができたのでした。傷口がだいぶよくなって、退院して家に帰り、中国の薬草で続けて治療し、長い時間かかって治り、傷口がやっと癒えてだんだん着いてくるようになり、やがて健康が回復しました。(戦国利と楊正元が記録)

 
憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

女性たちが

平和をつくる世界


 戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月22日月曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

2、1940年の浙江東部寧波など地区での細菌戦

1940年7月、「関東軍作戦命令丙字第659号」令に基づき、将官1名と士官39名からなる「奈良部隊」が臨時編成され、石井四郎自らが指揮を執り、浙江東部の寧波(ニンポー)地域に赴き細菌作戦を実施した。部隊は細菌戦用器材を携えて7月末に平房を出発。その事情をかつて日本大本営の参謀であった井本熊男が日記に記している。この日記は1959年に本人が戦史資料として日本防衛庁に寄付した。

《井本熊男日記》の731部隊による寧波、衢県作戦の記載(吉見義明/伊香俊哉『731部隊と天皇・陸軍中央』岩波書店):(以下、大意)
●8月16日、井本少佐自ら杭州に赴き、奈良部隊に伝令し、同時に具体的な攻撃目標の選択を始めた。
●9月10日、攻撃目標を捜し、最終的に寧波に決める。
●9月10日、最初の弾薬未到、やがて到達する見込み。この最初の弾薬運送中に、元のコレラ菌が腸チフス菌に替えられる。




●1940年の9月18日から10月7日にかけて、日本軍は浙江省で6回にわたって細菌攻撃を実施した。それは主に細菌液とペスト菌に感染したノミが使用され、寧波市開明街の上空からノミを混ぜた小麦と粟を投下し、寧波の軍民たちに感染・到病させ、死亡数は100人を超えた。このため開明街一帯は閉鎖され焼壊された。その後20世紀の60年代半ばまで、ここには住民はなく、当時kの通りは「ペスト通り」と呼ばれた。
●1940年10月4日、日本軍は同手段で衢州県にノミの付いた小麦と粟などを散布した。検査の結果、このノミは「ペスト・ノミ」と判明された。散布したから38日後、衢州県ではペスト感染者が22人に達し、全員亡くなった。
●1941年9月、義烏市(旧称義烏県)から流行り始めたペスト病は日本軍が前の年衢州に投下したペスト菌感染が原因である。1943年まで、ペスト病はこの周辺地区での流行病となっていた。


日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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中帰連

  
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南京への道:史実を守る会

  
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

沙官朝(男、77歳)の証言

 1937年に日本軍が南京を占領し、人民は塗炭の苦しみの内に置かれ、無数の同胞が殺害されましたが、私がその生き残りです。
 抗戦したあの年は、私は30歳で、もう家庭を持っていて、子供が2人いました。私は人力車をひいて生活していました。日本軍が南京を占領した時、私たちはもう家中で東関○から沈家巷13号の難民区へ避難しに引き移っていました。何日かして、持っていた食料を食べ尽くしてしまったので、その日の午後3時に、私たちは隣の6人(銅細工師匠の李さんの息子に、韓というのに、栄というのに、向かいの範というの等、年齢がみんな同じくらいでした)を誘って、食料を探しに一緒に家に帰りました。○子橋の泥馬巷の角まで来たら、日本兵4,5人と出くわし、みんな年が若く力が強いと見るや、殴りつけ刺し殺し、私と一緒に行った6人の内で、あっという間に3人が銃剣で刺し殺されました。私はおったまげて、いち早く駆け出しましたが、たちまち日本兵2人に捕まってしまい、その1人が銃剣を腹をめがけて一太刀くれて来たのが、私が衣服をたくさん着ていたのと、ちょっと身をかわしたのとで、剣の先がそれて、左の腹から入って右の腹へ突き出ました。続いてすぐ、日本兵は又私の腰を一太刀刺しました。それに私の後ろに立っていた日本兵が、後ろから又一太刀刺しました。このもろに骨に刺さって来たのを、私はすぐさま歯を食いしばって抜き取り投げすて、痛みをこらえて前へ前へと飛ぶように走り、道に血がずうっと流れました。(明日に続く)
○・・・漢字変換できない字

