「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月25日
外交部に設けられた病院で働く中国人の男女2人の看護人が、マギーに連れられて本部にやってきた。病院で働いていた苦力が一人、日本兵に刺し殺されたのだ。我々は詳しい事情を聞き、極秘文書に記録した。それと同時に、どうやらひどい状態らしい軍政部の病院について、何人かに報告してもらうことにした。
我々が届けを出さなかった事件の一つにこういうのがある。ある中国人が日本人のために一日中働き、お金の代わりに米をもらった。疲れきって家族と共に食卓に着くと、テーブルには妻が今さっき置いたばかりの鉢がのっており、おかゆが少し入っていた。これが一家6人の夕食だった。そこへ通りかかった日本兵が面白がってその鉢に放尿し、笑いながら立ち去った。彼は何の罰も受けずに済んでしまった。
この話を聞いた時、『奴隷となるよりは死を』というリーリエンクローンの詩が思い浮かんだ。だが中国人たちにあの自由人、リーリエンクローンのまねをしろといったところでどだい無理な話だ。これでもかとばかりに踏みつけにされ、中国人はもう長いことひたすら苛酷な運命に甘んじてきたのだ。前にも言ったように、これなどほとんど気にも留められないほどの小さな出来事なのだ。もし、強姦した人間が残らず仕返しに殴り殺されたら、進駐軍の部隊は多くはすでに全滅していることだろう。
ドイツ大使館を通じて、たった今妻のドーラから手紙を受け取った。「今ならすぐに休暇でドイツへ帰れます。今逃げ出さないと、あと5年、待つことになりますよ」。まあ、そこまでひどくなることはもうないと思うが。
3月1日までここに残ってもいいと会社が言ってくれるかどうか、とりあえず待つことにしよう。最もその時になってもまだ片付いていないかもしれないが。私としては、休暇は歓迎だ。実際のところ、今中国にはいいかげん嫌気がさしている。けれど、だからと言って逃げ出すわけにはいかないのだ!
22時10分
ラジオ上海によると、クレーガーが日曜日の晩、1月23日に、屋根のない列車に12時間揺られた末、無事に上海に到着したそうだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月25日 火曜日
私たちは、新しい状況に順応している。しばらくの間はすべての窓のカーテンをきちんと閉め、明かりにはすべて黒い覆いをかぶせていた。今では、人が住んでいることを示すためにむしろ明かりを点けておくほうが賢明だと考えている。
昨夜、使用人2人が、愚かなことに、窓を全部閉め切った部屋で豆炭ストーブを使用したところ、今朝、2人は一酸化炭素中毒で意識不明に陥っていた。程先生、私、そのほかここにいる者みんなで2人の意識を呼び戻そうと努力した結果、夜にはかなりよくなった。
9時から12時30分まで寧海路5号で難民収容所の所長会議が行われた。私たちが建設的に活動できるように各収容所の本部に、さまざまな必要事項について調査する経験豊かなソーシャルワーカーがいてくれたらよいのだが。各家庭の実態を把握するのは難しく、そして、自立心ではなく依存心を避難民に持たせるのは簡単だ。現在、それぞれの収容所は極貧家庭の調査に取り組んでいる。資金が増額されたとか、肝油のような薬が余分に入手できるといったような、元気の出る知らせが上海から届いた。
長老派教会の奉仕者である呉愛徳は、感謝と明るい気持ちを持ってこのキャンパスで生活している避難民であるが、20人の少女を対象に、今朝発音教室を開設した。彼女は、午後の集会の手伝いもしている。もっと大勢の奉仕者と空き教室があれば聖書研究会を始めることができるのだが。
午後、532人のデータカード用紙を福田氏の所へ持参し、アメリカ大使館にもそのことを報告した。また、「傀儡政府」-陳さんが南京自治政府につけた名称だがーの当局者のところにも行き、盗品を売る店を安全区から締め出せないかどうか打診した。寧海路や上海路の沿道に何百という小さな店がにわかに出現しているのは、貧窮者たちによる略奪が毎日増えていることを意味する。日本兵が率先して略奪をしなかったら、彼らはあえて店開きはしなかっただろう。
私たちは、外国人から毎日寄せられる少しばかりの情報をどれほど貪り読んでいるかしれない。
彼らは、放送内容を労を惜しまずに書きとめて送ってくれる。漢口、武昌、長沙、重慶に避難した友人たちはどうしているのだろうか。放送によると、重慶も空襲されているようだ。友人たちの離散、学校の閉鎖、生命と財産のすさまじい破壊など、すべてがぞっとする悪夢のように思われる。いったい本当なのだろうか。
人力車はどうしたのだろうか。12月12日ーたしか、この日だったと思うがー以来、通りで人力車を見かけたことがない。タイヤや車輪を取り外した人力車がたくさん隠されていたのは知っているが、通りを往来する人力車は見かけない。私たちは歩くか、さもなければ車で出かけている。
午後、程先生と一緒にグレイス朱の家へ行った。といっても、お茶を飲みに行ったわけではない。彼女の家は難民でいっぱいだ。家の中の状態は想像を絶する。程先生は、ラジオや食器類などわずかに残っていた物をいくつか持ち帰った。朱さんの所有物は、その一部を兵士たちが、あとの残りを難民たちが持ち去り、ほとんど全部なくなっていた。
「Imagine9」解説【合同出版】より
ひとりひとりの安全を
大事にする世界
これまで多くの人々は、平和とは「国を守ること」と考え、国を守るためという目的で大きな軍隊がつくられ、国の中での争いが放置されてきました。しかし近年では、「国家の安全」だけではなく「人間の安全」という考え方を大切にしようという事が、世界的に言われ始めました。
緒方貞子・元国連難民高等弁務官などが中心となった国際専門家委員会が、2003年に「今こそ"人間の安全保障”を」という報告書を発表し、国連に提出しました。そこには、「国どうしが国境を越えて相互依存を深めていく中、国家ではなく人々を中心とした安全保障の考え方が今こそ必要である」という事が述べられています。
武力紛争下の人々、国境を越えて移動する移住労働者たち、国内外に逃れる難民たち、極度の貧困、HIV(エイズ)などの感染症との戦い、女性の性と生殖に関する健康といった問題は、「国家の安全」だけを考えていたら見落とされてしまいがちな、しかも深刻な「人間の安全」に関わる問題です。
2005年の国連世界サミットでは、「人間の安全保障」という言葉が初めて最終文書に盛り込まれました。じつは、これを推進したのは日本政府でした。「人間の安全保障」という考え方は、「武力によらずに平和をつくる」という憲法9条の考え方と通じ合うものがあります。私たちは、こうした考え方をもっと世界の中で広めていく必要があるでしょう。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
731を問う!!
