まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
1、日中全面戦争
満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。
2つの戦場
1939年までに日本は約85万の陸軍兵力を中国に送り込み、重要都市と鉄道線路のほとんどを占領しましたが、中国の抵抗をやめさせることはできませんでした。日本は、国民党副総裁で蒋介石に次ぐ地位にあった汪精衛(おうせいえい)を重慶から脱出させ、1940年3月、南京に国民政府(汪精衛政権)を作らせましたが、この傀儡政権を支持する中国国民はほとんど無く、日本の工作は失敗しました。
一方、中国共産党が指導する八路軍(はちろぐん)と新四軍(しんしぐん)は民衆を民兵に組織し、日本軍の占領地を解放して抗日根拠地を築き、勢力を拡大しました。衝撃を受けた日本軍は、解放区の徹底的破壊をめざす「掃討戦」を押し進めるようになりました。日本軍は正面で国民政府軍を攻撃し、後方では共産党軍と戦うという2つの戦場を持ったのです。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
徐吉慶(男、71歳)の証言
1937年に、私は南京の山西路に住んでいました。日本の軍隊が入ってきたとき、私たちは大方巷の角の華僑招待所の大講堂に集められて住まい、難民キャンプと呼ばれましたが、そこにはおよそ2000人余り住まっていました。12月中旬のある日の朝、日本の将校何人かが兵隊何人かと通訳1人を連れて難民キャンプにやってきました。将校がぼそぼそと何かを言うと、通訳が「これから日本の皇軍がお前たちを送って帰らせてやる、自動車で送ってやる」と言いました。やがて車20台で、1台に40人ぐらい乗せて、ここの人たちを連れて行きました。後で分かったのですが、実際は下関の三汊河まで引きずって行って全部銃殺したのです。明くる日はとてもいい天気でしたが、朝うんと早く、やはりあの将校数人と、兵士と通訳とが難民キャンプにきて、車20台で初めの日に運びきれなかった人たち全部を乗せて行きましたが、どの車にも機関銃が一挺据えられていました。私は4台目に乗せられました。車は新街口の中央銀行の大きな内庭に停まりました。将校が又何か日本語を言っても、私たちは分からず、通訳が「年取った者、若いの、男、女、小さい者に分かれて立っているように」と言いました。将校が又何か言って、通訳が又言いました。「ここに留まって皇軍のために働きたい者は誰でも、留まってよい。やりたくない者は、難民キャンプに送り返してやって、明日また話し合うことにする」。結局1人も留まらずに、日本軍は私たちを難民キャンプに送り返しました。3日目の朝、7時ごろになってようやく、彼らがほとんど又やってきて、私たち1千人余りを、縄で別々に縛ってから、6人ずつ一緒にして縛り、車20台に押し上げたのですが、車にはやはり機関銃が据えられていました。まっすぐ三汊河まで走って停まりました。一目見てまずいことに、周りがずっと機関銃でした。私たち6人一列に立たされました。私は後ろ側に立ち、河辺りのすぐ脇でした。銃声が響くや、私は倒れたのですが、実際は弾に当たっていませんでした。夜の12時になっても、日本軍はまだ行ってしまわず、活きているのがいるのを恐れて、銃剣で1人ずつ突っついて歩いているのです。私は死体の下になってて、突き刺されても届かなかったのです。夜の1時過ぎに「どいつもこいつも、スーラスーラトィ【死んでしまえ、死んじまえ】」と日本人が言っているのが聞こえました。彼らが行ったので、そうっと頭をあげたら、同時に死体から3人もが頭をあげました。一緒に死体の堆から這い出したら、全身血だらけで、私は鼻からも血が流れており、おそらく緊張し恐かったためだと思われました。私たちは河辺まで這って行き血を洗い落とし、大変な苦労をして逃げ出して来たのです。(沈珍昌などが記録)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・ある国が戦争放棄を掲げるということは、世界のほかの国々への力強いメッセージになると思います。
(イギリス、30代・男性)
・第二次世界大戦の悪夢を経験した一人として、私は、力ではなく正義と社会秩序による国際紛争の解決手段があること、そしてそれに基づいた国際平和と理解が達成できることを信じています。紛争解決は、交戦ではなく平和的な方法でなされるべきだと思います。(フィリピン、60代・男性)
・僕の国はベトナムで戦争をして、何百万人ものベトナム人と何万人もの自国の兵士を犠牲にし、何も得ませんでした。それなのに、今も戦争をしています。アメリカは根本的に反省しなかったんです。こういう国に従って日本が憲法を変えようとするのは、非常に残念です。
(アメリカ、50代・男性)
・武器でいっぱいの世の中に暮らすことは、自分の墓を掘っているようなものだと思います。現実には、世界の指導者たちが行っていること、特に軍事力を増強していくことは、私にとって全く無益なことだと思います。お金をこうして無駄にするのではなく、教育の拡大と貧困の撲滅のために利用した方がよっぽど有効だと思います。
(フィリピン、60代・男性)
・私は第二次世界大戦の経験者として、日本国憲法第9条をいかなる手段でもっても排除すべきでないと思います。戦争は、人の命を奪い、人びとを苦しめました。武器はこの世に必要ではありません。世界に脅威を与えるべきではありません。過去の過ちを繰り返さないで下さい。(ロシア、60代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
2009年4月16日木曜日
日中全面戦争
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
1、日中全面戦争
満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。
中国への全面侵略の開始
長期泥沼の戦争へ
南京は占領したものの、蒋介石(しょうかいせき)政府【中国国民政府】を屈服させることに失敗した日本は、翌38年1月16日、「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という近衛首相の声明を発表し、蒋介石政府を滅ぼすまで戦争をすることを宣言しました。
国民政府が武漢に軍・政府機関を移して抗戦を続けると、日本は大軍を動員して武漢作戦を行ない、一方、香港・広東からの国民政府への物資補給を絶つために広東作戦も行いました。
日本軍は38年10月に武漢と広東を占領しますが、蒋介石政府はさらに奥地の重慶に首都を移して、あくまでも対日抗戦をつらぬきました。日本が長期にわたり中国侵略戦争を行なうことになったため、植民地朝鮮も戦時体制に動員され、朝鮮人の苦痛が強まることになりました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)日本軍はそれにいたるところで略奪しました。大同小麦粉工場の唯一残った倉庫と、有恒小麦粉工場とに、小麦粉や小麦や米などの穀物が大量にしまってあり、そのほかの大商店にも大量の穀物が貯えられていたのですが、日本軍が難民キャンプの人たちに強制し、毎日日本軍のために穀物や物資を運ばせたのです。
