原発推進の人々
原発を推進してきた人々の中心は中曽根康弘と正力松太郎であった。日本が唯一被爆国であり、国民が核アレルギーであるのに、この2人は連携して原子力の推進を国策として始めた。
2人はアメリカのとの関係が深かった。アメリカの意向も汲んで原子力の推進に走った。そして、原子力の平和利用だけに留まらず、研究を進めさせたようだ!!
• 中曽根の履歴を見てみよう。
1918年(大正7年)5月27日 - 群馬県高崎市末広町に生まれる。
• 1935年(昭和10年) - 旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)4年修了。
• 1938年(昭和13年) - 静岡高等学校(現・静岡大学)文科丙類卒業。
• 1941年(昭和16年) - (昭和16年) - 東京帝国大学法学部政治学科を卒業後内務省に入るが、海軍短期現役制度により海軍主計中尉に任官。広島の呉鎮守府に配属され第二設営隊の主計長に任命される。終戦時は海軍主計少佐。終戦後、内務省に復帰。
• 1946年(昭和21年) - 内務省を依願退職。
• 1947年(昭和22年) - 第23回衆議院議員総選挙で立候補、初当選。
• 1953年(昭和28年) - ハーバード大学の夏期セミナーに留学。少壮教授だったキッシンジャーが責任者であった。
•1954年(昭和29年)- 3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。
•1959年(昭和34年) - 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。
• 1966年(昭和41年) - 旧河野派が分裂し、中曽根派が結成される。
• 1967年(昭和42年) - 第2次佐藤内閣第1次改造内閣の運輸大臣に就任。 第12代拓殖大学総長に就任。(昭和46年まで。現在は名誉総長)
• 1970年(昭和45年) - 第3次佐藤内閣で防衛庁長官となる。• 1971年(昭和46年) - 第3次佐藤内閣改造内閣で自民党総務会長に就任。
• 1972年(昭和47年) - 第1次田中角榮内閣の通商産業大臣に就任(科学
• ※アメリカとのつながり、防衛庁長官・科学技術庁長官もしている。
一方正力松太郎の履歴は
明治37年(1904年)9月 - 第四高等学校入学[2]
• 明治39年(1906年 - 三高との高専柔道の対校戦に優勝[3]
• 明治40年(1907年)7月 - 東京帝国大学法科大学独法科入学[4]
• 明治44年(1911年)7月 - 東京帝国大学卒業。内閣統計局に入る(同郷の南弘の推薦による)
• 大正元年(1912年)11月 - 高等文官試験に合格。
• 大正2年(1913年)6月 - 警視庁入庁、警務部警務課勤務。警視総監安楽兼道の義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島県出身)と見合い結婚したが、一女をなしてまもなく亡くなる。その長女は8歳で早世した
• 大正3年(1914年)6月 - 警視に任官、日本橋堀留警察署長。
• 大正4年(1915年) - 吉原波満と再婚(波満との間に一男二女を成す)。
• 大正6年(1917年)
o 2月 - 牛込神楽坂警察署長。
o 9月 - 警視庁第一方面監察官。早稲田大学の学園騒動を鎮圧。
• 大正7年(1918年)10月 - 米騒動鎮圧の功により従六位に叙せられる。
• 大正8年(1919年)6月 - 警視庁警務部刑事課長。
• 大正10年(1921年)
o 6月 - 警視庁官房主事。
o 7月 - 正六位に叙せられる。
• 大正12年(1923年)
o 9月 - 関東大震災において「朝鮮人暴動の噂」を流布させ、自警団による虐殺の遠因となる。昭和19年(1944年)警視庁での講演で、この虚報を「失敗だった」と発言(石井光次郎著『回想八十八年』)
o 10月 - 警視庁警務部長 虎ノ門事件
• 大正13年(1924年)1月 - 虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。
• 昭和3年(1928年)8月 - 外部招聘により在籍していた京成電鉄での事件「京成疑獄事件」に連座、禁固4ヶ月、執行猶予2年の判決をうける。
• 昭和9年(1934年) - 大リーグ選抜チームを招聘、巨人軍創立。
• 昭和10年(1935年)2月 - 右翼団体「武神会」長崎勝助のテロに遭い瀕死の重傷。
• 昭和15年(1940年)9月 - 大政翼賛会総務に就任。
• 昭和18年(1943年)
o 5月 - 翼賛政治会総務に就任。
o 6月 - 内閣情報局参与に就任。
• 昭和19年(1944年)
o 5月 - 貴族院議員に勅選される。
o 10月 - 小磯内閣顧問に就任。
• 昭和20年(1945年)
o 10月 - 第1次読売争議起こる。
o 12月 - A級戦犯に指定され、巣鴨拘置所に収容される[5]
• 昭和21年(1946年)1月 - 公職追放。
• 昭和22年(1947年)9月 - 不起訴、釈放。