2009年1月25日日曜日
2009年1月24日土曜日
1938年 南京 1月24日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月24日
高上校のボーイが突然やってきた。何も食べるものがないというので5ドルやった。主人の高上校漢口へ逃げてしまったという。
委員会はキリスト教評議会を介してジーメンス洋行中国本社に打電し、3月1日まで私をここにおいてくれるよう、頼んでみるという。だから、上海行きの旅券を申請するのは当分の間差し控えることにした。・・・・・・・・
・・・・・・・・・その気になれば、盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられるだろう。なんせ闇で二束三文で売られているのだから。今高いのは食料品だけだ。例えばニワトリ一羽が二ドルもする。ということは明時代の花瓶きっかり二個分だ。
今日また高玉が本部へやってきた。中国語のできる警察の高級将校が一緒だ。高玉は、大学の難民収容所で若い娘を手に入れようとしているところをベイツに見つかってしまった。だから、収容所で「洗濯や料理をする人」を捜していたのだ、といいにきたという訳だ。「洗濯や料理をする人」だと?いったい誰がそんなたわごとを信じると思っているんだ。中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。つまり、この男は名誉回復をしようというのだ。
スマイスは一部始終しっかり書きとめた。「さっそく、各国の大使館に報告しましょう」。高玉がますますご機嫌ななめになったのはいうまでもない。奴さん、当てが外れてすごすごと帰っていった。ただ、「そんなつまらんことで大使館を煩わせるものではありませんぞ!」と、いやに力を込めて付け加えるのだけは忘れなかった。本部にいた連中はみな、いい気味だと言って喜んだ。
マギーは書状一通と日本の銃剣一丁を私の机の上に置いた。それには、中国人女性を銃剣で脅していたところへ、委員会のメンバーが三人、ふいに姿を現したため、その日本兵はあわてて武器をとりおとし、そのまま逃げたとあった。目撃者がアメリカ人だったので、スマイスが勇んでアメリカ大使館に報告した。アリソン書記官が日本大使館への報告役を肩代わりしてくれたので、感謝している。アリソン氏はあっけにとられ、不思議だ、びっくりした、を連発した。そこで、ローゼンは早速「不思議に国のアリソン」と命名した。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月24日 月曜日
今朝非公式の報告書をタイプし始めてからほどなく、フォスター氏がどっさり情報を持って現れた。彼は、先週の土曜日の晩に大使館で起こった出来事を話してくれた。
アリソン氏たちがジョージ・フィッチとP.ミルズを招いて夕食をとっていると、使用人の一人が、三号車庫に兵士が2人いると知らせてきた。アリソン氏が車庫に行ってみると、2人はマージャンをしていた。彼は2人に、出て行くように言った。あとで彼は、いささかきつく言いすぎたような気がして、果たして適切な処置だったろうかと考えながらテーブルに戻ってきた。アリソン氏が席に着くか着かないうちに、今度は別の使用人がやってきて、彼の娘が拉致されたことを知らせた。この一家は五号車庫で生活していた。アリソン氏は今しがた二人の兵士に、敷地内から出て行くように言ったばかりだったので、使用人がきっとその2人と取り違えているのだ、と言ったが、使用人は、それとは別の兵士で、初めのうちは彼の末の娘を要求したが、彼ら両親が断固拒否したのだ、と言った。そのあとアリソン氏は娘を捜しに飛び出して行き、当の娘が戻ってくるところに出くわした。どうやら、少女を連れ出した兵士に先の2人の兵士が出会い、アメリカ大使館にいた少女だから帰してやれ、と言ったらしい。私はどんな人も傷つけたいとは思わないが、それでもやはり、クアト・ヒューゼッケン卿射撃事件(1)、パナイ号爆撃事件、イタリア高官傷害事件、アメリカ高官傷害事件、アメリカ大使館からの少女拉致事件が発生したことを喜んでいる。少なくとも、このような事件があれば、日本や欧米諸国の国民の注目が集まるからだ。
引き続き午後の集会は行われている。
昼食のすぐ後アメリカ大使館に行き、車で日本大使館まで送ってもらった。福田氏との会話のなかで私は、大勢の女性が夫や息子を取り戻すために私に助力してほしいと懇願していることを訴えた。彼らの中には、12月13日に連れ去られた者もいる。福田氏は、データを持ってきてくれれば、出来るだけのことはしよう、と言ってくれた。と言うのは、彼も、そうした事態に悲しみを覚えたからである。明日532枚のデータカードを渡したら、彼はびっくりすることだろう。
大使館に行くつもりで校門を出ようとしたら、一人の少女が近づいてきて、今しがた3人の兵士が彼女の家に押し入り、少女たちを連れて行こうとしている、と訴えた。彼女と一緒に駆けつけたところ、兵士たちはすでに立ち去ったあとで、彼らが連れて行こうとした少女たちは敏捷機敏に行動して、首尾よく裏木戸から逃げ出し、金陵女子文理学院に駆け込んだのだった。少女と一緒に学院に歩いて戻る道すがら、彼女は、日本兵が城内に初めて侵入してきた際、彼女の67歳の父親と9歳の妹が銃剣で刺し殺されたことを話してくれた。
今日は相当な数の爆撃機が西の方角へ飛んで行った。城内の火災は少なくなってきてはいるものの、完全になくなったわけではなく、毎日1,2件は発生している。
(1)・・・1937年8月26日、駐華イギリス大使クナッチバル・ヒューゼッケン卿が自動車で南京から上海に向かっていた途中、大倉付近で日本海軍機に機銃掃射を受け、大使が重傷を負った事件。
「Imagine9」解説【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界へ
また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。
いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1月24日
高上校のボーイが突然やってきた。何も食べるものがないというので5ドルやった。主人の高上校漢口へ逃げてしまったという。
委員会はキリスト教評議会を介してジーメンス洋行中国本社に打電し、3月1日まで私をここにおいてくれるよう、頼んでみるという。だから、上海行きの旅券を申請するのは当分の間差し控えることにした。・・・・・・・・
・・・・・・・・・その気になれば、盗品の故宮宝物で家中を飾り立てられるだろう。なんせ闇で二束三文で売られているのだから。今高いのは食料品だけだ。例えばニワトリ一羽が二ドルもする。ということは明時代の花瓶きっかり二個分だ。
今日また高玉が本部へやってきた。中国語のできる警察の高級将校が一緒だ。高玉は、大学の難民収容所で若い娘を手に入れようとしているところをベイツに見つかってしまった。だから、収容所で「洗濯や料理をする人」を捜していたのだ、といいにきたという訳だ。「洗濯や料理をする人」だと?いったい誰がそんなたわごとを信じると思っているんだ。中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。そんなことぐらい、アジアじゃ子どもでも知っている。つまり、この男は名誉回復をしようというのだ。
スマイスは一部始終しっかり書きとめた。「さっそく、各国の大使館に報告しましょう」。高玉がますますご機嫌ななめになったのはいうまでもない。奴さん、当てが外れてすごすごと帰っていった。ただ、「そんなつまらんことで大使館を煩わせるものではありませんぞ!」と、いやに力を込めて付け加えるのだけは忘れなかった。本部にいた連中はみな、いい気味だと言って喜んだ。
マギーは書状一通と日本の銃剣一丁を私の机の上に置いた。それには、中国人女性を銃剣で脅していたところへ、委員会のメンバーが三人、ふいに姿を現したため、その日本兵はあわてて武器をとりおとし、そのまま逃げたとあった。目撃者がアメリカ人だったので、スマイスが勇んでアメリカ大使館に報告した。アリソン書記官が日本大使館への報告役を肩代わりしてくれたので、感謝している。アリソン氏はあっけにとられ、不思議だ、びっくりした、を連発した。そこで、ローゼンは早速「不思議に国のアリソン」と命名した。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月24日 月曜日
今朝非公式の報告書をタイプし始めてからほどなく、フォスター氏がどっさり情報を持って現れた。彼は、先週の土曜日の晩に大使館で起こった出来事を話してくれた。
