2025年5月9日金曜日

核・戦争のない世界!!

 














1894年  日清戦争

1904年  日露戦争 

1907年  「ハーグ条約」(毒ガス使用禁止)

1914年~18年  第1次世界大戦(毒ガス大量使用100万人死傷)

1918年  シベリア出兵 大量の防毒マスクと毒ガスをシベリアへに送る、陸軍省に臨時毒ガス調査委員会を設置

1919年  陸軍科学研究所設立  化学戦の研究に着手

1925年 「ジュネーブ毒ガス議定書」調印 (毒ガス・細菌兵器の戦争使用禁止)、

    宇垣軍縮 軍備近代化のための毒ガス兵器の促進 

1929年 大久野島にて毒ガスの生産開始 

1930年 台湾湾霧社事件 霧社事件弾圧に日本軍初めて毒ガス使用

1931年 満州事変 

1933年 陸軍習志野学校創設(毒ガス戦訓練開始)、関東軍防疫班創設(731部隊の前身)

1935年~36年  イタリア軍エチオピア侵略で毒ガス攻撃

1936年 2.26事件 陸軍毒ガス準備

1937年 日中全面戦争を開始 大本営陸軍部 催涙ガスの使用許可

1938年 731部隊ハルピンに細菌工場を建設  大本営陸軍部 くしゃみ性毒ガスの使用許可 

1939年 同大本営陸軍部致死性毒ガスの使用許可、関東軍化学部チチハルに創設、曽根兵器製造所(毒ガス弾の充填)創設 

1941年 アジア太平洋戦争開始 

1943年 相模海軍工廠(寒川)にて毒ガスの生産開始 

1944年 大本営陸軍部毒ガスの使用中止命令

1945年 日本敗戦 中国全土及び日本各地で日本軍の毒ガス大量投棄  

1946年 極東国際軍事裁判 日本軍の毒ガス。細菌戦は不起訴 

1950年~53年 朝鮮戦争

1964年 自衛隊化学学校サリンの合成に成功 

1965年 ベトナム戦争本格化(アメリカ軍枯葉作戦)

1969年 沖縄米軍知花弾薬貯蔵所で毒ガス漏洩事件 

1970年 日本国会「ジュネーブ毒ガス議定書」批准

1972年 「生物・毒素兵器の禁止条約」調印、日中国交回復 

1974年 中国黒竜江省ジャムス市、旧日本軍の毒ガス弾で35名重軽傷 

1980年~88年 イラン・イラク戦争(イラク軍毒ガス使用)

1984年 旧日本軍の毒ガス戦関係公式文書相次ぎ発掘 

1990年 国連軍縮会議で中国代表、日本に対し遺棄毒ガス兵器の廃棄処理を要求 

1993年 「化学兵器禁止条約」締結 (他国に遺棄した化学兵器の廃棄義務も明記)

1995年 東京地下鉄サリン事件、日本政府調査団、中国各地で日本軍の遺棄毒ガス兵器の確認、

日本国会「化学兵器禁止条約」批准

1997年4月29日 「化学兵器禁止条約」発効、日本政府、中国の遺棄化学兵器の処理を開始

2025年3月19日  東京地裁判決 自衛隊「化学学校記事」の開示を却下 

2025年現在 遺棄化学兵器の処理事業は終わっていない


1931年45年の間中国では2091回の日本軍の毒ガス使用が確認され9万4000人の死傷者を出したと中国資料は伝えている

1945年以降中国の遺棄毒ガスによる被害者は2000人以上と推定されている




















































           記念碑に刻まれた弔文
 1942年「5・27」は1000を越える英雄たちの血が塗り込まれた1日だった 「5・27」それは偉大な民族解放戦争が敵と相対峙した最中の最も過酷な悲惨な1日だった。群をなして人を襲った野獣―日本侵略者とその走狗は冀中の長期的統治を狙い、華北を統治し、トーチカを構築し、民衆に向かって血も凍る虐殺を展開した。定県の民族的愛国者―優秀な中国共産党員と、勇敢なる戦闘指導者、民兵、農民はまさにこの日、民族の不滅をかけて、獣どもと―日本鬼子と頑強に戦い、栄光的な死を遂げた。
 私たちは「5・27」の惨状を永遠に忘れない。多くの乳飲み子が母とともに虐殺された。烈士の鮮血で赤く染められた 黄土には、800の死者が横たわり、北坦の道々は埋まった。子らは親を求め、父母は子を探し、止めどもない涙でどの目を真っ赤になった。恨みと傷心の日―「5・27」誰がこの日を忘れられようか
 親愛なる死者たちよ、あなたたちは、民族の自由と解放のために、日本侵略者による壊滅的な「蚕食掃蕩」を粉砕するため、私たちの故郷を守るため、勇敢にも武器を持って立ち上がった。―手製の銃、手製の砲、手榴弾、地雷で百倍も勝る機関銃、大砲、戦車、毒ガス・・・を持つ敵と相対し、郊外で、屋上で、街路で、地道で戦った。銃弾の中、毒ガスが蔓延する中、1日と休まず激しく頑強に抵抗し、幾度となく敵の猛襲を撃退し、多くの敵軍と裏切り者を撃退、冀中の輝しい戦いとして名を轟かせた。もはやあなたたちは私たちと離別したが、あなたたちの精神は永遠に伝わり、あなたたちの名は永遠に残る。
 不朽なる英雄たち、あなたたちの流した血は決して無駄ではなかった。あなたたちの血と生命は、ついに抗日戦争に最後の勝利をもたらし、私たちは勝利であなたたちを埋葬することができた。烈士の皆さん、永久の安息を迎えてください!私たちは必ずあなた方の血の跡を踏みしめ、あなた方が成し遂げられなかった事業を引き継ぎ、独立と自由、民主、統一、富強なる新中国をあなた方英霊に呈します。私たちは永久にあなた方を忘れぬよう、特にここ沙河南岸の根拠地―北坦に記念堂を築き、千古にわたり追悼します。

「5・27」殉難烈士長存!
中国共産党万歳!
中華民族解放万歳!
殉難烈士万歳!
                       中華民国35年(1947年)孟夏中浣建立


戦後の遺棄毒ガスの被害者

日中未来平和基金

特定非営利活動法人 日中未来平和基金とは
 旧日本軍が中国各地に遺棄した毒ガス弾などにより、今なお中国国内において重篤な健康被害によって苦しんでいる被害者の医療支援を進めるために、日中両国の民間団体が協力して設立された基金です。
 私たちは、日本の市民と中国の市民、日本の医師と中国の医師との協働によって、遺棄化学兵器被害者への医療支援や精神的サポート活動などを行っていきます。
■組織概要
 名 称
特定非営利活動法人 化学兵器被害者支援日中未来平和基金​
英語名
The Japan-China Cooperative Fund for Victims of Chemical Weapons
設立年月日
2016 年 10 月 20 日
事業年度
毎年 4 年 1 日から翌年 3 年 31 日
代表理事
渡邉 知行
■事務局
住 所
〒 160-0022
東京都新宿区新宿1-6-5シガラキビル9階
URL

