2009年6月5日金曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

●黒龍江省とう案館(資料館)と吉林省とう案館が一般公開した「特別移送」ファイルの中に、朱雲岫、李厚賓、王楽甫、趙中博、王輝軒などを含む200人以上の被験者として惨死した中国人の記録がある。

※『注』:朱雲岫、別名:朱煥臣、スパイコードネーム:青雲、男、1918年、遼寧省(りょうねいしょう)開原県千岡村生まれ。1940年に、密山県黄泥河子炭鉱にて旧ソ連スパイの万信によってスパイとなる。1941年5月3日に東安省東安街(今の黒龍省蜜山市)の長明路三義桟前にて逮捕され、1941年5月20日に東安憲兵隊に「特別移送」される。

●李厚賓さんは家では主な労働力だったが、「特別移送」された後に最も苦痛を味わったのは老いた母と多くの子どもを抱えながら収入がなかった妻の陶秀文さんであった。母は息子の帰りを待ち、嫁と孫と一緒に毎日泣いてばかりいた。父は生涯苦労し無口だったが、息子を失った悲しみでより無口になった。

※『注』:李厚賓(彬)、別名:敬原、男、1910年6月29日に安東省安東県九連城に生まれる。1937年5月に、旧ソ連のスパイの劉日宣の推薦によりスパイになる。その後4回もソ連に行き、仲間と共に6回情報を提供。1941年8月8日に、安東省虎林県(現在の黒龍江省虎林市)虎林街四道街で逮捕され、1941年8月に、「関憲高第868」号命令により、虎林憲兵隊に「特別移送」された。

●長男である兄李厚賓さんが連行された後の子供達の境遇を語ると、弟の李厚文さんは思わず涙を流す。李さんは「兄の4人の子のうち、長男の李剛以外は、みんな早死にした。中でも末っ子の娘は医者に見てもらう金も無く病死した」と話している。その子はジフテリアにかかり窒息死し、息を引き取るのを李厚文さんが見ていて、4番目の兄嫁に言われて亡骸を外に捨てたのだ。李厚文さんは今でもこのことを覚えている。




 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 (昨日の続き)私達が引き続き南へ行くと、もう1つの村の外れまで来たところで、日本軍が5,6人私達の方へ来るのがいて、銃剣で私達にその家のそばに立っていろと指図し、間もなくまた10何人か捕まえてきて、普通の服を着ているのもいれば、軍服を着ているのもいましたが、やがてまた4人捕まえてきました。この時既におよそ午後2時頃になっていましたが、日本軍何人かに連行されて私達10何人かは前の方の道路の方向へ歩きました。この道路は南京から当塗へ通じる道でした。道路に沿って東の方へ少し行くと、道の北に家屋が一棟あって、村にはつながってなく、そばにもほかに家はありませんでした。この家屋は部屋が四つで、手前には左右両側の部屋に入口が1つずつあり、、真ん中の部屋2つには入口はなくて窓があり、後ろ側には窓が4つあって、切妻かべには両側とも入口も窓もありませんでした。中は床がセメントで、鉄のベッドの壊れたのが2つと、四角い腰掛の壊れたのが幾つかあり、レンガの欠けたのも少しありました。日本軍は私達を家のそばで待たせました。間もなく日本軍が幾つかの道からこっちの方へ人々を連行してきて、人数がどんどん多くなり、日本軍も6,70人になりました。その時日本軍の日本刀をさげたのが1人ぺちゃくちゃ一度しゃべって、何と言ったのかも分かりませんでしたが、日本軍のその他のが捕まえてきた人たちに並ぶよう指図して、2列に立たせ、その間隔が2メートルあり、人数を数えさせると、全部で131人でした。数え終わると日本軍は身体検査を始めて物を引っ掻き回し、各自が持っていた金銭や品物をみんな捜し出し、捕まった兵士のゲートルまでもはずさせました。捜査し終わったら、もう夕方近くなっていましたが、日本軍は東の端の戸口に鍵を懸け、みんなを西の端の戸口から入れました。丁度よく私と張正先とは西の端で列の先頭にいて、1人が手前で1人が後ろ側でした。私達2人は家に入って東の端にへ行き、東北寄り隅っこの壁際にうずくまりましたが、全部が入り終わったら、家中がいっぱいになりました。それから日本軍は戸を閉めて、刀をさげたのがまたひとしきりしゃべると、日本軍は分散し、周りの窓の下に何人かずつ立ち、その他のは西の端の戸口の前に行き、戸を開けて1人1人外へ引っ張り出しました。(明日に続く)



