2009年3月6日金曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 夕暮が延びた下旬の午後、メリー・トゥワイネンと連れ立って金陵女学院から西へ城壁まで歩いてみたヴォートリンは、途中の田園地帯の畑が、9割がた放置され、耕作されていないのを観察する。畑で仕事をしている農夫を見たのは全部で6人だけだった。例年ならば麦畑や野菜畑が美しく広がる田園地帯は、雑草に覆われて荒れたままになっていた。農夫の1人は、畑で働くのは困難である、もしも日本兵が通れば、必ず何かを要求したし、作物を掘らせるだけでなく、それを彼らのところまで運ばせる、と言った。同地域で3人の女性を見たが、そのうちの2人は落穂拾いにきていた。彼女たちは自分の家に数時間帰ってくるだけで、すぐに安全区へ戻るのだと言った。女性は危険でこの地域では生活できないと農夫全員が言った。南京城内はもちろん、周囲の農村で、農民たちが農作物を生産できないでいることは、南京市民の食料不足の危機が当分続くことを意味した。
 話を5月に戻すと、国際救済委員会が決定した5月31日の安全区撤廃の日が近づくと、ヴォートリンらはその対応に迫られた。最高時は26ヶ所の難民収容所に約7万人も収容されていた難民も、その頃には6ヶ所の難民収容所に約7千人へと減少していた。金陵女学院に残っている千名余の難民について、ヴォートリンらは以下のように区分して、彼女たちのその後の生活を選択させ、自活が困難な若い女性はそのまま残留を認めることにした。
 (1)家も両親もいない若い女性ー32名、(2)家も両親も親戚もいない若い女性ー672名、(3)家がなく大変貧しい若い女性ー237名、(4)家がなく、かつ危険な地域に住んでいる若い女性ー127名、(5)家のない寡婦ー16名、(6)身障者ー7名。
 いっぽう、国際救済委員会では30歳以上の貧困な寡婦を大方巷の施設で保護し、30歳以下で、貧困な者、危険な地域に住んでいて、他に生活手段のない若い女性は金陵女学院で継続して保護収容し、同委員会から生活費を支給することを決定した。
  
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫文慶(男、77歳)の証言
 1937年には私の家は漢中門外の西路菜場40号あたりで、12月末から1938年の1月にかけて、私は日本軍が漢中門一帯で中国人をほしいままに虐殺したのをこの目で見ました。一度私が張文美という人と漢中門を歩いていたら、日本兵3人に見つかって、私たち2人は競争で走らされました。電信柱3,4本ほど走った時に、私は脚が悪くて、張さんの方が私より早かったのですが、その時日本兵が一発で張さんを撃ち殺し、張さんが両手でお腹をかかえて地に倒れ死んで行くのを私は見たのです。それから5,6日ほど過ぎたある日の午前、漢中門の城門の外で、私がこの目で見たのですが、日本兵が城内からトラックに乗せて来た2000人余りほどの難民を、降ろしてから、機関銃で掃射し、少しばかりのまだ死んでいない難民には、もう一発撃っていましたが、何人か死なずに逃げ出したのも見かけました。
 1938年1月初めのある日の午前中、私が清涼山に近い河辺の小舟で仕事をしていると、突然城壁の銃眼から弾が一発飛んで来て、船のすぐ前の水に落ち、もうちょっとで撃ち殺されるところでした。
 その又あくる日の朝、私がちょうど家を出たときに、突然どこからか又弾が一発飛んで来て、私の頭の上を飛び越し、お隣の華お婆さんの頭に当たり、華お婆さんはその場で死んでしまいました。それにもう一度、1938年の1月11日ごろに、やはり漢中門で、私は5,6人の日本兵に捕まってしまい、外にも私の知らない人々が何人もいて、日本軍がどこから捕まえてきたのか分からなかったのですが、その人たちと私とは日本兵の運び屋をやらされ、彼らがかっぱらって来た鶏や豚や野菜などを、担がせられて彼らについて行かされたのです。と同時に、その道で日本人が何人もの婦女を強姦するのを目にしたのです。
 1938年1月の終わりごろ、私は隣の謝金如が漢中門で日本兵に捕まり、その近く一帯で若いきれいな女を捜すのに道案内させられたのですが、そういう女の子が見つからなかったので、その場で銃殺されたのを見かけました。それとある日の午後、石頭城の近くで、私が便所に入っていた時に、日本軍が1人城壁の上から私を狙って撃った弾が、すぐ脇1メートルのところに落ち、もうちょっとで射殺されるところでした。この時期に、岳父が日本軍に射殺され、妻の母が死人のうずたかく積まれた中から屍を探し出して、むしろで巻いて埋めたのです。岳父が日本軍に撃ち殺された詳しい様子ははっきりは覚えていません。(呉大興と章歩錦が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



