まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜共栄圏」の実態
しかし、日本が「大東亜戦争」を開始した本当の目的は、政府が決定した「南方占領地行政実施要領」(1941年11月20日)に述べられているように、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施して、治安を回復し、重要国防資源を急いで獲得し、作戦軍が自活できるようにする」ところにありました。重要国防資源とは石油、錫(すず)、タングステン、ゴムなどであると書かれています。「自活する」とは、日本軍が占領した現地で、食糧をはじめ軍の維持・活動に必要な物資を手に入れるということです。
大東亜会議の開催を決めた1943年5月の御前会議(天皇の出席した重要会議)で決定した「大東亜政略指導大綱」では、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土と決定、重要資源の供給地として開発し、民心を把握するように務める」と定められました。
以上に見たように、欧米列強に取って代わった日本の占領地支配は、「大東亜共栄圏」とは名ばかりで、戦争遂行のための資源、資材、労働力の調達を目的にしたものでした。東南アジアの占領地では、鉄道建設や軍用道路建設、飛行場建設などの土木工事や鉱山労働に多くの現地住民が強制動員されました。シンガポールやマレーシアでは、多数の華僑(中国系住民)が反日活動の疑いをかけられて虐殺されました。やがてインドネシアやフィリピン等日本軍の占領地で組織的な抗日運動が展開されるようになります。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)12月20日頃のある日、朝早く邁皋橋を出て、通りに沿って城内に向かい、和平門を入り鼓楼を通って新街口まで来て、中山東路の方へ曲がり大安宮や太平路に来ました。道沿いの家屋は焼かれたのが多く、特に太平路は、大小の商店がみんな焼き尽くされていて、私の居た太平路54号も、焼け落ちて一面の瓦礫となっていました。楊公井まで来たら、中華書局とその向かいの中正書局はまだ焼かれていませんでしたが、ガラスの棚は打ち壊され、いろんな書籍が街いっぱいに放り出されていました。白下路を通り、内橋から中華路まで来たら、中華路にあった大小の商店は、みんな焼き尽くされ、一番大きな三履靴屋と何軒かの大きい呉服屋とは、どこもただ骨組みが何本か残っているだけか灰塵の堆になっているかで、正に一面の焦土、満身創痍(そうい)でした。
中華門を出ると、又もや一面のむごたらしい場景で、道路にはいろんな風に惨殺された死体がいっぱいごろごろしていて、2日前に降った雪も、まだこれらの屍に覆いをかけられずにいました。道路の真ん中は、軍の車やタンクに轢(ひ)かれてぺしゃんこになった胴体や、圧しつぶされた頭が、雪で紅に染まり、泥水と脳味噌とが、見分けられないほどぐしゃぐしゃになっていました。南門(中華門)のすぐ外の大橋のそばに、4,50歳くらいの婦人が、ズボンをはぎ取られ、股の内側に木の棒が1本差し込まれている、何とも見るに忍びないものでした。それなのに道を行く日本軍の一隊は、これを見てかか大笑したのです。
更に前へ行って、掃帚巷に入ると、又も一面の焦土で、塀は壊れ壁は崩れていて、雪が降った後なのに、まだ煙が出ているところもあるのです。掃帚巷から洋炮局を抜け養虎巷を通って、まっすぐ通済門の方向へ向かいました。まもなく通済門だという所に、ある平民の住宅があり、煉瓦も紅く瓦も紅いために、住民が紅い家と呼んでいたのですが、部隊はそこで休憩しました。ここの住民はほとんどみんな難を逃れて行ってしまっていましたが、ある理髪師1軒だけがまだ行っていなくて、この理髪師の若い奥さんが日本軍に発見されてから、輪姦されてしまいました。この日本軍の一隊が出て行く時に理髪師をぶち殺したばかりか、この若い婦人の陰部に強力な花火の「天地響」を差し込んで、その場で爆死させてしまいました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
武器をつくったり
売ったりしない世界を。
Imagine,
A world that doesn't
make or sell weapons.
紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
2009年4月25日土曜日
2009年4月24日金曜日
「大東亜共栄圏」のまぼろし
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜会議」の招集
1943年11月、東條英機首相は、アジアに新しい秩序が形成されたことを誇示(こじ)するために「大東亜共栄圏」の代表を塔橋に集め、大東亜会議を開きました。
招集されたのは、日本軍が占領しているところにつくられた傀儡(かいらい)政府、すなわち「満州国」、中国・南京の汪精衛(おうせいえい)政権、タイ、ビルマ、フィリピン、「自由インド仮政府」の代表たちでした。会議では次のような大東亜共同宣言を採択、発表しました。
■米英は自国の繁栄のために、他民族を抑圧し、大東亜に対しては侵略、搾取(さくしゅ)を行ない、大東亜を隷属化(れいぞくか)し、安定をくつがえそうとした。これが大東亜戦争の原因である。大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の束縛から解放して、共存共栄、自主独立、人種的差別のない共栄圏を建設し、世界平和の確立に役立てようとするものである。(要約)
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)12月15日の晩は霜が降りました。夜が明けないうちに、朝ご飯を食べ出発しました。侵略者たち10数人は、馬を一匹ひいた私を加え、長江沿いに上元門の方へ進んで行きました。至るところ死体ばかりで、そのほか、江辺には軍用の糧食や被服が山のように積まれていて、それに庶民が捨てていった箱や篭や行李に、小さな車、大きなトラック、戸板をはずされた店の品物が至る所に放り出されているの等でいっぱいでした。更に前へ進むと、銃器や弾薬が、山のように積まれているのが見えました。上元門まで行って、老虎山のふもとから、引き続き邁皋橋の方向へ行くと、道沿いのおよそ村で建物のある所では、どこも昨日挹江門(ゆうこうもん)の内側で見かけた状況と同様に、家々の入口には年寄りや子どもが座っていて、そこから遠くないところに、その家の青壮年の死体が1つか2つ転がっているのでした。人々は泣きもせず、話もせず、間が抜けて、感覚もなしに、くり返しくり返し「掃蕩(そうとう)」にやってくる侵略者に捜査されるに任せ、家中のちょっとでも銭になるものは洗いざらい持っていかれ、かめや壷や缶などまでも門の外に持ち出され、落として粉々にされてしまい、鶏や豚などの家畜は、言うに及ばずでした。
この日本軍10数人は、邁皋橋の通りのかたわらのある農家の家に落ち着きました。彼らは自分たちの欲しがる金目の物、金銀首飾りなどを捜索して略奪したほか、人を捕まえて虐殺しました。2,3日で、無辜(むこ)の農民を13人捕まえ、その中に軍人で変装したのがいたのかも知れませんが、とにかくその13人を閉じ込め縛り付けました。3日目に、その人たちは日本軍に家の後ろの小さな沼に連れて行かれ、1対1で「射撃練習」の的にされて銃殺されました。私の任務は毎日米を研いで飯をつくることで、毎日夜が明けないうちに、池で米を洗わなければならず、この惨死した13の死体を一目見て、身の毛がよだってしまったのですが、それでも米を研ぎに行かなければいけなかったのです。ここに5日ほど泊まっていて、一度雪が降ったので、何とか死体に覆いをかぶせた恰好(かっこう)になりました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
Imagine,
A world that spends
money
not on armies,
but on people's lives.
アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜会議」の招集
1943年11月、東條英機首相は、アジアに新しい秩序が形成されたことを誇示(こじ)するために「大東亜共栄圏」の代表を塔橋に集め、大東亜会議を開きました。
招集されたのは、日本軍が占領しているところにつくられた傀儡(かいらい)政府、すなわち「満州国」、中国・南京の汪精衛(おうせいえい)政権、タイ、ビルマ、フィリピン、「自由インド仮政府」の代表たちでした。会議では次のような大東亜共同宣言を採択、発表しました。
■米英は自国の繁栄のために、他民族を抑圧し、大東亜に対しては侵略、搾取(さくしゅ)を行ない、大東亜を隷属化(れいぞくか)し、安定をくつがえそうとした。これが大東亜戦争の原因である。大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の束縛から解放して、共存共栄、自主独立、人種的差別のない共栄圏を建設し、世界平和の確立に役立てようとするものである。(要約)
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)12月15日の晩は霜が降りました。夜が明けないうちに、朝ご飯を食べ出発しました。侵略者たち10数人は、馬を一匹ひいた私を加え、長江沿いに上元門の方へ進んで行きました。至るところ死体ばかりで、そのほか、江辺には軍用の糧食や被服が山のように積まれていて、それに庶民が捨てていった箱や篭や行李に、小さな車、大きなトラック、戸板をはずされた店の品物が至る所に放り出されているの等でいっぱいでした。更に前へ進むと、銃器や弾薬が、山のように積まれているのが見えました。上元門まで行って、老虎山のふもとから、引き続き邁皋橋の方向へ行くと、道沿いのおよそ村で建物のある所では、どこも昨日挹江門(ゆうこうもん)の内側で見かけた状況と同様に、家々の入口には年寄りや子どもが座っていて、そこから遠くないところに、その家の青壮年の死体が1つか2つ転がっているのでした。人々は泣きもせず、話もせず、間が抜けて、感覚もなしに、くり返しくり返し「掃蕩(そうとう)」にやってくる侵略者に捜査されるに任せ、家中のちょっとでも銭になるものは洗いざらい持っていかれ、かめや壷や缶などまでも門の外に持ち出され、落として粉々にされてしまい、鶏や豚などの家畜は、言うに及ばずでした。
この日本軍10数人は、邁皋橋の通りのかたわらのある農家の家に落ち着きました。彼らは自分たちの欲しがる金目の物、金銀首飾りなどを捜索して略奪したほか、人を捕まえて虐殺しました。2,3日で、無辜(むこ)の農民を13人捕まえ、その中に軍人で変装したのがいたのかも知れませんが、とにかくその13人を閉じ込め縛り付けました。3日目に、その人たちは日本軍に家の後ろの小さな沼に連れて行かれ、1対1で「射撃練習」の的にされて銃殺されました。私の任務は毎日米を研いで飯をつくることで、毎日夜が明けないうちに、池で米を洗わなければならず、この惨死した13の死体を一目見て、身の毛がよだってしまったのですが、それでも米を研ぎに行かなければいけなかったのです。ここに5日ほど泊まっていて、一度雪が降ったので、何とか死体に覆いをかぶせた恰好(かっこう)になりました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。
Imagine,
A world that spends
money
not on armies,
but on people's lives.
アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月23日木曜日
「大東亜共栄圏」のまぼろし
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜新秩序の建設」
今度の対米英戦は、支那事変(日中戦争)をも含め大東亜(だいとうあ)戦争と呼称(こしょう)する。
大東亜戦争と称するのは、大東亜の新秩序建設を目的とする戦争であることを意味するもので、戦争地域を大東亜のみに限定する意味ではない。(要約)
「大東亜の新秩序建設」というのは、1940年7月に近衛文麿(このえふみまろ)内閣によって発表、宣伝された構想です。日本がドイツ、イタリアと同盟して欧米列強の世界支配を崩壊させ、欧米勢力の植民地支配から「アジアを解放」して、「八紘一宇(はっこういちう・・・世界を天皇のもとに1つの家とする)」の「大精神」のもとにアジア諸民族がともに栄える「大東亜共栄圏」を実現させる、というものでした。
日本は占領した先ざきで神社を建て、神道(しんとう)を強制して天皇を現人神(あらひとがみ・・・人の姿となってこの世に現れた神)として崇拝させようとし、学校教育その他の場で日本語を「東亜の共通語」として学ばせようとしました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)この日本軍一個小隊の人馬は、命令で戦場を掃蕩しに出てきたもので、海軍部から薩家湾へ向かう街路を行ってから、城壁に懸かる側へと曲がりました。そこはほとんどが城内の野菜農家で、どこの家の小屋のかたわらにも、年寄りや子どもが、戸口にぼんやり座っていましたが、どの家からも遠くないところに銃殺された青壮年の男の死体が1つか2つ転がっていました。その人たちはいわゆる戦場掃除の日本軍に2度、3度と捜索されて、家に入って行かれなかった人たちだったのです。
この方向を、ぐるっと一巡りしてから、又挹江門を出て、まっすぐ中山埠頭に突き当たりました。その道は江辺と同じように、どこも銃殺された死体がいっぱいで、人が死体の上を歩き、車が死体の上を転がって、平たく押しつぶされた頭や腹、脳みその飛び散ったのと、見るも無惨なありさまでした。
この10数人の日本軍が、中山埠頭の左側にある家屋に泊まって夜を過ごすことになり、赤々と火を焚いて、私に兵隊たち皆の飯ごうに米を入れさせ、手探りで岸まで洗いに行かせ、それから火に掛けて飯を炊かせました。この晩に私が一生忘れられないことが2つ起こりました。1つは、歩哨を置いたのが海軍の陸戦隊で、歩哨に立った水兵もしょっちゅう家に入って来て火に当たるのですが、入ってきてからいつも小銃の先っぽの剣に付いた血をぬぐうのです。それは大概昼間生き残ったのが夜になって逃げようとして、銃剣の下に死んだものでしょうが、と言うのは日本軍が家に入ってくるときは、いつも叫び声が聞こえてきてから、入って来て銃剣の血をぬぐうのだからです。2つ目は、私を捕まえてきた日本軍が食べ終わってから、私を引っ張り出したので、私はてっきり私を殺そうとするのだと思いました。出てから真っ暗闇の真夜中に、私を引っ張ってあっちを手探り、こっちを撫で回しで、触れるのは死人ばかり、固くなったのもあり、刺し殺されたばかりのもあり、探るたびに血がべったり付くのです。最後に手に触れたのが小さい乗用車2台で、その車からソファのマットを引っ張り出して初めて、眠るのに使うのだと分かりました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。
Imagine,
A peaceful world
without war.
でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのか
な
一つひとつ考えてみよう。
But,how can such a
world be made?
let's think about it.
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
3、「大東亜共栄圏」のまぼろし
アジア太平洋戦争を始めた日本政府は、戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。その目的は何だったのでしょうか。
「大東亜新秩序の建設」
今度の対米英戦は、支那事変(日中戦争)をも含め大東亜(だいとうあ)戦争と呼称(こしょう)する。
大東亜戦争と称するのは、大東亜の新秩序建設を目的とする戦争であることを意味するもので、戦争地域を大東亜のみに限定する意味ではない。(要約)
「大東亜の新秩序建設」というのは、1940年7月に近衛文麿(このえふみまろ)内閣によって発表、宣伝された構想です。日本がドイツ、イタリアと同盟して欧米列強の世界支配を崩壊させ、欧米勢力の植民地支配から「アジアを解放」して、「八紘一宇(はっこういちう・・・世界を天皇のもとに1つの家とする)」の「大精神」のもとにアジア諸民族がともに栄える「大東亜共栄圏」を実現させる、というものでした。
日本は占領した先ざきで神社を建て、神道(しんとう)を強制して天皇を現人神(あらひとがみ・・・人の姿となってこの世に現れた神)として崇拝させようとし、学校教育その他の場で日本語を「東亜の共通語」として学ばせようとしました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)この日本軍一個小隊の人馬は、命令で戦場を掃蕩しに出てきたもので、海軍部から薩家湾へ向かう街路を行ってから、城壁に懸かる側へと曲がりました。そこはほとんどが城内の野菜農家で、どこの家の小屋のかたわらにも、年寄りや子どもが、戸口にぼんやり座っていましたが、どの家からも遠くないところに銃殺された青壮年の男の死体が1つか2つ転がっていました。その人たちはいわゆる戦場掃除の日本軍に2度、3度と捜索されて、家に入って行かれなかった人たちだったのです。
この方向を、ぐるっと一巡りしてから、又挹江門を出て、まっすぐ中山埠頭に突き当たりました。その道は江辺と同じように、どこも銃殺された死体がいっぱいで、人が死体の上を歩き、車が死体の上を転がって、平たく押しつぶされた頭や腹、脳みその飛び散ったのと、見るも無惨なありさまでした。
この10数人の日本軍が、中山埠頭の左側にある家屋に泊まって夜を過ごすことになり、赤々と火を焚いて、私に兵隊たち皆の飯ごうに米を入れさせ、手探りで岸まで洗いに行かせ、それから火に掛けて飯を炊かせました。この晩に私が一生忘れられないことが2つ起こりました。1つは、歩哨を置いたのが海軍の陸戦隊で、歩哨に立った水兵もしょっちゅう家に入って来て火に当たるのですが、入ってきてからいつも小銃の先っぽの剣に付いた血をぬぐうのです。それは大概昼間生き残ったのが夜になって逃げようとして、銃剣の下に死んだものでしょうが、と言うのは日本軍が家に入ってくるときは、いつも叫び声が聞こえてきてから、入って来て銃剣の血をぬぐうのだからです。2つ目は、私を捕まえてきた日本軍が食べ終わってから、私を引っ張り出したので、私はてっきり私を殺そうとするのだと思いました。出てから真っ暗闇の真夜中に、私を引っ張ってあっちを手探り、こっちを撫で回しで、触れるのは死人ばかり、固くなったのもあり、刺し殺されたばかりのもあり、探るたびに血がべったり付くのです。最後に手に触れたのが小さい乗用車2台で、その車からソファのマットを引っ張り出して初めて、眠るのに使うのだと分かりました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
想像してごらん
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。
Imagine,
A peaceful world
without war.