特定非営利活動法人
化学兵器被害者支援日中未来平和基金
設立趣旨書
 
◆遺棄化学兵器(毒ガス)被害問題とは
​ 中国の大地には、いまなお、旧日本軍が遺棄した数多くの化学兵器がねむっています。
  先の大戦において、旧日本軍は、国際法上その使用が禁止されていた化学兵器を中国に大量に持ち込んだ上、戦場に配備し、使用しました。
それら大量の化学兵器は、日本敗戦前後の時期に、地面に埋められたり河川に投棄されるなどして、組織的に遺棄されました。これが、中国国内に、大量の遺棄化学兵器が存在することとなった所以です。遺棄された大量の化学兵器は、戦後、化学兵器であることを知らずに触れるなどした数多くの中国の人々に、計り知れない被害を与えてきました。化学兵器被害は、皮膚のびらんをはじめ、呼吸器・内臓・神経など全身に症状が及びます。たとえ一命を取り留めても、時を経て疾患の進行や遅発性の症状が現れ、その結果、被害者たちは、健康被害のみならず、働けずに困窮生活に苦しみ、あるいは就学できずに将来の夢を失うといった、全人生にわたる被害を受けています。
◆これまでの活動の経緯
​「失われた命や健康はもとに戻せない、でも、せめて安心して医療を受けられるように、生活の支援をしてほしい」・・私たちはそんな被害者たちの願いを受けて、1996年以降、日本政府を被告として、複数の訴訟に取り組んできました。訴訟の目的は、司法の場で日本政府の法的責任を明らかにし、日本政府に、被害者たちの医療支援・生活支援のための制度をつくることを促すことにありました。
  そして、化学兵器にばく露して発症している疾患を早期に発見し、その被害を解明するため、私たちは、日本の医師らの協力を得つつ、中国の医療機関を利用しての日中合同検診を、複数回実施してきました。
  しかしながら、私たちは、このような活動に取り組む一方で、被害者たちの健康状態や生活実態が、時を重ねるに従って悪化している現実を目の当たりにしてきました。
  被害者たちは、生活苦のため適切な治療を受けることができません。癌などの病気を発病しながら十分な治療を受けられずに命を落とす被害者たちは後を絶ちません。
  そのような被害者たちに、今までの検診活動にとどまらず、一刻も早く、具体的な医療支援・生活支援を行うことが必要です。
◆私たちが行うこと
 中国では、2015年8月14日、中国人権発展基金会という民間の基金と日本の民間団体とが協力し、すでに遺棄化学兵器被害者に医療支援を行う旧日本軍細菌化学兵器被害者救済基金が設立されています。
 私たちは、この基金と協力し、日本の市民と中国の市民、日本の医師と中国の医師との協働によって、遺棄化学兵器被害者の救済のため、以下の活動を行っていきます。
1.遺棄化学兵器被害者への医療支援
 これまでの検診活動の知見を踏まえて、中国の医師と日本の医師が協働して被害者を治療し、被害者の症状を和らげる医療支援活動を行います。また、被害者が常時服用している薬の費用を、中国の旧日本軍細菌化学兵器被害者救済基金を通じて援助します。
2.日中双方の市民による遺棄化学兵器被害者への精神的な支援
​社会的に孤立した被害者たちに、日中双方の市民との交流の場を作り、「私は一人じゃない」という思いを持ってもらえるよう、精神的な支援を行います。
3.広報活動
​旧日本軍の遺棄化学兵器による被害について、実態を市民に広く知らせるため、講演などの広報活動を行っていきます。
4.遺棄毒ガス兵器被害者の研究支援及び被害者支援のための政策提言
 いまだ全体像が把握されていない化学兵器による身体的被害の全体像を解明するための医学研究を支援していきます。また、事業を通じて、遺棄化学兵器被害者に対してどのような支援が必要かを見いだし、遺棄化学兵器被害者支援のための政策を提案していきます。
◆特定非営利活動法人へ
 私たちの活動が社会的に広く信頼されるように、また、志を同じくする人々に開かれた団体として認知してもらえるように、さらには、法人格を持つ団体として上記に掲げた各種事業を行うことができるように、この度私たちは、特定非営利活動法人(NPO)を設立することとしました。私たちは、NPO法人化を機に、ますます充実した活動を継続的に行っていきます。
◆日中間の民間交流
 私たちは、日中の医師と市民が協力し合って日中の遺棄毒ガス被害者を支援し、日中の市民が直接交流することにより、双方が信頼し合い、日中関係がさらに良くなることを目指しています。

以上
2016年3月2日
設立代表者   南 典男


遺棄毒ガスによる被害
被害の症状
 これらの遺棄毒ガス兵器の存在は明るみに出ることがないまま、戦後、化学兵器であることを知らずに触れたり、晒されたりした多くの中国と日本の人々に甚大な被害を与え続けています。化学兵器による被害は、皮膚の糜爛(びらん)をはじめ、呼吸器・消化器・神経など全身に症状が及びます。
 呼吸器障害などの症状は、時間の経過とともに悪化していること、さらに後発的な健康被害として、発ガンのリスクも高くなることが指摘されています。そして、毒ガス被害者が最も苦しんでいる症状の一つに高次脳機能障害や自律神経障害などの神経障害があります。いつも体がとてもだるい、力が入らないなどの症状で働けなくなったり、学業を続けられないほどに至っています。しかし、こうした症状は外見からは分かりにくいため、怠けているなどと誤解され、孤立してしまうケースが多くみられます。
 たとえ一命を取り留めても、被害者たちは、こうした健康被害のみならず、友人や家族を失ったり、働けずに困窮生活を強いられたり、あるいは就学できずに将来の夢を失うといった、全人生にわたる被害を受けています。戦争の被害は、実は今も現在進行形として起こっているのです。

被害者の苦しみ
丁樹文さん / Ding Shu Wen
事故当時24歳。
202003年8月4日朝、チチハルの団地の工事現場から5つのドラム缶が掘り起こされました。ひとつは腐食していて、ひとつは壊れて液体がもれていました。工事現場からドラム缶が出たと連絡を受けた丁さんは、工事現場に赴き、この5つのドラム缶を廃品回収業者に売るために、ドラム缶を手でかかえて運びました。マスタードの臭いがしましたが、廃棄油かと思っていました。実はこれが、マスタードガスの入ったドラム缶だったのです。丁さんは、廃品回収業者であった李さんと出くわして、李さんに200元でこのドラム缶を売りました。李さんの三輪車にドラム缶を移しました。李さんは濡れたドラム缶を素手で触って濡れ、その手でお札も数えたので、丁さんが受け取ったお札も湿っていて、丁さんはそれをズボンのポケットにしまったので、太腿にも液が付きました。
ししかしお昼になると目の痛みや液がついた皮膚に紅発疹がいくつも現れ、みるみるうちに大きな水泡になりました。あまりの痛さに病院に行くと、医者は、感染症を防ぐために大きな水疱をハサミで切り開いて、たまった水を出しました。あまりの痛さに死んだ方がまし、と思うほどでした。その後、太腿の皮膚移植手術も受けましたが、大きな傷跡が残ってしまいました。あのドラム缶を受け取った李さんは、事故から17日後に亡くなりました。
3ケ月入院し、退院して妻子の下に帰ると、我が子はハイハイができるようになっていました。子どももの成長が唯一の救いでした。退院後も早く仕事につきたいと就職活動をしました。建築会社、ダンボールの会社などで働こうとしましたが、できませんでした。以前より注意力が散漫になり、記憶力も衰え、体力もなくなっていました。光の刺激に過敏になり、傷口も痛むなど仕事になりませんでした。仕事ができないとわかった時のつらさはなんともいえません。自分は役に立たない人間になったのか、と思ったり、家族の期待にも応えられない、というのはとてもつらいことでした。

牛海英さん / Niu Hai Ying       
事故当時26歳。
 当時、牛さんはチチハル市内の廃品回収業を経営していました。当時、夫と子どももいました。
2003年8月4日朝、市内の工事現場から出土したドラム缶が廃品回収所に持ち込まれました。ドラム缶を解体し、鉄として売ることになり、ドラム缶の解体作業が始まりました。中からカラシの匂いのする液体が出てきました。毒ガスだとは知りませんでした。作業所中にものすごい臭いが充満し、吐き気を催す程でした。
昼過ぎになり、作業をしていた従業員の李さんが早退し、病院に行きました。夕方になって、李さんの奥さんがやってきて「あなたも病院に行った方がよい」とすすめられ、病院に行きました。顔中に黒い斑点がいっぱいで、両足、股間、太ももにも腫れが出ていました。
1ヶ月たっても、腹のところで感染されたところがまだ腐っていて、完全に感染されたところを切り取ってしまう手術をしました。3ヶ月治療を受けて、やっと直って退院しました。でも、治癒して退院したのではありません。治療のしかたがなかったのです。
退院後も、近隣の人々も伝染の恐れがあると言われたり、軽蔑されたりしました。
 現在も体の不調は続きます。

李臣さん / Li Chen      
事故当時29歳

当時、李臣さんは、黒竜江省ジャムス市で黒竜江省航道局の職員として働いていました。
1974年10月20日真夜中の午前2時ごろ、松花江で浚渫作業をしていました。ジャムス市記念塔から200m上流の地点で吸泥ポンプがカンカンという音がして、メインエンジンが異常停止しました。船の上で機械管理をしていた李臣さんたちが修理にかけつけ、手動リフトでポンプのふたをあけると、ホンプの中から水があふれ出ました。その水は黒色でマスタードのような臭いがしました。李臣さんはこの黒い水につかってリフトのチェーンを手でつかんでふたをあけたため、体全体に黒色の液体をあびてしまいしまた。さらに李臣さんは黒い水が充満したポンプ内に手をいれ、中から金属製の物体をとりだしました。それは直径10cm、長さ5 0cmの砲弾でした。砲弾はさびついていて、頭部がつぶれて中から黒い液体が流れ出していました。この液体は23日に防疫センターの検査でイペリットとルイサイトの混合液であることがわかりました。日本軍の遺棄した毒ガス弾だったのです。紅旗09号事件です。
午前3時ごろから、めまい・吐き気・頭痛・呼吸困難・口の渇き・流涙などの症状がでてきました。黄色い液体を嘔吐し、手がかゆくなって、体の力がぬけてしまいました。ジャムス市の病院で手当をうけましたが病名はわかりませんでした。21日にはハルビン医科大学の病院に入院しました。入院時に両手の水疱はぶどうの房のようにはれあがり、頭の上にも鳥の巣のような水疱ができました。24日に瀋陽の病院に転院し、マスタードガス中毒症と診断されました。治療はびらんした部分 をきりとって消毒するという方法でとられました。しかし、皮膚がただれると指と指の間に水かき状の膜ができ癒着するようになりました。何年も入退院をくりかえし治療を受けました。その後1997年になって、ハルビン市障害者連合会から肢体障害3級という認定を受けました。働いていた黒竜江省航道局は休職扱いで基本給だけになり、1999年定年前に早期退職をしました。
1997年、他の遺棄毒ガス被害者とともに日本政府を相手に裁判を始めました。何度も原告として訪日し、証言しました。この裁判は2003年東京地裁で李臣さんたちの訴えが実り、日本政府に賠償命令がでる勝訴判決を勝ち取りました。しかし、日本政府は控訴し、高裁では逆転敗訴となってしまいました。李臣さんはその後も体調が回復せず、2020年3月、お亡くなりになりました。

被害者との歩み
 私たちは、中国黒竜江省ハルビンで6回にわたり、集団検診を行ってきました。(2016年9月現在)これらの検診活動を通じて、先に述べたような症状を明らかにしてきました。そして、近年では日本の医師らと中国の医師が協力し合い、日中合同検診を徐々に実現してきています。
 その一方で、被害者たちは、生活苦のため適切な治療を受けることができていません。ガンなどの病気を発病しながら十分な治療を受けられずに命を落とす被害者もいます。検診では限界があります。被害者たちが少しでも健康・生活を取り戻せるような実質的な医療支援、生活支援が必要不可欠です。
 一日も早く、被害者たちが全うな医療を受けることができるよう、NPO法人化学兵器被害者支援日中未来平和基金の設立に至りました。



日米軍事同盟反対!!

