2016年8月25日木曜日

731=国家犯罪!!


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●731部隊(1)
●731部隊(2)
●731部隊(3)
●731部隊(4)
●陸軍軍医学校50周年記念行事について
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展
●マレーシアの旅
●九大生体解剖事件



●ご案内
秘密国家日本!!
日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年)
アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。
このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。


過去の侵略戦争を全く反省しない自民党政権!!





松本サリン事件・地下鉄サリン事件が起きる前に、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護方法を熟知していたのは日本では自衛隊化学学校だけである。その自衛隊化学学校のサリン製造技術及び防護方法がオウムに漏れていたのではないか??


・秘密保護法撤廃!!
墜落から31年!!未だ真相究明されず!!
1985年8月12日の日航機墜落事故の墜落現場にすぐ救助に行けなかったのも何か裏に政治的なものがあったのだろう!!
真相が究明されないまま、いたずらに時間が過ぎ、そして次の大事件・大事故が起き、多くの人が、政治的・軍事的要因によって虐殺される!!
自衛隊は本当に国民を守るのか??
しかし、法案成立した現在、日航123便墜落事故を調査をした者は逮捕されてしまう。この政治犯罪を証明するのは、特定秘密保護法が適用されない日本国外の日本国籍以外の人たちに託すしかない。

日航機墜落事故(空白の16時間)



森永卓郎さん解説



こんなことまで起こっている!!
外務省は、安倍内閣の顔色を窺ったのか、政府からの指示があったのか、中国人細菌戦被害者のビザを発給しなかった!!
これからも、アジアの戦争被害者の入国を拒否するかもしれない!!

当時の集会の模様
中国人細菌戦被害者なぜいない?


ビザ発給拒否・集会妨害裁判について









●ニュース

甲状腺がん:福島、広島、長崎の比較


8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。

薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体

<相模原殺傷>「恐怖を感じる」障害者への強い差別意識

相模原殺傷あす1カ月 「一かず矢やは私たちの宝」

戦争への道!!

安保法、課題残し運用 駆け付け警護、訓練開始へ

安保法 本格運用へ 海外で武力行使の訓練解禁

荒川水害対策 「100万人避難」区長が判断


イタリア中部地震、最低でも120人が死亡


国連委
「核廃絶」決議を採択 米配慮、日本は棄権

戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!!

<国連>「核廃絶」決議採択 保有国は反対、日本は棄権





潜在的核保有国化を目指す日本は、「核廃絶」決議を棄権!!
日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!




これが自民党の実態だ!!
憲法改正で自民党が目指すもの!!
国民主権、基本的人権、平和主義の3つを無くし、
国防軍創設、国体護持!!
全く、戦前の日本と同じではないか!!

自民党の目指すもの??



・ロナルド・レーガンは地震の時どこにいたのか??人工地震の影響??



・小泉氏はなぜこんなにも、アメリカには敏感なのか????日本の被曝者には基金は作らない??
小泉氏が涙 トモダチ作戦の健康被害「見過ごせない」


20051215 小泉首相 「イラク戦争を支持した判断は正かった」と強調



???
ロナルドレーガンの乗組員が被曝してるのに何故それより近くにいた東電職員が被曝しないんでしょうか?





●脱原発!!
WHO(世界保健機関)は原発推進のIAEA(国際原子力機関)に手足を縛られ、放射能の危険を世界に警告できない!
ストロンチウム90を追え!





子ども脱被ばく裁判




高浜原発の差し止め 大津地裁、関電の異議退ける 2基の運転禁止継続

福島・南相馬の避難指示解除 帰っても再建遠く…


もんじゅ・西村裁判(国家賠償請求訴訟)
1、もんじゅ事故と一生命の関係
1995年12月8日もんじゅナトリウム漏えい事故発生。・・・・・連日もんじゅ事故の報道が行われた。もんじゅの維持に1日約5500万円の維持費(税金)が使われている!!
もんじゅを延命させるため、国民に対し、複合ショックを与える企画がされたと推される。(記者会見を通じて、マスコミの注目をビデオ隠しに向かわせ、混乱した情報を出し続けた)。・・・国策は目的達成のために、マスコミを利用し、情報コントロールしながら、事故の鎮静化が課題となった。推進派は動燃職員の生贄(いけにえ)策でもんじゅ延命、事故の鎮静化を図ったと推される。
1996年1月13日 警察は「西村成生が飛び降り自殺した」と発表。
※遺体は飛び降り自殺ではなく他殺体だった。(損傷が落下死と異なる)!!
もんじゅ、西村裁判



もんじゅ西村裁判(予告編)




南京大虐殺の「勇士 木村守江」(元軍医)は福島原発導入の張本人だった!~レイバーネットTVで明らかに


南京大虐殺や原爆開発の反省をしないまま戦後突き進んだ結果が福島原発事故だ!!
木村守江(元福島県知事)と南京大虐殺と原発!!

木村守江と南京、福島原発

大惨事以上の福島原発
大惨事以上の福島原発。大惨事は後片付けすることが可能だ。 東京電力福島第一原子力発電所廃炉推進カンパニー最高責任者の増田尚宏は、とうとう公に“公式に”600トンの熱い溶融炉心コリウムが行方不明だと発表した(福島原子力発電所の運営企業が、600トンの溶融燃料が行方不明と語る、Epoch Times、2016年5月24日)
※コリウムとは・・・★炉心溶融がおこると、ウランや酸化ウランという燃料が融けだします。また高温なので壁等につかわれるジルコニウムや鉄も融けだしてきます。
融けだすとすべて液体となり、これらの液体の混合物をコリウムといいます。

原子力村→原子力マフィア→安保村
20160604 自由なラジオ #10「小出裕章ライトアップジャーナル


もんじゅ改革めど立たず 報告書案、新運営団体は未定

「核のごみは浜岡敷地内で処理すべき」 最終処分で川勝・静岡知事

ドイツ環境・原子力大臣、「原発は費用がかかり将来世代に責任を持てない」=2020年の原発全廃を強調―東京で会見

地震大国日本!これでも原発を動かすの??
活断層、日本に2千以上 どこでも大地震が起こる恐れ

「熊本地震は南海トラフ地震の前兆」専門家が緊急警告
「高浜原発の運転は不安」が最多 意見公募、規制委に 審査書案は修正わずか
甲状腺がん「チェルノブイリの多発傾向と酷似」〜疫学専門家



福島の癌→子供の甲状腺がん増加地図をチェルノブイリと比較する
母ちゃんの嘆き…子どもの叫び…過去を心に刻もうとしないモノへ…(¬_¬)


福島の甲状腺がんの患者に対していつ国は賠償をするのだろうか??
以下『NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?』
のビデオの冒頭の部分起こし。

「放射能は怖くない」。そう教えられていました。第2次大戦後、アメリカは爆心地の近くで人間はどこまで戦えるのか人体実験していたのです。その数25万とも言われるアトミック・ソルジャー(Atomic Soldier)、アメリカ政府が責任を認め、兵士たちに賠償するまで40年かかりました。
また、チェルノブイリ原発事故で多発した子どもたちの甲状腺がんが、放射能が原因だと認められるまで20年の歳月がかかりました。

5年前に起きた東電福島第一原発事故、100ミリシーベルト以下の低線量被曝を受けた作業員たちも病魔に襲われています。・・・・

NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?

・放射能の被害が深刻化しているのに、なぜ日本の医学界は“脱原発”と叫べない??
731部隊では放射線をマルタに浴びせて人体実験をしていた。
非倫理的なことをして、医学界は何を画策していたのだろうか?
また、原爆開発の研究も進めていた。
原爆投下直後、731の秘密を隠すために、国を挙げて被災地の放射能の被害について調べ、アメリカに協力した。「アメリカの心証を良くする為に」(国体護持のために)
そして、結果はアメリカに731のデータを提供し、731の医学者・原爆開発にかかわった科学者はすべて戦犯免責され、アメリカとの交流を深め、アメリカに取り込まれ、新しい化学・生物・核兵器の開発をしている。
国は、核兵器開発を進めているために、被曝に対する情報を隠蔽し、医学者・科学者も協力している。 
※ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちの治療よりも原爆の威力の調査が優先された。
国体護持のために。
今のフクシマの現状も同じではないか?
なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?



放射能の危険性




トリチウムについて!!
核融合はやるべきではない!!

【熊本地震】丸川担当相「川内原発停止の必要なし」について。- 2016.04.16







●731問題
横倉氏は政府・与党との連携を重視!!(731のことなど頭にない??)
日本医師会 会長選挙 現職の横倉氏が3選


ドイツはまだ、戦争責任を追及している!!日本は全く忘れようとしている!!いや、あの戦争を肯定している!!
アウシュビッツ元看守に禁錮5年=94歳、殺人ほう助―独

南京大虐殺や原爆開発の反省をしないまま戦後突き進んだ結果が福島原発事故だ!!
木村守江(元軍医で南京戦に参加、元福島県知事。元日本医師会会長の武見太郎との関係は??木村の方が年配だが、同じ慶応大学医学部出身だ!!)と南京大虐殺と原発!!