9条がゆきわたった世界

みなさんは学校で、どんな歴史を学んできましたか?
 国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行った戦争について、どのように教わってきましたか?
 多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人々に被害を与えたことについては、忘れられる事が多かったのです。
「国のためではなく人々のために歴史を教えたい」そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、一緒になって一つの歴史教材をつくりました。(日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。
 イスラエルは、60年にわたりパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
 インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合っています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
 南アフリカでは、人種隔離政策(アパルトヘイト)の中で白人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去を見つめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月5日木曜日

1938年 南京 5月以降のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月~6月初旬
 6月上旬、1人の年老いた農婦が、農村地帯からはるばるとヴォートリンに会いにやってきた。昨年末の城内の男性登録のさいに2人の息子が連行されたままなので、探し出すのを援助してほしいと言うのだった。その老農婦婦が、あの時連行された男性の中で戻ってきた者がいるかどうかを尋ねたので、ヴォートリンはそれは聞いていないし、おそらく彼らは戻ってこないだろうと答えた。この言葉を聞いた老農婦は絶望してその場に泣き崩れてしまい、「あなたが、息子たちが連行されるのを止めてくれればよかったのに」とヴォートリンを責めるのだった。
 5月になっても日本兵の蛮行は相変わらず続いていた。2日の夕方、金陵女学院の門からそれほど遠くない場所で、1人の若い女性が日本兵に拉致された。その場所はヴォートリンがちょうど15分前に通ったばかりだったので、彼女は残念でならなかった。
 9日の夜10時ごろ、三牌楼に住んでいた劉おばさん(50歳)の家に2人の兵士がやってきて、家の中に2人の嫁がいるのを見つけて、中に入れろと激しくドアをたたいた。劉おばさんが拒絶し、憲兵を呼びに行こうと外に出たところを、兵士たちは彼女の顔を銃剣で斬りつけ、さらに胸部を刺して逃亡した。重傷を負った劉おばさんはまもなくして死亡した。この話を聞いたヴォートリンは、「ほとんど毎日、私はこのような話を胸を痛めながら聞いている。人々がなんとも悲しそうにーいつまでこうした恐ろしい状態が続くのでしょうか?いつまで自分たちは耐えられるのだろうか?-と問うてくるのも当然である」と13日の日記に書いている。
 そんなヴォートリンにとっての朗報は、模範刑務所に捕らえられていた民間人の中で、元兵士でないことが証明された者の釈放がようやく可能となり、6月2日、嘆願署名を作成した婦人のうち、刑務所に夫がいることが確認された者は面会に来るようにとの連絡が入ったことである。そして翌日、30名の男性市民が模範刑務所から釈放され、妻子、家族のもとへ帰って行った。ヴォートリンは、1月から始めた釈放嘆願署名運動の成功を喜ぶと共に、結局は夫や夫婦が戻らなかった圧倒的多数の嘆願署名者の女性の失望を考えると、気持ちは複雑だった。金陵大学のスマイス教授の「南京地区における戦争被害ー1937年12月~1938年3月ー都市及び農村調査」では、拉致されたまま戻らず、殺害された可能性の大きい南京城内の市民は、約4200人と算出している。

 
   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

趙玉英の証言
 日本軍が南京を占領した時、家は鳳凰東街でした。日本軍が南京人民にやったとてつもない犯罪行為を、私はこの目で見ました。日本軍が冬月の11日に入って来てから、家が日本兵に焼かれてしまったので、私たちは地下の洞窟に住むしかありませんでした。日本軍が南京を占領してから、何日かして難民区で捕まえてきた人たちを、漢中門の城門の所に連行して来て、機関銃で4時間以上も掃射した時、叫び声が天地を揺るがし、屍が地を覆いました。夏という人が土手を歩いていて、日本兵に一発で撃ち殺されたのを、この目で見たのです。その頃、私には1人いつも抱いている子どもがいて、病気をして治らず、泣き声が絶え間ないので、みんなが日本軍に聞きつけられるのを恐れて、息子を捨てさせようとしたのですが、私はあくまで頑張ってやっとこさで子どもに死を免れさせたのでした。
 ある日、私の家でご飯をお鍋で炊いて食べないでいたのですが、日本軍がその鍋に小便をした上、なおもわが家から何十円かを探し出し持って行ってしまいました。しょっちゅう婦女が日本軍に引きずられて行き、恐ろしくて私たちあっちこっちに隠れました。そのほか、私は日本軍が漢中門外で、40何人かを活きたままガソリンで焼き殺すのもこの目で見ました。それに学生が何人か殺されてから、醤油のかめに投げ込まれたのです。(陳詩国が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


