2010年11月12日金曜日

この世の地獄!日中戦争・南京大虐殺

我々日本人は過去に目をつぶっていてよいのだろうか?
戦後補償を考える!!

日中の歴史の共有化を模索する!!

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!!
「No More War!!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!!

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●日中戦争
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
日本鬼子(リーベンクイズ)・・・軍医の野天解剖
以下の手記は731部隊とは関係ないが、日中戦争で軍医がどのようなことを行なっていたかが分かるものである。日中戦争では中国に渡った軍医のほとんどがこのような生体解剖をやっていた。

小美野義利
戦務班長 憲兵曹長
〈旧部隊名〉
関東軍特別警備隊2大隊本部

午後の陽ざしがようやく西に傾いた頃、2台の自動車が大同大街(だいどうだいがい)を矢のように走っている。前の車には今日の指揮官小林少尉と山垣内通訳、それに憲兵隊司令部の小笠原軍医大尉と土倉衛生曹長が乗っており、すぐその後を追っかけるように、太田曹長の運転する車が走っている。車中には、真っ赤な長靴に日本刀を握った小美野伍長と、ささくれ立った竹刀を押っ立てた桐原軍曹が、後ろ手に縛り上げた中国人3人を踏みつけるように体全体を押えていたが、左腕に巻いた白地に赤の憲兵という2字が毒々しく大きく見える。
《もうすぐだ、俺の腕がどんなものか見せてやる》―小美野は出発前に太田や桐原から、「いくら剣道3段でも人間は巧く(うまく)斬れまい」と言って笑われたことに無性に腹が立って仕方がなかった。と、ともに、斬り損じてはという不安も加わって、いらいらして落ち着かない。

※斬る方もうまく斬れるか、不安だったろうが、無実の罪で捕らえられ、処刑される方はもっと不安というか恐怖を味わっていただろう!!戦争というものは被害者・加害者の人生を狂わせるものだと思う!!日中戦争では本当に日本兵は日本鬼子(リーベンクイズ)だった!!

           父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

     主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)


問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
② 731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④ 731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。


●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦
陳桂英(女、59歳)の証言
 1937年の12月13日と覚えていますが、日本軍が南京を占領しました。その時家は鼓楼2条巷13号でした。ある日日本兵の一群が家に走り込んで来て、3番目の伯父の手をつかみ、ホアクーニャンを要求して、階上も階下も至る所むやみに探し回り、伯父はその時とっても恐がり、3階から下に転げ落ちました。隣の家に13歳の独り娘がいたのが、日本軍に輪姦され、戻って来て間もなく死んでしまいました。そこには住まえずに、私たち避難しに金陵女子大学まで逃れましたが、日本軍が青年の人達を何千人も捕まえて来て、人々に自分の肉親を認定して引き取るようにさせたので、あるお婆さんが一遍に息子を4人引き取りましたが、実際はどれもそのお婆さんの息子ではなく、自分の夫を引き取った婦女もいれば、自分の夫でない人のを引き受けたのもいて、引き取る人が無くて残ったので、最後に日本軍にトラックで江辺まで引きずられて行って殺害されてしまったのが、その時で4、5百人いました。
 1度は日本兵14人が未婚の娘さん1人を輪姦し、その場で死に至らしめました。それから、母方の祖母の家の家屋12軒が日本軍の手で全部焼き尽くされてしまいました。(蒯世剛が記録)

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2010年11月11日木曜日

この世の地獄!日中戦争・南京大虐殺

我々日本人は過去に目をつぶっていてよいのだろうか?
戦後補償を考える!!

日中の歴史の共有化を模索する!!

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!!
「No More War!!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!!

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●日中戦争
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
日本鬼子(リーベンクイズ)・・・軍医の野天解剖
以下の手記は731部隊とは関係ないが、日中戦争で軍医がどのようなことを行なっていたかが分かるものである。日中戦争では中国に渡った軍医のほとんどがこのような生体解剖をやっていた。

