2009年6月24日水曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

4、1942年に浙贛鉄道で実施した細菌戦

1942年4月18日、日本侵略軍の上海第13軍団と武漢第11軍団は、浙贛戦役を配置し、浙贛鉄道を貫通させよとの大本営の命令を受けた。戦いは5月から始まり、日本軍は金華、衢州、玉山、広豊、麗水などの地区を相次いで占領し、浙贛鉄道沿線にある3空港を破壊した。しかし兵力不足のため、日本軍は以上地区での長期駐屯ができず、破壊した空港も再建できないため、大本営は「浙贛行動」という細菌戦の実施を731部隊に命じた。1942年8月、731部隊はまたも遠征部隊を編成し、南京の「栄」字第1644部隊と共同行動をとった。この遠征隊は120人の士官と雇用隊員で編成され、7月に汽車でハルピンを出発し、まずは南京華中派遣軍防疫給水部「栄」字第1644部隊の陣営に駐屯した。出発前、731部隊はすでに倉庫で炭疽菌、パラチフス菌とペスト菌など約130キロの細菌瓶を箱に詰め、1644部隊の専用空港に送り、そこから「給水」の標識がある飛行機で南京へと運送した。細菌投入は空中投下と地面投入の方法がとられた。作戦実施の日本軍に対する同時感染防止のため、731部隊は投下地点を住民が避難した後の無人の町や村とし、住民は帰還後に即時感染した。空中投下はのち中国側が国際社会に激しく訴えたため、一度は地面投入のみに変更された。

 
日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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大久野島(毒ガス島)

  
中国人戦争被害者の要求を支える会

  
中帰連

  
ハイナンネット
 
  
南京への道:史実を守る会

  
根津公子さんのページ
  

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

呉芝生(男、72歳)の証言

 日本兵が入ってくる半月前に、私たちは元々住んでいた大丁家巷38号から難民区へ引き移り、今の華僑橋の近くに住まいました。私と弟の呉芝坤とは「仁○」と呼んでた家に一緒に住まい、母と前の妻の蔡芙蓉とは別の所に一緒に住まいました。1937年の冬月23日(「送竃」節)の午前中に、私と芝坤と一緒にドイツのシーメンス電器会社の南京事務所へ米を買いに行ったのですが、米を買う人がたくさんで、押し合いへし合いながら米を買っていた時に、不意に日本兵が2,3人やって来て、男の人を捕まえては頭を見たり、手を見たりして、「中央軍」がどうかを検査しました。私は人に文書を書き写してやる「代書屋」でしたが、やはりとても恐い気持ちでした。私は芝坤を人込みの中に押しやって、いち早く駆け出しましたが、日本兵に見られ、後頭部に狙いをつけられ一太刀やられました。途端に、首が血だらけになり、ネクタイがびっしょりになりました。私は死んだ振りをして腹ばいとなり、日本兵が一蹴りしましたが、私が動かないのを見て行ってしまいました。やがて弟と別の米を買ってた隣の人とが私を抱えて家に帰らせ、香炉の灰を傷口に塗って血を止めてくれました。その後、私は「仁○」で横たわって静養し、弟に世話してもらいました。今も後頭部の傷痕ははっきり見え、凸型になっていて、長さ2ミリ半です。
 前の妻の蔡芙蓉は、その頃23歳で、日本兵に引っ張られました。岳父があちこち人に頼んで、蒼義成という通訳を見つけて方法を考えてもらい、一月近くしてやっと娘を帰らせてもらいました。(徐朝春と董明征が記録) ○は漢字に変換できない字

 
憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

女性たちが

平和をつくる世界


ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
 この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
 国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。

 
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月23日火曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

3、1941年に湖南常徳で実施した細菌戦

 常徳は中国湖南省にあり、ここは四省の相接地であることから重要な交通要地である。抗日戦争時代は中国の重要な糧食備蓄基地であった。その重要な役割の破壊と食糧の供給阻止のため、731部隊は日本関東軍司令部から「中国軍隊占領下の重要中枢区常徳及び鉄道道路沿線地区を破壊すべし」との命令に基づき、第2次遠征隊を派遣した。第2部部長太田澄大佐が100人以上の部下を率いて、1941年の年始と年末の2回にわたり常徳地区で、大量のペスト菌で汚染されたノミ、米、綿を空中投下したため、常徳県県庁所在地及びその郊外農村でペスト病の大規模な流行を引き起こした。

