2016年5月9日月曜日

国家犯罪!731から熊本大震災まで!!

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●731部隊(1)
●731部隊(2)
●731部隊(3)
●731部隊(4)
●陸軍軍医学校50周年記念行事について
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展



●ニュース
<熊本地震>車中泊、8割孤立化 「行政の接触ない」

<防災計画>連続震度7想定せず 全ての都道府県

<熊本地震>学校再開へ避難者移転 熊本市、福祉施設などに

大量の災害ゴミ…処理追いつかず 熊本地震

南阿蘇村 発電所の損壊が土砂崩れ原因か

小林節氏ら参院選出馬へ 「安保法廃止」で政治団体設立

三菱自の軽自動車、中古価格急落 仕入れ業者が減少、「成約率」も大幅低下

在韓米軍撤退へ平和協定要求 韓国反対も介入できず

精神科で患者拘束1万人 13年度調査、10年で2倍に

「誰もが自由に生きられる社会を」 渋谷でLGBTパレード

ケネディ大使「痛ましい数のLGBTの子どもが自殺」

ネトウヨはネット利用者の1%未満。- 2016.05.08


何で、情報開示しない??
特定秘密の運用監視 情報開示促進で意見聴取へ

軍事費が国を滅ぼす!!
トランプ氏の「日本防衛費全額要求」について。-2016.05.05


志賀原発1号機の断層「動く可能性否定できず」

<熊本地震>南京大虐殺記念館が慰問文…中国で共感広がる

オバマ氏広島訪問 韓国メディアは反発と警戒 「加害者を被害者に変える」

<ハンセン病>元患者ら「身内に甘い判断」特別法廷報告書に

光田健輔園長が初診察で「宇佐美、出て行け!

「組織罰」実現へ団体発足 尼崎脱線事故の遺族らがシンポ

天皇や安倍首相は731部隊跡や南京虐殺記念館には行かないのか?
米・オバマ大統領、5月27日に広島を訪問する方針固める

なぜだ??
米高官 核燃料サイクルに反対も日本に放棄求めず

20160402 自由なラジオ・ライトアップ「小出裕章ジャーナル」


なるほど!…σ(´-д-;)ソーユーコトカ



●脱原発!!
地震大国日本!これでも原発を動かすの??
「高浜原発の運転は不安」が最多 意見公募、規制委に 審査書案は修正わずか
トリチウム処理「慎重対応を」 県と県漁連
トリチウムについて!!
核融合はやるべきではない!!
トリチウム含む汚染水 海洋放出が最安で最短の評価結果
川内原発は不安「すぐ止めて」 首相官邸前で緊急デモ
原発運転反対の弁護士団体 川内原発停止を申し入れ
M7.3地震 約50キロの断層が2m近く横ずれか
地震回数が過去最多ペース 気象庁、活発な活動続く
「川内原発の運転停止求めた」 共産・小池氏
「川内」運転 住民ら不安 政府、地震域拡大でも静観
【熊本地震】丸川担当相「川内原発停止の必要なし」について。- 2016.04.16

活断層、日本に2千以上 どこでも大地震が起こる恐れ

「熊本地震は南海トラフ地震の前兆」専門家が緊急警告


●731問題
満員御礼!!12日情報公開法廷
特定秘密保護法撤廃!!
国民は「知る権利」を行使し、軍事増強を阻止しよう!!





12日(火)15:00から東京地裁419号室で『衛生学校記事』の情報公開裁判がありました。
10回目の法廷で、初めて傍聴席52席が満杯になり、熱気を帯びてきました。
なぜ、自衛隊衛生学校で作った『衛生学校記事』がきちんと保管されていないのだろうか?
衛生学校と言っても、国民の税金で作られた公の施設である。自衛隊だから戦後、物品の管理はしっかりやっていると思うのであるが、不思議である。自分たちの大事な研究をまとめた機関誌である。寄贈資料も所在不明、よほど、管理が杜撰なのか??
季刊誌『ふかみどり』がきちんとあるのに、なぜ、その前の『衛生学校記事』ない??
原告の陳述より
2 街生学校図書室を見学して判明したこと
(7)なお、関連したことなので次の点を若干付け加えておきます。
即ち、私たちが、隣りの書棚を見ようとすると、担当者から 「教範など内部資料ですから、お見せできません」 と拒否されました。
しかし、そもそも教範類を一律に非公開にして国民の目に触れさせないというやり方は、自衛隊という実力部隊を国民がチェックする機会を奪う.ものであり、危険な姿勢であり間違っていると感じました。本当に非公開にしなければならないものが何かについて厳密な基準を立てて国民に説明すべきではないでしょうか。


なんとか、この防衛省の内部研究誌を公開させたい!!
※尚、情報公開・個人情報保護審査会の答申が3月にあり、「『化学学校記事』と『衛生戦史資料の体系化』も不開示決定は妥当」としたことに対しても、裁判で公開を求めることにしたという。
※特定秘密保護法が施行され、TPPはじめ、各省の情報開示が困難になってきている昨今、マスコミはこういう裁判を積極的に報道し、国の隠蔽体質を明らかにするべきだと思うが、一社も取材しないとは、どういうことだろうか?嘆かわしい!!



