2009年3月21日土曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について4
【概数の資料】
中国兵の犠牲者数については、日本と中国の資料から概数は推定できたが、きわめて困難なのが民間人の犠牲者数の推定である。総数を推定する参考になる当時の3つの資料を紹介する。
(1)ラーベの「ヒトラーへの上申書」(「南京事件・ラーベ報告書」に同じ)
「中国側の申し立てによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万から6万とみています。」(ラーベ『南京の真実』)。38年2月23日にラーベが南京を離れた段階での推定数である。南京城内にいたラーベら外国人には、城外・郊外の広い地域で行われた集団虐殺の多くをまだ知っていない。それでも、難民区国際委員たちが当時の情報を総合して推測した数として参考になろう。
(2)埋葬諸団体の埋葬記録(『中国関係資料編』の第Ⅲ編「遺体埋葬記録」に収録)
 南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は18万8,674体になる。これには戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作業のダブりの問題もある。しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことも考えると、南京攻略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する資料となる。
(3)スマイスの「南京地区における戦争被害ー1937年12月~1938年3月ー都市及び農村調査」
 同調査では、市部(南京城区)では民間人の殺害3250人、拉致されて殺害された可能性の大きい者4200人を算出、さらに城内と城壁周辺の入念な埋葬資料調査から1万2000人の民間人が殺害されたとしている。近郊区では4県半の県城をのぞいた農村における被虐殺者数は2万6870人と算出している。この調査は、38年3月段階でで自分の家に戻った家族を市部で50軒に1軒、農村で10軒に1軒の割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている。それでも、同調査は当時行われた唯一の被害調査であり、犠牲者は間違いなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる。
 以上の犠牲者数についての資料状況と本書で叙述してきた南京事件の全体状況とを総合すれば、南京事件において10数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。日本軍側の資料の発掘・公開がさらに進み、中国側において近郊農村部の犠牲者数の記録調査がもっと進展すれば、より実数に迫る数字を推定することが可能となろう。
  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺(1984年と1990年に証言収録)

 葛仕坤(男、74歳)の証言
 私は葛仕坤といって、今年74歳ですが、日本兵が南京にやってくる前の晩に、私たち全家族で燕子磯の許家村から引っ越して長江の北へ行きました。けれども私はしょっちゅう燕子磯の許家村に戻って来ていました。1937年12月のある日と覚えていますが、許家村の月亮山で日本人が中央軍をしばりあげ、400人余りもいた中央軍を、日本人は強引に地にひざまずかせて、それから機関銃でみんな射殺したのを、この目で見ました。あの時は、烏龍山から許家村までの道はずっと死体が転がり、道行く人はみんな屍の上を踏みつけて行くのでした。私たちの村の村長の周明旭が人々に道沿いに壕を掘らせ、そこに死人を埋めました。旧の十○地で、日本人6,7人が葛という女の子を私たちの家に引きずってきて輪姦するのを、この目で見ました。(陶俊と李春明が記録)
 ※○は、日本の漢字にない字なので○にしました。

 
   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


基地をなくして緑と海を


取りもどしていく世界を。


Imagine,

A world that gets rid

of military bases and reclaims

the forests and the oceans.



森に抱かれ、海にはぐくまれ、人とともに生きる北限のジュゴン。
乱獲があり、戦争があり、今わずかに生き残ったジュゴンのすむこの海に、
また、新しく米軍基地がつくられようとしています。