《井本熊男日記》の731部隊による常徳作戦から:以下は大意

 11月4日、目的地は天気良好との知らせを受け、増田美保少佐が97式小型爆撃機を操縦し。5:30出発。6:50に目的地上空に到達。濃霧のため、飛行高度を下げて投下地点探索。地上800メートルの上空で群雲発生したため、1000メートル以下の投下を決定。(投下中に投下物を入れた箱が十分開かなかったため、最後は投下物を洞庭湖に投下。投下物はペスト・ノミ36kgとその他の予定穀物。)
 11月6日、常徳付近にて中毒事件発生(日本軍の一飛行機が常徳付近で投下し、投下物に接触した人はいずれも強い中毒反応が起きた。)
 11月20日、ペストが大流行。各戦区で。衛生防疫材料を全面的に収集。


日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
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華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

沙官朝(男、77歳)の証言

(昨日の続き)日本兵が見るなり、後ろから追って来ました。私は人力車をひいていましたから、脚で走るのは速いし、大きな通り小さな横丁とよく知っていたしで、日本兵が力いっぱい追っても追い付かず、私に向けて発砲射撃してきて、一発が肩に当たりました。2人は満足したみたいで、かか大笑いして去って行きました。私は隣6人が腹ばいに地に倒れ、どれもこれも日本軍の蛮刀の下に惨死しているのを目にし、自分自身も又何太刀かと一発食らい、刀傷と銃傷とを受けて、悔やむ想いと急く想いとで、狂わんばかりに懸命に走り、人里離れた路を何本か近道し、木料市や小王府園一帯に沿って難民区までまっすぐ走って行きました。難民区に帰ってからは、傷口が痛くてたまらなく、妻が見るなり気をもんで、私に手を貸して鼓楼医院に連れて行き、医者が見て入院させてくれました。11日入院しましたが、寝ていたのは267号ベッドだったと覚えています。そこに寝泊りしていても平穏だったわけではないのは、日本軍がしょっちゅう医院に調べに来ようとするからでした。医者が私に、日本兵に刺されたと言っては駄目で、爆撃で受けた傷だと言うようにと、言い含めてくれました。果たせるかなある日の夕方日本兵が病院に来て、私の布団をまくって聞いてきたので、私は医者に言われていた通りに話したのですが、暗くなっててはっきり見えなかったこともあってか、うまくごまかすことができたのでした。傷口がだいぶよくなって、退院して家に帰り、中国の薬草で続けて治療し、長い時間かかって治り、傷口がやっと癒えてだんだん着いてくるようになり、やがて健康が回復しました。(戦国利と楊正元が記録)

 
憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

女性たちが

平和をつくる世界


 戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
 男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
 「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月22日月曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

2、1940年の浙江東部寧波など地区での細菌戦

1940年7月、「関東軍作戦命令丙字第659号」令に基づき、将官1名と士官39名からなる「奈良部隊」が臨時編成され、石井四郎自らが指揮を執り、浙江東部の寧波(ニンポー)地域に赴き細菌作戦を実施した。部隊は細菌戦用器材を携えて7月末に平房を出発。その事情をかつて日本大本営の参謀であった井本熊男が日記に記している。この日記は1959年に本人が戦史資料として日本防衛庁に寄付した。

《井本熊男日記》の731部隊による寧波、衢県作戦の記載(吉見義明/伊香俊哉『731部隊と天皇・陸軍中央』岩波書店):(以下、大意)
●8月16日、井本少佐自ら杭州に赴き、奈良部隊に伝令し、同時に具体的な攻撃目標の選択を始めた。
●9月10日、攻撃目標を捜し、最終的に寧波に決める。
●9月10日、最初の弾薬未到、やがて到達する見込み。この最初の弾薬運送中に、元のコレラ菌が腸チフス菌に替えられる。