日本は「核兵器の非人道性」を主張する前に「731の非人道性」を謝罪せよ!!
<G7外相会合>「核兵器の非人道性」盛らず 広島宣言

歴代日本政府は、天皇制護持の為、いつも情報を隠蔽している!!
TPP文書だけではない!!
ビキニ事件 周辺で操業の元乗組員などが国を提訴へ
内部文書「黒塗り」の中… TPP内幕本の出版未定に
開示された文書「何で黒塗り?」

歴史を繰り返さないための海外の取組み!!日本もパナマ文書等、情報を開示せよ!!
福島の癌→子供の甲状腺がん増加地図をチェルノブイリと比較する
ヒトラー生家、強制収用へ=ナチス支持者の利用防止―オーストリア
守秘徹底、法人設立も容易=「文書」発端の租税回避地-パナマ
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
何で、行政が後押ししない??
高知県、731部隊講演の後援断る 「事業に該当せず」

・放射能の被害が深刻化しているのに、なぜ日本の医学界は“脱原発”と叫ばない??
731部隊でも放射線をマルタに浴びせて人体実験をしていた。
科学者は、治療よりも、やはり新兵器に夢を託すのか?再び大日本帝国を目指して。
毒ガスの製造が明らかになったんだから、それと並行して生物兵器、核兵器も勿論自衛隊、国立感染症センターなどでは研究しているだろう。
731の秘密を隠すために、放射能の被害については、何も言わない??
「心証を良くする為にとは、何のために心証をよくするんですか?」
「731のことなんかもあるでしょうね」
※ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちの治療よりも原爆の威力の調査が優先された。
国体護持のために。
今のフクシマの現状も同じではないか?
なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?

放射能の危険性

水俣病の被害が拡大した時も、医学界の権威者が、一時、チッソ水俣工場の有機水銀説を否定した。
水俣語り部、金子スミ子さん死去 一家で経験の苦しみ伝え
「出生年の線引きはおかしい。確かに症状があるのに。認めてほしい」
<水俣病>46歳、認められぬ苦難…公式確認60年
水俣病公式確認60年 未曽有の被害 全容未解明
水俣病


原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。

731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力せざるを得なかった日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法の責任、全く無視している政治の責任、731に対する国民の認識は?
戦後70周年、中国の人々から日本の我々に届いた重いメッセージ!
虐殺された人々(日本人を含む)の声なき声にどう応えるか?
日本人はこの731問題にどう向き合うか?重い課題!!
日本には本当に三権分立があるのかが問われている!!

731(4)


・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
黒い太陽№15


※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。


朝枝繁春の証言



●横浜「戦争と加害」のパネル



細菌戦(「戦争と加害」のパネル展in横浜)

毒ガス(「戦争と加害」のパネル展in横浜


参観者の感想
・毒ガス兵器・・・毒ガスは、アウシュビッツのイメージがすごく強かったけれど日本も色々していて凄く考えさせられました。
731部隊・・・ペストやエイズも日本からの発症なんて知らなかった。
戦争は8月15日で“終わったけれど”その先にも、様々な問題があり、すぐに終わるものではなく、ずっとその傷はつきまとうものだと感じた。
日本の加害についての展示は初めて見たけど、こういった“日本のしてしまったこと”をもっと若い人々に伝えるべきだと思った。ありがとうございました。10代女性


「戦争の加害」テーマに 13日まで横浜でパネル展





●全世界!!脱原発!!核兵器廃絶!!どこで地震・テロが起こるか分からない!!
核実験・戦争・軍事演習こそが、地球環境を破壊する!!
核保有国は、環境破壊の責任を取ってもらいたい!!
アメリカはじめ、核保有国は核実験(未臨界実験も含めて)をやめろ!!
軍事費が国家財政を破綻させる!!
世界のどの場所でどのくらい核爆発が起きたのか


核兵器



政府の唱える非核3原則は嘘っぱち!!なぜ、核融合の研究・原発再稼動する??
オバマ氏広島訪問 韓国メディアは反発と警戒 「加害者を被害者に変える」

米政府が言及 広島は“核なき世界の象徴”

