2009年6月9日火曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!
●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

2、生体を利用した各実験


細菌感染実験

●731部隊による生体実験の種類は数多く、細菌の感染実験だけでも4,5種類あり、細菌の注射、内服、皮下埋入の3種類が常用され、この3つの方法で比較実験が行われた。彼らは15人の被験者を3組に分け、それぞれ上述の3つの方法で0.1、0.2と0.3グラムの細菌を注入し、被験者の反応を観察した結果注射法が最も効果があるとの結論に至った。
●2000年に、731部隊の「四方楼」の旧跡発掘の際、注射実験に使用した注射器が発見された。

凍傷実験

●凍傷実験は731部隊の重要かつ残忍な実験であり、その目的は極寒地区の作戦における凍傷治療問題の研究と解決である。最初、凍傷実験は冬に行われ、彼らはハルピンの寒冷気候を利用し、被験者達を室外にて縛り上げ凍傷を負わせた。のちに凍傷実験を年中実施するため、凍傷実験室を建てた。実験室は吉村寿人が担当することから、この凍傷実験班は「吉村班」という別名を得た。

毒ガス実験

●毒ガス実験とは毒ガスの人間に対する殺傷効果の研究を専門とした実験。731部隊の毒ガス実験は、常にチチハル駐屯の第516毒ガス部隊と共同で行い、また毒ガス実験に使われる被験者のほとんどは凍傷実験を受けた後の人間である。毒ガス実験は通常大きさの異なる2つの部屋を毒ガスパイプでつなげ、大きい部屋で発生した毒ガスはパイプを伝って小さい部屋へ流れ込む。この小さい部屋が被験者が実験される現場となっており、実験者は外から観察し、被験者の状態を随時正確に記録するため、小さな部屋の壁は通常透明なガラスでできている。

解剖実験

●かつて生体解剖を行った胡桃沢正邦氏は亡くなる4ヶ月前、ついに真実を明かし、「生体実験は被験者を手術台に固定し、その意識があるかないかの状態で解剖を行う。昏睡状態での解剖で、被験者が激しくけいれんするが、意識がはっきりした状態での解剖では、被験者は大声で叫びだす。一度、私は中国の妊婦を解剖したが、手術の前、彼女は赤ん坊だけは助けて欲しいと願ったが、??私は・・・・・・・・」と苦しそうに話した。

死体焼却炉

被験者は各種細菌実験を受けたあげく、生きながらも解剖室で解剖され、内臓はすべて取り出されて標本にされ、残った価値の無い身体は最終的には死体焼却炉に放り込まれて、その存在を完全に隠滅された。731部隊には3つの焼却炉があり、「四方楼」に一番近いのが被験者の死体焼却炉で、この焼却炉はのち撤退間際に廃棄された。現在は北岡焼却炉(遺跡)と北窪地焼却炉(遺跡)だけが残り、この2つの焼却炉は当時小動物の死体と細菌の研究開発過程で中毒死した731部隊の隊員の死体を焼却するものであった。