●1940年の9月18日から10月7日にかけて、日本軍は浙江省で6回にわたって細菌攻撃を実施した。それは主に細菌液とペスト菌に感染したノミが使用され、寧波市開明街の上空からノミを混ぜた小麦と粟を投下し、寧波の軍民たちに感染・到病させ、死亡数は100人を超えた。このため開明街一帯は閉鎖され焼壊された。その後20世紀の60年代半ばまで、ここには住民はなく、当時kの通りは「ペスト通り」と呼ばれた。
●1940年10月4日、日本軍は同手段で衢州県にノミの付いた小麦と粟などを散布した。検査の結果、このノミは「ペスト・ノミ」と判明された。散布したから38日後、衢州県ではペスト感染者が22人に達し、全員亡くなった。
●1941年9月、義烏市(旧称義烏県)から流行り始めたペスト病は日本軍が前の年衢州に投下したペスト菌感染が原因である。1943年まで、ペスト病はこの周辺地区での流行病となっていた。


日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
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南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

沙官朝(男、77歳)の証言

 1937年に日本軍が南京を占領し、人民は塗炭の苦しみの内に置かれ、無数の同胞が殺害されましたが、私がその生き残りです。
 抗戦したあの年は、私は30歳で、もう家庭を持っていて、子供が2人いました。私は人力車をひいて生活していました。日本軍が南京を占領した時、私たちはもう家中で東関○から沈家巷13号の難民区へ避難しに引き移っていました。何日かして、持っていた食料を食べ尽くしてしまったので、その日の午後3時に、私たちは隣の6人(銅細工師匠の李さんの息子に、韓というのに、栄というのに、向かいの範というの等、年齢がみんな同じくらいでした)を誘って、食料を探しに一緒に家に帰りました。○子橋の泥馬巷の角まで来たら、日本兵4,5人と出くわし、みんな年が若く力が強いと見るや、殴りつけ刺し殺し、私と一緒に行った6人の内で、あっという間に3人が銃剣で刺し殺されました。私はおったまげて、いち早く駆け出しましたが、たちまち日本兵2人に捕まってしまい、その1人が銃剣を腹をめがけて一太刀くれて来たのが、私が衣服をたくさん着ていたのと、ちょっと身をかわしたのとで、剣の先がそれて、左の腹から入って右の腹へ突き出ました。続いてすぐ、日本兵は又私の腰を一太刀刺しました。それに私の後ろに立っていた日本兵が、後ろから又一太刀刺しました。このもろに骨に刺さって来たのを、私はすぐさま歯を食いしばって抜き取り投げすて、痛みをこらえて前へ前へと飛ぶように走り、道に血がずうっと流れました。(明日に続く)
○・・・漢字変換できない字

憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

基地をなくして緑と海を取りもどしてい世界

基地をなくして、緑や美しい海を取りもどし、きれいな空気がよみがえる。それが、人々にとっての本当の「平和」ではないでしょうか。
それは、人々が「平和に生きる権利」を確保することでもあります。

 フィリピンでは、1992年、国民的な運動の結果、米軍基地はなくなりました。韓国ではピョンテクという場所に新たな米軍基地がつくられようとしている事に対して、人々は反対運動を続けています。
 沖縄では「もう基地はいらない。美しい海を守りたい」と、辺野古での新しいヘリポート建設に反対する人たちが活動しています。自分たちの土地がイラクやアフガニスタンを攻撃する拠点として使われることに黙っていられないと、世界の人々は立ち上がっているのです。
 かつて日本やアメリカに占領されてきた歴史をもつミクロネシアの憲法は、その前文で、次のようにうたっています。
「ミクロネシアの歴史は、人々がイカダやカヌーで海を旅したときから始まった。私たちの祖先は、先住民を押しのけてここに住んだのではない。ここに住んでいる私たちは、この地以外に移ろうとは望まない。私たちは、戦争を知るがゆえに平和を願い、分断された過去があるがゆえに統一を望む」 


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月21日日曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