原発再稼動、、「反対」が43%、「賛成」が18%
安保関連法 評価する42% 評価しない48%

「メルトダウン」事実と異なる説明 徹底解明を要請

<G7外相会合>「被爆した最後の館長」が思い…10日開幕

除染などの費用 今年度までだけで3兆円以上の試算

憲法に優先する安保条約であるなら、アメリカと合同で極秘に核兵器開発を進めることも不可能では無いのではないか。
この甚大な被害をもたらした大地震の原因の究明はされていない!!地震学者も驚いているではないか!通常の地震とは違った!!
何で国は、北朝鮮からのミサイル攻撃の時の原発の被害想定などを国民の目から隠す!!被害は甚大である。
プルトニウム44tを何に使う??核兵器がそんなにほしいのか??

小出裕章先生:一番大切なのは多くの人達が真実を知る。そして一人ひとりが責任を持って声を挙げること


プルトニウムの使いみち はっきりしない状況続く

2011年3月11日 車が流される 人が飲まれる 津波


原発事故の原因が究明されずになぜ再稼動??
原発事故の原因はなぜ解明されない??


20150502 R/F #121「小出裕章ジャーナル」【原発攻撃被害報告書が明るみに】


巨大地震、津波の原因は??
なぜ、地震学者が驚く!!







なぜ、税金を使った調査結果を公表しない?隠蔽するな!!
1つ目の㊙
原発がもし日本で事故を起こしたらどれほどの被害が出るのか?(1959年)
2つ目の㊙
原発が攻撃されたらどんな被害がでるのか?(1984年)
「2つの㊙と再稼動」



やはり、日本は核兵器を既に持っているのか??
政府、「憲法は核兵器保有を禁止していない」とする答弁書を決定
(以下「高知新聞」より)
要約すれば、憲法は理論上は全ての核兵器の使用を禁じていない。だが、「現実」がその歯止めになると読み取れる。
現実が憲法を超えるとするなら、政府が守ると言っている憲法の平和主義も、核兵器を「持たず」「つくらず」「持ち込ませず」の「非核三原則」の国是も一気に空洞化する。
法的な歯止めではない現実は、刻々と変わる。時の政権の判断によって、核兵器の使用が可能になる余地が残る。
国会の場で、日本の核兵器使用が現実味を持って公然と語られる現状にも驚きを禁じ得ない。

【法制局長官答弁】核使用まで容認とは驚く

この人は核兵器と通常兵器を全く区別していない!!
「核兵器の使用」横畠裕介・内閣法制局長官の答弁記録3 18参院・予算委員会


日本も地下核実験をやっているのか?(アメリカと合同で)
人工地震津波兵器は国際政治軍事上の常識!浜田復興担当政務官


地震学者の「今までやってきた研究が全て無駄だった」という発言は、本当に東日本大震災の原因は何だったのかを考えさせられる!!!
いまだ福島原発事故の解明はされていないのになぜ原発再稼動!!なぜ原発輸出!!
明らかに、全く戦争の反省がない日本は本気で核兵器の保有を考えている!!
3 11人工地震の証明~日本人が知らねばならない真実~


3回の破壊って何のこと??
東日本大震災人工地震


この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

宇野正美 311人工地震攻撃は日本のプルトニウム製造を阻止するのが目的だった


原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~


三権分立は日本にはない!!
原発訴訟の希望と絶望


元東京電力社員・木村俊雄が告発する福島原発事故の真相 2 1


自衛隊技術者15人は311テロ計画を知らないで爆弾製造に携わっていたようです

あの戦争で日本軍のしていたことを全く反省していない日本。
だから、戦後も、自衛隊を中心に『防護の為』と称して、核兵器の開発、毒ガスの製造、生物兵器の開発が行われているだろう!!
毒ガスの製造は確認できた!!生物兵器は勿論核兵器もか??
そして、戦争になって初めて、自国がどんな兵器を持っているか気付かされるのでないか?

<小出裕章さんに聞く>日本のメーカーはなぜ原発にこだわり続けるのか

福島の子どもの甲状腺がんで「家族の会」結成

米専門家 日本でプルトニウム増え続ける現状に懸念


小出:炉心にあった燃料はすべて使用済み燃料プールに移されていた。溶け落ちなかったんですから、ホントだったら水素爆発は起きないはずだったんですが、なぜか4号機でも、巨大な水素爆発が起きました。(ビデオ27分過ぎ)なぜ、4号機で爆発が起きたんだ??原因究明が全くなされてない!!
小出裕章講演会 20160124 山口市県教育会館



地震発生(1944年12月7日)の翌日8日の新聞のトップは昭和天皇の写真。(開戦記念日)

地震の詳細は掲載されない!!被害は隠す!!

