2012年3月19日月曜日

この世の地獄!南京・原発・登戸・516・731!!

1937年12月13日
南京陥落!!

南京大虐殺

河村・石原両氏の発言には全くあきれる!!
歴史問題の解決こそ日中外交の優先課題(1)=中国人有識者
名古屋市河村市長南京発言を検証する緊急市民集会 3月31日
女性政治局員の訪日案浮上=来月国交40年行事に派遣―関係緊張で人選に苦慮・中国
震災後の日本の対中「感謝外交」をどう受け止めるべきか―中国メディア
中国要人が4月に相次いで訪日、日中関係の早期修復が狙いか―米華字メディア
日本企業家が南京市民に謝罪、大虐殺生存者支援に100万円寄付
名古屋の河村たかし市長、南京大虐殺の「発言は撤回しない」と表明
南京虐殺否認罪「発言控える」=名古屋市長
全人代代表が大虐殺否認罪を提案、「日本の右翼分子を威嚇すべき」
全人代に「南京大虐殺否定罪」制定を提案、名古屋市長発言を受け―中国
「河村たかし名古屋市長の南京事件を巡る発言」
「南京に国家規模の抗日戦争記念館を」全人代で提案―中国
名古屋市長が南京大虐殺を否定で、南京大虐殺記念館長が「憤慨」

史実を守る会は、河村市長に以下の抗議文を送りました。
抗議文

名古屋市市長 河村たかし殿

(1)貴殿は2012年2月20日午前、表敬訪問に訪れた南京市の共産党市委員会常務委員の一行に対し、「南京事件はなかったのではないか」と発言し、その後も同趣旨の発言を繰り返し、その結果、南京市は名古屋市との交流を一時停止、中国国内でも大きな反発を呼ぶなど、大きな問題に発展している。

(2)貴殿の今回の発言をまとめると、南京事件を否定する根拠として、①終戦後、下士官だった貴殿の父上が南京市において手厚くもてなされた、②目撃者がいない、という2点を挙げている。

しかし、根拠①は、当時の蒋介石政権の「以徳報怨」政策(国共内戦を見越しての日本軍宥和政策)に基づくものと解されるが、そもそも、この様なことが大虐殺を否定する根拠となるはずもない。これを根拠に大虐殺を否定するなどというのは、父上に対して温情を示した南京市民を裏切る暴論である。

また、根拠②は、事実に基づいていない。まず、その前提として指摘するが、南京市の地理の広さ、事件の期間の長さを考慮すれば、大虐殺の全体像を「目撃」することは不可能である。したがって、ここでの「目撃者」とは個々もしくは一定集団に対する虐殺の目撃事例ということになる。
そこで目撃の一例を挙げるならば、夏淑琴さんのケースがある。夏さんは、当時7~8歳だったが、2家族13人の内、11人が殺害されたことを目撃している(※1)。
一方、 独立工兵第1連隊第2中隊の岩崎昌治伍長は、捕獲した敗残兵を殺害したり、「城内に居った支那人を約二千名」を「全部殺してしまった」と陣中書簡に書いている(※2)。
また、ロイター通信社のスミス記者は、揚子江の桟橋で、「一千人の中国人を」「脆かせ、後頭部を撃ち抜く」という処刑の光景を目撃している(※3)。
この様に南京事件は、被害者も加害者も、また第三者でさえも虐殺の模様を「目撃」している。貴殿が言うところの「目撃者がいない」とは、単に「目撃事例の資料を知らない」ということでしかない。

(3)貴殿の「根拠」は根拠たり得ないものであり、それをもって「南京事件はなかったのではないか」などと主張するのは、非科学的主張としか言いようがない。
あまつさえ、表敬訪問に訪れた被害国の要人に向かい、この様な非科学的主張によって被害事実を否定するなどということは、誹謗中傷と受け止められても致し方ない。
即刻、「南京事件なかった」という暴言を取り消し、日中双方の国民に向かい、自身の不明を詫びることを求めるものである。