自衛隊「統合作戦司令部」発足 陸海空自衛隊を一元的に指揮

日本政府は、なぜ歴史的事実ときちんと向き合わない??

 4月22日防衛省戦史資料室に元731部隊の池田苗夫の書いた「きい弾射撃による皮膚傷害・・・・」を閲覧しに行った。現物はあったが、写真を撮ろうとすると、この資料は業者じゃないと写真が撮れないという(つまり有料)、又肝心な袋とじの部分は公開しないとのことであった。この国は、731部隊の大事な資料もまともに公開できない後ろ向きな国だと思った。
 石破首相は、「(略)その手立てと言うものが歴史の経過とともに失われた。・・・わが政府はそのような不誠実な政府ではございません。」と強弁しているが、手立てがあるのにそれを隠し続けている「不誠実な政府」なのである!!

井本日誌は、公文書(業務日誌)であって、私文書ではない!!

井本日誌は1993年まで公開されていたのに、なぜその後、非公開になったのか?

私的なものではない!!

井本日誌には、きちんと常徳の細菌戦の様子などが書かれている!!

戦史叢書には、井本日誌からの引用があるが、井本日誌にある細菌戦の記述はないのはなぜか?

「井本熊男業務日誌」をめぐって

731部隊の人体実験「資料ない」はウソ 公文書を示し追及

(山添議員のフェイスブックより)
予算委員会で旧日本軍731部隊について質問しました。
政府は戦後一貫して、「具体的な活動を示す資料がない」と言い張ってきましたが、今回防衛省防衛研究所に人体実験の記録があることを明らかにしました。
「き弾射撃による皮膚傷害並びに一般臨床的症状観察」と題する資料は、イペリットという致死性のガスを人に向けて発射したり水溶液を飲ませたりし、その後の症状の経過を観察したもの。1984年に毎日新聞がスクープしたのと同じ内容ですが、政府が保管していたという点が新しい。
作成者は当時731部隊にいたことがわかっています。本人が寄贈したものであり、受け入れた際の「所見」には「人を使用して行った試験の成績であり、得がたい貴重なもの」とまで書かれています。人体実験の記録であることは一目瞭然ですが、答弁に立った防衛大臣は公文書であることを認めながら「客観的な事実を確認できない」と逃げの姿勢。どこまでも事実を認めようとしません。
政府に寄贈されたのは1964年。防衛研究所が文書を公開したのは2004年であることを初めて明かしました。40年にわたり隠してきたことになります。そしてその間国会では、「資料がない」とウソを言い続けてきたことになります。そうして長らく隠ぺいした挙げ句に、「古い話で確認できない」ーーあまりに不誠実です。
隠ぺいし、ウソをついてきたと指摘すると、ムキになった石破首相が「わが国はそんな国ではない」と強弁。
私たちの国の拭いがたい過ちです。戦後80年、これ以上目を背け続けるべきではありません。真摯に検証し、事実を認めよ。


【731部隊】新資料で追及‼国会質問 徹底検証






自衛隊は核戦争参加を想定している!!





国際法違反の、細菌戦や毒ガス戦のことをいつまでも隠していていいのだろうか?
この国家のやばい事実!!

(西山勝夫さんのメールより)
中谷元防衛相が「自衛隊は昭和29年に創設され、旧軍とはまったく違うものだ」として、断絶していると強調したのに対し、山添氏は、731部隊所属の池田苗夫氏が1964年に寄贈した、毒ガスを使った人体実験記録について、防衛省防衛研究所に保管され、2004年の公開まで40年も秘匿されていたと指摘。その裏には、防衛研究所が1983年に作成した「公文書の公開審査実施計画」があると指摘しました。
 同実施計画には「第731防疫給水部関係人事資料」と「細菌兵器に関するもの。(ア)実験についての報告・記録(イ)使用の疑いを抱かせるもの」が特別に示され、審査に回すことを指す「摘出」と書かれています。
 山添氏は「731部隊をはじめ、毒ガスの使用や細菌兵器の実験、使用に関する資料が当時防衛研にあったということだ」と強調。防衛省の大和太郎防衛政策局長は「審査をする121人の戦史部所員は全員旧軍関係者だ」と認めました。
 山添氏は「旧日本軍と断絶どころか、連続しているからこそ、人体実験などの隠蔽の基準までつくった。」と述べました。



多摩霊園にある731部隊員が造った『精魂塔』、731部隊の犠牲者にすまないと思わないのか??2025年4月29日撮影

本庄繁(当時関東軍司令官)は、柳条湖事件は、関東軍の仕業とわかっていても、墓にはそう書かなかった!!
「排日の極」と偽っている!!

本庄繁の遺書
「多年軍の要職に奉仕致しながら御国をして 遂に今日の如き破局に近き未曾有の悲境を見るに立到らしめたる
仮令退役とは云へ何共恐懼の至りに耐へず罪万死に値す
満州事変は排日の極鉄道爆破に端を発し 関東軍として自衛上止むを得ざるに出でたるものにして 何等政府及び最高軍部の指示を受けたるものにあらず 全く当時の関東軍司令官たる予一個の責任なりとす
爰に責を負ひ世を辞するに当たり 謹て聖寿の万歳 国体の護持 御国の復興を衷心より念願し奉る

昭和二十年九月 本庄 繁」
2025年4月29日撮影

不当判決!!(3月19日、東京地裁判決)

自衛隊でやっていることを隠蔽するな!!

自衛隊化学学校が作成した『化学学校記事』の情報公開を求めた裁判で、東京地裁は、原告の主張を無視して請求を棄却した!!『化学学校記事』については、情報公開を求めて審査請求をしたが、3年以上経ってから「不存在」の返事が来る始末。この間、防衛省は何を画策したのだろうか?

 自衛隊化学学校では、1950年代から、毒ガス製造に関わり、1964年にサリンを合成しており、その後も毒ガスを作り続けている。

 その化学学校が作成した『化学学校記事』が1冊も自衛隊にないという事は考えられない!!何で、機関誌を敢えて隠すのだ!!
裁判所は、強く情報公開を迫るべきだった!!

 1925年に作成された毒ガスの実戦での使用を禁止するジュネーブ議定書に、日本は1970年になってやっと批准した。

その頃に作成された『化学学校記事16号』までの発行は自衛隊も認めている。16号は、原告側が持っていた。

 認めたという事は、持っていることではないのか?

裁判所は、国側に加担し、三権分立を自ら放棄している!!

 化学兵器禁止条約を日本は、1995年に批准しているが、OPCWの監視下、防護のためと称して、毒ガスを作り続けている。

 戦中、毒ガス兵器を使い、その反省もせずに、戦後も毒ガス兵器の開発に手を染めている防衛省を、司法は裁かなくて良いのか、疑問を強く感じる。

裁判所には憲法9条を改めて、確認してもらいたい。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

『化学学校記事』12号の掲載された知られざる細菌戦の記述(杉田記事)

1938年 華中 細菌大量使用、1939年 ノモンハン 細菌大量使用、1940年 重慶爆撃 ペスト菌 コレラ菌使用、1941年 湖南省 細菌作戦、1943年 華中 華北 細菌作戦

化学兵器禁止条約(日本は1995年に批准)、これもザル法か?

化学兵器の開発・生産・貯蔵・使用を全面的に禁止するとともに、すでに存在する化学兵器および化学兵器生産施設を条約発効ののち原則として10年以内にすべて廃棄すること、一定の設備を持つ化学産業施設に対する検証措置をおこなうこと等を定めている。また、1925年1月1日以降に他国領域内に同意なく遺棄した化学兵器についても廃棄処理を行うこととされており、遺棄国に処分に必要な費用や技術の提供を義務付けている。

化学兵器禁止条約第2条9項の規定により、以下の目的については例外が認められている。

・工業、農業、研究、医療又は製薬の目的その他の平和的目的

・防護目的、すなわち毒性化学物質及び化学兵器に対する防護に直接関係する目的

・化学兵器の使用に関連せず、かつ化学物質の毒性を戦争の方法として利用するものではない軍事的目的


悪法!!秘密保護法撤廃!!