日本軍が南京で大虐殺をやったことによって、我が同胞の被害は30万以上に達しました。その頃南京の市内も市外も、いたるところみな死体で、多くの住民の家にも屍があるのでした。正に草生す屍が野にあまねく、水く屍で秦淮河が血に染まり、とりわけ三汊河、江東門、水西門、小営などでは、数万もの人々が殺害されたのです。三汊河の木橋から河が長江に注ぐ河口まで死体がうずたかくなり、水面には無数の屍が浮き沈みしていました。(ここでは虐殺は一昼夜にわたり、そこから私は生き残ったのです)。暴虐な日本軍は、世界の人々の耳目をくらまそうと、大急ぎで難民キャンプにやってきては青壮年を捕まえて、毎日死体を埋めに行かせ、私も駆り出され15日間死骸を片付けたのでした。人手が不足していて、こんなにもたくさんをどこに埋め尽くせるでしょうか?日本軍は強く命じて全ての死体を三汊河に投げ込ませ、長江へと押し流したのです。日本の軍国主義は中国人民のこの血による債務を負っており、その罪業のほどは筆紙に尽くせません。
日本軍が南京で大虐殺をしていたときに、私が数々の危難を経巡って、命拾いをし、今日まで活きてこれたのは、容易なことではありませんでした。今や私たちは国家として既に独立し世界の国々に伍していますが、中国人は誰一人として過去を忘れることはできず、、誰しもが家を守り国を防衛し、わが国をして主権を持って独立し、領土を保全し、人民に自由で幸福な生活をさせ得る国家たらしめるよう努めねばなりません。(段月萍が駱中洋の1987年からの手紙に基づいて整理)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)
・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)
・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)
・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)
・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
1、日中全面戦争
満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。
中国への全面侵略の開始
長期泥沼の戦争へ
南京は占領したものの、蒋介石(しょうかいせき)政府【中国国民政府】を屈服させることに失敗した日本は、翌38年1月16日、「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」という近衛首相の声明を発表し、蒋介石政府を滅ぼすまで戦争をすることを宣言しました。
国民政府が武漢に軍・政府機関を移して抗戦を続けると、日本は大軍を動員して武漢作戦を行ない、一方、香港・広東からの国民政府への物資補給を絶つために広東作戦も行いました。
日本軍は38年10月に武漢と広東を占領しますが、蒋介石政府はさらに奥地の重慶に首都を移して、あくまでも対日抗戦をつらぬきました。日本が長期にわたり中国侵略戦争を行なうことになったため、植民地朝鮮も戦時体制に動員され、朝鮮人の苦痛が強まることになりました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)日本軍はそれにいたるところで略奪しました。大同小麦粉工場の唯一残った倉庫と、有恒小麦粉工場とに、小麦粉や小麦や米などの穀物が大量にしまってあり、そのほかの大商店にも大量の穀物が貯えられていたのですが、日本軍が難民キャンプの人たちに強制し、毎日日本軍のために穀物や物資を運ばせたのです。
日本軍が南京で大虐殺をやったことによって、我が同胞の被害は30万以上に達しました。その頃南京の市内も市外も、いたるところみな死体で、多くの住民の家にも屍があるのでした。正に草生す屍が野にあまねく、水く屍で秦淮河が血に染まり、とりわけ三汊河、江東門、水西門、小営などでは、数万もの人々が殺害されたのです。三汊河の木橋から河が長江に注ぐ河口まで死体がうずたかくなり、水面には無数の屍が浮き沈みしていました。(ここでは虐殺は一昼夜にわたり、そこから私は生き残ったのです)。暴虐な日本軍は、世界の人々の耳目をくらまそうと、大急ぎで難民キャンプにやってきては青壮年を捕まえて、毎日死体を埋めに行かせ、私も駆り出され15日間死骸を片付けたのでした。人手が不足していて、こんなにもたくさんをどこに埋め尽くせるでしょうか?日本軍は強く命じて全ての死体を三汊河に投げ込ませ、長江へと押し流したのです。日本の軍国主義は中国人民のこの血による債務を負っており、その罪業のほどは筆紙に尽くせません。
日本軍が南京で大虐殺をしていたときに、私が数々の危難を経巡って、命拾いをし、今日まで活きてこれたのは、容易なことではありませんでした。今や私たちは国家として既に独立し世界の国々に伍していますが、中国人は誰一人として過去を忘れることはできず、、誰しもが家を守り国を防衛し、わが国をして主権を持って独立し、領土を保全し、人民に自由で幸福な生活をさせ得る国家たらしめるよう努めねばなりません。(段月萍が駱中洋の1987年からの手紙に基づいて整理)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・平和が武器によってつくられるものではないということに世界中の国が気づき、すべての国が憲法9条をもつようになることを願ってます。(オーストラリア、20代・女性)
・このグローバル9条キャンペーンに非常に感動しました。憲法9条を維持しようというこの草の根運動には、日本がアジアとの関係に誠意を持って向かっている姿勢がうかがえます。このキャンペーンに多くの日本人が賛同し、成功することを望みます。がんばってください!(韓国、30代・男性)
・憲法9条に賛同します。このような憲法があることで、私たちは、戦争のもついかなる攻撃性に対して共に、立ち上がるような地域社会の結びつきを強くしていくことができると思います。私たち一人ひとりのの協力こそが、最高の平和の武器だと思います。(ベルギー、50代・男性)
・日本のような歴史を持つ国が、憲法9条を広めようという行動をとることは、世界のほかの国々にとっての模範です。ほかの国々もそれに続くことを祈って。私たちに必要なことは平和への挑戦です。
(コスタリカ、20代・女性)
・日本国憲法第9条の改定に反対です。(ロシア、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月15日水曜日
侵略戦争
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
1、日中全面戦争
満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。
中国への全面侵略の開始
1937年7月7日夜、日本軍は北京郊外で盧溝橋(ろこうきょう)事件を起こしました。日本はこれを中国軍が不法に射撃したからだという口実をつけて、一挙に華北一帯を占領しようと軍隊を送り込みました。上海では、海軍が中心となって、8月13日に戦争を起こし(第二次上海事変、淞滬(しょうこ)抗戦)、翌14日には、海軍航空隊が上海、杭州(こうしゅう)などを爆撃、続いて15日には中国の首都南京を空爆しました。
