2008年11月25日火曜日

南京大虐殺

日中戦争では、日本軍には捕虜と言う言葉はなかったようである。日本軍人は死ぬまで戦うべきだとして、捕虜になることは最大の恥辱だとされるような風潮があった。1941年には「戦陣訓」が出て、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」という捕虜否定思想の徹底になった。ましてやもっと蔑視、軽視していた中国軍の捕虜に対しては、なおさらその権利を認めなかった。
 中国で戦っていた日本軍(皇軍)は後方支援がなかったから、前進したら、夜営する場所、食糧はすべて、自分たちで見つけなければならなかった。民家に押し入り、食糧や寝床を占拠した。勿論人がいれば殺した。自分たちは正義の戦いをしていると錯覚し、中国人を人とも思わなかったふしがある。人としてどのように扱うか全く考えていなかったようだ。
 中国のその当時の首都南京に入っても、状況は変わらず、当番を決めて、食糧をあさっていた。(徴発していた。)
敗残兵や武器を捨てて民間人に成りすましている(便衣兵)と思われる人などを片っ端から捕まえては、殺してしまった。本来、捕虜を処刑する時、戦時国際法にのっとって、裁判にかけてから刑を執行するのだが、それもしなかった。
 大量の捕虜がでれば、その人たちに食べさせる食糧も必要だ。だが、その時の日本軍には全くの予備の食糧などないのだから、現地指揮官も、どうしていいのか分からなかったのだろう。パニック状態になっていたと思われる。
陣中日誌の続き・・・・
12月15日
話によれば城内北方に敵武装解除したる兵1万5千人いて、これを機関銃で囲んでいるそうな。また、紫金山のトーチカ内に一ヶ師団ほどいて、これも囲んで守っているそうな。ちょう発に行く。面白い、何もかも引っ張り出してさがして行く。(「上羽日記」)
12月16日
南京東側地区掃蕩のため午前7時30分露営地出発、硝石村に向かい前進す。情報によれば南京東地区には敗残兵多数あるもののごとし。連隊主力の掃蕩により敗退する残敵を捕捉殲滅せんとす。
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2008年11月24日月曜日

南京大虐殺

今、私は多くの日本人が出来るだけこの問題には触れたくない・忘れたいと思っている問題を取り上げている。
 でも、加害の事実ははっきりと認識しなければ、日中の真の友好はないだろうし、中国だけでなく、アジアとの共生も難しいと思う。大東亜共栄圏などというまやかしの政策で侵略したのだから。
 笠原教授によると「南京大虐殺の主因は日本軍が南京を防衛する中国軍に対して徹底した「包囲殲滅戦」、つまり中国兵の皆殺し作戦を実行したところにある。その背景には南京攻略戦は「暴戻なる抗日シナのよう懲(日本に歯向かう乱暴な中国を打ち懲らしめる)」のための戦いだという傲慢な考えと、中国軍には戦時国際法を適用しなくても国際的には問題にならないという蔑視と、さらに中国人を「チャンコロ」「シナ人」と蔑称して人間以下とみなす差別意識があった。中島今朝吾第16師団長みずから「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片っ端よりこれを片づくることとなしたる」(「中島今朝吾日記」12月13日)としているように、捕虜は保護せずに虐殺した。
 第13師団山田支隊(若松歩兵第65連隊)も、支隊長山田栴二少将の「陣中日記」に、「12月14日 捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せし所、14777名を得たり。斯く多くて殺すも生かすも困ったものなり」「12月15日 捕虜の始末その他にて本間少尉を南京に派遣し連絡す。みな殺せとのことなり」と書いてあるように、捕虜集団の大殺戮をおこなった。同支隊では16日と17日に長江岸で捕虜を殺戮、18日と19日をかけてその死体を長江に流して片付けたのである。」とある。
 勿論、民間人か、兵士か分からない場合も多々あったので、巻き込まれた多くの一般人も多かったろう。