おばぁは言います。「この海があったから、子どもたちを養い、孫を大学までやる事ができた。
この海は命の海。
この海をこわして、沖縄の明日はないよ・・・・」
(沖縄/女性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月20日金曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について3
【日本軍が虐殺した中国軍民の数】
日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外におかれたものの苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった(藤田久一『戦争犯罪とは何か』、同『新版・国際人道法』参照)。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民および非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道法的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善をいっそう明確化した「捕虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約)が1929年に締結されて、戦時国際法として存在した(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。
 ハーグ陸戦条約は「第23条[害敵手段、攻囲及び砲撃の禁止事項] ロ、敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること   ハ、兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること 二、助命せざることを宣言すること」と、「害敵手段」を規制していた。これは、直接戦闘外におかれた兵士を保護するための規定である。12月13日早朝に南京城は陥落し、南京攻略戦の直接の戦闘は決着がつき、南京防衛軍も完全に崩壊してしまっていた。したがってその後の中国兵は、戦闘員を人道的に保護するために、投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在だったのである。日本軍が徹底した殲滅戦(せんめつせん)を強行したために、投降兵、敗残兵を殺戮したのは、同条約に違反する不法行為であり、虐殺行為であった。また、日本軍は、武器を捨て軍服を脱いで民間服に着替えて難民区や居住区に潜伏した中国兵を「便衣兵」として連行、処刑したが、南京には本来の「便衣隊」「便衣兵」は存在しなかった。
 「便衣兵」を処刑するにはそうと認定する軍事裁判の手続きが必要であったから、日本軍の「便衣兵狩り」による集団処刑は、交戦法規に違反した虐殺行為であったのである(吉田裕「15年戦争史研究と戦争責任問題」)。
 現在公刊されている日本軍側の資料から、南京攻略戦に参加した各師団がどのくらい中国兵および中国兵と見なされた民間人を、捕虜・投降兵・敗残兵・「便衣兵」として殺戮・処刑したかの累計をこころみたのが表1である。(割愛させていただく)第9師団・第114師団・第6師団の各部隊の戦闘詳報や陣中日記の公開が特に遅れているが、もしも日本軍側の全連隊の戦闘詳報がそろえば、捕虜、敗残兵の被虐殺者数(ここには民間人の男子も含まれている)の総数がかなり明らかになることがわかるだろう。
 もっとも、戦闘詳報の記録は一般に戦果を多く報告する傾向にあるから、この数字はあくまでも概数として扱うほかはない。それでも、( )をつけなかった虐殺者数は8万人以上になろう。可能性のあった捕虜のほぼ全員殺害を想定すれば、10万人以上になる。
 私は、総数15万人の防衛軍のうち、約4万人が南京を脱出して再結集し、約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明となり、残り8万余人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する(「南京防衛戦と中国軍」)。
  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
燕子磯、草鞋峡、煤炭港、幕府山一帯での集団虐殺

 郭国強(男、68歳)の証言
 1936年に、私は18歳で「中央軍」に加わり、88師で軍務についていました。そのころ日本軍が上海を攻めていて、我が師団は上海で抵抗していました。負けてから、江蘇の句容へ行って又日本軍と一戦を交え、それからは壊滅して軍をなさなくなりました。
 1937年の12月に、私は2,3百人の「中央軍」と平服を着て、南京の燕子磯三台洞の近くまで逃げてきました。日本軍が燕子磯の長江沿いの浅瀬でやった大虐殺の情景を目撃しました。あの時日本軍は機銃掃射を一昼夜続け、2万人以上の既に武装解除していた「中央軍」の命を奪ったのです。私は三台洞に隠れていて、日本軍に発見されたのですが、山を切り崩している農民だと偽り、山を爆破する道具を持ち出してきて、やっとのことで死を免れたのでした。
 それから、私は隙を見て逃げ出し八卦洲の下○村まで落ち延びて、そこに住み着くようになったのです。(潘可栄と趙金華が記録)

   

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

武器を使わせない世界を。


Imagine,

A world that doesn’t

let weapons be used.



憲法9条はどんな軍隊より、どんな核兵器よりも大きな力をもっています。なぜなら、核兵器はけっして平和をもたらさないからです。
それはこれまでの歴史が証明しています。
核兵器はこれまでに何十万人もの人々の命を奪い、国を破壊してきましたが、世界はまだ暴力と戦争だらけです。(アメリカ/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月19日木曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について2
【南京攻略戦下の人口】
南京特務機関「南京市政概況」によれば、南京攻略戦の前後で南京市(本書で言う南京城区)の人口・戸数は以下のように変化している。


 1937年 3月末   101万9667人     20万810戸    (首都警察庁調べ)
   38年 2月末 20万   (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
   38年10月末 32万9488人      8万2195戸   (南京市自治委員会調べ)
   39年10月末    55万2228人     13万2,403戸   (南京特別市政府調べ)
   41年 3月末 61万9406人 14万0439戸    (南京市政府調べ)
 