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

基地をなくして緑と海を取りもどしてい世界

基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」 


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月21日日曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

1、1939年のノモンハン戦争

ソ連の極東地区に侵入し「北進計画」を実現させるため、日本関東軍はモンゴル東部のハルハ河地区を踏み台とするため、日本の皇族閑院宮載仁大将が自ら指揮を執り、1939年5月4日より攻撃をかけた。しかし、ソ連軍のジューコフ将軍の率いる部隊の支援があって、日本関東軍は敗戦を繰り返した。敗勢挽回のため、1939年6月に731部隊は「防疫給水部」という名称で中国モンゴル国境でノモンハン戦争に参加し、自分たちが開発したコレラ、腸チフス、赤痢などの細菌を初めて戦場に投入した。石井四郎はこのために1、毒物爆弾によるソ連陣地砲撃2、飛行機による陶器爆弾の投下3、決死隊を敵後方に侵入させ、水源への細菌投入という3つの細菌作戦計画を立てていた。最終的には碇常重少佐が決死隊を率いて細菌のハラハ河投入を決めている。これが731部隊の設立以来細菌を実戦に用いた最初の戦例である。


日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

朱錫生(男、74歳)の証言

(昨日の続き)そこで、痛みを堪えて難民所の方へ走って行きました。街中死体で満ち満ちていて、道々ずっとつまずいたりはったりしながら、やっとのことで元々住んでいた所に手探りでたどり着きました。私のその様子を見て、父はびっくりし、難民所の人たちも私にそこに座り込まさずに、何人かの親切な隣人の助けを得て、香木で灰をこしらえ傷口に塗ってくれた上、夜が明ける前にと、夜を徹してかなり辺鄙な所の草葺のボロ小屋まで私を背負って行って休ませてくれました。それからは、父が1人で私に付いていてくれるしかありませんでした。食べる物が無く、3,4日飢え続けて、まったくどうしようもなくなり、父は又も危険を冒して私を家に連れ帰るしかなかったのですが、幸い周りにまだ何人か生きている隣人がいて、その人たちに食べる物を乞うたりして命をつなぎました。陽暦の正月が近づいた頃、その日は雪でしたが、革靴の響きが聞こえたかと思ったら、日本軍が家に入って来て、私が眠っているのを見るや、肩を引っ張り上げて、腕時計をしていないかどうかを見、腕時計は無かったのですが、首に傷のあるのを見つけ、直ぐに私を捕まえ細かく取り調べ追求してきました。その時は、日本兵に斬られたとはとても言えずに、手まねをしながら、口で「ドカーン」とか「バーン」とか音を出したりして、日本の飛行機に爆撃された時に受けた傷なのだと説明し、そんな風に何とか又1つ関門を逃げ延びようと、だましてやったのです。そのあと隣の人が鼓楼病院へ行って傷を直すよう勧めてくれたのですが、私は敢えて行きませんでした。家に隠れて3ヶ月余り、だいたい百日くらい寝ていて、傷も少しずつよくなり、やっと起き上がって動けるようになりました。今でも首の後ろに幅3,4寸の傷痕が残っています。
私がこんな大変な目に遭ったために、父がおびえたり、あせったりして、根っから生真面目な年寄りだったのが、間もなくしてぼけてしまい、明くる年の9月になって、死んでしまいました。私も体に傷を持ち、仕事をするのが難しくて、生活に響き、ずっとぐずぐずして31歳になってやっと家庭を持ちました。私のこの間の苦しかった経歴については、家の周りの人たちや私がいた廃品回収の会社で働いてる連中はみんな知っています。解放後は、共産党のお陰で、私は生活が安定し、今は年をとり隠退して家におりもう4年余りになりますが、毎月会社からの労働保険金をもらっています。連れ合いは2年前に病気で死んだので、今は娘や婿たちと一緒に生活し、その子供たちの面倒を見たり、家のことをしたりしていて、晩年はまあまあの生活です。(劉玉銀と楊正元などが記録)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

基地をなくして緑と海を取りもどしてい世界

 戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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