2016年7月4日月曜日

国家犯罪!731から熊本大震災まで!!


●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。それに対し、日本政府は、証拠をことごとく隠蔽し、細菌戦を闇に葬っている!!



寧波(ニンポー)細菌戦


闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)



細菌戦裁判(1997年~2007年)



終戦50周年731部隊



細菌戦被害の人々



(毒ガス戦)
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)



暴かれる毒ガス戦の真実



(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!

『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。



石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。


これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。



次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。



石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。


石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)


東京初空襲・浙かん作戦

一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。




赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!

1921年昭和天皇フランス視察

1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中にあった)視察





・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足

死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



・パネル展





「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦




話は今につながっている!!幽霊が出る!!

石井隊長の戦後3




筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8




「ミドリ十字」という会社




内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月  厚生省


碑を建てても薬害は続く!!

イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴


イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状






以下、ウィキペディアより
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
第6章 原子力時代の「受忍」
「受忍」論の追認
陸軍軍医として広島の原爆調査にあたった御園生圭輔は、戦後、長らく結核予防会の保生園の責任者を務めていた。,御園生の上司だった隈部英雄(当時、結核予防会專務理事)が、1955年5月30日、都築正男とともに、英、仏、ソなビ9ヵ国の医学者と協力して、放射線影響国際学術懇談会を、東京、大阪、広島、長崎で開催したこともあったが、御園生はこの会議で活躍した形跡がなぃ。 中泉正德の門下生という共通のコネクションがあったのだろうか、 1957年には、宮川正が「総論」を書き、「肺臓」の項目を御圍生主輔が書いた論集『X線診断学」(文光堂書店)も出版されているが、御園生は宮川のように、1950年代の原子力の平和利用ブームに乗って原子力行政に関わることはしなかった。


海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集



開示された文書「何で黒塗り?」



原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)



放射能汚染地図「川で何が起きているか?」



封印された原爆報告書







●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!!




・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?プラントの知識もなくては製造不能!!
自衛隊員の関与や化学学校のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース



・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回 
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!






※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!



日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)


国会答弁書

・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス


日本軍の毒ガス被害



昭和天皇の“沖縄メッセージ”




●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良

8月25日(火)
10時40分ビドーを出発し、13時20分ティモの町へ到着。墓碑の場所を尋ねにお店に入りましたが、言葉も書いてくれた地図もよく解らなかった。進んだ先で迷っていると、後からバイクで駆けつけてくれ、そのまま案内してくれた。しかし案内してくれた先は二又路を左折した所。三烈士墓は右折した「地摩埠旅塚」と書かれた門の左脇にあることを後で知った。結局その場でお線香を供え三礼をして後にした。15 時にカンパールの町に到着。町並みは戦後直後を思わせる佇まいがあちこちで見られた。 走行距離 約38キロ







●多磨霊園と大日本帝国



・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。



本庄 繁(ほんじょう しげる)

1876年(明治9年)5月10日 - 1945年(昭和20年)11月20日)69歳没
日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。長男一雄は陸軍主計中佐。娘は山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。