東南海地震:「地震の次は何をお見舞いしましょうか」とB29がビラ



元NHK五十嵐さんが命をかけ伝えたかった人工地震の真実



●憲法9条
「憲法は私たちが支えてきた」 江東の公園 集会に5万人
9条「変えない」が増 安保法影響か 朝日新聞世論調査
海外邦人ら「9条守れ」 「平和憲法」価値、離れてこそ実感
安倍政権下での「改憲反対」56%について。- 2016.04.30


国連とは何か??(アメリカ中心主義??)
国連の役割


八王子から日本を変える!!
NO WAR!八王子アクション

2015.11.14 第5回 NO WAR ! 八王子アクション@八王子駅北口


脱戦争!!軍事費が国家財政を破綻させる!!
現代の戦争(ハイテク戦争)
ハイテク兵器



彼らは本気だ。安倍晋三首相は、夏の参院選で改憲勢力による「3分の2」の議席を目指すという。
彼らと真逆の憲法は作れないか?
・憲法9条を守る!!・外交を強化する・自衛隊は災害救助隊に
・象徴天皇制を廃止して、大統領制にする
・脱原発 ・靖国神社を廃止して、戦争懺悔慰霊碑の建立
・日米安保条約廃止・国連改革



・憲法9条(侵略戦争の反省から憲法9条が生まれた!)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


想像してごらん、
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。

Imagine,
A peaceful world without war.

Представить,
Спокойный мир без войны.

想像,
一个和平的世界没有战争。






IMAGINE9 (『イマジン9 想像してごらん、戦争のない世界を。』(文:星川淳・川崎哲、絵:成瀬政博 2007年12月1日発行、合同出版)


解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
「戦争をしない、 軍隊をもたない」 という日本国憲法9条がどうしてできたのか知つていますか。それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。日本はアジア太平洋地域で2000万人の命を奪いました。 日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本で300万人が戦争で亡くなったのです。
第2次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人びとに対する「2度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人びとが平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。
中米の国・コスタリカも平和憲法をもつています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。軍隊の廃上によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
ところが2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクヘの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ !」
裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法は単に守ればよいものではありません。平和憲法は人びとのもの。人びとが使うためにあるのです」

ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で、軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたってぃます。
こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくることができます。「イマジン9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、みなさんと考えたいと思います。

豪潜水艦共同開発に日本選ばれず 武器輸出拡大は継続
国産ステルス実証機が初飛行
武器輸出三原則
今の現状防衛装備移転三原則



●ご案内
秘密国家日本!!
日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年)

アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。
このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。









●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。日本政府は反対に細菌戦に対し、全く無視し、過去を消し去ろうとしている。


細菌戦被害の人々


(毒ガス戦)
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)


暴かれる毒ガス戦の真実


(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。


・パネル展




「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦





細菌戦部隊731



石井隊長の戦後3


「ミドリ十字」という会社


内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
「命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月  厚生省

碑を建てても薬害は続く!!

イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴

イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状


以下、ウィキペディアより
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



細菌戦部隊員の戦後より
次は戦争中細菌戦部隊及び組織に属していて、
戦後、国立予防衛生研究所をはじめとした国の機関に関係した人です。
注:国立予防衛生研究所は、現在国立伝染病研究所~国立感染症研究所)
「 大学、研究機関、企業関係 」
*平山辰夫   (当時)731部隊
(戦後)京都母子保健院
*三井但夫   (当時)栄1644部隊(南京)
(戦後)慶応大学助教授
*宮川正    (当時)731部隊
(戦後)埼玉医科大学
*山内忠重   (当時)栄1644部隊勤務
(戦後)興和㈱を創設 取締役
*浜田稔    (当時)栄1644部隊4科勤務
(戦後)京大農学部教授




●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗



アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)







自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース


・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年5月31日号
自衛隊とサリン 第3回
自衛隊は政府自民党をも欺いたのか?
1969年当時、「この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んで開発及び製造を禁止し、すでに貯蔵されているものをも破棄しなければならない」と国会答弁した佐藤栄作首相。(70年2月、国会での施政方針演説。)
・1950年代には米軍から毒ガス譲渡、60年代にはサリン製造。
・日本政府は再三にわたり毒ガス製造を否定!!
・毒ガスは「持たず、作らす、持ち込ませず」1970年代当時の日本政府の見解、全くの嘘だった!!
1970年当時の日本政府の見解
毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」