小美野義利
戦務班長 憲兵曹長
〈旧部隊名〉
関東軍特別警備隊2大隊本部

この事件は1940年9月の初旬、新京(しんきょう)憲兵隊長近藤新八大佐の命により市内新発露(シンパーロ)憲兵隊将校官舎付近で逮捕した3人の中国人労働者に対し、私が直接行なった罪業(ざいごう)である。
 9月と言ってもまだ、ジリジリする暑さにどんより腐ったような眼つきで新聞を眺めていた特高係長・小林少尉は電話に手を伸ばし、ダイアルを回した。「アッ、大佐殿ですか、この前約束しておいた件、今日やります。都合はどうですか・・・・ハッ、じゃ待ってます」
ガチャリ、受話器を投げ出すと腰巾着(こしきんちゃく)の小美野伍長を呼び出した。「今日、やるから準備だ」と命令した。部屋に帰った小美野は桐原軍曹に、「国民党地下組織容疑者の3人は結局、何も出ないので、いよいよ内緒で処分することになったよ」と、ニタニタしながら腕をさすっていた。
「ハハア・・・・手前(てめえ)、斬る気か、アハハ・・・」太田曹長が馬鹿にしたように高笑いした。

※無実の中国人をいとも簡単に逮捕し、そして厳しい取調べをし何も出てこなくても処分していたことがよく分かる。日中戦争ではこのようなことが多かった。日本兵は軍刀(日本刀)を持っていて、無実の人間や捕虜などを座らせ首をはねていた。


            父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

     主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)


問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
② 731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④ 731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。


●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦
任桂芳(女、65歳)の証言
 日本軍が南京を占領した時、私の家は紅土山でした。私は日本の賊がわが同胞を殺し、婦女を姦淫するという狂暴な行為をこの眼で目撃しました。紅土山の河の向かいに酒店をしている張爺さんがいましたが、一度、日本軍が爺さんに酒が飲みたいと言い、張爺さんは日本人の言葉が分からずに、手を振ったら、日本軍は張爺さんが酒を飲ませようとしないんだと思って、銃床で爺さんを殴り倒し、それから河にほうり込み、日本兵何人かは更に煉瓦を投げつけて活きながらに打ち殺してしまいました。
 旧の石城石油スタンドの付近にある穴に、若い婦女が1人隠れていたのが、日本兵に見つかり引きずり出され、日本兵4人が輪姦し、それからタオルを3枚婦女の下半身に突っ込んで、たちまち死亡しました。(張連英と林金洲と夏龍生が記録)

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2010年11月10日水曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

我々日本人は過去に目をつぶっていてよいのだろうか?
戦後補償を考える!!

日中の歴史の共有化を模索する!!

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!!
「No More War!!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!!

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
細菌戦(731部隊の蛮行)
アメリカ・カナダに証言しに行こうとして、入国拒否をされたあの篠塚さんの731部隊の手記です。篠塚さんは、731部隊の少年兵であった。
田村良雄(帰国後 篠塚良雄に改名)
防疫診療助手 兵長
(略歴)
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地  千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢34歳(当時)

●― 筆者(篠塚良雄氏)からの一言〈昭和57年7月〉―
 私は自分の体験から、侵略戦争を正当化したり美化したりする風潮に断固反対する。
戦争を知らない世代が多くなったことは喜ばしいことだと思う。それは、それだけ平和が続いたことだから。また、この世代の人たちは戦後民主主義教育で育った人たちだから、私たちのように武器をもって他国に侵入し、ほしいままに住民を殺害しておきながら、それをも正義の戦争だというような口車には乗らないと思う。しかし、戦争の実体を知ってほしい。戦争は邪悪の凝固物だということを知ってくれることを願う。
 日本でも最近、緊縮財政の中で軍事費だけが大きく突出し、平和の象徴である福祉が切り捨てられつつある。戦争準備をやめて、その金を福祉に、世界の飢えた人々に、アジア各国との友好に、世界の恒久平和のために使ってくれというのは、多くの日本国民の願望ではないだろうか。(篠塚良雄)

※本当に隣国が仲良く暮らすと言うのは難しいとつくづく思う。尖閣諸島の領有権や北方領土問題。何とか武力によらず、根気強い話し合いの中で解決できないものであろうか?まずはあの戦争のはっきりした総括が必要ではないか?井本日誌やアメリカから返還された731部隊の資料を公開し、731部隊の罪業などを明らかにすること。そしてそれに基づいて、日中・日露の歴史認識の共有化をはかり、謝罪すべきは謝罪して、これからの外交を考えるべきではないか?民主党も自民党と同じく、軍事費に金をかけ、管政権は日米安保条約をより強化して難問に向かおうとしている。やはり最後は日本とアメリカの軍事力か?
 もう少し、軍事力によらない解決方法ないものだろうか?日本はあんなにひどい戦争をしたのだから、憲法9条を生かして、世界平和を実現できないものだろうか?