木村守江と南京、福島原発



昭和天皇(当時は大元帥であり、現人神と教えられた)の名で始めた戦争!アジアで何千万人が犠牲になったのだろうか?
そして敗戦!!昭和天皇は責任を取らなかった!!謝罪もしない!!

あの戦争は明らかに侵略戦争であり、自衛の為の戦争ではなかった!!
安倍晋三と日の丸と戦闘機と「悪魔の飽食」731

安倍晋三のおじいさん岸信介と731の関係は??

岸信介・・・1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。

岸信介という人
以下「日本の右傾化・ファシズム化に危惧するブログ」より

岸信介の最初の実績の満州国で実業部総務司長に就任して訪満し、満州国の事実上の責任者として5ヵ年計画の中心者でした。
国家全体主義に燃え、あらゆる悪事を振舞うことになります。

岸信介は大日本帝国の侵略に果たした役割においては非常に優秀だったといえるかもしれません。

岸信介は満州国の現地の中国人らの生き血やアヘンで稼いだ資金をバックに、東條内閣の商工大臣として戦時統制経済を推進していきました。
岸信介は、東條内閣でも中国に深く関わっていくことにあります。戦時中の労働力不足として、中国人の労働力をも使おうとします。
そのために出されたのが、1942年11月27日、東條内閣による「華人労務者内地移入に関する件」の閣議決定でした。
このときの商工大臣は岸信介であり、「華人労務者」強制連行・強制労働政策遂行の最高責任者でした。
戦犯を逃れて、戦後首相に上り詰めた岸信介はそのことを追及されたのだが、責任者であったにも関わらず、白を切り続けました。


(参考)
岸信介、中曽根康弘、正力松太郎だけではなかった。
自民党自体がCIAの秘密工作機関であった!!
船瀬俊介の本を紹介 世の中はペテンに支配されている




証言 侵略戦争2 「中国人強制連行」 -加害体験の告白-



従軍慰安婦を娼婦呼ばわりし、今回の閣僚・議員の靖国挑発を画策し、アメリカ様よりお叱りを受けて、侵略は国によって異なるとか、靖国や歴史認識、慰安婦の政治問題化は望んでいないなどの噴飯の見苦しい詭弁や言い訳を吐き続ける安倍晋三。親子揃ってそっくりではないですか?

第61・62・63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟。また長女・洋子は安倍晋太郎に嫁いだ。洋子の次男は第90・96・97代内閣総理大臣安倍晋三、三男は政治家岸信夫。



岸は安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられた[65]が、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准、昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明する。
樺美智子さん(60年【岸内閣】安保闘争の犠牲者)の墓誌




「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ




オバマ大統領が広島を訪問し、スピーチをし、原爆資料館を見学した。

広島スピーチ


ロシア下院議長 広島でオバマ大統領の謝罪なしを非難


外遊好きな安倍首相も、パールハーバーや731罪障陳列館や南京大虐殺記念館などを訪問し、スピーチや記念館の見学をしてもよいのでは!!

真珠湾攻撃



終戦50周年731部隊



フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」



生体解剖は、731部隊以外の中国の陸軍病院でも行われていた!!
消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」



中国帰還者たちの戦後60年



特定秘密保護法撤廃!!
国民は「知る権利」を行使し、軍事増強を阻止しよう!!

軍事技術関連の研究 禁止や制限の国立大は4分の1

「軍事目的の研究」どう対応 日本学術会議が議論開始

学術会議会長「自衛目的の研究許容を」 軍事否定から転換の可能性

大西隆会長
最近の動き


上記の動きに反対する声明が出ました!!
731部隊で行われた人体実験・細菌戦に関し、日本政府は罪をきちんと認め、謝罪すべきだ!!



科学者の社会的責任



日本学術会議の軍事研究容認の動きを危惧し、反対する医学・医療関係者の声明

わが国の人文・社会科学、自然科学全分野の代表機関である日本学術会議が2016年5月20日、軍事研究のあり方を考える「安全保障と学術に関する検討委員会」の設置を幹事会で決定した。これに先立ち同会議の大西隆会長が本年4月の総会で自衛目的の研究を容認する考えを示したのを受けての動きと考えられる。 

私たち 「『戦争と医の倫理』の検証を進める会」は、軍事研究に公然と道を開こうというこの委員会設置を強く危惧し、医学界の一員としてここに断固として反対の意を表明する。「『戦争と医の倫理』の検証を進める会」は2009年に発足し、「過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在にも盲目となる」という歴史の教訓を生かして、いわゆる「731部隊」に代表される十五年戦争における日本の医学者・医師らによる「人体実験」などの非人道的行為を、史実に沿って検証し、その教訓を生かしていくために活動を続けてきた。

患者の命を守るべき医学者・医師が「研究」の名目のもとに残虐な行為を行う加害者となり、戦後は「人体実験」などのデータ供与と引き換えに米国政府から免責され、わが国の医学界は一貫して検証も反省もせずに事実を隠蔽したまま現在に至っている。このように「731部隊」の問題には、軍事研究が行き着く先のすべてが含まれている。私たちは本会の設立以来、多くの資料や証言によってこの日本で実際に起きた医学者の加害の歴史について検証を進め、二度とこのような過ちを繰り返すべきではないと日本医学会や日本医師会を始め、医学界に強く警鐘を鳴らしてきたのである。今回の学術会議の動きは、まさにその過去の大きな過ちへの道を再びたどるものと危惧する。


平和主義と基本的人権の擁護は、患者の命を守る使命を担った医学者・医師が片ときも忘れることを許されない倫理であると同時に、日本国憲法の原則に一致するものである。世界医師会は「非倫理的行為を求める法には従わない」ことを医師に求めている。 

日本学術会議は 1950 年に「戦争を目的とする科学研究には絶対従わない決意の表明(声明)」を、1967 年には「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発出している。これはわが国の科学者の真の自律と良心の宣言として、過去・現在そして未来までもその輝きがいささかも失われることがあってはならないのである。

「『戦争と医』の倫理の検証を進める会」は、歴史の教訓を踏まえ、科学者としての倫理と平和を追求する立場から今回の大西会長の発言に大きな危惧を有し、反対の意思を表明し、従来の声明の擁護を求めていくものである。

2016年6月8日
「戦争と医」の倫理の検証を進める会 



日本政府は731の史料をことごとく隠蔽し、人体実験・細菌戦の事実を認めていない!!

731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書⁄川田悦子(衆議院議員) 
2003年10月3日


いかなる部隊であったのか?







731部隊というのは一旦入ったら、2度と出ることはできない気違い共の医者たちに目茶目茶に切り刻まれて実験で殺されてしまう。
医学者?と人体実験
731部隊のドキュメンタリー



731部隊にいたことを悔い、医学者の道を捨てた男の物語
こういう人は稀だ!!ほとんどの上級隊員は、731での実績??をもとに出世??した!!


「731部隊と医学者たち」




※中国の731罪障陳列館から特移扱で731部隊に送られ、人体実験されて亡くなった人の資料が届きました。犠牲者は3000人以上とされています。
その「特移扱」というのは、憲兵隊及び偽満州国警察が、中国人民を不法に逮捕し、「重罪にあたる者」と決定したならば、裁判をおこなわないで、憲兵隊から石井部隊に移送して、細菌実験材料としてなぶり殺しにすることであった。
李厚彬の特移扱い資料3




封印された真実



戦争の狂気を語る!!
日本で、米兵の生体解剖したら、戦後大問題!!
九大石山教授は自殺までした。
中国で多くの人を生体解剖しても、なぜ問題にならない???
731の罪業は許されるのか???

九州大学生体解剖事件 (2/2)


九大生体解剖事件、90歳医師の償い 最後の生き証人

九大生体解剖事件






・情報公開裁判

なぜ、自衛隊衛生学校で作った『衛生学校記事』がきちんと保管されていないのだろうか?衛生学校と言っても、国民の税金で作られた公の施設である。自衛隊だから戦後、物品の管理はしっかりやっていると思うのであるが、不思議である。自分たちの大事な研究をまとめた機関誌である。第5代衛生学校長、金原節三氏の大切な寄贈資料も所在不明、よほど、管理が杜撰なのか??
季刊誌『ふかみどり』がきちんとあるのに、なぜ、その前の『衛生学校記事』ない??



