731を問う!!
2016年7月15日金曜日
731からフクシマまで!!
●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、細菌戦を闇に葬っている!!
日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア
井本日誌も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)
寧波(ニンポー)細菌戦
闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)
細菌戦裁判(1997年~2007年)
終戦50周年731部隊
細菌戦被害の人々
(毒ガス戦)
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)
暴かれる毒ガス戦の真実
(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!
『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。
石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。
これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。
次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。
石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。
石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)
東京初空襲・浙かん作戦
一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。
赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!
1921年昭和天皇フランス視察
1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中にあった)視察
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
解説
―この作品の信憑性について―
編集部 竹村 一
(5)
この作品の信憑性を証明する資料はこの他に無数にあるが、これだけでも十分読者は信憑性を確認してもらえると思う。
ソヴェト軍事裁判における被告たちの判決は次のようであった。( )内は刑期である。
山田乙三 大将 関東軍司令官 (25年)
梶塚隆二 軍医中尉 関東軍軍医部長 (25年)
川島 清 軍医少将 第731部隊製造部長 (25年)
西 俊英 軍医少佐 第731部隊教育部長 (18年)
柄沢十三夫 軍医少佐 第731部隊製造課長 (20年)
尾上正男 軍医少佐 第731部隊 (12年)
佐藤俊二 軍医少将 関東軍第5軍軍医部長 (20年)
高橋隆篤 獣医中将 関東軍獣医部長 (25年)
平桜今作 獣医中尉 第100部隊研究員 (10年)
三友一男 軍曹 第100部隊員 (15年)
菊地則光 上等兵 第731部隊衛生兵 ( 2年)
久留島祐司 (階級不明) 第731部隊衛生兵 ( 3年)
人道上許しがたき細菌戦における犯罪について1名も死刑がない点に、種々憶測がなされている。
1つは、12名の被告がその行動を深く反省し、細菌戦、人体実験に関する秘密を全部軍事法廷で供述したからであるという。これは裁判記録を読み、昭和26年1月2日のモスクワ放送による被告の叫びを聞く限り、根拠ある説だと思う。川島少将は、「人類に対する日本の犯罪は、徹底的に暴露されるべきだ」と言い、平桜中尉は「細菌戦争の責任をもちながら被告席にいない天皇、また石井四郎の厳罰を望む」と言い、菊地上等兵は「細菌戦に関する主要犯罪者がこの席にいないのが残念である」と言い、久留島は「私を細菌戦に駆り立てた日本軍閥に限りない憎しみをもつ」と言う。
※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!
小泉親彦(ちかひこ)
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。
・パネル展
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
話は今につながっている!!幽霊が出る!!
石井隊長の戦後2
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8
「ミドリ十字」という会社
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴
イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状
国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!
子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
参照文献・サイト一覧(本文中に出典を明記したものは原則的に除く)
『昭和31年版原子力白書』(1954年、原子力委員会)
『原子力年鑑1957年版』(1957年、日本原子力産業会議)
第五福龍丸平和協会編『ビキニ水爆被災資料集』(1976年、東京大学出版会)
日韓関係を記録する会編『資料・細菌戦』(1979年、晩聲社)
広島原爆障害対策協議会編『第20回原子爆弾後障害研究会講演集』(1980年、広島原爆障害対策協議会)
三宅泰雄『かえれビキニへー原本爆葉止運動の原点を考える』
(1984年、水曜社)
川名英之『ドキュメント 日本の公害 第4巻 足尾・水俣・ビキニ』
(1989年、緑風出版)
核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒ口シマ―原爆災害調査の記録』(1991年、機関紙共同出版)
中川保雄『放射線被曝の歴史』(1991年、技術と人間)
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典」(1991年、東京大学出版会)
笹本征男『米軍占領下の原爆調査―原爆加害国になった日本』
(1995年、新幹社)
『金沢大学50年史 通史編』(2001年、金沢大学創立50周年記念事業後援会)
岩垂弘『「核」に立ち向かった人びと』(2005年、日本図書センター)
古畑徹「731部隊と金沢」(2006年12月16日、金沢大学サテライトプラザにおけるミニ講演、金沢大学学術情報リポジトリKURA)
科学技術庁原子力局『原子力委員会月報」各巻一覧
(内閣府原子力委頁会ウェブサイト内)
ヒロシマ平和メディアセンターウェプサイト(申国新聞社)
国会会議録検索システム(国立国会図書館) 以上
福島 南相馬の避難指示 大部分が解除
・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直
しかもこれは、「思想により戦争を地球上から追放すること」「人の心底に「戦争は罪悪である」という観念を堅く植えつける」こと (「第一の方法」[★11])は本質的に不可能だという認識の上に放たれた言葉だった。
1950年11月11日、当時はアイオワ州立農工科大学にいたG.W.フォックスから仁科芳雄宛に、次のような書簡が送られているが、 この書簡は逆に、仁科からフォックス宛の「いまアメリカで弾みをつけつつある再軍備プログラム」への積極的協力の申し出の存在を窺わせる。当然「再軍備プログラム」とは、冷戦と朝鮮戦争の勃発を機に始まった水爆開発のことを意味していた。
※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!