でも、どうやったら
そんな世界がやってくるのか
な
一つひとつ考えてみよう。
But,how can such a
world be made?
let's think about it.
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月22日水曜日
アジア太平洋戦争
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
第二次世界大戦の一環となる
日本に続いてドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したので、戦争は文字通り第二次世界大戦となりました。
長期にわたり戦争を計画、準備してきた日本軍は、イギリス軍やアメリカ軍がヨーロッパの戦争を優先して戦闘準備が整っていなかったため、両国の軍隊を次々と攻撃して撤退させ、開戦後半年のうちに、イギリス領のマレー半島・香港・シンガポール・ビルマ(現ミャンマー)、オランダ領東インド(現インドネシア)、アメリカ領のフィリピンなど、東南アジア、南太平洋の一帯を占領して軍事支配化に置きました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)私が日本軍にくっついて和記洋行から出て、煤炭港の汽車を渡す船の埠頭を抜けて行くと、銃器や弾薬、軍用の糧食に被服、民間の財物などが山と積まれていて、誰も関与する者がいないのでした。煤炭港の渡し船埠頭を通り越した途端、全く驚かされたことには、死体があちらにもこちらにもごろごろしていて、首が斬られてぶら下がっているものもあり、身2つになっているのもあり、腕を切られたり腿を切られたりしているのもありで、死人が死人を押し付けているのでした。煤炭港から駅の方へ行くと、敵軍が9人軍刀で人を斬っているところで、2人の人の頚が斬られて2つになっているのを、日本の将校がハッハッハと大笑いしているのでした。下関駅の近くの広場でも、殺された人は似たように状態で、何十匹もの軍馬も難を免れてはいませんでした。私はこんなにも凄惨な場景を見て、すごく恐くなりました。夢中でくっついて行き、下関駅を抜けて、挹江門外のある湖の辺りの小学校の中まで行きました。この3人の日本軍は全く附いてなくて、ここに日本軍が10人足らず泊まっていて、3人が来たら出発しようと待っていたのですが、門から入ったところで上官に出くわし、3人とも2つずつ物すごい横びんたをなぐられ、又くどくど何か話した後、出発となりました。私はこの様子を見たので、馬を3人に渡して、又和記洋行に帰ろうとしたところが、何と1人1人に打たれ、腹いせが私の頭上にかかってきて、3度も物すごく横びんたをなぐられ、付いて行かされてしまいました。
10何人かの日本軍が、私というこの馬をひいた子どもを連れて、学校から出、挹江門の方向へ前進しました。道路はどこも昨日虐殺された死体ばっかしで、血がまだ地上に流れていたり、崩れて頭だかなんだか分からなくなっているのがあったりで、そんなのがごろごろ転がっていました。挹江門まで来た時、城門の高殿はもう焼かれてしまっていながら、城壁の上からは死体が幾つか縄で吊り下げられているのが見えました。挹江門を入ると、道に沿って少なくない死体があり、海軍部の門まで来たら、又もや一面の死体で、血が流れ流れて、道路が真っ赤に染まっていました。その日私は江辺で列にもぐり込んだ時に拾った白力士(パイレックス)の靴を履いていたのですが、たちまちの内に赤力士の靴になってしまいました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
第二次世界大戦の一環となる
日本に続いてドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告したので、戦争は文字通り第二次世界大戦となりました。
長期にわたり戦争を計画、準備してきた日本軍は、イギリス軍やアメリカ軍がヨーロッパの戦争を優先して戦闘準備が整っていなかったため、両国の軍隊を次々と攻撃して撤退させ、開戦後半年のうちに、イギリス領のマレー半島・香港・シンガポール・ビルマ(現ミャンマー)、オランダ領東インド(現インドネシア)、アメリカ領のフィリピンなど、東南アジア、南太平洋の一帯を占領して軍事支配化に置きました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)私が日本軍にくっついて和記洋行から出て、煤炭港の汽車を渡す船の埠頭を抜けて行くと、銃器や弾薬、軍用の糧食に被服、民間の財物などが山と積まれていて、誰も関与する者がいないのでした。煤炭港の渡し船埠頭を通り越した途端、全く驚かされたことには、死体があちらにもこちらにもごろごろしていて、首が斬られてぶら下がっているものもあり、身2つになっているのもあり、腕を切られたり腿を切られたりしているのもありで、死人が死人を押し付けているのでした。煤炭港から駅の方へ行くと、敵軍が9人軍刀で人を斬っているところで、2人の人の頚が斬られて2つになっているのを、日本の将校がハッハッハと大笑いしているのでした。下関駅の近くの広場でも、殺された人は似たように状態で、何十匹もの軍馬も難を免れてはいませんでした。私はこんなにも凄惨な場景を見て、すごく恐くなりました。夢中でくっついて行き、下関駅を抜けて、挹江門外のある湖の辺りの小学校の中まで行きました。この3人の日本軍は全く附いてなくて、ここに日本軍が10人足らず泊まっていて、3人が来たら出発しようと待っていたのですが、門から入ったところで上官に出くわし、3人とも2つずつ物すごい横びんたをなぐられ、又くどくど何か話した後、出発となりました。私はこの様子を見たので、馬を3人に渡して、又和記洋行に帰ろうとしたところが、何と1人1人に打たれ、腹いせが私の頭上にかかってきて、3度も物すごく横びんたをなぐられ、付いて行かされてしまいました。