金原節三・・陸軍に入り、次いで東大大学院で耳鼻咽喉科を専攻。ドイツ留学、昭和17年軍医大佐、近衛師団軍医部長、第15軍軍医部長、第38軍軍医部長、陸軍省医務局医事課長を歴任。戦後厚生省東海北陸医務出張所長を経て開業。30年防衛隊に入り陸上自衛隊衛生学校長、陸上幕僚監部衛生課長から陸将、第3代陸上幕僚監部衛生監となった。36年退官。その後防衛衛生協会会長、共済組合連合会三宿病院顧問、48年防衛衛生協会名誉会長。竹郎子と号し俳句、俳画をよくした。著書に「大東亜戦争陸軍衛生史」がある。



※『化学学校記事』等についての回答がありました。
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。


原告の陳述より

2 衛生学校図書室を見学して判明したこと
(3)このように『保安衛生』や『防衛衛生』は1954年の第1巻から、即ち60年以上前の発行物からずっと保管されています。
また自衛隊内の他の学校関係の発行物の『富士学校記事』や『幹部学校記事』まで保管されています。
さらに、私たちは今回は図書室で関覧できませんでしたが、衛生学校図書室の図書目録には、衛生学校が発行する各年度毎『衛生学校史』が昭26(1951)年から平成25(2013)年を図書室に保管されています。
これを一覧表したのが、別紙3の「衛生学校図書室所蔵一覧」です。

(4)上記のような一連の諸事実から見て、私は、防衛省が『衛生学校記事』を保管期間経過を理由に破棄しているという事実は全く存在しないと思います。



裁判所の三権分立がいま問われている!!


なんとか、この防衛省の内部研究誌を公開させたい!!
※尚、情報公開・個人情報保護審査会の答申が3月にあり、
「『化学学校記事』と『衛生戦史資料の体系化』も不開示決定は妥当」としたことに対しても、裁判で公開を求めることにしたという。


上記2点に対する裁判所の決定


お粗末な日本政府の情報公開




※自衛隊衛生学校、階級社会のパワハラ、セクハラ!!
国民が見えない密室の中で何が行われているのだろうか??







○○○さんよりの投稿がありました。
沖縄の嘉手納基地内(空軍の滑走路の近く、国道58から見えます)に米軍専用のゴルフ場「バニアンツリ-.又は、(クイーンズトラップ)」があります。民間人がプレ―する事は簡単ではありません。米軍人の友人(ゲスト)として参加するか…いずれにしても、超難題です!。しかし、自衛官は違います。自分達で予約(英語)して、米軍基地の入口(ゲ-ト)で米兵に「自衛官身分証明書」を提示するだけでフリーパスです!又、(1佐)以上は超特別です!。18ホールの本格的なゴルフ場です。料金も40ドル位で格安です。何故、自衛官は特別なのかは不明です。



そう言えばこんな事件もありました!!
たちかぜ自衛官いじめ自殺事件

警視庁でも!!
自殺2警官、上司批判のメモ 警視庁「パワハラない」

※特定秘密保護法が施行され、TPPはじめ、各省の情報開示が困難になってきている昨今、マスコミはこういう裁判を積極的に報道し、国の隠蔽体質を明らかにするべきだと思うが、一社も取材しないとは、どういうことだろうか?嘆かわしい!!


日本は「核兵器の非人道性」を主張する前に「731の非人道性」を謝罪せよ!!

歴代日本政府は、天皇制護持の為、いつも情報を隠蔽している!!
TPP文書だけではない!!

開示された文書「何で黒塗り?」



歴史を繰り返さないための海外の取組み!!

ヒトラー生家収用へ法案 オーストリア内務省

守秘徹底、法人設立も容易=「文書」発端の租税回避地-パナマ


731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力せざるを得なかった日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法の責任、全く無視している政治の責任、731に対する国民の認識は?

戦後70周年、中国の人々から日本の我々に届いた重いメッセージ!
虐殺された人々(日本人を含む)の声なき声にどう応えるか?
日本人はこの731問題にどう向き合うか?重い課題!!
日本には本当に三権分立があるのかが問われている!!

・・・・・・・ソ連軍が満州に侵入したという情報が入って、上へ下への大騒ぎでしょ。それから私1日も経たないうちにドカーン、ドカーンとやり出したと思いますけどね。
・・・・ソ連軍が攻めてきた時ですね、その日の朝にですね、朝の飯に毒を入れましてね、皆殺しを図ったわけですけれどもね、それで死なない、苦しんでいる人を、それに機関銃を向けて射殺したわけですね。・・・・・・・・・



731(5)



・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
黒い太陽№15



※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。

朝枝繁春の証言








古河、三井、チッソも戦前から国策「富国強兵」のもと、事業が進められ、環境問題を無視し、被害を拡大させ、今でも問題になっている!!そして、福島第一原発事故後も、国策「核兵器開発」のために、脱原発の方向に進まず、原発を再稼働させている!!
●水俣病
新潟水俣病 感覚障害だけで認定命令 7人の訴え認める
水俣病の被害が拡大した時も、医学界の権威者が、一時、チッソ水俣工場の有機水銀説を否定した。
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。
東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会

細菌戦部隊の周辺で研究者を送り込んだり,その他の協力関係にあった人です。
*田宮猛雄    (当時)東京帝国大学で若い研究者を731に送り込んだ
(戦後)東大医学部部長


水俣病公式確認60年 未曽有の被害 全容未解明
水俣病






水俣病を引き起こしたチッソと皇太子妃雅子様は

日本の公害







イタイイタイ病も賠償まで50年かかった!!
G7閣僚 高い関心 イタイイタイ病の教訓 世界へ/富山

1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。
1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。 その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。 1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した[8]。
1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。 1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。 1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。 三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。 三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。・・・・・
2014年(平成26年)9月末時点では認定患者は198人で要観察者が延べ408人となっており[15]、患者数は増加し続けている。
さらに、2014年(平成26年)9月の検査では従来行われてきた5歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査を全年齢を対象に切り替えたところ、1969年(昭和44年)の調査開始以来最多の精密検査対象者が出ており、健康調査への受診率が低迷していることも合わせると、患者数の正確な数字は把握できていない[15]。
患者に認定されると公害医療手帳が支給され、国から医療費・障害補償費・療養手当などが給付される。また、三井金属鉱業からも賠償費・医療費・入通院費・医療介護手当・温泉療養費が支給される[14]。
しかし、認定にハードルは厳しく、いまだに行政の救済を受けることができずに苦しんでいる人たちが残っている。現代での問題点は原因分析ではなく、患者認定・要観察判定の具体的な基準に移っている。行政側である県認定審査会は厳しい基準を課して却下する事例が多い。 具体的には、イタイイタイ病の認定の4要件の1つとなる骨軟化症の判定をおこなっている。

ドキュメンタリー:イタイイタイ病


「イタイイタイ病」全面解決??




萩野医師によって、原因究明がなされたが、日本医学界はこの問題にきちんと向き合ったのだろうか???

萩野昇(富山のシュヴァイツァー)


生ける屍

この病気は脳をおかさなかった。そのため最後まで患者の意識ははっきりしていて、死ぬまで痛みから逃れることはできなかった。また内臓にも病変をきたさないことから寝たきりのまま10年、20年と生き続け、生身を切られるような激痛に最後まであえぎながら、生きる屍となって衰弱していった。そして食事が摂れなくなり、孤独と絶望の中で死んでいった。火葬された遺体は、頭部以外の骨はほとんどが灰となって、骨としての原型をとどめなかった。いつ骨折しても不思議ではないほど骨は薄く、箸でつまめないほどもろくなっていた。
神経痛やリウマチでは骨折をきたすことがない。そのためイタイイタイ病は神経痛やリウマチとは明らかに違っていた。萩野にとってこれまで見たことも、経験したこともない病気だった。萩野はこの奇妙な疾患をなんとか治そうと医学書や医学雑誌などを調べたが、どこにもそのような病気の記載はなかった。午前中は外来診療、午後は往診、そして深夜になってイタイイタイ病の研究という毎日が始まった。






※共同研究者の東大の細谷教授は何をやったのか?

731部隊に弟子を送り込んだ防疫研究室の嘱託研究者
*細谷省吾    (当時)東大伝染病研究所教授
(戦後)同研究所に残る
研究業績で朝日賞を受ける


なぜ、研究者は以前から指摘されていた鉱毒被害には目をつぶる。
企業の方も、研究者を味方につけた??
なぜ、きちんと原因究明をしない??足尾鉱毒事件なども起こっていたのに!!
今の、水俣病や福島原発事故と構図は同じだ!!