アリソン氏たちがジョージ・フィッチとP.ミルズを招いて夕食をとっていると、使用人の一人が、三号車庫に兵士が2人いると知らせてきた。アリソン氏が車庫に行ってみると、2人はマージャンをしていた。彼は2人に、出て行くように言った。あとで彼は、いささかきつく言いすぎたような気がして、果たして適切な処置だったろうかと考えながらテーブルに戻ってきた。アリソン氏が席に着くか着かないうちに、今度は別の使用人がやってきて、彼の娘が拉致されたことを知らせた。この一家は五号車庫で生活していた。アリソン氏は今しがた二人の兵士に、敷地内から出て行くように言ったばかりだったので、使用人がきっとその2人と取り違えているのだ、と言ったが、使用人は、それとは別の兵士で、初めのうちは彼の末の娘を要求したが、彼ら両親が断固拒否したのだ、と言った。そのあとアリソン氏は娘を捜しに飛び出して行き、当の娘が戻ってくるところに出くわした。どうやら、少女を連れ出した兵士に先の2人の兵士が出会い、アメリカ大使館にいた少女だから帰してやれ、と言ったらしい。私はどんな人も傷つけたいとは思わないが、それでもやはり、クアト・ヒューゼッケン卿射撃事件(1)、パナイ号爆撃事件、イタリア高官傷害事件、アメリカ高官傷害事件、アメリカ大使館からの少女拉致事件が発生したことを喜んでいる。少なくとも、このような事件があれば、日本や欧米諸国の国民の注目が集まるからだ。
引き続き午後の集会は行われている。
昼食のすぐ後アメリカ大使館に行き、車で日本大使館まで送ってもらった。福田氏との会話のなかで私は、大勢の女性が夫や息子を取り戻すために私に助力してほしいと懇願していることを訴えた。彼らの中には、12月13日に連れ去られた者もいる。福田氏は、データを持ってきてくれれば、出来るだけのことはしよう、と言ってくれた。と言うのは、彼も、そうした事態に悲しみを覚えたからである。明日532枚のデータカードを渡したら、彼はびっくりすることだろう。
大使館に行くつもりで校門を出ようとしたら、一人の少女が近づいてきて、今しがた3人の兵士が彼女の家に押し入り、少女たちを連れて行こうとしている、と訴えた。彼女と一緒に駆けつけたところ、兵士たちはすでに立ち去ったあとで、彼らが連れて行こうとした少女たちは敏捷機敏に行動して、首尾よく裏木戸から逃げ出し、金陵女子文理学院に駆け込んだのだった。少女と一緒に学院に歩いて戻る道すがら、彼女は、日本兵が城内に初めて侵入してきた際、彼女の67歳の父親と9歳の妹が銃剣で刺し殺されたことを話してくれた。
今日は相当な数の爆撃機が西の方角へ飛んで行った。城内の火災は少なくなってきてはいるものの、完全になくなったわけではなく、毎日1,2件は発生している。
(1)・・・1937年8月26日、駐華イギリス大使クナッチバル・ヒューゼッケン卿が自動車で南京から上海に向かっていた途中、大倉付近で日本海軍機に機銃掃射を受け、大使が重傷を負った事件。
「Imagine9」解説【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界へ
また、資源などを狙う外国が、その国の中の武力紛争を悪化させることも少なくありません。平和づくりはその国の人々が主人公になるべきであり、人々が自分たちの土地や資源に対してきちんとした権利を持つ事が重要です。貧しい国に「援助してあげる」のではなく、人々の権利を保障していく事が、平和の基盤をつくるのです。
いわゆる「テロ問題」も同じです。テレビでは連日、イラクなどでの「自爆テロ」が報道されています。それに対して軍が投入されても、「テロ」はなくなるどころか、かえって増えていってしまいます。「テロリスト」と言う言葉が独り歩きしていますが、このような暴力をふるう人たちは、いったいどのような動機からそうしているのでしょうか。
「貧困、不正義、苦痛、戦争をなくしていくことによって、テロを行おうとする者たちの口実となる状態を終わらせる事ができる」と、コフィ・アナン国連前事務総長は語っています。暴力に対してさらに大きな暴力で対処しようとすることは、結果的に暴力を拡大させ、人々の命を奪い、人々を大きな不安の中におとしいれます。どうすれば人々が暴力に走ることを予防できるのか考える事が大事です。
そのための鍵は、軍隊の力にあるのではなく、市民どうしの対話と行動にあるのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年1月23日金曜日
1938年 南京 1月23日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月23日
予定通り今朝6時にクレーガーは上海に向かった。
シンバーグがまた南京にやってきて、たまご6個と生きたアヒル20羽を持ってきてくれた。
勤務中なのでやむを得ず袋に入れっぱなしにしておいたところ、3羽も死んでしまった。コックは「大丈夫、食べられますよ!」といっているが。
8人も警官を引き連れて、高玉が事務所に訪ねてきた。いやに興奮している。2,3日前にアメリカンスクールからピアノが一台盗まれ、アメリカ大使館はワシントンに打電した。早速東京から「直ちにピアノを元に戻すように」との指令がきたのだという。ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか、というのだ。どうせとっくにたきぎにされてしまったのだろう。私はそのままお引取り願った。そんなことまで一々言ってくるな!
16時30分
平倉巷での礼拝。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
18時
ローゼンを訪ねた。今日は城門の外まで足を伸ばしたそうだ。ゴルフ場がすっかり焼き払われていたという。
19時
フィッチの55歳の誕生日。みなで食事をした。私のプレゼントはアヒル2羽。生きちゃいるが骨と皮ばかりだ。かわいそうに、もう長いこと干乾しになっているのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月23日 日曜日
特に記すこともない一日だった。寒さは厳しい。朝、メリーが鼓楼教会へ出かけ、私は午後、平昌巷3号で行われた英語による礼拝に行った。・・・・・・・・
今朝、この収容所で生活している避難民の甥が私を訪ねてきた。昨日34日ぶりに帰ってきたとのこと。彼は、12月18日に400人ほどの人たちと一緒に連行された。「隊長」の夜具を長興に運び、食事の用意もした。8日間、この将校に仕事をさせられた後放免され、帰ってもよいと言われた。帰路、宜興まで来た時、別の将校に捕まってしまい、1月14日まで拘束された。この二人目の将校は甥のことが気に入り、親切にしてくれた。将校は彼を放免するとき、城門の外まで付き添い、幹線道路を避けて帰るように、と言った。520華里(260キロメートル)を歩いて帰ってくるには8日を要した。湖州のような都市には「老百姓」(庶民)は全く見当たらず、市の7割ほどが焼失していた。広徳は、それをめぐる攻防戦が長期にわたって激しく続いたため、ほとんど何も残っていなかったそうだ。彼の話によれば、ある地区では、「大刀会」が匪賊や中国軍、日本軍から村を護っていた。彼らは大刀を背負い、異様な目付きをしていたそうだ。村びとたちは彼らを尊敬し、彼らの前で叩頭するだけでなく、香を焚いて彼らを迎えた。溧水、溧陽、宜興といった都市はいずれもほとんど全滅し、再建には30年かかるだろう、と彼は話してくれた。道で出会った人たちはとても親切にしてくれて、彼に食べ物をくれたり、夜は家に泊めてくれたりしたそうだ。こういった人が、もっとたくさん家族のもとへ戻ってこられることを切に願ってやまない。
ハイドさんと一緒に活動している長老派教会奉仕者の呉愛徳(音訳)さんが午後の女性の集会で、自身の逃亡についてすばらしい話をしてくれた。少女を物色していた兵士に見つからないように、彼女はおよそ40日間隠れて過ごした。積み上げられた牧草の中や豚小屋、船、空き家を転々として、最後に金陵女子文理学院のことを聞いて、そこへ行ってみようと決心した。彼女は年寄りに変装し、6歳(数え歳)の少年を借りて背中に負い、借りた杖をついてとぼとぼ歩いてきた。どんな障害も乗り越えたようで、集会が行われている真っ最中に彼女はここにたどり着いた。あの日元気いっぱいに歌っていたのは誰だろうかと思っていたが、彼女だったのだ。彼女はほかの避難民と一緒に北の寄宿舎の渡り廊下で生活している。
「Imagine9」解説【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。
2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1月23日
予定通り今朝6時にクレーガーは上海に向かった。
シンバーグがまた南京にやってきて、たまご6個と生きたアヒル20羽を持ってきてくれた。
勤務中なのでやむを得ず袋に入れっぱなしにしておいたところ、3羽も死んでしまった。コックは「大丈夫、食べられますよ!」といっているが。
8人も警官を引き連れて、高玉が事務所に訪ねてきた。いやに興奮している。2,3日前にアメリカンスクールからピアノが一台盗まれ、アメリカ大使館はワシントンに打電した。早速東京から「直ちにピアノを元に戻すように」との指令がきたのだという。ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか、というのだ。どうせとっくにたきぎにされてしまったのだろう。私はそのままお引取り願った。そんなことまで一々言ってくるな!
