2009年2月13日金曜日

1938年 南京 2月13日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月13日
今日、アメリカ大使館を通じて、さらに次のような電報受領通知書を受け取った。

   ジーメンス・香港       1937年12月1日
 上海の本社から、貴君へ届けるようにと、以下の電報を受け取った。「了承できず。即刻漢口へ向かい、社のためを第一に行動されたし」    香港支社

午後、平倉巷で礼拝。リンカーンについてのベイツの素晴らしい説教。リンカーンの言葉はいろいろな点でそのまま現代に当てはまる。1863年のリンカーンの宣言が読み上げられた。
 きょうもらった1937年12月1日の電報受領通知書のことだが、私は絶対にこの時の電報を受け取っていない。あのとき、これ以上の危険を避けるように、場合によってはドイツ大使館が南京から移動する時に合流するようにと、電報で助言してくれたのだ。その上私に、これからどうするつもりか知らせるようにいってきた。
 当時私は次のように返信した。
「私は、国際委員会の代表としてここにとどまり、20万人以上の非戦闘員の難民区の設立にかかわるつもりです。」
 この電報でわかるように、中国本社はそれを了承していない。だが繰り返すが、12月1日付けの電報は私の手には届かなかったのだ。・・・・・・・

 あのとき、私は会社の言う通りにしたつもりだった。だが、それが実は先方の意向に反していたことが今になってわかったというわけだ!

 とはいえ、あの時会社が私にどうするつもりかと聞いてきたのは、あくまでも身の危険を避けることを前提にしたうえだったのかもしれない。だが、一方では電報を受け取らなかったのは良かったとも言えるのだ。義理堅い私のことだ、土壇場で決心を翻して、ジャーディン海運社の船に乗り込んだことだろう。そうなったら、ここに残ったジーメンスの中国人社員やうちの使用人たちがはたしてまだ生きているかどうか大いに疑わしいと思っている。
 思いがけず木箱が手に入った。私の「老百姓」、つまり庭の難民の中に指物師がいて、そのつてで20個ばかりまわしてもらえたのだ。箱だけではない、わらもだ、土砂降りの雨の中、難民が数人がかりで、3000リットルほどのわらを遠く漢西門の前から運んできてくれた。荷造りは指物師が無償で手伝ってくれた。わらは全部でたったの2ドル。そうなのだ、貧しい人との友情もやはりなにかしら役に立つものなのだ。いや、それどころか、今度のように非常に役に立つこともある。板など、今じゃ市場ではまず見当たらないからだ。

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月13日 日曜日
 今朝は激しく雨が降った。ついに重爆撃機の爆音が聞こえなくなった。咳が出て喉が痛いので、今日は家にいた。
 昨夜、真夜中ごろ4人ないし6人の兵士が私たちの洗濯場に近い農民朱の家に行き、激しくドアをたたいて「花姑娘」を要求したことが報告された。ドアを開けなかったので、最後に彼らは立ち去った。今夜その女の子たちが女子学院に戻ってくるのではないかと思う。
 午後三時ごろ将校2名、兵士1名、それに「傀儡協会」の中国人4名がキャンパスにやってきて、洗濯婦を4人見つけてもらえるか、と聞いた。30歳から40歳までの女性だ。報酬は米で支払うとのこと。彼らは、洗濯婦を迎えに明日の朝また来るという。それまでに何人かを見つけるために、できるだけのことはしよう。出入りの洗濯屋にも話したところ、彼は、夜に帰宅できるのであれば喜んで応じるとのことだ。妙な話だが、私が実験学校に戻る前に1人の女性がやってきて、その仕事をしたいと申し出た。私は、彼女が3人の兵士に強姦されたことをたまたま知っていた。間違いなく、彼女は勇気がある。
 ジョージ・フィッチが戻ってきているが、彼は、20万ドルの難民救援金の約束を取り付けている。問題は、どのようにすればそれだけの金額を賢く配分できるかだと思う。
 以前よりもたくさんの手紙と、同じくたくさんの包みが上海から届いた。友人たちは、私たちにとても親切にしてくれる。品物を買ってくれと頼むと、そうではなく贈り物をしてくれる。郵便局同然の仕組みがうまくまわり始めた。昨日私は、避難民のためにたしか20通の手紙ー大部分は上海の親族に送金を要請する手紙ーを送ったと思う。
・・・・・・
  
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


戦争にそなえるより


戦争をふせぐ世界を。



Imagine,


A world that instead of


preparing for war,prevents

war.