※足尾銅山でも鉱毒でイタイイタイ病が発生していた!!(ウキペディア「足尾鉱毒事件」より)

1899年(明治32年)の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒によるイタイイタイ病で死者・死産は推計で1064人。これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。松本隆海は、すべてが鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、この地域で死者数のほうが多いのは、鉱毒に関連があるとしている(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。


1895年頃の足尾銅山



※以前から地元住民は鉱毒被害を政府に訴えていた!!医学界の反応は??(ウキペディア「イタイイタイ病」より)

1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。建議書には「神岡鉱業所事業の勃興に伴い、土砂に流入する田地の稲は発育に変調をきたし、完全に登熟しない。鉱山経営者に対し除害施設を講ぜしめられたい。」と訴えられている[8]。
その後も同様に要望が婦負郡農会や富山県会からも出たため、東京鉱務署の調査があり神岡鉱業所に廃砕・廃水処理の改善が命じられた。また、富山県は災害対策費として1ヶ所2円の県費補助金を出して、用水路幹線からの取水口に小沈殿池を設けさせて被害の軽減に努めた。これによって一時的に効果をあげたが、満州事変や日中戦争などに伴い神岡鉱業所が増産体制に入ったり、何度かの出水で小沈殿池が流されたり、埋没したりして以前にも増して泥や砂など流入が激しくなった[8]。
1948年(昭和23年)、熊野村(現:富山市婦中町)など3町4村の農家が神通川鉱毒対策協議会を結成。富山県を通じて交渉し、1951年(昭和26年)に神岡鉱業所が農業協力費を関係市町村へ支払うことになった。しかし、原因は解明されないままであった。





●横浜「戦争と加害」のパネル展




細菌戦(「戦争と加害」のパネル展in横浜)



毒ガス(「戦争と加害」のパネル展in横浜





参観者の感想
・事実とは思っていたがこんなにも悲惨なものだったかと衝撃を受けた。より多くの人がこうした事実に触れられ日本人として関心を持ってほしい。60代女性

「慰安婦」関係資料21選より






●全世界!!脱原発!!核兵器廃絶!!どこで地震・テロが起こるか分からない!!


広島スピーチ



Obama’s speech in Hiroshima オバマ大統領 広島でのスピーチ




・オバマ大統領の広島訪問 所感
5月28日 0時26分
しかし、この理想は大陸や海を越えて共有されるもので、追い求めること自体に大きな価値があるのです。
どの人もそれぞれの価値があり、誰の命も貴重なものです。
私たちが伝えなければならないストーリーは、私たちはみな、人類という1つの家族の一員だということです。
それが、私たちが広島に来た理由です。



永田浩三さんの添削

原爆は、世界を変えました。
その意味は、これ以降、後戻りできないほど、核兵器にまみれた世界にしてしまったということです。
オバマ広島訪問の虚像と実像(西里扶甬子)



原爆投下 10秒の衝撃 (1998年)






スウェーデンの研究機関は、世界の核兵器に関する調査結果を発表し、核弾頭の数の減少スピードは遅いうえ、アメリカやロシアが核兵器の近代化を進めていることなどを挙げ、核軍縮の進展に悲観的な見方を示しました。
核軍縮進展の見通し悲観的 スウェーデン研究機関

※核兵器廃絶の演説をしたオバマはなぜ、インドに原発を???
それも東芝の子会社が建設???
東芝米子会社がインドで原発を建設 米印が合意、2030年完成目指す

堤未果 スーパーリッチが支配する株貧困大国アメリカ




・昭和天皇(原爆被災時、日本の戦争の最高責任者、大元帥)の広島メッセージ
昭和天皇の広島メーッセージ(1975年の昭和天皇記者会見 )

ポツダム宣言黙殺・・・原爆・ソ連参戦




核廃絶へ松本で決議 非核宣言自治体協が総会

核実験・戦争・軍事演習こそが、地球環境を破壊する!!
核保有国は、環境破壊の責任を取ってもらいたい!!


この学術会議の動きは何なのだ???
日本学術会議 軍事技術研究巡り検討委設置へ

広島原爆投下






戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!

・日本の科学者の核兵器への執念の系譜

核を求めた日本!(岸信介の弟:佐藤内閣の時代)

水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)





多磨霊園の仁科の墓
理化学研究所に入り、1921~28(T10~S3)海外に留学し、ラザフォード・ボーアらに学び、原子物理学の理論と実験を研究。28X線のコンプトン散乱に関して〈クライン - 仁科の公式〉を発表。同年末帰国。 31以降理研主任研究員として原子核・宇宙線・量子力学の研究を進め、これら各分野の開拓者となる。その門下から朝永振一郎(同墓に眠る)をはじめ多くの俊英が輩出した。 また核破壊装置の建設をすすめ、37我が国初めてのサイクロトロンを、44には当時世界最大級の大型サイクロトロンを完成させた。 戦後、46理化学研究所長。48理研の解体後、株式会社科学研究所を組織し社長となり、また日本学術会議副議長などを歴任した。46文化勲章受章。<コンサイス日本人名事典>


*謹書は吉田茂。墓右に朝永振一郎の墓が建つ。


彼の最後の公職は、1936年から1938年までの、駐英日本大使だった。それに、彼は南洋への進出の提唱者ではあったものの、アメリカへの攻撃を必ずしも必要とはしていなかった。1941年、アメリカへの攻撃はまだ回避できると考えていた。骨身を惜しまず丹精した結果、67歳にして、今や彼は、真価が認められようとしていた。マッカーサーや将官たちは彼を事のほか気に入り、1946年から1954年の間、5回にわたり首相となり、戦後日本の立案者として記憶されることとなった。


※当然、原子炉を稼働させれば必ずプルトニウムが蓄積される。
核保有国になるのではなく、潜在的核保有国になろうとしていたのである。
ではそれは仁科一人の孤立した考え方だったのだろうか。
当然、日本独立時の宰相吉田茂の考え方でもあった。
仁科と吉田の、並々ならぬ親交の深さから想像するとそうなる。
仁科の長年の部下玉木英彦は、後に「1950年の夏のある日、吉田首相が箱根に先生を招いて二人きりで懇談したいといってきたことがあった」
[★14]と思い出を語っているが、仁科と吉田の関係は、何か重大なことがおこると、それについて二人だけで議する間柄だったのである。





*規則が厳しい多磨霊園では例外的に、血縁外の人物と眠る。仁科芳雄の墓の右側に「朝永振一郎 師とともに眠る」とあり、謹書は仁科芳雄を師として研究を共にした喧嘩太郎の異名をとった内科医の武見太郎。



武見太郎
731部隊への批判を封じ込めた??なぜ、医者として原子力に反対しなかったのか??
日本の医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。・・・医師会内部でも自分の意に沿わない医師を冷遇するなど独裁的な権力を揮い、医師会のみならず薬剤師会・歯科医師会を含めたいわゆる「三師会」に影響を及ぼし武見天皇とまで呼ばれた。医師会サイドからだけでなく、吉田茂閨閥(吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女)に連なり、その私的なブレーンとしても政治に関わっていた。

※世界医師会と日本医師会の関係
日本医師会は1951年の第5回ストックホルム総会において加盟した。1975年に「医療資源の開発と配分」を主テーマに第29回世界医師会東京総会を、また2004年には「先端医療と医の倫理」・「ITの進歩と医療」を主テーマとして2004年世界医師会東京総会を、日本医師会主催により開催した。これまでに第29代武見太郎(1975年就任)、第52代坪井栄孝(2000年就任)が会長に推戴されている。(ウキペディアより)

※世界医師会における戦争医学犯罪の追及
ナチスによって近親者を虐殺された米カリフォルニア大のフランツブラウ教授(皮膚科学)らは、1970代からナチスに加担した医師を追及してきました。・・・・731部隊の戦争犯罪を知ったフランツブラウ教授は「731の問題から目をそらすことは、日本の医師が自ら品位をおとしめる」として日本医師会の責任を行って来ました。・・・・


日本医師会はすでに議論済みとし、「この案件を無期限に延期する」動議を提出しました。日本の医学界では「人間の価値」のような検証と反省がないばかりか、隠蔽し不問に付したままの状況が続いています。(『パネル集 戦争と医の倫理』より)

※横倉氏は政府・与党との連携を重視!!(731のことなど頭にない??)
日本医師会 会長選挙 現職の横倉氏が3選





茅誠司

*同墓所にはノーベル物理学賞受賞者である朝永振一郎とアメリカの物理学者であるハリー・C・ケリーも眠る。
仁科芳雄の墓の脇にある墓誌にはこう書いてある。
「ハリー シー ケリー 1976年2月2日
米国ノースカロライナ州 ラーレーにて没」
茅誠司記

茅誠司
日本学術会議も原爆開発や731に対して批判をしていない!!
日本学術会議会長、南極観測特別委員長として、日本の南極観測参加に尽力する。 また、日本の原子力研究の創始に当たっては、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を伏見康治とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。

※南極特別委員会には731部隊第2代隊長、北野政次(東京血液研究所所長)、731部隊で悲惨な凍傷実験の人体実験を行った吉村寿人(京都府立医大教授)、戦争中京都大学教授で弟子を731部隊に送り込んだ戸田正三(金沢大学学長)も参加している。
※日本の原子力研究において、この三原則「自主、民主、公開」は全く機能していないのでは??積極的にアメリカに追随して、全ての情報を隠蔽している!!


