2016年11月2日水曜日

731=国家犯罪!!


●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、731部隊での人体実験、また中国各地で行った細菌戦を闇に葬っている!!



日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア

井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)

※井本熊男
・1935年(昭和10年)12月:大本営参謀本部作戦課に配属され、以降、一貫して、細菌戦に関して731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当となる
・1939年(昭和14年):支那派遣軍総参謀(作戦主任参謀)



寧波(ニンポー)細菌戦



闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)



細菌戦裁判(1997年~2007年)



終戦50周年731部隊



細菌戦被害の人々




(毒ガス戦)
原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】
<終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造

日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)



暴かれる毒ガス戦の真実



(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)



(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)


天皇は知っていた!!



澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!

『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。



石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。


これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。



次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。



石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。


石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)

東京初空襲・浙かん作戦

一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。

蛍石・・・・用途・加工法・・・古くから製鉄などにおいて融剤として用いられてきた。現在では望遠鏡や写真レンズ(特に望遠レンズ)などで、高性能化のための特殊材料としてキーパーツとなっている。フッ素の貯蔵に用いられることもある。

蛍石の彫り物




赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!

1921年昭和天皇フランス視察

1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察


??A氏(731部隊幹部)の言うには、今事実関係を明らかにすると、それは戦争中の犯罪行為を暴露するだけにとどまらす、戦後の重大な犯罪事実までズルズル数珠つなぎに明らかになってしまうから、だから話が出来ない、ということなのです。??


・731と天皇の戦争犯罪
同じように、おそらく日本政府が恐れているのは、戦争中の日本軍の戦争犯罪が暴かれて賠償の問題になることだけではなく、暴露によって戦後の重大事実が明かになることなのではないかという疑いが大きくあります。
それと同時にもう1つ大きな問題は、天皇の戦争犯罪の問題です。私も鑑定書で書きましたが、中国・浙江省寧波で細菌作戦の時、昭和15年の11月に発令された「大陸指」というのがあります。杉山参謀総長名で出ているものです。その781号によると、大陸指690号によって目下実施中の特殊ガスの試験を大陸命第439号に基づく大陸指第781号を以って終わりにすると、11月末日で終了せよという命令が出ています。特殊ガス試験というのは細菌兵器の実施使用のことです。これは明かに細菌戦の命令指示です。
「大陸命」というのは大本営陸軍部命令の略ですが、天皇が発する命令です。
当時は普通御前会議で昭和天皇と陸軍部の参謀総長、海軍の軍令部長とそれと大体原則的には侍従武官長が列席して、お上に作戦を上奏します。それでOKということになると「大陸命」を作成するわけです。陸軍部がやるわけですが、その「大陸命」を作るとそれに基づき「大陸指」を作成してこれでよろしいかと、お上にお見せするのが慣例でした。いつも必ず見せていた。それでこの通りにというと「大陸指」という参謀総長の発する命令、指令が出るわけです。作戦によっては担当の大本営の担当者、参謀が直接天皇の前へ行って作戦を事細かに上奏、説明します。・・・・・・(中略)・・・・・
瀬島龍三という元大本営の参謀も、「陸軍は大陸命、海軍は大海命といいますが、それがないと軍の用兵は何1つ出来ない、参謀総長や軍令部総長といえども、そういう厳密な手続きを経なければ勝手に軍を動かすことは一切出来なかった」と言っています。ですから「大陸命」に基づいてというところが一番肝心なのですが、その内容はすべて昭和天皇の耳に入っていたということです。ここに731を何としてでも隠蔽しなければならなかった理由があります。・・・・(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)




・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!

中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!



夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より


日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア


混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)



[訪中報告]常徳市・日本軍細菌戦被害70周年記念を迎えて
社会団体法人「常徳市日軍細菌戦受害者協会」成立
和田千代子(NPO法人731部隊・細菌戦資料センター理事)

70年を経て今なお癒えぬ被害者を前にして
 初めて参加した私には“常徳会戦慰霊碑と細菌戦被害慰霊祭”の組合せに“えっ!”と、しかし直ぐ、ここは「細菌戦」と「常徳会戦」による二重の被害を受けた地であることを思い出しました。この二重の被害によって市民の日本軍による侵略戦争に対する認識は高く、今回の70周年記念行事が市政府、市民全体の行事として取り組まれている事が良く分かりました。
 3日、被害者同志の交流の場でありながら自分の被害体験を語らずにはいられず、声を荒らげ涙ながらに訴える被害者の姿にいたたまれない気持ちになりました。
 各地から参加した専門家でない被害者達が、日本の法廷で敗訴になってもなお、日本政府に事実を認めさせ謝罪させるために、熱心に調査研究を続けています。日本政府は「過去の事。既に日中間で解決済み」と一言で片付けようとしますが、被害者にとっては70年を経ても今なお癒されず、心が安らぐ事はないのです。
 学生に「なぜ70年経ても解決しないのですか?」と問われても、言い訳にしかならない答えを発言している自分に虚しさを覚えましたが、被害者の心が癒される日が一日も早く訪れるよう、活動を続けて行きたいと思います。




小泉親彦(ちかひこ)



※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。






・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)

第2部
恐るべき遠足


死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。



・パネル展


・細菌戦最大の被害地・浙江省を訪ねるスタディツアー
2016年10月24日 衢州(くしゅう)



瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」






「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦




話は今につながっている!!
渡邊あきさんは満州の731部隊から無一文で引き揚げたのち、夫婦で食料品店を営みある程度繁盛したという。商売に忙殺され、子供たちを育て、戦後を必死で生きていく中で、部隊の事を思い出す間もなかったが、一方子どもたちにはそのことを隠し続けてきた。

石井隊長の戦後3





<群馬大病院>二つの外科、手術数競う 死亡事故調査委


筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ


「ミドリ十字」という会社




内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。

厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。

命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する

千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した

平成11年8月  厚生省


碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。

薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体


イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴


イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状





国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!


子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ



以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。



国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!

ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)


ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した[3]。
施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。
ABCCは調査が目的の機関であるため、
被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった[4]。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。





731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731の流れは国立予防衛生研究所(予研)→国立感染症研究所に姿を変えている!!
エイズ・エボラ出血熱・マーズ・サーズ新型インフルエンザなどの病気は、世界のこういった研究所で作られたのではないか??
一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか??
国立感染症研究所

国立感染症研究所

どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!



731細菌部隊と帝銀事件との真相1

防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか???






ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永

第4章 日米軍事医学交流

「特殊研究」関係者の原爆調査

分析の結果, 「広島における原子爆弾症の病理解剖(西条療養所の剖検例)」を文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に報告している。伝研調査班は、9月と10月にも広島で追加調査を行って70あまリの臨床例を調査している。 草野が戦後原水爆禁止運動に尽カしたからといって、田宮らの免責のための原爆調査に結果的に「貢献」したことを帳消しにできるだろうか。




放射能汚染地図「川で何が起きているか?」



海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集



原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書



開示された文書「何で黒塗り?」








・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!!

<国連>「核廃絶」決議採択 保有国は反対、日本は棄権




潜在的核保有国化を目指す日本は、「核廃絶」決議を棄権!!
日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!

◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直

かくて中曽根が1954年3月2日、原子力予算23,500万円を国会に緊急上程したとき、仁科のめざした、アメリカの核(水爆)の傘の下、原子力の平和利用を通じた潜在的核保有国化をめざすという考え方は日本の国是となったのである。
 しかもその1954年3月2日という日は、1953年12月8日、国連においてアイゼンハワーアメリカ大統領が、原子力の平和利用と国際管理をめざすAtom for the peace演説を行った直後であり、何よりもアメリカが南太平洋ビキニ環礁において初の実用水爆実験に成功した1954年3月1日の翌日であった。仁科の考え方の国是化を内外に宣するのに、最もふさわしい日だったのである。




湯川秀樹・・・(ウキペディアより)(中略)またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。
ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。

※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。


※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!


