731を問う!!
2016年7月30日土曜日
731=国家犯罪!!
●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、細菌戦を闇に葬っている!!
日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア
井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)
寧波(ニンポー)細菌戦
闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)
細菌戦裁判(1997年~2007年)
終戦50周年731部隊
細菌戦被害の人々
(毒ガス戦)
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)
暴かれる毒ガス戦の真実
(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
天皇は知っていた!!
澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!
『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。
石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。
これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。
次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。
石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。
石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)
東京初空襲・浙かん作戦
一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。
赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!
1921年昭和天皇フランス視察
1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
*細菌戦による被害者数
★印は直接細菌戦が実行された地域で、その他は伝播地域。
※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!
『細菌戦資料センター会報10号』より
小泉親彦(ちかひこ)
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。
・パネル展
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
話は今につながっている!!幽霊が出る!!
石井隊長の戦後4
<群馬大病院>二つの外科、手術数競う 死亡事故調査委
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
「ミドリ十字」という会社
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴
イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状
国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!
子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
第2章 原子力ムラの源流
「原爆症調査研究協議会」は、折から始まった国家の原子力事業推進体制と結びついた。特に、後継の「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」や併設」された日本学術会議放射線影響調査特別委員会は、1955年以降の原子力委員会や日本原子力研究所、原子力産業会議、放射線審議会、原子力安全委員会の役員等、原子力行政に関わる人物を数多<輩出した。今日の「原子力ムラ」の源流となる組織のひとつだった。その中には、広島・長時の原爆調査団、すなわち文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会や日米合同調査団、睦軍軍医学校や大本営等の調査団に関わった科学者、 医学者も少なからず含まれている。
福島 南相馬の避難指示 大部分が解除
・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直
ヒロシマ・ナガサキの経験は、一般の予想に反し、この国の支配層、とりわけ核物理学者たちの脳裏に、反核・平和の志向を植え付けなかった。むしろ彼らの原子力開発への意欲をかき立てた。そしてそのかき立てられた原子力開発への意欲が、やがて1954年3月2日の、中曽根康弘による原子力予算23,500万円の緊急提案をきっかけに噴出した。それが今日にいたる、 この国の旺盛な、 平和利用に名を借りた原子力開発=原子力発電所設置へとつながったのである。
だからこの国の原子力開発の裏には、戦前以来の核兵器開発の伝統が息づいている。「ヒロシマ・ナガサキへのリベンジ」の思いが横たわっている。そしてそれが今回のフクシマの事故につながったのではないかと、私は予想する。 その予想を裏付けるために本稿は書かれる。
※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!
海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集
開示された文書「何で黒塗り?」
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
放射能汚染地図「川で何が起きているか?」
原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書
●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!
・「中国軍の公式報告によれば昭和12年より昭和20年に至る間中国における日本軍は1312回に亘り毒ガス及び細菌を使用せり・・・・」
毒ガスと抗がん剤(船瀬俊介VS内海聡)
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
・日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より
・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
(時代背景)
1995年当時の内閣は、日本社会党の村山富市氏であった。村山氏はこのとき、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。
このときは、国民の関心が自衛隊に集まっている時であった。
その中での、地下鉄サリン事件、そして、自衛隊の出動・事件の対処がある意味称賛される。これは、何を意味するのだろうか?
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。
地下鉄サリン事件
医学者とは1
松本サリン事件・地下鉄サリン事件当時、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護の措置を熟知していたのは自衛隊化学学校だけである。
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」と書かれている。
【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】
【この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。】
(『悪魔の白い霧』下里正樹著)
自衛隊は、毒ガスのデータを1950年代に米軍(米軍は、ナチスドイツの文献資料を日本から入手して毒ガスを製造)から入手し、開発を進めていた。
・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
週間金曜日 2013年5月17日号
自衛隊とサリン 第1回
「私は自衛隊で毒ガス・サリンの製造に関わっていた」
世界を揺るがした地下鉄サリン事件より数十年も前から、陸上自衛隊はサリンを製造していたことが複数の資料と証言で明らかになった。サリンだけではない。VX、タブンといった猛毒の殺人ガスも・・・・。非核三原則と同様、日本政府は毒ガスについても「持たず、作らず、持ち込ませず」などと表明していたが、自衛隊によるサリン製造が事実なら(これは事実であった!!)、毒ガスのをめぐる戦後の歴史が塗り替えられる可能性がある。(塗り替えられた!!)
※日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。同条約によれば、「生産量が年間1トン以下なら生産施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約によって禁止されていない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止期間(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産・保有・廃棄などが可能だ。防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月まで、計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!
日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)
国会答弁書
・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
だが、このとき運び出された8300トンのサリンは、貯蔵量のほんの一部、知花弾薬庫には、まだまだ大量の神経ガスの残されてあった!!