10何人かの日本軍が、私というこの馬をひいた子どもを連れて、学校から出、挹江門の方向へ前進しました。道路はどこも昨日虐殺された死体ばっかしで、血がまだ地上に流れていたり、崩れて頭だかなんだか分からなくなっているのがあったりで、そんなのがごろごろ転がっていました。挹江門まで来た時、城門の高殿はもう焼かれてしまっていながら、城壁の上からは死体が幾つか縄で吊り下げられているのが見えました。挹江門を入ると、道に沿って少なくない死体があり、海軍部の門まで来たら、又もや一面の死体で、血が流れ流れて、道路が真っ赤に染まっていました。その日私は江辺で列にもぐり込んだ時に拾った白力士(パイレックス)の靴を履いていたのですが、たちまちの内に赤力士の靴になってしまいました。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
MESSAGE(メッセージ)
環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。
人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。
あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。
ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月21日火曜日
アジア太平洋戦争
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
マレー半島上陸と真珠湾攻撃
日本が東南アジア侵略へ動き始めると、アメリカは日本への鉄鋼、くず鉄の輸出をストップし、ついで石油の輸出も止めました。イギリス、オランダもこれに同調して日本に対する経済封鎖を強めると、日本の軍部は危機感をつのらせ、「ABCD(America,Britain,China,Dutch)包囲陣」の圧迫をはね返すには戦争以外に道はないと、日本国民に宣伝するようになりました。
1941年12月8日未明、日本の陸軍はイギリスの植民地であるマレー半島上陸作戦を行ない、イギリス軍に奇襲攻撃をかけました。続いて、海軍航空隊がハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけた後、日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告を行ない、アジア太平洋戦争が始まりました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)私たち9人も、かき集めて筏を1つ組み終わり、午後4時過ぎに、筏に乗って正に岸辺を離れようとしていた時に、軍人が1人やってきて、自分を連れて行かせようとし、筏に乗った途端に、筏が沈みそうになりました。これを見てこの軍人は、銃に弾をカチャッと詰めて、強引に私たち何人かを降ろし、自分を先に行かせようとしました。私ともう2人とが降りるしかなく、そいつが後の6人と一緒に長江が流れるままに漂って行きました。それが何と私が今日まで生きてこれることにつながったのですが、と言うのは、その日既に敵の海軍が燕子磯の川面を封鎖していて、凡そ長江を漂って行った船なり筏なりは、大きな船や小さな船やで長江を渡った軍人や民衆を含め、ほとんど日本軍に掃射されて死に、沈没した筏もありで、1つとして生きて帰ったのは無かったからです。
午後5時以後は、敵軍はもう小河を過ぎ、江辺にひしめいている軍人や民衆へと迫っていました。6時頃に、煤炭埠頭を過ぎ、もうじき和記洋行に来ようという時、人が益々いっぱいで堪らなくなりました。その時、和記洋行のイギリス人が出てきて、軍人に武器を差し出し、洋行の区域内に避難するようにと、大声で怒鳴ったので、銃を持っていた軍人たちが次々に銃や弾薬を放り出し、私たちもひしめいている軍人や民衆にくっついて和記洋行の大きな内庭に避難しました。
12月14日は、どんより曇り寒かったです。午前中に、私たちは江辺へ行って鉄兜を1つ拾い、薪と米とを少し見つけて来て、何か食べるものを作り、一日も何も食べずにいたすきっ腹に詰め込もうとしたのですが、お粥がまで煮えないうちに、日本軍が何人かやってきて、1人1人身体検査をされました。その数人が行ってしまうと、何人かがまたやってくる、といった調子で引きもきらず、若い婦女子は連れて行かれ、みんなが持っていたお金や物を取られる、といった具合に避難していた軍人や民衆がやられ、みんないっそのこと外套のボタンをはずしっぱなしにするほどでした。午後5時頃に、私たちが丁度お粥を食べようとしていたら、又もや日本軍が3人、馬を一匹ひいてやってきて、身体中を探してから、日本軍の1人が私に「その子ども、来いや」と言うので、おとなしく言いなりになりましたら、馬をひかされ、醤油の小さな桶とかますに入れたなつめの蜜漬けとを持たされて、付いて行かされました。ああ何と、私は2日も食べてなくて、今度のお粥もまた食べられなかったのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
はじめに
戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
マレー半島上陸と真珠湾攻撃
日本が東南アジア侵略へ動き始めると、アメリカは日本への鉄鋼、くず鉄の輸出をストップし、ついで石油の輸出も止めました。イギリス、オランダもこれに同調して日本に対する経済封鎖を強めると、日本の軍部は危機感をつのらせ、「ABCD(America,Britain,China,Dutch)包囲陣」の圧迫をはね返すには戦争以外に道はないと、日本国民に宣伝するようになりました。