 大事にする世界


 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月4日水曜日

1938年 南京 5月のヴォートリンの日記

この国の危うさ
・南京大虐殺の教科書記述が後退していること。
・戦争の反省を十分しないこと。あの戦争を美化する動きを規制しないこと。
・昭和天皇の戦争責任を棚上げにしていること。小澤代表を調べる前に昭和天皇の戦争責任について、東京地検は調べたらどうか?(聖域がないというのであれば!)
・日の丸・君が代を教育現場で強制していること。
・国防費に多額の予算を計上し、自衛隊を強化していること。海外にも積極的に自衛隊を派遣していること。ロケット開発にも熱心だ。今度は自衛隊員が宇宙飛行士になると言う。何か裏で動いているものはないか?
・クリーンエネルギーとして原子力発電を勧めていること。テレビでよく宣伝している。CO2を出さないとかで!核廃棄物はどうするんだ?自然に優しい風力とかではなく何で原爆が2つも落ちて核アレルギーになっている日本が原発の技術は世界最高レベルなのか?



「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
1938年5月
 5月になると、南京の中国人にも比較的離れた地方との往来が可能になり、それに伴って、南京周辺地域で発生していた悲惨な被害の様相がヴォートリンにも伝えられるようななった。
 胡という男は、津浦線の沿線の40キロ以内の地域はほとんど破壊され、彼の家も破壊されて家族はみな離散してしまったと語り、若い妻と子どもがどこにいるかもわからず、心配でならないと嘆いていた。
 杜という使用人は、徐州の北西45キロにある実家を破壊され、義母は日本兵に首を斬りおとされて殺害され、妻と子どもと実母はどこかに逃げているはずだ、と何度も泣きながら悲劇を語った。
 また、この頃になると、日本軍の南京占領以前に家族のうち婦女子だけで近郊農村に避難して行った人たちが大勢南京に戻ってくるようになった。これらの家族には新たな悲劇が待ち受けていた。
 常婆さんは、娘とともにヴォートリンを訪れ、こう語った。彼女の53歳の息子は何年も結核を患っていて、妻も子どももいる。常婆さんのもう1人の33歳の息子が精米所で働き、月50元の賃金を得ていた。彼にも妻と4人の子どもがいる。9人の常家族がこの33歳の息子1人の稼ぎに頼って生活していた。この息子だけが仕事のために南京に残り、他の8人は長江北へ避難して数ヶ月を過ごした。持参したものをすべて使い尽くして南京に戻ってきたら、この息子が日本兵に殺害されていたのである。一家の生活を支えていた息子が殺害されてしまい、常家族の8人は、明日の糊口をしのぐのにも窮しているというのである。
 70歳の老人が9歳の孫を連れて、ヴォートリンを訪れ、こう語った。彼には30歳の盲目の嫁と3人の孫がいる。この老人の33歳の息子は、洋服屋で働いて月16元を稼いで5人の家族を養っていたが、12月13日に拉致され、消息不明のままであるというのである。
 下旬のある日、以前金陵女学院の難民収容所にいた婦人が、6歳の子どもを連れて、援助を求めてきた。その子どもは重い病気にかかっているのだが、病院に連れて行く金が無いのである。彼女には6人の子どもがいるが、夫は前年の12月に日本軍に連行されたままだった。「彼女はもしも夫が戻らなければ、どうして生活していったらいいのかわからないでいる。しかも夫は戻ることはないのだ」とヴォートリンは日記に記している。