日中全面戦争勃発前の南京城区の人口は100万人以上であったが、日本海軍機の連日の空襲のために同区の人口は激減していき、37年11月初旬には50万近くになっていた(スマイス「南京地区における戦争被害」)。同11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡には、「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」と記されている(中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』)。11月下旬には、国民政府はすでに首都遷都を宣布しており(11月20日)、中支那方面軍の南京進撃もすでに始まっていた段階で、南京から遠隔の地に避難したい階層は基本的に脱出を終了していた。その後、南京城区から安全と思われた近郊農村に避難していった市民も多かったが、一方では、南京防衛軍の「清野作戦」の犠牲になった城壁付近の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。したがって、南京攻略戦が開始された時に、南京城区にいた市民はおよそ40万~50万であったと推測される。
 南京特別市の近郊6県の県城と農村の人口は、スマイスらの「南京地区における戦争被害」に基づいて推測すれば、南京攻略戦以前は、150万を超えていたと思われる。県城や農村の住民は遠隔地へ脱出していく事例は少なく、南京攻略戦に際しても一時的に近距離周辺に避難するパターンが多かったから、概して人口の変化は大きくない。
 南京防衛戦に参加した中国軍の総数については、私はかつて詳細に検討したことがあり(「南京防衛戦と中国軍」)、戦闘兵が11万~13万、それに雑役を担当した少年兵、輜重兵(しちょうへい)などの後方勤務兵、軍の雑務を担当した雑兵、防御陣地工事に動員された軍夫、民夫(民間人人夫)等々、正規非正規の区別もつきづらい膨大な非戦闘兵を加えて、総勢15万人いたと推定した(南京防衛軍の戦闘詳報など中国側の豊富な原資料を整理・分析した孫宅巍・江蘇省社会科学院研究員の「南京保衛戦史」も、南京防衛戦に参加した中国軍の総勢を約15万としている)。

  
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 楊勤州(男、61歳)の証言
 1937年の冬に、日本軍が来ました。1000人ほどの国民党の敗残兵が、白旗を掲げ、日本軍に私たち小江辺の大きな倉庫まで連行されました。日本軍はこの人たちを整列させてから、身体捜査をやり、2人刺し殺しました。価値の高い物をみんな取り上げ、身体捜査が終わってから、又8人銃殺しました。その時に又何人か日本軍がやってきて、その敗残兵たち全部を綿花堤まで駆り立て、機関銃を2台据え付けて、掃射をし、しまいには粗朶をたくさん積み上げ、それにガソリンをかけ、まだ撃ち殺されていない人を全部、火をつけて焼き殺しました。
 孫という全椒県の人がいて、年の暮れに街に出て塩を買ってきたのを、日本兵が捕まえて無理に塩を食べさせ、話せなくなるまでにしてしまいました。ずっとしてから年取った漢方医がゆっくり調えてやっとよくなりました。(羅自成が記録)

  

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、

おたがいに戦争しないと

約束した世界を。


Imagine,

A world that promises

not to fight wars

with each other.



戦争して平和を取り戻すんだという意見があります。
でも、イラクを見てください。ブッシュ大統領はサダム・フセインを倒すといって実行しましたが、平和にすることはできませんでした。戦争が起きると、もっと多くの人が犠牲になるだけなのです。暴力や武力では平和はつくれないことを、今のイラクは証明しています。(ケニア/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月18日水曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 犠牲者の数について1
 南京事件において犠牲にされた中国軍民の数を正確に算定することは、今となっては、まず不可能である。日中の双方とも南京事件発生時および直後に本格的な被害調査をしなかったからだ。(金陵大学のスマイスらの「南京地区における戦争被害」調査が唯一であった)。南京はその後およそ7年間、日本の占領下に置かれたため、中国当局が直接調査することはできなかった。いっぽう、南京を占領統治した日本当局が、犠牲者数を調査することなどありえなかった。したがって、関連した諸資料を収集し、整理・検討して犠牲者総数を推定していくことになるが、その資料も、日本軍側の資料の公開が少ないことが最大の障害になっている。※

 ※藤原彰氏の調べによれば、中支那方面軍の全連隊の中で、これまで戦闘詳報や陣中日記の類の公式資料を公刊・公表している部隊はおよそ3分の1にすぎない。多くは敗戦前後に連合軍の追及を恐れて証拠湮滅(しょうこいんめつ)のため焼却されている。また、南京攻略戦に参加した元兵士が残虐行為を証言したり、それらを記録した陣中日記を公表したりすると、戦友会や右翼勢力から証言封じの圧力が加えられることも日本側の資料が少ない原因になっている。


 犠牲者総数の解明は、南京事件の全貌をより厳密に理解するために必要であって、その逆、つまり、正確な総数が確定できないから南京事件は「まぼろし」であるということにはならない。犠牲者数の問題は、今後さらに資料が発掘されていけば、より実数に迫っていけることも事実である。ここでは、本書で引用してきた資料を整理・総合して推定できる概数を述べてみたい。それは概数であっても、相当程度南京事件の全貌をイメージできると思うからである。