 昨日の続き・・・
 飛行機残敵掃蕩(「上羽日記」)
 空軍も掃蕩に協力。市の上空を旋回している。午後二時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後12時過ぎ掃蕩から帰る。800名ほど武装解除したらしい。みんな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなどと思っていまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山いたという。生かしておけば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだろうが惜しいものだ。尊い生命がなんのちゅうちょもなく失われていく。戦争の苛烈な姿をつくづく感じる。(「北山日記」)・・・・

何とも、戦争とはこわいものだ。自分ではしたくないことも強制的にやらされる。
しないと、こっぴどい目に遭うだろう。
皇国日本の軍隊(皇軍)が中国でおこなったことは、何ともむごいことである!!
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2008年11月23日日曜日

南京大虐殺

日中戦争は、満州事変とは比較にならない本格的な戦争であった。日本は1937年(昭和12年)12月の南京占領までの第一段作戦において、陸軍は戦時編成の16箇師団を中国戦線に送り、海軍は第2、第3艦隊と航空隊の主力を使用し、1万8千の戦死者と5万2千の負傷者を出した。(遠山茂樹他著「昭和史」岩波書店)
 近衛内閣は「八紘一宇」などをスローガンに掲げ、侵略を正当化した。【「八紘一宇」とは「世界を一つの家とすること。第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。」(大辞林)】
 天皇が家父長で、周りの国々の人々は下僕として仕えることか?
 国民には勤労奉仕や節約を強制した。パーマネントをやめさせ、国民服やモンペ姿を男女の制服・日の丸弁当をおしつけたりした。
 そのような生活全体が戦争一色の時代である。
南京陥落後、南京で何が起こったか?昨日の続きを書こう。

「今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行くのである。
昨日まで必死で抵抗していた数万の敗残兵は八方より包囲されて唯の一人も逃げていない。結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。今日こそ虱潰しに草の根を分けても捜し出し、なき戦友の恨みを晴らしてやろうと意気込んで配置についた。各小隊に分かれて、それぞれ複雑なシナ家屋を一々さがして、男は全部調べた。大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服(普段着)と着替えつつあるところを第二小隊の連絡係前原伍長らが見つけた。それというので飛び込んで見ると、なんのそのそうそうたる敗残兵だ。傍らには小銃、拳銃、青龍刀など兵器が山ほど積んであるではないか。軍服のままの者もあれば、早くもシナ服に着替えている者もあり、また、下に軍服を着て、上にシナ服をまとっている者もあるが、いずれも時候はずれのものや不釣合いの物を着ているので、にわかごしらえである事が一目で解った。
 片っ端から引っ張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂れ下がっている電線で引くくり、数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長をはじめとして気の立っている者どもは、木の枝や電線で力任せにしばき付けながら
「きさま達のために俺たちはこんなに苦労しているのだ、エイ」ピシャン
「貴様らのためにどんなに多くの戦友が犠牲となっているのか知れんのじゃ、エイ」ピシリ。
「貴様らのためにどんなに多くの国民が泣いているのか知れんのだぞ」エイ、ピシリピシリ、エイ、この餓鬼奴、ポン「こらこの餓鬼もだ」ポン、素裸の頭と言わず背中と言わず蹴る、しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも三百人くらいはいる、ちょっと多すぎて始末に困った。
 しばらくして委員会の腕章をつけたシナ人に「你支那兵有没有」と聞くと、向こうの大きな建物を指して「多々的有」と答える。その家に入ってみるといっぱいの避難民だ。その中から怪しそうな者一千名ばかり選び出して一室にいれ、またその中より兵隊に違いない者ばかりを選び出して最後に三百人くらいの奴を縛った。金を出して命乞いをする者もあったが、金に欲のない我々は十円札、三枚五枚と重ねたままピリッピリッと引き裂きポイッと投げる。また時計など出すのがあれば、平気で大地に投げつけ靴のかかとで踏みつけて知らん顔している。
 夕闇の迫るころ、六百人近くの敗残兵の大群を引き立て、玄武門にいたり、その近くで一度に銃殺したのであった。(増田六助「南京城内掃蕩の巻」『増田手記』)」
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