そもそも日本政府は毒ガスについてどのような見解を示してきたのか。
いわゆる毒ガスについて日本の国会で論戦に上がったのは大きく分けて次のような事件・事故、条約批准に絡んだ時期だ。
①沖縄の米軍・知花弾薬庫での毒ガス漏洩事故(1969年7月発生)及び毒ガス使用禁止を定めたジュネーブ議定書の批准(70年5月)。
②旧日本軍の毒ガス弾等全国調査(73年開始、2003年に結果発表)。
③地下鉄サリン事件(95年3月)及び化学兵器禁止条約の批准(同年9月)。
④中国での旧日本軍化学兵器遺棄問題(2000年から処理作業開始)や日本各地での旧軍の毒ガス弾など発見。
このうち、①の時期に絞って、毒ガスをめぐる日本政府の発言内容を紹介する。連載2回目(5月24日号)で山里洋介・元陸上幕僚監部化学室長が「サリンの合成に成功した」と証言した1964年の5、6年後だ。
まず、沖縄での毒ガス事故直後の1969年7月24日、第61回国会衆院本会議での佐藤栄作総理大臣(当時)の答弁を抜粋する。
〈政府の基本的な態度は、去る7月3日、ジュネーブの軍縮委員会における朝海代表の発言でおわかりの通り、この種の兵器使用の可能性をなくすため、進んでその開発及び製造を禁止し、既に貯蔵されているものをも破棄しなければならないとするものであります〉。
また、翌70年の第63回国会で愛知揆一外務大臣(当時)も、ジュネーブ議定書批准(同年5月承認)に向けて日本政府の姿勢について、次のように答弁した。
〈日本政府の従来からの主張は、なるべく範囲を広くし、かつ、使用だけではなくて、製造あるいは貯蔵においてもこれを禁止するのが理想であるという主張をいたしておるわけでございます〉=衆議院予算委員会、70年2月26日。
こうした一連の発言が毒ガスは「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則と同様の日本政府の見解となってきた。

第63回国会では、興味深いやりとりがある。衆議院予算委員会での楢崎弥之助議員と中曽根康弘防衛庁長官(いずれも当時)との質疑応答の中で、「サリン」が登場するのである。要旨を抜粋し、紹介しよう。
楢崎:現在、自衛隊はBC(生物、化学)兵器関係の催涙剤も含めて、どういう種類のものをお持ちか。
中曽根:自衛隊が持っているのは催涙性のガスで、これは治安の場合に使うという程度のものであります。
楢崎:これ以外に置いてあるものはありませんか。
中曽根:それ以外にはありません。
楢崎:昨年、沖縄の米軍基地で問題になった、例のGBサリン、これを持っておるでしょう。
中曽根:政府答弁書にも書いてありますが、Gガスは持っておりません。(その後、実験用、研究用ではどうかなどと追及されると「浜田政府委員」が答弁に立ち・・・・)
浜田政府委員:実は、水の溶けました農薬あるいはそれに類するもの、それに対する浄水装置の試験でございまして、サリンを使ったものではございません。残念ながら、サリンそのものは作り出すことは現在の段階では出来ないのでありまして・・・・。
などと答えている。
「Gガス」とはジャーマンガス(ドイツのガス)のことで、「GB」とは米軍によるサリンのコードネームである(連載2回目参照)。
山里・元陸上幕僚監部化学室長の証言どおり、陸上自衛隊化学学校でサリンの合成に成功したのが1964年とすれば、ここに紹介した国会での政府側答弁はすべて実態を隠蔽した虚偽発言ということになる。かりに政府が自衛隊によるサリン製造の事実を知らなかったとすれば、シビリアンコントロール(文民統制)を無視した自衛隊の暴走ということにならないか。


  

※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!



日本は現在も毒ガスを製造している!!




・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス

日本軍の毒ガス被害

昭和天皇の“沖縄メッセージ”