原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)








●毒ガス問題
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 北 宏一朗

相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗

―毒ガス工場の恐ろしさ―
15才~16才の少年・少女も含む総数3000名以上を[海軍魂・精神棒」と書いた丸太で殴り、或いは「対抗ビンタJ等で威嚇し毒ガス生産にあたらせたのです。60kgイペリット爆弾を中心に1号特薬(催涙)、 2号特薬(嘔吐)、3号特薬甲(びらん)、イペリット、同乙(ルイサイト)、4号特薬(青酸)等が作られました。
 これらの化学兵器・毒ガス兵器はどこに送られ、敗戦時にはどこに隠匿されたのでしょうか。その多くが中国大陸へ、そして南方へ、対ソ戦用に北方に配備、最後には本土決戦用 として(決号作戦)大量の毒ガス兵器が配備されました。 陸軍毒ガスエ場の大久野島(広島)には現在も地下壕に大量の毒ガスが埋蔵されています。北海道美幌基地の地下壌にあるも60kg イペリット・ルイサイト混合爆弾(不凍)、福岡県苅田港周辺海域に放置されたまま538発にのぼる爆弾、寒川町岡田にある特殊地下壕に隠匿された各種毒ガスの原材料、毒ガス兵器、隠匿された陸・海軍の化学兵器、毒ガス兵器は今日に於いても、その毒性はおとろえることもなく地下に、地中に、海中等に眠っています。国内にとどまらず、中国をはじめ東南アジア全域に、南洋諸島に及んでいます。

豊洲は、旧陸軍毒ガス製造地の汚染土が盛土されていた!



・「中国軍の公式報告によれば昭和12年より昭和20年に至る間中国における日本軍は1312回に亘り毒ガス及び細菌を使用せり・・・・」


毒ガスと抗がん剤(船瀬俊介VS内海聡)



抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ



・日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より


・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?

アメリカとの合同軍事演習が緊密化し盛んに行なわれているが、兵器の共同研究も進んでいるのではないか。日本の進んだミサイル技術は、アメリカで試されるという。いろいろな軍事技術の交流があるのだから、核兵器の技術も十分に手に入っているのではないか?

(時代背景)
1995年当時の内閣は、日本社会党の村山富市氏であった。村山氏はこのとき、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。
このときは、国民の関心が自衛隊に集まっている時であった。
その中での、地下鉄サリン事件、そして、自衛隊の出動・事件の対処がある意味称賛される。これは、何を意味するのだろうか?


死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)

1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。
地下鉄サリン事件



医学者とは1




松本サリン事件・地下鉄サリン事件が起きる前に、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護方法を熟知していたのは日本では自衛隊化学学校だけである。その自衛隊化学学校のサリン製造技術及び防護方法がオウムに漏れていたのではないか??

『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態(実物のサリンは持ち出せないが、データ資料の管理はどうなっていたのだろうか?)???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。


【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】

【この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。】
(『悪魔の白い霧』下里正樹著)

自衛隊は、毒ガスのデータを1950年代に米軍(米軍は、ナチスドイツの文献資料を日本から入手して毒ガスを製造)から入手し、開発を進めていた。

・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

週間金曜日 2013年5月24日号
自衛隊とサリン 第2回
元陸自化学学校長が毒ガス製造を認めた!
・サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
※国威発揚のオリンピックと戦争は大いに関係した。(1940年の東京オリンピック、日中戦争の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。この年皇紀2600年の記念行事として準備が進められていた。)
・1973年、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。

毒ガス第2世代
第1次世界大戦(1914~18年)は「世界初の毒ガス戦争」とも言われる。・・・・
こうして1918年に終結した第1次世界大戦の中では、市民も含めて100万人以上が毒ガスを浴び、その1割に当たる約10万人が死亡したとされる。
 その後も毒ガスの研究・開発は進み、第2次世界大戦(1939~45年)の前あるいは大戦中にナチス・ドイツが相次いで開発した毒ガスが「第2世代の毒ガス」と呼ばれるものだ。殺虫剤研究の中で1936年発見された「タブン」、そのタブンの2倍の毒性を持つと言われる「サリン」(1938年)、極秘に開発され第2次大戦終了後まで知られることはなかった「ソマン」(1944年)などである。







※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。

戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!