 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



武器を使わせない世界を。



Imagine,



A world that doesn’t



let weapons be used.



憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月4日木曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
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中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  「特別移送」の実施、生体実験の進行

 1932年から、石井部隊は背蔭河の「中馬城」にて生体実験を始めた。被験者は「マルタ」、つまり「丸太」と呼ばれた。1935年末、731部隊は平房区域に移転し、実験材料への需要が大幅に増え、世界で唯一の同じ人間に対する大規模な生体実験という残忍非道な研究計画を実施した。731部隊の生体実験の中心部ー「四方楼」の中心部には「特設監獄」が設けられ、彼らは実験材料となる者たちを特設監獄に入れ、名前代わりに3桁の数字をつけた。《細菌兵器の準備及び使用容疑による旧日本陸軍軍人の裁判史料》にある元731部隊隊員の述懐によれば、1939年から1945年までの間だけでも、731部隊は少なくとも3000人以上の中国や外国の人々を各実験によって殺害している。

1、特別移送

 「実験材料」の十分な供給を保障するため、731部隊は主に「特別移送」の方法で「材料」を入手していた。関東軍司令部の支持の下に、731部隊と憲兵隊は共同で各憲兵隊が各地で拘束した一部の中国人と外国人を裁判なしに直接731部隊の「特設監獄」へ送り込んだので、「特別移送」と呼ばれたのだ。731部隊は始めは街で一般庶民を勝手に拘束して実験材料としたことがあったが、これは「圏街」と呼ばれた。

 特別移送及び特別移送の記録

 731部隊は関東憲兵隊と共同で、関東憲兵隊が実験用の人間をとらえ、それを731部隊に提供した。1938年1月26日、関東憲兵隊は「特別移送」指令を出し、移送される者の基準(1943年3月12日に「関憲高120号」文書として再発布)を詳細に規定した。この罪悪行為を覆い隠すため、関東憲兵隊はこの行動を「特移扱い」(特別の移送扱い)と呼んだ。したがって「特移扱い」とは各地憲兵隊が被験者を生体実験の材料として731部隊に厳密に送り込むことなのだ。
 日本の投降直前、関東憲兵隊は撤退する前にこの件に関連するほとんどの記録を隠滅しようとしたが、時間不足のため処分しきれず、ごく一部の資料が残された。1999年、黒龍江省○案(資料)館は「特別移送」に関するファイルを66件一般公開し、さらに2001年、吉林省○案館も277件の「特別移送」ファイルを一般公開した。これら「特別移送」の記録から、当時移送された人々のほとんどは中国人だと分かる。その他、旧ソ連人、モンゴル人、朝鮮人などもいる。
 ○・・・漢字変換が出来なかった字(木へんに當)
 


