毒ガス年表
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1907年 「ハーグ条約」(毒ガス使用禁止)
1914年~18年 第1次世界大戦(毒ガス大量使用100万人死傷)
1918年 シベリア出兵 大量の防毒マスクと毒ガスをシベリアへに送る、陸軍省に臨時毒ガス調査委員会を設置
1919年 陸軍科学研究所設立 化学戦の研究に着手
1925年 「ジュネーブ毒ガス議定書」調印 (毒ガス・細菌兵器の戦争使用禁止)、
宇垣軍縮 軍備近代化のための毒ガス兵器の促進
1929年 大久野島にて毒ガスの生産開始
1930年 台湾湾霧社事件 霧社事件弾圧に日本軍初めて毒ガス使用
1931年 満州事変
1933年 陸軍習志野学校創設(毒ガス戦訓練開始)、関東軍防疫班創設(731部隊の前身)
1935年~36年 イタリア軍エチオピア侵略で毒ガス攻撃
1936年 2.26事件 陸軍毒ガス準備
1937年 日中全面戦争を開始 大本営陸軍部 催涙ガスの使用許可
1938年 731部隊ハルピンに細菌工場を建設 大本営陸軍部 くしゃみ性毒ガスの使用許可
1939年 同大本営陸軍部致死性毒ガスの使用許可、関東軍化学部チチハルに創設、曽根兵器製造所(毒ガス
弾の充填)創設
1941年 アジア太平洋戦争開始
1943年 相模海軍工廠(寒川)にて毒ガスの生産開始
1944年 大本営陸軍部毒ガスの使用中止命令
1945年 日本敗戦 中国全土及び日本各地で日本軍の毒ガス大量投棄
1946年 極東国際軍事裁判 日本軍の毒ガス。細菌戦は不起訴
1950年~53年 朝鮮戦争
1964年 自衛隊化学学校サリンの合成に成功
1965年 ベトナム戦争本格化(アメリカ軍枯葉作戦)
1969年 沖縄米軍知花弾薬貯蔵所で毒ガス漏洩事件
1970年 日本国会「ジュネーブ毒ガス議定書」批准
1972年 「生物・毒素兵器の禁止条約」調印、日中国交回復
1974年 中国黒竜江省ジャムス市、旧日本軍の毒ガス弾で35名重軽傷
1980年~88年 イラン・イラク戦争(イラク軍毒ガス使用)
1984年 旧日本軍の毒ガス戦関係公式文書相次ぎ発掘
1990年 国連軍縮会議で中国代表、日本に対し遺棄毒ガス兵器の廃棄処理を要求
1993年 「化学兵器禁止条約」締結 (他国に遺棄した化学兵器の廃棄義務も明記)
1995年 東京地下鉄サリン事件、日本政府調査団、中国各地で日本軍の遺棄毒ガス兵器の確認、
日本国会「化学兵器禁止条約」批准
1997年4月29日 「化学兵器禁止条約」発効、日本政府、中国の遺棄化学兵器の処理を開始
2025年3月19日 東京地裁判決 自衛隊「化学学校記事」の開示を却下
2025年現在 遺棄化学兵器の処理事業は終わっていない
*1931年~45年の間、中国では2091回の日本軍の毒ガス使用が確認され、9万4000人の死傷者を出したと中国資料は伝えている
*1945年以降、中国の遺棄毒ガスによる被害者は2000人以上と推定されている

日米軍事同盟反対!!
自衛隊「統合作戦司令部」発足 陸海空自衛隊を一元的に指揮
日本政府は、なぜ歴史的事実ときちんと向き合わない??
4月22日防衛省戦史資料室に元731部隊の池田苗夫の書いた「きい弾射撃による皮膚傷害・・・・」を閲覧しに行った。現物はあったが、写真を撮ろうとすると、この資料は業者じゃないと写真が撮れないという(つまり有料)、又肝心な袋とじの部分は公開しないとのことであった。この国は、731部隊の大事な資料もまともに公開できない後ろ向きな国だと思った。
石破首相は、「(略)その手立てと言うものが歴史の経過とともに失われた。・・・わが政府はそのような不誠実な政府ではございません。」と強弁しているが、手立てがあるのにそれを隠し続けている「不誠実な政府」なのである!!
井本日誌は、公文書(業務日誌)であって、私文書ではない!!
井本日誌は1993年まで公開されていたのに、なぜその後、非公開になったのか?
私的なものではない!!
井本日誌には、きちんと常徳の細菌戦の様子などが書かれている!!
戦史叢書には、井本日誌からの引用があるが、井本日誌にある細菌戦の記述はないのはなぜか?
731部隊の人体実験「資料ない」はウソ 公文書を示し追及
【731部隊】新資料で追及‼国会質問 徹底検証
この国家のやばい事実!!
(西山勝夫さんのメールより)