秘密保護法によって隠された自衛隊の実態について踏み込んで取材できる環境づくりが絶対必要だ!!

地下鉄サリン事件から30年 被害者や遺族 教訓語り継ぐよう訴え

地下鉄サリン事件被害者 “風化感じる”回答の8割以上 NHK調査


自衛隊合憲論反対!!

1995年3月20日地下鉄サリン事件発生

自衛隊化学学校は事前に起こることを知っていた。

科捜研の結果が出る前から自衛隊は、サリンであることを知っていた。

オウムの中に自衛隊信者がいた。その自衛隊員と化学学校の間で、電話で情報のやり取りがあった。

戦後も日本は自衛隊で毒ガスが作っていて、化学兵器禁止条約を批准(1995年)してからも、防護のためとして自衛隊では毒ガスを作っている!!(サリン、VXガス等)

自衛隊とオウムの関係もはっきりさせず、早々とオウムの幹部を死刑にした当時の安倍政権と法務省にも問題あり!!
















立民・有田氏「地下鉄サリンは防げたのでは」 警察庁「当時の判断でオウム捜索に至らず」

2つの機関誌の情報をお持ちの方は、nobu.goi@gmail.comまでお寄せください。

自衛隊とサリン(週刊金曜日)

オウム真理教と闘って

ー関東地区青年婦人研修会の講演からー

関東地区開拓営農推進委員会(会長=野口正次茨城県関連会長)の青年婦人研修会が4月26日、山梨県で開催された。

 今回は上九一色(かみくいっしき)村富士ヶ嶺地区でオウム真理教の無法と闘ってきた、元富士豊茂開拓農協組合長竹内精一氏の講演を聞き、参会者は大きな感銘を受けた。次に紹介するのは竹内氏の講演要旨である。

行政には再三、再四訴える。

昨年(1994年?)の1月にオウムが第2上九に診療所を作るというので建築確認を申請した。私は航空写真を持って土木事務所へ行き、第2上九には診療所を作るスペースはないことを説明し、閲覧を求めると、審査中だから閲覧できないと断られた。その後3人で閲覧に行くと土木事務所では現在の建物は198㎡の平屋だから村への届け出だけでよいという。しかしそこにはすでに4階の建物が建っている、私が「あなた方は現地へ行って中へ入って見たのか」と聞くと、「オウムは今入られては困るといっている」との答えで、その後保健所でも3月14日に許可をした。1週間後に強制捜査が行われた。

「日本軍の毒ガス展」の感想
5月2日(金)
2、中川さんと来場者の皆さんの真剣な話し合いに戦争が近づいているとの緊急性を感じました。黒井さんと昨秋、吉林省長春を訪ねました。4日の講演も参ります。
 要望・・・高麗博物館での企画展を運営しています。若い世代との企画展も今また、準備中。植民地主義2025というタイトルで多角的にやります。
(60代、武蔵野市、チラシ、週刊金曜日、中川講演)


原発で作り出されるプルトニウムを、日本は核兵器使用に使うのではないかとの疑念が湧き上がる!!(戦時中も日本は原爆開発をしていた)

脱原発!!地震が起きてからではダメだ!!

東京電力 柏崎刈羽原発6号機 原子炉に核燃料入れる方針固める

女川原発2号機 運転差し止め訴訟 住民側訴え退ける 仙台高裁

志賀原発 “活断層連動”範囲 長さ1.8倍に見直しへ 北陸電力




2025.4.9 核兵器禁止条約に日本は署名・批准を!!(八王子・ドンキホーテ前)















1972年9月29日   日中共同声明調印!!

日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。

 毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。

ありがとう」


日本政府は、真摯に過去に向き合っているのだろうか?
戦争の加害者は過去を忘れても、被害者は覚えている!!

731部隊元少年隊員、清水英男さんが見た悪夢


軍隊をなくそう!!
『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』予告編



推せんメッセージ

“コスタリカ人の母は幸福にも子の誕生から兵士の道なし”

☆☆平和が文化となった国、理想を現実にした国コスタリカ 珠玉の言葉が、深い感動をよぶ!!☆☆
積極的平和国家のつくり方
「コスタリカの奇跡」
1948年に軍隊を廃止。軍事予算を社会福祉に充て、国民の幸福度を最大化する道を歩んだ。
コスタリカの奇跡に迫ったドキュメンタリー。

中米の小国コスタリカの非武装化が、政治的な衝突や戦争、日常のいざこざの解決に対する思考や言動にどう影響を与えているかを知りたかった。
マシュー・エディー監督


 〈完全採録シナリオ〉

プラ・ヴィダ PURA VIDA!―平和が文化になった国―

環境・エネルギー 

◆コーヒー栽培

 独立の頃からコーヒー生産が広がりを見せ、それまでほとんど未開の地であったコスタリカは変貌していく。コーヒーを育てるために山を切り開き、豆を運ぶための道路や鉄道が敷かれていった。政府は、コーヒー栽培従事者には無償で土地を提供するなどの優遇を行ったため、開拓の規模は増した。

 コーヒー開拓、そしてバナナブームに伴うプランテーション開発で、開拓の範囲はさらに広がる。

その後、食肉牛を育てるための牧草地拡大も森を削っていくこととなった。

1985年8月12日 日航123便墜落!!
多くの同僚をこの事故で亡くした元日航客室乗務員が、事故原因に疑問をもって書いた本より



日航123便 墜落の新事実
―目撃の証言から真相に迫るー

元日本航空客室乗務員
青山透子著(2017年出版)

省庁の名称や職業、役職、()の年齢はすべて事故当時のものとします。


第3章 『小さな目は目は見た』というもう1つの記録

3 ガソリンとタールの臭いが物語る炭化遺体と遺品

◍検死関わった医師たちの証言 

 次図は保管状況の見取り図である。



 遺族側の視点に立ち誠心誠意、事件捜査を行った警察関係者もいたとのことで、その方々が残した書類の中に押田氏のビデオが紛れ込んでいるかもしれない。

 そのビデオが語るものは大きいはずである。もしこれが返却されれば、本物のジャーナリズム精神に基づいた報道番組やドキュメンタリー番組が作れるのではないだろうか。関心の高いこの事件を題材として、バイアスのかからない矜持のある番組が作られれば、永遠にあの日を忘れないというメッセージを後世に贈ることができる。




「日本航空123便墜落事故」裁判終結に、夫を亡くした81歳の遺族が期す「真相究明」次なる一手とは


●日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



RENUNCIATION OF WAR Article 9.
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, 
the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation
and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of 
the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.
The right of belligerency of the state will not be recognized.



IMAGINE9 

05 

基地をなくして緑と海を取りもどしていく世界

 基地による環境汚染は深刻です。ジェット機の燃料がたれ流されたり、危険な毒物、金属、化学物質が土地を汚染しています。こうした問題を、国はいつも隠そうとします。国は、汚染した土地の後始末にさえまじめに取り組もうとはしません。それでいて、「基地は平和と安全を守る」と繰り返しています。基地の周りの人びとの暮らしは「平和や安全」とはとても言えたものではありません。

 軍事基地はつねに、植民地に設置されるなど、立場の弱い人たちに押しつける形でつくられてきました。先住民族は押さえつけられ、その権利や文化は奪われ、人びとの精神や心理さえもむしばまれてきました。




世界の軍事費





















武器輸出反対!!

海自の最新鋭護衛艦がオーストラリアに そのねらいは?

PFAS汚染 健康影響も?
憲法9条を生かそう!!

安全保障政策大転換、失われる「武器輸出三原則」の理念

※日本は既に、戦闘機等を輸出しようとしている!!
何とか歯止めをかけなければ!!



祝 PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会(元・PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会)

立ち上げ6周年

★2018年1月17日の立ち上げ宣言・全文
・父は戦争の事だけでなく他の事にも無口でした。
1948年生まれの私はそういう父を生来の父の姿と思ってきました。
しかしベトナム戦争で米兵の3割前後が悲惨な戦争体験で精神を崩し、元の社会に復帰できないという。
同じような日中戦争や太平洋戦争を体験した日本兵も、つまりは私の父たちも精神を侵されたとして不思議ではない。
本当は父は正常な精神に戻りたいと必死に戦後社会を生きていたのではないだろうか。
私は快活だったかも知れない出征前の父は知らない。復員した後の無口な父しか知らない。
私は「本当の父」を知らないままに父を亡くしたのではないだろうか。
2~3年前からそんな思いで父を振り返るようになりました。
だとしたら、父も私も不幸だった。本当の自分を見せることも心の内を語ることもできずに苦しんだかもしれない父。
そんな風には生前一度も思ったことの無い息子。
その無口の父に反発し続けた私。父を通じて私も又戦争の傷を心に負ったのかもしれない。
私たちの世代にも呼びかけたい。
父親たちを見直そう。父親たちの精神世界を想像してみよう。
語り合おうではないか。
若い人たち、我々の子供たち、孫たちにも戦争は兵士のみならずその家族をも。戦争が終わったその後も家族を通じて長い間影響を与え続けるのだと伝えたい。
この指にとまってほしい!
2018年1月17日  黒井秋夫。


























第10回 311子ども甲状腺がん裁判 原告の訴え!!
第10回 311子ども甲状腺がん裁判支援集会
第10回 子ども甲状腺がん裁判、準備書面プレゼン

























1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われた。そのエネルギーはTNT換算で530メガトン(大気圏内は440メガトン)でこれは広島へ投下されたリトルボーイ(TNT換算で15 kt)の3万5千発以上に相当する。
アメリカだけではない!!世界は核実験・原爆・原発事故により放射能で汚染され、地球は破壊された。多くの人が核被害で苦しみ、温暖化は進んでいる!!