 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  中国人戦争被害者の要求を支える会

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  張正業(男、71歳)の証言
 
 私の本籍は江蘇省の沛県魏廟郷張窪村です。1936年6月に、私は丁度21歳でしたが、家には兄弟が4人いて、生活は貧困でした。その頃国民党が徴兵していて、やむを得ず外に出て兵になるしかありませんでした。入営し、蚌埠でしばらく訓練を受け、すぐ南京へ行かされ、国民党中央軍官学校の教導総隊特務連に編入され兵となりました。1937年8月13日に日本軍が上海に侵攻してきて、私は淞○抗戦に参加しました。11月11日に上海が陥落したため、撤退して南京に戻り、南京防衛戦に加わりました。12月13日に、南京が陥落しました。
 国の都が陥り、国民党の守備軍は既にあちこちで潰走してばらばらになり、将校はどこに行ったか分かりませんでした。わたしは江辺で一晩徘徊し、とうとうたる流れを目の当たりにしましたが、背後では日本軍の砲火がまだ射撃をやめずにいました。私は綿入れの軍服を着ていて、泳げもしませんでしたから、長江を北へ渡っていくのも不可能でした。夜が明けるまで堪えたところに(つまり12月13日)日本軍が又もや更に多くの飛行機を繰り出し目茶苦茶に爆撃して来たので、江辺にはもはやいられず、外を探して隠れるしかありませんでした。南の方へ少し行ったところで、丁度よく一緒に入隊した張正先と出くわし、私がまだ軍服を着ているのを見て、すごく危険だから何とかして普通の服に着替えなければと言うので、近くにある小麦粉工場に行き着る物を何枚か見つけて着替え、すぐ西南の方向へ行きました。およそ9時頃かに、日本軍が南京に入って来て、砲声は既に止んでいましたが、時折まだ銃声は聞こえていました。更に前へ進んである村外れまで来ると、日本軍が2人銃剣をかざして私達に向かってくるのに出会い、何か言っても私達には分からずにいると、丁度その時軍服を着た国民党の士官が1人やって来たので、日本軍は私達2人をうっちゃって、その軍人の方へ向かって行き、1人が一突きでその軍人を刺し殺しました。その機に乗じて私達は村に駆け込んでしばらく隠れましたが、長く留まるわけにもいかず、村から出たところで日本軍に殺害された中国人が10何人かそこに横たわっているのを見かけましたが、その中に婦女が2人いて、年は既に6,70歳、下半身素っ裸にされ、陰部にロウソクが差し込まれていて、何とも残虐非道な、人間性の一かけらも無いものでした。(明日に続く) ○・・・漢字変換できない字(氵に戸?)




 
           「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、



おたがいに戦争しないと



約束した世界を。


Imagine,



A world that promises



not to fight wars



with each other.



戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月3日水曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

3、731部隊の予備役

 細菌部隊の長期的な発展と大規模な細菌戦実施のため、731部隊は少年班隊員を育成するため教育部を設立。彼らは日本国内から少年班隊員を大量に募集し、それを731部隊の予備役とした。募集の対象は家が貧しく、成績が優秀な14才から16才の日本人少年であった。

   旧少年隊史

昭和17年4月 1日 少年見習技術員(軍属セとして満州国ハルピン市第731部隊へ入隊)
(1942年)4月15日 教育部少年隊(技術員養成所)所属
              教育部長 陸軍軍医中佐 園田
              少年隊長 陸軍軍医少佐 田部
            関東軍軍属傭人拝命 日給85銭
            内務班4箇班編成 総員108名
      10月6日 大連・旅順方面戦跡視察旅行
昭和18年 4月1日 2年次に進 初年次(2期生)入隊
(1943年)      (日給95銭となる)
       5月1日 約1月間普通学その他防疫給水学について、2年次合同教育を受ける
               教官 伊藤軍医大佐 秦衛生准尉
             部隊本部の各部へ配属
       6月     普通学は、昼間(週3日)から夜間に切り替えられる
       7月    松花江太陽島にて野営演習(1週間)
昭和19年 4月1日  3年次に進級 初年次(3期生)入隊
(1944年)        2期生 部隊本部各部へ配属
昭和20年 4月1日  少年見習技術員養成教育修了
(1945年)       関東軍軍属雇員拝命(月俸52円~38円)
             引き続いて部隊付属東郷青年学校4年編入
             初年次(4期生)入隊
       7月    通化へ疎開準備(ロ号あるいはセ号作戦)
             荷物発送 隊員派遣
       8月 9日 ソ連政府対日宣戦布告
             満州進入始まる
       8月13日 8月初旬より隊舎撤去作業継続のところ、若干の要員を残し
             夜間平房を出発する
       8月15日 終戦の詔勅下る
             徳恵駅で停車待機中終戦の命令を聞く
       8月18日 蘇家屯駅にて大屋班長以下17名下車
       8月    鉄・駅にて宇佐美4年次以下  下車
       8月21日 引揚本隊朝鮮釜山到着 荷揚げ開始
       8月24日 釜山港出発
             山口県萩、仙崎港、福岡県門司、博多港へ分散上陸。上陸後現地にて部隊
             解散(解散後、北海道・東北梯団、九州梯団、四国梯団に分かれて復員)