2012年2月26日
南京への道・史実を守る会
fact_keeper@yahoo.co.jp
http://jijitu.com

※1 笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』(高文研、2006年)P132-146
※2 岩崎稔『或る戦いの軌跡』(近代文藝社、1995年)P23-80
※3 石田勇治他『ドイツ外交官の見た南京事件』(大月書店、2001年)P44-50

石原都知事:「河村君正しい」 南京事件否定発言を擁護
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南京大虐殺74周年、日本は沈黙
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“南京事件”…犠牲者名簿に新たに1万人を追加=中国
南京大虐殺、新たな証拠品
南京大虐殺 日本の住職、資料を寄贈
南京大虐殺74年で追悼式典 未解決の歴史問題浮き彫り

3月28日 南京に中華民国維新政府成立。南京事件終焉する。
4月 1日 国家総動員法公布。 
【南京事件:笠原十九司著:岩波新書より】
「南京事件」143枚の写真  
  
       
  
       
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
フォースター
フォースター
アメリカ大使館への手紙(1938年3月10日)
私はまた敷地内で、アルバム1冊と衣装何着かを見つけましたが、そこで確かに、略奪が行われていたことの表れです。
 1937年12月17日のことです。私がまた2ヶ所に見に行きましたら、その場で日本兵らを見つけたので、追い払いました。彼らは身に斧を帯びていて、住居の戸が打ち壊され、箱やトランクがこじ開けられ、中の物が地面に散らばっていました。
 日本兵らが聖ボーロ堂に隣接した、中国のホテルに住まっていました。彼らが両方の敷地を隔てている壁に、穴を1つ開けました。教会の井戸水で、野菜などを洗うのです。1人の兵士が会堂の後ろで、銃剣を磨いていて、我々の領地に勝手に入り込む権利はないんだと、私が指摘したら、壁の穴からすっ飛んで行きました。もう1人の日本兵が、私達のある中国人牧師の住居を、略奪しているのを見つけましたが、その住宅もアメリカの資産に属し、しかも会堂の敷地内なのです。
 1937年12月23日のことです。私がまた教会の敷地を見に行き、そこで陳さんの奥さんを見かけたのですが、奥さんは教会のある働き人の未亡人で、看護婦さんです。彼女が教会の塔の中に避難していたときに、日本兵が出たり入ったりして、我々の財産を略奪しているのを見かけたのです。私達のある中国人牧師の住居内の、ピアノが盗っていかれるのを、彼女が目撃したのです。

12月17日 南京入城式
『南京城頭日章旗翻る』&『南京入城式』

・映画やテレビの時代劇ではクライマックスにチャンバラシーンがあるが、斬られた方のその後の苦しみ・悲惨な光景は省略されることが多い!!日中戦争でも多くの捕虜や市民が日本刀による「据えもの斬り」にされ、殺された。最近のテレビでは日本刀を伝統文化だといって取扱っている番組があったようだ!!恐ろしい!!
・なぜ南京軍事法廷では皇族の朝香宮(当時上海派遣軍司令官)は皇族ゆえ裁かれなかったのか?
南京戦犯裁判軍事法廷の設立と経緯

南京大虐殺マギーフィルム)1

南京大虐殺

日中戦争 (1937-1938)

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )

兵士たちが記録した南京大虐殺1

「南京!南京!」が見られる映画サイト
映画「南京!南京!」日本語字幕版全編1/14

日本の戦争 2

南京大虐殺10
南京大虐殺
南京大虐殺9
南京大虐殺
南京大虐殺5
南京大虐殺



日本は唯一の被爆国であり、広島・長崎では核兵器廃絶のアピールが毎年盛んに行われていたが、今度はその日本が、放射能汚染の加害国になってしまった!!
原発輸出反対!!

日本政府は、先の侵略戦争を真摯に反省し、アジア・日本の被害者に対し謝罪すべきである!!
遺棄毒ガス兵器の処理を急げ!!

きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!! 
  「怨」
No More 731!! No More Nanking!!
No More Noborito!! No More War!!
No More Fukushima!!
武器よ!原発よ!さらば!!
沖縄の米軍基地撤去!!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
9条を世界に!!

新しい日本!! 

世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!!
昭和天皇の戦争犯罪・戦争責任を問う!!
政府は戦史資料を全面公開せよ!!
原発・軍事偵察衛星・次期主力戦闘機・リニア・スパコンは要らない!!
税金を震災復興に回せ!!憲法9条が泣いている!!

※リニアモーターカーは膨大な電力を食い(原発3基分)、福島第1原子力発電所の事故ではスピーディー(スパコン)で計算されたデータは全く生かされなかった!!


沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。

城山三郎著『落日燃ゆ』には広田弘毅が、南京大虐殺当時の外相として事件の処理にあたり、軍部に対しても強く抗議した模様が描かれているが、外相・首相と務めれば日本軍が中国で何をやっていたかを熟知していただろう!!もちろん731部隊の残虐な実験や作戦についても!!東京裁判では広田は何も弁明していないが、日本がアジア諸国に及ばした加害の事実はよく知っていたのではないのか?
 
広島・長崎の原爆の詩は、日本軍が中国・アジア太平洋で行った残虐行為を受けた多くの被害者の方々にも当てはまる!!
 峠三吉の詩『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 


福島に限らず放射能汚染に悩む全世界の人々の悲痛な叫び!!
ふるさとを返せ!!自然を返せ!!
日常を返せ!!  脱原発!!

日本は、“平和を愛した?”「昭和天皇」・“原子力の未来を明るく描いた”「鉄腕アトム」・“アメリカと結託して原子力を推進した”「中曽根・正力」・“今現在でも原子力を推進しようとする「石原」に騙され続けているのでは?と強く思う!!


福島4号地震で傾斜修理中! 1.2.3号機メルトスルー!5/13ガンダーセン(字幕)
東電のカネに汚染した東大に騙されるな!
日本を導く頼もしい学者先生方
医学は水俣病で何をしたか(抜粋)
水俣病のときは、東大の学者を利用して世論操作を行い、被害を拡大させてしまって...
「原爆報告書」は、毒ガス戦・731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!

731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書

封印された原爆報告書
広島・長崎あわせて20万を超える人々の命を奪った原子爆弾。これまで日本は、アメリカが原爆攻撃の準備をしていることを知らないまま、“想定外”の奇襲を受けたとしてきた。しかし実際は、原爆投下に向けた米軍の動きを事前に察知していたことが、新たな証言と資料から明らかになってきた。日本軍の諜報部隊が追跡していたのは、テニアン島を拠点に活動するある部隊。軍は、不審なコールサインで交信するこの部隊を、「ある任務を負った特殊部隊」とみて警戒していたのだ。8月6日、コールサインを傍受した軍は、特殊部隊が広島に迫っていることを察知。しかし、空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。そして9日未明、軍は再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。情報は軍上層部にも伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかった。
番組では、広島・長崎への原爆投下を巡る日本側の動きを克明に追う。情報を掴みながら、なぜ多くの人々が無防備のまま亡くならなければならなかったのか…。原爆投下から66年、その問いに初めて迫る調査報道である。
*SPEEDIの情報をつかみながら住民の避難に生かさず見殺しにした民主党政権は、戦時中の大本営とまるで変わりありません。

20120211 原爆投下 活かされなかった極秘情報
731部隊と山下俊一
山下俊一トンデモ発言

山下俊一のお師匠さん、重松逸造とは?