            父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

     主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)


問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
② 731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④ 731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。


●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦
梁真奎(男、57歳)の証言
 1937年の暮れには、私はやっと10歳でした。ある日、私は近くの胡お姉さんが私の家の屋根裏に隠れていたのを、日本軍に見つかって強姦され、強姦された後飛び降りて逃げて行くのをこの眼で見ました。
 私はまた中国兵が1人日本軍に1発で撃ち殺されるのをこの眼で見ました。又1度は、日本兵2人が若い女性の同胞1人を輪姦しました。日本軍は我等の児童をも放つことが無く、ある日、私は日本軍が我等の児童何人かに狙いを着けているのを見つけて、急いで逃げましたが、私のそばに立っていた仲間の1人は不孝にも銃で撃ち殺されました。(楊進文と項如常と夏龍生が記録)

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2010年11月9日火曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

我々日本人は過去に目をつぶっていてよいのだろうか?
戦後補償を考える!!

日中の歴史の共有化を模索する!!

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!!
「No More War!!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!!

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
細菌戦(731部隊の蛮行)
アメリカ・カナダに証言しに行こうとして、入国拒否をされたあの篠塚さんの731部隊の手記です。篠塚さんは、731部隊の少年兵であった。
田村良雄(帰国後 篠塚良雄に改名)
防疫診療助手 兵長
(略歴)
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地  千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢34歳(当時)

● ― 筆者(篠塚良雄氏)からの一言〈昭和57年7月〉―
 731部隊の極悪非道な行為は、天人(てんじん)共に許すことのできない犯罪である。戦争に科学者の良心を売り渡した「学者」、それも人命を救うことを使命とする「医学者」「医学徒」の手によって、またはその指揮のもとに行なわれた残忍な行為は、戦争犯罪としても『国際法の規範と人道の原則を踏みにじった』悪の典型である。
私は愚かにもその手先となって、償うことのできない数々の罪行を犯してしまった。どんなに悔やんでも悔やみきれない。
 戦犯拘留から釈放され、帰国して20有余年、恵まれた生活ではなかったが平穏にその日その日を送ることができた。これも侵略戦争の反省の上に立って、戦争を許さず、平和を守り抜いてきた日本国民の良識の賜(たまもの)であり、深く感謝している。

※篠塚さんは、戦後731部隊の証言活動を続けている!!731部隊でどんなことがあったのか、具体的によく分かる。731部隊の上級隊員たちは口を堅く閉ざし過去を語ろうせず、医学界や製薬会社で出世した人も多い!!
 日本政府も731部隊関係の資料の公開をせず、ずっと闇の中に葬っている!!
なぜか?それは資料が公開され、731部隊の全容が知れると天皇の責任問題が浮上するからである!!日本政府とアメリカはだんまりを決め込んでいる!!この秘密を漏らさないということで日米は結託し軍事同盟を強めている!!
日本の学校では日中戦争についてそれほど深く教えず、残虐な行為のあったとことを知らないで卒業する生徒も多い!!そして日本で目立つのは右翼・出版界のあの戦争を侵略戦争と捕らえず、美化する言論である!!

            父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

    主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)


問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

 一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
② 731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④ 731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。


●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦
陳順如(女、81歳)の証言
 日本兵が南京に来たので、私と夫は息子2人と娘1人とを連れて避難しに江心洲まで逃げました。その時私は身ごもっていました。江心洲で、私は家が芦柴廠で名を許老五と呼んでいたのが、日本兵に防空壕から引きずり出され、彼を中国兵だと言って、その場で銃殺してしまったのをこの眼で見ました。後に私たちが江心洲から芦柴廠の家に戻ったら、又もや日本兵が至る所で焼き殺し犯しかすめているのを見かけました。一度、日本兵何人かが芦柴廠の韓という人の娘を1人捕まえて行って強姦しました。その女性は名を韓××と言いました。(張連英と欧文華と夏龍生が記録)

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2010年11月8日月曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

我々日本人は過去に目をつぶっていてよいのだろうか?
戦後補償を考える!!