 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中華門外での集団虐殺

  胡秀蘭(女、69歳)の証言

 1937年12月13日に、日本軍が南京を占領しましたが、その時私達は鉄心橋の私の実家へ逃げて行きました。1週間くらい、日本軍は村でいたるところを捜索し、夫の李福成を捕まえて行きました。夫は24歳で、一緒に捕まったのは13人でした。韓仏山の韓仏洞の後ろまで連行すると、日本軍は先ず13人に強いて自分で穴を掘らせ、それから一斉にひざまずかせ、機関銃で掃射しました。夫は弾が鼻をかすめたとたんに穴に倒れ込み、他の12人が続いて体の上に倒れこんできました。それから日本軍は銃剣で1つ1つ体を突き刺したので、夫は三太刀刺され、その時は全身血まみれでしたが、死にはしませんでした。日本軍が行ってしまいずっとたってから、穴から這い上がろうと頑張り、這い通しに這って這って翌日の朝になりやっと何とか這い上がったのですが、腿(もも)の骨が折れていて、歩けませんでした。隣村の徐さんと覚えているのですが、やはりこの13人の中の生き残りだった人が、穴を這い上がってから、自分の家まで懸命に這って行って、家に着くなり、夫の李福成が死なないで、まだ山の上にいると、人に告げたのです。それでやっと夫を捜して連れ戻せたのです。でも、徐さんという人は出血多量で、間もなく死んでしまいました。
 夫の李福成は、解放後は先ず軍事学院で調理師をし、それから南鋼に移り、隠退するまで働きました。1982年に中風を患って亡くなり、享年69歳でした。亡くなった時の体に日本軍が残した傷痕をまだ留めていました。(王有堂と巫光民と劉鎮西が記録)

           「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月2日火曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

3、731部隊の予備役

 細菌部隊の長期的な発展と大規模な細菌戦実施のため、731部隊は少年班隊員を育成するため教育部を設立。彼らは日本国内から少年班隊員を大量に募集し、それを731部隊の予備役とした。募集の対象は家が貧しく、成績が優秀な14才から16才の日本人少年であった。


   少年隊概要

●部隊名沿革
    440軍郵気付659部隊、731部隊、25202部隊
 〈別名〉 加茂部隊、石井部隊、防疫給水部、東郷部隊
●部隊長
  石井四郎  昭和11年~
  北野政次  昭和17年~
  石井四郎  昭和20年3月~
●教育部長(第5部長)
  園田     昭和17年4月~
  西       昭和18年1月~
●少年隊長   
  田部     昭和17年4月~
  阿部
  斉藤     昭和18年11月~
  薮本     昭和20年~
●教官      7人
●班長     14人
●一期生内務班別編成
   第1班  27名
   第2班  27名
   第3班  27名
   第4班  26名  
※(森村誠一著:続・『悪魔の飽食』を整理)

●731部隊は少年班隊員の教育訓練部を設立。教育訓練部は本部(一棟)の南側の大きな長方形の庭に設置され、東、南、西側に3つの出入り口があり、庭には衛兵所を置いていた。
●予備役育成のため、731部隊は日本国内から成績の優秀な少年達を大量に募集し、彼らは731部隊で理論から実践まで系統的に育成され、、731部隊の大がかりな生体実験場で充分な実践を行なった。少年隊員たちは卒業後、直接731部隊に直属し、各部門に配属され、各細菌兵器の実験と生産に従事した。
 このほか、大規模な細菌戦に備え、731部隊は細菌戦の実施要員を計画的に数多く育成していた。