日本の近衛(このえ)内閣は上海にも大軍を送り込み、3ヶ月にわたる激戦ののちに上海を占領しました。日本の軍部と政府は、首都南京を占領すれば中国軍は日本に屈服し、日本の支配を認めるようになると考えて、総勢約20万の日本軍を南京占領のために送り込み、1937年12月13日には南京を占領しました。この時、世界から非難された南京大虐殺事件を引き起こしました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)それと又、日本軍は何度もいろんな難民区へ行き男の青壮年を、無理やり広場の空き地に集めて、1人1人別々に高い机の上に立たせ、下にいる群集の中の家族に引き取らせるのでした。もし台の下に「私の息子です。私の夫です」と言う人がいれば、家につれて帰らせますが、もしも台の上に立った人に、引き取れる親族が台の下にいなかったら、日本軍が別のところに追い立てて集団虐殺するのです。私はよその省の広東人で、初めて江蘇にやってきて標準語ですらよく話せないのに、どうして親戚や家族が南京にいるでしょうか?私が台に立つ番になり調べられた時、それはちょうど陰陽の境界線に到ったかのような、正に生死の関頭に立った一刻でした。幸いなことに台の下にお年寄りが2人いて、その1人がこの男は自分の息子だと言い、もう1人がこの男は自分の甥だと言ってくれたので、私は平安にも下に降りられたのでした。この2人の私の命を救ってくれた優しい人が、1人は鄭宝さんと言い、もう1人は華正清さんと言うのが、後に分かったのですが、私はこのお2人の恩に報いるため、それ以後お2人を義父と思い、その晩年の生活の面倒を見させてもらっています。
日本軍はそれに婦女を強姦しました。日本兵が毎日十数回も難民キャンプにやってきて、中年や壮年の婦女を刀や銃で威嚇して外へ引き出し強姦したり、輪姦したりしました。ある若い婦女が、顔に灰を塗りたくり、醜女みたいな身なりをしましたが、それでも日本兵に犯されるのは免れがたく、日本兵が来るのが多すぎたりすると、年取った婦女も害を受けるのでした。輪姦されるのが余りにも多くて、人里はなれたくぼ地に死んで難民キャンプに戻ってこなかった婦女もいたのです。
後に私は死体の片づけに参加しましたが、女の屍数十を発見し、下半身に何も着けていなかったり、下の部分は腫れ上がったりしていて、日本軍が輪姦してから死に至らしめた証となっていました。 日本軍が南京を陥落させた後、むやみに建物を焼き、城内も城外も焔(ほのお)がめらめらと天を突き、城内の以前の外交部や、三汊河の大同小麦粉工場など、いずれも赤々と燃えていました。そのほか、下関の龍江橋の長江沿いの大通りは全部焼けただれて廃墟となったのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)
・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)
・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)
・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)
・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
1、日中全面戦争
満州(中国東北地方)を侵略した日本は、1937年から中国全土へ侵略戦争を開始しました。全面侵略戦争は、どのようにしてアジア太平洋戦争にまで発展したのでしょうか。
中国への全面侵略の開始
1937年7月7日夜、日本軍は北京郊外で盧溝橋(ろこうきょう)事件を起こしました。日本はこれを中国軍が不法に射撃したからだという口実をつけて、一挙に華北一帯を占領しようと軍隊を送り込みました。上海では、海軍が中心となって、8月13日に戦争を起こし(第二次上海事変、淞滬(しょうこ)抗戦)、翌14日には、海軍航空隊が上海、杭州(こうしゅう)などを爆撃、続いて15日には中国の首都南京を空爆しました。
日本の近衛(このえ)内閣は上海にも大軍を送り込み、3ヶ月にわたる激戦ののちに上海を占領しました。日本の軍部と政府は、首都南京を占領すれば中国軍は日本に屈服し、日本の支配を認めるようになると考えて、総勢約20万の日本軍を南京占領のために送り込み、1937年12月13日には南京を占領しました。この時、世界から非難された南京大虐殺事件を引き起こしました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)それと又、日本軍は何度もいろんな難民区へ行き男の青壮年を、無理やり広場の空き地に集めて、1人1人別々に高い机の上に立たせ、下にいる群集の中の家族に引き取らせるのでした。もし台の下に「私の息子です。私の夫です」と言う人がいれば、家につれて帰らせますが、もしも台の上に立った人に、引き取れる親族が台の下にいなかったら、日本軍が別のところに追い立てて集団虐殺するのです。私はよその省の広東人で、初めて江蘇にやってきて標準語ですらよく話せないのに、どうして親戚や家族が南京にいるでしょうか?私が台に立つ番になり調べられた時、それはちょうど陰陽の境界線に到ったかのような、正に生死の関頭に立った一刻でした。幸いなことに台の下にお年寄りが2人いて、その1人がこの男は自分の息子だと言い、もう1人がこの男は自分の甥だと言ってくれたので、私は平安にも下に降りられたのでした。この2人の私の命を救ってくれた優しい人が、1人は鄭宝さんと言い、もう1人は華正清さんと言うのが、後に分かったのですが、私はこのお2人の恩に報いるため、それ以後お2人を義父と思い、その晩年の生活の面倒を見させてもらっています。
日本軍はそれに婦女を強姦しました。日本兵が毎日十数回も難民キャンプにやってきて、中年や壮年の婦女を刀や銃で威嚇して外へ引き出し強姦したり、輪姦したりしました。ある若い婦女が、顔に灰を塗りたくり、醜女みたいな身なりをしましたが、それでも日本兵に犯されるのは免れがたく、日本兵が来るのが多すぎたりすると、年取った婦女も害を受けるのでした。輪姦されるのが余りにも多くて、人里はなれたくぼ地に死んで難民キャンプに戻ってこなかった婦女もいたのです。
後に私は死体の片づけに参加しましたが、女の屍数十を発見し、下半身に何も着けていなかったり、下の部分は腫れ上がったりしていて、日本軍が輪姦してから死に至らしめた証となっていました。 日本軍が南京を陥落させた後、むやみに建物を焼き、城内も城外も焔(ほのお)がめらめらと天を突き、城内の以前の外交部や、三汊河の大同小麦粉工場など、いずれも赤々と燃えていました。そのほか、下関の龍江橋の長江沿いの大通りは全部焼けただれて廃墟となったのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
世界は、
9条をえらび始めた。
・憲法9条はまるで、神が私たち人類に送ってくれた宝物のようです。(中国、40代・男性)
・9条は、明らかに戦後の東北アジア地域のパワーバランスを保ってきた一要因です。(モンゴル、60代・男性)
・9条は、日本が多くの残虐行為をおこし、侵略戦争を行った反省から制定されたものです。その9条をなくすことに賛成できません。(韓国、60代・女性)
・9条の平和主義は、私たちの世代だけでなく、次の、その次の世代の平和にも重要です。(中国、40代・男性)
・すべての国が憲法9条を持つようになり、平和が最後の手段としてではなく、唯一の手段となる日が来ることを願っています。(イギリス、20代・男性)
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月14日火曜日
上海「義挙」とユンボンギル
まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
上海「義挙」と尹奉吉(ユンボンギル・・・1908-1932)
1932年4月29日、尹奉吉は韓人愛国団長である金九(キムグ)と朝食を終えた後、誓いの言葉を読み上げました。