 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  南京への道:史実を守る会

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

 皇甫澤生(男、73歳)の証言

 私は山西省の左権県の者で、73歳ですが、今は太原市に住んでいます。
 1937年に私は南京を防衛する兵隊の1人でしたが、日本の侵略者の軍が城下に迫った時、南京防衛の責任を負う指導者に組織力が無かったことから、撤退する時に極度の混乱を引き起こしました。挹江門を出た時、各部隊とも既にばらばらになっていました。下関(シャーカン)に来た時には、長江には大きい船も無く小さいのも無く、無組織の散り散りになったあまたの兵が上新河の方へ流れて行った時には、兵に指揮者がいないのと、挹江門を出る押し合いでほとんどが銃を失っていたのとで、日本兵と戦うわけにはいかない状態になっていたため、前後して数百人が日本軍に捕らえられて捕虜になったのですが、私もその1人でした。
 私達は板橋鎮のある谷間まで連れて行かれて、集団で日本軍に機関銃で射殺されました。私はその時は死ぬしかないんだと思っていました。日本兵は銃で射殺し終わってから、傷してまだ死んでいない仲間たちを、銃剣で刺殺しました。その時私は死体の下に押し付けられていて、まだ生きているんで死んでないんだと分かりました。私がまだ生きているのを日本軍に気付かれないためには、ほんのちょっと動くことも出来ませんでした。およそ1時間余りして、あたりがもう何の物音もしなくなった頃に、傷を受けた仲間が1人泣いているのが聞こえただけで、私は顔を上げてあたりを見回すと、現場から遠く離れた東山の山頂で、一般市民が、見渡しているのが見えたので、それで私は日本軍がもう行ってしまっていないのだと確認しました。そこで起きだして座り、身体中を調べてみると、どこも傷していなくて、密集した銃弾の下で、自分が死ななかっただけでなく、小さな傷1つ受けなかったというのは、今になってもまだ私には1場の夢としか思えないのです。
 その時その傷を受けた遭難仲間が、身体中いっぱい負傷していて、出血しすぎたためなのでしょう、のどが渇いてたまらなく、水を少し汲んできて飲ませて欲しいと頼まれましたが、私はその人に傷したら水を飲んではいけないんで、自分が手助けして一緒にここから逃げてもいいからと勧めました。その人は、自分はもう動けない、堪えられない渇きを止めるのには水をちょっと飲むんだ、と言いました。その人は長くは生きられないと自分で感じていて、とにかく水を少し探してきてくれと頼むので、どうしようもなく私は軍用の水筒で田んぼの脇の沼から水を1杯汲んできてあげて、その患難仲間に別れを告げたのですが、それは又永久の別れでもあったでしょう。私は物悲しい思いを抱いて、この災難で死んだ何百人もの人たちと、この気息奄々(きそくえんえん)たる哀れな患難仲間とを後にし、東の山の端の方へ走って行ったのですが、数多くの土地の方々のお世話やお導きによって、安徽省(あんきしょう)南部の南稜などの地を経、やっと日本の侵略者たちの占領区から逃げ出て、生き残って来られたのです。(段月萍が皇甫澤生の1987年の手紙によって整理) 
  
           「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



ひとりひとりの安全を



大事にする世界を。



Imagine,


A world that values


the safety of each and



every human.



政府と政府とのあいだにではなく、人と人とのあいだに平和をつくる事が
大切だと思います。人と人とのあいだには、文化があり文明があります。
政府が変わっても、人間の文化や文明は変わりません。
私はイラク人として、日本の人たちとイラクの人たちの間に
平和をつくりたい。それが私の理想です。
(イラク/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月8日月曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。


2、生体を利用した各実験
目的種類731部隊の生体実験の種類
細菌兵器の開発研究実験での殺人手段極限状態における人体の変化探索
1殺傷力の高い毒菌を選別し人体に注入して観察各銃弾の人体への貫通能力人間の真空における状態
2人体における病毒の毒性と感染力の増強実験各種毒物の人間に対する殺傷力人間のそれぞれ異なる気圧下における状況
3人体を用いたワクチンの効果実験人間を殺すために最も効果的な部位を検索人間の空腹に耐えられる時間の極限
4異なる国と人種の人間に対する細菌戦剤の感染性の観測縊死(いし)させる水分を与えず乾燥食料だけの生存時間
5感染者と健康者を同居させ感染の可能性を観測絞死させる水分だけを与えた生存時間
6細菌戦剤に抵抗力を持つ被験者の血液を全て抜き出し、治療用の抗血清を作製逆吊りにする熱風で乾燥させた後の体重
7細菌戦剤感染の最適なルートと用量(服用、或いは気道感染させるなど)煙を吸入させ殺す血液代用剤の効果観測
8人体内での新しい毒菌の実験(出血熱ウィルスなど)火炎で焼死させる凍傷研究
9観察用飛行機から投下した細菌弾の殺傷効果★感電熱湯によるやけどの研究
10被爆後、爆弾破片上の破傷風菌とガス壊疽菌の傷口からの侵入による致病状況 健康な人体を用いての各種外科手術の学習
11ペスト・ノミ(特殊容器に入れた)を空中投下し、容器が壊れた後の人間への侵入状況を観察 健康な人体を用いての難度の高い外科手術の学習
12  人工授精
13  梅毒の感染と治療
14  用量を超えたX線輻射
15  頭蓋骨切開後、脳の各部位の機能を研究
16  各種新薬の用量と中毒用量の研究
17  新たな伝染病の人体への影響観察
18  臓器移植
19  切断手術の実験
20  狂犬病の感染と観察
21  麻酔薬品の試用
22  各種の毒剤の用量実験
 注釈★印の付く実験は室外の射撃場にて  
731部隊が行った生体実験は約40種類。隊員たちは考え付いたすべての方法で各種実験を実施した。