原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~






安倍首相も731を訪問したら!
シャーマン前国務次官は、「将来、米国人の過半数が原爆投下を『誤り』と思うかもしれない」と指摘する。
オバマ大統領は09年4月のプラハ演説で「核兵器を使用した唯一の国として、行動する道義的な責任がある」と表明。翌10年から駐日米大使ら米政府高官が毎年、広島、長崎を訪れるようになった。

米世論の変化が後押し=オバマ氏広島訪問

NHK世論調査 米大統領の広島訪問 「してほしい」70%

アメリカはじめ、核保有国は核実験(未臨界実験も含めて)をやめろ!!
軍事費が国家財政を破綻させる!!
世界のどの場所でどのくらい核爆発が起きたのか



核兵器




政府の唱える非核3原則は嘘っぱち!!なぜ、核融合の研究・原発再稼動する??
オバマ氏広島訪問 韓国メディアは反発と警戒 「加害者を被害者に変える」

米政府が言及 広島は“核なき世界の象徴”

原発再稼動、「反対」が43%、「賛成」が18%
安保関連法 評価する42% 評価しない48%

「メルトダウン」事実と異なる説明 徹底解明を要請

<G7外相会合>「被爆した最後の館長」が思い…10日開幕

除染などの費用 今年度までだけで3兆円以上の試算

憲法に優先する安保条約であるなら、アメリカと合同で極秘に核兵器開発を進めることも不可能では無いのではないか。
この甚大な被害をもたらした大地震の原因の究明はされていない!!地震学者も驚いているではないか!通常の地震とは違った!!
何で国は、北朝鮮からのミサイル攻撃の時の原発の被害想定などを国民の目から隠す!!被害は甚大である。
プルトニウム44tを何に使う??核兵器がそんなにほしいのか??

小出裕章先生:一番大切なのは多くの人達が真実を知る。そして一人ひとりが責任を持って声を挙げること



2011年3月11日 車が流される 人が飲まれる 津波



原発事故の原因が究明されずになぜ再稼動??
原発事故の原因はなぜ解明されない??



20150502 R/F #121「小出裕章ジャーナル」【原発攻撃被害報告書が明るみに】



巨大地震、津波の原因は??
なぜ、地震学者が驚く!!












1つ目の㊙
原発がもし日本で事故を起こしたらどれほどの被害が出るのか?(1959年)
2つ目の㊙
原発が攻撃されたらどんな被害がでるのか?(1984年)
「2つの㊙と再稼動」




やはり、日本は核兵器を既に持っているのか??
政府、「憲法は核兵器保有を禁止していない」とする答弁書を決定
(以下「高知新聞」より)
要約すれば、憲法は理論上は全ての核兵器の使用を禁じていない。だが、「現実」がその歯止めになると読み取れる。
現実が憲法を超えるとするなら、政府が守ると言っている憲法の平和主義も、核兵器を「持たず」「つくらず」「持ち込ませず」の「非核三原則」の国是も一気に空洞化する。
法的な歯止めではない現実は、刻々と変わる。時の政権の判断によって、核兵器の使用が可能になる余地が残る。
国会の場で、日本の核兵器使用が現実味を持って公然と語られる現状にも驚きを禁じ得ない。

【法制局長官答弁】核使用まで容認とは驚く

この人は核兵器と通常兵器を全く区別していない!!
「核兵器の使用」横畠裕介・内閣法制局長官の答弁記録3 18参院・予算委員会



日本も地下核実験をやっているのか?(アメリカと合同で)
人工地震津波兵器は国際政治軍事上の常識!浜田復興担当政務官



地震学者の「今までやってきた研究が全て無駄だった」という発言は、本当に東日本大震災の原因は何だったのかを考えさせられる!!!
いまだ福島原発事故の解明はされていないのになぜ原発再稼動!!なぜ原発輸出!!
明らかに、全く戦争の反省がない日本は本気で核兵器の保有を考えている!!
3 11人工地震の証明~日本人が知らねばならない真実~



3回の破壊って何のこと??
東日本大震災人工地震



この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

宇野正美 311人工地震攻撃は日本のプルトニウム製造を阻止するのが目的だった



三権分立は日本にはない!!
原発訴訟の希望と絶望



元東京電力社員・木村俊雄が告発する福島原発事故の真相 2 1



自衛隊技術者15人は311テロ計画を知らないで爆弾製造に携わっていたようです

あの戦争で日本軍のしていたことを全く反省していない日本。
だから、戦後も、自衛隊を中心に『防護の為』と称して、核兵器の開発、毒ガスの製造、生物兵器の開発が行われているだろう!!
毒ガスの製造は確認できた!!生物兵器は勿論核兵器もか??
そして、戦争になって初めて、自国がどんな兵器を持っているか気付かされるのでないか?

<小出裕章さんに聞く>日本のメーカーはなぜ原発にこだわり続けるのか

小出:炉心にあった燃料はすべて使用済み燃料プールに移されていた。溶け落ちなかったんですから、ホントだったら水素爆発は起きないはずだったんですが、なぜか4号機でも、巨大な水素爆発が起きました。(ビデオ27分過ぎ)なぜ、4号機で爆発が起きたんだ??原因究明が全くなされてない!!
小出裕章講演会 20160124 山口市県教育会館




地震発生(1944年12月7日)の翌日8日の新聞のトップは昭和天皇の写真。(開戦記念日)

地震の詳細は掲載されない!!被害は隠す!!

東南海地震:「地震の次は何をお見舞いしましょうか」とB29がビラ




元NHK五十嵐さんが命をかけ伝えたかった人工地震の真実



●憲法9条


(新聞と9条:294)長沼裁判:66

――この憲法を守るのは本当にわれわれ国民だけじゃない。総理大臣が一番先に守らなければならない(尋問調書速記録)。

1972年3月30日、長沼裁判の第18回口頭弁論で、元陸軍中将の遠藤三郎は、そう語って証言を終えた。

(新聞と9条:295)長沼裁判:67

脱戦争!!軍事費が国家財政を破綻させる!!
現代の戦争(ハイテク戦争)
ハイテク兵器







・憲法9条(侵略戦争の反省から憲法9条が生まれた!)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

米軍はダメだが、自衛隊はいい?米軍も自衛隊も同じ仕様の武器を使っている。
沖縄にはたくさんの米軍基地・自衛隊の基地がある。最近では与那国島に監視レーダー施設ができ、石垣島、宮古島、奄美大島にも地対艦ミサイルの基地ができるという。これでいいのだろうか?


与那国島のレーダー施設




09
想像してごらん、
9条がゆきわたった世界を。

Imagine,
A world filled with Article 9.


想像,
的世界充满了第九条。

Представить,
Мир заполнен со статьей 9





IMAGINE9
解説
09
9条がゆきわたった世界
みなさんは学校で、どんな歴史を学んできま したか?
国内で行われた戦国時代の戦い以外に、日本がほかの国々と行つた戦争について、どのように教わってきましたか?
多くの国々では、自分の国がいかに正しく、立派であり、誇らしいものであるかを繰り返し強調してきました。その影で、自分の国がほかの国の人びとに被害を与えたことについては、忘れられることが多かったのです。
「国のためではなく人びとのために歴史を教えたい」 そう願う日本、韓国、中国の市民や研究者たちは、いっしょになって一つの歴史教材をつくりました (日中韓3国共通歴史教材委員会編『未来をひらく歴史』、高文研、2006年)。 傷つけた側、傷を受けた側が、共通の歴史をとらえ直そうとしているのです。

イスラエルは、60年にわたリパレスチナの土地を占領しています。それが理由となって、中東地域全体で暴力の連鎖が続いています。そんな中にあっても、 イスラエルの若者とパレスチナの若者が出会い交流を進めています。
インドとパキスタンは、国境のカシミール地方の領有権をめぐる対立を60年間にわたって続けています。国境では衝突が絶えず、両国は核兵器をもちミサイル開発を続けながらにらみ合つています。それでも、平和を求める市民は、国境を越えた交流を進めています。
南アフリカでは、人種隔離政策 (アパルトヘイト)の中で自人が黒人を抑圧してきました。アパルトヘイトは終わり、「真実と和解委員会」がつくられ、過去をみつめて和解を進めました。それぞれの問題において、一人ひとりの「対話」で少しずつ、ゆっくりと解決をしようと努力が続けられています。

「武力によらずに平和をつくる」という日本国憲法9条の考え方は、国家や人種、 民族の壁を越えて「地球市民」として生きていくための共通の鍵となります。
「世界中の国が憲法9条をもてば、すべての国は戦争ができなくなる」、それは無理なのでしょうか。いいえ。奴隷制に苦しんだ黒人の人びとが、人間として生きる権利を獲得したように、長いあいだ社会から排除されてきた女性たちが参政権を得たように、戦争も、私たちが働きかければなくせるものなのです。
第2次世界大戦を経験した人類は、「もう2度と悲惨な戦争を繰り返してはならない」という思いで、国連をつくりました。国連憲章は、「武力行使をしない」「軍事費は最小限にする」ことを定めました。しかしその国連憲章がつくられたあとに、広島と長崎に原爆が落とされ、戦争は終わりました。そして、日本の憲法9条が生まれました。
国連憲章も日本の9条も、目標は同じ「戦争をなくす」ということです。同じ目標のもとで、日本の9条は、国連憲章よりもさらに一歩前に踏み出しました。9条は、戦争につながるような軍隊をもつことを否定したのです。9条が一歩踏み出したその先に続くのは、私たちです。9条から見えてくる世界の創り手は、私たち一人ひとりなのです。





現在の森林伐採の水準が今後も続けば、世界の熱帯雨林は今後100年内に完全に消滅するとの指摘もある。

ノルウェー、森林破壊を認めない国に 世界初



武器輸出三原則
今の現状防衛装備移転三原則











731=国家犯罪!!