 ●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  邵翰珍(女、65歳)の証言
 日本軍が1937年に南京を占領した時、私の家は馬群の青馬でした。父の邵錦晴と祖父の邵才潮と叔父の任発和とがみんな日本軍に銃殺されました。日本軍が私達の村に入って来て、いたるところで人を殺し火を放ち、人を見れば捕まえて殺しで、私達はあちこち逃げ隠れ、夜も家へ帰れませんでした。(楊大福と孫守栄が記録)


          「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



軍隊のお金をみんなの


暮らしのために使う世界を。



Imagine,


A world that spends
 

money


not on armies,


but on people's lives.



アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年6月1日月曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

2、731部隊の編成

●731部隊部隊長:石井四郎
1932年に石井部隊(731部隊の前進)を創立。1942年7月に初任部隊長。軍事費乱用容疑で軍部に検挙され部隊長解任。1945年3月、部隊長に再任し、731部隊の崩壊と逃亡までに至る。
●第二任部隊長:北野政次
1894年に日本の兵庫県に生まれる。1920年に東京帝国大学医学部を卒業。1932年に石井四郎と共に軍医少佐として中国の東北に。1936年から1942年にかけて「満州医科大学」細菌研究室の教授、主任を担当。1942年7月には731部隊の第二任部隊長を引き継ぎ、1945年3月に石井四郎と交替。
●731部隊の高等官の大部分は日本の医学界から集められた医学専門家である。
●判任官は731部隊の文職であり、そのほとんどが731部隊では中堅的存在。
●731部隊の女子軍属たちは文職を担当し、軍籍を持っていた。
●石井四郎の兄、石井剛男:特別班班長を担当(特別監獄を管理した。)
●石井四郎の兄、石井三男:動物班班長
●731部隊は特殊部隊であったため、一切の活動は機密で、隊員の外出は変装が要求された。当時ハルピン駅の近くに白樺寮という建物があり、ここは731部隊隊員たちがハルピン市内に出るための連絡所であり、隊員たちは平房から車で白樺寮まで行き、そこで民間人を装い、車のナンバーも変えた。
●※日本関東軍は1940年に石井部隊4支隊の設立と分布に関する命令を出した。その内容は孫呉673支隊、牡丹江643支隊、林口162支隊、ハイラル543支隊及び大連319支隊衛生研究所を直属とすることが含まれている。設立に時期、駐屯の地点や定員数などは日本陸軍参謀本部に厳しく要求され、各支隊の定員は300人とされた。

※この『中国侵略日本軍731部隊』(日本語版)には、かなり間違った記述があるように思われます。ページの前後で、書かれていることに矛盾する点があったので、私が訂正を試みましたが、事実と違っていることもあるかも知れません。あしからず!!

●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  陸玉華(女、61歳)の証言
 1937年には、私の家は中山陵でした。家には8人いて、父の陸松林が62歳、母の陸朱氏が49歳で上の兄の陸同興と、兄嫁の尚美華とに、次兄の陸順宝、上の弟の陸順項、下の弟の陸少武と私でした。
 日本軍が南京を占領する前に、情勢が緊張してきたので、家族が分散して避難しました。私は上の兄と兄嫁とについて淮安県に避難しました。母は上の弟と下の弟とを連れて沈挙人巷の難民区に避難しました。父は家を離れ難くて、家に留まり留守番していました。
 日本軍が入ってきた時、中山稜からやって来て、父が家の入口にいたので、日本軍に捕まえられて行き銃殺されました。母は難民区にいて、父が殺されたと聞いたもので、すぐに父の死体を引き取って葬ろうと叔父と一緒に家に駆け戻って行きましたが、途中で日本兵に発見され、強かんされてしまい、母はこの事で神経の病気になり恨みを抱いて死んでいきました。2番目の兄と3番目の弟も日本軍に捕まっていって銃殺されました。日本兵が私の一家4人に死をもたらし、家中にむごい苦しみを引き起こしてくれたので、この恨みは永遠に忘れられません。その頃私の家みたいなのはまだ良い方で、生き残れた者もいたのですが、私のお隣の家の人たち6,7人は、みんな日本軍にガソリンで生きたまま焼き殺されたのですから、ほんとに残酷の極みです!(曹義富と陳小敏と呂郎坤が記録)