日中の歴史の共有化を模索する!!

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!!
「No More War!!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!!

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
細菌戦(731部隊の蛮行)
アメリカ・カナダに証言しに行こうとして、入国拒否をされたあの篠塚さんの731部隊の手記です。篠塚さんは、731部隊の少年兵であった。
田村良雄(帰国後 篠塚良雄に改名)
防疫診療助手 兵長
(略歴)
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地  千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢34歳(当時)

「助けてくれ―ッ」須藤の口からうめきがもれると、宇田の手はふるえました。「その態(ざま)はなんだ」後ろから一喝を食った宇田は、サーッと解剖刀を下に引くと、かえす刀で胸部の皮膚を裂き始めました。血は解剖台の血流しを通じて、下にポタポタ流れ出しました。「畜生」、須藤の口から血をしぼる叫びが出ました。それと同時に、ドウドウ解剖台上に内臓がはみ出、彼は絶命しました。
 それから数時間後、第4部第1課の研究室で、暗視野にした顕微鏡の下でとび回っているペスト菌をのぞきながら、「これじゃ駄目だ。もっともっと動物体を通過させて毒力を強めろ。いいか細島」と、より残酷な生体実験を指令している課長・大木啓吾少佐の言葉を聞きながら、私は未来の将校姿を夢見ながら、細菌大量生産に使う菌株を培養しはじめました。


 私は非人道的罪業を平然と行なってきた自己を憎みます。このような罪業を再びこの地球上で行なうことを決して許すことはできません。人類は平和な労働にいそしみ、人類の繁栄を求むべきであります。侵略者、戦争挑発は人類共同の敵であります。私は非才を顧みず、ここに日本帝国主義細菌戦部隊の罪業の一端を暴露し訴えるものであります。

 ※須藤は同じ731部隊員によってモルモットにされ、最後は残虐に殺された!!731部隊の目的は、毒力の強い細菌を培養することであり、そのためには仲間の犠牲も強いた!!驚くべき残虐な部隊だと思う!!須藤の両親にはどのような知らせがいったのであろうか?ごくありふれた「名誉の戦死」か?昭和の初期、日本は八紘一宇を目指し、全世界を天皇の下に治めようとした。その過程で、戦争に勝つために非人道的なことを多くやってしまった。日本人のおごりがあった!!

            父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

     主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)


問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
② 731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④ 731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。


●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦
周桂芳(女、60歳)の証言
 日本軍が南京に侵入してから、家の家屋が焼かれてしまい、家中で漢中門の鬼○城の下の河辺まで逃げ、バラックを張って住まいました。そこで、私は何度も日本軍が同胞をいっぱい虐殺するのを目撃しましたが、ある日、日本の賊は捕まえて来た難民十何人かを鬼○城の山の上まで連行し、全部銃殺してしまいました。それから一度、日本軍は鬼○城の城壁の上から、同胞を2人下に落として墜落死させました。兄が日本軍に捕まって働かされ、道で日本兵に一発撃たれ、肩に傷して、後で逃げて来ました。鬼○城の下に小六子と呼んでいたのが住んでいて、その家に女房を含めて婦女が4人いましたが、女房が何度も日本軍に強姦されるので、小六子は婦女4人を芦の柴の堆の中に隠しました。その日に日本軍が又来て、婦女が見えないので、小六子に出させようとし、小六子はどうしても出そうとしないで、日本軍に活きたまま撃ち殺されました。それと三呆子と呼んでいたのがいて、日本軍4人が奥さんを輪姦しましたが、奥さんは侮辱に耐えられず、明くる日は河の中を逃げて行き、河の真ん中まで来たところで、日本兵がまた三呆子の家に奥さんを探しに来て、三呆子にいないのかと聞き、もしも女が戻って来ないなら、三呆子の命をよこせと言うので、奥さんはその様子を見て、恥を忍んで戻って来るしかなく、こうして三呆子の命を救ったのでした。(張連英と林金洲と夏龍生が記録)

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2010年11月7日日曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

我々日本人は過去に目をつぶっていてよいのだろうか?
戦後補償を考える!!

日中の歴史の共有化を模索する!!

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!!
「No More War!!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!!