   
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

仲兆貴(男、73歳)と劉順和(男、57歳)の証言(1994年収録)
日本軍が南京を占領した時、私たち2人の家はニ道挭子で、漢中門のすぐ近くでした。1937年の12月15日の午後、日本軍が漢中門外で、2000人ぐらいをいくつかの集団に分けて機関銃で虐殺し、掃射してから又ガソリンで焼き殺しました。撃ち殺されなかった者は、銃殺され銃剣で突っつき殺されました。これは私たちが見たことなんです。(徐歩鰲と劉亜儀が記録)


徐歩鰲(男、66歳)の証言
 中国侵略日本軍が南京を占領した後、私は漢中門のすぐ近く、ニ道挭子の囲いの中に住んでいました。12月15日の午後、日本兵が漢中門外で中国人を機関銃で虐殺したのですが、暗くなるまでずうっとで、みんなで何千人も殺しました。後で又ガソリンをかけて、火をつけて焼いたり、死んでないのは又銃で撃ち殺したりしたのです。
 その他にも、ある日(詳しくは覚えていませんが)の晩、日本軍が捕まえてきた中国人を車で金華醤油廠まで引っ張ってきて、大きな保温用の「醤油池」の中で50人余りを殺し、中に漬け込んだのでした。ずうっとたってから、大きな鈎(かぎ)で醤油池から引き上げて、工場の中(今の木材工場の宿舎のところ)に埋めたのです。(劉亜儀が記録)


 
 「Imagine9」【合同出版】より



ひとりひとりの安全を


 大事にする世界


これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
 緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
 武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。

 2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月3日火曜日

1938年 南京 4月のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
 春たけなわとなり、南京城の内外に散乱する死体の腐乱が激しく、病気の流行の原因ともなりかねなかったので、慈善団体を総動員しての埋葬作業が急ピッチで進められた。死体埋葬の状況について、ヴォートリンの日記は以下のように記している。

 2日ー今日、紅卍字会だけで、1月23日から3月19日までに32,104体の死体を埋葬し、そのうち3分の1は民間人の死体であったという報告が作成された。

 6日ー国際救済委員会は救済事業を推進している。200人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。とくに農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。

 15日ー紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた。ー彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになった時から、すなわち1月の中旬ごろから4月14日まで、紅卍字会は城内において1793体の死体を埋葬した。そのうち約80パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に39589体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約25パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちが極めてむごい殺害があったことを知っている下関、三汊河の地域は含まれていない。
 
 22日ー金陵大学の馬文煥(音訳)博士が訪ねてきた。彼と彼の家族は、およそ5ヶ月にわたって農村地域で避難生活を送ったが、強姦、殺害、放火、略奪が同地ですべて行われた。くわえて地方の警官が逃げた後では匪賊に苦しめられるというつらい、悲痛な体験をした。(中略)彼は、長江河岸に沿って膨大な数の死体が埋葬されない恐ろしい状態で現在も放置されたままであり、今でも多くの死体が長江を漂って流れていると、確証に基づく話をした。
 模範刑務所に捕らえられている民間人を、その家族を明らかにすることで、元兵士ではないことが証明できれば、釈放させられるのではないか、そう考えたヴォートリンはあらゆる可能な方法を追求した。ドイツ大使館のローゼン書記官には日本大使館へ働きかけてくれるように要請し、許伝音博士には上海の日本軍上級機関に請願書を送付してもらい、南京市政公署の仕事をしている信頼できる中国人には、同公署の幹部が民間人の釈放のために動いてくれるよう懇願する手紙を書いたりした。
 そんなヴォートリンを、神戸のミッションスクールを卒業し、妻がクリスチャンだという日本兵が日曜の兵営休日の日に訪れた。2人は今度の戦争が日本と中国の双方の民族をいかに傷つけ、互いの憎しみを増大させているかについて真剣に語り合った。彼は中国も日本も互いを理解していないから戦争になったと思っていたが、それは間違いで、日本のほうが誤っていることがわかったと言った。その日本兵が、最近模範刑務所の警備の任につくことになったので、入獄者の名簿と、ヴォートリンの集めた女性の嘆願書にある男性の名前とを照合して、一致する何人かの名前を教えてくれた。ヴォートリンは探している名前が判明したそれらの婦人をつれて、刑務所に面会に行かせることを考えた。