 
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 邢久発(男、72歳)の証言
 1937年の暮れに、日本兵が南京で大虐殺をやり、その蛮刀の下に数限りない人々が惨死しました。水西門から上新河まで、死者がうずたかく山をなし、河いっぱいに血が流れたのです。とりわけ江東門の橋が爆破されていたのを、日本軍が屍をうずたかく積んで、車が通るようにしたのです。

 何玉峰(男、59歳)の証言
 南京が陥落したとき、私は郊外の沙洲圩に避難していました。長さ5,6キロにも及ぶ水西門から上新河までの道に、日本軍に殺害された人々が、まさに死屍累々として野に遍しの状態だったのを、目撃しました。紅卍字会の埋葬作業で、この道には、2,30メートル置きくらいに1つずつ、屍が丘のようにうずたかくなったのを、覚えています。
 江東門の江東橋が爆破されていて、日本軍が死体で河を埋め、上に戸板や葦ずなどを敷いて、臨時の橋にしました。人がその橋の上を歩くと、そこが上下に浮き沈みして、まったく見るに耐えないむごたらしさでした。(習守清と呉建野が記録)

 
 

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、


武器をつくったり


売ったりしない世界を。


Imagine,


A world that doesn't


make or sell weapons.



紛争が続くアフリカでは、子どもたちまで武器を持ち、命を落としています。
その武器はヨーロッパやアメリカから売りつけられています。
アフリカの私たちは、殺しあう必要もないのに買わされているのです。
 だから、9条はアフリカにこそ必要だと思います。
9条があれば、これ以上アフリカに武器を持ち込ませないようにできるのです。(ケニア/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月17日火曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
【財産権の侵害】
日本軍は南京において戦闘行為とは直接関係のない略奪・放火を長期にわたって行った。南京国際救済委員会の調査によれば、南京城内の建物の73パーセントが略奪の被害を受けた。中心的なビジネス街では、多数の兵隊による何度かの略奪を受けたのち、ついで軍用トラックを使用した本格的な略奪を受け、最後には放火されて焼失したところが多かった。
 放火は日本軍の南京入城後に始まって2月はじめまで行われ、市全体で建物の24パーセントが焼失した。そして、焼け残った家の家具や衣料、現金などがはぎ取られ、日本軍に略奪された。
 南京近郊の農村では広い地域にわたって、40パーセントの農家が焼かれ、家畜や農具、貯蔵穀物、作物が甚大な被害を受けた。畑の小麦は軍馬の飼料にされ、野菜は兵隊が好んでかっぱらっていった。とくに、江寧県と句容県では野菜畑の作物のほぼ半分が損害を受けている。
徴発・調達の名目で食糧・穀物・家畜が大量に略奪された(「南京地区における戦争被害」。なお笠原『アジアの中の日本軍』も参照のこと)。
 
  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺

 陳徳星(男、72歳)の証言
 日本兵が南京に来たのは1937年の冬月で、私が用事で江東門を通ったら、日本兵が模範監獄の前で、テーブルやベッドの板や大きな戸板などいろんな木材をあるくぼ地に積み上げ、それにガソリンをかけて火をつけ、それから日本兵2人が中国人1人の両腕を抱え、後ろから日本兵1人が銃剣で中国人の背中を突っつき突っつきして、その中国人を炎の中へと追い込んでいるのを、見かけたのですが、次々に上がるけたたましい叫び声が耳に響くばかりで、全く見るに耐えないむごたらしさでした。文字通りその人たちの頭がこげ額がただれ、血なまぐささが天に突き上がるのでした。

 李桂英(女、59歳)の証言
 1937年には、私の家は江東門でした。1937年12月13日に日本の侵略軍が南京を占領して、大虐殺をやった時、私は12歳でした。日本軍はいつも三々五々群をなして外出していて、馬に乗っての時もあり、歩いての時もありました。一度、男の人が1人難民区から出てきたのを、日本兵がぐっととっつかまえて、まずその頭を見、次いでその手と肩とを見、それから気ままに一発撃ちました。その人はそのときは死なずに、倒れて何度かけいれんしていましたが、やがて日本兵がまた一発撃って、やっと撃ち殺しました。
 江東門の橋が爆破されていて、日本軍が橋を渡れなかったことから、つかまえてきた何百人もの庶民を銃で撃ち殺し、その死体を河に敷き詰め積み上げ、庶民の家の戸板などはずしてきたのを屍の上に張り渡しました日本兵がその上を歩き、屍から血が流れ出して、河全体が真っ赤に染まったのでした。(賀家宝が記録)

 

「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん、



軍隊のお金をみんなの


暮らしのために使う世界を。



Imagine,


A world that spends money


not on armies,


but on people's lives.