コスタリカは1949年の憲法で軍隊をなくしました。
コスタリカのように武器を持たない国が 国際的に大きな強みを
発揮する事があります。
なぜなら、コスタリカは軍隊を持たない分、教育に力を入れ、人づくりをしているからです。
若者たちは、紛争が起きたとき、武力ではなく交渉や対話によって
解決できるということを、一人ひとりが子どものころからしっかりと学んでいます。
(コスタリカ/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月12日木曜日

1938年 南京 2月12日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月12日
いよいよここからずらかるときが来た。ぐずぐずしちゃおられん。今朝7時に、張が天津出身の友達を連れてきた。馮(フォン)といってアメリカ人の家の留守番をしている男だ。かみさんが産気づいて三日になるというのに、まだ生まれないという。こんな嘆かわしい世の中だ、出てきたがらない気持ちもよくわかる。だがかみさんが危ないらしい。すぐ産まないと命にかかわる。そこで、こともあろうに私のところにやってきたのだ!
「だけど私は医者じゃないんだよ、張。産婆でもない。『市長』かもしれんがね。だからと言って知りもしない人間の子をやたらと産ませる義理はない。すぐ鼓楼病院に連れて行きなさい」
 すると張は言った。「ええ、おっしゃるとおりです。でもいっしょに来ていただかないと、困るんです。でないと病院に入れてもらえずに死んじゃいます。子どももです。いっしょに来てさえいただければ、それでいいんです。親子ともども助かります!」
そんなことってあるものか!
「まったく、どいつもこいつも・・・・・」
 かくして、私はつきあうことになった。すると、信じがたいことが起こった。私がその家に入ったとたん、男の子が生まれたのだ。母親は笑い、赤ん坊は泣き、みなは喜んだ。張のやつめ。またしてもこいつの言うとおりになった。しかも私はこの茶番劇に10ドル払うことになってしまった。お祝いをやらなくてはならないからだ。これが知れ渡ってみろ、破産してしまうじゃないか。なにしろ、町には難民が25万人もいるんだからな!
   
17時
 中国軍の空襲。空は一面爆撃機で埋め尽くされ、日本軍の防空部隊が必死で狙撃している。まったく当たらない。それでいいのだ。何しろ誰一人防空壕に入ろうとしないのだから。中国人は、祖国の空襲にはやられないと信じ込んでいる。


 今日の午後、フィッチが「親しくなった海軍軍人」と一緒に上海から戻ってきた。ソーセージやチーズ、インシュリン、それから郵便物をどっさり持ってきてくれた。なかにドーラの写真が一枚あり、ベルリンの新聞の切抜きが添えてあった。「南京市長ラーベ」を称えている記事だ。ああ、市長の年金でももらってのんびり隠居できたらどんなに良いだろう!
 南京陥落の直前、しばらく泊めてくれと頼みに来た人たちの中に国民政府の幹部が2名いた。私は承知した。2人はトランクいっぱい金を持っていて、うちの使用人に何かにつけてチップをはずんだが、その額ときたら、いくらなんでも程度を越えていた。
 国際委員会は、蒋介石から総額10万ドルの寄付を約束されていたが、実際には8万ドル徴収するのがやっとだった。だからこの2人に、国際委員会のための金はもう持っていない旨一筆書いてもらった。
 私がこんなことをした直接のきっかけは、ある日、書斎の机に5000ドルの札束を見つけたからだ。それにはメモが添えてあり、「哀れな人々を救う貴殿の誉れある行為に」とあった。
 私はすぐにそれを委員会に払い込み、2人に公式の領収書を渡した。2人ともちょっと驚いていた。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月12日 土曜日
 リンカンの誕生日だ。しかし、お祝いは何もしない。よい天気が続いている。
 ジョージ・フィッチが戻ってきている。今日アメリカ砲艦オアフ号で帰ってきたのだ。彼から是非情報を聞きたい。彼は、上海にいる私たちの友人からの荷物をたくさん持ってきたそうだ。
 4時から6時まで実験学校でパーティがあった。上海から届いたオレンジとポップコーンを食べた。F・陳さんの新しい息子の誕生日をお祝いした。赤ちゃんの誕生を知らせる手紙が汕頭から届いたのだ。
 6時30分、ジョン・マギーがいくつもの包みージョージ・フィッチが私たちに持ってきてくれた包みーを腕いっぱい抱えてやってきた。メリーは、初めての手紙をもらって大喜びだった。
 飛行機の活動状況から、爆撃が弱まることなく続いているのがわかるが、それ以外は、外の世界についてはほとんど何もわからない。午後、対空砲撃が行われた。多分演習だろう。ありとあらゆる噂が伝わってくるので、私たちには、蕪湖や杭州が日中両軍のいずれの手中にあるのかわからない。
 今日は日本人の訪問者はまったくなかった。
 2ヶ月ほど前から一般生物学研究室の実験台の上で暮らしている、2人の子持ちのとても魅力的な若い女性が相談にやってきた。彼女の話では、夫は上海に骨董店を持っているが、彼女自身はお金を持っていない。彼女は、このところずっとキャンパスで無料配給米に頼って生活している。彼女は、長い歴史のあるクエーカー系女学校の卒業生だ。彼女によれば、自分の家に帰りたい、そうすれば、彼女の家の近所には男が大勢いるので、兵士たちに悩まされることはあるまいと考えている、というのだ。彼女の帰宅については、何が起こるのではないかと、いささか心配だ。
 