16時30分
平倉巷での礼拝。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
18時
ローゼンを訪ねた。今日は城門の外まで足を伸ばしたそうだ。ゴルフ場がすっかり焼き払われていたという。
19時
フィッチの55歳の誕生日。みなで食事をした。私のプレゼントはアヒル2羽。生きちゃいるが骨と皮ばかりだ。かわいそうに、もう長いこと干乾しになっているのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月23日 日曜日
特に記すこともない一日だった。寒さは厳しい。朝、メリーが鼓楼教会へ出かけ、私は午後、平昌巷3号で行われた英語による礼拝に行った。・・・・・・・・
今朝、この収容所で生活している避難民の甥が私を訪ねてきた。昨日34日ぶりに帰ってきたとのこと。彼は、12月18日に400人ほどの人たちと一緒に連行された。「隊長」の夜具を長興に運び、食事の用意もした。8日間、この将校に仕事をさせられた後放免され、帰ってもよいと言われた。帰路、宜興まで来た時、別の将校に捕まってしまい、1月14日まで拘束された。この二人目の将校は甥のことが気に入り、親切にしてくれた。将校は彼を放免するとき、城門の外まで付き添い、幹線道路を避けて帰るように、と言った。520華里(260キロメートル)を歩いて帰ってくるには8日を要した。湖州のような都市には「老百姓」(庶民)は全く見当たらず、市の7割ほどが焼失していた。広徳は、それをめぐる攻防戦が長期にわたって激しく続いたため、ほとんど何も残っていなかったそうだ。彼の話によれば、ある地区では、「大刀会」が匪賊や中国軍、日本軍から村を護っていた。彼らは大刀を背負い、異様な目付きをしていたそうだ。村びとたちは彼らを尊敬し、彼らの前で叩頭するだけでなく、香を焚いて彼らを迎えた。溧水、溧陽、宜興といった都市はいずれもほとんど全滅し、再建には30年かかるだろう、と彼は話してくれた。道で出会った人たちはとても親切にしてくれて、彼に食べ物をくれたり、夜は家に泊めてくれたりしたそうだ。こういった人が、もっとたくさん家族のもとへ戻ってこられることを切に願ってやまない。
ハイドさんと一緒に活動している長老派教会奉仕者の呉愛徳(音訳)さんが午後の女性の集会で、自身の逃亡についてすばらしい話をしてくれた。少女を物色していた兵士に見つからないように、彼女はおよそ40日間隠れて過ごした。積み上げられた牧草の中や豚小屋、船、空き家を転々として、最後に金陵女子文理学院のことを聞いて、そこへ行ってみようと決心した。彼女は年寄りに変装し、6歳(数え歳)の少年を借りて背中に負い、借りた杖をついてとぼとぼ歩いてきた。どんな障害も乗り越えたようで、集会が行われている真っ最中に彼女はここにたどり着いた。あの日元気いっぱいに歌っていたのは誰だろうかと思っていたが、彼女だったのだ。彼女はほかの避難民と一緒に北の寄宿舎の渡り廊下で生活している。
「Imagine9」解説【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。
2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年1月22日木曜日
1938年 南京 1月22日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月22日
竹の担架にしばりつけられた中国兵の死体については、これまでも幾度か書いてきた。12月13日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議もし、請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。しばっていた縄が切れて、竹の担架が2メートルほど先に転がっただけだ。いったいどうしてこんなことをするのか、理解に苦しむ。日本は、ヨーロッパ列強とならぶ大国だと認められたい、そのように扱われたいと望んでいる。だが、その一方で、こういう粗雑さ、野蛮さ、残忍さを見せつけているのだ。これではまるでチンギス=ハーンの軍隊と変わらないではないか。もう、これ以上、この哀れな男の埋葬を気にかけるのはやめることにした。ただ、時々、死んだまま、あの兵士がまだこの世をさまよっていることを思い出すことにしよう。・・・・・・
マギーがまたしても悪い知らせを持ってきた。日本兵が食用の家畜をつかまえ、手当たり次第手に入れているというのだ。近頃は、中国人の若者を使って豚をつかまえさせている。なかなかつかまえられなかったり、全然つかまえることができなかった若者は、銃剣で突き殺された。なかの一人は内臓がはみ出して垂れ下がっていたという。
これはみな目撃した人の話だ。こんなことばかり聞かされていると、気分が悪くなってくる。そうだ、日本軍は犯罪者の寄せ集めだと思えばいいんだ。ふつうの人間にこんなことができるはずがない。
今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関(シャーカン)へ向かっていった。どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。
高玉がやってきた。この人は総領事館警察の責任者だが、そのまま日本大使館付きになっていた。私は車を一台工面してやったことがある。徴用証書をもらおうとすると、署名する代わりに無言でそれをポケットにねじ込んだ。がっかりした。
高玉は、以前はいつも青い制服を着ていて、それがよく似合っていたが、今は平服だ。南京で撮影された空中戦や墜落した日本機の写真を探している。半官の写真代理店が撮った写真が何枚かあって、一枚一ドルで買うことができる。なかに日本人パイロットが16人写っているのがあった。墜落して中国の捕虜になったのだが、丁重に扱われ、きちんとした待遇を受けていた。
高玉によると、この中に友人がいるそうだ。捕虜たちの名前を聞いたが、知らない名前だった。その後どうなったのか、とても関心を持っているらしく、詳しいことを教えてくれと言った。
そういわれてもどうしようもない。何も知らないのだ。たとえ何か知っていたとしても、発言には十分気をつけたことだろう。日本軍将校は(パイロットの中には将校もいた)捕虜になるとハラキリしなければならない、と福田書記官が言っていたからだ。捕虜になること自体、許されないという。そんなことに関わりたくない。もっとも、ここでさんざん残虐なことをしたやつらがハラキリしようと知ったことではないがね。
人呼んでパパ・シュペアリング、つまり委員会警察委員のシュペアリングは、我々が大使館にあてて報告書を書くのをずっと横で見ていた。そのうち、自分もひとつ書いてみようという気になったようだ。・・・・・・・・・
だが、誰しも生まれついての作家ではない。それにしても彼の書いたものはあまり素晴らしいとは言えないが。私は下書きを見せられた。けれども、だめだというのはしのびない。ま、いいだろう。おびえて震えている母親に抱かれた子ども、娘を乱暴しようと裸になっていた兵隊の話なども報告してもらうことにしよう。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月22日 土曜日
今日は寒いが晴天だ。キャンパスのすぐ近くにあるかなりの数の若い避難民たちは、今では昼間は帰宅して夜間は戻ってきている。今日私が話を交わした日本兵は、2月には平和になって全員が帰宅できるようになると思う、と言っていた。
今朝手紙をタイプしてもらおうと思っていたとき、4人の男性がやってきた。将校一人と兵士3人だ。兵士の一人は英語を話した。神戸のミッションースクールで学んだ、と言っていた。クリスチャンなのかと尋ねると、彼は、自分はそうではないが、妻はクリスチャンで、2人の娘はミッションースクールに通っている、と答えた。彼が将校の通訳をした。まず最初に将校は、南京で起こった様々な事件について申し訳なく思っている、状況はまもなくよくなると思う、と言った。李さんと王さんが4人の視察の案内をし、その後私の執務室に戻ってきたので、お茶を出した。キャンパスに兵士は来るのか、と将校に尋ねられたので、よい機会だとばかりに、今日は誰も来なかったが、昨日は4人の兵士がやってきて、少女3人を連れ去ろうとしたことを話した。南京特務機関にこの件を報告するよう将校から求められ、午後、報告することができた。(これに先立って若い将校が中国人少女2人を連れてきて、ここの避難民収容所に置いてほしい、と言った。本当は引き取りたくはなかったが、どのように断ったらよいのかわからなかった。24歳の女性は、かつて私たちのミッションースクールの生徒だったことがあり、ギッシュ先生とケリー先生を知っていた。この件については、あとで補足したいと思う。)
正午、昼食をとり始めてすぐに、上海からの食料品の包みと分厚い手紙の束ー12月13日以後に書き送った手紙への初めての返事ーを受け取った。夕食後、スタッフ全員に手紙を読んで聞かせたが、みな、外界から情報を得て、それこそ大喜びだった。・・・・・・・