1941年12月8日未明、日本の陸軍はイギリスの植民地であるマレー半島上陸作戦を行ない、イギリス軍に奇襲攻撃をかけました。続いて、海軍航空隊がハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけた後、日本はアメリカ・イギリスに宣戦布告を行ない、アジア太平洋戦争が始まりました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)私たち9人も、かき集めて筏を1つ組み終わり、午後4時過ぎに、筏に乗って正に岸辺を離れようとしていた時に、軍人が1人やってきて、自分を連れて行かせようとし、筏に乗った途端に、筏が沈みそうになりました。これを見てこの軍人は、銃に弾をカチャッと詰めて、強引に私たち何人かを降ろし、自分を先に行かせようとしました。私ともう2人とが降りるしかなく、そいつが後の6人と一緒に長江が流れるままに漂って行きました。それが何と私が今日まで生きてこれることにつながったのですが、と言うのは、その日既に敵の海軍が燕子磯の川面を封鎖していて、凡そ長江を漂って行った船なり筏なりは、大きな船や小さな船やで長江を渡った軍人や民衆を含め、ほとんど日本軍に掃射されて死に、沈没した筏もありで、1つとして生きて帰ったのは無かったからです。
午後5時以後は、敵軍はもう小河を過ぎ、江辺にひしめいている軍人や民衆へと迫っていました。6時頃に、煤炭埠頭を過ぎ、もうじき和記洋行に来ようという時、人が益々いっぱいで堪らなくなりました。その時、和記洋行のイギリス人が出てきて、軍人に武器を差し出し、洋行の区域内に避難するようにと、大声で怒鳴ったので、銃を持っていた軍人たちが次々に銃や弾薬を放り出し、私たちもひしめいている軍人や民衆にくっついて和記洋行の大きな内庭に避難しました。
12月14日は、どんより曇り寒かったです。午前中に、私たちは江辺へ行って鉄兜を1つ拾い、薪と米とを少し見つけて来て、何か食べるものを作り、一日も何も食べずにいたすきっ腹に詰め込もうとしたのですが、お粥がまで煮えないうちに、日本軍が何人かやってきて、1人1人身体検査をされました。その数人が行ってしまうと、何人かがまたやってくる、といった調子で引きもきらず、若い婦女子は連れて行かれ、みんなが持っていたお金や物を取られる、といった具合に避難していた軍人や民衆がやられ、みんないっそのこと外套のボタンをはずしっぱなしにするほどでした。午後5時頃に、私たちが丁度お粥を食べようとしていたら、又もや日本軍が3人、馬を一匹ひいてやってきて、身体中を探してから、日本軍の1人が私に「その子ども、来いや」と言うので、おとなしく言いなりになりましたら、馬をひかされ、醤油の小さな桶とかますに入れたなつめの蜜漬けとを持たされて、付いて行かされました。ああ何と、私は2日も食べてなくて、今度のお粥もまた食べられなかったのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
はじめに
戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月20日月曜日
アジア太平洋戦争
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
ヒトラーの戦争に便乗した日本
1939年9月1日、ヒトラーを総統とするナチスードイツがポーランドに侵攻すると、イギリス・フランスはただちにドイツに宣戦布告をして第二次世界大戦が始まりました。その後の40年5月、ドイツはオランダへの侵入を皮切りに電撃戦を進め、翌6月にはパリを占領してフランスを降伏させ、ついでイギリス本土への空襲を開始しました。
日本の戦争指導者たちは、ドイツの勝利に便乗して、主人のいなくなった東南アジアの植民地をそっくり手に入れ、石油、錫(すず)、ゴムなどの軍需物資を獲得できる絶好の機会が到来したと考えました。さらに「援蒋(えんしょう)ルート」を遮断して中国を降伏させ、日中戦争の泥沼化を解決できるとも考えたのでした。
1940年9月、日本軍は北部仏印(フランスの植民地であった現在のベトナムの北部)を侵略し、ほぼ同時に日独伊三国同盟を結び、ドイツとの結びつきを強めました。41年6月にドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まると、日本軍は7月に南部仏印に進駐し、サイゴン(現在のホーチミン市)周辺に航空基地と海軍基地、陸軍の輸送基地の建設を始めました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)23時頃に、江辺まで来て、部隊は解散になりました。江辺は人がいっぱいで、兵隊だったのが大多数でしたが、一部は庶民も混じっていて、どっと江辺に押しかけ、先を争って船に乗り長江を渡ろうと待っているのでした。けれども、ただ人がぞろぞろ右往左往するのが見えるだけで、夜中過ぎになってもまだ1人も渡って行かれません。後でやっと分かったのですが、昼間にたった一隻汽船が出ただけで、それからは長江が封鎖され全く一隻も渡れなくなってしまったのです。
12月13日。夜が明けると、下関の江辺に押し合いへし合いしていた兵士や民衆は十数万はいて、それが頭のいない蝿のように、将校は兵を探し、兵隊は将校を探すで、ごしゃごしゃになっていました。私たち大平路の9人は、この機に乗じて城内に帰って家の者と一緒になろうと思い、大通りのある横丁を曲がろうとした時に、丁度そこに集まって来ていた2隊の兵士たちと出くわし、有無を言わずに、互いに撃ち合うことになりましたが、私たちは徒手空拳の庶民ですから、この勢いからして、恵明橋の方へと走って行き、河辺の民家にもぐりこむことになりました。これはどうもまずかったようで、小さい河のその辺はもう敵軍が占領しており、家に駆け込んで来るのを見れば、機関銃や小銃で一斉に撃ってきたり、我が軍の防護部隊でも、私たちの方に撃って来たりでした。敵味方双方がひとしきり撃ち合った後、私たちは双方が小休止した機に乗じて逃げ出し、やはり江辺に戻って行きました。