  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

孟憲梅(女、53歳)の証言
 1937年12月に、私は父の孟兆才と漢中門外の大街に難を逃れていましたが、その頃日本軍にやられないようにと、父は私のために頭を剃ってくれました。
 私は壷を持って細い流れに水を汲みに行った時に、日本軍がトラックでラオパーイシン(老百姓=まったくの庶民、ごく普通の人たち)を何台も何台も今の漢中門の新橋の橋の下に連行するのをこの眼で見ました。その頃は、そこは荒れ地でした。日本軍は捕まえて来た人を、みんな機銃掃射して殺しました。それを見てからは、とても恐くて、それに堪えられなくて、日本軍ってなんて残忍なんだろうと思いました。家に帰って父に話しましたら、父に「お前、日本軍に殺されるんが恐くないんかや」と怒鳴られました。(高潮と何学珍が記録)
 
 「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。

 いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
 「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
 そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月2日月曜日

1938年 南京 4月のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
 9日には、中華門の城外南方の農村地域の婦人たちが、次々と嘆願署名にやってきて、悲しい顔で彼女たちの悲劇を語っていた。同地域では、農家が焼かれ、水牛が日本軍の食肉用に殺害され、そのうえ一家の大黒柱の男性を殺害されてしまったため、村に帰っても農業をいとなむことはできないでいる。わずかに作物を作り始めた農夫がいるが、日本兵がやってきて、作物を盗むし、脅迫をするしで、とても危険だという。
 その日の午後、大変美しい若い婦人が3人の子どもをつれて嘆願署名に訪れ、夫が拉致されて不明のまま、助けてくれる人もいないと悲しそうに話していった。この日で署名者は1035名になった。その数字の1つ1つに夫や息子を失った女性の悲劇がこめられている。数日後には、3ヶ月前に3人の息子を拉致されたという初老の母親が、ヴォートリンたちに会えば、何とかして息子たちを帰してもらえる方法を知っているのではないだろうかと訪ねてきた。
 このころになると、日本軍の南京攻略を前にして周辺の農村に避難していた婦人や娘たちが5,6ヶ月ぶりに城内に戻ってくるようになった。しかし、帰ってはきたものの、自分の家は焼かれ、あるいは破壊されている人たちがほとんどで、多くが路頭に迷い、金陵女学院の難民キャンプに収容してほしいとやってきた。ヴォートリンにとってつらかったのは、南京国際救済委員会はすでに5月31日をもって安全区の難民キャンプをすべて撤去することを決定しており、新たな難民を受け入れないように申し合わせていたことである。それでも、ヴォートリンは、日本兵に凌辱される危険のある若い娘たちは収容してやろうと考えていた。
 生命の保護も含む救済を求めて大勢の女性が金陵女学院にやってきた。これ以上保護・収容ができないと告げられても、キャンパスを去ることができず、何度も立ち止まっては、恨めしげに、悲しそうにふりかえる女性たちを見ると、ヴォートリンは胸を締めつけられる思いがした。「私たちの力量、忍耐、資金のどれもが限られている。私たちにはできることしかできない」と12日の日記に記す。

 
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺
湯正有(男、82歳)の証言
 1937年の冬には、私の家は鼓楼三条巷1号でした。日本軍が南京を占領して間もないある日、突然日本軍の車が1台やってきて、日本兵が数人車から飛び降り、我が家のあたりから青壮年を3,40人捕まえて行ったのですが、私もその1人にされました。車に乗せられ、漢中門の外の河べりに着いた所で、降ろされ、河の真ん中まで引っ立てられて行きました。冬だったので、河の水はあまり多くはありませんでした。両岸に日本兵が何十人も銃を水平に構えて立っているのが見えるだけで、私たちはその中に挟まれているのでした。河に立たされていた中国の同胞は少なくとも4,5百人はいました。しばらくして日本兵の笛の音が響いて、機関銃がうなり始め、世にも凄惨な大虐殺が始まって、身に寸鉄も帯びていない普通の平民が悲惨にも血の海の中に倒れ、叫び声とうなり声と怒りののしる声とが、あたり一面にぐあんと響き渡りました。けれども私は倒れた人の群につまずいて倒れ、幸いにも機関銃には当たりませんでした。日本兵が行ってしまってから、体を動かしてみたところ、まだ活きているとわかりましたが、からだ中が死んだ同胞の血で真っ赤に染まり、、泥だらけでした。私は腹を据えて、死んだ同胞の屍(しかばね)の中から這い出し、辺りを見回して、迅速に殺人現場を離れました。漢中門、龍蟠里、清涼山と沿って行き、びくびくしながら、日本兵に取り調べられないように隠れ隠れして、夕方ごろに、ようやく自分の家に帰り着きました。その時、私はもうへとへとで、あの世で活きているかのようでした。あの時の日本軍が人殺しをしたむごさと私自身のこの九死に一生を得た体験とを振り返ると、今でもまだはっきり記憶していますし、永遠に忘れることはできません。(廖美慶が記録)
  