1、1939年のノモンハン戦争

ソ連の極東地区に侵入し「北進計画」を実現させるため、日本関東軍はモンゴル東部のハルハ河地区を踏み台とするため、日本の皇族閑院宮載仁大将が自ら指揮を執り、1939年5月4日より攻撃をかけた。しかし、ソ連軍のジューコフ将軍の率いる部隊の支援があって、日本関東軍は敗戦を繰り返した。敗勢挽回のため、1939年6月に731部隊は「防疫給水部」という名称で中国モンゴル国境でノモンハン戦争に参加し、自分たちが開発したコレラ、腸チフス、赤痢などの細菌を初めて戦場に投入した。石井四郎はこのために1、毒物爆弾によるソ連陣地砲撃2、飛行機による陶器爆弾の投下3、決死隊を敵後方に侵入させ、水源への細菌投入という3つの細菌作戦計画を立てていた。最終的には碇常重少佐が決死隊を率いて細菌のハラハ河投入を決めている。これが731部隊の設立以来細菌を実戦に用いた最初の戦例である。


日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
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731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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根津公子さんのページ
  

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

朱錫生(男、74歳)の証言

(昨日の続き)そこで、痛みを堪えて難民所の方へ走って行きました。街中死体で満ち満ちていて、道々ずっとつまずいたりはったりしながら、やっとのことで元々住んでいた所に手探りでたどり着きました。私のその様子を見て、父はびっくりし、難民所の人たちも私にそこに座り込まさずに、何人かの親切な隣人の助けを得て、香木で灰をこしらえ傷口に塗ってくれた上、夜が明ける前にと、夜を徹してかなり辺鄙な所の草葺のボロ小屋まで私を背負って行って休ませてくれました。それからは、父が1人で私に付いていてくれるしかありませんでした。食べる物が無く、3,4日飢え続けて、まったくどうしようもなくなり、父は又も危険を冒して私を家に連れ帰るしかなかったのですが、幸い周りにまだ何人か生きている隣人がいて、その人たちに食べる物を乞うたりして命をつなぎました。陽暦の正月が近づいた頃、その日は雪でしたが、革靴の響きが聞こえたかと思ったら、日本軍が家に入って来て、私が眠っているのを見るや、肩を引っ張り上げて、腕時計をしていないかどうかを見、腕時計は無かったのですが、首に傷のあるのを見つけ、直ぐに私を捕まえ細かく取り調べ追求してきました。その時は、日本兵に斬られたとはとても言えずに、手まねをしながら、口で「ドカーン」とか「バーン」とか音を出したりして、日本の飛行機に爆撃された時に受けた傷なのだと説明し、そんな風に何とか又1つ関門を逃げ延びようと、だましてやったのです。そのあと隣の人が鼓楼病院へ行って傷を直すよう勧めてくれたのですが、私は敢えて行きませんでした。家に隠れて3ヶ月余り、だいたい百日くらい寝ていて、傷も少しずつよくなり、やっと起き上がって動けるようになりました。今でも首の後ろに幅3,4寸の傷痕が残っています。
私がこんな大変な目に遭ったために、父がおびえたり、あせったりして、根っから生真面目な年寄りだったのが、間もなくしてぼけてしまい、明くる年の9月になって、死んでしまいました。私も体に傷を持ち、仕事をするのが難しくて、生活に響き、ずっとぐずぐずして31歳になってやっと家庭を持ちました。私のこの間の苦しかった経歴については、家の周りの人たちや私がいた廃品回収の会社で働いてる連中はみんな知っています。解放後は、共産党のお陰で、私は生活が安定し、今は年をとり隠退して家におりもう4年余りになりますが、毎月会社からの労働保険金をもらっています。連れ合いは2年前に病気で死んだので、今は娘や婿たちと一緒に生活し、その子供たちの面倒を見たり、家のことをしたりしていて、晩年はまあまあの生活です。(劉玉銀と楊正元などが記録)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