日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)


国会答弁書





●オウム真理教教と闘って(県の機関、警察は何もしなかった!!)

ー関東地区青年婦人研修会の講演からー
関東地区開拓営農推進委員会(会長=野口正次茨城県関連会長)の青年婦人研修会が4月26日、山梨県で開催された。
今回は上九一色(かみくいっしき)村富士ヶ嶺地区でオウム真理教の無法と闘ってきた、元富士豊茂開拓農協組合長竹内精一氏の講演を聞き、参会者は大きな感銘を受けた。次に紹介するのは竹内氏の講演要旨である。


・89年突然入って来たオウム教


恐ろしい微罪逮捕の日常化

一番大事なことは、思想や宗教というのは人間の心の問題である。心の問題は力によって絶対に抑えられないということである。今やオウムは死に体で破壊する力もなければやる人間もいない。必要なことはオウムの信者の心をケアすることである。オウム真理教は間違っているということを分からせ、心をほぐしていくことである。私はある信者と話をして家へ帰るまで半年かかった。それを法律で追いつめてしまえばよいというものではない。




・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
だが、このとき運び出された8300トンのサリンは、貯蔵量のほんの一部、知花弾薬庫には、まだまだ大量の神経ガスの残されてあった!!

日本軍の毒ガス被害



昭和天皇の“沖縄メッセージ”




●多磨霊園と大日本帝国



・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。




吉岡 安直(よしおか やすなお)

明治23年(1890年)11月1日 - 昭和22年(1947年)11月30日)57歳没
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
農業・川内清作の五男として大分県に生れ、佐賀県の貿易商・吉岡又吉の養子となる。中津中学校、第五高等学校中退、士官候補生を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。陸士生徒隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業し歩兵第45連隊中隊長となる。
1927年(昭和2年)2月、参謀本部付勤務(庶務課)となり、参謀本部員、支那駐屯軍参謀、歩兵第45連隊大隊長、第8師団参謀などを歴任し、1932年(昭和7年)12月、関東軍参謀となり、翌年8月、歩兵中佐に昇進。1934年(昭和9年)8月、陸士教官へ異動した。
皇帝御用掛
1932年3月の満州国建国後の1935年(昭和10年)3月に皇帝・愛新覚羅溥儀の御用掛(関東軍司令部付)となり同国の首都・新京に赴任。その後、日本の駐満州国大使館附武官などを兼務しながら同職を務める。第二次世界大戦勃発後1942年(昭和17年)12月に陸軍中将となり正三位勲一等を授与される。
1945年(昭和20年)8月8日にソ連軍がソ満国境を越えて満州国に侵攻した際に、溥儀ら満州国首脳とともに新京を放棄して朝鮮にほど近い通化省臨江県の大栗子に避難していたが、8月15日に日本が連合国に降伏したことに伴い8月18日に溥儀が大栗子で満州帝国解体と満州帝国皇帝からの退位を宣言したため、吉岡も全ての職位を失うこととなった。
その後、溥儀らとともにソ連軍に捕まることを避けて日本へ逃亡する途中、奉天の飛行場でソ連軍に捕らえられた。その後ソ連領内に移送され、ソ連当局からスパイ行為などの容疑を掛けられて尋問を受けた。1947年(昭和22年)にモスクワの病院で死去[1]。墓はモスクワ市内のドンスコイ修道院内の日本人墓地にある[2]。
ソ連崩壊後の1994年(平成6年)、ロシア連邦政府は、吉岡が当時ソ連に対するスパイ活動を行っていたという形跡は確認されず、拘留は不当なものであったと認めて名誉回復を行った[3]。