 
「Imagine9」【合同出版】より




想像してごらん、



女性たちが



平和をつくる世界を。



Imagine,



A world where



women create peace.



戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を
果たす事ができます。
(アメリカ/先住民女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月11日水曜日

1938年 南京 2月11日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月11日
今日、委員会の苦力、銭は歩いて故郷の村に帰っていった。ここから3時間の道のりだ。銭の家族はまだ生きているだろうか。無事に会えただろうか。心配でたまらない。郊外ではまだかなりの人が殺されていると言う話だ。
 たった今、またもやこんな知らせが舞い込んできた。1人の兵士がある家に押し入った。天谷少将によれば、その素晴らしい軍紀によってつとに名高い日本軍の兵士が、だ。その家には母親と2人の娘が住んでいた。娘を強姦しようとしたが抵抗され、そいつは3人を家に閉じ込めて火をつけた。娘の1人は焼き殺され、母親は顔にひどいやけどを負った。この件を調査しなければ。
 シンバーグから聞いた話はもっとすさまじい。だが今度は中国人の話だ。同郷の1人が隠し金を持っていると睨んだ4人の中国人が、その男を縛り上げて火あぶりにして、金のありかをはかせたという。
 とにかくここはアジアなのだ!そう言い聞かせてはみても、こういう胸の悪くなるような残虐な話を次から次へと聞かされると、祖国が恋しくなる。
 上海から良い知らせだ。緑豆を100袋送ったとのこと。鼓楼病院が脚気の治療にと頼んでいたものだ。
 張は板を探しに行った。まだこまごました品物がたくさん残っている。できるだけ多く送りたいので、木箱を作らせるつもりだ。南京を再びこの目で見ることができるかどうかなど、誰にもわかりはしない!カルロヴィッツ社にもう1箱空き箱があるというので、シュペアリングがこっそり取ってきてくれるという。


 13時
 ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのが残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。
 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。ローゼンは、上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも1本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうちの幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人たちも写っていた。


 「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月11日 金曜日
 郵便物は午後4時までに大使館に持って行けば、上海に届けてもらえる。
 陽光溢れるうららかな一日だった。春はもう遠くはない。今朝は頻繁に重爆撃機の爆音が聞こえてくるが、手や足を失った何百人もの兵士が、看護をしてくれる医師も看護婦もいない状態で、徐州府の近くの塹壕や戦場に取り残されている情景しか目に浮かんでこない。障害をこうむった痛々しい肉体が死によって苦痛から開放されるまで、彼らは塹壕や戦場で苦しみ続けることであろう。気の毒な人たち!現在、大学で安全に勉学している男子学生がこれらの負傷者の叫びを聞き、彼らを援助することを自発的に申し出てくれることを念じてやまない。学生たちなら、大きな働きをすることができるだろうからだ。私たちは、ヘレン・ボートンの安否をとても気遣っている。彼女の拉致についての新たな情報は入っていない。外国人が2,3人しかおらず、安全区が設けられていない蚌埠や懐遠の状況はいったいどうなっているのだろうか。合肥は戦場のただ中にあるに違いない。私は、そこにいる友人たちに絶えず思いを馳せている。彼らの備わっている以上の力と勇気を神が彼らにお与えになりますように、そしてまた、多くの人々を庇護し励ますために、彼らが活かされますように。・・・・・・