福島1万人余外部被ばく量推定(2月20日 21:00更新)
【170】 医療崩壊か? ... 医師の自重を求める / 武田 邦彦

長崎大学:チェルノブイリ原発事故と甲状腺がん
甲状腺がん手術症例数の年次推移
このスライドはベラルーシ共和国のがん登録数で、年齢別に手術された甲状腺がん患者10万人あたりを年次推移としてあらわしたもの。
ここで、福島原発事故後に福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーに就任した山下俊一・長崎大学教授がチェルノブイリ原発事故後10年をピークに、被ばく時年齢0から15歳未満の甲状腺がん手術数が激増していると解説している。
山下教授は、アドバイザーに就任以降、後に計画的避難区域に設定さた福島県飯舘村で行った講演等で、「健康へのリスクは低く、心配する必要はない」などと発言しているが、飯舘村はベラルーシの強制移住の基準を超えている。
【177】専門職が立ち上がって欲しい(1) 医学の良心と医師の倫理 / 武田邦彦


原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~


2011年12月22日 「国の放射能の『除染に効果はない』」神戸大教授 山内知也


東電・政府発表の言葉のウソ「除染はできません/(中間貯蔵施設は)1度やったらば動かない」小出裕章


小出裕章:4号機燃料プールが崩壊すれば日本は"おしまい"です

農民詩「見えない恐怖のなかでぼくらは見た」は2011年7月18日付で農民連の「しんぶん農民」に掲載され、全国の脱原発集会で朗読された。作者の前田新は会津美里町に住む農民、詩人、作家である。2011年3月11日に勃発した福島第一原発の惨事から四ヶ月目に書かれたものだが、一周年を迎えた今も、原発事故のせいで家を、土地を、家族を、生活を奪われた数十万の人々の怒りと絶望を代弁するものである。農民にとって、手塩にかけて育てた農産物が放射能汚染にさらされるほど無念なことはない。2011年3月29日には、須賀川のキャベツ農家が、政府が新たに発表した摂取制限を聞き、全ての希望を失い、自殺した。前田にとって、農民から生活と命そのものを奪う国策は、隣国の征服と搾取を「国益」とし、多大な市民の命を犠牲にした戦時中の国策を彷彿とさせるものであった。福島医大で教鞭を取る経済学者の後藤宣代は、2011年10月に開催されたUCバークレイ校での福島関連の会議の場で前田の詩を朗読し、この詩に心を打たれた同校の日本近現代史教授、アンドリュー・バーシェイが英語に訳した。後藤の見解では、福島核危機を受けて発表されてきた文学、芸術作品は概ね「福島大好き!福島がんばれ!」といった無批判な応援調のものが主流だとのことである。この傾向は、結果的に、東電や日本政府に対して大きく広がった市民の怒り、そして、放射能から子どもたちを守ることを要求し続けている母親たちの運動、この一年で急増した脱原発運動などの、市民の抵抗運動を抑制することになってしまっているのではないか。ブルームバーグのコラムニスト、ウィリアム・ペセクは、会計処理の不正や汚職により、オリンパスのような大企業のトップや総理大臣さえもが投獄されてきた日本であるのに、野田首相が原発事故について「個別の責任を問わず、痛みは全員で分かち合う」と表明したことについて「開いた口がふさがらない」と言っている。(注)前田新による詩は、日本で起こった大惨事の連続を受けて、責任の所在と適切な処分をどう追及していくのかという重要な課題を我々に突きつける、貴重な文学の「声」と言えよう。(乗松聡子)


(注)William Pesek, “Forget the yakuza, the nuclear mob should be the ones sent to jail,” Sydney Morning Herald, March 10, 2011. Link

見えない恐怖のなかでぼくらは見た

前田 新(福島県農民連会津美里町在住)

見えない恐怖に脅かされて
4か月も過ぎたいまも
ぼくらは、ふるさとの町を追われたままだ
レベル7、その事態は何も変わっていない
何万という家畜たちが餓死していった
人気のいない村に、その死臭だけが
たちのぼっている

姿を見せないものに
奪われてしまったふるさとの山河を
何ごともなかったように季節が移ってゆく
郭公が鳴くそこで、汗を流して働くのは
もう、夢のなかでしかないのか
ぼくらは、そこに立ち入ることもできない