評価[編集]
満州国で皇帝溥儀の御用掛として勤務していた頃は、関東軍と満州国の連絡係的存在であることをいいことに、当時満州国の事実上の宗主であった関東軍の威を借り、溥儀ら満州国皇族を意のままに操ろうと企む黒幕的存在の一人と言われた。[要出典]
実際に溥儀自身が、極東国際軍事裁判での証言[要出典]に加え、1964年に中華人民共和国で出版された回顧録「我が半生」(日本語訳・ちくま文庫上・下)などで、吉岡の満州国時代における言動を批判していた他、側室の譚玉齢を吉岡が暗殺したと証言していたが、没後40年を経て、2007年に出版された同書の完全版[4]で、皇帝溥儀は「極東国際軍事裁判で、吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省した」と述べている。
溥儀の弟溥傑の日本人妻嵯峨浩は自著『流転の王妃』で、軍と御用掛という身分を笠にきて皇帝をあやつる傲岸不遜な人物と評している。一方で、満州国崩壊後、一行を守るべく危険を顧みず行動したことを称賛している[5]。
吉岡と親しかった山口淑子は自著の中で「皇帝を尊敬していると口にしていた」、「(吉岡が)皇帝と関東軍の板挟みで苦慮していた」と述べていた。[要出典]
また、溥儀の「自分は満州皇帝だというが、ロボットに過ぎないではないか」という不満は、皇帝個人の意のままになる「専制君主」としての理解だったので、それゆえに吉岡ら側近に関東軍や政府首脳は、筧克彦や清水澄といった公法学者を招いて憲法や国法学の進講をしてもらったりもしたという[6] 。





●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!

毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。

情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず


自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!





お役人のお仕事・・・いかにまずい資料を隠すか??
お粗末な日本政府の情報公開



・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしいではないか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?

そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?


・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!



※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!


情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。

審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。

思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??

裁判所の決定




「ABC企画ニュース」より


10月11日(火)14:00から、東京地裁419号法廷で、第12回目の防衛省の『衛生学校記事』の公開を求める裁判が行われました。岩井裁判長は、被告の防衛省に対し、詳しく調べるように、具体的な名前まで挙げ(防衛省が管轄する図書館のすべて、例えば、衛生学校図書館、彰古館等)さらに防衛省の外局も調べるように、また、あった場合は、その経緯も報告するように命じました。
また、ある程度時間がかかってもよいということで、よく調べてくださいということでした。
原告側からは、防衛研究所にある資料と金原節三目録の資料とは同じではないかということで、同一のものであることも確認してくださいということが付け加えられました。
ということで、次回の裁判は来年の2月28日になります。



「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)

※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。満州事変を起こしたあの謀略戦争の開始、あれは関東軍が先走ったと言われているが、その関東軍の上層の命令が無ければ出来ない、そして結果的には大元帥陛下、天皇が承認しなければ出来ない、そういう組織が日本の軍隊だ!!





●『日本の国家機密』(秘密国家日本の実態)
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!

特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)

ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より

第2篇  自衛隊の機密

第1章 作戦用兵


5  治安出動体制

60年代の出動体制強化

治安行動教範は、出動部隊として①小銃・機関銃編成の部隊、②戦車・装甲車部隊、③施設部隊(工兵)、④航空部隊、⑤空挺部隊、⑥警務隊、⑦調査隊、⑧法務幹部、⑨化学部隊、⑩写真部隊、⑪広報部隊、⑫証明資料収集班を動員するとし、制圧行動としては検問、巡察、示威にはじまって放水、催涙ガス・煙の使用、狙撃、刺突、捕獲、戦車・装甲車による攻撃などの方法をとるとしている。



(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30



※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景



※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)

※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。



●現在の日本

日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
戦後、全く戦争の反省をしないばかりか、あの戦争を肯定しようとしているのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造(チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。)→山下俊一(福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。)

日本の原爆開発




核融合はやるべきではない!!

この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所

原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?