 アメリカ大使館でのことだが、大量の石炭が運び込まれているのを知った。漢西門の近くの石炭業者の1人は、いまだに在庫石炭を略奪されていないらしく、今後の略奪を防ぐため、アメリカ大使館に、それを引き取ってくれと頼み込んだ。悲しいかな、南京では1つの競争ー誰が先に米と石炭を手に入れることができるかを予見する競争ーが行われているのだ。
 ブランチと会うため、午後5時に病院へ行った。彼女は三等病棟にいたが、ひどく痛がっていた。病院は満員だったが、医師や看護婦の数は、気の毒なほど少なかった。外国人医師はいまなお2人だけ、それに、中国人医師が2人いるだけだ。
 私たちが兵士に悩まされているかどうかを確かめに、午後2時30分ごろ、アメリカ大使館の警官と憲兵2人が訪ねてきた。彼らは、避難民の数についても質問した。そういうわけで、私は、上述のことが彼らの来訪の真の目的なのだろうか、と疑問に思わざるをえなかった。一時は一万人もいたが、今は3000人ぐらいしかいない、と答えると、彼らは納得したようだった。
 
「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

基地をなくして緑と海を

取りもどしていく世界を。


Imagine,

A world that gets rid of

military bases and reclaims

the forests and the oceans.


森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月10日火曜日

夏さんからのメッセージ!!

「ラーベの日記」1月29日に出てるのが夏さんの記事だ。
・・・マギーが8歳と4歳の少女を見つけた。親族は11人だったというが、残らず残忍な殺され方をしていた。近所の人々に救け出されるまでの14日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。・・・・

東中野氏が「『南京虐殺』の徹底検証」と言う本の中で史料に被害者として登場する「『八歳の少女』と夏淑琴とは別人と判断される」、「『八歳の少女(夏淑琴)』は事実を語るべきであり、事実をありのままに語っているのであれば、証言に、食い違いの起きるはずもなかった」、「さらに驚いたことには、夏淑琴は日本に来日して証言もしているのである」等と記載された。
 それに対して夏さんが名誉毀損と人格権の侵害で東中野氏と出版社展転社を訴えた裁判です。


■夏淑琴さんよりメッセージ ■


私の裁判が最高裁で勝訴したと聞き、とても嬉しいです。70歳過ぎに裁判が始まり、 私はもう80歳です。私はいつも心配していました。夢にまでみるほどでした。自分 が生きているうちに最終的な結果が出るのだろうかと考えていました。本日、ついに 勝利しました。
 私はここで、南京大屠殺紀念館の朱館長、談臻弁護士、呉明秀弁護士、日本の弁護団 に感謝を申し上げます。彼らは私の裁判のために多くの仕事をして下さりました。 私の、言われなき罪を洗い流すために、とても苦労したと思います。彼らはすごいです。 無実の人を陥れる日本の日本の右翼を見事に撃墜し、私の潔白を証明しました。勝訴を迎え た今も、私はやはりこう言いたいと思います。
私は偽の証人ではありません。私は南京大虐殺の生存者であり、真の歴史証人です。

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■ 朱成山館長(侵華日軍南京屠殺遇難同胞紀念館)よりメッセージ ■

 本日、皆さんよりお送り頂いた日本最高裁判所の夏淑琴名誉毀損裁判についての判決を読みました。裁判が最終的な勝訴を得たことを知りました。私は侵華日軍南京屠殺遇難同胞紀念館と南京屠殺史会を代表して、皆様に心から祝福を申し上げ、また皆様が苦労を惜しまず裁判にご尽力されてきましたことに心からの敬意を表します。
 夏淑琴名誉毀損裁判は、李秀英名誉毀損裁判に続く、南京大虐殺事件の被害者の名誉を守る裁判でした。更に言えば、南京大虐殺の史実を守る裁判闘争でした。
 日本の東京地方裁判所、東京高等裁判所、最高裁判所が均しく公正な判決を下し、喜び、安堵しました。この判決が、再度、南京大虐殺の歴史を否定することは許されないということを証明しました。
 夏淑琴さんの裁判の件では、皆様方は苦労を惜しまず南京へ来られ、聴き取りをされたり、夏淑琴さんの訪日、出廷のために心血を注がれました。皆様の崇高な理念、正義、被害者の権利を守るために尽力され、実際的な行動によって中日友好に貢献されたその行動に、心より感謝申し上げます。歴史を直視し尊重してこそ、中日両国国民の相互信頼、民族和解は堅固な基礎を築くことができ、共に平和な未来を構築できるのだと信じています。

館長 朱成山
2009年2月6日


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■ 談臻弁護士(夏淑琴名誉毀損事件弁護団補佐人)よりメッセージ ■