 日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)私が分からないままに、とある小丹陽鎮という所に行ったら、あわてた顔つきで集まってきた人を少し見かけたほかに、前線から退いてきた負傷兵に少なからず出会い、腕の取れた者あり、足の無い者ありで、息も絶え絶えに地に横たわっている者もいました。きのう日本軍がここにやって来てなにがしかの人を殺してから行ってしまったと言うことでした。私は長居が出来ずに、西の方へ6里余り行って、趙○崗という村まで来ました。路に面したある塀で囲まれた家の門に、お年寄りがいたので、私は水を飲ませてもらおうと近づいて行って、おしゃべりしたところ、そのお年寄りが詳しく私の来歴を訊ね、私の遭遇した不幸に痛く同情してくれて、すぐに自分の家に引き入れて泊まらせ、親切に構ってくれた上に、焦らないようにと私を慰め、何とかして長江を北へ渡って故郷へ帰って行ける機会を見つけるようにしようと、勧めてくれるのでした。老人は王会融という名で、心根の全く善良な人でした。私が故郷に帰るのを助けようと、毎日門にいて長江の北から来た人はいないかどうか尋ねていました。およそ半月くらいして、丁度好く4人の人が江北からこっそり渡ってきて丹陽鎮へ刻みタバコを売りに行くのにぶつかりました。老人は大喜びで、その人たちに大変親切に食事と宿とを提供し、詳しく江北の様子を訊ねてくれました。その人たちによると、日本軍は津浦線(天津から浦口までの鉄道)沿いに北の方へ明光駅まで進んで行っているが、その両側へはまだ広がっていない。長江も全く封鎖されているのではなく、自分らは岸辺の小舟に隠れていて、夜こっそり渡って来られたのだ、ということでした。こうして王会融お爺さんが私をこの4人の煙草売りに託して、私を江北へ連れて行ってもらえるようにしてくれたのです。私は合肥の方に回り道をして4,5日歩き、蚌埠に着いて、北へ行く夜行の難民列車に這い上がり、翌日の朝徐州に到着しました。降りてから大雪をものともせずに、百里足らずの道のりを急いで歩いて、その晩真夜中に家にたどり着きました。その時は父も母もまだ眠っていなくて、家にはまだ明かりが灯っていました。私が戸口から入るなり、父と母は私が帰ってきたというので、悲喜こもごも、途端に大声で泣き出しました。隣近所の人たちが吃驚し、みんなわが家にやって来てあれこれ聞いてくれ、みんな私が生きて帰って来られたというので望外の喜びに浸ったのでした。
 それにまた何と、私と一緒に虎口に陥った張正先が、2番目の窓から跳び出したの後、日本軍に撃ち殺されずに、その晩の内に江辺に戻り、木のたらいに乗っかって江北まで漂いつき、私より半月も先に家に帰り着いていたのでした。家に帰ってからの彼の判断では、私は窓から跳び出しけつまずいて倒れた後に撃ち殺されたのでした。彼がその様子を私の両親に話してからは、家の者達は私が南京で死んだに違いないと思って、身も世も無く泣き悲しんだのですが、私が帰ってくるようになってやっと落ち着いたのでした。
 今思い起こしますに、南京が陥落した時に私と一緒に難をこうむった131人の内で、私と張正先だけが九死に一生を得たのでした。張正先は故郷に帰ってからまた国民党の組織した抗日ゲリラに加わり、ある戦闘で陣没しました。生き残りは私1人だけになってしまったのです。
(張道遠が1987年に記録)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。


Imagine,


A world that instead 



of


preparing for war,



prevents war.



コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月7日日曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

●ハルピンの元日本領事館もかつては「特別移送」任務を担当した。領事館の地下尋問室には囚人を吊り上げる滑車があった。

●方振玉、男、1922年生まれ。本籍はハルピン市平房区正黄旗屯。1941年~1944年3月まで731部隊で労働者となり、針金で縛られた被験者を隊員が列車から下ろしたのを目撃している。

●731部隊に移送された被験者は、「四方楼」中央部の「特別監獄」に監禁され、生体実験されるのを待つだけであった。「四方楼」の中央に「マルタ」小屋と名付けられた左右対称の監獄があり、右側は7棟、左側は8棟と呼ばれる。

●特別班班長 石井剛男・・・・石井四郎の2番目の兄、「特別監獄」を管理した。

●石橋直方氏の謝罪と悔恨の言葉:

 50年近い年月の間、胸に抱き続けていた謝罪と悔恨の思いを今日現すことができた。元隊員であることの身分を明らかにしての訪問はあまりにも心の重いことであったが、私は私なりに1つの区切りをつけたかった。合掌

 1987年6月15日
 元731部隊隊員
 石橋 直方
 66才


 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

  516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)撃つのが停まったので、又1人窓から跳び出し、懸命に北へ駆け出しました。日本軍が発見してまた発砲し北へ向けて射撃したのが、丁度私が窓から跳び出した時で、その銃声で分からなかったのかもしれず、又もや最初に撃ち殺された人の体の上に落ち、日本軍に見つかりませんでした。日本軍はひとしきり撃ったら、やめてしまいタバコを吸って話をしていました。私は死んだ人の体の上に腹ばいになり、この地は安全でないと感じたので、懸命に北の方へ駆け出し、一気に10何メートルか跳び逃げました。幸いにも束ねて立てかけたわらがうずたかくなっているのがあって、その後ろに隠れたので、日本軍がひとしきり撃ってきたのにも傷つけられずに、地に横たわって時機を待ち、外に生きる路を謀りもしました。その時、日本軍は引き続き火をつけて家を焼いていて、半時間くらいして、日本軍は集合して西の方へ去って行きました。日本軍が遠くへ行ってしまい、辺りにはもう何の物音もしなくなったのを待って、私は張正先を探しにまた戻って行きました。窓の下まで手探りで行ったら撃ち殺された人の脳味噌がもう流れ出していて、かたわらに張正先の帽子があり、もうきっと死んだに違いないと思ったら、涙が出てきて、帽子を頭にかぶせ、南の方へ去って行ったら、10何メートルか行ったところに、刺し殺された同胞達がうずたかくなっているのが見えて、見るに忍びないすさまじさでした。日本の侵略者が我が同胞を殺害した血なまぐさい罪悪行為を、私は永遠に忘れることが出来ません。
 虎口を脱した後、私はほのかな星明かりを頼りに、闇雲に東南の方向の小さな村落へと行ったところが、又もや狼の巣にはまり込みそうになり、もう少しで間違って日本軍の露営地に入ってしまうところでした。幸いにもあるお年寄りに教えられて、やっと危ないところから危険の無い状態へと変えられ、割りに安全な山里に入れました。夜が明けてから初めて、自分が頭から足まで全身血だらけなのと、その時まで1日2晩も飲まず食わずで、くたびれ果てているのとに気付きました。心優しい村人たちが私のこの恰好を見て、みんな進んで私にご飯を食べさせ水を飲ませてくれて、さっぱりした衣服に着替えさせてくれました(明日に続く)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



女性たちが



平和をつくる世界を。



Imagine,



A world where



women create peace.