基地をなくして緑と海を取りもどしてい世界

 戦争は最大の環境破壊です。油田が燃やされ、爆破された工場は有毒物質を垂れ流し、ときには「劣化ウラン弾」(放射性物質の兵器)が使用され、周辺の環境を何世代にもわたり破壊します。しかし、環境に深刻な影響をもたらすのは、実際の戦争だけではありません。 世界中に、戦争に備えるための軍事基地がつくられています。アメリカは、40カ国700ヵ所以上に軍事基地をもち、世界規模で戦争の準備をしています。日本にもたくさんの基地があります。 基地の周りでは、兵士による犯罪が大きな問題になっています。基地周辺の女性が暴力にあう事件が頻繁に起きています。ひどい騒音もあります。 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料が垂れ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人々の暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押し付ける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人々の精神や心理さえもむしばまれてきました。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月20日土曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟

主な細菌戦

731部隊による細菌戦
 ノモンハン細菌戦寧波細菌戦常徳細菌戦浙贛細菌戦
作戦期間1939年8月1940年7月~12月1941年11月1942年7月~8月
作戦地点ノモンハン杭州ー寧波(にんぽー)南昌杭州金華
参加人数200人100人40~50人160人
現場指揮官石井四郎大佐石井四郎大佐太田澄大佐石井四郎少将
碇常重大佐太田澄大佐碇常重大佐村上隆中佐
使用細菌腸チフス菌ペスト菌ペスト菌ペスト菌、腸チフス菌
 腸チフス菌 パラチフス菌、コレラ菌
 コレラ菌 炭疽菌
投与法河に投入高空投下高空投下高空投下
731部隊は遠征隊を常に派遣し、各部隊に協力し侵略戦争に参加していた。


日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
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「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

朱錫生(男、74歳)の証言

 私の生まれた家は安徽省(あんきしょう)の寿県で、ちょうど満1歳の時に母が死にました。民国20年くらいかに、生家では生活していけなくて、父が私を連れて南京にやって来たのですが、父は天秤棒で大きなかごを担いで廃品を回収したり、その廃品を売ったりし、私はそれについて歩いてくずやぼろを集め、何とか暮らしを立てていました。
 民国26年(1937年)には、私は22歳でした。日本兵が南京を攻めに来て、陰暦の冬月11日に入って来たのでした。入ってくる前に、私は父と一緒に難民所に行きましたが、そこはそのころ福音堂と呼ばれた所で、今の19中学です。何日もしないある日の午後4時くらいでしたか、日本兵が人を捕まえにやって来たので、私は病気の振りをして地べたに横たわり、布団をかぶっていて、難民所の証明の紙を取り出して見せましたが、日本兵は見もしないで破り捨てました。私を入れて3人捕まりましたが、他の2人は知らない人でした。捕まってから、日本兵は私たち3人を河岸の方へ連れて行き、河岸まで来た時に、その2人は日本兵に刀で斬り殺されました。1人の日本兵が私を斬ろうとするので、私は家に80過ぎの年寄りがいて私に頼って生きているので・・・などと哀願したのですが、聞いてもわからないと思い、手まねを加えて、老人のひげが長くて長くて、などとやったりしたのです。そこへ、不意に又3人日本兵がやって来て、まだ私にははっきりとは見えない内に、その内の1人に後ろから刀で首の後ろを斬り付けられ、ばったり地に倒れました。その時そうだと思い付き、着ていたのが破れたオーバーだったので、歯でしっかり衿をかんだまま、息が口から漏れないようにし、既に斬り殺された振りをしました。何分かたって、日本兵が脚で私を何度もけりましたが、死を装ったまま動かないでいたら、「スーラスーラトィ(死了死了的=死んじまえ、しんでしまえ)」と言うのが聞こえ行ってしまいました。それがもう夕方5時くらいになっており、暗くもなって来ていて、痛くてたまらなく、着物が何処も血でべとべとでした。暗くもなり、日本軍の行ってしまったら、すぐに逃げ出してやろうと思いました。(明日に続く)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

武器を使わせない世界

核兵器を全面禁止することこそ必要です。世界のNGOは、「核兵器禁止条約」をつくることを提案しており、国連で交渉を始めることを呼びかけています。
 生物・化学兵器は、国際条約ですでに全面禁止されています。もちろん禁止しても、隠れて開発する国や人々が出てくる可能性はあります。その時には国際機関が査察を行い、科学技術を用いて調査し、法に従って解決すべきです。