 2月5日、日本の最高裁判所が夏淑琴名誉毀損裁判について最終決定を出し夏淑琴は勝訴を獲得しました。この裁判の勝訴のために努力をされてきた日本の夏淑琴名誉毀損事件弁護団、支援団体の皆様に、江蘇法徳永衡律師事務所一同、熱烈な祝福を申し上げます。
 夏淑琴名誉毀損東京裁判は夏淑琴名誉毀損南京裁判と同様、重要な現実的意義、歴史的意義があります。このたびの勝訴は、法的側面から言えば、より一層、史実が守られることになりました。淑琴さんの名誉を守ったばかりでなく、亡くなった南京の30万の同胞の魂にとっても慰めとなりました。政治的側面から言えば、このたびの勝訴は東中野修道及び日本の右翼が南京大虐殺を否定し、歴史を改竄するといった行為に対する有力な反駁、暴露です。
 このたびの勝訴は、中日双方の弁護団の協力が実を結んだ良き成功例です。
 私たちは共同努力によって、さまざまな障害を克服し、歴史に学び未来に向かい、正義を貫いて平和を愛し、中日友好の発展に貢献できるものと信じています。

夏淑琴名誉毀損事件弁護団補佐人 
弁護士 談 臻




1938年 南京 2月10日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月10日
昨日の夕方、福井氏が訪ねてきた。昨日、日本大使館に会いに行ったのだが、会えなかったのだ。なんと、氏は脅しをかけてきた。
「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」
 クレーガーは上海で思った通りを言った。つまり、日本軍に具合の悪い証言をしたのだ。ロンドンからの長い電報、と言っても実は香港からで、クレーガーが書いたことになっているのだが、福井氏はそれを例に出して、クレーガーは日本に悪意を抱いているといった。
「それならどう言えばいいんですか?」私が聞くと福井氏は言った。「ラーベさんの良識に任せます」
「つまり、報道陣にこう言えばいいんですね。南京の状況は日に日に良くなっています。ですから、日本軍兵士の恥ずべき残酷な行為についてこれ以上報道しないで下さい。そんなことをすると、日本人と我々の不協和音をますます大きくしてしまうだけですから、と」
 すると非常に満足そうな答えが返ってきた。「それでけっこうです!」
「わかりました。それでは私に、あなたの上官である天谷少将、それからドイツ語を達者に話すという本郷忠夫少佐にもきてもらって、こういう問題を個人的に話し合う機会をいただきたい。我々はあなた方と、つまり日本軍とももうこの辺でよりよい関係を結んで友好的に協力し合いたいと思っているんです。それなのになぜ、鼓楼病院によこしてくれと私たちが懇願している外国人の医者や看護人を南京に入れようとしないのですか?どうして上海から食料品を取り寄せることができないんですか?赤十字病院を訪問できないのはなぜなんです?あそこへ食料を支給しているのは我々なんですよ」
 福井氏は肩をすくめ、同じことを繰り返すだけだった。
「もしあちらで不適切な発言をなさると、日本軍を怒らせてしまいます。南京には戻れなくなりますよ!」
 中国人の使用人を連れて行ってもいいかと聞くとこういった。
「どうぞ。でもその男は決して南京には戻れませんからね!」

 