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
細菌戦(731部隊の蛮行)
アメリカ・カナダに証言しに行こうとして、入国拒否をされたあの篠塚さんの731部隊の手記です。篠塚さんは、731部隊の少年兵であった。
田村良雄(帰国後 篠塚良雄に改名)
防疫診療助手 兵長
(略歴)
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地  千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢34歳(当時)

 私の頭の中には、1939年中国に侵略してくるときに「良雄と仲良くしてやってネ」と、私の手に小さな果物籠を渡してくれた須藤の母親の顔が現われ、それ以来の罪悪の共同の生活が渦を巻いてきました。《助けてやりたい》“トロンボゲン止血剤を取ろうとする私の手が薬物箱に伸びようとした瞬間、「始めろッ」須藤の全身をつつきまわして検査していた大木の命令がかかりました。『天皇陛下の御為(おんため)』私は須藤を助けようとしていた心を制し、解剖刀を細島に渡しました。解剖刀を逆手に持って須藤に近づいた細島は、何を思い返したのか、「オイ宇田技手、お前やれ」と、宇田に解剖刀を渡しました。
 大木の顔を一目見た宇田は、解剖刀を受け取ると、切るところを見極めるために須藤の腹をなで始めました。治療してもらっているんだ、と思い込んでいる須藤はあえぎの中から「課長殿、すみません、早くしてください。苦しいです。早く早く」と叫び続けました。解剖刀を持った宇田の手は、かすかに震えていました。
 解剖台から一歩ひいて眺めた大木は、ヒステリックな声で、「早くやれ」と怒鳴りました。「須藤、成仏してくれ」宇田は解剖刀を逆手に握ると上腹部に刺しました。

※須藤は最後まで仲間が治療してくれると思っていた。最後の最後、殺されることがわかって全く驚いたであろう!!戦場でもこれと似たようなことがあったのではないか?治療すると見せかけて、殺すようなことが!!

            父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

    主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)


問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
② 731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④ 731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。


●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦
朱桂如(女、52歳)の証言
 民国26年の冬月に、家は沙家圩の長圩村でしたが、日本兵が来てから、村の家屋を焼いてしまい、家で漬けた冬を過ごす鶏や家鴨をみんな奪って行ってしまい、私たち村中の者は小屋を組んだだけで冬を過ごしました。あの時は日本軍がしょっちゅう私たちの村に掃蕩に来ました。ある日の午前中に、又日本軍が来て、村中の人を駆り出して一緒にし、地面にひざまずかせ、銃を私たちに向け、群れの中から姉の朱××(その時17歳)と兄嫁とを引っ張り出し、遠くない小さなバラックの方へ引っ張って行きました。その時は兄嫁はちょうど身ごもっていて、小屋に入って間もなく、日本兵が放り出して来ました。姉が1人だけ小屋の中でとっても恐く、叫び出したので、日本軍が銃を持ち上げ地面に2発放ったら、恐くて姉はもう叫べませんでした。やがて、日本軍が行ってしまい、私たちが小屋に駆けつけましたら、姉は全身血だらけで、乳房の辺が日本軍に一太刀突っつかれていました、後で、姉が話したのによると、日本軍が強姦しようとし、姉が従わないでいると、日本軍は銃を撃って脅かし、それでも従わなかったら、銃剣で一太刀突っついたのでした。(席季寧と管月琴と夏龍生が1984年に記録)

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

2010年11月6日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

我々日本人は過去に目をつぶっていてよいのだろうか?
戦後補償を考える!!

日中の歴史の共有化を模索する!!

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!!
「No More War!!」
昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う!!

 広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

●731部隊
『三光』中国帰還者連絡会編 晩聲社より
細菌戦(731部隊の蛮行)
アメリカ・カナダに証言しに行こうとして、入国拒否をされたあの篠塚さんの731部隊の手記です。篠塚さんは、731部隊の少年兵であった。
田村良雄(帰国後 篠塚良雄に改名)
防疫診療助手 兵長
(略歴)
1939年5月 元関東軍防疫給水部本部(731部隊に入隊)
1943年3月 退職
1944年3月 元関東軍59師団32連隊に現役兵として入隊
1945年8月 元関東軍125師団軍医部兵長
1946年9月 東北人民解放軍独立3師衛生部に混入
1952年6月 逮捕さる。河北省永年県において
本籍地  千葉県長生郡 出身階級=雇農 年齢34歳(当時)