• 昭和25年(1950年)10月 - 読売新聞、有限会社から株式会社に改組。
• 昭和27年(1952年)10月 - 日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
• 昭和28年(1953年)8月 - 日本テレビ放送網本放送開始。
• 昭和30年(1955年)
o 2月 - 第27回衆議院議員総選挙に富山2区から出馬、当選。
o 11月 - 第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官
• 昭和31年(1956年)
o 1月 - 原子力委員会の初代委員長に就任。
o 5月 - 初代科学技術庁長官に就任。
• 昭和32年(1957年)7月 - 第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任。
• 昭和33年(1958年)
o 6月 - 読売新聞の社主に復帰。
o 8月 - 讀賣テレビ放送会長に就任。
• 昭和36年(1961年)6月 - 国会議員柔道連盟会長。
• 昭和37年(1962年) - 財団法人日本武道館初代会長 駒澤大学より名誉博士号を授与される。
• 昭和39年(1964年)11月 - 勲一等旭日大綬章を受章(没後、勲一等旭日桐花大綬章追贈)。
• 昭和40年(1965年)6月18日 - 高岡市名誉市民、26日 - 大門町名誉町民。
• 昭和42年(1967年)5月 - 報知新聞社社主に就任。
• 昭和44年(1969年)10月9日 - 国立熱海病院で死去。叙・従二位 14日に日本武道館にて葬儀 柔道八段から十段に この年、サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ)を立ち上げた これが事実上正力の最後の仕事となった。
※関東大震災の時に「朝鮮人暴動の噂」を流布させた。戦時中は大政翼賛会の総務であり、敗戦後はA級戦犯に指定されている!!初代の原子力委員会の委員長・科学技術庁長官でもある。
参考)
五十嵐仁の転成仁語
3月22日(火) 原子力発電を推進した元凶としての中曽根康弘と正力松太郎 [災害]
>不勉強で恐縮ですが、原発推進に動いた政党、経済団体の言説や経過を客観的事実として知りたいと思います。推進者を個人的にあげつらう必要はないかと思いますが、事実は事実として前にお書きになった中曽根、正力のことは知りたいと思います。ついでの時に触れて頂ければ、と思います。
お答えしましょう。中曽根康弘については、中曽根康弘『天地有情-50年の戦後政治を語る』(文藝春秋、1996年)をお読み下さい。
その166~172頁の「原子力推進の原点になった原爆雲遠望」という項に、原発推進のためにいかに尽力したか、その苦労話が得々と書かれています。「私は科学技術庁長官になった正力松太郎さんを助けて働きました。それから、原子力委員会設置法、核原料物質開発促進法、原子力研究所法、原子燃料公社法、放射線障害防止法、そして科学技術庁設置法といった法体系をつくったわけです」(同書、170頁)と……。
ただし、この本は600頁を超える大著で、入手するのも読み通すのも難しいかもしれません。
もう少し一般的な本として、中曽根康弘『自省録-歴史法廷の被告として』(新潮社、2004年)が良いでしょう。その41~46頁の「原子力推進に奔走する」という項をご覧下さい。
ここにも、「国会に一挙に8本の原子力法案を提出し」たことや、「このとき、科学技術庁も作って、正力松太郎さんが長官になり」、「正力さんは原子力委員会の委員長も務め」たことが書かれています。
この本を書いたとき、中曽根さんは、まさかその7年後、これほど苛酷な「歴史法廷」に立たされることになるとは夢にも思っていなかったことでしょう。まして、このような形で明確な有罪判決を下されることになるとは……。
自宅のテレビで毎日繰り返されている福島原発事故の報道を、どのような気持ちで眺めているのでしょうか。放射能汚染から逃れるために避難している人々の群れを見ながら、少しは「自省」しているのでしょうか。
中曽根さんの本にも出てきていますが、日本における「原子力の父」と言われる正力松太郎については、有馬哲夫『原発・正力・CIA―機密文書で読む昭和裏面史 』(新潮新書、2008年)をご覧になって下さい。これは新書ですので、入手するのも読むのも簡単でしょう。
これは、近年になって解禁されたアメリカ政府関係の機密文書を用いて、正力とCIAの関係や原発推進について果たした正力の役割を暴露したものです。その宣伝文句は、次のようになっています。
>一九五四年の第五福竜丸事件以降、日本では「反米」「反原子力」気運が高まっていく。そんな中、衆院議員に当選した正力松太郎・讀賣新聞社主とCIAは、原子力に好意的な親米世論を形成するための「工作」を開始する。原潜、讀賣新聞、日本テレビ、保守大合同、そしてディズニー。正力とCIAの協力関係から始まった、巨大メディア、政界、産業界を巡る連鎖とは――。機密文書が明らかにした衝撃の事実。
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