●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、細菌戦を闇に葬っている!!



日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア


井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)




寧波(ニンポー)細菌戦



闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)



細菌戦裁判(1997年~2007年)



終戦50周年731部隊



細菌戦被害の人々



(毒ガス戦)
原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】
<終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造

日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)



暴かれる毒ガス戦の真実



(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)



(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


天皇は知っていた!!



澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!

『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。



石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。


これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。



次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。



石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。


石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)

東京初空襲・浙かん作戦

一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。

蛍石・・・・用途・加工法・・・古くから製鉄などにおいて融剤として用いられてきた。現在では望遠鏡や写真レンズ(特に望遠レンズ)などで、高性能化のための特殊材料としてキーパーツとなっている。フッ素の貯蔵に用いられることもある。

蛍石の彫り物




赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!

1921年昭和天皇フランス視察

1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察





・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!



聞け、この沈黙の慟哭を
平房の涙、地底の叫びを
見よ、この虐げられた大地を
名も知れぬ鳥たちが番人のように私を見下ろしている
記憶は人間の地底を永劫に流れ続ける
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



新発見の金子順一論文を読み解く
奈須重雄(NPO法人731部隊・細菌戦資料センター理事)

(3)「PXノ効果略算法」について
Pはペスト、Xはゲオプスネズミノミのことである。PXはペスト菌を保菌しているゲオプスネズミノミという兵器のことである。
この中の「第1表 既往作戦効果概見表」は731部隊の細菌戦を確実に証明する証拠が見つかったという感慨をもたらしたが、反面事実の解明がまだ不充分であることをあらためて認識させられた。ここに言う効果とは罹患致死すなわちペストによる死者数のことであり、死者総数は25946人である。
既往作戦効果概見表によると細菌戦攻撃は6地域で行われたことが分かる。これらはフェル・レポートに記述された12ヵ所の細菌戦の一部である。PXの効果を分析している。他の病原体を使用した細菌戦やゲオプスネズミノミ以外のペストノミを使用した細菌戦は含まない。



※下記の“コラム”の記事にあるように、90名を裁判もかけずに捕まえ、30人をハルビンの731部隊で人体実験に供し、残りの60人は、孫呉で下車させられ、習志野学校(毒ガス部隊)と石井部隊(731部隊)の協同による毒ガス弾効能実験にあてられ、その特別演習用に供せられた。つまり、90人全員が生体実験され殺されたわけだ!!!!
『細菌戦資料センター会報10号』より


小泉親彦(ちかひこ)



※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。






・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



・パネル展



瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」






「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦




話は今につながっている!!幽霊が出る!!

石井隊長の戦後2



<群馬大病院>二つの外科、手術数競う 死亡事故調査委
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ


「ミドリ十字」という会社




内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月  厚生省


碑を建てても薬害は続く!!

イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴


イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状





国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!


子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ



以下、ウィキペディアより
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



日本の医学者の多くは原爆症患者を救うよりも、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!

ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永

第5章  放射線医学への「脚光」の下で

予研・ABCC体制

ブルースらABCCは、広島・長崎の被爆者に対する長期的な遺伝調査計画を立案し、その実行のために都築の継続的な協力を求めた。広島赤十字病院の一部を借り受け、ABCCが開設。これに対して、GHQは1947年3月24日付で、都築に対し、公職追放の6ヵ月猶予と原爆の医学的影響調査研究の継続を認める決定を下した。
1947年5月21日、GHQと日本政府は、東京帝大から伝染病研究所を切り離し、 これを国立予防衛生研究所(予研)として設立した。戦前の「特珠研究」を継続しながら、ABCCの調査研究にも対応する体制づくりが始まった。5月30日、シールズ・ウォーレン海軍軍医大佐らが広島市を訪問した後、6月3日と6日に、ABCCの遺伝計画に関して、予研関係者との会談が行われ、シールズ・ウォーレン、小林六造、小島三郎、公職追放中の都築正男らが出席した。シールズ・ウォーレンもまた米国国内での人体実験に関わってきた軍医だった。






・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!!

<国連>「核廃絶」決議採択 保有国は反対、日本は棄権




潜在的核保有国化を目指す日本は、「核廃絶」決議を棄権!!
日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!

◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直

ではこうした現実を前に、原子力(原発)開発推進派は、いかなる対処法をとったのだろうか。「関西研究用原子炉」の場合を例にとると、2つの方法をとった。
1つは、「関西研究用原子炉」推進派の中心人物、大阪大学の伏見康治が「四条畷で討死してから私は大阪府の役人や大学の事務局に話を任せていたのでは到底だめだと考え、京大の物理の教授である四手井綱彦氏と特に色々と善後策を相談した。この方は、いわゆる民主団体に接触のある方で、私の考え方は民主団体の援助を受けようというのである。この考えを煮つめていって、まず門上登志夫という人物を仲介役として働いて頂くことにして、お願いに参上したものである。」[★18]と後に回顧しているように、いわゆる「民主団体」の影響力を味方にとりいれるという方法であった。



※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。


※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!


海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集



開示された文書「何で黒塗り?」



原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)



放射能汚染地図「川で何が起きているか?」



原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書









●毒ガス問題
跡地の土壌汚染は大丈夫なのか??

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!

「旧海軍の毒ガス」に新資料 1987年4月7日(朝日新聞)
本土決戦へ相当量備  米軍報告書

資料の表題は『日本の化学戦についての情報報告』。常石敬一・神奈川大教授(科学史)と、長島修・立命館大教授(日本経済史)が、研究資料を調査中に、報告書とその基になった尋問所を見つけた。毒ガスの開発研究、生産、戦場への補給システムと貯蔵施設、化学戦訓練などにわかれ、全体量はA5判のリポート用紙で約650ページ以上。いずれも昭和21年5月までに米太平洋陸軍総司令部が作成、「部外秘」扱いにしていた。
報告書によると、海軍では技術局の機関として大正12年(1923)に東京・築地に最初の化学兵器研究所を設立した。その後、神奈川・平塚の海軍火薬工場敷地内に施設を移し、昭和6年の満州事変ぼっ発後、研究規模を拡大。戦局にかげりが見え出した18年に毒ガス製造の拠点となる相模海軍工廠となった。



・「中国軍の公式報告によれば昭和12年より昭和20年に至る間中国における日本軍は1312回に亘り毒ガス及び細菌を使用せり・・・・」


毒ガスと抗がん剤(船瀬俊介VS内海聡)



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ



・日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より


・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

アメリカとの合同軍事演習が緊密化し盛んに行なわれているが、兵器の共同研究も進んでいるのではないか。日本の進んだミサイル技術は、アメリカで試されるという。いろいろな軍事技術の交流があるのだから、核兵器の技術も十分に手に入っているのではないか?

(時代背景)
1995年当時の内閣は、日本社会党の村山富市氏であった。村山氏はこのとき、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。
このときは、国民の関心が自衛隊に集まっている時であった。
その中での、地下鉄サリン事件、そして、自衛隊の出動・事件の対処がある意味称賛される。これは、何を意味するのだろうか?


死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。
地下鉄サリン事件



医学者とは1




松本サリン事件・地下鉄サリン事件が起きる前に、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護方法を熟知していたのは日本では自衛隊化学学校だけである。その自衛隊化学学校のサリン製造技術及び防護方法がオウムに漏れていたのではないか??