私たちほとんどの者が数時間かけて手紙を書き、6時までに私がそれをアメリカ大使館に持って言った。手紙は明日軍用列車で上海に運ばれる。ドイツ人のクレーガーが持って行ってくれることになっている。彼は、12月13日のあとすぐに南京を離れた4人の外国人記者を除けば、南京が陥落して以来、ここから脱出する最初の住民である。外界からほとんど情報が入らず、情報を送り出す手段も持たずにこの地に37日間も閉じ込められていることを想像してもらいたい。
たしかに、少なくとも安全区では状況はよくなってきている。夜のあの恐怖はもはや味わわなくてもよいし、窓には今も厚いカーテンをかけているが、とにかく、その両端を鋲で留めることはないし、ロウソクを使用することもない。
午後、ジョン・マギーが無線による情報を持ってやってきた。
「Imagine9」解説【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1月22日
竹の担架にしばりつけられた中国兵の死体については、これまでも幾度か書いてきた。12月13日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議もし、請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。しばっていた縄が切れて、竹の担架が2メートルほど先に転がっただけだ。いったいどうしてこんなことをするのか、理解に苦しむ。日本は、ヨーロッパ列強とならぶ大国だと認められたい、そのように扱われたいと望んでいる。だが、その一方で、こういう粗雑さ、野蛮さ、残忍さを見せつけているのだ。これではまるでチンギス=ハーンの軍隊と変わらないではないか。もう、これ以上、この哀れな男の埋葬を気にかけるのはやめることにした。ただ、時々、死んだまま、あの兵士がまだこの世をさまよっていることを思い出すことにしよう。・・・・・・
マギーがまたしても悪い知らせを持ってきた。日本兵が食用の家畜をつかまえ、手当たり次第手に入れているというのだ。近頃は、中国人の若者を使って豚をつかまえさせている。なかなかつかまえられなかったり、全然つかまえることができなかった若者は、銃剣で突き殺された。なかの一人は内臓がはみ出して垂れ下がっていたという。
これはみな目撃した人の話だ。こんなことばかり聞かされていると、気分が悪くなってくる。そうだ、日本軍は犯罪者の寄せ集めだと思えばいいんだ。ふつうの人間にこんなことができるはずがない。
今日、トラックが数台、南の方からやってきて、下関(シャーカン)へ向かっていった。どれも中国兵で満員だ。おそらく捕虜だろう。ここと蕪湖の間でつかまって揚子江のほとりで処刑されることになっているのだ。
高玉がやってきた。この人は総領事館警察の責任者だが、そのまま日本大使館付きになっていた。私は車を一台工面してやったことがある。徴用証書をもらおうとすると、署名する代わりに無言でそれをポケットにねじ込んだ。がっかりした。
高玉は、以前はいつも青い制服を着ていて、それがよく似合っていたが、今は平服だ。南京で撮影された空中戦や墜落した日本機の写真を探している。半官の写真代理店が撮った写真が何枚かあって、一枚一ドルで買うことができる。なかに日本人パイロットが16人写っているのがあった。墜落して中国の捕虜になったのだが、丁重に扱われ、きちんとした待遇を受けていた。
高玉によると、この中に友人がいるそうだ。捕虜たちの名前を聞いたが、知らない名前だった。その後どうなったのか、とても関心を持っているらしく、詳しいことを教えてくれと言った。
そういわれてもどうしようもない。何も知らないのだ。たとえ何か知っていたとしても、発言には十分気をつけたことだろう。日本軍将校は(パイロットの中には将校もいた)捕虜になるとハラキリしなければならない、と福田書記官が言っていたからだ。捕虜になること自体、許されないという。そんなことに関わりたくない。もっとも、ここでさんざん残虐なことをしたやつらがハラキリしようと知ったことではないがね。
人呼んでパパ・シュペアリング、つまり委員会警察委員のシュペアリングは、我々が大使館にあてて報告書を書くのをずっと横で見ていた。そのうち、自分もひとつ書いてみようという気になったようだ。・・・・・・・・・
だが、誰しも生まれついての作家ではない。それにしても彼の書いたものはあまり素晴らしいとは言えないが。私は下書きを見せられた。けれども、だめだというのはしのびない。ま、いいだろう。おびえて震えている母親に抱かれた子ども、娘を乱暴しようと裸になっていた兵隊の話なども報告してもらうことにしよう。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月22日 土曜日
今日は寒いが晴天だ。キャンパスのすぐ近くにあるかなりの数の若い避難民たちは、今では昼間は帰宅して夜間は戻ってきている。今日私が話を交わした日本兵は、2月には平和になって全員が帰宅できるようになると思う、と言っていた。
今朝手紙をタイプしてもらおうと思っていたとき、4人の男性がやってきた。将校一人と兵士3人だ。兵士の一人は英語を話した。神戸のミッションースクールで学んだ、と言っていた。クリスチャンなのかと尋ねると、彼は、自分はそうではないが、妻はクリスチャンで、2人の娘はミッションースクールに通っている、と答えた。彼が将校の通訳をした。まず最初に将校は、南京で起こった様々な事件について申し訳なく思っている、状況はまもなくよくなると思う、と言った。李さんと王さんが4人の視察の案内をし、その後私の執務室に戻ってきたので、お茶を出した。キャンパスに兵士は来るのか、と将校に尋ねられたので、よい機会だとばかりに、今日は誰も来なかったが、昨日は4人の兵士がやってきて、少女3人を連れ去ろうとしたことを話した。南京特務機関にこの件を報告するよう将校から求められ、午後、報告することができた。(これに先立って若い将校が中国人少女2人を連れてきて、ここの避難民収容所に置いてほしい、と言った。本当は引き取りたくはなかったが、どのように断ったらよいのかわからなかった。24歳の女性は、かつて私たちのミッションースクールの生徒だったことがあり、ギッシュ先生とケリー先生を知っていた。この件については、あとで補足したいと思う。)
正午、昼食をとり始めてすぐに、上海からの食料品の包みと分厚い手紙の束ー12月13日以後に書き送った手紙への初めての返事ーを受け取った。夕食後、スタッフ全員に手紙を読んで聞かせたが、みな、外界から情報を得て、それこそ大喜びだった。・・・・・・・
私たちほとんどの者が数時間かけて手紙を書き、6時までに私がそれをアメリカ大使館に持って言った。手紙は明日軍用列車で上海に運ばれる。ドイツ人のクレーガーが持って行ってくれることになっている。彼は、12月13日のあとすぐに南京を離れた4人の外国人記者を除けば、南京が陥落して以来、ここから脱出する最初の住民である。外界からほとんど情報が入らず、情報を送り出す手段も持たずにこの地に37日間も閉じ込められていることを想像してもらいたい。
たしかに、少なくとも安全区では状況はよくなってきている。夜のあの恐怖はもはや味わわなくてもよいし、窓には今も厚いカーテンをかけているが、とにかく、その両端を鋲で留めることはないし、ロウソクを使用することもない。
午後、ジョン・マギーが無線による情報を持ってやってきた。
「Imagine9」解説【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年1月21日水曜日
1938年 南京 1月21日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月21日
クレーガーはもう一日出発を遅らせなければならなくなった。日曜日にようやく発てるという話だ。ただし列車で。おまけに、途中で飛び降りないよう、腕っ節の強い兵士が一人、見張りにつくとか。何とかして私も旅券を手に入れよう。一目でもいい、ドーラに会いに上海に行きたい。となると、残された方法は一つ。つまり、本当のことを言うのだ。会社には「もう金がありません」と。ジーメンスの責任者である私がそんなことを言ったら、けげんな顔をされるだろう。だが、もうそんなことを言っていられる場合ではない。一月分の給料だって、クレーガーを拝み倒して5百ドル借りてようやく払ったのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月21日 金曜日
地面に雪は残っているものの、温暖と言ってもよいような一日だった。泥が目下の問題だ。粥を買いに粥場へ出かける何百人もの人、さらには、キャンパスで生活している親戚に食料を差し入れにくる何百人もの人が、私たちの手に負えないほど大量の泥を建物内に持ち込んでくる。
昼食後まもなく、午後行われる女性の集会のことを知らせるために北西の寄宿舎へ出かけようとしたとき、避難民数人が私の方へ走ってきて、キャンパスの裏手に兵士がいる、と言った。私は裏門の方へ向かい、かろうじて間に合った。というのは、4人の兵士は私を見るなり、農民の朱の家の近くの難民小屋から連れ出した3人の少女を解放したのだ。兵士たちは丘の向こうへ姿を消した。この後まもなく憲兵の一団がキャンパスに来たので、事件の顛末を彼らに報告することができた。さらにしばらくしてから、将校2人がやってきて、彼らが南京城外に駐屯していることを告げた。