かつて、国策によって満州に追われ
敗戦によって集団自決を強いられ
幼子を棄てて逃げ帰ってきたふるさと
そして苦闘のすえに築いた暮らしを
あの日と同じように、一瞬にして
国策の破綻によって叩き壊された

しかもこれは痛みのない緩慢な死だが
あの日と同じ集団自決の強要ではないのか
七三一部隊の人体実験ではないのか
なかまよ 悲しんで泣いてはいられない
この4ヶ月の間、見えない恐怖のなかで
ぼくらがこの眼で見たものは

それでも、儲けのために
原発は続けていくという恐怖の正体だ

よし、そうならば
ぼくらも孫子のために、腹をすえてかかる

かつての関東軍のように、情報を隠し
危ないところからは、さっさと逃げ帰って
何食わぬ顔で、安全と復興を語る奴らに
そう簡単に殺されてたまるか

なかまよ、死んでいったなかまよ

原発のエキスパート、アーニー・ガンダーゼン氏が緊急警告「事故当初からそうですし、今もなお一番危ないのが4号機です」 -インタビュー(週プレNEWS)

東京で採取(土壌)は #放射性 廃棄物レベル! ガンダーセン<字幕>



震災がれきの再利用の政府方針について。- 2012.03.15


20120315 たね蒔きジャーナル 京都大学原子炉実験所助教 小出裕章


飯田哲也:今夏の電力は足りる"電力が足りないと言う人は知恵が足りない



20120316 姜尚中が見た“脱原発...

釜石の奇跡(脈絡のない記事ですいません(;^ω^))

関電は原発全廃を、大阪府市が提案骨子

大江健三郎さん「原発再稼働ノン」 パリで日本政府批判


橋本さん!首相公選制よりいっそのこと、天皇制から大統領制にしてみては!!
(戦争の反省とそれに基づく憲法9条を国是にして)

大阪府教育基本条例案に反対します

「君が代」は歌えない!!
<君が代訴訟>「減給や停職は慎重に」…最高裁が初判断
<大阪府教委>君が代起立斉唱の職務命令
都教委は、「君が代」不服従の教員を
停職処分にするな! 免職(解雇)にするな!


逮捕された中国人の心情は理解できる!!
「靖国神社にも放火」火炎瓶の中国人男に逮捕状


●陸軍登戸研究所
・陸軍登戸研究所とは
1937(昭和12)年、新宿にあった陸軍科学研究所の実験場が登戸に移され、電波に関する研究と実験が行なわれた。その後、秘密・謀略戦の研究所として本格的に拡充された。
 陸軍参謀本部直属で、1942(昭和17)年に正式名称が「第9陸軍技術研究所」とされたが、軍の法規にすら記載されずにその存在は最後まで秘匿され、ただ「登戸研究所」と俗称されていた。
 登戸研究所の任務は、秘密戦・謀略戦に関わる研究・開発だった。毒物、細菌などの生物化学兵器・他国紙幣の偽造・風船爆弾・憲兵隊やスパイ(特務機関員)などが使う武器・器具などを開発、製造した。したがって単なる研究所ではなく、数多くの地元住民を含めて約1000人が働く巨大な秘密兵器生産工場でもあった。
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