放射線を浴びたX年後III サイレントフォールアウト 乳歯が語る

大陸汚染

サイレント フォールアウト予告編

核実験の人体実験
クラウドファンディングサイト
公式HP
(スケジュールをクリックすると今後の上映予定がわかります。)
Facebook 
核なき未来へ



世界に拡がる放射能汚染は、核抑止論・軍事機密のために、隠蔽され、矮小化されている!!
広島・長崎・ビキニ・福島と4度被ばくした日本はいつまで、危険な原発をやるつもりなのだ!!
核兵器廃絶!!脱原発!!医学者も声を上げよ!!いつ大地震が起きるかわかりゃしない!!
日本と台湾の地震の対応が何でこんなに違うのか?

昭和天皇の戦争責任を問う!!
昭和天皇が自認する戦争責任




3月20日に飯田市の飯田市平和祈念館に寄りました。下の写真のパネルは市教委が昨年9月に新たに作成したパネル。もう少し、詳しいパネルがほしい!!なんで日本は医学者が中心となって細菌兵器の開発に突き進んだのか?

長野県飯田市で起こっている731問題



飯田市の資料収集委員の方々が作られたパネル(展示されていない)
こんな大事なパネルが展示されていないとは!!

この国の隠蔽体質を破ろう!!


昭和天皇が裁可したこの巨大施設で、細菌兵器の開発のため、人体実験が繰り返され、細菌兵器を製造し、中国各地で細菌戦が行われた!!(中国・平房)
改めて、昭和天皇・皇族・医学者の戦争責任を問う!!
ニュルンベルグでは、アメリカは
医師裁判などを行い、医師裁判では、23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。
ニュルンベルグ継続裁判
飯田平和祈念館展示

検討委員会のある方のご意見
・9月1日に新たに展示された731部隊のパネル(上の写真)は一歩前進ではあるが、下に展示されている医療器具や本との関連が説明されていません。どうしても731部隊の証言が必要です。

市教委が展示したパネル


「標本室は目の開けられないくらい・・・」731部隊の実態
日本の秘密戦と731部隊ーその記憶を発掘し継承する意義

山田朗講演会(講演、質疑応答、意見交換等)

・山田先生の講演を聞いた人の感想
化学兵器や生物兵器は天皇の戦争責任にどう関係したでしょうか?小泉親彦や橋田邦彦の自死、あるいは帝銀事件が東京裁判で天皇の責任が問題になりそうな時に起きているのが気になっています。

・山田朗先生の回答
昭和天皇が化学戦・生物戦について認識していたことは、大本営からの命令(大陸指)の発令や、731部隊の関係者と接触した三笠宮からの報告で動かしがたいものだと思われます。ご指摘のように、敗戦から1947・48年の間にどのような隠蔽工作が行われたのか、これはまだほとんど解明されておりませんので、しっかり取り組んでいこうと考えております。ご指摘、ありがとうございました。


会場には、100名を超える人々が参加して、山田さんの講演を聞き、又意見交換もしました。





三笠宮と731部隊員の記念写真
三笠宮は回顧録の中で、「多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し毒ガスの生体実験をしている映画」を見たのを憶えている、としている。彼は次の様にも述べている。
「その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州事変を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった」、と語っていました。
(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著 柏書房 p227)
※三笠宮は紀元節復活に反対(ウィキペディアより)
1950年代後半から「紀元節」(神武天皇即位紀元(皇紀)に基づき、三笠宮自身の父系祖先と伝承される初代天皇・神武天皇が即位したとされる西暦紀元前660年2月11日を「日本建国の日」とするもの)の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者及び歴史学者としての立場から「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」として、「『神話』と『史実』は切り離して研究されるべき」と強く批判し、皇族の身分でありながらも積極的に「紀元節復活反対」の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』は、このときに刊行されたものである。



竹田宮と731部隊
竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍に於ける医療行政官のチーフのように権力ある個人すら、平房(の施設)に立ち入る際には竹田宮・宮田(竹田宮は宮田武中佐と名乗っていた)が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れる時は、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著 柏書房 p228)














松村高夫講演の資料























今、広島で起きていること!!
「はだしのゲン」はなぜ削除されたのか


教育勅語の「中身はいい」? そう言いたい欲望の背景にあるもの
昭和天皇広島訪問

2024年広島市平和宣言

争いを生み出す疑心暗鬼を消し去るために、今こそ市民社会が起こすべき行動は、他者を思いやる気持ちを持って交流し対話することで「信頼の輪」を育み、日常生活の中で実感できる「安心の輪」を、国境を越えて広めていくことです。そこで重要になるのは、音楽や美術、スポーツなどを通じた交流によって他者の経験や価値観を共有し、共感し合うことです。こうした活動を通じて「平和文化」を共有できる世界を創っていきましょう。特に次代を担う若い世代の皆さんには、広島を訪れ、この地で感じたことを心に留め、幅広い年代の人たちと「友好の輪」を創り、今自分たちにできることは何かを考え、共に行動し、「希望の輪」を広げていただきたい。広島市は、世界166か国・地域の8,400を超える平和首長会議の加盟都市と共に、市民社会の行動を後押しし、平和意識の醸成に一層取り組んでいきます。



広島 平和記念式典 各国「招待」から「案内」に変更へ

長崎原爆資料館の展示更新「日本の戦争加害に関する展示維持を」…長崎市に市民団体が申し入れ














広島・平和式典、公園全体を規制 表現の自由侵害と反発も
長崎市長 平和祈念式典にイスラエル不招待で改めて立場説明へ


 












第103回八王子アクション

青木理氏 黒川元検事長の定年延長裁判に「安倍政権のありさまを改めて考えなきゃいけない」
萩生田NO!!集会(2024年2月18日)
萩生田光一議員にNO!!ー裏金疑惑、市民に説明を


安倍晋三 演説 | 統一教会


森友学園開示文書 欠落部分は“政治と接点あった時期”

戦争の加害も忘れるな!!
名古屋市敗訴確定、河村市長が憤り表明 トリエンナーレ訴訟
海老名香葉子氏 家族6人が犠牲になった東京大空襲の記憶「死ぬまで語り継ぐ」
海老名香葉子さん、東京大空襲80年を前に恒例の法要と式典開催 車いすと代読で平和への思いを披露





※カーチス・ルメイ・・・焦土作戦は東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った後は、富山市・郡山市などの地方の中小都市も対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上が
らせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された。

勲一等旭日大綬章の授与
1964年12月7日に日本に返還されたばかりの入間基地で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査・審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。推薦は小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名で行われ、防衛庁から佐藤栄作首相・賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。
授与への批判
ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対して批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者もいる。当時は日本社会党・原水爆禁止団体・被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。
東京大空襲


死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超え、死者は9万5千人を超えたといわれる。なお、当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称されていた。
「八王子空襲~5人の証言~」第124回 多摩探検隊
「湯の花トンネル列車銃撃空襲」第40回 多摩探検隊
重慶爆撃


731部隊罪証陳列館見学に並ぶ長蛇の列(中国・ハルビン)一日1万人以上の来場者

朝鮮人BC級戦犯裁判問題
朝鮮人BC級戦犯裁判
「仲間の無念晴らしたい」朝鮮半島出身元BC級戦犯が訴え 戦後75年進まぬ法整備
「死んでも解決を」元BC級戦犯が今も背負う不条理 


群馬の森「朝鮮人追悼碑」撤去問題
「群馬の森」朝鮮人追悼碑が撤去に

















長生炭鉱(山口県宇部市)「ヒロシマ通信」から
山口宇部・長生炭鉱の「水非常」は、事故で亡くなった183 名のうちの136 名が朝鮮人でした。2月3日におこなわれた現地での追悼の集いは、さまざまな問いかけを私たちに突きつけてきます。・・・終わり近く9分ごろのところに金平記者が長生炭鉱のピーヤの見える海岸でインタビューしているシーンも出てきます。たいへんに貴重な28分ほどの映像、まだ観ていない方、ぜひ視聴をオススメします!

https://www.youtube.com/watch?v=oT781LkmlmY&t=35s
海に眠る30万の遺骨【報道特集】

長生炭鉱の坑口を開け遺骨発掘へ 장생 탄광의 갱구를 열어 유골 발굴에



敵基地攻撃能力などいらない!!自衛隊を災害救助隊にすべし!!
佐藤栄作元首相のノーベル平和賞 受賞当時の選考資料 初公開
<国民を欺いた罪重い
核兵器禁止条約発効から3年にあわせICANの事務局長が長崎を訪問
核兵器禁止条約発効から3周年記念 全国中継 核なき世界を日本から
「政府に対して結論を」核禁条約発効3周年のつどい長崎
なぜ、今、日中友好か?ー日中友好の歴史と展望からー


日本の中国侵略、原発事故を問う!!