「私は、誠心誠意、祖国の独立と自由を回復するために、韓人愛国団の一員となり、敵軍の将校を殺害することを誓います」
その日の午後1時ごろ、上海虹口(ホンキュ)公園で天地を揺るがす爆発音がとどろきました。爆発が起こったのは、上海を占領した日本軍が開催した天皇誕生日の祝賀会場でした。壇上に座っていた軍司令官・白川義則をはじめとする高官らが死傷しました。修羅場となった会場で、声を張り上げ「大韓独立万歳」と叫ぶ青年がいました。その日の朝、「敵の将軍を殺害する」と固く誓った尹奉吉でした。
その場で逮捕された尹奉吉は軍法会議で死刑宣告を受け、同年12月19日に処刑されました。死を前にした彼は、2人の息子に遺言を残しました。
■お前たちにも血が流れ、骨があるのなら
きっと朝鮮のために勇敢な闘士となれ
太極(たいきょく)の旗(韓国の国旗)を高く掲げ
私のなきがらのない墓を訪ね
一杯の酒を注いでおくれ
お前たちは父がいないことを嘆くなかれ
愛する母がいるのだから
一身をなげうっての尹奉吉の「義挙」に、中国民衆と国民党政府は感動し、朝鮮の独立運動を積極的に支持するようになりました。世界の人々も朝鮮の人々が日本の侵略にどれほど憤っているかを知るようになりました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)私たちは大急ぎで紅卍字会の人を探しに行き、難民証を2枚発行してくれるように頼みました。あんたたちはどこの人か、と聞かれたので、広東人だとそのままに答えました。自分たちは江蘇省の人と南京人にだけ出せるので、広東人には出せない、と会の人は肯ぜず、私たちはその人にずっとぴったり引っ付いて、助けてくれと要求したのですが、応えてくれませんでした。私たちはほかにも多くの人に当たったのですが、難民証のことは解決できず、紅卍字会の人に頼んではじめて出してもらえるのだと誰もが言うので、私たちはうろうろするばかりで、万策尽きてしまい、初めに戻って又あの紅卍字会の人に会いに行きました。その人が又「あんたたちはどこの地方の人か」と聞くので、「江蘇の人間です」と答えると、「あんたたちは初め広東人だと言い、今は又江蘇人だと言い直している、やはりあんたたちに難民証は出せない」と言うのです。難民証がなければいつ何時日本軍に銃殺されるか分からないのが私たちには分かっているので、その人に付いて歩いて、その人が行く所はどこにでもくっついて行きました。歩いているうちにその紅卍字会の人が、地べたから難民証を一枚拾ってくれたのですが、これが人の命に関ることなもので、私たち2人が互いに奪い合うこととなり、結局その男に持っていかれてしまいました。私は焦って心臓をばくばくさせながら、ずっとその人の後ろにくっついて行ったのですが、その人の前方百メートルの所に、又もや実弾入りの銃を担ぎ、銃に剣をつけた日本兵が数人やってきて、真正面からこっちに歩いてきた、その正に差し迫った危機に、不意に又その紅卍字会の人が地べたから南京難民証を一枚拾ってわたしにくれたのです。どんな風だったか私には見えなかったのですが、私にはその人が私の命を救おうとしてくれたのだと思われます。服につける針と糸が無かったので、左手で難民証を左胸の前に押し付けるしかありませんでした。すぐにも日本兵が私たちの目の前にやってきて、私たちが難民証を付けているのを見、紅卍字会の人に「良民か」と聞いて、「良民です」と答えてくれました。それで日本軍が「よし、よし、行け、行け」となり、すぐに私は難民キャンプに入ったのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
9条がゆきわたった世界
「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
上海「義挙」と尹奉吉(ユンボンギル・・・1908-1932)
1932年4月29日、尹奉吉は韓人愛国団長である金九(キムグ)と朝食を終えた後、誓いの言葉を読み上げました。
「私は、誠心誠意、祖国の独立と自由を回復するために、韓人愛国団の一員となり、敵軍の将校を殺害することを誓います」
その日の午後1時ごろ、上海虹口(ホンキュ)公園で天地を揺るがす爆発音がとどろきました。爆発が起こったのは、上海を占領した日本軍が開催した天皇誕生日の祝賀会場でした。壇上に座っていた軍司令官・白川義則をはじめとする高官らが死傷しました。修羅場となった会場で、声を張り上げ「大韓独立万歳」と叫ぶ青年がいました。その日の朝、「敵の将軍を殺害する」と固く誓った尹奉吉でした。
その場で逮捕された尹奉吉は軍法会議で死刑宣告を受け、同年12月19日に処刑されました。死を前にした彼は、2人の息子に遺言を残しました。
■お前たちにも血が流れ、骨があるのなら
きっと朝鮮のために勇敢な闘士となれ
太極(たいきょく)の旗(韓国の国旗)を高く掲げ
私のなきがらのない墓を訪ね
一杯の酒を注いでおくれ
お前たちは父がいないことを嘆くなかれ
愛する母がいるのだから
一身をなげうっての尹奉吉の「義挙」に、中国民衆と国民党政府は感動し、朝鮮の独立運動を積極的に支持するようになりました。世界の人々も朝鮮の人々が日本の侵略にどれほど憤っているかを知るようになりました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)私たちは大急ぎで紅卍字会の人を探しに行き、難民証を2枚発行してくれるように頼みました。あんたたちはどこの人か、と聞かれたので、広東人だとそのままに答えました。自分たちは江蘇省の人と南京人にだけ出せるので、広東人には出せない、と会の人は肯ぜず、私たちはその人にずっとぴったり引っ付いて、助けてくれと要求したのですが、応えてくれませんでした。私たちはほかにも多くの人に当たったのですが、難民証のことは解決できず、紅卍字会の人に頼んではじめて出してもらえるのだと誰もが言うので、私たちはうろうろするばかりで、万策尽きてしまい、初めに戻って又あの紅卍字会の人に会いに行きました。その人が又「あんたたちはどこの地方の人か」と聞くので、「江蘇の人間です」と答えると、「あんたたちは初め広東人だと言い、今は又江蘇人だと言い直している、やはりあんたたちに難民証は出せない」と言うのです。難民証がなければいつ何時日本軍に銃殺されるか分からないのが私たちには分かっているので、その人に付いて歩いて、その人が行く所はどこにでもくっついて行きました。歩いているうちにその紅卍字会の人が、地べたから難民証を一枚拾ってくれたのですが、これが人の命に関ることなもので、私たち2人が互いに奪い合うこととなり、結局その男に持っていかれてしまいました。私は焦って心臓をばくばくさせながら、ずっとその人の後ろにくっついて行ったのですが、その人の前方百メートルの所に、又もや実弾入りの銃を担ぎ、銃に剣をつけた日本兵が数人やってきて、真正面からこっちに歩いてきた、その正に差し迫った危機に、不意に又その紅卍字会の人が地べたから南京難民証を一枚拾ってわたしにくれたのです。どんな風だったか私には見えなかったのですが、私にはその人が私の命を救おうとしてくれたのだと思われます。服につける針と糸が無かったので、左手で難民証を左胸の前に押し付けるしかありませんでした。すぐにも日本兵が私たちの目の前にやってきて、私たちが難民証を付けているのを見、紅卍字会の人に「良民か」と聞いて、「良民です」と答えてくれました。それで日本軍が「よし、よし、行け、行け」となり、すぐに私は難民キャンプに入ったのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