         「Imagine9」【合同出版】より




想像してごらん


世界から戦争のなくなった


平和な世界を。



Imagine,



A peaceful world 



without war.




でも、どうやったら


そんな世界がやってくるのか




一つひとつ考えてみよう。


But,how can such a 


world be made?


let's think about it.







第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月31日日曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!



中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1、731部隊の編成

平房特別軍事区域にある731部隊の施設は完備し、人員が多く、本部機構、各実験室、特設監獄、専用飛行場、少年隊舎、隊員家族区と教育区、娯楽区などがあり、1941年には、総数3000人に達した。

 「731部隊」編成表(近藤昭ニ氏が作成・提供)
※表に出来ないので大よそを列記します。
●部隊長:石井四郎、北野政次、石井四郎
●総務部:川島清、村上隆、今津綱幹、中留金蔵、太田澄
    ・副官室 
    ・調査課(通訳班、印刷班、撮影班、兵要地誌班、調査班、図書                             室)   
    ・人事課
    ・庶務課(労務室、庶務室、食堂、売店、学校)
    ・企画課
    ・経理課
    ・管理課(建設班、工務班、動力班、電話班)
    ・軍需課
●第1部(基礎研究:田部井和、北川正隆、菊池斎)
    ・第1課(腸チフス)
    ・第2課(コレラ)
    ・第3課(生理・捕虜管理)  吉村寿人(吉村班、宮川班、栗秋班、在田班、石井班、蓬田班、志村班、特別班)
    ・第4課(赤痢)
    ・第5課(ペスト)
    ・第6課(病理)
    ・石川班(病理)
    ・第8課(病毒)
    ・第9課(水棲昆虫)
    ・第10課(血清)
      内海班(血清)

    ・小滝班(結核菌)
    ・第11課(結核)
    ・肥之藤班【脾脱疽(ひだっそ)】
    ・桶渡班
    ・降旗班(ペスト)
    ・金沢班
    ・太田班(脾脱疽)
    ・貴宝院班(天然痘)
●第2部(実践研究:早川正敏、太田澄、村上隆、碇常重)
    ・第1課(庶務、操縦班)
    ・第2課(技術班、気象班、無線班、運輸班)
    ・田中班(昆虫)
    ・篠田班(昆虫)
    ・八木沢班(植物菌)
    ・第5課(安達実験場)
●第3部(防疫給水:今瀬一夫、江口豊潔、増田知貞)
    ・庶務課
    ・第1課(検索)
    ・第2課(毒物検知)
    ・第3課(濾水班、給水班、運輸班、焼成班、工作班)
    ・濾水機(弾筒製造窯)
●第4部(細菌製造:川島清、太田澄)
    ・第1課(培養生産)
    ・第2課(ワクチン?脾脱疽)
    ・第3課(乾燥菌・ワクチン)
    ・第4課(ワクチン)
    ・有田班(腸チフスワクチン)
    ・植村班【ガス壊疽(えそ)・脾脱疽】
●教育部(園田太郎、西俊英)
    ・庶務課
    ・教育課
    ・衛生兵
    ・炊事班
    ・診療所
    ・訓練隊
    ・少年隊
●器材部(大谷章一、紫野金吾)
    ・庶務課
    ・第1課(薬品合成)・・・山口班(細菌弾)・堀口班(ガラス)