動物慰霊碑
①正門裏手にあって、高さは3メートルほどある。
碑の裏面には、「陸軍登戸研究所」「昭和18年3月」とあり、碑文の書は所長の「篠田鐐」であることも刻まれている。
②「陸軍登戸研究所」となっていることが注目される。正式名称「第9陸軍技術研究所」はあらゆる陸軍法規からも抹消されていた。
③碑の巨大さも不可解である。ここで格別に多数の動物を実験材料に使っていたという形跡はない。にもかかわらず、すでに戦局が傾いている最中にこれだけの大きさの碑を建てたのは、何か別の理由があったと考えられる。
 第2科では生物化学兵器を研究・開発していた。その過程でイヌ、サル、モルモット、ブタなどを使って動物実験を繰り返したのだが、完成すると中国で人体実験を行なった。1941年5月22日から、登戸研究所の幹部7名が南京1644部隊に赴いて、青酸カリ、青酸ニトリール、雨傘毒蛇、ハブの毒などを用いて、約30人の中国人に実験した。1943年12月から翌年1月にかけても青酸ガスなどの人体実験を行なっている。いずれも防疫給水本部(731部隊=石井部隊)の協力のもとで行なわれた。
 この事実を踏まえると、人体実験犠牲者の慰霊碑は建てられないので、動物の慰霊碑として巨大なものを建てたとも考えられる。費用は、この時期に陸軍大臣から与えられた「陸軍技術有功章」に伴う賞金が充当された。
④人体実験をする科学者の心理はどのようなものか。通常の倫理観を持った科学者が悪魔の科学者に変身する。第2科で生物化学兵器研究の中心にいた伴繁雄(終戦時、陸軍少佐)は、帝銀事件の捜査で警察の事情調査を受けた時、次のように供述している。
「実験を始めた。最初は厭であったが、馴れると1つの趣味になった(自分の薬の効果をためすために)。相手は支那の捕虜を使った。相手が試験官を疑うので偽装して行なった。たとえば・・・・。」(帝銀毒殺事件捜査手記第5巻より。昭和22年4月26日)
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

動物慰霊碑1

動物慰霊碑2


秘密戦関係
秘密戦関係
記念写真
記念写真(中央 三笠宮)
偽札
偽札(登戸研究所で作っていた)
風船爆弾
(模型)登戸研究所で製造していた!!

●516部隊
第516部隊
516部隊
516部隊と731部隊
中国戦線における日本軍の毒ガス戦
日本軍が遺棄した毒ガス及び中国人に与えた傷害 その1
内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室
化学兵器CAREみらい基金ブログ
旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器で今現在でも苦しむ人々が、日本や中国に多くいる!!
ニュースレター Vol.12でもご報告いたしましたが、チチハル毒ガス事件の被害者、曲忠誠さんが肝臓がんのため、昨年12月15日に亡くなりました。45歳でした。年末も押し迫った頃、中国人のコーディネーターから連絡が入りました。残念でなりません。マスタードガスに含まれていたイペリットは発ガン物質として知られおり、皮膚だけではなく、内臓にも被害が及びます。曲さんの肝臓がんと毒ガス事故の因果関係は、医学的にも否定することはできません。
曲忠誠さん
曲忠誠さん: 2010年3月 日中合同ハルビン検診にて 


大久野島と毒ガス

●731部隊
「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第3部
死の壁は固く
爆弾がくるというので、幾分ほっとした気持で炊き出しの握り飯をかじり、しばらくすると、大量の50キロ爆弾がトラックで輸送されてきた。
 それを1房に1つずつ運んで据え付け、電線をつないで、全員、野原に退去した。
 本館の研究室やその他の施設は工兵隊が壊すことになっているそうだし、もし壊し切れなくても建物だけでは致命的な証拠にはならない。そこで、監獄だけでも電流を通じて一挙に破壊してしまおうというわけである。
 「今度こそ絶対だ」
 そう思いながら、私達は20分ぐらいかけて濡れた草に伏し、今に始まるだろう爆発をじっと見守った。
 朝の大気を揺るがす轟音と共に、炎が空高く突き上がり、壁のかけらが四角い本館の上一ぱいに舞い上がった。昨日からの惨劇のあとが跡形もなく破壊されたという安堵がその瞬間皆の顔に流れたようだった。10日の午前9時頃である。

731部隊8月9日 証拠湮滅・日本帰還!!