 須藤良雄は特別班員によって真っ裸にされ、解剖台にかつぎ上げられているところでした。4、5日前までは女の話をしてはキャーキャー騒ぎまわっていた須藤の面影はどこにもなく、骨と皮ばかりになった全身には紫色の斑点が無数にあり、苦しまぎれに引っかいた傷であろう胸一面の引き裂き傷からは血がにじみ出ていました。うつろに開かれた眼には涙が流れ、口をダラリと開けてハーハー苦しそうな息を吐き、そのたびごとにピクピク腹が波打っていました。
 大木は、さっきから須藤と私を交互に見ております。大木の視線に合った私は、消毒薬で須藤の全身を拭き始めました。平静を装うために私はできるだけ乱暴に行ないました。「よし、科学者は冷静であるべきだ」課長は私を褒(ほ)めたんだな、と感じ取った私は、中国人に対したと同じように書毒薬を浴びせました。消毒薬の冷たさで正気に返ったのか、うつろな目を見開き左右を見回そうとして首を動かそうとしました。動かすごとに首かせが食い込んでいきました。
 「班長殿、班長殿、胸が・・・胸が・・・・」顔をゆがめもだえたと思うと、グーグー口からドス黒い血を吐き出しました。「班長殿、班長殿」と須藤はこの病気に感染して以来ずっと叫び続けてきたであろう、治療を要求しておりました。

※何と残虐なシーンであろう!!同じ日本人で731部隊に忠誠を誓った少年隊の一員をこんな目に合わすとは!!須藤は、もちろん治してくれるものと信じている!!ところが生体解剖されようとしている。篠塚さんはこの事態に直面して全く驚いたであろう!!軍隊ではこのような予期しない不幸なことが身に降りかかることがよくあったようだ!!


            父は帰ってこなかった
          ~731部隊被害者遺族の証言~
日中戦争・アジア太平洋戦争の最中、中国ハルピンで日本軍の731部隊は、中国人などをつかまえて、人体実験をおこなっていました。その残虐な仕打ちは、日本の軍隊の中でも極秘にされていました。
 731部隊に連行されて、生きて帰った人はいません。皆、殺されています。しかし、関東軍や憲兵隊の資料などから、731部隊に連行されたことがはっきりしている人の家族は、ずっと帰りを待っていました。
 李鵬郭さんは1941年春に憲兵隊に逮捕されました。ハルピンの電信学校を卒業し、牡丹江駅に配属されました。そのまま李さんは帰ってきませんでした。家族はずっと李さんの帰りを待っていました。行方を捜しました。娘の李風琴さんはお父さんに会ったことがありません。
 今回、李風琴さんをお招きして、証言をうかがいます。


合唱:「悪魔の飽食」・・・「悪魔の飽食」を歌う全国合唱団
731部隊被害者の証言・・・李風琴さん
遺棄毒ガス被害者の訴え
731記念館・館長の話し・・・金成民さん
講演・・・森村誠一さん
※資料代1000円


日時:11月23日(火・勤労感謝の日)18時30分~
場所:豊島区民センター(JR池袋東口下車5分)

    主催:731部隊被害者遺族を支える会
    〒160-0004 東京都新宿区四谷1-2伊藤ビル3F
    中国人戦争被害者の要求を支える会気付け
    電話03-5379-2607

731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)


問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
① 731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
② 731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
③細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
④ 731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
⑤細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
⑥細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。


●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
3、日本軍の狂暴な婦女強姦
撒応華(男、62歳)の証言
 1937年の12月末には、私は難民区の寧海路40号に住まっていました。ある日の午前中に、任元道という名の洋服を着た人が、私たちの難民区まで来て、みんなを招集し、まことしやかに言いました。「あんたたちの中に、もしも家が南京でない人がいたら、お金を支給して家へ帰れるようにする」。何人かの人が本当だと信じて、立ち上がり、結局は日本軍に捕まって行ったのでした。
 1938年1月のある日の午前中、日本兵が2人来て、階下の20歳余りの婦女を1人、ある小さな家の中に引きずって行き、日本兵2人が輪姦しました。私も難民たちもみんな、難民区に逃げれば危険は無いと思ったのに、やっぱり日本軍の迫害に遭ってしまったと、とても憤慨しました。(陳玉瑞と何学珍が記録)

●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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