ここ数日間、悲しみで狂乱状態の女性たちが報告してきたところでは、12月13日以来、夫や息子が行方不明になっている件数は568件(?)にのぼる。彼女たちは、夫は日本軍のための労務要員として連行されたのだと、今もそう信じている。しかし、私たちの多くは、彼らは黒焦げになった死体に混じって、古林寺からそう遠くない池に放り込まれているか、埋葬されることなく定准門外にうずたかく積まれた半焦げ死体に紛れ込んでいるのではないかと思っている。12月16日の一日だけで422人が連行されたが、この数は、主としてここのキャンパスにいる女性の報告によるものだ。16歳か17歳の若者多数が連行された。また、12歳の少年が行方不明であるとの報告もあった。ほとんどの場合、連行された者は一家の唯一の稼ぎ手であった。
女性や子どものための午後の集会は続いている。自立手段を持たない女性たちのための職業訓練学校の開設計画に着手しようとしているところだ。
5時、アメリカ大使館に出向き、ジョン・アリソン三等書記官ときわめて満足のいく話し合いをした。彼は私たちに、アメリカ人に対する権利の侵害を逐一報告することを切望している。私たちのために主張し、行動してくれるよう、ドイツ、イギリス及びアメリカの政府代表に南京に戻ってもらうことが、不幸な南京の人々にとって大いに意味のあることなのだ。アリソン氏は、非常に思慮深い人のように思われる。
『新生報』という新しい新聞が発行されているが、その1月8日付けに、「難民を優しく慰撫する日本軍。南京市に融和の雰囲気が明るく広がる」と題する記事がある。この記事は25の文から成り、そのうち太陽、鼓楼、憲兵、及び日本国旗の地位に関する四つの文は真実を述べている。それ以外は一つが半ば真実、19の文は誤り、残り一つについては、私には判断がつかない。正誤テストなら、あまり高い得点とは言えない。
レベッカに無線電報を送った。
昨夜、二条巷(安全区内)にある王さんの親戚の家に4回にわたって兵士がやってきた。1回は、兵士が少女を連れ去ろうとしたが、彼女はうまく難を逃れた。後の3回はちょっとした略奪だった。ここの避難民に帰宅するよう説得できない理由がわかってもらえるだろう。
「Imagine 9」解説【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1月21日
クレーガーはもう一日出発を遅らせなければならなくなった。日曜日にようやく発てるという話だ。ただし列車で。おまけに、途中で飛び降りないよう、腕っ節の強い兵士が一人、見張りにつくとか。何とかして私も旅券を手に入れよう。一目でもいい、ドーラに会いに上海に行きたい。となると、残された方法は一つ。つまり、本当のことを言うのだ。会社には「もう金がありません」と。ジーメンスの責任者である私がそんなことを言ったら、けげんな顔をされるだろう。だが、もうそんなことを言っていられる場合ではない。一月分の給料だって、クレーガーを拝み倒して5百ドル借りてようやく払ったのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月21日 金曜日
地面に雪は残っているものの、温暖と言ってもよいような一日だった。泥が目下の問題だ。粥を買いに粥場へ出かける何百人もの人、さらには、キャンパスで生活している親戚に食料を差し入れにくる何百人もの人が、私たちの手に負えないほど大量の泥を建物内に持ち込んでくる。
昼食後まもなく、午後行われる女性の集会のことを知らせるために北西の寄宿舎へ出かけようとしたとき、避難民数人が私の方へ走ってきて、キャンパスの裏手に兵士がいる、と言った。私は裏門の方へ向かい、かろうじて間に合った。というのは、4人の兵士は私を見るなり、農民の朱の家の近くの難民小屋から連れ出した3人の少女を解放したのだ。兵士たちは丘の向こうへ姿を消した。この後まもなく憲兵の一団がキャンパスに来たので、事件の顛末を彼らに報告することができた。さらにしばらくしてから、将校2人がやってきて、彼らが南京城外に駐屯していることを告げた。
ここ数日間、悲しみで狂乱状態の女性たちが報告してきたところでは、12月13日以来、夫や息子が行方不明になっている件数は568件(?)にのぼる。彼女たちは、夫は日本軍のための労務要員として連行されたのだと、今もそう信じている。しかし、私たちの多くは、彼らは黒焦げになった死体に混じって、古林寺からそう遠くない池に放り込まれているか、埋葬されることなく定准門外にうずたかく積まれた半焦げ死体に紛れ込んでいるのではないかと思っている。12月16日の一日だけで422人が連行されたが、この数は、主としてここのキャンパスにいる女性の報告によるものだ。16歳か17歳の若者多数が連行された。また、12歳の少年が行方不明であるとの報告もあった。ほとんどの場合、連行された者は一家の唯一の稼ぎ手であった。
女性や子どものための午後の集会は続いている。自立手段を持たない女性たちのための職業訓練学校の開設計画に着手しようとしているところだ。
5時、アメリカ大使館に出向き、ジョン・アリソン三等書記官ときわめて満足のいく話し合いをした。彼は私たちに、アメリカ人に対する権利の侵害を逐一報告することを切望している。私たちのために主張し、行動してくれるよう、ドイツ、イギリス及びアメリカの政府代表に南京に戻ってもらうことが、不幸な南京の人々にとって大いに意味のあることなのだ。アリソン氏は、非常に思慮深い人のように思われる。
『新生報』という新しい新聞が発行されているが、その1月8日付けに、「難民を優しく慰撫する日本軍。南京市に融和の雰囲気が明るく広がる」と題する記事がある。この記事は25の文から成り、そのうち太陽、鼓楼、憲兵、及び日本国旗の地位に関する四つの文は真実を述べている。それ以外は一つが半ば真実、19の文は誤り、残り一つについては、私には判断がつかない。正誤テストなら、あまり高い得点とは言えない。
レベッカに無線電報を送った。
昨夜、二条巷(安全区内)にある王さんの親戚の家に4回にわたって兵士がやってきた。1回は、兵士が少女を連れ去ろうとしたが、彼女はうまく難を逃れた。後の3回はちょっとした略奪だった。ここの避難民に帰宅するよう説得できない理由がわかってもらえるだろう。
「Imagine 9」解説【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年1月20日火曜日
1938年 南京 1月20日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月20日
吹雪だ!難民の状態は見るも哀れの一言に尽きる。いかに情の薄い人でも、これを見たら同情せずにはいられまい。我が家の収容所はいまや巨大なぬかるみだ。テントやわら小屋の周りには小さな排水溝が作られ、雪の溶けた水が少しは流れるようになった。難民はわら屋根の軒下で火をたいているが、見て見ぬ振りをすることにしている。この吹雪だ、火なんかたいてもすぐにまた消えてしまう。そうであれば、少しぐらい危険でも暖まらせてやりたい。・・・・・・・・・・
この間、近所の作りかけの家からレンガを2,3千ばかり失敬してきて、テントや小屋の間に細長い通路を作った。こうしておけば少しは泥よけになる。
そのほか、仮設便所の周りにレンガで壁を作ったので、いくらか見栄えが良くなった。
もっともこんなことをしたところで、焼け石に水だが。依然としてあたり一面泥の海にかわりはない。そこらじゅうでせき込んだり、吐いたりしているが、さもあらんと思う。一番心配なのは伝染病だ。
国際赤十字代表のマギー牧師が、負傷兵を収容している外交部の赤十字病院の中国人看護婦から聞いた話を伝えてくれた。ここは我々外国人は立入り禁止だが、看護人は買い物のために時々は外出できる。そういう折に、本部に立ち寄ってこんな報告をしていったという。一人の中国兵が、食べ物が不十分だと苦情を言った。給食は小さなお椀で一日お粥三杯だそうだ。するとその兵士は監視の日本兵に殴られた。さんざん殴られたあとで、腹が減っているのがいけないのかと言ったところ、中庭に引きずり出されて、銃剣で突き殺されてしまったというのだ。この処刑の様子を看護婦たちは窓から見ていた。
難民の誰一人、安全区から出て行こうとしない。元の家に戻ろうとした人たちが大勢、日本兵から石を投げつけられて追われたり、あるいはもっとひどい目にあわされたりしたからだ。それなのに、街には日本軍の大きなポスターが貼られている。「家へ帰りなさい!食べ物を支給します。日本軍を信用しなさい。我々はみなさんの力になります」
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月20日 木曜日
今日は雪が降っているが、それほど寒くない。靴について持ち込まれる泥とベタ雪のせいで、建物がどんな状態か想像がつくと思う。再びきれいな状態に戻るかどうかわからない。