大正・昭和期の陸軍軍人(大将)、男爵、満州事変総責任者
兵庫県出身。本庄常右衛門の長男。号は剣華。渾名はたくわん石。陸軍幼年学校を経て、1897(M30)陸軍士官学校(9期)卒業。 同期に阿部信行(首相・大将)、荒木貞夫(大将:8-1-17)、林仙之(大将:7-1-5)、南京事件の責任者として処刑された松井石根(大将)、皇道派の中心人物で荒木が葬儀委員長を務めた真崎甚三郎(大将)、大平善市(中将:6-1-5-15)、武川寿輔(少将:15-1-15)、風船爆弾考案者の近藤至誠(8-1-15)らがいた。 翌年、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第20連隊附を命ぜられる。 1900中尉となり陸軍士官学校生徒隊附。'02陸軍大学校(19期)に入校するも、'04日露戦争のため中退となり歩兵第20連隊中隊長に任ぜられ出征。 戦傷を負い帰還し、'05陸軍省出仕の辞令が下り大臣官房附となる。'06陸軍大学校復校し、翌年卒業。参謀本部出仕に移る。 '08北京・上海に駐在。'13(T2)内地に戻り参謀本部支那課員、陸大兵学教官を兼ねる。'15欧州出張。翌年帰国し、'17参謀本部支那課長代理を経て、'18大佐となり参謀本部支那課長となる。 '19歩兵第11連隊長となりシベリア出兵に参加。翌年帰還し、'21から3年間、参謀本部附で張作霖との共同防敵協定によって軍事顧問に就任する。 '22少将。'24歩兵第4旅団長。'25支那在勤帝国公使館附陸軍武官。'27(S2)中将。'28第10師団長に親補される。
'31.8.1満蒙の緊迫した情勢の中で、菱刈隆大将の後を受けて関東軍司令官に就任。その一ヶ月後に柳条湖事件が起こり、関東軍参謀たちによる謀略で満州事変が起こった。 本庄は中村大尉事件の処理と柳条湖事件後の馬占山・錦州作戦の指揮をとった。'32軍事参議官となり、「満蒙共和国統治大網案」「満蒙自由国家成立案大網」を作成。 '33.4~'36.3侍従武官長として昭和天皇に仕えた。同年3月23日勲一等瑞宝章受章、6月に陸軍大将、7月28日満州事変の功により功一級金鵄勲章を受章。 翌年4月29日勲一等旭日大綬章受章。満州国から大勲位蘭花大綬章を受章。'35(S10)12月26日に日露戦争・第一次世界大戦・満州事変の功により男爵を授爵し華族に列せられた。
'36.2.26に起こった2・26事件のときに、昭和天皇の断固鎮定の方針に対して、反乱将校に同情的な姿勢をとり、青年将校の国を思う精神は認めてほしい旨を幾度も奏上するも、昭和天皇の不興を買い、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当タラン」と厳しい叱責を受けた。 また女婿の山口一太郎大尉が間接的に事件に連座していたことから、事件後に侍従武官を辞任し、待命、予備役編入して第一線を退いた。
'38新設の傷兵保護院総裁、'39軍事保護院総裁となり、'45(S20)5月から枢密顧問官に就任し、同年9月から補導会理事長を兼ねた。 同年11月に第二次A級戦犯容疑としてGHQから逮捕命令が下る。本庄は「かねてから覚悟はしていた。十分責任を感じている」と言い残し、出頭命令最終日の11月30日に東京・青山の旧陸軍大学校内に置かれた補導会理事長室にて自決した。 享年70歳。遺書は二通あり、その要旨は、満州事変および日本の敗戦責任を感じてとある。 長男の本庄一雄は陸軍主計中佐として陸軍経理部で終戦を迎えた。'80(S55)『武人青州』を刊行している。
<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍のリーダー総覧>
<日本陸軍将官総覧>
<東京裁判の100人>
<日本の名門1000家>