「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月10日 木曜日
 男子教職員宿舎と隣保館はみじめな光景を呈している。どちらもいまなお避難民で溢れている。午前中、陳さんといっしょに調査に出向いた。比較的に年齢の高い人たちにたいし、安全区外の自宅へ帰るよう再度説得に努めた。若い女性たちのためにそうしてほしいと頼んだのだ。だが、彼女たちは「わかりました」と何度も言うだけで、帰っては行かない。教職員宿舎も 隣保館も避難民の家族で溢れていた。一部屋当たり数家族というありさまだ。床も壁もひどい状態だ。さらに悪いことには、阿片常習者とその妻が部屋の1つにいて、途方もない部屋代を徴収しているのだ。私たちが彼に、女子学院のためになることをしてほしいと言った、というのがその男の言い分だ。私たちは誰も、阿片常習者に対処できるほど器用ではない。
 今日の午後は訪問者が4人あった。放送ニュースを伝えるためにやってきたジョン・マギー、スマイス博士を探しにやってきたバスさん、乳児に粉ミルクを与える問題についての相談にやってきたルイス、午後の礼拝のあとやってきた唐博士だ。ちなみに、粉ミルクはたくさんあるものの、乳児のためにそれを使う方法を母親たちに教えることのできる人が足りないのだ。
 5時から6時の間に魏師傳と一緒に広東路西へ向かった。私たちが安全区の旗を掲揚した12月11日以来、そこには行っていなかった。戦争による破壊を、まさに語らずして鮮烈に示す証拠であろう。そまつな小屋でさえも大部分が廃屋になっており、なかには焼け落ちたものもあった。人が住んでいるのはごく少数の家だけで、それもお年寄りだった。彼らはどんな生活状況かという質問にたいして、兵士は頻繁にはこない、彼らの中には慎みのある者もいれば、お金がないかと家探しする者もいるし、「花姑娘」(若い娘)を執拗に捜す者もいる、と答えた。夜を過ごすために安全区に戻って行くかなりの人たちと途中で行き合った。
 ある家のことだが、そこには男性が4人いた。私たちの見るところでは、彼らは、今でもほとんど人の住んでいない西門地区に出かけて行っては家々から扉や床板を取り外し、それを薪の束にして避難民に売ることによって生計を立てているのだ。もっとも、彼らはそんなことを認めはしなかったであろうが。私は、巻いた布地を黄麻布の袋に何本も入れて持ち歩いている若者と行き合った。彼は、買ったのだ、と言った。おそらく買ったものであろうが、しかし、それは盗品であった。私たちは、たとえ盗品の誘惑がどんなに大きくても、みんながあらゆる種類の盗品の不買運動をしたら、南京の状況は変わるのだ、ということを彼に理解させようとした。


「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器を使わせない世界を。



Imagine,

A world that doesn’t

let weapons be used.




憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月9日月曜日

1938年 南京 2月9日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月9日
昨日の午後、日本大使館から軍事演奏会に招待された。ローゼンはすげなく断ったが、我が委員会のメンバーは、いついかなる時もいやな顔は見せない!我々はプログラムを受け取った。
 朝(あした)には日本軍に惨殺された中国人のもとに駆けつけ、夕べにはその同じ軍隊による音楽を楽しめというのは、思えば殺生な話だ。だが、東洋では、偽善が大手を振ってまかり通るこの世界では、いちいち目くじらを立てていても始まらない。面子(メンツ)なんかとっくの昔に棄てている。かくして、かの有名な東アジア式礼儀作法にのっとって、委員会のメンバーはほぼ全員がお目見えとなった!シャルフェンベルグにヒュルター、アリソン、ジェフェリーの駆けつけた。しかもジェフェリーとかわいらしいゲイシャを真ん中に、「ドウメイ」のために記念写真までとるサービスぶりだ。
 

 福井氏から今朝日本大使館に来るよう言われた。上海まで往復する件だと言う。多分、上海に行っても日本の悪口を言わないでくれ、ともう一度念を押すつもりだろう。もし、私が反発すると思っているとしたら、とんだ見当違いだ。けれどもその心配はあるまい。彼は私という人間を知っている。日本人のようにこの私も、心にもないことを言って相手を喜ばせるだろうということも。あとで私がそれに責任を感じるかどうかはまた別の話だ。その辺も承知の上だろう。会社の命令を考えれば、もはや南京に戻ることはありえない。とはいえ、とりあえず戻る許可も取っておきたい。
 いよいよ本格的に安全区が解体される!張は、私が休暇でドイツへ帰るので木箱がいると言うと、困ったように首を振った。
「木ですか?棺を作る木さえ満足にないんですよ」
 それでもさがしてみるといってくれた。・・・・・・・