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良
8月24日(月)
KTCホテル ⇒ ビドー孤墳墓 ⇒ 抗日烈士墓 ⇒ 昼食 ⇒ イポー市育才中学
⇒ 洞窟元日本軍武器庫 ⇒ ドクター・シーニバサガン公園 ⇒ 首がさらされたロータリー ⇒ シビル・カシガスさんのお墓 ⇒
夕食 ⇒ バスターミナル⇒ ビドー
13:00
さらに車で20分ほど進みようやく舗装路に出、ビドーの町外れにある中華料理店へ皆で集まり昼食となりました。
テーブルには、たくさんの料理が並べられどれも美味しく頂いた。廖夫人は、私に気を遣ってくれ、料理をたくさんよそってくれる。突然の依頼にも関わらず、見ず知らずの私に皆が本当に親切に接してくださいました。今回のお墓参りは、毎年行っているのではなく、たまたまであった為、本当に幸運であったと思う。食事を終え皆さんにお礼を述べ、遺族の方2人に会釈をして別れました。
●多磨霊園と大日本帝国
・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
東郷平八郎
東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日― 昭和9年(1934年)5月30日)86歳没
日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功一級侯爵。
薩摩藩士として薩英戦争、戊辰戦争に参加。1870~78(M3~11)イギリスに留学後、天城・比叡等の軍艦の副艦長・艦長を務めた。90呉鎮守府参謀長、95常備艦隊司令長官を経て、96海大校長。 1903第1艦隊兼連合艦隊司令長官に就任し、日露戦争時には、旅順港封鎖作戦を行ない、ロシア海軍極東艦隊を黄海海戦で、またバルチック艦隊を日本海海戦で全滅させた。戦後軍令部長、13(T2)元帥。 30(S5)ロンドン軍縮条約の承認にあたり、条約に強硬に反対。軍の元老的存在であった。日露戦争の戦功で国民的英雄として尊敬され、国葬として多磨墓地の最初の名誉霊域埋葬者となる。
*東郷平八郎の墓は最初青山墓地に埋葬予定であったが、広大な墓場が見つからず、急きょ多磨墓地に変わった。 その後、元帥様と同じ場で眠りたいと集う者が増え、人気が薄かった多磨墓地の人気が上昇。
明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」(旅順攻囲戦における第3軍司令官乃木希典陸軍大将と絡め「陸の乃木 海の東郷」とも[1])と称され国民の尊敬を集めた。
日露戦争後[編集]
日露戦争終了直後、訪問艦にて同盟国のイギリスに渡洋、他の将校や乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦[注 1]。
明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。また、タイム誌の同年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。
※東郷は昭和天皇が学ばれた御学問所の総裁であった。また、731部隊の前身は東郷部隊という名が使われていた。731部隊本部には東郷神社もあった。
※石井四朗は東郷平八郎を尊敬していたので、731部隊の前身は東郷部隊と呼ばれた。(か、もしくは、東郷平八郎が国民的英雄だったので、その名が付けられたのか?)
石井は、1932年8月11日から9月中旬まで満州に出張している。名目は「コレラ防疫指導の為」調査班員は石井を班長とし、増田知貞、技術雇員、石山金三と古本廣文。その他、北川正隆、渡邊連、北條圓了、白川初太郎が満州で活動している。背陰河の東郷部隊は1932年に準備が完了し、1933年にスタートか?人体実験始まる。
●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!
毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。
情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず
自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!
お役人のお仕事・・・いかにまずい資料を隠すか??
お粗末な日本政府の情報公開
・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしいではないか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?
・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!
※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!
情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。
審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??
「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)
※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。満州事変を起こしたあの謀略戦争の開始、あれは関東軍が先走ったと言われているが、その関東軍の上層の命令が無ければ出来ない、そして結果的には大元帥陛下、天皇が承認しなければ出来ない、そういう組織が日本の軍隊だ!!
●『日本の国家機密』(秘密国家日本の実態)
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第4章 機密国家の復活
1、大日本帝国と国家機密
2 機密保護立法の動向
支配者の見果てぬ夢
60年安保闘争の高揚と池田内閣による政策手直しの結果、一時この動きはストップした。だが、63年7月自民党安保調査会が中間報告のなかで、「国家機密保護体制の整備」を強調し、現状のままでは「白蟻的間接侵略を、不知不識に進行させることになりかねない」と警告を発したことから、またぞろ再燃しはじめた。とくに65年2月、三矢研究が暴露されたさいには、瀬戸山自民党副幹事長がこの問題について具体的な検討をすすめるべき段階にきたと発言している。さらに同年9月の第6回日米安協議委で、ライシャワー大使が機密保護法制定の必要を指摘した事実もある。この間、65年4月15日には、事務次官会議申合せ「秘密文書等の取扱いについて」(参考資料2参照)により、管理措置がいっそう 強化されている。
(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30
※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。
●現在の日本
日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。
日本の原爆開発
核融合はやるべきではない!!
この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所
原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?