*墓所内には「本庄繁ノ碑」が建つ。ここには遺書が刻む。戒名は忠誠院殿大機青州大居士。

【満州事変】
1931年9月8日奉天近くの柳条湖における満州鉄道線爆破事件をきっかけとして起きた日本と中国間の武力衝突である。 その背景には、'27と'29の大恐慌で危機に立った日本資本主義の切り抜けと、満州における中国の満鉄併行線の敷設による満鉄の赤字問題、満州の張学良が国民政府と結んで青天白日旗をひるがえしたこと、ソビエトにおける5ヵ年計画の成功等が原因であり、さらに三月事件に失敗した陸軍中堅将校の腹いせにより、関東軍の作り上げた爆破事件を中国側の仕業といいがかりをつけて武力衝突を引き起こしたことにもつながる。 その他、地誌調査のため旅行中の中村震太郎大尉と、同行した井杉延太郎予備騎兵曹長が、中国の屯墾軍第三団にスパイ行為と捕縛され殺害された「中村大尉殺害事件」。 長春付近の万宝山集落で朝鮮人農民と中国人地主との対立が発生し、ここに中国人民と日本人警官の武力衝突が引き起こされた「万宝山事件」が相次いで起こった。 こうした中で、関東軍参謀の板垣征四郎(当時大佐)と、石原莞爾(当時中佐)、支那課長の重藤千秋(当時大佐)、ロシア班長の橋本欣五郎(当時中佐)らによって、「満蒙経路」「満蒙分離」の計画のプランは敷設され、満州謀略作戦は着々と進められていた。
この折に、本庄が関東軍司令官に着任。着任一ヵ月後、計画は実行段階に突入し、柳条湖爆破事件が起こった。 事件勃発すぐに板垣から本庄に電話が入り、奉天で日中両軍が衝突し、緊急な場合であるため、板垣の独断で独立守備隊などを出動させた旨が伝えられた。 間もなくして、石原が遼陽第二師団の奉天への出動命令書をたずさえ来訪した。その際、石原は本庄に対し、謀略作戦の計画を強引に説得。 本庄は蒼白な顔で、しばらく黙考のすえ「本職の責任においてやろう」と全面攻撃命令を裁決した。
奉天郊外の柳条湖の満鉄線路に爆薬を仕掛け、午後10時20分頃に点火し大爆音とともに線路が吹き飛ぶ。 この爆破を合図に「北大営」に照準を合わせ、奉天守備隊に秘かに配備されていた二十四センチ榴弾砲の砲撃がはじまり、中国兵は敗逃。 日本軍は北大営を占領し、奉天城も日本軍の手に落ちた。日本軍は約100日ばかりの短期間に全満州を武力で制圧。 その後、'32満州国独立宣言、翌年、帝政施行を声明した。一方、日本は、その行動を侵略と断定する国際連盟から脱退した。 満州事変は大恐慌に見舞われた世界資本主義の危機が極東において爆発したもので、第二次世界大戦の口火はこの時に切られたともいえる。 よって、1931満州事変から日中戦争を経て、1945ポツダム宣言受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して「十五年戦争」と呼ばれている。 なお、「十五年戦争」という言葉を最初に使用(1956)したのは、文芸評論家で哲学者の鶴見俊輔(5-1-12 健在)である。
<日本史小事典など>

【遺書に関して】
1945年11月20日午前10時頃。本庄は東京・青山の旧陸軍大学校内に置かれた補導会理事長室にて自決した。遺書は二通発見された。一通は、墓所内の碑にも刻む下記の文面である。

多年軍ノ要職ニ奉仕致シナカラ御国ヲシテ遂ニ今日ノ如キ破局ニ近キ未曾有ノ悲境ヲ見ルニ立到ラシメタル仮令退役トハ云ヘ何共恐懼ノ至リニ耐ヘス罪万死ニ値ス 満州事変ハ排日ノ極鉄道爆破ニ端ヲ発シ関東軍トシテ自衛上止ムヲ得サルニ出テタルモノニシテ何等政府及ヒ最高軍部ノ指示ヲ受ケタルモノニアラス全ク当時ノ関東軍司令官タル予一個ノ責任ナリトス 爰ニ責ヲ負ヒ世ヲ辞スルニ当タリ謹テ聖寿ノ万歳、国体ノ護持、御国ノ復興ヲ衷心ヨリ念願シ奉ル 昭和二十年九月 本庄 繁

〔要訳〕 多年 軍に要職に奉仕致しながら 御国をして達に 今日の如き破局に近き未曾有の悲境を見るに立到らしめる 仮令退役とは云え 何とも驚愕の至りに耐えず 罪万死に値す 満州事変は 排日の極鉄道爆破に単を発し 関東軍として自衛上止むをえざるに出でたるものにして 何ら政府および最高軍部の指示を受けたるものにあらず 全く当時の関東軍司令官たる予一個の責任なりとす ここに責を負ひ世を辞するに当たり謹んで聖寿の万歳、国体の護持、護国の復興を衰心より念願し奉る 昭和二十年九月 本庄繁



もう一通は、「満州事変の本質」と題する口述筆記で、趣旨は上記の遺書と同じであるが、事件当夜の状況について、次のように述べている。

「右急報に接した余は、中央部の指令を仰ぐの暇もなく 直ちに各地にある管下部隊に対し 所要の命令を下命したのであるが、管下部隊の中には余の命令到着に先んじて行動を開始した部隊もあり、また敵の攻勢に出た部隊もあった」