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月6日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

●王楽甫さんは、饒河県帯河村で旧ソ連のスパイ容疑で連行され、1941年8月9日に日本軍東安憲兵隊によってハルピンの731部隊に「特別移送」され殺害された。(《731部隊の動かぬ罪証》、P303)

●趙忠博、1943年2月に奉天憲兵隊によって瀋陽白塔保堡に監禁され、6月11日に「特別移送」される。

●王輝軒さん、1943年10月に天津にて大連憲兵隊に連行され、その後「特別移送」される。

●三尾氏はかつて4人の中国人をハルピン駅まで護送した。日本各地での「731部隊巡回展」の席上、彼は勇気を出し、1944年に王輝軒、王学年、瀋得龍、李忠善さんの4人を‘特別移送’したこと。移送前から、彼たちが731部隊に送られ生体実験されることも知っていたと証言した。「当時王輝軒さんは私の父と同じくらいの50歳前後で、善良な人だった。王学年さんは25才の青年だったが、彼の家に行って彼を連行した時、若い妻と幼い子供もいた・・・・」と当時のいきさつを話した。

●地方から「特別移送」されてきた被験者はまずハルピン駅に運ばれる。

●ハルピンに「特別移送」されてきた被験者は時にはハルピン市吉林街にある秘密連絡所「白樺寮」で一時監禁されるか、または専用鉄道で内密に731部隊に運ばれるか、あるいは専用の囚人護送車で直接731部隊に護送されていた。



 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  


     
   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)この時がおよそ晩の7時過ぎ頃で、真っ暗になっており、中にいる者には何の物音も聞こえませんでした。続いて何度も引っ張り出すので、中の者が気をつけて外の方を見てはじめて、引っ張り出されて人が戸の外に出るなり日本軍の何人かが取り囲んで縄をかけ、南の方へ引っ張って行っていると分かり、銃声は聞こえませんでしたが、引っ張り出された人たちはみんな銃剣で刺し殺されたのでした。日本軍は人数が多く、引っ張るのは引っ張り、縛るのは縛り、刺すのは刺すで、すごい速さでした。この時の日本軍の殺しはみんな目が血走っていて、1人1人腕をまくりあげていました。引っ張り出された人たちは上着を脱がされて刺し殺されたのあり、着たまま刺し殺されたのありでした。7,80人ほど殺されに引っ張り出された頃に、家の中に残っていた者たちが反抗し始め、手を束ねて死を待つよりも、日本軍と命がけでやってやろうと立ち上がりました。ある者がレンガのかけらを日本軍にたたきつけ、大声でわめきながら外へ突き進んで行きました。日本軍の人数が多いので、戸口から外へ突進したのでは成功せず、日本軍は戸を閉め、窓から家の中へと発砲し掃射しました。日本軍が一発撃つなり、家の中の人たちはみんな東の切妻かべへと殺到し、人が人の上にかぶさって一緒に腹ばいになり、私と張正先とが一番奥だったので、一番下に押しつぶされる形となり、日本軍が発砲しても傷つきませんでした。日本軍はひとしきり撃ちまくってから、火をつけたわらの束を家の中に投げ込み、家を火で焼きました。火の光で地面に血が既に河のように流れ、深さ何寸かにもなっているのが見えました。火を放った時に、梁の上に這い上がっていたのがいるのを日本軍が見つけて、また発砲し射撃したので、梁の上の人が弾に当たって落っこちて来ました。日本軍が続けてわらを投げ込んだので、家の中は酷い煙が立ち込め、周りの窓からは猛烈に煙が吹き出し、窓の下に歩哨に立っていた日本軍も煙を避けて家の端っこに行っていました。私と張正先とは中でむせって、もう息が出来なくなりそうだったので、小声で外へ逃れる方法を相談しました。丁度その時急に1人が腰掛けの壊れたのを1つさっとつかんで力任せに東北の隅の窓にたたきつけ、木で出来ていた窓がぶつけられて開いたので、すばやくその窓を打ちたたいた人が跳び出して行きました。その時日本軍は煙にいぶされるのを避けて、家屋の東の隅に行っていたので、窓から跳び出たのがいるのを聞きつけて、直ちに発砲し射撃して、跳び出して行った人は窓の下で撃ち殺されました。(明日に続く)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


基地をなくして緑と海を


取りもどしていく世界を。


Imagine,



A world that gets rid



of military bases and
 


reclaims



the forests and the 



oceans.