海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集
開示された文書「何で黒塗り?」
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
放射能汚染地図「川で何が起きているか?」
原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書
●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!
・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?プラントの知識もなくては製造不能!!
自衛隊員の関与や化学学校のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース
・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
週間金曜日 2013年6月7日号
第4回
事件1報前に待機していた自衛隊。
・「解毒の方法を知っていますか?」
―事件発生数ヵ月前に化学学校に1本の電話が入った。
「・・・化学学校でサリンが製造されていることは自衛隊内部でも知られていないことなので、10人ほどの研究員はその電話に騒然となったようです。その数ヵ月後に地下鉄サリン事件が起き、あの電話はオウム(真理教の信者)からだったと再び騒然となったのです。・・・外部から直接電話が入ることもおかしいのですが、そもそも直通の番号を知っていること自体、あり得ない話なのです
・聖路加国際病院に、自衛隊中央病院の医師が突然現れた。「パムを使うといい」
・1報前に出動待機
実は、自衛隊は警視庁から防衛庁に「毒ガスらしきものが撒かれた」との1報が入る15分前に、すでに自衛隊中央病院に出動待機の連絡を出していた。
・・・以上の経緯を見れば、自衛隊は警視庁から事件の1報が入る前に原因物質がサリンであるとほぼ断定していたことになる。あるいは、この日のサリン撒布自体を事前に知っていたのではないかという疑問が生じる。事件後に称賛された除染活動も、こうして解毒剤をめぐる経緯を見ると、これまでとは違った色合いを帯びてこないか。
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!
日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)
国会答弁書
・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良
8月30日(日)
ホテル ⇒ 空爆が行われた休羅町 ⇒
136部隊の本部 ⇒ ドクター・シーニバサガン公園 ⇒ 洞窟・元日本軍の武器庫 ⇒ アンダーソン・スクール ⇒ 元慰安所の建物
⇒ 元司令部の建物 ⇒ 東亞大旅店 ⇒ 日本人墓地 ⇒ 劉先生のご自宅 ⇒ 昼食
⇒ アマンジャヤ・バスターミナル ⇒ KL
12:20
食後に抗日戦争に関する事実を調べ始めた動機を尋ねてみると、歴史に興味があったことや戦争に関する話題がなかなか報道されないからだとおっしゃっていました。他人がやらないなら、自ら進んで行動しようとする姿勢は、高嶋先生と共通するようにも思われます。ペラ州で抗日戦の研究をされているのは、唯一劉先生だけでその先生から歴史を教わっているのが、徐さんの奥さんである鄭夫人です。
その夫人の祖父は、20キロ郊外のある町で自転車店を営んでいた時、突然現れた日本兵に自転車を強奪されたそうで、父親が当時6歳の時の出来事であったと教えてもらいました。その奪われた自転車は銀輪部隊の一部として、横暴な振る舞いも犯しながら、マレー半島を縦断したのではないかと、想像してしまいます。
また、3年8ヵ月の占領時代での犠牲者数は、約45 万人でそのうち7割が華僑の人々、一般住民の被害者が多かったとのことです。お腹も落ち着いたところで、テーブルを後にしました。今日はお忙しい中、無理して時間を作って頂きました。適確で効率よく数多くの戦跡を案内して頂いたお陰で、占領した側の日本軍と占領された側の兵士や市民の当時の様相をおぼろげながら思い描くことができました。直接ガイドして頂くことは、本当に貴重な体験となりました。改めて感謝申し上げます。劉ご夫婦にお礼の挨拶をし、別れました。その後、KL行きのバスターミナルへ徐ご夫婦が送ってくれました。ご夫婦には、一昨日の午後からお世話になっており、ご自宅へも招いて頂きました。軽食を頂きながら雑談をした後、近くの食堂へ息子さんと共に連れて行ってもらいご馳走してくださいました。昨日は徐さんが運転兼ガイドをして頂き、今日も半日以上私に付き添って頂きました。