 ノルウェーは2006年、地雷や核兵器といった非人道兵器を製造している企業に対しては、国の石油基金からの投資を止めることを決めました。日本は、「核兵器をつくらない」「もたない」「もちこませない」という「非核三原則」をもっています。
 原爆を投下された日本は、「やり返す(報復)」のではなく「この苦しみを誰にも繰り返させたくない。だから核兵器を廃絶しよう」という道を選びました。私たちは、この考え方をさらに強化して、世界に先駆けた行動をとることができるはずです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月19日金曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

5、細菌兵器を実戦に

大規模な細菌戦実施は、731部隊の細菌の研究と生産の目的である。1939年、731部隊はノモンハン戦争で細菌兵器を使用し、その後、1940年に浙江省(せっこうしょう)の寧波地域、1941年に湖南の常徳地域、1942年には浙贛鉄道沿線など地域にて、日本軍の侵攻戦に呼応して細菌攻撃を行い、多くの罪無き庶民に被害を与えた。その他、南京1644部隊(細菌戦部隊)の協力の下に、日本軍華北方面軍第12軍は1943年の8月から10月にかけて山東省西部衛河流域で「方面軍第12軍18秋魯西作戦」と呼ばれる細菌戦を実施した。第二次世界大戦終了後、この細菌戦に参加した当時日本軍第12軍軍医部長だった川島清を含む多くの戦争捕虜の自白と中国側の計算によれば、魯西の聊城、臨清を含む18の県だけで少なくとも20万人がこの細菌戦で惨死している。これら細菌戦に参加し、なおも生きている一部者どもは、その罪状を否定しているが、被害地域に健在する被害者たちは弁護士の協力の下に日本政府に訴訟を起こしている。

細菌戦訴訟



日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 長江北岸の浦口での集団虐殺

翁錫栄(男、73歳)の証言

 1937年は、私は25歳で、家は卸甲甸でした。1937年の12月末から翌年1月にかけてのある日、私は呉修葉や翁錫華など何人もと浦口(旧の江口)の油倉庫まで油を弄(まさぐ)りに行きました。油を弄りに行く道で蒋窪楊荘の楊春華のお父さんとお兄さんにも出くわしました。その日の夜およそ12時頃に、私たち油倉庫に着きました。油をやる人がいっぱいで、私たちすぐにはぐれてしまいました。私が油倉庫の方へ行って、油を弄ろうとした時に、突然日本軍が2人倉庫から出て来ました。私は日本軍に見つかって、ひざまずかせられ、私と同時にひざまずいたのに私の知らない小さい男の子が1人いました。日本軍がすぐに銃剣で私を刺しに来ましたが、初めの2太刀とも私はかわせました。3太刀目を刺して来た時、私は片方の手で銃剣を強くつかんで押し返してやりました。私はその頃力があったので、すぐに立ち上がり逃げてしまいました。その小さな子がどうなったか、後になっても分かりませんでした。そこから遠くない小さな河の北側にあった学校まで走って行ってその傍らに隠れたら、すぐに機関銃の音が聞こえました。学校の近くにしばらく隠れていてから、私は1人で手探り歩き始め、黄橘洲の芦の薪の堆があるところまでずっと手探りで行き、明くる日の朝になってやっと帰ってきたのでして、もうちょっとで私も命を亡くすところでした。帰ってきて何日も眠りずっとご飯を食べられなかったほどに恐かったですが、後になって、楊春華のお父さんもお兄さんも日本軍に撃ち殺され、長江に押し入れられて行ったと、誰かが言っているのを聞きました。(呉大興と章歩錦が記録)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

武器を使わせない世界

 世界中の兵器をいっぺんになくすことはできません。それでも人類は、二つの世界大戦を通じて国際法をつくり、残酷で非人道的な兵器の禁止を定めてきました。
 たとえば、地雷は、踏むと反応する爆弾で、人を殺さず手や足だけ奪う兵器です。NGOが運動を起こし、カナダ政府と協力して、1997年に「対人地雷全面禁止条約」を実現しました(オタワ条約)。
 また『クラスター爆弾」は、爆発すると周辺一帯に大量の「小さい爆弾」が飛び散るようにつくられた爆弾です。あたり一帯に不発弾が残り、地雷と同じ働きをします。クラスター爆弾も全面的に禁止するべきだと、ノルウェー政府とNGOが動き始めています。