アメリカでは、イラク戦争に年間およそ1兆円も税金をつぎ込んでいます。それなのに、ハリケーンから自国民を守ることさえできませんでした。
日本が9条をなくして大きな軍隊を持てば、きっと税金は戦争の用意に回され、日本の人々の生活は苦しくなるでしょう。
そして、貧困に苦しむアフリカの人々への支援も減らされてしまうのではないでしょうか
(ケニア/男性)



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月16日月曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
 残虐行為、不法行為の内容は、次の二つに大きく分けることができる。
【生命・身体の侵害】
戦時国際法に違反して中国の負傷兵、投降兵、捕虜、敗残兵が集団あるいは個別に殺戮された。日本軍の包囲殲滅戦の犠牲となって住民が殺害され、「残敵掃蕩戦」「敗残兵狩り」によって元兵士と思われただけで多くの成年男子が殺害され、日本兵の気まぐれでも多くの市民が射殺・刺殺された。金陵大学のスマイスやベイツら南京国際救済委員会(南京安全区国際委員会が改称)の調査によれば、日本軍の掃蕩作戦中に殺害されたのは老人が多かった。南京城内の南部の人口密集区では、多くの老人が留守を守って残留し、攻め込んできた日本兵に虐殺された。城内では60歳以上の男性の28パーセントと女性の39パーセントが殺された割合になる。近郊の農村では、殺害された女性の83パーセントがが45歳以上の婦人で、そのうちの約半分が60歳以上の老婦人だった。彼女らは、従来は残忍な攻撃から安全であると考えられていたので、なけなしの家・財産を守るために残っていて、殺害された。
 さらに同調査によれば、民間人の死傷者の割合は男子が64パーセントを占め、年齢にして30歳から44歳の民間人の死傷者のうち男子が76パーセントと高い割合を占めた。言うまでも無く、「敗残兵狩り」によって元兵士の疑いをかけられて殺害されたのだった。家族の被害の割合で言えば、南京城内では残留した家族の7分の1が夫や父親を失った。(「南京地区における戦争被害」)。
 南京事件の中で際立って多かったのが婦女の強姦・輪姦および殺害だった。日本軍の南京占領後12月16日から強姦事件が多発するようになり、南京安全区国際委員会の計算では1日に千人もの女性が強姦され、占領初期には控えめに見ても8000人の女性が強姦され、翌年の2,3月まで何万という女性が強姦された(「アメリカキリスト者へのベイツの回状」『アメリカ関係資料編』)。強姦は女性の身体を傷つけただけでなく、心にも深い傷を与え、みずから命を絶った者、精神に異常をきたした者など、さらには悪性の性病をうつされて廃人同様になった者、妊娠させられたため無理な堕胎をこころみて身体を壊してしまった者など、あとあとまで残酷な悲劇は続いた。

  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

 邱栄貴(男、70歳)の証言
 1937年の冬月に、江東門の統○茶房の王明九のお母さんが死んで、お棺に入れられて門のところに置き、未だ埋めに行かないでいたら、日本兵が手榴弾一発でお棺と死体とを粉々に砕いてくれました。冬月12日、日本兵が王さんの家に住まおうとしながら、門口の死体のにおいが嫌で、私と王明九とにせっついて死体を引きずって行かせようとしたのに、死体がお棺に入っていて、2人では動かなかったので、日本軍がやってきて銃剣で私のお尻を一突きしましたが、幸いに着ていたのが綿入れだったので、死を免れたのでした。
 冬月13日に、江東大隊積余村の王明才が日本軍の来るのを見て、肥えた豚を2匹隠したのですが、まもなく日本軍に見つかって、王明才は日本軍に銃殺され、豚も撃ち殺されました。そして、私と和尚さん1人とが日本軍に豚の皮を剥ぐようせっつかれ、和尚さんは袖口が大きくて、働くのに不便なので、袖をまくりあげていたときに、日本軍がこいつは手伝おうとしないだと言い張って、一撃の下に和尚さんを地に打ち倒し、和尚さんが這い上がろうとしたところを、またもや日本軍に踏みつけられため池に蹴りこまれて、溺れ死んでしまいました。それから私1人で豚の皮を剥いでしまうと、日本軍はついてくるようにと私に命じ、江東門の軍法処の門まで来たところで、豚を門のところの広場に置かせたのですが、その時に私は1000人以上の難民が監獄からしばられて連れ出され、江東橋の端から鳳凰街までずっと並ばされているのを見ました。何歩か毎に日本兵が1人ずつ、刀や銃を手にしていて、将校が一声大きく叫ぶや否や、銃剣でそれらの無辜の中国難民を滅多突きに突きまくり、1000名を超す中国人が血の海の中に倒れたのです。やがてこの人たちはみんな江東門の河の中に引きずり入れられ屍で積み上げた「橋」にされました。それと一部は軍法処のそばの茅の坑道に引きずって行かれました。
 冬月17日、18日ころに、積余村の王華明と王月徳の家にいた110名の中国人難民が、みんな縛られたまま、日本軍に撃ち殺され、その死体が家の裏の大きな茅の坑にうずたかくなりました。その日に、私も日本軍に捕まりましたが、少しして逃げ出し、積余村の河辺に広げられていた芦の粗朶に隠れたので、捕まりませんでした。夜になって出てきたとき、その110名の難民はみんな死んでいました。
 冬月20日に、日本軍が私と王進才を捕まえて舟を漕がせましたが、突然1人の若い女の人を見つけて、日本軍が2人跳びかかって行き、その女の人を身も世もないほどに踏みつけにしました。
(滕桂珍、滕桂芝、鐘金華、朱春香が整理)