●多磨霊園と大日本帝国


・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。

山下奉文
高知県香美郡暁霞村(香北町)出身。雅号を巨杉。開業医の父・佐吉、母・由宇の次男として生まれる。長男の山下奉表(7-1-15-29)は海軍軍医少将。
県立中学海南学校(小津高校)に進学した後、広島幼年学校から陸軍士官学校に進み、1905(M38)同校を優秀な成績で卒業。 '06陸軍少尉任官。'16(T5)陸軍大学を恩賜の軍刀組で卒業し、広島の連隊の中隊長。'17陸軍少将の永山元彦の長女のひさ(久子)と結婚。 '19(T8)から3年間スイス・ドイツに駐在。'27(S2)オーストリア大使館兼ハンガリー公使館付武官。'30近衛歩兵第三連隊長。'32軍事課長、'35少将に進級して陸軍省調査部長。
2・26事件のとき皇道派の幹部として決起部隊に理解を示して心を同じくする者と誤解され、昭和天皇から厳しい言葉を浴びせられて、朝鮮の龍山にあった第四十旅団長に左遷される。 この誤解は、結婚したひさの父である永山元彦が佐賀出身であり、同郷である真崎甚三郎や荒木貞夫(8-1-17)ら皇道派の派閥に組み入れられ、また、かつて歩兵第三連隊長や軍事調査部長時代の時の青年将校らの指導教化する立場であったためリーダーとして慕われていたことが起因している。 このような背景があり、決起3日前に安藤輝三・野中四郎が山下の自宅を訪ね「決起趣意書」なるものを見せた。山下はこれに関して沈黙を守ったのであったが、関わりを持っていた事実は釈明できず左遷を受け入れざる状況となった。
'37日中戦争が起こり中国北部へ出征。南苑の戦いなどで活躍。同年、北支那方面軍参謀長。中将に昇進、第四師団長。'40航空総監。 同年末に独・伊軍事使節団長として訪欧し、ドイツ機甲部隊を調査。これより前に、軍事課員として宇垣一成(6-1-12-1)陸相のもとで陸軍近代化に努力した。 この軍事視察報告書でも陸海軍の一元化による国防省の新設、航空の充実、軍の機械化を強調したがいれられなかった。 山下は英・米と戦うことに反対であったが、帰国後、'41関東防衛軍司令官に転出させられ、同年11月に第25軍司令官を拝命し、12月8日太平洋戦争勃発となる。
開戦直後、史上まれな名作戦でマレー・シンガポールを短時日で攻略し、パーシバル司令官を降伏させ、「マレーの虎」と報道されるなど世界的に勇名を馳せた。 しかし、東条英機から嫌悪されていたこともあり、'42.7中国東北部牡丹江(満州)で第1方面軍司令官とされ、大きな作戦を任されなかった。 同年大将。敗色が濃厚となった'44大命によりフィリピンの第16方面軍司令官となり、同地で孤軍前線敢闘したが、マッカーサーが指揮する優勢な米軍の進攻に苦戦中、終戦となった。'45.9.3フィリピンのバギオにて降伏。 当初、捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ、フィリピン全土にわたる日本兵の住民虐殺・拷問・略奪・殺人などの身に覚えのない罪名で死刑判決を受ける。 これに関して、「私に責任がないわけではない」「私が自決したのでは責任を取る者がいなくて残った者に迷惑をかける」と一切の弁明を行わず、紳士的な態度を貫いた。 これに対して、原告側からも同情的な意見も出、弁護団も判決を不服とし死刑執行の差し止めと人身保護令の懇願をしたが、米最高裁は6対2の投票で却下し絞首刑に処せられた。 '46.2.23マニラ郊外ロス・バニヨスにて処刑。享年60歳。遺詠「まてしばし勲(いさお)残して逝きし戦友(とも)後(あと)なしたひて吾(われ)もゆかなむ」。 従三位勲一等功三級。 法務死とされる。なお、フィリピン終戦時に作戦行動のための資金を密かに埋めたという「山下財宝」があるという伝説がある。

【シンガポール攻略】
開戦前のシンガポールには、イギリス軍の最も強力な軍をマレー半島、シンガポールに置いていた。いわば、シンガポールはアジアにおけるイギリス軍のシンボル的存在であった。 太平洋戦争開戦とともに、このシンガポールを攻め落とすことは、日本陸軍による南方攻略の成否を決めるものであり、最重要作戦のひとつだった。 海軍における真珠湾奇襲の成否と同程度の重要な比重を占めるものだったといえた。このマレー作戦を担当したのが、第25軍であり、その司令官の山下奉文である。一方、マレーのイギリス軍司令官はA・E・パーシバル中将である。 パーシバルは'36(S11)から四年間、マレー軍参謀長をつとめ、第44師団長などを経て、'41再びマレーに戻り軍司令官となった。
太平洋戦争勃発。山下率いる第25軍は、マレー半島縦断作戦を展開、遮二無二、進撃していった。'42.1.31には、第25軍第5師団第9梯団は、早くもシンガポール対岸のジョホールバル市に突入。シンガポール攻略作戦が展開された。 攻略作戦開始二週間後の2月15日、パーシバル司令官は、日本軍戦闘指令所の山下に停戦交渉のため密使を派遣した。予備交渉の末、山下・パーシバル会談が実現することとなった。会見場所は、シンガポールのブキテマにあるフォード自動車工場事務所内。
交渉は難航。パーシバルはこまかい条件交渉に入り、日英の通訳も不慣れで交渉ははかどらない。このような状況で、山下は無条件降伏を求め居丈高にテーブルを叩いて「そちらは降伏するのかどうか。 イエスかノーか、はっきり返事をもらいたい」と即答を迫った。この強引な説得工作により、パーシバルは降伏し、日本側の捕虜となった。 このシンガポール攻略の成功は、日本軍にとって大きな戦果となり、オーストラリア軍、インド軍などを混じえたイギリス軍側の捕虜の数は、推計10万人以上。 捕獲した各種火砲740門、乗用車・トラック約1万台であった。こういった人的・物的戦果ばかりではなく、東洋におけるイギリスの象徴ともいえるシンガポールの陥落は、アジアにおける日本のイギリスに対する完全な勝利ともみなされた。 なお、本来であれば、勇名な山下は、東京へ凱旋帰国し、天皇に軍状奏上し、陸軍から戦功祝賀を受け、陸軍中央に配置されるべきであるが、当時の首相である東条英機に嫌われていたこともあり、日本への帰還がないまま、シンガポールから突然、中国東北部牡丹江(満州)へ転任を命じられた。 陸軍中央によって徹底的に疎外されていたのである。敗戦後の軍事裁判でも敵国側からですら同情的意見が出る中、強引に死刑にさせられたのは、シンガポールを攻略されたイギリス軍の復讐、あるいはマッカーサーの復讐とも言われている。