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月9日 水曜日
 午前中、昨日キャンパスで発生した事件についてのアメリカ大使館宛報告書を作成した。午後、それを持って行ったが、それはともかく、その直前に老邵がやってきて、兵士たちが彼の家にやってきて、いつにもまして粗暴な振る舞いをしたことを報告した。彼は、また引っ越してきてもよいかどうかを知りたかったのだ。午前中、李(音訳)さんとフォースター氏がやってきて長時間いた。フォースター氏は、上海からの2月4日付けの郵便物と、それに加えて、私たちが何よりもありがたがる果物も持ってきてくれた。李さんは、収容所の所長として経験した苦労を私たちに語った。それらは、妙に身近なことのように思われた。
 私たちはヘレン・ボートンのことで大変心を痛めているのだが、彼女についての新たな情報を大使館で得ることはできなかった。濾州についての情報は何も得られなかった。私は、あの内陸大平原の略奪ー家屋の略奪や焼き払い、広範囲に行われた男性の殺害、老若を問わない女性の強姦ーを想像することができる。何と、これが友情と協力を得るための戦争であるとは。
 アメリカ砲艦パナイ号から回収した貴重品に初めて目を通した。品物はいささかみじめな外見を呈していたと言わざるを得ないが、何週間も長江の水に浸かっていたことを考えれば、おそらく予想よりもよい状態だった。紙幣、その他の書類はすっかり乾いていて、いまでも紙幣は使用が可能だ。アリソンは落胆している様子だった。というのも、南京では事態の改善が遅々として進まないように見えるからだ。
 同盟通信社支局長の松本(重治)が数分間(の面会)を求めてきた。彼は飛行機で上海に行くつもりでいるので、長居はできなかったのだ。私としては、彼と知り合いになりたかったのだが。
 午後5時ごろ大使館から帰宅する途中で2つの女性グループに出会った。最初のグループは、2人の娘を連れて戻ってきた母親だ。母親が言うには、彼女たちは2日前に帰宅したものの、耐えられなかったそうだ。兵士たちが頻繁にやってきては若い女性を物色したので、いつも隠れていなければならなかったそうだ。どのくらいの期間になるかはわからないが、当然のことながら、私たちとしては彼女たちを受け入れることになる。別の1人は私をひどく悲しませ、落胆させた。彼女は、南京のある大きな学校でかつて教師をしていた人の妻で、学者一家の出身だった。彼女たちは災難に見舞われないように農村に避難したものの、全財産を使い果たしてしまい、状況がどうであれ南京に戻るしかないと決断したのだ。帰りの旅は何と悲しい物語だったことか。14歳の娘と、同じく14歳の姪は、兵士を避けるために靴も靴下も脱いで原野を歩いた。だが、それにもかかわらず、城門を入ろうとした時に姪は3度、娘は1度強姦された。14歳の少女だというのに。時間の点に関しては母親の頭は混乱していた。それほど絶え間なく苦難が続いたのだ。母親は、キャンパスに入れてほしいとは言わなかった。自分は入ることができなくても構わないが、女の子2人が入ることを許可してほしいと懇願した。金陵女子学院の校門は再び開けられた。彼女たちのためにもっと役に立てればよいのだが。
 

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


おたがいに戦争しないと


約束した世界を。


Imagine,

A world that promises

not to fight wars with each

other.


戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年2月8日日曜日

1938年 南京 2月8日

「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
2月8日
朝8時。難民の女性たちがぴったりと体を寄せ合い、押し合いながら庭の真ん中の通路に立っていた。空いているのはここだけだ。そして、私が朝食をすませて本部へ出かける時間になるのを、辛抱強く待っていた。私の姿を見ると一斉にひざまずき、話を終えるまで、じとじとした冷たいセメントの床から立ち上がろうとしなかった。運転手の劉が通訳した。劉は難民に信頼がある。
「日本軍と自治委員会は、君たちが今日ここから出て行かなければならないと公式に発表した。私個人としては、このまま残っていてもちっともかまわないんだ!追い出すつもりはないんだよ!けれども、日本軍がきてここから出ろと命じた場合、1人の外国人にすぎない私にはどうしようもないのだ。いいかい、私には君たちをずっと守ってやるだけの力はないんだよ。どうかわかってくれ!むろん、そういっても日本軍を入らせないよう、出来るだけのことはするつもりだ。お願いだ、私をドイツ大使館に行かせてくれ。そして大使館の責任者と相談させてくれ」
「それじゃあ仕方ないよ」劉が叫んだ。そうとでも言うよりほかなかったのだろう。すると全員が立ち上がり、黙って私を見送った。

 今朝、ベイツと一緒に日本大使館へ行き、大使館員を誰か1人、百子亭の殺人現場へ連れて行こうと思っていた。ところが家を出てまもなく、200人ほどの日本兵が行進しているのに出くわした。いよいよ軍部が力ずくで安全区を取っ払うのだ・・・・私は不安になり、取るものもとりあえずアメリカ人たちのところへ駆けつけた。見張りに動員しようと思ったのだ。それから、1人でドイツ大使館にローゼンを訪ねた。彼は2つ返事できてくれた。私の土地と建物へ日本軍が侵入する現場に立ち会おうというのだ。だが、ありがたいことに、何も起こらなかった!部隊の行進は、誰か日本の将官が通るためだったのだ。
 おたがいにほっとして一時間ほどわが家で雑談したあと、一緒にアメリカ大使館へ行った。アリソン氏に会い、3人で今日のことを喜び合った。それからローゼン、スマイス、シュペアリング、私、自治委員会のジミーの5人で百子亭へ行った。4つの死体は近くの小さな丘に葬られることになっており、すでに筵(むしろ)にくるまれていた。ジミーは、近所の中国人を探し出して事情を聞いた。それによると老人は自分の力車を取りにきたといっていたが、実際は、椅子を2つ、わら小屋から自分の家へ運ぼうとしたのだという。椅子はどこからか盗んできたのか、安く買ったかしたのだろう。そしてそれを日本兵に見咎められ、発砲されたのだという。老人は重傷を負って倒れ、妻(あるいは姉妹か?)が親戚の男を2人呼んで駆けつけ、運ぼうとしたところ、そろって殺されてしまったのだ。