「Imagine9」【合同出版】より



想像してごらん


世界から戦争のなくなった


平和な世界を。



Imagine,

A peaceful world 

without war.




でも、どうやったら


そんな世界がやってくるのかな


一つひとつ考えてみよう。


But,how can such a 


world be made?


let's think about it.



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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2009年3月15日日曜日

南京大虐殺

「南京事件」(笠原著:岩波新書)より
南京事件の全貌
(2008年11月26日の記事と重複しますが復讐の意味で書きます。)
南京大虐殺の定義と範囲、内容
 南京大虐殺事件は、日本の陸軍ならびに海軍が、南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対しておこなった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。
 事件発生の区域は、南京城区とその近郊の6県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京攻略戦(中国にとっては南京防衛戦)の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
 事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した、1937年12月4日前後からはじまる。大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解いた38年2月14日が南京攻略作戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後も続いたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも(近郊農村では相変わらず続いていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考える事ができる。だたし、37年8月15日から開始された海軍機の南京空襲は、南京攻略戦の前哨戦であり、市民に対する無差別爆撃は、南京事件の序幕といえるものだった。

  
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編
            加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
漢中門外、江東門、上新河一帯での集団虐殺(1994年収録)

孫殿炎(男、58歳)の証言
 1937年12月に、「中央軍」が三汊河や鳳凰街で日本軍と戦闘してから撤退しました。その後すぐに日本軍が大虐殺をやらかしたのです。その頃私たちは鳳凰街の2番目の叔父の家に住んでいて、地下の洞穴に隠れていたのですが、それでも外の銃声がはっきり聞こえました。やがて、銃声が静まったので、洞穴から這い出したのですが、数え切れないほどたくさんの人が死んでいて、眼も当てられないほどでした。日本人がしょっちゅう鳳凰街にやってきて騒ぎを起こすので、私たちは鳳凰街にいられなくなって、閻王廟の方へ向かいました。江東門の陸軍監獄あたりに差し掛かった時、見かけた死体がすごくたくさんでした。江東門の橋が前から爆破されていたのですが、日本軍が屍を土台にして、その上に木の板を敷き詰めていました。日本軍が入ってきて20日してから、紅卍字会がやっと組織的に死体の片づけをし、軍人監獄の向かいの長さ200メートル余り、幅1メートル、深さ1メートル半の塹壕と、煉瓦作りの粗末な便所2つの中に、屍をびっしり運び込んだのです。これもまた今日「万人坑」と言われているものです。

 
「Imagine9」【合同出版】より



MESSAGE(メッセージ)


環境が豊かで、平和で公正な世界。
日本の憲法9条は、そんな世界を願う私たちを励ましてくれます。

人々は、夢を見てきました。
人間の権利が守られ、植民地や奴隷制がなくなることを夢見て、一歩ずつ、一つずつ、実現してきました。

あともどりせず、前に進みましょう。
戦争のない世界へ。
すべての国が憲法9条をもつ世界へ。


ワンガリ・マータイ(ケニア/グリーンベルト運動代表、ノーベル平和賞受賞者)





第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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