”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』
●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。
ティムパレイへの書簡(1938年3月3日)
親愛なるティムパレイ様:
この働きに対する法的な責任は担えないとしても、初めから私はその働きと一体に結び合っていて、企画とそれを展開する協議に参画していましたし、原稿全ての校閲もしました。それに、この書物は私の(1937年)12月15日に起草したレポートを利用しているもいるのですが、それは当時南京[Nanking」に留まっていた多くの新聞記者のために準備したものでした。付録には(1937年)12月に、私が日本大使館に出した多くの手紙が含まれています。日本大使館への手紙に私は署名しませんでしたけれども、南京と上海と(東京は含まれないとしても)の日本の官吏たちはみんなはっきり知っていて、それらの文書は私の手になるものです。スマイス博士は国際委員会の事務局が出した各種の報告と公文書とに署名していることから、やはり随分と巻き添えにされています。
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・
(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より
軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)
お粗末な日本政府の情報公開
※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
世界初の「南京大虐殺辞典」出版される
●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)
映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん
2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。
<戦争は犯罪>
途方もない人生も、問い詰めてゆくと、そこに戦争の災いが見えてくる。人間を狂わせる戦争は、いかなる口実をつけても正当化できない。
「日米同盟がないと、だれが守ってくれるの?」「そのために自衛隊を差し出しても仕方ない」という意見を、ある信仰者から聞いたばかりだ。与党議員の受け売りを信じている婦人だ。戦前回帰を警戒しなければならない。
今も、人間の脳を改造する作業が、執拗に繰り広げられている。そのような人たちへの警鐘本が「この生あるは」ではないだろうか。
人々の平和の心を変身させる作業が驀進中だ。中島さんは、それに抗して戦後70年の2015年にこの記録をまとめて発表した。戦争は犯罪である。
発売元 亜東書店 03-3835-7091
中国語版 北京三聯書店「何有此生」
●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
医学者とは?〔8〕
ガン治療のウラ 1/8
船瀬俊介と内海聡の「ここだけの話」2014.04.29@板橋
「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄6/6 ラジオ深夜便
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十四章 創り直された君主制
Ⅵ
幣原内閣の厚生大臣を務めた穏健な保守主義者で、憲法改正案が付託された衆議院の特別委員会の委員長でもあった声田均の日記には、閣議でのアメリカ草案をめぐる審議の2日目、2月22日に幣原がその前日にGHQを往訪した際の様子を報告したことが書かれている。いわく、「MacArthurは先ず例の如く演説をはじめた。『我輩は日本の為に誠心誠意図つて居る。天皇に拝謁して以来如何にもして天皇を安泰にしたいと念じてゐる』。・・・・・」。しかし、最高司令官は続けて、ワシントンの極東委員会における日本に関する「不愉快な」討議内容や、自身の地位の不確実性についても伝えていた。アメリカの草案は天皇を皇位に留めると規定していたので、彼は日本案とGHQ案との間に「越ゆ可らざる溝ありとは信じない」述べた。さらにマッカーサーは、GHQ案においては、天皇は護持されており、従来のように祖宗からその地位を継承するのではなく、国民の信頼によって皇位に就くとしているから、天皇の権威はかえって高まると確信しているというのである。
※アメリカは、戦争犯罪を裁くよりも、天皇家の莫大な財産に目が行っていたのだろう。
日本に対する戦争の最も頼りになる賠償交渉の相手を殺すわけにはいかなかった??
それと日本を、どのように無事に占領するか?が大きな問題だった??
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
敗戦
(その5)
まやかし裁判
11月15日、ワシントンを去るに先だって、キーナンは、トルーマン大統領およびトム・C・クラーク検事総長と「彼の使命」について協議した。12月7日、東京着任の翌日、彼はマッカーサーと午前中を過ごした後、第一生命館を出ようとする際にこう宣言した。大統領と最高司令官の見解には、「確固とした一致がある」。数日後、彼は報道陣に、マッカーサーと彼が「天皇の戦争記録を厳密に洗ったが、有罪に値するようなものは何ら発見されなかった」、と発表した。そして彼は、1937年7月〔7日〕の対中戦争の勃発以来の出来事に関し、東条とその一派が有罪とされる迅速な審理がなされることを望む、と述べた。彼はその日付が、政策決定の責任を負う東条の隆盛の始まりの日として銘記されるとした。その三日後、彼は、連合軍最高司令部が日本政府に、1932年から1937年の間の五大主要事件について、その警察と裁判記録をまとめるように命じたことと、それを特に急いだことを認めた。
※ソ連がアメリカの政策に驚くほど従順だったのは、戦時中、アメリカから多大な援助を受けて、ソ連が立ち直った経緯があったからではないのか??
「ナチスドイツの侵略でそれまで約2000万人の国民が死に崩壊寸前だったソ連だが、アメリカはヨーロッパと太平洋の2正面で戦いながら、ソ連にもトラック60万台、戦車1万3000台、航空機6700機、砲弾2000万発、小銃弾9億発など莫大な援助をし、ソ連を立ち直らせた。」(竹内治一著『赤い夕陽と黒い大地』より)
昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に
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