ふたつの敗戦国 日本 660万人の孤独

「生命の力」

 この番組を作り終え、休日に友人と会った。今回の番組について話したら、その友人の祖父はシベリア抑留から生還した人だったらしい。友人は、自分には生命力がある、と自負していたが、それは祖父ゆずりなのだという。

 生命の力。困難な時代を生き抜く、力強さ、番組制作を通じて最も印象的だったことの1つだった。

 こんな女性がいた。満蒙開拓団員として満州に行き、終戦の頃、ソ連軍がやってきた満州で一家心中を辛くも 生き延びて、戦後は福島で戦後開拓に従事。およそ60年後、今度は福島第1原発事故で福島を追われ、今も困難 生活を余儀なくされているという。その人は避難先で記した手記に、父と母に向けて次の言葉を残した。

「様々な苦難もありましたが乗り越えて今日の自分があります。後悔はしておりません。大いなる体験は人生の実り であり、私の宝物です。本当に生んでくれてありがとうございます」

 本音かどうかは分からない。ただ、手記の最後に記されたその一文の放つ凛とした光を目にした時、一瞬時間が止まったように感じた。(担当ディレクター)

1月19日、「花地蔵物語」の完成披露演奏会が、東京の武蔵小金井の宮地楽器大ホールであった。会場は、満席で、大成功でした。

今、福島県津島で起こっていること(「花地蔵物語」から)

青木美希 なぜ日本は原発をやめられないのか? 【著者に訊く!】 20231207


珠洲原発があったら大惨事であった!!原発をなくそう!!
珠洲 地盤の隆起 全長約4キロ高さ2メートル余の「崖」出来る
石川県珠洲市を襲った津波映像 能登半島地震
能登半島地震の写真や図説


進まぬ耐震化、被害拡大要因か 能登半島地震 死因9割「家屋倒壊」全国で同様の懸念

未知の断層はまだまだあるのではないか??
同時に、原発事故が起きていたら??
国策原発推進反対!!
石川 志賀町で大地震引き起こした活断層とは異なる断層確認
「活断層」リスク評価 専門家 “調査手法など見直す必要ある”


原発活用の国策見直しを!!
ビキニ被災から70年!!
地球を破壊した戦争・核実験・原発
世界に拡がる放射能汚染!!
核兵器禁止条約批准せよ!!
反原発!!温暖化の一番の原因は2000回以上行われた核実験にあるのではないか?

あれだけの戦争をし、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマで4度の被ばくの体験した日本から、核廃絶・反原発・反戦をアピールしよう!!

ビキニ被災から71年!!核廃絶!!

原爆マグロ(水爆マグロ)
マーシャル諸島は太平洋中西部に浮かぶ、たくさんの珊瑚礁からなる国です。アメリカは 1946 年から 58 年までここを核実験場とし、67 回もの実験を行った。
1954年の3月から5月のキャッスル作戦では、多くのマグロが放射能に汚染され、それが問題になったので、3月から12月までは、魚の放射能検査を行ったが、その後は、行っていない。多くの日本人は、放射能汚染されたマグロを食べていたのでは?

築地市場跡地に核廃絶を訴え“マグロ塚”設置を要請 核実験に遭遇した「第五福竜丸」が持ち帰る 


             第5福竜丸無線長 久保山愛吉さん

辞世の句

原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい。

— 久保山 愛吉

※1954年のアメリカの水爆実験による日本の被災船は、延べ1000隻に上る。アメリカは、第五福竜丸の船員には見舞金を支払ったが、他の船員には、全く補償をしていない。
大石又七とマグロ塚(2024年2月25日)
ビキニ 隠された被害


2023「731・原爆・ビキニ・フクシマ」展

なぜ、日本はイタイイタイ病の原因を認めなかった?萩野医師の死後、世界を舞台に起きた陰謀

京都・島根ジフテリア予防接種事件

イタイイタイ病


原子力村解体!!安保村解体!!
第3回「731・原爆・ビキニ・フクシマ」展アンケートから

18日 (水)  

1、戦犯として、B級C級の人が裁かれていながら、細菌戦をした人たちが放免されている事実を改めて知りました。科学技術が戦争遂行に積極的に関わったことの反省のもと、戦後がスタートしたはずなのに、近年の産学軍協働の動きに危機感を覚えます。毎年、展示会を開催してくださりありがとうございます。

(60代、日野市、友人)

被爆国の首相が、なぜ放射能の恐ろしさを語らない??
再生可能エネルギーの積極的活用を!日本も脱原発の方向へ!!
現在原発を利用していない国・・・イタリア・オーストリア・オーストラリア
将来的に非利用にする国・・・・・韓国・ドイツ・ベルギー・台湾・スイス


福島原発事故の写真!

福島原発周辺8町村 1514人が震災関連死 7割が3回以上移転

世界史上最悪(レベル7)の原発事故福島第1原発
原発推進、汚染水放出、アメリカと日本の関係??
日本の医学界も、原発推進、汚染水放出等の問題に、なぜ沈黙する。



ALPS処理汚染水を海に捨てないで!海洋投棄を止める活動にご支援を

グリーンピースからのメールの一部より
汚染水放出に反対、再生可能エネルギーへの早期転換を求めて
8月22日、日本政府は、東京電力福島第一原発敷地内に貯留されている「ALPS処理汚染水」の海洋放出を気象や海象条件などに支障がなければ、9月24日にも開始することを発表しました。
グリーンピース・ジャパンは、 2023年8月17日、汚染水の海洋放出に反対する署名36,334筆を経済産業省に、原子力発電所に反対する署名18,642筆を内閣府に提出しました。
 「放射能汚染水を海洋放出しないで」署名を経済産業省の担当者に提出しました。
日本政府および東京電力は、漁業関係者や住民、太平洋地域や近隣諸国の懸念を押し切って、放射性物質を含むALPS処理汚染水を海に放出する決断に踏み切りました。あらゆる問題を山積みにしたまま、数日のうちにも海洋放出が開始するかもしれないこの状況に、憤りを覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
グリーンピースは8月17日、54,976筆の署名を、国際環境NGO FoE Japanなどが主催する政府・東電との討論会の場などで政府に提出しました。また8月18日には、市民団体「これ以上海を汚すな!市民会議」が、首相官邸前にて行った汚染水の海洋放出に反対する要請行動に参加しました。

;8月18日の「これ以上海を汚すな!市民会議」主催の抗議集会


放射性廃棄物の海洋放出は、福島第一原発の廃炉計画の失敗を明らかにしています。いったん海に流された放射性物質は決して回収できません。一方で、汚染水の発生を止める有効な手段はとられていないままです。放射性廃棄物を意図的に放出し、海を汚染するという選択は、日本の数十年にわたる原発政策が招いたものです。

署名提出、討論会でわかったこと

 グリーンピースが政府に署名を提出した2023年8月17日、市民と政府および東京電力との討論会がありました(国際環境NGO FoE Japan主催)。経産省、原子力規制庁、東京電力から10名以上が出席し、市民側は放出に反対する福島県民、オンライン参加者も含め多くの参加がありました。
 2015年、政府・東電は、「関係者の理解なしにいかなる処分も行わず、他核種除去設備で処理した水は発電所敷地内のタンクに貯留します」と文書で約束しています。討論会で「この約束は守られるのか」と問われた際には、はっきりと「守る」と回答していました。それにもかかわらず、海洋放出を推し進めようとする政府の不誠実な姿勢は、到底受け入れられるものではありません。
 また、討論会では、グリーンピースはじめ、多くの研究者らが提案してきた陸上に保管する代替案について、ほとんど議論されていなかったことが改めて浮き彫りとなりました。東電は「モルタル固化処分案」については「ALPS小委員会においても検討が行われている」と回答しましたが、検討されたのは地下に埋設する別の方法についてであり、さらにそれも2行書いてあるだけで、会議資料にも議論の記録はありません。
 処理費用と期間も大幅に膨れ上がっています。様々な処理方法が検討されていた2018年の時点で、海洋放出の費用は17~34億円とされていましたが、現在の試算では1200億円となり、処理にかかる期間も52~88ヶ月程度と書かれていましたが、現在は少なくとも30年以上と言われています。