 広島と長崎に落とされた2発の原爆は、瞬時に20万人の命を奪いました。被爆者たちは、60年以上たった今も、放射能によって健康をむしばまれています。
 このような核兵器が、世界に26,000発もあります。その大部分はアメリカとロシアのものです。核保有国は「自分たちの核兵器は許されるが、ほかの国が核兵器をもつのは許さない」と言います。アメリカは自ら核兵器の強化を図っているのに、イランや北朝鮮の核開発には制裁を課し、イラクに対しては「核疑惑」を理由に戦争を始めました。
 いわば「タバコをくわえながら『みんなタバコをやめろ』といっているようなもの」(エルバラダイ国際原子力機関事務局長、ノーベル平和賞受賞者)です。自分たちの核はいいのだと大国が言い続けている限り、ほかの国々もそれに続こうとするでしょう。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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2009年6月18日木曜日

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

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「日の丸」・「君が代」反対!!

●民主党の相原久美子議員が平頂山事件の現場に行き、国会議員24人の署名のある謝罪状を手渡しました。中国通信社の記事
●国家的犯罪:731部隊の実験で亡くなった多くの方々に対して、日本は謝罪も補償もしていない。犠牲者のご遺族の精神的ショックはいかほどのものか?大変なものだろう!!
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊の足跡

中国侵略日本軍第731部隊罪証陳列館 編纂
『中国侵略日本軍第731部隊』(日本語版)より

4、細菌兵器の研究開発

14世紀半ば、ペスト病が欧亜大陸を襲い、ヨーロッパでは4分の1近い人口の命が奪われた。そのため、細菌兵器の危険性は国際社会に広く知られ、ペスト菌を主剤とした細菌兵器の開発と生産は硬く禁じられていた。ヨーロッパ訪問後の石井四郎はこの事情を知っていたものの、彼の率いる731部隊はその禁令を破って細菌兵器の開発を続けた。彼は日本医学界の有能な学者を集めては細菌兵器の研究に従事させ、ペスト、コレラ、腸チフス、炭疽などの病菌を細密に研究し大量繁殖させた上、ペストウィルスを感染させたノミを用いて細菌戦を数多く行った。その他、ウィルスを持つ陶器爆弾など細菌使用兵器の設計にかかった。1940年、細菌の保存とその殺傷力増強のため、731部隊は粉末状の細菌の大量生産をはじめ、粉末状の炭疽菌とペスト菌を相次いで開発した。

3、防疫体系

731部隊は細菌の研究開発と同時に、部隊自身の防疫に十分注意していた。日本の作家森村誠一氏は《悪魔の飽食》で、細菌製造班の隊員は、「まず更衣し、必ず‘入浴’してから職場に出勤した。更衣室で裸になり、白い作業服にガーゼ7~8枚を重ねたマスクをかけ白帽をつけ、ゴム製の前掛けを首から足首上まで当て、ひざ下まであるゴム長靴をはく。ゴムの手袋をはめて特別製のメガネをかけると完全装備になる。この姿で浴場に入るのである。浅い浴槽には石炭酸液が張ってある。消毒液の中をざぶざぶと歩いていくと、浴槽を渡り終えたところで、ひざから下が無菌状態となる。消毒の川であった」と書いている。
 濾水車、濾水器、濾水機は野外での細菌作戦のときに、本部隊兵士たちが細菌に感染されることを防ぐための浄水用道具である。また、731部隊は「超音波」によるワクチン生産を研究し、この技術をワクチンの生産作業に応用した。石井四郎は日本の超音波技術の著名専門家渡辺博士を731部隊に呼び寄せ、この技術の研究を強要した。しかし渡辺博士は生物戦争における医学技術の応用に終始反対し、のちに不審な交通事故で死亡している。