「Imagine9」【合同出版】より



戦争にそなえるより

戦争をふせぐ世界


「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
 紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。

 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月1日日曜日

1938年 南京 4月のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著/笠原解説:大月書店)より
うちつづく悲劇ー南京安全区解消までの日記からー
 1938年3月28日の中華民国維新政府の成立以降、南京の秩序も表面的には回復し、日本軍の残虐行為もずっと少なくなったので、南京大虐殺事件、略称としての南京事件は一応この時期に終焉したと考えることができる。しかしその後も、南京における日本軍の残虐行為はあとをたたなかったし、ヴォートリンが南京事件が女性に与えた悲劇の深刻さを改めて知らされるのも、その後のことであった。そこで、彼女のその後の日記を紹介しながら、南京事件のその後の日々をたどってみよう。

1938年4月
 国立中央大学の付近にある模範刑務所に元兵士の嫌疑を受けて多くの民間人が入獄しているという情報をもとに、ヴォートリンの救出活動は粘り強く続けられた。南京市政府公署の顧問をつとめる許伝音博士から、収容されている民間人の釈放を求めるには新たな形式の嘆願書と名簿の提出が必要であるといわれたヴォートリンは、4日間をかけて新しい書類を作成させる。「男性の釈放が、たとえそれが10人だけであろうとも、あるいはたった1人だけであっても実現すれば、私たちの努力は報われるのだ」とヴォートリンは1日の日記に書いている。
 夫や息子を拉致された女性たちが、同刑務所からの釈放嘆願書に名前を書けば、行方不明のままの夫や息子が戻されるのではないかという一抹の望みを託して、新たな形式で開始された嘆願の署名に、一日に数百人の割合で女性が金陵女子文理学院を訪ねてくる。夫や息子が生きて戻ってくる可能性がほとんどないに等しくても、それでも疲れを忘れて、あらゆる手段を尽くし、必死に探し続ける女性たちを目の前にして、「彼女たちの傷ついた心を知るのは、何と悲しいことか。涙がこみ上げてきそうになる。私たちはこの嘆願に対してあまり期待を持たせないようにしている」と4日の日記に書いている。
 6日の日までに、935名の釈放嘆願署名が集まったが、そのうち模範刑務所に収容されているのを確認できているのは10人に過ぎなかった。嘆願書の受付時にスタッフが調査した結果では、上記の嘆願者総数のうち、241名の女性が、一家の働き手の男性を失って収入もなく、何人かの子どもと老人を抱えたままで絶望的な生活状況にあることが判明した。