道中徐さんの馴染みの店で地元特産のフルーツやその土地土地のお土産も買って頂きました。食事も当たり前のように会計してくださり、何から何までお世話になりっぱなしでした。何とお礼を申していいかわからないほどで、わずかばかりの気持ちからKLで購入した自転車をご家族にプレゼントしました。車は、バスターミナルへ着き、14時30分発のチケットを手配して頂きました。徐ご夫婦の見返りを求めない無償の親切心には、感謝の気持ちで溢れ返ります。また、その親切心はどこから来るのであろうかと、考えてしまいます。今回たくさんのマレーシアの人たちと接して強く感じたことは、人と人との距離が近いな、ということでした。周囲の人に関心を持ち関わることで助け合い協力し合いながら生活している姿を多く見かけました。周囲の人に関心を向け心を届けることは、戦争・戦後責任に関心を抱き考えていくことと共通する部分があるように思います。ご夫婦の親身的な人柄の良さには、本当に助けられ、お世話になりました。心から感謝の気持ちを伝え握手を交わし、バスへ乗り込みました。
14:30
イポーのアマンジャヤ・バスターミナルを出発。
18:10
KL到着。
●多磨霊園と大日本帝国
・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
親泊 朝省(おやどまり ちょうせい)
1903年(明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月3日) 41歳没
日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。
父は教育者として著名な親泊朝擢(同墓)であり、その第三子長男として生まれる。 1925(T14)陸軍士官学校(第三十七期)騎兵科を首席で卒業し、1936(S11)には陸大馬術教官となる。 '39陸大専科へ入学し翌年卒業し、以後騎兵学校教官、陸軍師範学校戦術教官などにもつき、作戦主任参謀としてガダルカナル島の攻防戦にもその身を置く。 '44大本営報道部員となり、阿南惟幾(13-1-25-5)の秘書もかね、終戦時は大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官であった。 1945年9月2日、戦艦ミズーリ号で日本が無条件降伏文書に調印をした翌日、妻と子二人とともに拳銃自決をした。 『草莽の文』と題した遺書を陸軍内部に配布し、軍の反省と日本の将来を憂いた。
ガ島で死すべかりし命を今宵断ちます。
皇国の前途をよろしく頼む
作家澤地久枝の『自決こころの法廷』では未発表の関係書簡が紹介されている。 それは朝省の妻・英子の兄であり、朝省の親友でもある菅波三郎の書簡で、その中で朝省最後の言葉として次のように記されている。
「終戦の間際 天皇、皇太后ら全く意気地なし。
みずから戦を宣しておきながら真先きに軟化して敗戦に至る。終生の恨事。」
親泊(おやどまり)朝省大佐一家の自決
*ここ親泊家の墓所には、殉死を遂げた親泊朝省一家(妻・英子、長女・靖子、長男・朝邦)のほか、その父母の親泊朝擢・ウシ夫妻と彼の弟にあたり教育者として著名であった親泊朝晋らが眠っている。 その朝晋の妻である芳子は、尚順(21-1-2-5)の5女である。
<「自決こころの法廷」澤地久枝>
<仲村顕様より情報提供>
<峯一央様より情報提供>
比島決戦の歌
フィリピン戦を目前にして国民の士気を煽る必要から、敵将ニミッツとマッカーサーの名前を入れるように要望があった。
しかし作詞家が打ち合わせで断ると、同席していた陸軍報道部の親泊中佐がその場で
「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」
と代筆してこの曲が出来上がったという逸話が残る。
自決
日本が戦艦ミズーリ艦上で無条件降伏文書に調印をした翌日、妻と子二人とともに拳銃自決。
南京大虐殺を告発して「自決」した軍人