日本軍細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   516部隊

   731部隊

  
  731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  化学兵器CAREみらい基金ブログ

  大久野島(毒ガス島)

  中国人戦争被害者の要求を支える会

  中帰連

  ハイナンネット
 
  南京への道:史実を守る会

  根津公子さんのページ
  

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺

 長江北岸の浦口での集団虐殺

張福龍(男、65歳)の証言

(昨日の続き)もうじき私の番になる、という時に、どうせ死ぬに決まっているのなら、日本兵1人を道ずれにしてやる方法を考えねば、と思いました。小高い所まで行った時に、私が左手を伸ばしたら、すぐに日本軍のもう1人に見つかって、たちまち私を刺しにきて、長江に押し落とされてしまいました。私は小さいときから堤防で囲まれた水地帯で育ったので、水には割りに強く、水中で懸命に振り切って逃げようとしたら、間もなく縄が振り切れたので、水にもぐって、急な流れに任せて東へ泳ぎ、およそ7,8分後に、七里洲に泳ぎ着きました。その頃の七里洲は今よりずっと大きくて、今の南京長江大橋の下も洲になっていました。私は七里洲でおよそ2時間余り休んで、浦口埠頭の明かりが消え、銃声が響かなくなってから、又水に入って向こう岸の橘子洲(今の南京鋼鉄廠の近く、今はもう田畑になっている)の方へ泳いで行きました。長江の水は死んだ人の血で真っ赤に染められ、水の面には死人がびっしり隙間なく浮かんで下流へと漂って行くので、私は死んだ人の体のその又上を泳いで行くしかありませんでした。岸に上がった時は東の方がもう白んでいました。橘子洲は至る所死人ばかりで、脚を降ろす処が無く、地面には百近い支柱で支えた芦葦の堆もありましたが、私が十余りずうっと見て行った芦葦の堆の中には、みんな死人がいて、私はある堆の中に潜り込んで死人と一緒に眠るしかありませんでした。その時は疲れたのか、それとも気を失ったのかも分からずに、太陽が今にも山に沈もうとする頃までずうっと眠ってやっと目が覚めたのでした。私は父が岸辺の畠で仮住まいしている所まで走って行き、まだ小屋に入らない内から、父が上の兄に私を連れ出すべきではなかったと責め立てているのが聞こえていたのですが、2人が私を一目見るなり首を抱いて大泣きし出したというのに、私は気を失ってしまって、何も分からなかったのでした。目が覚めたら、既に上の兄が家にいたのです。その時に初めて分かったですが、長江に押し落とされた時にぶつかって歯が4本折れ、首が竹の大駕籠のように腫れ、右腕の中ほどが奥まで刺されていて、傷口のところが水ぶくれし肉までめくれてぐしゃぐしゃになってきていたりし、今になっても傷痕があります。上の兄の家で一ヶ月余りほど休んでから、傷口がだんだん好くなって来ました。
 この惨憺たる事件は40年余り経ったのですが、その血の教訓は私たちは終生忘れることができません。青少年たちにも常にこの歴史を話してやって、言うのですが、人が窮すると至る所で侮辱され、国家が窮すると普通の人々が災禍に見舞われます。どうしても今日の幸せな生活を大事にし、奮起一番学習に努め、仕事に励み、「4つの現代化」に貢献しなければなりません。(呉大興と謝興栄が記録)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より


おたがいに戦争しないと

約束した世界


地球規模では、世界各国では軍隊を減らす一方、国連に「緊急平和部隊」をつくり、紛争や人権侵害を防止しようという提案がなされています。また、イタリア憲法11条は、日本国憲法9条と同様に「戦争の放棄」をうたっていますが、そこには「国どうしの平和的関係のためには、国の主権が制限される場合もある」と定められています。つまり、国際的なルールや制度によって平和を保つ事が重要であり、「自国を守るため」といって勝手な行動をとることは許されないということです。
 グローバル化の時代、人々は国境を越えて行き来し、経済や社会はつながりあっています。安全を自国の軍事力で守ろうとすることよりも、国どうしで約束をつくり、国際的に平和のシステムをつくることの方が、現実的に必要とされてきているのです。



第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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