『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態(実物のサリンは持ち出せないが、データ資料の管理はどうなっていたのだろうか?)???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。


【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】

【この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。】
(『悪魔の白い霧』下里正樹著)

自衛隊は、毒ガスのデータを1950年代に米軍(米軍は、ナチスドイツの文献資料を日本から入手して毒ガスを製造)から入手し、開発を進めていた。

・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年5月31日号
自衛隊とサリン 第3回
自衛隊は政府自民党をも欺いたのか?
1969年当時、「この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んで開発及び製造を禁止し、すでに貯蔵されているものをも破棄しなければならない」と国会答弁した佐藤栄作首相。(70年2月、国会での施政方針演説。)
・1950年代には米軍から毒ガス譲渡、60年代にはサリン製造。
・日本政府は再三にわたり毒ガス製造を否定!!
・毒ガスは「持たず、作らす、持ち込ませず」1970年代当時の日本政府の見解、全くの嘘だった!!
1970年当時の日本政府の見解
毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」

そもそも日本政府は毒ガスについてどのような見解を示してきたのか。
いわゆる毒ガスについて日本の国会で論戦に上がったのは大きく分けて次のような事件・事故、条約批准に絡んだ時期だ。
①沖縄の米軍・知花弾薬庫での毒ガス漏洩事故(1969年7月発生)及び毒ガス使用禁止を定めたジュネーブ議定書の批准(70年5月)。
②旧日本軍の毒ガス弾等全国調査(73年開始、2003年に結果発表)。
③地下鉄サリン事件(95年3月)及び化学兵器禁止条約の批准(同年9月)。
④中国での旧日本軍化学兵器遺棄問題(2000年から処理作業開始)や日本各地での旧軍の毒ガス弾など発見。
このうち、①の時期に絞って、毒ガスをめぐる日本政府の発言内容を紹介する。連載2回目(5月24日号)で山里洋介・元陸上幕僚監部化学室長が「サリンの合成に成功した」と証言した1964年の5、6年後だ。
まず、沖縄での毒ガス事故直後の1969年7月24日、第61回国会衆院本会議での佐藤栄作総理大臣(当時)の答弁を抜粋する。
〈政府の基本的な態度は、去る7月3日、ジュネーブの軍縮委員会における朝海代表の発言でおわかりの通り、この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んでその開発及び製造を禁止し、既に貯蔵されているものをも破棄しなければならないとするものであります〉。
また、翌70年の第63回国会で愛知揆一外務大臣(当時)も、ジュネーブ議定書批准(同年5月承認)に向けて日本政府の姿勢について、次のように答弁した。
〈日本政府の従来からの主張は、なるべく範囲を広くし、かつ、使用だけではなくて、製造あるいは貯蔵においてもこれを禁止するのが理想であるという主張をいたしておるわけでございます〉=衆議院予算委員会、70年2月26日。
こうした一連の発言が毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則と同様の日本政府の見解となってきた。

第63回国会では、興味深いやりとりがある。衆議院予算委員会での楢崎弥之助議員と中曽根康弘防衛庁長官(いずれも当時)との質疑応答の中で、「サリン」が登場するのである。要旨を抜粋し、紹介しよう。
楢崎:現在、自衛隊はBC(生物、化学)兵器関係の催涙剤も含めて、どういう種類のものをお持ちか。
中曽根:自衛隊が持っているのは催涙性のガスで、これは治安の場合に使うという程度のものであります。
楢崎:これ以外に置いてあるものはありませんか。
中曽根:それ以外にはありません。
楢崎:昨年、沖縄の米軍基地で問題になった、例のGBサリン、これを持っておるでしょう。
中曽根:政府答弁書にも書いてありますが、Gガスは持っておりません。(その後、実験用、研究用ではどうかなどと追及されると「浜田政府委員」が答弁に立ち・・・・)
浜田政府委員:実は、水の溶けました農薬あるいはそれに類するもの、それに対する浄水装置の試験でございまして、サリンを使ったものではございません。残念ながら、サリンそのものは作り出すことは現在の段階では出来ないのでありまして・・・・。
などと答えている。
「Gガス」とはジャーマンガス(ドイツのガス)のことで、「GB」とは米軍によるサリンのコードネームである(連載2回目参照)。
山里・元陸上幕僚監部化学室長の証言どおり、陸上自衛隊化学学校でサリンの合成に成功したのが1964年とすれば、ここに紹介した国会での政府側答弁はすべて実態を隠蔽した虚偽発言ということになる。かりに政府が自衛隊によるサリン製造の事実を知らなかったとすれば、シビリアンコントロール(文民統制)を無視した自衛隊の暴走ということにならないか。  

それとも、自民党も毒ガスの製造、貯蔵のことを知っていたが、嘘を言って国民をだましているのか?




※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!


日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)


国会答弁書


・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
だが、このとき運び出された8300トンのサリンは、貯蔵量のほんの一部、知花弾薬庫には、まだまだ大量の神経ガスの残されてあった!!

日本軍の毒ガス被害



昭和天皇の“沖縄メッセージ”




●多磨霊園と大日本帝国



・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。



谷寿夫(たにひさお

1882.12.23(明治15)~ 1947.4.26(昭和22)65歳没
明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)
岡山県出身。東京府立四中を経て、陸軍士官学校(15期)卒業後、日露戦争に従軍。1912(M45)陸軍大学校(24期)卒業(恩賜軍刀組)。'15~'18(T4~T7)イギリス駐在武官となり、第1次世界大戦の西部戦線に従軍した。 '18帰国後、陸軍大学校の兵学教官に任命。'20~'23インド駐在武官。'24~'27再び陸軍大学校の兵学教官となり、日露戦争を研究する時の必読書として知られる兵学の教科書『機密日露戦史』を著した。 '30(S5)参謀本部付となり国連に派遣。同年、少将となり国連陸空軍代表となる。'32軍事調査委員長、'33近江歩兵第2旅団長、'34中将となり、東京湾要塞司令官を歴任。
'35第6師団長(熊本)となり、'37松井石根司令官率いる中支那方面軍の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍した。 このとき、南京事件(南京大虐殺)がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、同年12.28中部防衛司令官に任命された。 '39侍命、予備役編入。'45.8.12太平洋戦争終戦間近に、第59軍司令官兼中国軍管区司令官として復帰。 戦後、BC級戦犯とし南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を拘束、南京裁判にかけられ蒋介石により処刑された。日本では法務死とされる。享年66歳。戒名は大雄院殿廓然天真大居士。
<帝国陸軍のリーダー総覧><日本陸軍将官総覧>
【南京事件(南京大虐殺)】
1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。 日本軍は中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日南京は陥落した。12月14日中島今朝吾中将率いる師団の将兵が、市内の掃蕩にあたって、戦闘員・非戦闘員を問わず虐殺した。
日本軍はニュースに厳重な検閲を行ったが、「日本軍の乱行」として世界に宣伝された。 生き残った証人の言によれば、「2万人からの男女、子供たちが殺され」老若問わず殆んどすべての女性は野蛮な被害を受け、家という家は掠奪され、南京は4週間にわたって血の街と化してしまった。
帝国主義戦争の罪悪を暴露したとされるこの事件は、現在でも中国人の徹底的反帝抗日の意志となっている。なお、南京事件(南京大虐殺)に関しては、現在でも論争となっており、事実と歪曲が入り交ざり解明が困難な状況である。

田原総一朗「記憶遺産登録の『南京大虐殺』を日本は完全否定できるのか」
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



なぜ、天皇、皇族は裁かれない???

【南京裁判】
南京事件(南京大虐殺)は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判(東京裁判)と南京軍事法廷で審判された。 極東国際軍事裁判では、事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根陸軍大将が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。 南京軍事法廷では、事件当時に第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。
裁判において谷は、申弁書の中で、掃討戦は中島部隊(第16師団)が起こしたものであり、第6師団は無関係であったと主張したが報われなかった。 谷の上司である第10軍司令官の柳川平助と、主力として南京掃討戦を行なった第16師団長の中島今朝吾は、'45に死去しており、松井石根につぐ責任者である上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王は皇族であり不起訴となったため、生き残っていた谷に責任がまわり罪をかぶせられたとされる。 なお、皇族が訴追されなかった理由は、アメリカ側の皇族は戦争犯罪に問わないという方針に基づいたものである。
南京裁判では、この他、百人斬り競争として報道された野田毅陸軍少尉と向井敏明陸軍少尉、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉陸軍大尉(三名とも当時の階級)が死刑となった。 現在、報道記事は戦時中の軍人や国民の戦意高揚の武勇伝とした記事で創作なのではないかや、日本刀で100人斬ることは不可能だとされ、否定派と肯定派の論争が続いており、2003両将校の遺族が死者に対する名誉毀損で裁判を起こした。
<日本史小辞典など>
朝日新聞
旧日本軍の「百人斬り」めぐる訴訟 本社などの勝訴確定
2006年12月22日23時16分
旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ故人を慕う遺族の気持ちを傷つけられた」などとして、朝日、毎日両新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は22日、遺族側の上告を棄却する決定をした。朝日新聞社などの勝訴が確定した。
二審・東京高裁は「百人斬り」を報じた当時の記事について「全くの虚偽であると認めることはできない」と認定し、請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持した。
南京虐殺否定派敗訴