今日12月13日は、日中戦争のさなか日本軍が中国の南京を陥落させてから70周年にあたる。
周知の通り、日本軍は南京への進軍から南京城内外での戦闘、さらに陥落後の占領に至る過程で、多数の捕虜、投降兵、敗残兵、住民の老若男女らを虐殺、強姦し、放火や掠奪の限りを尽くした(南京大虐殺)。残念ながら日本ではいまだにこの事件を否定しようとする人々が後を絶たないが、南京大虐殺は現地軍の軍人の日記や出征部隊の日誌などからも実証されている厳然たる事実である。
ところで、今年9月に発売された『世界』10月号に、評論家の日高六郎氏の「戦後の憲法感覚が問われるとき」というインタビュー(聞き手は保坂展人氏)が掲載されていたが、その中で、敗戦直後に「自決」した高級軍人が遺書で南京大虐殺に言及しているという話がずっと気になっていた。もしかすると有名な話なのかもしれないが、私は初耳だったので調べてみると、確かに日高氏が1960年代に編纂した敗戦前後の言論を集めた資料集にその遺書が載っていた(日高六郎編『戦後日本思想大系1 戦後思想の出発』筑摩書房、1968年)。
その軍人とは親泊朝省(おやどまり・ちょうせい)という人である。1903年沖縄生まれ、陸軍士官学校の第37期生で、騎兵科を首席で卒業した俊英だったという。アジア・太平洋戦争の戦局の転換点となったガダルカナル島の戦闘に第38師団の参謀として従軍、1944年からは大本営陸軍部の報道部に勤務し、敗戦時には報道部長で終戦処理にも関与した。日本政府と軍が降伏文書に調印した1945年9月2日、自ら妻子を殺害し、自身も自殺した。死の直前、8月20日付で「草莽の文」と題する遺書を書き、陸軍の関係者に配布した。
日高氏によれば、親泊の弟と日高氏の兄が親友だった関係で遺書を入手し、資料集に紹介したという。遺書の内容は「皇国の天壌無窮を絶対に信ずる」という典型的な皇国史観に彩られており、「大東亜戦争は道義的には勝利を占めたが、残念乍ら国体の護持は困難になった」といった精神主義色が濃厚な代物だが、日本軍の行為に対する反省の弁を述べている点に特徴がある。以下、その反省の部分を引用する。そこで南京大虐殺にも言及している(太字は引用者による)。
(前略)
明治維新なって建軍の本義漸く明らかになり、国運之に伴って隆々とし来り、国軍の威容重きをなすに従って、我等軍に従うものまた自ら反省すべきものがあったのではなかろうか。
軍の横暴、軍の専上と世に専ら叫ばれることに就て、私は自ら反省して自らはずべきこと少なからざるものあるを悟るのである。
例えば、満州事変、支那事変の発端の如き、現地軍の一部隊、一幕僚の独断により大命をないがしろにした様な印象を与え、満州事変以来みだりに政治に干与して事更に軍横暴の非難を買うが如き態度を示したが如きはそれである。
また外征軍、特に支那に於て昭和十二、十三年頃の暴状は遺憾乍ら世界各国環視の下に日本軍の不信を示したといえる。即ち無辜の民衆に対する殺戮、同民族支那人に対する蔑視感、強姦、掠奪等の結果は、畏れ多き事ながら或る高貴な方をして皇軍をして蝗軍と呼ばしめ奉るに至ったのである。
斯くて皇軍の権威は地を払い、我が陸軍は海軍とも相克対立を示すに至っては、官は軍を離れ、民も亦漸く軍を離れる次第となったのである。(後略)
*親泊朝省「草莽の文」(日高六郎編『戦後日本思想大系1 戦後思想の出発』筑摩書房、1968年)p.p.67-68より。用語や仮名遣いに今日では不適当なものがあるが、原文のままとした。
「昭和十二、十三年頃の暴状」とは言うまでもなく1937-38年の南京戦及び占領下での日本軍の行いを指す。また、日高氏によれば日本軍を「蝗」=「イナゴ」と呼んだ「或る高貴な方」とは皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)王だという(東久邇宮は敗戦後、昭和天皇の要請で首相となるが、政府・軍の戦争責任を曖昧にした「一億総懺悔」論を唱えて反発を呼び、さらに強力な占領改革についていけず短命政権で終わった)。
注目すべきは、この遺書は連合国の占領が始まる前に書かれたものであり、その頃日本国内で南京大虐殺を知っていたのは、実際に南京戦・占領に参加した軍の将兵と政府・軍の高官以外にはほとんどいなかったことである。一般の人々がまだ真実を知らず、国家も隠蔽を続けていた時期に事件を告発した意味は大きい。