●情報公開(戦争への道を阻止するために!!
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!


毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず

・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしくないですか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?

・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!

情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??


「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。



●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
<特定秘密>新たに61件 記録文書27万2020件に

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第二章国家機密の構造

4 自衛隊の機密事項
米軍のシークレット


自衛隊の創設・育成者として、つねに悪しき教訓を与えてきた米軍の場合はどうか。米陸
軍の管理訓練について公式の方針および規則をしめした陸軍規定((Army Regulation)が大統領行政命令にもとづくクラシフィケーションの準拠を明らかにしている。「トップ シークレット」に分類されるのは、たとえば次のような文書である。
③単一の作戦計画または一連の複合作戦計画であって、②のファクターのいくつかと、出撃率、作戦開始日・完了日を含んでいるもの
④合衆国側の主要な情報活動の成果を明らかにするに十分な情報を含み、米国情報機関によって成し遂げられた成功、あるいはその能力を評価できるような情報文書
⑤核兵器、原子兵器など最新かつ極めて重要な装備に関する情報、など。
「シークレット」に区分されるのは、①「トップ・シークレット」に該当しない戦争指導計画、②その他の軍事上の計画、③交戦中の部隊の編組、識別、位置、①秘匿すべき情報資料、⑤直接的軍事利用が国防上重大な意味をもつ科学技術の進歩、⑥通信保全方策、⑦暗号資料、③重要な装備品の欠乏など弱点を表示したもの、などである。こうしてすべての戦争計画とスパイ謀略活動が軍事機密とされているのである。



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景


※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。



●現在の日本

日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。
日本の原爆開発


核融合はやるべきではない!!

この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?


”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!


科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』





●南京大虐殺
・証言
日本軍が南京を占領した時、私は26歳で、その頃は左官工をしていました。民国26年の冬月19日に、私は江蘇路の西橋で、その頃そこは一面の墓地だったのですが、ある沼に日本軍に殺害された屍がいっぱいうずたかくなっているのを見かけ、あまねく屍ばっかり見えました。私も賀老五も日本軍に捕まって車に乗せられ、銃殺されに車が下関へ向かいました。私たちの車が寧海路の石炭ガス・スタンドまで来た時、不意に日本兵が付近で小さい子供の泣き声がしているのを聞きつけ、車を止めて降りその子供を探しに行ってしまいました。その時、車に乗せられていた人たちはみんな逃げてしまいましたが、私たちが虹橋まで逃げたら又日本兵に捕まりました。その時、日本軍は20何本かの銃剣を私たちに突きつけ、日本兵が「気を付け」と叫ぶや、私たちの中にいた中国兵が「直立不動」となり、結果としてみんなその場で銃剣で刺し殺されました。私は左官工だったので、気を付けが分からなく、日本兵は私たち「直立不動」できないのを押し出して、私を放ち去らせました。やがて、私は紅卍字会で雑用をしましたが、私たちの毎日の任務は死人のうずたかくなっている所へ行ってまだ生きている人を探すことで、見つかったら急いで病院へ運んで救急手当てをすることでした。劉雲発という人が首を突っつかれ穴が幾つも開いていて、気管は破れてなく、その時鼓楼病院に運ばれて助かったのですが、何年か前にその人はもう世を去ったのです。(謝秀瑾が調査)





しゃべってから死ぬ!南京大虐殺


南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分


昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!

ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・

(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。
そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より





※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)




世界初の「南京大虐殺辞典」出版される








●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん



2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。
<中国・東北地方の片田舎>
中国・黒竜江省の省都・ハルビン東方の牡丹江の片田舎が、著者が16年、生きてきた生活環境である。長い冬を生き抜くことは、当時の生活力からすると、幼い孤児が生き抜くことは至難の業である。
「幸運の連鎖」「いい人」との出会いがなければ、厳しい環境がたちどころに幼子の命を奪うだろう。おそらく多くの孤児が、そうして亡くなっているだろうが、中島さんは違った。


発売元 亜東書店 03-3835-7091 
中国語版 北京三聯書店「何有此生」






●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!

夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第3部
死の壁は固く


百人ぐらいの人間がそちこちでハンマーを振るう音がする。が、こうはかどらなくては、張り合いがなかった。しかし、それをいましめるかのように、時折、照明弾の紫の光が、小さな窓から稲妻のように流れ込んだ。
上空では彼我の空中戦が続いているようだ。ソ連の偵察機が上空から撮影しようとしているのだろう。
壁の固さに、業を煮やして、やがてダイナマイトが運ばれた。それを、掘った穴に装てんし、そちこちで一斉に添加したが、壊れるのは1㎡そこそこであった。
しかし、あきらめるわけにはいかない。私達は小さな穴を掘ってはダイナマイトを仕掛けて逃げ、また、がっかりしながら戻ってハンマーを振るった。
立て続けのしかも衝撃的な不眠作業のために、外へ待避して地べたに伏すと、死人のようにがっくり、あごが突き出てしまい、わずかの間にも、すうと眠りに落ちそうになる。しかし、うっかり眠ってしまおうものなら、そのまま置き去りにされそうな危惧がある。死を恐れる意識だけで私達は体を動かしているようなものであった。


厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)

医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
小泉親彦(ちかひこ)

※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。



真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
毒ガス証言2



ガン治療のウラ 5/8



「ワクチンをうってはいけない」船瀬俊介の船瀬塾



「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄3/6 ラジオ深夜便




●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏

グルーが断言したこととは違って、日本の軍部により、政治過程や戦争指導がかつて「完全に支配」された時代はなかった。東条内閣が倒れてのち、戦争が長引くにつれて、陸海軍の指導層はみずからの権力を守るために、しだいに宮中グループや天皇の周囲の「穏健派」に注目するようになった。それは宮中グループや「穏健派」が昭和天皇に近いからというだけではない。彼らは天皇のために情報交換や情報収集を行っており、それは陸軍の国内情報網以上に有用であった。
開戦時と同様に戦争終結時においても、そして戦争の全段階を通じて、天皇は、みずからの名の下に行われた行為を支持するのに積極的な役割を果たしていた。これが事実であることは、昭和天皇を大元帥として全体の構図の中に正確に位置づけてみれば、あまりにも明白である。原爆投下の理由や日本の降伏が遅れた理由を考えてみると(a)かつてグルー も同じことを指摘したが、アメリカが君主制の存続の保障を適切な時期に声明し、確固たるものとすることを認めなかったから、あるいは(b)反ソの立場に立っていたトルーマンやバーンズは、おそらく外交交渉よりも原爆投下を望んでいたから、というふたつが考えらる。しかし、これらはいずれも、原爆投下と遅すぎた降伏の理由としては不十分であり、それだけで説明は成り立たないのである。むしろ、昭和天皇は敗北という既成事実に渋々と向き合い、そして、戦闘行為に加え、帝国政府の公式な行為や政策を終らせるために決定的な行動を不承不承ながらもとった。このことは、逆にみると戦争遂行を続けた中心が何であったのかを示している。だからといって、それが原爆投下の理由として十分なものであるわけではない。最後に残った理由として、ひとつには皇位の並はずれた影響力ばかりではなく、昭和天皇の権力、権威、頑固な性格に理由があり、一方でハリー・トルーマンの権力と決断と残忍さあったのである。


瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」




●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第三章

敗戦
(その2)

東条逮捕

9月9日、東久邇宮の頭脳集団の二人は、記者団に次のように語った。「連合軍は、すぐにでも戦争犯罪人のリストを公表すべきである。そうすれば、日本人がその件について考え、おそらく、幾人かの名前を加えることができよう。副首相の近衛宮、外務大臣の重光はそれに含まれるべきだ」。この異例な告発は、東久邇内閣内部の深刻な抗争を物語っており、まさに、これ以上に真実な話はない。近衛と重光は、日本を真珠湾へと導くべく動き、また両者は裕仁に、その責任を負うことと、その贖罪の山羊となることを約束していた。



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