【戦犯と多磨霊園に眠る人物】
法務死ではないが、A級戦犯として終身刑とされた人物で多磨霊園に眠る人物は、荒木貞夫、大島 浩、平沼騏一郎、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一がいる。 '52処刑されなかった平沼騏一郎が獄中死ということで法務死扱いとなり、他13名とともに靖国神社に合祀された。 これら人物の合祀が元で靖国問題として騒がれることとなった。
裁判を免れたA級戦犯被指定者で多磨霊園に眠る人物は、岩村通世(不起訴)、徳富蘇峰(不起訴)、本庄 繁(自殺)、中島知久平(不起訴)がいる。戦犯とされたであろうが自決しリストに入らなかった多磨霊園に眠る人物も多い。 阿南惟幾 (S20.8.15)、宇垣 纏(S20.8.15)、親泊朝省(S20.9.4)、島田朋三郎(S20.9.4)、杉山 元(S20.9.12)。
BC級戦犯は戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪とし、戦勝国の連合国の世界49ヶ所の軍事法廷で裁かれた。 5645人が容疑をかけられ、死刑判決912人、病死127人、事故死25人、自決41人、不明死60人の合計1165名の死者にのぼる(峯氏HP「殉国の碑」を参考)。 またソ連では秘密裁判により3000名、中国の人民裁判では約3500人が処刑されたといわれているが、未だにその詳細は明かにされていない。 そのため、裁きを受け多磨霊園に眠る下級軍人も多いはずであるが詳細はわからない。 現在、法務死としてわかっているのは、山下奉文(S21.2.23マニラ大虐殺等の責任を問われマニラで絞首刑)、谷寿夫(南京大虐殺の責任を問われ南京で処刑)、橋本虎之助(中国の戦犯として抑留中S27ハルピンで没す)である。 なお、吉岡安直はモスクワ市内の病院で病死とされているが、他殺説とも言われている。




●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!

毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず


自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!




お役人のお仕事・・・いかにまずい資料を隠すか??
お粗末な日本政府の情報公開



・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしいではないか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?

そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?


・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!


情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??

裁判所の決定



「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。満州事変を起こしたあの謀略戦争の開始、あれは関東軍が先走ったと言われているが、その関東軍の上層の命令が無ければ出来ない、そして結果的には大元帥陛下、天皇が承認しなければ出来ない、そういう組織が日本の軍隊だ!!





●『日本の国家機密』(秘密国家日本の実態)
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より

第2篇  自衛隊の機密

第1章 作戦用兵


2  統合戦略見積

統合年度戦略見積

統合年度戦略見積、統合長期戦略見積は、秘密区分「極秘」に指定される。年度のものとしては、「昭和40年統合年度戦略見積―資料」の一部が明らかにされている(参考資料13)。これについて72年5月17日、衆院外務委員会は秘密会を開いて審議している。この席における政府答弁にもとづき右文書の性格について分析しておこう。秘密会は同日午前11時10分から午後零時15分まで行なわれている。ことわっておくが、この秘密会の内容を、私が 「探知収集」したのではない。会議録として発行されているのである。奇妙な話だが、これは政府が秘密会においてさえ、まともな答弁をしていないことを物語っているといえよう。会議録にはとくべつ削除部分がしめされているわけではないし、また秘密会の席上、曽祢益議員(民社党)が、「きょうの議論を伺っていると、何ゆえに秘密会なのか全然わからない」と発言していることからも、そう判断できるのである。


長沼ナイキ事件・・・概要・・・北海道夕張郡長沼町に航空自衛隊の「ナイキ地対空ミサイル基地」を建設するため、農林大臣が1969年、森林法に基づき国有保安林の指定を解除。これに対し反対住民が、基地に公益性はなく「自衛隊は違憲、保安林解除は違法」と主張して、処分の取消しを求めて行政訴訟を起こした。

(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景



※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。



●現在の日本

日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
戦後、全く戦争の反省をしないばかりか、あの戦争を肯定しようとしているのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造(チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。)→山下俊一(福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。)

日本の原爆開発







核融合はやるべきではない!!

この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?



”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!



科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中にさせられる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』







●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。



友人たちへの回覧状(1938年11月29日)
親愛なる友人がた;
依然として気ままに土地と家屋が没収され、20%を超える実際の財産が、軍隊とその多様な名称の中国人奴婢たちや3000人の日本の民間人とに持っていかれ、燃やされるのを免れた城内でもっともよい家屋に今や、日本の商店が302軒出来ているのです。いかなる商いでめぐり巡っていくのか私には分かりませんが、私の好く知っている多くのケースから言うと、広大な占領区で数千人に補償として、一軒ごとに5元支払われただけです。これが(日本の)外交官が昼食会での演説でしゃべった「経済合作」なのです。一方は資源と労力とを提供し、もう一方は武器を手にし、暴力を以って獲得した名義上の投資に名を借りて、抑え込み利潤を奪い取るのです。僕らの経験によると、電気工事から街角の商店など私人の家屋に至るまで、やり方はだいたいこんな風です。アッティラは純然たるよそ者だったのです。①

※①原文は〔Attila was a simple greenhorn〕。アッティラは433(?)~453年の間の匃奴の王で、神の鞭と世に称されたが、ここでは暗に日本の侵略者の強奪を喩えている。






しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分




昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・

(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。

したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より



軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)

お粗末な日本政府の情報公開



※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)




世界初の「南京大虐殺辞典」出版される








●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん


2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。




<戦争を知らない世代の必読本>
日本の歴史教育は、特に近現代史のそれはあまりにも問題がありすぎる。多くの日本人は、日中戦争や侵略について、ほとんど理解しないまま大人になっている。
このことが、隣人との友好の阻害要因となっている。残留孤児について知らない若者が多いだろう。この中島本を学生に教えるといい。歴史を教える教師の副読本にしたらいい。


発売元 亜東書店 03-3835-7091 
中国語版 北京三聯書店「何有此生」







●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
医学者とは?〔14〕




ガン治療のウラ 6/8





悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)

医師 甲田光雄2/6 ラジオ深夜便








●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年

第十四章 創り直された君主制

第15章東京裁判

天皇の戦争責任に関する東条の証言の問題性に最初に気がついたのは、明らかにコートニー・ホイットニー少将である。東条の弁護の準備に当たった塩原時三郎〔木村兵太郎被告の弁護人〕によれば、東条が公判前に供述書を準備し始める以前のある日(おそらく米内と通訳がフェラーズに会う以前のことであろう)、ホイットニーは米内に、マッカーサーとトルーマン大統領は「天皇は、無責任であるとして、国体に傷がつかないようにしたいと思」っていると伝えていた。しかし、このような政策に対してはアメリカ国内で「相当の反対論」があった。東条はアメリカの尋問官に対して、天皇の敵対者を勢いづかせるような答弁ができるし、そうした事態を食い止めることもできた。ホイットニーに見方は、平和達成の手段として東京裁判を利用しようとする最高司令官の意向をも反映していた。さらに、占領政策を遂行する際に浮上したアメリカ国内からの介入に対するマッカーサーの過敏症をも反映していた。
米内は塩原弁護人にホイットニーとのやりとりを伝えた。塩原は、東条を助けるため、アメリカの世論を踏まえた弁護を心がけると請け合った。かくして、東条は供述書と法廷での証言において、1941年に天皇が果たした役割に関する日本政府の公式見解に従った。すなわちそれは、天皇が権限を委任した輔弼・輔翼者だけが当時の決定に責任を負い、「国家の最高機関が、これよりほかに途(みち)はないと決定したので」、天皇は開戦決定を裁可するほかなかったというものである。



●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

敗戦
(その5)


苦しい判決

後になって、1948年1月8日、キーナンは、まさしく東洋の夜への招待を受けた。そこは、海辺のリゾート地、熱海のある金持ちの別荘だった。松井大将の慈悲観音が山上より、月光に輝く湾を見下ろしていた。二人の元首相、元陸軍大臣、そして熱海市長らがキーナンをもてなしていた。 「Je suis tres fort. (私はとても強い)」とキーナンは言った。宴が終わると、市長は女たちを呼び、日本の政治家だった老人たちはキーナンに最初の選択権を譲った。その夜遅く、キーナンは田中に、「もてなしとはそういう機会をつくるものだ」と話した。夜の明けかけた道を東京へと戻る際、列車と競いそれに勝ったということで、彼はお付きの運転手に百ドルを与えた。彼は、天皇の顧問、松平より、宮中での晩餐に招かれた。戦犯裁判における彼の二重の役割が、天皇に説明された。だがそれに天皇は、「ああ、それは結構です」と言ったのみだった。(147)




昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に

















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