妻子を道連れに「自決」するような身勝手さや、今日から見れば時代錯誤な国家観・歴史観はともかく、「大日本帝国」と日本軍の再建を願うが故に、自軍の「汚点」をあえて告発した親泊と、自己が信じる「物語」のために史実を一向に認めようとしない現在の歴史修正主義者との間には、深い溝があるように感じるのは私だけだろうか。
奇しくも今日、欧州連合(EU)議会が「従軍慰安婦」問題に関し、日本政府に清算を求める決議を行う見通しである。EU加盟国では、特にオランダ人女性が日本占領下のインドネシア(旧オランダ領東インド)で「慰安婦」にされており、オランダ議会が日本に謝罪要求決議を行っている。「慰安婦」制度は南京大虐殺における強姦の多発がきっかけで広がった以上、両問題は密接に関係している。史実を受け入れない日本政府と多くの日本人に対する諸外国の視線は依然厳しい。改めて過去に目を閉ざすことのないよう願う次第である。
なお、親泊朝省については、澤地久枝 『自決 こころの法廷』(日本放送出版協会、2001年)が詳しい。
●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!
毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。
情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず
自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!
・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしいではないか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?
・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!
※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!
情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。
審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??
「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)
※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。
●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第4章 機密国家の復活
1、大日本帝国と国家機密
機密国家の悪夢
中国侵略戦争がエスカレートしていくなかで、1938(昭和13)年には、国家総動員法が制定された。同法は新聞紙法、出版法を補強して政府にたいし、新聞紙その他の出版物の掲載につき制限または禁止をなしうる権限を与え、さらに、総動員事務に従事した者が知り得た官庁の機密を漏泄し、または窃用した場合などについての罰則規定をもっていた(佐藤達夫『国家総動員法』)。
翌39年には軍用資源秘密保護法が制定された。同法は「軍用二供スル(軍用二供スベキ場合ヲ含ム)人的及物的資源二関シ外国二秘匿スルコトヲ要スル事項」につき、陸海軍大臣または主務大臣の指定をもって軍用資源秘密としていた。たとえば、公にする目的でこれを探知収集した者は10年以下の懲役、公にしたときは1年以上の有期懲役という苛酷なものであった。しかも指定秘主義をとっていたため、ありとあらゆるものが秘密とされた。
(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30
※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。
●現在の日本
日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。
日本の原爆開発
核融合はやるべきではない!!
この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所
原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?