海を汚染しない選択を求めます

福島第一原発の廃炉作業を進めるために「ALPS処理汚染水」の海洋放出は必要ありません。抜本的な解決策について、グリーンピースは元ゼネラル・エレクトリック社で東電福島第一原発などに勤務していた原子力コンサルタントの佐藤聡氏に委託し、2021年に具体的な提案を含むレポートを公表しています。
 欧米で運用されているより高精度な多核種除去設備で限界まで放射性物質を取り除いた処理汚染水を、現行のタンクより堅牢な大型タンクに移し、さらに高度な除去技術を開発することが、現段階では最善の解決策であるとグリーンピースは考えます。
ALPS処理水海洋放出反対学習会「豊かな海を後世に引き継ぐために」/ 福島大学准教授 林薫平先生


第9回「戦争の加害展」(横浜)





第9回 戦争の加害パネル展

それは丘の上から始まったー平楽の丘で起きたことー

上海で日本軍は何を

横浜で「戦争の加害展」 香港フェニックス

記憶の継承を進める神奈川の会

2024年の「戦争の加害展」の感想 

2024年4月27日(土)~5月5日(日)

◆4月27日(土)

14、「加害」わかりやすいタイトルでよいと想いました。

 教科書に書かれていないことを知りました。オオタニ選手を載せる前に、戦争の加害について載せるべきだ。戦中は、必死に勝つため、国のためと考えられたことなのかもしれない。

 しかし、敗戦後、まだ認めなかったり、謝罪しなかったりする日本。自分の国がイヤになりました。その姿勢が、現在のウクライナやイスラエルの戦いにも通じてしまっている気がします。国際社会に影響している。

 オバマ大統領が、ヒロシマの来訪…の前に、日本はすべきことがあるのではないかと思いました。広島出身の岸田さんが首相になった時、戦争に対して少し日本が変わるのではないかと期待したが、あまり変化を実感できずに数年経っています。

 慰安婦の問題は、証言もたくさんあるのに、どうして認めないのか門前払いなどするのか不思議。 

 またその頃は、証言されなかったのだと思われるが、GHQの戦犯の裁判にかけて敗戦後すぐに決着してくれていたらなあと思います。

 日本がこんな国だから北朝鮮も拉致問題を認めないのではないかと思いました。

 文科省は、中高の修学旅行で国内外を問わす、行く先で1か所は戦争に関する場所を含むようにすればいいのにと思いました。

 せっかくの貴重な資料、いろんな所でパネル展を開いて頂きたいです。あとは、ネットの時代でYouTubeなどで閲覧できるようにしたり、例えばスポーツ大会とか若年層も目に触れられる様にしたら啓蒙になるかと思いました。

 是非、せっかくの資料を多くの日本人に目にする機会を与えてください。国会・市町村・都道府県の議員にも知ってほしいです。パワハラ、セクハラしてる場合じゃないない!

(その他(通りかかった))



横浜の「戦争の加害展」2023

日本が中国に棄ててきた毒ガス問題

中国に戦後日本軍が遺棄した毒ガス被害に苦しむ人がいる(日本政府は補償していない)が、日本にも毒ガス工場で働いた人、毒ガス工場解体時に被害にあった人がいるが、その人たちへの補償はどうなっているのだろうか?
以下は、毒ガス研究者の田中浩朗さんの『日本軍の毒ガス戦の歴史』による。
「1952年に大久野島毒瓦斯傷害者互助会が結成され、国に毒ガス傷害者の援護が求められた。そして、1954年の大蔵省通達「ガス障害者救済のための特別措置要綱」によって忠海製造所の旧従業員(旧陸軍共済組合の組合員)に対する援護(医療費や各種手当の支給など)の道が開かれた。その後、徐々に援護の対象が拡大され、現在では旧東京第二陸軍造兵廠忠海製造所、旧広島陸軍兵器補給廠忠海分廠、旧東京第二陸軍造兵廠曽根製造所、旧相模海軍工廠の旧従業員(財務省所管)および元動員学徒等(厚生労働省所管)に対する援護制度が存在する。最後の援護対象となった旧相模海軍工廠の旧従業員らが援護されるようなったのは、戦後半世紀以上が経過した1999年のことであった。」

町に潜む毒ガス兵器2004.7.15
毒ガスの行方(浜名湖) 2003.11.15
迫られる毒ガス弾処理~化学兵器禁止条約発効へ~
隠されてきた毒ガス 1996.9.10
悪魔の霧は今も 毒ガス兵器の惨禍(1996.8.28)


今世界に訴える毒ガスの島
湖底に沈む爆弾~化学兵器・もうひとつの戦後処理~
化学兵器をどう処理するのか~迫られる日本の選択~
忘れられた毒ガス被害者(相模海軍工廠)
毒ガス工場46年目の証言(東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所)
毒ガス工場解体(大久野島の毒ガス工場解体)
暴かれる毒ガス戦の真実
オーストラリアの毒ガス人体実験ニュース
オーストラリアの毒ガス人体実験

化学兵器禁止条約が発効(1997年4月29日)されて10年過ぎても20年過ぎても(原則10年以内に廃棄)、中国に遺棄した日本軍の毒ガスは廃棄できないでいる。(廃棄完了は2027年の予定)分解できない砒素はドイツの地下に貯蔵?
毒ガスの処理事業は、内閣府は、下記の資料では2022年に終了することになっていたが、終わらす、2027年には完了するとしているが、本当に終わるのであろうか??

日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する中国外交見解
2024年7月30日中国外交部记者会見
东方卫视(ドラゴンTV)記者の質問
 今日は、「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する中華人民共和国政府と日本政府の間の覚書」締結25周年記念日です。報道官は関連作業の進捗状況と中国の懸念について紹介してもらえますか?

林剣報道官の答
 中国における日本の遺棄化学兵器は、中国侵略戦争中に日本軍国主義が犯した重大犯罪の一つであり、依然として中国人民の生命と財産、生態環境の安全に重大な脅威を与えている。今日まで、中国は日本の遺棄化学兵器問題を非常に重視しており、化学兵器禁止条約と日本の遺棄化学兵器廃棄のための日中政府間覚書の規定を遵守し、遺棄化学兵器をできるだけ早く、安全かつ清浄かつ徹底した方法で廃棄するよう日本に求めている。
 中国の強力な支援により、日本はこれまでに約13万個の日本の遺棄化学兵器を発掘・回収し、約10万個を廃棄した。しかし、日本の投資は不十分かつ不均衡で、遺棄化学兵器の廃棄プロセス全体は依然として大幅に遅れ、廃棄計画は4回も延期されている。いくつかの重要かつ困難な問題は未解決であり、廃棄の進行は著しく妨げられ、中断されている。
 日本の遺棄有毒化学兵器を除去することは、日本が逃れられない歴史的、政治的、法的責任である。中国は日本に対し、中国の懸念を真剣に受け止め、条約に基づく責任を真摯に果たし、あらゆる面で投資を拡大し、遺棄化学兵器の処理プロセスを加速するためにあらゆる努力をし、関連する廃棄計画を包括的、完全かつ正確に実施するよう強く求める。そして一刻も早く中国人民に浄土を返していただきたい。


日中未来平和基金
日本が、中国へ捨ててきた毒ガス兵器による被害者の救援のお知らせ
日本が捨てた毒ガス兵器で寝たきりに「震えが止まらない」「助けて」怒り苦しむ中国人女性の涙


遺棄化学兵器処理事業情報公開裁判

「遺棄化学兵器処理事業情報公開請求訴訟」とは? 

 先の大戦で、旧日本陸・海軍は化学兵器(毒ガス兵器)を製造・使用した事実を隠すため、 敗戦時、日中両国内でそれらを地中に埋めたり、川や海に投棄しました。戦後もこれらの遺棄化学兵器による被害が後を絶ちません。 

 日本は1995年に化学兵器禁止条約に批准し、1999年以降、内閣府主導で、それらの化学兵器を中国で処理していますが、処理してもなお化学兵器に含まれていた有毒物質のヒ素が残ってしまいます。内閣府はこのヒ素を含んだ有害廃棄物の最終処分をドイツで行うことを検討していることが判明し、その検討経緯を知るために、2019年9月に行政文書開示請求をしました。しかし、「公開」された6861頁のほとんどが黒塗りで肝心の経緯が分からなかったため、審査請求も行いましたが、2022年5月19日、「ほとんどの文書の不開示は妥当である」という趣旨の内閣府の裁決がありました。

 そこで、議論の過程を明らかにするために、12人の弁護士の協力のもと、2022年11月18日に提訴しました。

 

遺棄化学兵器処理事業情報公開裁判第6回

遺棄化学兵器被害裁判と被害者支援基金活動 2023 12 5



News & Information

\次回弁論傍聴のお願い/

2025年5月27日(火)11:30〜

東京地裁703号法廷

“開示”された6861頁(335文書)において、不開示にした箇所の不開示理由が不十分であるため、裁判長の指示により、国(内閣府)はそれぞれの具体的な理由を表に埋めることを続けています。

 国は文書番号250までの不開示理由を提出しており、次回の弁論までに残りの文書番号335までを提出する予定。 

裁判長の提案により、一旦国の不開示理由が出尽くすのを待った上で、原告側は反論をすることになっています。ただ、原告側も反論の準備を随時進めており、次回こちらからも出来る限り反論を出す予定です。

 傍聴によって私たちの関心を示すことができるので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします!