王さんと孫さんは引き続き、夫や息子が戻ってこない女性のデータを書き留めている。ついさっき、ある女性が、12月16日、38歳の夫と17歳の息子が連れ去られ、彼女と幼い娘だけがあとに残されてしまった、と話してくれたところだ。かりに彼女が自宅に留まっていたとしても、夫と息子を危難から救うことができたかどうかーあの恐怖の時期にー誰が答えられようか。程先生は、こうしたデータを福田氏に提出しない方がよいと考えている。つまり、程先生の考えでは、日本にとって中国は憎い敵であり、中国をどんなに苦しめても、日本はそんなことなど意に介しないということを忘れてはならないのだ。一両日中に福田氏に会って、私に助力を求めて訴えている多くの女性のことを話し、何かうまい手立てがあるかどうか相談するつもりだ。
今朝理事会宛の報告書を書き始めた。非常にたくさんの事件が発生しているので、簡潔な報告にまとめるのは容易ではない。報告を書いている最中、若い日本軍将校が私に相談があるとのことで、私は執務室で面会した。彼は近く南京を発つにあたって、20歳と14歳の中国人女性2人をここに引き取ってもらいたかったのだ。現在、彼女たちは外交部の近くに住んでいるが、彼によれば、2人がそこに住むのは非常に危険だ、というのだ。それはおかしいと思った。なぜなら、避難民は(日本軍から)、家に戻るようしきりに催促されていたのだから。私は、ここが避難民にとっていかに居心地が悪いかをはっきり説明し、彼女たちの生活ぶりを見てもらった。果たして彼が二人を連れてくるかどうか興味深いところだ。彼女たちが来ないことを切に願っている。私の推測では、彼は年上の方の女性に関心があって、安全区の外にある彼女の家に住まわせておくのが心配なのだろう。・・・・・
・・・・・・・・
広い幅員があったころの上海路を知っている人は、今の上海路を見ても、ほとんどそれと気づかないだろう。午後、漢口路から寧波路(アメリカ大使館の真北)まで歩いたが、上海路の右側に新しく建てられた店を数えたら38店あった。もちろん、むしろか木材を使った粗雑な造りであるが、食料品やさまざまな盗品の販売で繁盛しているらしい。喫茶店もあればレストランもある。まだ今のところ、安全区の外に住もうと思うほど勇敢な人はほとんどいない。
中国赤十字会のG氏の話では、彼は、1月17日、米を手に入れに出かけた際、漢中路の外側に男の死体がうずたかく積まれているのを目撃した。付近にいた人たちが言うには、12月26日ごろ現場に連行されてきて、機関銃で射殺されたそうだ。登録の際に、かつて兵士であったことを告白すれば、労務要員として賃金を支払ってもらえるという約束で、おそらく、事実を認めた人たちなのだろう。
「Imagine 9」解説【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしていく世界
基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。
フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1月20日
吹雪だ!難民の状態は見るも哀れの一言に尽きる。いかに情の薄い人でも、これを見たら同情せずにはいられまい。我が家の収容所はいまや巨大なぬかるみだ。テントやわら小屋の周りには小さな排水溝が作られ、雪の溶けた水が少しは流れるようになった。難民はわら屋根の軒下で火をたいているが、見て見ぬ振りをすることにしている。この吹雪だ、火なんかたいてもすぐにまた消えてしまう。そうであれば、少しぐらい危険でも暖まらせてやりたい。・・・・・・・・・・
この間、近所の作りかけの家からレンガを2,3千ばかり失敬してきて、テントや小屋の間に細長い通路を作った。こうしておけば少しは泥よけになる。
そのほか、仮設便所の周りにレンガで壁を作ったので、いくらか見栄えが良くなった。
もっともこんなことをしたところで、焼け石に水だが。依然としてあたり一面泥の海にかわりはない。そこらじゅうでせき込んだり、吐いたりしているが、さもあらんと思う。一番心配なのは伝染病だ。
国際赤十字代表のマギー牧師が、負傷兵を収容している外交部の赤十字病院の中国人看護婦から聞いた話を伝えてくれた。ここは我々外国人は立入り禁止だが、看護人は買い物のために時々は外出できる。そういう折に、本部に立ち寄ってこんな報告をしていったという。一人の中国兵が、食べ物が不十分だと苦情を言った。給食は小さなお椀で一日お粥三杯だそうだ。するとその兵士は監視の日本兵に殴られた。さんざん殴られたあとで、腹が減っているのがいけないのかと言ったところ、中庭に引きずり出されて、銃剣で突き殺されてしまったというのだ。この処刑の様子を看護婦たちは窓から見ていた。
難民の誰一人、安全区から出て行こうとしない。元の家に戻ろうとした人たちが大勢、日本兵から石を投げつけられて追われたり、あるいはもっとひどい目にあわされたりしたからだ。それなのに、街には日本軍の大きなポスターが貼られている。「家へ帰りなさい!食べ物を支給します。日本軍を信用しなさい。我々はみなさんの力になります」
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月20日 木曜日
今日は雪が降っているが、それほど寒くない。靴について持ち込まれる泥とベタ雪のせいで、建物がどんな状態か想像がつくと思う。再びきれいな状態に戻るかどうかわからない。
王さんと孫さんは引き続き、夫や息子が戻ってこない女性のデータを書き留めている。ついさっき、ある女性が、12月16日、38歳の夫と17歳の息子が連れ去られ、彼女と幼い娘だけがあとに残されてしまった、と話してくれたところだ。かりに彼女が自宅に留まっていたとしても、夫と息子を危難から救うことができたかどうかーあの恐怖の時期にー誰が答えられようか。程先生は、こうしたデータを福田氏に提出しない方がよいと考えている。つまり、程先生の考えでは、日本にとって中国は憎い敵であり、中国をどんなに苦しめても、日本はそんなことなど意に介しないということを忘れてはならないのだ。一両日中に福田氏に会って、私に助力を求めて訴えている多くの女性のことを話し、何かうまい手立てがあるかどうか相談するつもりだ。
今朝理事会宛の報告書を書き始めた。非常にたくさんの事件が発生しているので、簡潔な報告にまとめるのは容易ではない。報告を書いている最中、若い日本軍将校が私に相談があるとのことで、私は執務室で面会した。彼は近く南京を発つにあたって、20歳と14歳の中国人女性2人をここに引き取ってもらいたかったのだ。現在、彼女たちは外交部の近くに住んでいるが、彼によれば、2人がそこに住むのは非常に危険だ、というのだ。それはおかしいと思った。なぜなら、避難民は(日本軍から)、家に戻るようしきりに催促されていたのだから。私は、ここが避難民にとっていかに居心地が悪いかをはっきり説明し、彼女たちの生活ぶりを見てもらった。果たして彼が二人を連れてくるかどうか興味深いところだ。彼女たちが来ないことを切に願っている。私の推測では、彼は年上の方の女性に関心があって、安全区の外にある彼女の家に住まわせておくのが心配なのだろう。・・・・・
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広い幅員があったころの上海路を知っている人は、今の上海路を見ても、ほとんどそれと気づかないだろう。午後、漢口路から寧波路(アメリカ大使館の真北)まで歩いたが、上海路の右側に新しく建てられた店を数えたら38店あった。もちろん、むしろか木材を使った粗雑な造りであるが、食料品やさまざまな盗品の販売で繁盛しているらしい。喫茶店もあればレストランもある。まだ今のところ、安全区の外に住もうと思うほど勇敢な人はほとんどいない。
中国赤十字会のG氏の話では、彼は、1月17日、米を手に入れに出かけた際、漢中路の外側に男の死体がうずたかく積まれているのを目撃した。付近にいた人たちが言うには、12月26日ごろ現場に連行されてきて、機関銃で射殺されたそうだ。登録の際に、かつて兵士であったことを告白すれば、労務要員として賃金を支払ってもらえるという約束で、おそらく、事実を認めた人たちなのだろう。
「Imagine 9」解説【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしていく世界
基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。
フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2009年1月19日月曜日
1938年 南京 1月19日
「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月19日
ラジオによると、あるベルリンの新聞がこれ以上中国に侵攻するなと日本に警告したそうだ。さらに、名誉ある平和を中国に申し出るよう勧めたとか。いやはや、いい気なもんだ。日本がいわれたとおりにするとでも思っているのか。
隴海鉄道沿線での大規模な戦闘が間近に迫っている。国民政府軍はおよそ4万人の兵力を擁し、編成し直されたとの話だ。少なくともラジオではそう言っている。無能な将校は一掃されたとも聞く。だが、残念ながら、中国が勝つという希望はこれっぽっちももっていない。
青島も、日本軍に占領された。済南も。芝罘では、日本側の報告によると、中国警察が反乱を起こし、略奪したそうだ。