”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』
●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。
夫人への手紙(1938年2月1日、13日)
1938年2月1日
親愛なるきみ:
この1週の格闘は主として、(日本側が)7日を期限とする公示を発表して、人々が必ず2月4日前に難民キャンプを出て、自分の家に帰らなければならないと、指令したことに対するものだ。安全区の中に臨時に組み立てたお店も力ずくで取り払われるというし、ほかのキャンプ以外の個人の家屋からも、市内の別の場所にある自分たちの家に戻らなければならないと暗示している。例えば、日本人が1人手下の憲兵たちと、金陵大学に難民たちに話しにやって来て、2月4日に兵士が難民を追い出した後、校門を封鎖し、誰も夜具やその他の財産を持ち出してはならないという。
僕たち手をこまぬいて虜になっているわけではないが、軍側の命令に直接反対するわけにもいかない。直接間接あらゆる種類の願い求めが、外国政府への一大アピールとなり、東京に当地の官吏を抑制するよう要求していて(それが実際に、アリソン事件①と林査理[Riggs]や僕への危険とをもたらしたのは、それがこういう連中にとりわけ僕らを敵視させたからだ)、メディアには僕たちが前にやったのより、ずっと大胆な言論が載っている。
①アリソン事件・・・アリソン領事が日本兵にビンタを張られた一事を指す。
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・
(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より
※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
世界初の「南京大虐殺辞典」出版される
●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)
映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん
2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。
<戦争は犯罪>
途方もない人生も、問い詰めてゆくと、そこに戦争の災いが見えてくる。人間を狂わせる戦争は、いかなる口実をつけても正当化できない。
「日米同盟がないと、だれが守ってくれるの?」「そのために自衛隊を差し出しても仕方ない」という意見を、ある信仰者から聞いたばかりだ。与党議員の受け売りを信じている婦人だ。戦前回帰を警戒しなければならない。
今も、人間の脳を改造する作業が、執拗に繰り広げられている。そのような人たちへの警鐘本が「この生あるは」ではないだろうか。
人々の平和の心を変身させる作業が驀進中だ。中島さんは、それに抗して戦後70年の2015年にこの記録をまとめて発表した。戦争は犯罪である。
発売元 亜東書店 03-3835-7091
中国語版 北京三聯書店「何有此生」
●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
細菌のまき方(井本日誌)
ガン治療のウラ 2/8
「健康診断・検診を受けてはいけない 」船瀬俊介の船瀬塾
「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄3/6 ラジオ深夜便
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十四章 創り直された君主制
Ⅴ
マッカーサーがアメリカ国民に報告せず、またアメリカの新聞も軽視したのは、天皇が、明治の過去と戦後の現在の民主主義とを偽って結びつけていた点である。1912年に死去した明治天皇が、1946年に誕生しようとしていた政治制度の事実上の創始者とされているのである。マッカーサーは年頭詔書を進歩的で解放的だと評したけれども、それとは裏腹に、人間宣言は裕仁とその側近による新たな挑戦であり、彼らはみずから「国民の民主化」を主導しようとするどころか、天皇が成人して以来、ずっとやってきたように、民主化に制限を加えようとしたのである。
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
敗戦
(その4-2)
民主主義の君臨(115)
内閣委員会が、類語辞典を用いて旧憲法の語句を違う言い方に書き換えているうちに、数ヶ月が経過した。一月末、ついに総司令部による強い圧力のもとで、内閣委員会は、用意してきた改定の「要旨」と「説明」を提出した。マッカーサーがそこで発見したものは、改定の不十分さだった。彼は、天皇がもはや「神聖かつ不可侵」ではないものの、「至高にして不可侵」であることに注目した。また、あまりにたくさんの条項が、「他法による規定ある場合を除き」という抜け穴で終わっていた。そこでマッカーサーは、以下のような、彼の期待する最低規定についてのメモを作った。すなわち、「天皇の権力と職務は・・・、憲法にのっとって執行され、憲法の定める国民の基本的意思への責任を負う。国家の主権的権利としての戦争を放棄し・・・、交戦権はいかなる日本の軍隊にも与えられない・・・。日本の封建的制度を廃止する。」(116)
昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に
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