『金子順一論文集(昭和19年)』紹介

4月15日(日)13:30~16:30 (於)東京ウィメンズプラザ・ホール
「731部隊のすべて」↓(クリックすると拡大します)

4月15日(日)731部隊のすべて

日本「731部隊」の細菌戦で2万6000人がペスト菌感染

<731部隊>関係者リストの作成作業に協力要請

医学界とは731部隊そのものである

※アメリカは中国における日本軍の情報を集めていた。
南京大虐殺・重慶などの都市の無差別爆撃、毒ガス戦・大規模な細菌戦などの残虐行為に対して、今度は報復に出た。

※満州の満人部落をはじめ、農安県でも731部隊は細菌をばらまき、多くの人々を殺し、家々を焼き払った。これも、細菌が自然発生したように見せかけた謀略であった。
フェル・レポートによればPX(ペスト菌を保菌しているゲオプスネズミノミという兵器)を使用した細菌戦は12ケ所で行われ、一次流行したら二次流行と続き多くの犠牲者を出した。
今現在でも中国でこの細菌戦の調査が行なわれている。また、他の病原菌を使った細菌戦やゲオプスネズミノミ以外のペストノミを使用した細菌戦もあったようだ!!(『731資料センター会報第2号』を参照・・・ノブ)

※・・・加えて、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。ルーズヴェルトは、「日本の武装勢力によって中国の様々な場所で有毒ガスが使用されているとの信頼すべき報告が当政府に届いている」と言明した。彼は次のように警告した―。

 もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行われたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを、間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。

 ルーズヴェルトは、彼の警告を以下の言説で締め括っている―「我々は完全な懲罰を強制する準備をしておかなければならない。日本には(国際)責任が発生するであろう」
(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 P139)

731部隊員の証言 1

731部隊 究明なるか 年明けにも3カ所目の調査
細菌戦の新発見資料について
精魂塔(表)

精魂塔(裏)

精魂塔(これは一体誰を供養しているのだろうか?裏側は何か消したようにも見える!!)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
黒い太陽731部隊
殺人工廠(1)
731の最後 死亡列車0
「前事不忘 後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)
“戦争を語る”人々

戦犯たちの戦後

証言ー侵略戦争1

北朝鮮による拉致も大きな政治課題だが、戦時中に日本軍が行なった大規模な強制連行(拉致)に対しては戦後日本はきちんと対応したのであろうか?
中国人強制連行1

全国各地で奮闘する語り部たち
悼みの列島2
(相模湖・大久野島・花岡・・・・で戦時中何があったのか?)
必見!!「戦争を語り伝える人々」のガイドブック!!
『ルポ 悼(いた)みの列島』 あの日、日本のどこかで
室田元美
もう過去のことなんて、いいんじゃない?と思う人もいるかもしれないが、私の胸のなかには、石川啄木「韓国併合」のおり詠んだ「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」が常に引っかかっている。(「はじめに」より)

1945年3月10日
●東京大空襲

東京大空襲
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)

我々は106回の東京の空襲も風化させてはならないが、中国重慶に対して218回も無差別爆撃した事実も忘れてはならない!!

「重慶大爆撃とは?」

 重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
 重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。
重慶大爆撃とは①


東京大空襲東京大空襲・戦災資料センターとは
東京大空襲・戦災資料センター
昭和20年3月10日 史上最大の虐
東京大空襲2絵 吉野山氏提供
アジアとの友好のために(1)

消えた日の丸1



中国に咲いた一輪の花!!
朝日新聞より   2011年7月9日15時30分
中国の731部隊跡地に謝罪の碑
731謝罪の碑
日本人の募金で設置731部隊の旧跡に建てられた日本人の募金による記念碑=9日、ハルビン、西村写す

(日本政府が正式に謝罪すべきだ!!)