9条がゆきわたった世界
「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人々が、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。
同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月13日月曜日
中国東北地方への侵略
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
張寒暉と抗日歌曲「松花江のほとり」
日本が満州事変を起こすと、憤激した中国の各界の人々は、次々と大規模な抗日救国運動に参加していきました。1936年、陝西省(せんせいしょう)立西安2中(現在の陝西師範大学付属中学校)の教師であった張寒暉(1902-1946:河北省定県の出身)は、大衆の抗日救国運動に励まされて歌曲「松花江のほとり」を作曲しました。国を愛し故郷を想う気持ちのあふれたこの抗日歌曲は、学校から軍隊へ、そして万里(ばんり)の長城の内外、長江の南北へと、たちまち全中国に広まり、抗日戦争期の救国歌曲の代表作となりました。中国人民は、この歌を歌うと心が奮い立ち、抗日戦争に勝利するまで戦おうという気持ちを鼓舞されたのでした。
張寒暉は、「松花江のほとり」の他にも「軍民大生産」など、70曲余りの抗日歌曲を作曲し、1946年3月11日延安で病死しました。張寒暉は、聶耳(ニエアル)や洗星海(せんせいかい)とともに誰もがその名前を知っている人民芸術家です。
■「松花江のほとり」の歌詞(澤地久枝『もうひとつの満州』より)
わが家は東北 松花江のほとり
そこには森林と鉱山 さらに山野に満ちる大豆と高粱(コーリャン)がある
わが家は東北 松花江のほとり
彼(か)の地には我が同胞 そして年老いた父と母がいる
ああ、9・18、9・18
あの悲惨な時から わが故郷を脱出し
無尽の宝庫も捨て去って 流浪、また流浪
関内をさすらいつづけている
いつの年、いつの月、私の愛する故郷へ帰れるのだろうか
いつ、私のあの無尽の宝庫をとり戻せるのだろうか
父よ、母よ、喜んで一堂に会するのはいつだろうか
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)支流の1つに来た所で、水にもぐり南へと進みました。私たちが願ったのは、第一になるべく早く日本兵の駐屯している区域から離れること、第二に民衆の船で家のあるのを一隻探して泊まり、身分を欺けるようにすることでした。みんなで20隻余りの船に乗って見たのですが、どの船にもお爺さんが唯1人眠っていました。(衣服など船にある財産を見守るのに留守をしていたのでしょう)。もう真夜中の3時か4時で、爺さん、爺さん、と何度も呼んだのですが、眠っていてびりっとも動かず、誰一人として起き出して私たちに答えてくれる人はいませんでした。その体に触って見たら冷たく、力を込めて抱き起こそうとしたら、体がこわばっていて、血がまだ流れているのもいました。その時やっと分かったのですが、留守をして船を看ていたお爺さんたち、善良な民衆たちもまた、1人又1人と日本軍に殺されたのです。それからは私たち手間取って遅くならないように、船に人が見えても、声をかけに行きませんでした。私たち艱難辛苦を経て、水路を行ったところ、ついに望みが出てきました。前の方の小さな船から赤ん坊の泣き声が聞こえ、きっとその船には人がいると断定した時は、うれしくてたまりませんでした。私たちはある船に乗るのに、2人で手足の泥をきれいに洗ってから乗ったところ、着る物がたくさんあったので、綿入れを2着それぞれ着て、庶民の恰好になり、そのまま船にいて前には行きませんでした。
12月14日の夜が明けたばかりの頃、船の主が帰ってきて、私たちに出て行かせようとしました。私たちは岸には日本兵がいて、命の危険があるのだ、と言いました。船の主はあんたたちは難民証がないから、船にいても命の保証はし切れない、と言いました。私たちもそう聞いてもっともだと思い法雲時の難民区へ行ったら、そこにはお爺さんお婆さん、中壮年、婦女子や児童がいて、私たちはその人の群に混じって、その人たちの家の人にさせてもらいました。けれども日本兵がしょっちゅう検査にきて、着ている物をひっくり返して見せろ、手を見せろ、軍人だった痕跡があるかないか、難民証(良民証)がない奴は中国兵だ、引きずり出して殺しちまうんだ、というようなわけで、難民区の外側に、あちこちに死体がいっぱい散らばっていましたが、その人たちはこういう状況で死んだのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
9条がゆきわたった世界
みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
張寒暉と抗日歌曲「松花江のほとり」
日本が満州事変を起こすと、憤激した中国の各界の人々は、次々と大規模な抗日救国運動に参加していきました。1936年、陝西省(せんせいしょう)立西安2中(現在の陝西師範大学付属中学校)の教師であった張寒暉(1902-1946:河北省定県の出身)は、大衆の抗日救国運動に励まされて歌曲「松花江のほとり」を作曲しました。国を愛し故郷を想う気持ちのあふれたこの抗日歌曲は、学校から軍隊へ、そして万里(ばんり)の長城の内外、長江の南北へと、たちまち全中国に広まり、抗日戦争期の救国歌曲の代表作となりました。中国人民は、この歌を歌うと心が奮い立ち、抗日戦争に勝利するまで戦おうという気持ちを鼓舞されたのでした。
張寒暉は、「松花江のほとり」の他にも「軍民大生産」など、70曲余りの抗日歌曲を作曲し、1946年3月11日延安で病死しました。張寒暉は、聶耳(ニエアル)や洗星海(せんせいかい)とともに誰もがその名前を知っている人民芸術家です。
■「松花江のほとり」の歌詞(澤地久枝『もうひとつの満州』より)
わが家は東北 松花江のほとり
そこには森林と鉱山 さらに山野に満ちる大豆と高粱(コーリャン)がある
わが家は東北 松花江のほとり
彼(か)の地には我が同胞 そして年老いた父と母がいる
ああ、9・18、9・18
あの悲惨な時から わが故郷を脱出し
無尽の宝庫も捨て去って 流浪、また流浪
関内をさすらいつづけている
いつの年、いつの月、私の愛する故郷へ帰れるのだろうか
いつ、私のあの無尽の宝庫をとり戻せるのだろうか
父よ、母よ、喜んで一堂に会するのはいつだろうか
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)支流の1つに来た所で、水にもぐり南へと進みました。私たちが願ったのは、第一になるべく早く日本兵の駐屯している区域から離れること、第二に民衆の船で家のあるのを一隻探して泊まり、身分を欺けるようにすることでした。みんなで20隻余りの船に乗って見たのですが、どの船にもお爺さんが唯1人眠っていました。(衣服など船にある財産を見守るのに留守をしていたのでしょう)。もう真夜中の3時か4時で、爺さん、爺さん、と何度も呼んだのですが、眠っていてびりっとも動かず、誰一人として起き出して私たちに答えてくれる人はいませんでした。その体に触って見たら冷たく、力を込めて抱き起こそうとしたら、体がこわばっていて、血がまだ流れているのもいました。その時やっと分かったのですが、留守をして船を看ていたお爺さんたち、善良な民衆たちもまた、1人又1人と日本軍に殺されたのです。それからは私たち手間取って遅くならないように、船に人が見えても、声をかけに行きませんでした。私たち艱難辛苦を経て、水路を行ったところ、ついに望みが出てきました。前の方の小さな船から赤ん坊の泣き声が聞こえ、きっとその船には人がいると断定した時は、うれしくてたまりませんでした。私たちはある船に乗るのに、2人で手足の泥をきれいに洗ってから乗ったところ、着る物がたくさんあったので、綿入れを2着それぞれ着て、庶民の恰好になり、そのまま船にいて前には行きませんでした。