森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月5日金曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

●黒龍江省とう案館(資料館)と吉林省とう案館が一般公開した「特別移送」ファイルの中に、朱雲岫、李厚賓、王楽甫、趙中博、王輝軒などを含む200人以上の被験者として惨死した中国人の記録がある。

※『注』:朱雲岫、別名:朱煥臣、スパイコードネーム:青雲、男、1918年、遼寧省(りょうねいしょう)開原県千岡村生まれ。1940年に、密山県黄泥河子炭鉱にて旧ソ連スパイの万信によってスパイとなる。1941年5月3日に東安省東安街(今の黒龍省蜜山市)の長明路三義桟前にて逮捕され、1941年5月20日に東安憲兵隊に「特別移送」される。

●李厚賓さんは家では主な労働力だったが、「特別移送」された後に最も苦痛を味わったのは老いた母と多くの子どもを抱えながら収入がなかった妻の陶秀文さんであった。母は息子の帰りを待ち、嫁と孫と一緒に毎日泣いてばかりいた。父は生涯苦労し無口だったが、息子を失った悲しみでより無口になった。

※『注』:李厚賓(彬)、別名:敬原、男、1910年6月29日に安東省安東県九連城に生まれる。1937年5月に、旧ソ連のスパイの劉日宣の推薦によりスパイになる。その後4回もソ連に行き、仲間と共に6回情報を提供。1941年8月8日に、安東省虎林県(現在の黒龍江省虎林市)虎林街四道街で逮捕され、1941年8月に、「関憲高第868」号命令により、虎林憲兵隊に「特別移送」された。

●長男である兄李厚賓さんが連行された後の子供達の境遇を語ると、弟の李厚文さんは思わず涙を流す。李さんは「兄の4人の子のうち、長男の李剛以外は、みんな早死にした。中でも末っ子の娘は医者に見てもらう金も無く病死した」と話している。その子はジフテリアにかかり窒息死し、息を引き取るのを李厚文さんが見ていて、4番目の兄嫁に言われて亡骸を外に捨てたのだ。李厚文さんは今でもこのことを覚えている。




 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)私達が引き続き南へ行くと、もう1つの村の外れまで来たところで、日本軍が5,6人私達の方へ来るのがいて、銃剣で私達にその家のそばに立っていろと指図し、間もなくまた10何人か捕まえてきて、普通の服を着ているのもいれば、軍服を着ているのもいましたが、やがてまた4人捕まえてきました。この時既におよそ午後2時頃になっていましたが、日本軍何人かに連行されて私達10何人かは前の方の道路の方向へ歩きました。この道路は南京から当塗へ通じる道でした。道路に沿って東の方へ少し行くと、道の北に家屋が一棟あって、村にはつながってなく、そばにもほかに家はありませんでした。この家屋は部屋が四つで、手前には左右両側の部屋に入口が1つずつあり、、真ん中の部屋2つには入口はなくて窓があり、後ろ側には窓が4つあって、切妻かべには両側とも入口も窓もありませんでした。中は床がセメントで、鉄のベッドの壊れたのが2つと、四角い腰掛の壊れたのが幾つかあり、レンガの欠けたのも少しありました。日本軍は私達を家のそばで待たせました。間もなく日本軍が幾つかの道からこっちの方へ人々を連行してきて、人数がどんどん多くなり、日本軍も6,70人になりました。その時日本軍の日本刀をさげたのが1人ぺちゃくちゃ一度しゃべって、何と言ったのかも分かりませんでしたが、日本軍のその他のが捕まえてきた人たちに並ぶよう指図して、2列に立たせ、その間隔が2メートルあり、人数を数えさせると、全部で131人でした。数え終わると日本軍は身体検査を始めて物を引っ掻き回し、各自が持っていた金銭や品物をみんな捜し出し、捕まった兵士のゲートルまでもはずさせました。捜査し終わったら、もう夕方近くなっていましたが、日本軍は東の端の戸口に鍵を懸け、みんなを西の端の戸口から入れました。丁度よく私と張正先とは西の端で列の先頭にいて、1人が手前で1人が後ろ側でした。私達2人は家に入って東の端にへ行き、東北寄り隅っこの壁際にうずくまりましたが、全部が入り終わったら、家中がいっぱいになりました。それから日本軍は戸を閉めて、刀をさげたのがまたひとしきりしゃべると、日本軍は分散し、周りの窓の下に何人かずつ立ち、その他のは西の端の戸口の前に行き、戸を開けて1人1人外へ引っ張り出しました。(明日に続く)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



武器を使わせない世界を。



Imagine,



A world that doesn’t



let weapons be used.



憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月4日木曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

 731部隊は関東憲兵隊と共同で、関東憲兵隊が実験用の人間をとらえ、それを731部隊に提供した。1938年1月26日、関東憲兵隊は「特別移送」指令を出し、移送される者の基準(1943年3月12日に「関憲高120号」文書として再発布)を詳細に規定した。この罪悪行為を覆い隠すため、関東憲兵隊はこの行動を「特移扱い」(特別の移送扱い)と呼んだ。したがって「特移扱い」とは各地憲兵隊が被験者を生体実験の材料として731部隊に厳密に送り込むことなのだ。
 日本の投降直前、関東憲兵隊は撤退する前にこの件に関連するほとんどの記録を隠滅しようとしたが、時間不足のため処分しきれず、ごく一部の資料が残された。1999年、黒龍江省○案(資料)館は「特別移送」に関するファイルを66件一般公開し、さらに2001年、吉林省○案館も277件の「特別移送」ファイルを一般公開した。これら「特別移送」の記録から、当時移送された人々のほとんどは中国人だと分かる。その他、旧ソ連人、モンゴル人、朝鮮人などもいる。
 ○・・・漢字変換が出来なかった字(木へんに當)
 


 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 私の本籍は江蘇省の沛県魏廟郷張窪村です。1936年6月に、私は丁度21歳でしたが、家には兄弟が4人いて、生活は貧困でした。その頃国民党が徴兵していて、やむを得ず外に出て兵になるしかありませんでした。入営し、蚌埠でしばらく訓練を受け、すぐ南京へ行かされ、国民党中央軍官学校の教導総隊特務連に編入され兵となりました。1937年8月13日に日本軍が上海に侵攻してきて、私は淞○抗戦に参加しました。11月11日に上海が陥落したため、撤退して南京に戻り、南京防衛戦に加わりました。12月13日に、南京が陥落しました。
 国の都が陥り、国民党の守備軍は既にあちこちで潰走してばらばらになり、将校はどこに行ったか分かりませんでした。わたしは江辺で一晩徘徊し、とうとうたる流れを目の当たりにしましたが、背後では日本軍の砲火がまだ射撃をやめずにいました。私は綿入れの軍服を着ていて、泳げもしませんでしたから、長江を北へ渡っていくのも不可能でした。夜が明けるまで堪えたところに(つまり12月13日)日本軍が又もや更に多くの飛行機を繰り出し目茶苦茶に爆撃して来たので、江辺にはもはやいられず、外を探して隠れるしかありませんでした。南の方へ少し行ったところで、丁度よく一緒に入隊した張正先と出くわし、私がまだ軍服を着ているのを見て、すごく危険だから何とかして普通の服に着替えなければと言うので、近くにある小麦粉工場に行き着る物を何枚か見つけて着替え、すぐ西南の方向へ行きました。およそ9時頃かに、日本軍が南京に入って来て、砲声は既に止んでいましたが、時折まだ銃声は聞こえていました。更に前へ進んである村外れまで来ると、日本軍が2人銃剣をかざして私達に向かってくるのに出会い、何か言っても私達には分からずにいると、丁度その時軍服を着た国民党の士官が1人やって来たので、日本軍は私達2人をうっちゃって、その軍人の方へ向かって行き、1人が一突きでその軍人を刺し殺しました。その機に乗じて私達は村に駆け込んでしばらく隠れましたが、長く留まるわけにもいかず、村から出たところで日本軍に殺害された中国人が10何人かそこに横たわっているのを見かけましたが、その中に婦女が2人いて、年は既に6,70歳、下半身素っ裸にされ、陰部にロウソクが差し込まれていて、何とも残虐非道な、人間性の一かけらも無いものでした。(明日に続く) ○・・・漢字変換できない字(氵に戸?)




 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



おたがいに戦争しないと



約束した世界を。


Imagine,



A world that promises



not to fight wars



with each other.



戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月3日水曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

3、731部隊の予備役

 細菌部隊の長期的な発展と大規模な細菌戦実施のため、731部隊は少年班隊員を育成するため教育部を設立。彼らは日本国内から少年班隊員を大量に募集し、それを731部隊の予備役とした。募集の対象は家が貧しく、成績が優秀な14才から16才の日本人少年であった。

   旧少年隊史

昭和17年4月 1日 少年見習技術員(軍属セとして満州国ハルピン市第731部隊へ入隊)
(1942年)4月15日 教育部少年隊(技術員養成所)所属
              教育部長 陸軍軍医中佐 園田
              少年隊長 陸軍軍医少佐 田部
            関東軍軍属傭人拝命 日給85銭
            内務班4箇班編成 総員108名
      10月6日 大連・旅順方面戦跡視察旅行
昭和18年 4月1日 2年次に進 初年次(2期生)入隊
(1943年)      (日給95銭となる)
       5月1日 約1月間普通学その他防疫給水学について、2年次合同教育を受ける
               教官 伊藤軍医大佐 秦衛生准尉
             部隊本部の各部へ配属
       6月     普通学は、昼間(週3日)から夜間に切り替えられる
       7月    松花江太陽島にて野営演習(1週間)
昭和19年 4月1日  3年次に進級 初年次(3期生)入隊
(1944年)        2期生 部隊本部各部へ配属
昭和20年 4月1日  少年見習技術員養成教育修了
(1945年)       関東軍軍属雇員拝命(月俸52円~38円)
             引き続いて部隊付属東郷青年学校4年編入
             初年次(4期生)入隊
       7月    通化へ疎開準備(ロ号あるいはセ号作戦)
             荷物発送 隊員派遣
       8月 9日 ソ連政府対日宣戦布告
             満州進入始まる
       8月13日 8月初旬より隊舎撤去作業継続のところ、若干の要員を残し
             夜間平房を出発する
       8月15日 終戦の詔勅下る
             徳恵駅で停車待機中終戦の命令を聞く
       8月18日 蘇家屯駅にて大屋班長以下17名下車
       8月    鉄・駅にて宇佐美4年次以下  下車
       8月21日 引揚本隊朝鮮釜山到着 荷揚げ開始
       8月24日 釜山港出発
             山口県萩、仙崎港、福岡県門司、博多港へ分散上陸。上陸後現地にて部隊
             解散(解散後、北海道・東北梯団、九州梯団、四国梯団に分かれて復員)

 ●日本軍細菌戦部隊
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華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
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   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  胡秀蘭(女、69歳)の証言

 1937年12月13日に、日本軍が南京を占領しましたが、その時私達は鉄心橋の私の実家へ逃げて行きました。1週間くらい、日本軍は村でいたるところを捜索し、夫の李福成を捕まえて行きました。夫は24歳で、一緒に捕まったのは13人でした。韓仏山の韓仏洞の後ろまで連行すると、日本軍は先ず13人に強いて自分で穴を掘らせ、それから一斉にひざまずかせ、機関銃で掃射しました。夫は弾が鼻をかすめたとたんに穴に倒れ込み、他の12人が続いて体の上に倒れこんできました。それから日本軍は銃剣で1つ1つ体を突き刺したので、夫は三太刀刺され、その時は全身血まみれでしたが、死にはしませんでした。日本軍が行ってしまいずっとたってから、穴から這い上がろうと頑張り、這い通しに這って這って翌日の朝になりやっと何とか這い上がったのですが、腿(もも)の骨が折れていて、歩けませんでした。隣村の徐さんと覚えているのですが、やはりこの13人の中の生き残りだった人が、穴を這い上がってから、自分の家まで懸命に這って行って、家に着くなり、夫の李福成が死なないで、まだ山の上にいると、人に告げたのです。それでやっと夫を捜して連れ戻せたのです。でも、徐さんという人は出血多量で、間もなく死んでしまいました。
 夫の李福成は、解放後は先ず軍事学院で調理師をし、それから南鋼に移り、隠退するまで働きました。1982年に中風を患って亡くなり、享年69歳でした。亡くなった時の体に日本軍が残した傷痕をまだ留めていました。(王有堂と巫光民と劉鎮西が記録)

           「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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