押し合いへし合いの人の群や将兵たちが、果てしなく流れる長江を見渡しているのですが、その東へ向かってうねり逆巻く流れには、人の死体や獣の屍、木材、家具、船など等が漂っているのでした。けれども人々は絶望したわけではなく、生きようとする本能からと、国を忘れた輩にはなりたくないとの想いから、4,5人が一塊になり、8,9人が一群になりして、商店の戸板やら勘定台やら机や椅子やらをはずしたり壊したりしては、江辺まで持ってきて、筏に組んだりしていました。ある者は車のタイヤをはずしたり、浮桟橋の錨や鎖をノコギリで切断したりで、とにかくありとあらゆる方法を思い付き、いちるの望みさえあれば、長江を渡って行こうと、しっかり組んだ筏に乗れるだけの人が乗り、竿を一差ししては、沖へ漂って行くのでした。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。
また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
ヒトラーの戦争に便乗した日本
1939年9月1日、ヒトラーを総統とするナチスードイツがポーランドに侵攻すると、イギリス・フランスはただちにドイツに宣戦布告をして第二次世界大戦が始まりました。その後の40年5月、ドイツはオランダへの侵入を皮切りに電撃戦を進め、翌6月にはパリを占領してフランスを降伏させ、ついでイギリス本土への空襲を開始しました。
日本の戦争指導者たちは、ドイツの勝利に便乗して、主人のいなくなった東南アジアの植民地をそっくり手に入れ、石油、錫(すず)、ゴムなどの軍需物資を獲得できる絶好の機会が到来したと考えました。さらに「援蒋(えんしょう)ルート」を遮断して中国を降伏させ、日中戦争の泥沼化を解決できるとも考えたのでした。
1940年9月、日本軍は北部仏印(フランスの植民地であった現在のベトナムの北部)を侵略し、ほぼ同時に日独伊三国同盟を結び、ドイツとの結びつきを強めました。41年6月にドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まると、日本軍は7月に南部仏印に進駐し、サイゴン(現在のホーチミン市)周辺に航空基地と海軍基地、陸軍の輸送基地の建設を始めました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)23時頃に、江辺まで来て、部隊は解散になりました。江辺は人がいっぱいで、兵隊だったのが大多数でしたが、一部は庶民も混じっていて、どっと江辺に押しかけ、先を争って船に乗り長江を渡ろうと待っているのでした。けれども、ただ人がぞろぞろ右往左往するのが見えるだけで、夜中過ぎになってもまだ1人も渡って行かれません。後でやっと分かったのですが、昼間にたった一隻汽船が出ただけで、それからは長江が封鎖され全く一隻も渡れなくなってしまったのです。
12月13日。夜が明けると、下関の江辺に押し合いへし合いしていた兵士や民衆は十数万はいて、それが頭のいない蝿のように、将校は兵を探し、兵隊は将校を探すで、ごしゃごしゃになっていました。私たち大平路の9人は、この機に乗じて城内に帰って家の者と一緒になろうと思い、大通りのある横丁を曲がろうとした時に、丁度そこに集まって来ていた2隊の兵士たちと出くわし、有無を言わずに、互いに撃ち合うことになりましたが、私たちは徒手空拳の庶民ですから、この勢いからして、恵明橋の方へと走って行き、河辺の民家にもぐりこむことになりました。これはどうもまずかったようで、小さい河のその辺はもう敵軍が占領しており、家に駆け込んで来るのを見れば、機関銃や小銃で一斉に撃ってきたり、我が軍の防護部隊でも、私たちの方に撃って来たりでした。敵味方双方がひとしきり撃ち合った後、私たちは双方が小休止した機に乗じて逃げ出し、やはり江辺に戻って行きました。
押し合いへし合いの人の群や将兵たちが、果てしなく流れる長江を見渡しているのですが、その東へ向かってうねり逆巻く流れには、人の死体や獣の屍、木材、家具、船など等が漂っているのでした。けれども人々は絶望したわけではなく、生きようとする本能からと、国を忘れた輩にはなりたくないとの想いから、4,5人が一塊になり、8,9人が一群になりして、商店の戸板やら勘定台やら机や椅子やらをはずしたり壊したりしては、江辺まで持ってきて、筏に組んだりしていました。ある者は車のタイヤをはずしたり、浮桟橋の錨や鎖をノコギリで切断したりで、とにかくありとあらゆる方法を思い付き、いちるの望みさえあれば、長江を渡って行こうと、しっかり組んだ筏に乗れるだけの人が乗り、竿を一差ししては、沖へ漂って行くのでした。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。
また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月19日日曜日
アジア太平洋戦争
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
日本の戦争準備
日中全面戦争に突入する前年、1936年6月に、日本はアジア太平洋戦争の戦争計画になった次のような「帝国国防方針」を決定しました。そして陸軍を中心にしてソ連と戦争をするための軍備拡張を進める一方、海軍を中心にしてアメリカ・イギリスと戦争をするための軍備強化につとめました。
■帝国の国防は、日本と衝突の可能性が大きく、強大な軍事力をもつアメリカ、ソ連を目標とし、あわせて中国、イギリスとの戦争に備える。このため帝国の国防の兵力は、東アジア大陸ならびに西太平洋を征圧するという国防方針を実現するものが必要である。(要約)
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
1937年には、私は14歳で、南京の大平路54号の新華刻字印刷店で見習いをしていました。