12月14日の夜が明けたばかりの頃、船の主が帰ってきて、私たちに出て行かせようとしました。私たちは岸には日本兵がいて、命の危険があるのだ、と言いました。船の主はあんたたちは難民証がないから、船にいても命の保証はし切れない、と言いました。私たちもそう聞いてもっともだと思い法雲時の難民区へ行ったら、そこにはお爺さんお婆さん、中壮年、婦女子や児童がいて、私たちはその人の群に混じって、その人たちの家の人にさせてもらいました。けれども日本兵がしょっちゅう検査にきて、着ている物をひっくり返して見せろ、手を見せろ、軍人だった痕跡があるかないか、難民証(良民証)がない奴は中国兵だ、引きずり出して殺しちまうんだ、というようなわけで、難民区の外側に、あちこちに死体がいっぱい散らばっていましたが、その人たちはこういう状況で死んだのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
9条がゆきわたった世界
みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月12日日曜日
反満抗日闘争
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
4、東北人民の反満抗日闘争
日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。
各階層民衆の抗日闘争
満州のさまざまな階層の人たちが抗日闘争に身を投じていきました。1939年前後、日本が直接統治していた大連(だいれん)では、抗日民衆が「放火団」を組織して、日本の軍需工場や事業所を焼失させました。国民党系の地下組織は各地で秘密闘争を行いました。愛国者の伊作衡(いさくこう)は、錦州(きんしゅう)やハルビン、長春などで仲間と連絡をとりながら民衆を指導して、秘密裏に反満抗日闘争を行いました。しかし1943年に逮捕され、処刑されてしまいます。
1941年1月、「満州国」空軍第3飛行隊の兵士85名が反乱を起こして日本軍の監視官を射殺し、抗日軍を組織しようとして、鎮圧されました。朝鮮族や満族、モンゴル族、オロチョン族などの少数民族の人たちも、東北人民とともに抗日闘争に参加しました。
中国人民と肩を並べて戦った朝鮮人
満州事変が勃発してから、満州の朝鮮人も武器を持って抗戦に立ち上がりました。満州北部には韓国独立軍、満州南部には朝鮮革命軍が組織されました。朝鮮革命軍は、中国遼寧(りょうねい)民衆自衛軍ならびに中国共産党が指導する東北抗日連軍と共同して、1938年までずっと活動しました。韓倹秋(ハンコンジュ)は、朝鮮革命軍の指導者の1人で、彼が作詞した下記の歌は、中国人・朝鮮人の連合抗戦の決意を歌っています。
朝鮮人の中には、中国共産党の指導するゲリラ部隊、さらには東北抗日連軍に参加して、中国人と一緒に戦った人たちもいました。彼らは、日本人を満州から追い出せば、朝鮮独立の機会の到来もそう遠くないと信じたのでした。
朝鮮人のゲリラ部隊は、武装闘争を続けながら朝鮮人の団結をはかるため、1936年から始めて、多くの地域に朝鮮人の祖国光復会を設立させました。これらの組織は1938年に日本当局に鎮圧され、瓦解しますが、戦いの意志は消えることはなかったです。
■中韓行進曲
中国、韓国の同胞たち/戦いの日がやってきた/抗日決戦の時がやってきた/民衆自衛軍/朝鮮革命軍/共に生き、共に戦い、死を共にする戦友・・・・
(作詞者は、朝鮮革命軍第二方面軍司令官だった韓倹秋(ハンコンジュ)です。1937年初め、韓は、19路軍司令官・王凰閣(おうおうかく)が日本軍に捕らわれたので、部隊を率いて救出に行きましたが、王はすでに日本軍に殺害されていました。韓は一日中、泣き悲しんだすえにこの歌詞を書いたのです。韓倹秋も1937年6月、吉林省通化県の二段溝の戦闘において戦死しました。)
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)私たち3人は草葺き小屋に隠れていて、幸いにしばらくは殺されず難を免れていましたが、周りはみんな「ああ、のう」と絶え間ない日本兵ばかりでした。暗くなってから、不意に日本兵が1人入ってきて、私たち3人に3発撃って、出て行きましたが、3人には1つも当たりませんでした。その後すぐ、私たち相談して、ここを離れなければいけないとなりました。犬のように地を這いつくばり、頭だけ突き出して様子を伺うと、あちこちに明かりがともり、日本軍の歩哨が影法師になっていたりして、逃げようにも、天にも地にも隙間1つ見出せません。何度も考え直した挙句に、とにかく日本軍が宿営してからのことにし、水路から逃げるか、あるいは老人か子どもかのいる庶民の家まで逃げていって、その一員になるかすれば、何とか逃げおうせるかもしれない、と思いました。
凡そ夜の11時前後に、私たち3人の内の1人が、先に壁のあなから這い出して行きましたが、その後の生死は不明となりました。とっても寒く、私たち広東から来た者は綿入れは着てなくて、冷え込んでたまらず、草葺き小屋の一角で、たまたま拾った布団わた2枚を体にかけて暖を取りました。けれども、やはり心配でたまらず、眠れる訳がありません。真夜中の2時ごろかに、不意に日本兵が2人入ってきて、軍刀をさげていながら銃は持っていないところから、輜重兵(しちょうへい)と思われましたが、その2人が古い布団わた2枚抱え、私たちのいる部屋のもう一隅で、頭からそれをかぶって眠ってしまいました。これはまずい、いつ殺害されるか分からない、と私たちは見て、直ちに壁のあなから這い出し、日本軍の明かりと歩哨とを避け、三汊河の上の方へ行きました。行ったとは言え、実際は両手両足で這って行ったのですが、三汊河一帯の大きな道も小さな巷も、ただ死体が無数に血の海に倒れているばかりでした。河辺には、死体がうずたかくなり、小山に小山が連なっているようでした。川面に一面漂っている死体はと言えば、水の流れに委ねたかのように、長江へと向かって行くのでした。
手も足も気を付けて這って行くのですが、それでもしょっちゅう日本兵の警邏しているのに出くわします。すると私たちは面を伏せ、死体のうずたかい上に身を伏せビクともせずに、死人を装い、彼らをくらませてからまた這うのです。もっと惨めだったのは日本軍に半殺しになった人たちが少しいたことで、大声でわめきうめいているのが、涙を誘って止まないのでした。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
ひとりひとりの安全を
大事にする世界
また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。
日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
4、東北人民の反満抗日闘争
日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。
各階層民衆の抗日闘争