    ・第2課(購買補給)
    ・第3課(濾水機)
    ・第4課(倉庫)
    ・第5課(兵器保管)
    ・第6課(動物飼育)
●診療部(永三太郎)
    ・伝染病棟(南棟)
    ・診療室
    ・家族診療室
●憲兵部(乙津一彦、田坂千晴、酒井○○)
    ・保機隊

●牡丹江支隊(通称643)
●林口支隊(通称162)
●孫呉支隊(通称673)
●ハイラル支隊(通称543)
●大連支隊(通称319)

※日本軍の細菌兵器研究で中心となる731部隊は、機構が膨大で、人員が多く、編成人数は3000人。その下には研究と生産担当の8部、4支隊と大連衛生研究所がある。
※名前不詳の場合は○○とする。


●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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  大久野島(毒ガス島)

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  中帰連

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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  王志福(男、61歳)の証言

(昨日の続き)日本軍は人々の群から若くて力の強いのを引きずり出し、着ている物の衿(えり)を引き裂き、手を開かせ、1人1人調べて、許老五、王立順、王志○、施仁喜、張広洞、王老巴子と任小順子など、みんな職人でしたが、一斉に引っ張って行かれ、家でどんなに頼んでも聞かれませんでした!
 それから、日本軍はまた王志標、王志生、王志中、王立江、王志木、王志成、曹応宏、任志才、王立汛、王立景、王立桂、王志龍と私とに、鶏を持たせたり、鍋を担がせたりして、東の方へ行かせたのですが、私はやっと13歳で、日本軍が略奪してきた掛け布団と敷布団とを私の肩に乗っけたので、道々私は押しつぶされそうでふらふら汗をかき通しでした。
 向前に着いて、日本軍が休憩していた時、私が年が小さいと見て、放ち帰らせました。帰ってくる道で、ずっと遠くから陳家窯や徐崗頭や長林郷などの村々から真っ黒い煙がもくもく噴き上がり、家がたくさん焼き払われるのが見えました。私が陳家窯村の前のカササギの尻尾まで行ったら、道の脇に高く盛り上がっている田に、死体が何十とごろごろ転がっているのしか見えませんでした。
 私達は引っ張られて前を走っていて、日本軍は後ろで疑わしいと見たのを対象に機関銃で掃射し、この時だけで私達中国人4,50人が撃ち殺されたのです!
 私達の村の
王志○、許老五、王立順、施仁喜、張広洞、王老巴子と任老順子がここで撃ち殺されたのでした。
 崗下村はその頃全く惨めでした。若い人たちの死体は、見分けのつかないほど崩れていましたし、生きている人は天に叫び地を打ちたたき、嘆き悲しみ慟哭(どうこく)してやみませんでした。王志標と王志生と王志中とは、捕まって行ったきり帰って来ず、便りも杳(よう)としてありませんでした。日本軍が村にやって来て、崗下は災禍に見舞われたのです!(甘家小学校の李家坤が記録)

※○は日本の漢字に見当たらない字
 
         「Imagine9」【合同出版】より



MESSAGE(メッセージ)



環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年5月30日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる。!!


中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より


  膨大な細菌戦部隊の設立

1,平房特別軍事区域

●特別軍事区域への管理を強めるため、平房警備当局は特別軍事区域から周囲1.5キロのすべての道路口に境界札を立てた。

●当時、旅客列車が、ここ特別軍事区域を通過する際、平房駅の前の駅から窓カーテンを下ろし、外をのぞくことを禁止していた。この規定を知らずに外をのぞけば、政治的容疑で直ちに逮捕され、警察署や憲兵隊に送り込まれていた。この状態が続いたので、人々はこの平房駅の前の駅から次の駅までの約60中国里の区間を「60里国境線」と呼んだ。

●平房特別軍事区域内の住民管理は非情に厳しく、満16歳の住民は必ず偽香坊警察署配布の「居住証明書」を所持しなければならない。

●規模が大きな731部隊における労働力問題を解決するため、2000人以上の中国人労働者が雇われ、それには地元労働者と外来労働者がおり、毎日が重労働。特に外来労働者の暮らしは非常に苦しかった。