 2025年5月3日(土)14:00〜「日本軍の毒ガス展〜日本軍の毒ガス戦と遺棄毒ガス問題」@かながわ県民センター

本訴訟について、弁護団の金子美晴弁護士と話します。ぜひ本訴訟ならびに本企画をご周知の上、お越しください。お待ちしております!




                











\ご支援よろしくお願いします/
【口座記号番号】00120-2-732043 
【口座名称】稲垣美穂子(イナガキミホコ) 
  
他行からのお振込み頂く場合: 
【店名(店番)】019【預金種類】当座【口座番号】0732043 
  
▼頂いたご寄附の使途▼ 
・訴訟に必要な事務費用(印紙、郵券、印刷費・参考文献購入費、会議費など) 
・専門家の意見書執筆費用 
・弁護団交通費用 
・弁護士費用

以上



*日本は、なぜこんなに情報公開に後ろ向きなのだ!!毒ガス処理を含め、過去の負の遺産をすべて隠そうとしている日本政府の姿勢にあきれてしまう!!

 毒ガスの処理についても、大事な問題なのだから、国民にきちんとわかる形にして、どのように処理されているのかはっきりさせる必要がある!!
*裁判長にすら、原本黒塗りとは何事だ!!インカメラ審理の導入を!!
*秘密保護法反対!!戦時中の文書・戦後の文書もきちんと国は公開すべきだ!!

・インカメラ審理とは、「裁判所だけが文書等を直接見分する方法により行われる非公開の審理」を指す。情報公開訴訟において、このようなインカメラ審理が認められなければ、裁判官は、争点となっている文書を実際に見ることなく、これに不開示情報が記録されているか否かを判断せざるを得ないのである。
 そのため、情報公開法の立案時以来、実務家、研究者、市民団体などから、情報公開訴訟においてインカメラ審理の導入を認めるべきであるとの強い要望があったにもかかわらず、今日に至るまで、インカメラ審理は認められていない。 (情報公開訴訟とインカメラ審理 行政監視委員会調査室 畠 基晃)より





被爆国日本は、核兵器廃絶・反原発を推進すべし!!

防衛費増額反対!!

旧統一教会問題

帝銀事件

帝銀事件と731部隊

731部隊と大学

731部隊の4つの細菌戦

「証言 石井四郎」~語られた人物像~

細菌製造の731部隊~731部隊軍医秦正氏(はたまさうじ)の証言


厚労省は新型コロナワクチンデータを開示せよ!


関東大震災時の朝鮮人虐殺

「戦争と医の倫理」の検証を進める会シンポジウム

狭山事件ー石川一雄さんを訪ねて

ご冥福をお祈りいたします。

狭山事件 再審求めた石川一雄さん死去で審理終了 東京高裁

62年前の狭山事件で再審求めてきた石川一雄さんが死去 86歳














天声人語

 しんみりとした歌声が響いていた。〈吹けば飛ぶよな 将棋の駒に)。『王将』の演歌の調べである。〈賭けた命を 笑えば笑え〉。マイクを握った男性の顔には、深いしわ幾重にも刻まれている。友人たちとの会食の席だろうか▼この3月に届いた訃報だった。狭山事件で強盗殺人罪に問われ、無実を訴え続けてきた石川一雄さんが亡くなった。86歳だった。先週、東京・神保町駅の近くで開かれた追悼集会に行くと、在りし日の故人の日常を映した動画が流れていた▼石川さんは叫んでいる。「不撓不屈。こんなもんに負けてたまるか」。書きためてきた短歌も、妻の早智子さんから紹介された。〈晴れる日は今日か明日かと60年 何時も心中露時雨(つゆしぐれ)〉。無念さを塊にしたような言葉がいくつも続く▼ひどい貧困の問題があった。権力の横暴があった。教育を受けられなかった者への残酷な冷たさがあった。 そして、それらの根源が、被差別部落に対する人権侵害の問題ではなかったか。獄中生活は31年に及んだ▼3回目の再審請求が出されたのは2006年だ。19年もの歳月が過ぎるのに、裁判所は何ら判断を示していない。あまりにも長すぎる。冤罪を訴える人間に対し、今のこの仕組みは、不条理である。▼追悼会場には、フォーク歌手の小室等さんも駆けつけ、ギターを手に歌った。〈どこかで だれかが/きっと待っていてくれる〉。懐かしいにおいのする曲だった。〈くもは焼け 道は乾き/陽はいつまでも沈まない〉 2025年4月26日

小林多喜二没後90年(2023)

平頂山事件91周年集会(2023年9月)












細菌製造の731部隊~731部隊軍医秦正氏(はたまさうじ)の証言
南京大虐殺から雲南戦へ

今語るべき日中戦争




「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが
    国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいり
   ます。




南京大虐殺


南京大虐殺(マギーフィルム)

パネー号撃沈



重慶爆撃
重慶爆撃遺族が沖縄訪問へ 来月に玉城知事と面会調整

第58号 重慶爆撃
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

苦干(重慶無差別爆撃)

731部隊
731部隊

原爆
ニュース257号














八王子 平和・原爆資料館


●東京帝国大学伝染病研究所

伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?



実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??

実験医学雑報24巻12号で、三田村が伝研の所長に任命されて、挨拶を書いているが、宮川米次がなぜ、伝研を去ったのかに全く触れていない!!

宮川は、どんな不祥事をしでかしたのか?その後、伝研には姿を見せていない。

長與又郎・・・・石井は京大総長であった荒木寅三郎(生化学)の娘,清子と結婚します。荒木は東大医学部 出身で後輩に長與又郎(病理学,後に東大総長)がいました。長與は清野,川上漸(京大病 理,後に慶大病理教授),戸田正三,金関丈夫(京大解剖,後に台北帝大教授)らと交流があ り石井ともつながっていました。長與は京都で開催された第十回医学会総会(1938年)で石井 の戦地実況活動写真を鑑賞し,ハルビンの731部隊も訪問しています。石井は京大,軍医学校 を経て東大へと人脈を広げていきましたが,それは731部隊発足前から形成されていた三者の医学界エリートネットワークへの参入を意味しました。(731と大学:吉中丈志)


実験医学雑誌26巻(1942年)

雑報1号


人事異動報告

月日    辞令          官職       氏名

12.5   研究生入学許可               山県武人

12.8   伝染病研究所業務を嘱託す          大河原周

     研究生退学を命ず              大河原周

12.16   任伝染病研究所技手給9級俸    富樫實、宮村守人、藤田三夫

               廣橋誠之、土谷忠、脇滋男、美澄義明、安江安宜

〃     伝染病研究所業務嘱託を解く  森藤靖夫、富樫實、宮村守人、藤田三夫

               廣橋誠之、土谷忠、脇滋男、美澄義明、安江安宜

〃        自今手当1ヶ月金45円給与  嘱託      田中英夫

                   同       青木利彦

〃    自今手当1ヶ月金45円給与  同  内田達次、江藤丈夫、黄當時

     右3名「科学研究費」支弁従来「委任経理」

〃    支弁の処「科学研究費」支弁となる  嘱託  平山毅

12.24   伝染病研究所業務を嘱託し、

     手当1ヶ月金45円給与              山名月中

           





バード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年

 

第9章 聖戦

 米内内閣が発足してから3ヵ月後の4月、ドイツの西ヨーロッパ侵攻が始まり、8ヵ月前ポーランド占領に始まった国際関係の劇的な再編は完了した。他のヨーロッパの独立国ノルウェー、デンマーク、ルクセンブルク、ベルギー、オランダは次々と占領された。最後まで残っていたイギリス軍が撤退したフランスは、ほとんど軍事的に抵抗することなくドイツの手に落ちた。東京における地政学的な見通しは一夜にして変わってしまった。3年の長きにわたり、日本の政治指導者は中国でみずからが始めた戦争に、何の軍事的、政治的勝利の見込みもないまま、釘づけとなっていた。ヨー ロッパにおけるドイツの勝利は、日本にイギリス、フランス、オランダがアジアに持つ植民地を奪取するまたとない機会となったのである。いまやョーロッパからソビエトとの境界に至る資源の大半を支配し、イギリス侵攻を目前に控えたドイツという台頭勢力に便乗することで、利益を得て、弱点を穴埋めしようとする期待が急速にふくらんだ。米内が長い間、懸案となっていたドイツとの同盟問題に決定を下さないのを見て陸軍は倒閣を行い、天皇はこれを何ら妨げなかった。





*ご支援よろしくお願いします。
ゆうちょ銀行
口座記号  10100  番号67985861
口座名義  五井信治(ごいのぶはる)

他金融機関からの振り込み
店名 〇一八(ぜろいちはち)
店番 018 預金種目 普通預金 口座番号 6798586






0 件のコメント:

フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中