満州事変の最高の責任を負うこととなった本庄は、「智謀の石原莞爾、実行の板垣征四郎」に利用された将軍であり、彼ら参謀たちが画策する“満州国独立プラン”に乗せられた関東軍司令官であったことは自明の理である。 戦後、板垣・石原という権謀術数の士を部下にもった本庄こそ、最も気の毒な役割を演じてしまったといわれているが、部下の参謀たちに操られるままになっていた事実より、自己の信念もない将師たる器量ではないと見る文献もある。 なお、板垣征四郎は陸軍大将となり、陸相、朝鮮軍司令官、第7方面軍司令官で終戦、A級戦犯として絞首刑で'48没。 石原莞爾は陸軍中将となり、ジュネーブ軍縮会議の随員、関東軍参謀副長に転じるも、参謀長の東条英機と対立して左遷、予備役になり、立命館大学教授として民間で活動をした。'49没。
<日本陸海軍のリーダー総覧など>




●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!

毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず

・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしいではないか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?

そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?


・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!


情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??


「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。



●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より

第3章 秘密保全の機構と体制
3  産軍複合の秘密

政治資金の黒い霧



もっとも、伊藤忠に同情するわけにはいかない。こんな話もある。「海原派とコネの深かった伊藤忠が故河野一郎以来の・・・・縁をこの辺で切り、ウシをウマに乗りかえて佐藤主流と縁結びのため海原派攻撃に自ら手を出した?とのカンぐりも行なわれている。川崎の上司為我井忠敬元2等空佐(伊藤忠航空機電子部部長代理)のロッカーから、為我井自身は焼却したバッジ関係の秘資料が見つかった―というミステリーが、この伊藤忠換馬説を裏付けるとの見方もある」(小和田次郎『デスク日記5』64~5ページ)。
ともかく、こうして佐藤派のパイプが太くなる一方、軍需産業界では独占体の支配的地位が確立し、受注は大手に集中することになった。競争も一定の限度でコントロールされ、独占体の協定で分担生産する傾向がつよまっている。したがって、政界の体制内再編成が行なわれたとしても、かつてのような乱戦は生じないであろう。つまり産軍政の癒着は、そこまで深まったのである。

(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景



※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。



●現在の日本

日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。

日本の原爆開発






核融合はやるべきではない!!

この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?



”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!



科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』







●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。
友人たちへの手紙(1938年1月10日)
親愛なる友人がた:
・・・
1938年1月25日親愛なるアリソン様
今日お昼に、私は呼ばれて金銀街8号に駆けつけ、日本兵を追っ払う手伝いをしました。その家屋は、我々の養蚕ビルと同じ間垣で囲まれた区域にあるのですが、我々の財産ではありません。昨日日本兵何人かが、我々の建築物を通ってその家屋へ行き、何人かの婦女を強姦したのです。その婦女たちは夕べ金陵大学へ避難しに送られました。今日兵士がまた来たのですが、婦女が見つからず、かんかんに怒ってある男の人から略奪し、窓もぶち壊しました。この事は、アメリカ人の福祉がまったくこの都市の厳格な規律に依存しているのであって、日本側当局がたまさかアメリカの財産に配慮するだけでは保たれないことを、明らかにしています。これまで1週間に、この家屋は日本兵に5回踏み込まれ、1回以上が養蚕ビルを通ってのことでした。今日そのひどさがますます高じてきてはじめて、家屋の主は危険を冒して、唯一救いを求められる人に救いを求めて、彼らがこの都市で生活・・・・?







しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分




昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・

(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。

したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より



※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)




世界初の「南京大虐殺辞典」出版される








●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん


2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)

<訥々とつづる背後は>
418ページに及ぶ16年の記録は、淡々と、かつ訥々とつづっている。そこに、伝えようとしても伝えられない悲しい思い出が読み取れる。
人生は山あり谷ありである。順風満帆などない、といってもいい。苦悩の連続といってもいい。一見楽し気にふるまっている人でも、一歩踏み込むと、そこに悲しい事実に泣いていることも珍しくない。

筆者も近年、妻を含めて3人の親しい友を失ってしまった。重い病気が生きる力を奪ってしまったのだ。医療事故で息子を奪われた妻は、その心労で重い病につぶされてしまった。
筆者の日中友好活動に支援してくれた人権派弁護士も、そのまじめさから来る心労で病に倒れてしまった。
幸せを目の前にしながら、やくざの牙にかまれ、逃げ出そうとして食い殺されてしまった悲劇の友もいた。戦争遺児である。これの徹底追及を月刊誌「財界にっぽん」で開始した。




発売元 亜東書店 03-3835-7091 
中国語版 北京三聯書店「何有此生」






●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!



夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)




・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

解説
―この作品の信憑性について―
編集部       竹村 一
(2)


「関東軍防疫給水部」が第731部隊に昇格したのは、昭和17年であると思われる。ドイツが、ソヴェトに攻撃、侵略を開始してから、731部隊の研究、実験、製造は急激に活発となった。この平房駅附近の大軍事部落の建設工事が始められたのは、昭和16年であり、昭和17年に完成、ここに第731部隊が配置されたのである。この他、細菌戦用兵器の、研究、実験、製造の特殊任務を帯びた部隊として顕著なものに、第100部隊がある。第100部隊は、長春南方10キロの孟家屯附近にあった。第100部隊は、もとの「関東軍軍馬防疫廠」の昇格したのもである。第731部隊が大きくクローズアップされたのにひきかえ、第100部隊があまり知られてないのは、第100部隊の主要任務が「謀略行為の実行、即チ流行病菌ヲ以テ家畜ヲ感染セシメ、牧場、貯水池及ビ河川ヲ汚染スルコトデアッタ」(前掲公判書類、元日本軍関東軍獣医部長高橋隆篤中将の供述書より)といい、家畜による実験、家畜殺戮を主要任務として、人間実験に関しては、731部隊よりも少なかったからである。

小泉親彦(ちかひこ)



※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。


真生体解剖証言実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
731の流れを汲む戦後の医学界




ガン治療のウラ 5/8




「経済の真相/アべノミクスに生活を壊されてはいけない」船瀬俊介の船瀬塾



「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)

医師 甲田光雄4/6 ラジオ深夜便






●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

第十四章 創り直された君主制

「太平洋戦争史」は南京における蛮行やその他の暴虐を含む 「日本の軍国主義がもたらした犯罪」を強調したが、それと同時に天皇を中心とする「穏健派」による平和への努力についても光を当てた。第1回目の記事は、何年も遡って幣原首相(1931年の満州侵略の時期、外務大臣だった彼は当初、不拡大方針をとったが、のちには関東軍の主な擁護者に転じ
た)について記述し、外務大臣在任中、「平和と国際協調の諸原則」を尊重した人物として描いた。しかし、ひと握りの「軍閥」に最大の責任を負わせ、また国民を一方的にだまされた犠牲者として描く―天皇でさえもだまされたとする―GHQが意図的に歴史認識を変えようとした努力は、結局のところ、戦争責任の受容という点で日本人を混乱させることとなった。


瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」







●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

敗戦
(その4)


宮廷人質
裕仁は感傷的になっていた。「この時期はいつも、私は悲嘆に駆られます。どうぞお体に気をつけてください。私たちはいろいろと話し合ったので、私の気持ちを貴方はよくご存じのことと思う。ですから、刑務所では、他の者たちに、よく説明してやってください」、と彼は言った。
「陛下のご意思に従うことを誓います」、と木戸はうやうやしく言った。そこで裕仁はたちまちに、とてもいじらしい様子をもって、なつかしい追憶のわき道に会話をそらした。それを木戸は「あらゆる事々を思いのままに」、と記している。二人だけの話が終わったところに、皇后良子〔ながこ〕が入ってきて、貴重な骨董テーブルを木戸に贈った。かつての木戸の同僚たちがそれぞれの贈り物を持ってそこに加わり、ワインや晩餐がそれに続いた。8時ごろ、皇后は皇后自身の手製のドーナツを、最後のお別れのプレゼントとして彼に贈った。ほろ酔いとなったころ、天皇のもとを辞して宮内省に戻り、その他の侍従たちに別れの挨拶をした。その夜は、彼は友人の愛人宅に引き上げた。


昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に













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