本庄繁の遺書
自衛隊でやっていることを隠蔽するな!!
自衛隊化学学校が作成した『化学学校記事』の情報公開を求めた裁判で、東京地裁は、原告の主張を無視して請求を棄却した!!『化学学校記事』については、情報公開を求めて審査請求をしたが、3年以上経ってから「不存在」の返事が来る始末。この間、防衛省は何を画策したのだろうか?
自衛隊化学学校では、1950年代から、毒ガス製造に関わり、1964年にサリンを合成しており、その後も毒ガスを作り続けている。
その化学学校が作成した『化学学校記事』が1冊も自衛隊にないという事は考えられない!!何で、機関誌を敢えて隠すのだ!!
裁判所は、強く情報公開を迫るべきだった!!
1925年に作成された毒ガスの実戦での使用を禁止するジュネーブ議定書に、日本は1970年になってやっと批准した。
その頃に作成された『化学学校記事16号』までの発行は自衛隊も認めている。16号は、原告側が持っていた。
認めたという事は、持っていることではないのか?
裁判所は、国側に加担し、三権分立を自ら放棄している!!
化学兵器禁止条約を日本は、1995年に批准しているが、OPCWの監視下、防護のためと称して、毒ガスを作り続けている。
戦中、毒ガス兵器を使い、その反省もせずに、戦後も毒ガス兵器の開発に手を染めている防衛省を、司法は裁かなくて良いのか、疑問を強く感じる。
裁判所には憲法9条を改めて、確認してもらいたい。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
『化学学校記事』12号の掲載された知られざる細菌戦の記述(杉田記事)
1938年 華中 細菌大量使用、1939年 ノモンハン 細菌大量使用、1940年 重慶爆撃 ペスト菌 コレラ菌使用、1941年 湖南省 細菌作戦、1943年 華中 華北 細菌作戦
化学兵器禁止条約(日本は1995年に批准)、これもザル法か?
化学兵器の開発・生産・貯蔵・使用を全面的に禁止するとともに、すでに存在する化学兵器および化学兵器生産施設を条約発効ののち原則として10年以内にすべて廃棄すること、一定の設備を持つ化学産業施設に対する検証措置をおこなうこと等を定めている。また、1925年1月1日以降に他国領域内に同意なく遺棄した化学兵器についても廃棄処理を行うこととされており、遺棄国に処分に必要な費用や技術の提供を義務付けている。
化学兵器禁止条約第2条9項の規定により、以下の目的については例外が認められている。
・工業、農業、研究、医療又は製薬の目的その他の平和的目的
・防護目的、すなわち毒性化学物質及び化学兵器に対する防護に直接関係する目的
・化学兵器の使用に関連せず、かつ化学物質の毒性を戦争の方法として利用するものではない軍事的目的
悪法!!秘密保護法撤廃!!
秘密保護法によって隠された自衛隊の実態について踏み込んで取材できる環境づくりが絶対必要だ!!
地下鉄サリン事件から30年 被害者や遺族 教訓語り継ぐよう訴え
地下鉄サリン事件被害者 “風化感じる”回答の8割以上 NHK調査
自衛隊合憲論反対!!
1995年3月20日地下鉄サリン事件発生
自衛隊化学学校は事前に起こることを知っていた。
科捜研の結果が出る前から自衛隊は、サリンであることを知っていた。
オウムの中に自衛隊信者がいた。その自衛隊員と化学学校の間で、電話で情報のやり取りがあった。
戦後も日本は自衛隊で毒ガスが作っていて、化学兵器禁止条約を批准(1995年)してからも、防護のためとして自衛隊では毒ガスを作っている!!(サリン、VXガス等)
自衛隊とオウムの関係もはっきりさせず、早々とオウムの幹部を死刑にした当時の安倍政権と法務省にも問題あり!!
立民・有田氏「地下鉄サリンは防げたのでは」 警察庁「当時の判断でオウム捜索に至らず」
2つの機関誌の情報をお持ちの方は、nobu.goi@gmail.comまでお寄せください。
自衛隊とサリン(週刊金曜日)
オウム真理教と闘って
ー関東地区青年婦人研修会の講演からー
関東地区開拓営農推進委員会(会長=野口正次茨城県関連会長)の青年婦人研修会が4月26日、山梨県で開催された。
今回は上九一色(かみくいっしき)村富士ヶ嶺地区でオウム真理教の無法と闘ってきた、元富士豊茂開拓農協組合長竹内精一氏の講演を聞き、参会者は大きな感銘を受けた。次に紹介するのは竹内氏の講演要旨である。
行政には再三、再四訴える。
それから第2上九、いわゆる第6サティアンの問題になるが、そこは道路と、便宜的に付けた道路との間の個人の土地で、道路は農協が管理していた。そこを彼らは自分たちで買ったと主張してトラブルが発生した。我々も自分たちの土地を守るために、オウムが入らないように境界に杭を打つ、彼らはそれを全部抜いてしまう。
私たちが一番問題にしたのは第7サティアン=サリンを作った工場である。第7は事務所として建築確認を取っている。しかしどう見ても事務所ではない。麻原は94年3月15日世田谷の道場でサリンの話をして、ロシアから毒ガス探知機入れたといっている。3月25日には仙台の道場で、サリン攻撃をされたのが修行した最終解脱者だから死ななかったと述べ、4月23日には、オウムが米軍、自衛隊、公安から毒ガス攻撃を受けていると、在家信者を含めて1万枚の手紙を配っている。そういうことがあって第7サティアンに防毒マスクをつけた連中が出入りするようになる。7月9日15日に第7の前から悪臭が出た。9日には2時間経って警察が来た時には臭いはない。15日には10数人が集まって、30分も行ったり来たりして調べた。どう見ても発生源は第7である。これは立ち会った警察官も確認している。警察、保健所に調査を依頼したが、どちらも検査をしない。2か月経って警視庁がオウムのどんな些細な事でも報告するようにということになって初めて土壌を採って検査することになり、サリンの残存物が出たのはそれから2か月経った11月だった。それを1月1日の読売新聞がトップで書いた。しかし「上九一色村の山中」という書き方で、それが肥料会社の三共有機ではないかと感じたものがいる。オウムは三共有機を告訴する。それが墓穴を掘ることになる。
原発で作り出されるプルトニウムを、日本は核兵器使用に使うのではないかとの疑念が湧き上がる!!(戦時中も日本は原爆開発をしていた)



















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