「7・7」事変以来、日本軍の飛行機がしょっちゅう南京に爆撃に来ていて、防空のためと言って、南京市が防空演習をやるので、演習の時はどの商店からも1人出して防護団に加わり、警察当局の秩序維持に協力していました。その頃、私はいつもうちの店の毛師匠の替え玉として参加する最年少の防護団員でした。11月20日頃かに、唐生智南京防衛司令長官の布告が街に張り出され、南京城の防衛に全住民が総動員されることになりました。兵隊になったのが毎日街を歩いては男をつかまえて人夫に徴発し、防護団員も含めて、毎日中山門外の明孝陵の近くへ防御工事で穴掘りに行かされました。11月下旬のある日、どんより曇って寒い日でしたが、朝科巷警察局まで行き中山門外へ塹壕を掘りに行くのを待っていました。ところがその日は集合した後中山門へは行かないで、和平門外へと向かいました。城外へ出たところで、私たち大平路沿いの数十人の防護団員が、城内守備部隊と一緒にされました。その日から私たちは自由を失い、家の人と連絡できなくなりました。年の若い力の強いのは36師の兵員を補充し、体力の無いのや年を取っていたり年が小さいのはやはり防御工事の穴掘りに行くことになりました。私たちは毎日紫金山の玄武湖に沿ったところで、昼間は穴掘りをし、夜は和平門外にある家に閉じ込められ、兵隊が番をしていました。補充兵員になったのが行った後、私たち太平路のでまだ一緒にいたのは9人でした。
12月12日の晩、真っ暗になって、晩ご飯を食べた後、緊急集合させられ、私たち部隊にぴったり付いて、鉄道線路に沿って歩くということで、いかなる状況にあっても話をしてはいけない、逃げるものは直ちに銃殺する、という命令が出ました。部隊に付いて線路沿いに下関の方向に歩いて行きましたが、道々絶えず合言葉で尋ねる声が聞こえたり、時には答えがはっきりしなかったり、それに弾を銃に詰めるカチャッカチャッという音が聞こえたりで、とても緊張した雰囲気でした。
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
日本の戦争準備
日中全面戦争に突入する前年、1936年6月に、日本はアジア太平洋戦争の戦争計画になった次のような「帝国国防方針」を決定しました。そして陸軍を中心にしてソ連と戦争をするための軍備拡張を進める一方、海軍を中心にしてアメリカ・イギリスと戦争をするための軍備強化につとめました。
■帝国の国防は、日本と衝突の可能性が大きく、強大な軍事力をもつアメリカ、ソ連を目標とし、あわせて中国、イギリスとの戦争に備える。このため帝国の国防の兵力は、東アジア大陸ならびに西太平洋を征圧するという国防方針を実現するものが必要である。(要約)
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
1937年には、私は14歳で、南京の大平路54号の新華刻字印刷店で見習いをしていました。
「7・7」事変以来、日本軍の飛行機がしょっちゅう南京に爆撃に来ていて、防空のためと言って、南京市が防空演習をやるので、演習の時はどの商店からも1人出して防護団に加わり、警察当局の秩序維持に協力していました。その頃、私はいつもうちの店の毛師匠の替え玉として参加する最年少の防護団員でした。11月20日頃かに、唐生智南京防衛司令長官の布告が街に張り出され、南京城の防衛に全住民が総動員されることになりました。兵隊になったのが毎日街を歩いては男をつかまえて人夫に徴発し、防護団員も含めて、毎日中山門外の明孝陵の近くへ防御工事で穴掘りに行かされました。11月下旬のある日、どんより曇って寒い日でしたが、朝科巷警察局まで行き中山門外へ塹壕を掘りに行くのを待っていました。ところがその日は集合した後中山門へは行かないで、和平門外へと向かいました。城外へ出たところで、私たち大平路沿いの数十人の防護団員が、城内守備部隊と一緒にされました。その日から私たちは自由を失い、家の人と連絡できなくなりました。年の若い力の強いのは36師の兵員を補充し、体力の無いのや年を取っていたり年が小さいのはやはり防御工事の穴掘りに行くことになりました。私たちは毎日紫金山の玄武湖に沿ったところで、昼間は穴掘りをし、夜は和平門外にある家に閉じ込められ、兵隊が番をしていました。補充兵員になったのが行った後、私たち太平路のでまだ一緒にいたのは9人でした。
12月12日の晩、真っ暗になって、晩ご飯を食べた後、緊急集合させられ、私たち部隊にぴったり付いて、鉄道線路に沿って歩くということで、いかなる状況にあっても話をしてはいけない、逃げるものは直ちに銃殺する、という命令が出ました。部隊に付いて線路沿いに下関の方向に歩いて行きましたが、道々絶えず合言葉で尋ねる声が聞こえたり、時には答えがはっきりしなかったり、それに弾を銃に詰めるカチャッカチャッという音が聞こえたりで、とても緊張した雰囲気でした。
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
「日本の憲法9条をあたりまえのものだとどうか思わないでください。それは、ある日突然なくなってしまうかも知れません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし、憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人々が救われています。9条がなければ、皆さんはアメリカが第二次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです。 これは、アメリカの元海兵隊員で、今では世界的に平和活動を行っているアレン・ネルソンさんの言葉です。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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