満州のさまざまな階層の人たちが抗日闘争に身を投じていきました。1939年前後、日本が直接統治していた大連(だいれん)では、抗日民衆が「放火団」を組織して、日本の軍需工場や事業所を焼失させました。国民党系の地下組織は各地で秘密闘争を行いました。愛国者の伊作衡(いさくこう)は、錦州(きんしゅう)やハルビン、長春などで仲間と連絡をとりながら民衆を指導して、秘密裏に反満抗日闘争を行いました。しかし1943年に逮捕され、処刑されてしまいます。
1941年1月、「満州国」空軍第3飛行隊の兵士85名が反乱を起こして日本軍の監視官を射殺し、抗日軍を組織しようとして、鎮圧されました。朝鮮族や満族、モンゴル族、オロチョン族などの少数民族の人たちも、東北人民とともに抗日闘争に参加しました。
中国人民と肩を並べて戦った朝鮮人
満州事変が勃発してから、満州の朝鮮人も武器を持って抗戦に立ち上がりました。満州北部には韓国独立軍、満州南部には朝鮮革命軍が組織されました。朝鮮革命軍は、中国遼寧(りょうねい)民衆自衛軍ならびに中国共産党が指導する東北抗日連軍と共同して、1938年までずっと活動しました。韓倹秋(ハンコンジュ)は、朝鮮革命軍の指導者の1人で、彼が作詞した下記の歌は、中国人・朝鮮人の連合抗戦の決意を歌っています。
朝鮮人の中には、中国共産党の指導するゲリラ部隊、さらには東北抗日連軍に参加して、中国人と一緒に戦った人たちもいました。彼らは、日本人を満州から追い出せば、朝鮮独立の機会の到来もそう遠くないと信じたのでした。
朝鮮人のゲリラ部隊は、武装闘争を続けながら朝鮮人の団結をはかるため、1936年から始めて、多くの地域に朝鮮人の祖国光復会を設立させました。これらの組織は1938年に日本当局に鎮圧され、瓦解しますが、戦いの意志は消えることはなかったです。
■中韓行進曲
中国、韓国の同胞たち/戦いの日がやってきた/抗日決戦の時がやってきた/民衆自衛軍/朝鮮革命軍/共に生き、共に戦い、死を共にする戦友・・・・
(作詞者は、朝鮮革命軍第二方面軍司令官だった韓倹秋(ハンコンジュ)です。1937年初め、韓は、19路軍司令官・王凰閣(おうおうかく)が日本軍に捕らわれたので、部隊を率いて救出に行きましたが、王はすでに日本軍に殺害されていました。韓は一日中、泣き悲しんだすえにこの歌詞を書いたのです。韓倹秋も1937年6月、吉林省通化県の二段溝の戦闘において戦死しました。)
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)私たち3人は草葺き小屋に隠れていて、幸いにしばらくは殺されず難を免れていましたが、周りはみんな「ああ、のう」と絶え間ない日本兵ばかりでした。暗くなってから、不意に日本兵が1人入ってきて、私たち3人に3発撃って、出て行きましたが、3人には1つも当たりませんでした。その後すぐ、私たち相談して、ここを離れなければいけないとなりました。犬のように地を這いつくばり、頭だけ突き出して様子を伺うと、あちこちに明かりがともり、日本軍の歩哨が影法師になっていたりして、逃げようにも、天にも地にも隙間1つ見出せません。何度も考え直した挙句に、とにかく日本軍が宿営してからのことにし、水路から逃げるか、あるいは老人か子どもかのいる庶民の家まで逃げていって、その一員になるかすれば、何とか逃げおうせるかもしれない、と思いました。
凡そ夜の11時前後に、私たち3人の内の1人が、先に壁のあなから這い出して行きましたが、その後の生死は不明となりました。とっても寒く、私たち広東から来た者は綿入れは着てなくて、冷え込んでたまらず、草葺き小屋の一角で、たまたま拾った布団わた2枚を体にかけて暖を取りました。けれども、やはり心配でたまらず、眠れる訳がありません。真夜中の2時ごろかに、不意に日本兵が2人入ってきて、軍刀をさげていながら銃は持っていないところから、輜重兵(しちょうへい)と思われましたが、その2人が古い布団わた2枚抱え、私たちのいる部屋のもう一隅で、頭からそれをかぶって眠ってしまいました。これはまずい、いつ殺害されるか分からない、と私たちは見て、直ちに壁のあなから這い出し、日本軍の明かりと歩哨とを避け、三汊河の上の方へ行きました。行ったとは言え、実際は両手両足で這って行ったのですが、三汊河一帯の大きな道も小さな巷も、ただ死体が無数に血の海に倒れているばかりでした。河辺には、死体がうずたかくなり、小山に小山が連なっているようでした。川面に一面漂っている死体はと言えば、水の流れに委ねたかのように、長江へと向かって行くのでした。
手も足も気を付けて這って行くのですが、それでもしょっちゅう日本兵の警邏しているのに出くわします。すると私たちは面を伏せ、死体のうずたかい上に身を伏せビクともせずに、死人を装い、彼らをくらませてからまた這うのです。もっと惨めだったのは日本軍に半殺しになった人たちが少しいたことで、大声でわめきうめいているのが、涙を誘って止まないのでした。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
ひとりひとりの安全を
大事にする世界
また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。
日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年4月11日土曜日
反満抗日闘争
1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
4、東北人民の反満抗日闘争
日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。
馬占山(ばせんざん)と嫩江(のんこう)橋抗戦
満州事変を起こした関東軍は、遼寧(りょうねい)、吉林(きつりん)の2省をあいついで占領すると、黒龍江省(こくりゅうこうしょう)に侵攻しました。ところが嫩江橋において、黒龍江省の代理主席・馬占山が指揮する中国軍の頑強な抵抗を受けたのです。関東軍は何度か撃退された後、主力部隊と主力兵器を集中して激しい戦闘を繰り広げ、数ヶ月後にようやくチチハル市を占領しました。
抗日連軍
1935年前後、中国共産党の指導のもとで、満州の各地域の抗日武装勢力が連合して東北人民革命軍を編成しました。後に「東北抗日連軍」と改称して第1軍から第11軍まで、約3万人の兵力にまで拡大されました。
これに対して関東軍と「満州国」政府は、「治安粛正(しゅくせい)作戦」(抗日勢力を撃滅して支配を安定させようという作戦)を強力に押し進めました。抗日連軍は何度も「討伐」を受けて食糧と塩、薬品などの補給を完全に断たれ、多くの兵士たちが日本軍の討伐と攻撃のたびに犠牲になりました。犠牲があまりにも大きくなったため、抗日連軍は兵力を温存するために国境を越えてソ連領内に入り、小さくなった部隊の結集をはかりました。
1942年になると、抗日連軍の小部隊はソ連領内から満州へ戻り、日本軍の後方に深く侵入して、情報収集を行なったりして闘いを続けました。1945年8月8日にソ連が対日宣戦布告をすると、抗日連軍は満州に戻り、抗日闘争の最終的な勝利を迎えたのです。
▲楊靖宇(よう・せいう)
抗日連軍第一路軍の総指揮官、1940年戦死。日本軍がその遺体を解剖してみると、胃の中には未消化の木の皮、草の根、綿などがあっただけだった。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)群の中には熱い涙を流す者あり、大声で泣き叫ぶ者あり、不当な扱いを恨みわめく者ありで、嘆き訴える怒声が天を震わせました。私は心に思いました。17になったばかりの、こんなにも短い命で、今にも日本軍に殺害されようとしている。だけど、父母や家の人たちは私が外で殺害される様子をまだ知らないでいる。国破れて家滅びる恨めしさを私は感じましたが、同時に又人はどの道死ぬのだけれど、殺害されて死んではいまいましいとも想い、いちるの望みでもあるなら、起死回生を狙ってやろう、とも思いました。丁度その時、日本軍の親玉が私たちの殺害に刺し殺しを採用すると宣言しました。それで直ちに人の群の一番前の列から始めて、ゲートルで10人を1列につなぎ、引っ切り無しに河の水辺まで駆り立て、銃剣で刺し殺しては、河に倒れ込ますのでした。