山東省の司令官韓復榘と2人の将官が、即決裁判によって、蒋介石の命により射殺されたそうだ。抵抗が十分ではなかったということらしい。こちらでは、韓復榘が現金をそっくり日本の銀行に投資したと、もっぱらの噂だ。そうに決まっている。おそらく日本からもらった金だろう。・・・・・
漢口から出発した防毒部隊はいっこうに到着しない。まだ役に立つかどうか、あやしくなってきた。
今日、解雇通知を書いた。中国本社の指示で、事務所を閉鎖しなければならないからだ。・・・・
・・・・・一月分の給料を全額支払おう。だが正月の心づけはなし。思えばこれは非常にむごいことだ。中国の正月は2月1日からなので、もう目の前に迫っている。正月だからというので、食料品の価格は(まだ手に入ればの話だが)、とてつもなく上がってしまった。もっとも、ここ何十万もの人たちだって、彼らよりましな暮らしをしているわけではないのだが。従業員はみな、私のところで暮らしているが、それも私がここにいられる間の話だ。食料を買う金が足りなくなったら、国際委員会の給食所に厄介にならざるをえない。どっちみち、すでに650人のほとんどがそこから食糧をもらっている。一日、米2袋だ。・・・・・
長年のアシスタント、韓にあてた解雇通知
1938年1月19日 於南京
韓様
戦争による業務停止のため、上海からの指示により、やむなく南京支社を閉鎖しなければならないことになりました。したがって、あなたの職務も終わります。けれども、当社としては、戦争が終わった後、事情さえ許せば、ぜひまた韓さんに働いていただきたいと考えています。つきましては今後の住所を知らせていただきたいと思います。
この場をかりて、当社における過去6年間の忠実な勤務に対し、心からの賞賛と感謝の気持ちを表したいと思います。
敬具
ジーメンス洋行 ジョン・ラーベ、南京代表
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月19日 水曜日
ほとんど一日中、やむことなく雨が降った。道路がどんな状態になっているか想像がつくと思う。2週間前に何万人もの人たちがこのキャンパスで登録したさい、地面を踏みつけ、今や雨でそれがぬかるみとなってしまった。何千人という人が靴に泥をつけたまま建物に入ってくるので、どうすることもできない。
午後、すばらしい集会が二つあった。・・・・・・・
午前中、王さんと刁さんは、夫や息子がいまだに帰宅していない女性から引き続きデータを集めている。夫と4人の息子を連れ去られたまま一人も戻ってこない、という女性がいた。あまりにも大勢の人が援助を求めてやってくるので、目立ってしまい、女子学院やここの避難民に危害が及ぶことにならないかと心配している。
今日は外界からの情報は聞いていない。ご存知のように、無線はないし、情報を持っている数少ない外国人、たとえばジョン・マギー、国際委員会、大学病院、平昌巷三号などと常に連絡をとっているわけではない。今日クレーガーが訪ねてきて、最近は上海から船が全く来ないので、いつ南京から出られるかわからない、と言っていた。
今夜、キャンパスの奉仕者仲間が程先生の居間に集まって、それぞれの避難民を確認するための名札1500枚に番号をつけスタンプを押す作業を終えた。各家族グループの組長の服に縫い付けてもらうつもりだ。ここの収容所のほうが便利であるという理由だけで、よその収容所から移ってきてもらいたくない。そのような人がいるという話を聞いている。また、名札は粥場を運営している男性たちにとっても、ここの避難民が日々の割り当て量を確実にもらえるようにするのに役立つだろう。・・・・・
「Imagine 9」解説【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界
戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。
世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1月19日
ラジオによると、あるベルリンの新聞がこれ以上中国に侵攻するなと日本に警告したそうだ。さらに、名誉ある平和を中国に申し出るよう勧めたとか。いやはや、いい気なもんだ。日本がいわれたとおりにするとでも思っているのか。
隴海鉄道沿線での大規模な戦闘が間近に迫っている。国民政府軍はおよそ4万人の兵力を擁し、編成し直されたとの話だ。少なくともラジオではそう言っている。無能な将校は一掃されたとも聞く。だが、残念ながら、中国が勝つという希望はこれっぽっちももっていない。
青島も、日本軍に占領された。済南も。芝罘では、日本側の報告によると、中国警察が反乱を起こし、略奪したそうだ。
山東省の司令官韓復榘と2人の将官が、即決裁判によって、蒋介石の命により射殺されたそうだ。抵抗が十分ではなかったということらしい。こちらでは、韓復榘が現金をそっくり日本の銀行に投資したと、もっぱらの噂だ。そうに決まっている。おそらく日本からもらった金だろう。・・・・・
漢口から出発した防毒部隊はいっこうに到着しない。まだ役に立つかどうか、あやしくなってきた。
今日、解雇通知を書いた。中国本社の指示で、事務所を閉鎖しなければならないからだ。・・・・
・・・・・一月分の給料を全額支払おう。だが正月の心づけはなし。思えばこれは非常にむごいことだ。中国の正月は2月1日からなので、もう目の前に迫っている。正月だからというので、食料品の価格は(まだ手に入ればの話だが)、とてつもなく上がってしまった。もっとも、ここ何十万もの人たちだって、彼らよりましな暮らしをしているわけではないのだが。従業員はみな、私のところで暮らしているが、それも私がここにいられる間の話だ。食料を買う金が足りなくなったら、国際委員会の給食所に厄介にならざるをえない。どっちみち、すでに650人のほとんどがそこから食糧をもらっている。一日、米2袋だ。・・・・・
長年のアシスタント、韓にあてた解雇通知
1938年1月19日 於南京
韓様
戦争による業務停止のため、上海からの指示により、やむなく南京支社を閉鎖しなければならないことになりました。したがって、あなたの職務も終わります。けれども、当社としては、戦争が終わった後、事情さえ許せば、ぜひまた韓さんに働いていただきたいと考えています。つきましては今後の住所を知らせていただきたいと思います。
この場をかりて、当社における過去6年間の忠実な勤務に対し、心からの賞賛と感謝の気持ちを表したいと思います。
敬具
ジーメンス洋行 ジョン・ラーベ、南京代表
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月19日 水曜日
ほとんど一日中、やむことなく雨が降った。道路がどんな状態になっているか想像がつくと思う。2週間前に何万人もの人たちがこのキャンパスで登録したさい、地面を踏みつけ、今や雨でそれがぬかるみとなってしまった。何千人という人が靴に泥をつけたまま建物に入ってくるので、どうすることもできない。
午後、すばらしい集会が二つあった。・・・・・・・
午前中、王さんと刁さんは、夫や息子がいまだに帰宅していない女性から引き続きデータを集めている。夫と4人の息子を連れ去られたまま一人も戻ってこない、という女性がいた。あまりにも大勢の人が援助を求めてやってくるので、目立ってしまい、女子学院やここの避難民に危害が及ぶことにならないかと心配している。
今日は外界からの情報は聞いていない。ご存知のように、無線はないし、情報を持っている数少ない外国人、たとえばジョン・マギー、国際委員会、大学病院、平昌巷三号などと常に連絡をとっているわけではない。今日クレーガーが訪ねてきて、最近は上海から船が全く来ないので、いつ南京から出られるかわからない、と言っていた。
今夜、キャンパスの奉仕者仲間が程先生の居間に集まって、それぞれの避難民を確認するための名札1500枚に番号をつけスタンプを押す作業を終えた。各家族グループの組長の服に縫い付けてもらうつもりだ。ここの収容所のほうが便利であるという理由だけで、よその収容所から移ってきてもらいたくない。そのような人がいるという話を聞いている。また、名札は粥場を運営している男性たちにとっても、ここの避難民が日々の割り当て量を確実にもらえるようにするのに役立つだろう。・・・・・
「Imagine 9」解説【合同出版】より
基地をなくして
緑と海を取りもどしてい世界
戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。
世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。
基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。
基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。
軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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