”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)


科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中にさせられる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』







●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。



友人たちへの回覧状(1938年11月29日)
親愛なる友人がた;

反対尋問(続き)
クレトゥマン大尉による尋問:
 問: 博士、あなたが見たと言われる諸報告についてですが、あなたがグルーさんに言及しているところで、枢密院のことが述べられていましたか?
 答: 私が見たメッセージは、1938年1月と2月に南京で発生していたことに限定されていて、グルーさんの広田さんと確か外務省の芳沢さんとの会話に言及したものでした。他の人たちが言われていたかは、思い出せません。
 問: 博士、あなたに私の質問が聞こえましたか?
 答: 聞こえたと思いますが。
 裁判長: 枢密院が意見を聞かれたかどうか、どうして証人に分かるのだろうか?
 問: どれほど長くあなたは中国におられましたか、博士?
 答: どれほど長く私が中国にいたかですか?休暇―合衆国で過ごした定例の休暇は別として、1920年から1941年までと、1945年から数週間前まで、そこにいました。
 問: それで中国の大学で、歴史を教えましたか?
 答: はい、教えました。
 問: そこであなたは日本の政府の政治上の食い違いに気付いていますか、博士?
 裁判長: あなたはあなたの反対尋問を、直接尋問で提起されている事柄に限定しなければならない。証人が歴史家であると言う単なる言明は、あなたの言及するあらゆる事柄につながるものではない。








しゃべってから死ぬ!南京大虐殺



南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分




昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より

第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦

日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・

(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。

したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より



軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)

お粗末な日本政府の情報公開



※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)




世界初の「南京大虐殺辞典」出版される








●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん


2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。




<訥々とつづる背後は>
 418ページに及ぶ16年の記録は、淡々と、かつ訥々とつづっている。そこに、伝えようとしても伝えられない悲しい思い出が読み取れる。
 人生は山あり谷ありである。順風満帆などない、といってもいい。苦悩の連続といってもいい。一見楽し気にふるまっている人でも、一歩踏み込むと、そこに悲しい事実に泣いていることも珍しくない。

 筆者も近年、妻を含めて3人の親しい友を失ってしまった。重い病気が生きる力を奪ってしまったのだ。医療事故で息子を奪われた妻は、その心労で重い病につぶされてしまった。
 筆者の日中友好活動に支援してくれた人権派弁護士も、そのまじめさから来る心労で病に倒れてしまった。
 幸せを目の前にしながら、やくざの牙にかまれ、逃げ出そうとして食い殺されてしまった悲劇の友もいた。戦争遺児である。これの徹底追及を月刊誌「財界にっぽん」で開始した。




発売元 亜東書店 03-3835-7091 
中国語版 北京三聯書店「何有此生」







●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
医学者とは7




ガン治療のウラ 2/8






悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄6/6 ラジオ深夜便







●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第15章東京裁判



 訴訟手続の不備やその複雑な政治的性格にもかかわらず、東京裁判は日本の国民に対して、そして敗戦に関する彼らの見方に対して、深く多面的な影響を与えた。右派の一部は裁判にきわめて批判的で、恨みと怒りを抱き、日本の侵略をけっして認めようとしなかった。
例えば、岸信介は、巣鴨プリズン拘留中に書いた日記によれば、戦犯裁判をある種の「茶番」と見ており、残された政治生命を裁判の影響を取り除くことに捧げた。他の右派の人々は、日本は丸裸にされて世界の前で辱められたと感じ、裁判を無視するか、意識的に考えないようにし、そこからいかなる政治的、文化的な教訓も引き出すことを拒んだ。例えば、保守主義者で元総理大臣の芦田均は、裁判は国内にはあまり大きな波紋を与えないだろうと予測している。



●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第四章
天皇家の遺産
(その2)


将軍

宮廷が優位をほこる京都にあっても、そのほんの近辺まで、将軍つまり武士団司令官の軍事政府とその参謀、諜報員、そして兵卒が土地豪族を統率し、税金を取り立てていた。彼らはやがて、そうした日本の暫定勢力を統一し、天皇をただの宗教的権威以外には何も持たない存在へと追い込んだ。しかし、高僧として、天皇は常に、政府高官の就任のすべてに、それを授与し祝福する権威を維持していた。それをもってはじめて、彼らは国事の統治者であることを自ら名乗ることができ、逆に、国の重要事項について〔天皇と〕相談する義務を負った。ことに、そうして彼らは、日本の下層武士に関する絶対的権威を名乗りえた。移り代わりはありながら、そうした彼らの主張は決して否定されなかった。




昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に





















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