罪の重さを思うと言葉で「謝罪」は表せない!(ABC企画NEWSより)
 7月9日、ハルピン市平房区、731部隊本部遺跡内に建立した碑・『謝罪と不戦平和の誓い』除幕式典で、日本側代表挨拶を終え、壇上から降りた矢口仁也は“ああするしか思いつかなかった”とつぶやいた。
 今日、私たちはこの日を迎えるに当たって、これまでの道のりを回顧すると、裁判闘争に限界を感じ、日本政府の歴史認識の曖昧さに落胆し、怒り、“せめて市民の手で「謝罪」の碑を建てよう!”と決意し2004年、名称も碑文も決まらないまま『殉難烈士慰霊碑』(仮称)建立募金の呼びかけを開始した。
名称『謝罪と不戦平和の誓い』、わずか4行の碑文に加害者としての謝罪の言葉を記すことの難しさは6月、石碑に文字を刻む作業直前まで迷い続けた。私達の思いは果たして被害者の心に届くのであろうか?一抹の不安を抱えながら迎えた除幕式であった。
「731部隊によって虐殺された3000人以上の烈士の皆さん、夫を、父を、息子を奪われた遺族の方々、そして731部隊に住処を奪われ「労工」として強制的に働かされた多くの罪なき人々、1人1人にどの様に謝ればよいか申し上げるべき言葉はありません。」と言って矢口代表は碑の前にひざまずいた。参列者の私たちも思わず頭を垂れた。この謝罪碑は、731部隊によって亡くなった方々への謝罪と同時に、日本の侵略戦争によって侵された全ての犠牲者に対する謝罪の気持ちを込めた碑でもある。
落成式に参列したペスト被害者の故靖福和夫人、『特移扱』被害者遺族の朱玉芬さんは「市民の皆さんが建てた謝罪碑によって多少心が和んだ。皆さんの気持ちに感謝したい、しかし、それでも日本政府には是非謝罪を求めたい」と述べた。

新たな気持ちで次の一歩を!
碑を建設したことで“謝罪が終わった。許していただいた”ということではない。15年にも亘る侵略戦争によって語り尽くせないほどの被害を受けた中国人民に対し、世代が変わろうと、加害者である日本人としての責任は果たさなければならない。
私たちはその責任の1つに731部隊遺跡保存があると考えている。731部隊遺跡は平房区の住民にとっては本来“目の前から消えてほしいもの”。その屈辱の遺跡が今日まで保存されているのは住民の皆さん、歴代陳列館長を初めとする区、市、省政府の諸先生方の歴史認識の結果であると思う。彼らの努力に感謝するとともに、今日を新しい出発点として、友好を深め、平和を創造し、子孫の未来のために日本政府が正式に謝罪し、戦後補償を実現するまで私たちは運動を続けていくことを誓う。
今回、国会議員の参列は実現できなかったが、阿部知子衆議院議員、服部良一衆議院議員、今野東参議院議員、斉藤勁衆議院議員、川田龍平参議院議員、笠井亮衆議院議員の6人からメッセージを頂いたことは今後の運動への第一歩ともいえる。
最後に、除幕式開催にあたり特に協力、準備してくださった黒竜江省外事弁公室の諸先生方、金成民陳列館館長と職員の皆様に心から感謝します。

問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
 日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
1、731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
2、731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
3、細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
4、731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
5、細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
6、細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
 731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
 戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
 戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
 医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
 テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!


●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも三笠宮をはじめ何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族(竹田宮)もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
そのためアメリカは、731部隊員に戦犯免責を与える代わりに731部隊のデータ全てを独占して買い取り、また、上級部隊員をアメリカ軍に協力させ、朝鮮戦争やベトナム戦争に開発した兵器を使用したようだ。
このような流れの中で、アメリカは東京裁判では731部隊の事は取り上げず、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

マッカーサーと昭和天皇
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
 今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
 その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
 規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。

●昭和天皇の戦争指導
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重慶大爆撃とは①

 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

「今の状態でも危ないのに、これ以上原発再稼動・戦争・軍事演習・核実験を繰り返していたら、もっと早く地球は壊れてしまう!!」

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

●祈り1
●祈り2

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