私は最前列から10数メートルしか離れていなくて、すぐにしばられることになりそうでした。とっさに思いついて私は、人の群の一番端っこから、大急ぎで一番後ろの列まで移りましたが、日本軍が私たち全部を殺しつくそうとする時には、最後は私の番になるのでした。私は後ろの空き地にうずくまり住民のあばら家に近づきましたが、その壁は芦の柴と泥とでできた間垣で、たくさんの人に押し付けられて、家も壁も壊れ、芦の柴が丸出しになっていました。午後の4時頃までに、三汊河で囲み込まれた兵士と民衆のうちの、7割ほどがもう殺されていました。冬という季節は、昼間が短く夜の長いものですが、空には一面に黒雲が立ち込めて、天もどんより地も薄暗く、やがて日が落ちるかのようでした。日本軍はできるだけ早く殺し尽くしてしまおうと、急に残った3割の人たちを、河辺りまで駆り立て機関銃で掃射しました。ちょうどその時、私はある人が芦の柴でできた壁をほじくって穴を開けそこからもぐり抜けて逃げて行くのを見ましたが、かなりの人が草葺き小屋の屋根を腹ばいになって逃げるのもいて、よく見えてしまうので、日本軍に機関銃で射撃され、死骸が屋根から転げ落ちてくるのでした。この機に乗じて、私と他のもう2人も芦の柴の土塀をほじくり草葺き小屋の隣の一部屋にもぐりこみ、しばらく隠れていてから、機を見て又逃げて行きました。
まもなく暗くなろうという頃、河辺りに頻々と、機関銃の射撃のの音が聞こえていました。12月13日の午前9時から暗くなるまで、残忍野蛮な日本軍は、三汊河の沿岸で、わが軍と民との同胞2万人以上を殺害したのです。これはしかし、日本軍の虐殺のほんの一場面にしか過ぎないのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
ひとりひとりの安全を
大事にする世界
これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。
2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
4、東北人民の反満抗日闘争
日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。
馬占山(ばせんざん)と嫩江(のんこう)橋抗戦
満州事変を起こした関東軍は、遼寧(りょうねい)、吉林(きつりん)の2省をあいついで占領すると、黒龍江省(こくりゅうこうしょう)に侵攻しました。ところが嫩江橋において、黒龍江省の代理主席・馬占山が指揮する中国軍の頑強な抵抗を受けたのです。関東軍は何度か撃退された後、主力部隊と主力兵器を集中して激しい戦闘を繰り広げ、数ヶ月後にようやくチチハル市を占領しました。
抗日連軍
1935年前後、中国共産党の指導のもとで、満州の各地域の抗日武装勢力が連合して東北人民革命軍を編成しました。後に「東北抗日連軍」と改称して第1軍から第11軍まで、約3万人の兵力にまで拡大されました。
これに対して関東軍と「満州国」政府は、「治安粛正(しゅくせい)作戦」(抗日勢力を撃滅して支配を安定させようという作戦)を強力に押し進めました。抗日連軍は何度も「討伐」を受けて食糧と塩、薬品などの補給を完全に断たれ、多くの兵士たちが日本軍の討伐と攻撃のたびに犠牲になりました。犠牲があまりにも大きくなったため、抗日連軍は兵力を温存するために国境を越えてソ連領内に入り、小さくなった部隊の結集をはかりました。
1942年になると、抗日連軍の小部隊はソ連領内から満州へ戻り、日本軍の後方に深く侵入して、情報収集を行なったりして闘いを続けました。1945年8月8日にソ連が対日宣戦布告をすると、抗日連軍は満州に戻り、抗日闘争の最終的な勝利を迎えたのです。
▲楊靖宇(よう・せいう)
抗日連軍第一路軍の総指揮官、1940年戦死。日本軍がその遺体を解剖してみると、胃の中には未消化の木の皮、草の根、綿などがあっただけだった。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
駱中洋(男、67歳)の証言
(昨日の続き)群の中には熱い涙を流す者あり、大声で泣き叫ぶ者あり、不当な扱いを恨みわめく者ありで、嘆き訴える怒声が天を震わせました。私は心に思いました。17になったばかりの、こんなにも短い命で、今にも日本軍に殺害されようとしている。だけど、父母や家の人たちは私が外で殺害される様子をまだ知らないでいる。国破れて家滅びる恨めしさを私は感じましたが、同時に又人はどの道死ぬのだけれど、殺害されて死んではいまいましいとも想い、いちるの望みでもあるなら、起死回生を狙ってやろう、とも思いました。丁度その時、日本軍の親玉が私たちの殺害に刺し殺しを採用すると宣言しました。それで直ちに人の群の一番前の列から始めて、ゲートルで10人を1列につなぎ、引っ切り無しに河の水辺まで駆り立て、銃剣で刺し殺しては、河に倒れ込ますのでした。
私は最前列から10数メートルしか離れていなくて、すぐにしばられることになりそうでした。とっさに思いついて私は、人の群の一番端っこから、大急ぎで一番後ろの列まで移りましたが、日本軍が私たち全部を殺しつくそうとする時には、最後は私の番になるのでした。私は後ろの空き地にうずくまり住民のあばら家に近づきましたが、その壁は芦の柴と泥とでできた間垣で、たくさんの人に押し付けられて、家も壁も壊れ、芦の柴が丸出しになっていました。午後の4時頃までに、三汊河で囲み込まれた兵士と民衆のうちの、7割ほどがもう殺されていました。冬という季節は、昼間が短く夜の長いものですが、空には一面に黒雲が立ち込めて、天もどんより地も薄暗く、やがて日が落ちるかのようでした。日本軍はできるだけ早く殺し尽くしてしまおうと、急に残った3割の人たちを、河辺りまで駆り立て機関銃で掃射しました。ちょうどその時、私はある人が芦の柴でできた壁をほじくって穴を開けそこからもぐり抜けて逃げて行くのを見ましたが、かなりの人が草葺き小屋の屋根を腹ばいになって逃げるのもいて、よく見えてしまうので、日本軍に機関銃で射撃され、死骸が屋根から転げ落ちてくるのでした。この機に乗じて、私と他のもう2人も芦の柴の土塀をほじくり草葺き小屋の隣の一部屋にもぐりこみ、しばらく隠れていてから、機を見て又逃げて行きました。
まもなく暗くなろうという頃、河辺りに頻々と、機関銃の射撃のの音が聞こえていました。12月13日の午前9時から暗くなるまで、残忍野蛮な日本軍は、三汊河の沿岸で、わが軍と民との同胞2万人以上を殺害したのです。これはしかし、日本軍の虐殺のほんの一場面にしか過ぎないのです。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
ひとりひとりの安全を
大事にする世界
これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。
2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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