●軍隊、警察、特務たちの厳しい検査があるので、労働者達が出入りする時は必ず「労務身分証明書」を所持しなくてはならず、持っていなければ殴るなどの暴行を加えられ、ひどい時は政治的容疑で憲兵隊や警察署に送られる。

●箱床・・・刑罰用道具の一つ。体をベルトで木板に縛りつけ、頭を仰向きに箱に入れ、受刑者の口に水を流し込む。この刑罰は労働者から「潅水(かんすい)の刑」と呼ばれた。

●衛兵所が5ヶ所あり、高さ5メートルで、上部は高電圧電線と鉄条網が張られた土塀によって5つの衛兵所がつながっていた。

●731部隊の設備は整い、宿舎、実習室、食堂、倉庫、浴場、講堂と練兵場があり、庭の外には「少年隊」訓練場、馬場、そして「東郷国民学校」、神社などがある。


●日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


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   「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 中山門外の東側郊外一帯での集団虐殺

  王志福(男、61歳)の証言

 それは民国26年冬月のことですが、どんよりと曇った日で、日本の飛行機が南京の上空でぐるぐる旋回している間中、ずっと「ブウーン」といった何とも怪しげで甲高い音を発し、やがて「ドカーン」と爆弾の炸裂した音が聞こえてきました。
 私達の村は崗下と言い、陽山のふもとに位し、その頃は人家が30戸で、ほとんどが田を耕して生業とし、職人も少しいました。日本兵が南京に攻め込んでくる前夜、職人達は南京に留まれず、次々に故郷へ戻って来ました。
 その頃は、どこも安寧ではあり得ませんでした。村の人は親戚や友達を頼って長江の向こうへ渡って行く者あり、栖霞寺に入って難民キャンプの住民となる者ありでしたが、そのほかにはと言えば、家を離れる気にもなれず、終日びくびくしていて、昼間は村外れに人を歩哨に立たせて情報を得、夜は陽山に上がって藪に隠れるのでした。
 はっきり覚えていますが、陰暦の冬月14日の日に、村のお婆さんが知らせに走って帰って来て、「日本軍が小崗子に来ちゃってるよ。焼いて、殺して、強かんして、略奪してと、何でもやってるよ。あんた達早く行きな!」と叫びました。日本軍が西から来ると言うので、私達東へ走ろうとしたところが、松山の囲みからも日本軍の一隊が行く手をさえぎってやって来たので、走るには及ばずとなり、みんな家で縮こまりました。
 日本軍が村に入って来て、村の端にも、村の中にも機関銃を据え付け、鶏はケッコケッコと追い立てられ、お酒の壷は粉々に叩き壊されて、私達みんな村の真ん中に引っ立てられ、日本軍がひとしきり銃を放ち、わらの堆に火を放つと、その日は丁度大風が吹いていて、火が東の端から西の端までなめて行って、家はすっかり焼けてしまうという状態で、誰が火を消しに行かれたでしょうか。(明日に続く)

 
         「Imagine9」【合同出版】より



はじめに


戦争のない世界なんて、夢ものがたりでしょうか。
いいえ。戦争は、人がつくり出すものです。だから、人は、戦争のない世界をつくり出すこともできるのです。
 世界の人たちは、長い歴史の中で、戦争のない世界をつくるために、がんがえ、行動してきました。
戦争で傷つき、苦しんできたからこそ、もうこんなことはくりかえしてはならないとかんがえたのです。
 日本は憲法9条で「戦争はもうしない。だから軍隊はもたない」と決めました。世界の多くの人たちは今、「自分たちも」と9条をえらび始めています。
 それなのに、私たち日本に生きる者が見失ってはいけません。9条を失うことは、日本だけでなく、世界にとっての損失だからです。
 世界中の国が憲法9条をもったらどんな世界になるでしょう。この本ではそのことを想像してみてください。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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