今日から新たに南京大虐殺の生存者の証言を載せていきます。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺
伍長徳(男、76歳)の証言
1937年12月に、日本軍が南京に接近していた時、家の者たち(父、母、妻、息子)は蘇北へ疎開し、私だけが南京に留まり留守番していました。その時私は南京で警察官をしていました。日本軍が南京を占領してから、人を見れば殺したので、人口100万だった南京はほとんど空っぽの町になってしまいました。私は国際委員会の「保護」を受けている司法院の難民区に避難しました。
 12月15日の午前8時ごろ、突然日本兵が十数人やって来て、銃剣で青壮年の男子をみんな外へ追い立て、道路に集められたのが全部で2000人以上でした。11時ごろに、私たちみんな列になって連れて行かれたのですが、首都映画館(今の勝利電影院)の前まで来たときに、後ろからトラックが何台かやってきて、日本兵と機関銃とを運んで来、このトラック数台が先頭になって、首都映画館からまた出発しました。午後1時に漢中門まで来ると、私たち2000人余りを城門の内側に停まらせ、座れと命令しました。次に日本兵2人が、端と端とを持った長い綱で、座っている群れから100人ほどを囲い出し、その周りを大勢の日本兵が取り囲んで、漢中門の外へ連れて行き、機関銃で掃射しました。こうゆう風にして、捕まえられて来た人たちが、100人、200人と、綱で囲い込まれ、次々に漢中門の外へ連れ出され銃殺されていくのを、私はこの目で見たのです。たまたま神経障害で、体の動かない人がいたのですが、その人もその場で殺されました。午後5時過ぎになって、私自身も囲い出されてしまい、日本兵が私たちを城壁の外側をめぐる河辺に連れて行き、土手の斜面の下まで追い立てました。土手の両側に、機関銃が2台据えられていましたが、よく見ると、目の前にごろごろしているのがみんな死体の倒れ伏しているのでした。慌てた私は、思わず前のめりに23歩つんのめって、どさんと、死体の山の上に倒れこんでしまいました。ちょうど私が倒れたと同時に、銃声が響き、人々が次々に倒れて来て、私は他の人の死体の下に埋まってしまいました。機関銃の射撃の音がしなくなると、すぐ又小銃の音が響きました。小銃の音がしなくなったと思ったら、死体のうずたかくなった上を人が歩いているような感じがしてきました。私は河岸の方に向いて頭を抱え込むようにして突っ伏していたので、背中の上の死体を通して、その上を歩く人の圧力を感じたのでした。その時不意に、背中に一太刀見舞われたのが、焼け付くように痛かったです。日本兵が死体の上でまだ息の絶えていない人を刀で刺し殺したので、その刀の突ッ先が私の背中の上の人の体を突き抜けて、私の身体まで突き刺したのです。この後で又私は2度機関銃の音が響くのを聞いたのですが、2回にわたってみんなを虐殺したのです。それから日本軍は火をつけて死体を焼いたので、私は猛烈な煙と火とに堪えられなく、耐え切れなくなり、真っ暗なのに乗じて、危険を冒し、痛みを堪えて秦淮河に跳びこんだのですが、幸いなことに河は水が多くなく、後で又そうっと南の方に這っていって、水西門のところで這い上がり、瓦廠街9号あたりのある家の台所に隠れたのですが、丁度よくわらがつんであったので、そこにぶっ倒れてこんこんと眠りこんだのでした。そこで初め10日ほど過ごしてから、いつまでも隠れているわけにはいかないと思い、かまどの灰を顔に塗りたくって、物乞いのかっこうをし、やっとのことで難民区に逃げ戻ったのですが、それから鼓楼病院へ送られ50日余り入院して、ようやく刀の傷が治ったのです。今でも背中に長さ5寸余りほどの傷痕ががあるのです。
 1946年5月に、極東国際軍事法廷で戦犯を裁いた時に、私は証人の1人として、東京へ行き出廷して証言し、自ら被害を受けた経過とこの目で見た事実とをもって、日本の侵略軍の狂暴な行為を告発したのです。(朱文英と汪道明が記録)
  
「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが

平和をつくる世界


ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月28日土曜日

1938年 南京 その後のヴォートリンの日記

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月28日 月曜日
 うららかな天気が続いている。避難民たちは、日なたにぶらぶらと出て行くのが大好きだ。いたるところで「芝地」が濃くなりつつある。庭師は、折れたり踏みつけられたりした潅木を引き抜き、そのあとによりましな木を植えている。文科棟の屋根の修理が行われている。
 唐老板は、避難民の居住に伴う被害を見積もることに昼間の時間を費やした。その額は、6棟分で概算6800ドルにのぼる。木造部と床板はすべて修理が必要だ。ほとんどすべての壁面の仕上げ直しが必要である。窓の締め具のような金具類は、それがうまく機能しない場合には乱暴に扱われていた。
 ニューヨークに送る報告書の作成に昼間の時間の大部分を費やし、5時にそれを大使館に届けた。日本軍による被害の報告も作成した。ほかの人たちの被害が、私たちの被害と同程度に軽微であればよいのだが。
 午前中メリーは、ひどい風邪としつこい咳で病院へ行った。ブランチ呉が18日間の入院から帰ってきた。彼女は理科棟の実験室で生活すると言い張っており、私としては、それに反対したくてもどうすることもできない。
 午後1時30分、キャンパスの状況視察に将校1名と兵士2名が来訪した。彼らは避難民の人数についても尋ねた。私はいまだに帰ってこない夫や息子たちのことについて彼らと話し合うよい機会を得た。将校が言うには、模範刑務所には1000人以上の捕虜がいるが、彼らは兵士と将校であるとのこと。彼の情報によれば、民間人はいないというのだ。
 午後3時ごろ4人の兵士が見学にやってきた。彼らは友好的で、図書館に深い関心を示した。一番陽気な兵士は手に地図を持っていた。どうやら、南京見物をするつもりらしかった。
 兵士と民間人の死体の埋葬を担当していた紅卍字会の作業員の1人の情報によれば、死体は、それらが投棄された長江から運ばれてきたものだそうだ。彼は、死体数についての情報を提供することを約束してくれた。