「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
2月8日 火曜日
こんなうららかな日がなぜ人を悲しい気持ちにするのだろうか。説明に窮する。窓外の松の木や薔薇のつるは、きらきらと輝く陽光におおわれていた。身が引き締まるように寒いとはいえ、なぜか小鳥のさえずりに、春到来、春遠からじの感を覚えた。だが、誰が春のすばらしい美しさを楽しめるだろうか。「迎春花」や野生の沈丁花の小枝、水仙、そして薔薇を見れば、1年前には私たちと一緒にいたのに、今は散り散りばらばらになった友人たちのことを思い出すだけであろう。それは、私の生涯には多分再来することのない過去の幸せな時代に私たちがしていた仕事や遊びのことを思い出させてくれるだけであろう。
 10時に使用人の1人がやってきて、南山に兵士がいる、と言った。大急ぎでゴム靴を履き、上着を着て駆け出した。イーヴァのバンガローの裏手に兵士が若い女性と一緒にいるところを見つけた。彼の正体を知ろうとしたが失敗した。そこで、退去するよう命じると、彼は腹立たしそうに私を睨みつけたが、そのまま立ち去った。のちにその女性が話してくれたところによれば、彼女は4人の女性と一緒に南の境界に近い池で衣服を洗濯していたそうだ。4人は逃げ出したのだが、彼女は捕まってしまった。兵士が彼女に銃剣を突き付け、服を引き裂こうとしたので、彼女はしぶしぶ服のボタンをはずした。というわけで、私が姿をあらわしたとき、彼女はボタンをはずしている最中だったのだ。はじめはカッとして、彼の銃剣をひったくりーその好機はあったー、そのとき集まっていた使用人たちに、兵士を捕まえるのを手伝ってくれと頼みたいほどだった。しかし、それは分別あることではないと思い、やむなく彼が塀をよじ登って退散するのにまかせた。
 午前11時、代理大使(正しくは参事官)の日高氏に渡す報告書を携えて日本大使館へ出向いた。上海へ出発する直前だったが、さいわい、5分ほど彼に面会し、まだ戻ってきていない738人ーキャンパスにいる避難民の夫や父親や息子たちーのために彼の援助を要請することができた。
 1時20分、3人の兵士が視察に訪れたが、子どもたちの写真を撮っただけで、困るようなことは何もなかった。2時30分、別のグループー将校と憲兵各1名ーがやってきた。彼らは、かなり上手な中国語を話す人物を同伴していた。彼らにとって、10時に起こった事件は信じがたかったようで、実際信じてはくれなかった。
 2時45分、ラーベ氏とルイス氏が、日本大使館のコンサートに私を案内するためにやってきた。私たちは誰も行く気にはならなかったが、しかし、行かなければなるまいと思った。20人編成の楽団の指揮者は、実にすばらしい演奏プログラムを用意していた。にもかかわらず、私は音楽に没入することができなかった。「軽騎兵」序曲が演奏された時、私の心は、12月14日に校門を出て行ったあの行列からどうしても離れなかった。両手を縛られ、日本軍の歩兵と騎兵のうしろから歩いて行った100人ないしそれ以上のあの一般市民の集団、いまだに戻ってこない集団のことだ。そして、「我らの軍隊」が誇らかに演奏された時、破壊された都市や荒廃した農村や強姦された婦女子の姿が絶えず私の目の前に浮かんでいた。私は、音楽を聞いたような気がしない。ドイツ人、イギリス人、アメリカ人を代表して多分20人の欧米人が出席していた。日本大使館の職員たちは私たちに(日本の蛮行を)忘れさせようと試みたのである。
 午後、イギリス砲艦ビー号がオランダの高官を乗せてやってきた。郵便物を持ってきていると嬉しいのだが。

 
「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.


紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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