3月15日 火曜日
 今日は昨日よりも暖かく、日差しが明るい。飛行機が頻繁に飛んで行く。城内に新しい部隊が入っているそうだが、だからと言って、私たちの平和が増進されるわけではない。・・・・・

 悲劇的事件の1つー18回ないし19回も強姦された女性(48歳)と、2回強姦された彼女の母親(76歳)-を写真に収めるため、11時30分、J,M(ジョン・マギーのこと。検閲される可能性を恐れてイニシャルだけにしたと考えられる)と一緒に城南へ行った。この話は、冷酷非情な心をもってしてもとうてい信じられない。南の各門に通じる街路のいくつかは、いまでもほとんど人通りがなく、人が通っている街路でも女性はお年寄り以外はほとんど見かけない。莫愁路は、全体が活気に溢れた市場だ。商売がさかんに行われている。誰かが言っていたが、10人のうち8人までが商売に携わっているそうだ。それ以外にはすることがないからだという。街路に大勢の人々が集まるのは、1つには、大勢集まっているほうが安心感がもてるからだと思う。女性にとっての危険は、確かに少なくなっているが、しかし、略奪は依然として続いている。残念なことに、まとまったお金のある商人の家に中国人が頻繁に兵士を連れて行くのだ。銃や銃剣を持っているのだから、お金を渡さないのは無分別ということになる。
 避難民の再登録がついさっき行われたところだ。現在、避難民は3310人だ。14人の避難民が新たに収容された。去年の晩秋の頃農村地域へ避難した女性たちだ。お金は使い果たしてしまったし、匪賊は横行しているし、と言うわけで彼女たちは、復路の旅と南京(での生活)に伴う危険にあえて向き合うことにしたのだ。おそらく、彼女たちは、安全区のことや難民収容所のことを聞いたのだろう。
 今朝城南で大勢の兵士ー騎兵や歩兵ーを見かけた。彼らが我が物顔に通りを闊歩するのを見ると、私は、心の隅々まで本当に反発を覚える。私たちが通り過ぎた大通りの商店の大部分は全焼するか、徹底的な略奪をこうむるか、そうでなければ閉鎖されていた。日本人がチョコレート店を再開したものの、商売本来の趣は見られなかった。
 今日は2つのグループの兵士が来訪した。
 このページを書き終える頃、北西方向から句容へ帰還する爆撃機数機の爆音が聞こえる。澄み渡った月夜で、飛行の妨げとなるものは何もない。

「この事実を・・・・・」(章開沅/編  加藤実/訳)より
5月13日 金曜日
 午前中ーというより、その残った時間をー費やして、この秋の学期の初級中学と高級中学のカリキュラムを仕上げようとしている。
 典型的な事例が2つ、今日午前中オフィスにやってきたー江老太と娘さんが来訪した。その物語ー53歳の息子がいて、何年も肺結核を患っている。その息子に、妻と息子がいる。もう1人33歳の息子がいて、稲の脱穀場で機械を動かして、月に40ドル稼いでいた。この息子に、妻と3歳から10歳の子ども4人とがいる。9人全部が、この33歳の息子に頼っていた。家族のうち8人が去年の秋、長江の北へ避難し持ってたものをすっかり使い果たした。33歳の息子が、日本兵に殺された。

 その後ある人が、劉老太の物語を私に聞かせにきたー50歳くらいの婦女で、三碑楼の近くに住んでいる。息子が3人と嫁が2人いる。4日前に、兵士が2人午後10時ごろやってきて、戸を押しても開かないので、無理やり窓から入り込んだら、劉老太の部屋だった。嫁を出せと要求し、彼女が拒否して憲兵を探しに行こうとしたので、顔を2ヶ所切りつけ、心臓を1ヶ所刺した。彼女はその傷で死んだ。
 この2つの悲劇は、今日私が聞いたものだ。ほとんど毎日私は、こういう心張り裂ける話を聞いている。誰だって心痛んで尋ねずにはいられない、「どれくらいこの恐ろしい状態が続くんだろう?どうやったら耐えられるんだろう?」
  
「Imagine9」【合同出版】より



女性たちが

平和をつくる世界


戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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