731を問う!!
2017年9月1日金曜日
細菌戦の系譜!!
9月5日~9日はブログをお休みします。
7.7.集会 中国全面侵略戦争 80年と東京裁判(衆議院第1議員会館)
ノーモア7.7集会
731部隊について
NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」
※1949年のハバロフスク裁判の録音テープが見つかった!!
NHKの「731部隊」ドキュメンタリー、日本で衝撃広がる―中国メディア
NHK「731部隊」ドキュメントに反響 中国外務省が異例の論評
NHKスペシャル「731部隊の真実」について。The truth of Unit731
京大・東大の教授たちが731部隊の研究を推し進めた!!バックは日本国家
京大:戸田正三:当時京大医学部長
東大:長與又郎:当時東大総長
※京大は、きちんと文部省とのやり取りの文書を公開したのに、なぜ東大は文書をきちんと公開しない??
東大のコメント:「組織として積極的に関わったとは認識していない。」
※総長自らが石井と会って、話をし、総長退任後の1940年に731部隊の本部を視察している!!1938年には、国家総動員法が施行されている!!
東大は、きちんと説明せよ
731部隊本部に送り込んだ技師の数(現在までの調査では)、京大11名、東大6名、慶応2名・・・・
※勿論831部隊の支部や他の防疫給水部に送られ、人体実験に関わった多くの医学者がいた!!
軍医等も、生体手術演習と称して、生体解剖をしていた。
※この731部隊には、皇族の竹田宮が関わっていた。また、研究費などの予算は昭和天皇の裁可がなければ出なかった。
天皇の弟・秩父宮、三笠宮も視察来たし、もしかしたら昭和天皇も来たのではないか??
unit731
※731部隊へは当時製薬会社等からの寄付もあった!!(大正製薬・・・・)
※ロ号棟を建設したのは大林組、松村建設、特設監獄は鈴木組が作った。
黒い太陽731
国家戦略特区に獣医学部か、戦時中の100部隊や731部隊を想起してしまう!!
つまり、満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。
「みんなが知るべき情報/今日の物語」より
日本は「皇道精神の具現化」のために、毒ガス兵器、細菌兵器を使い、多くの人々を虐殺した!!
目指したのは、天皇中心の世界帝国 「八紘一宇」
教えてゲンさんより
防疫給水部(細菌戦部隊)
注:ノモンハン事件
1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近のノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。
ハルハ河事件とも言う。
4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力のソ連軍に日本軍は歯が立たず、
約17,000人の死者を出した。
ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。
あまりにみっともない負け方に日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。
731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。
参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、作山元治軍医大尉、
瀬戸尚二軍医大尉、清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。
(注:ハバロフスクの裁判記録に証言があります)
毒ガス/化学兵器
・中国には、日本軍の行なった細菌戦の影響と思われる?、原因不明の病気に悩んでいる人々が今も数多くいる!!
・731問題
・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
黒い太陽№15
※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。
朝枝繁春の証言
日本は、あの侵略戦争の事を全く反省していない!!
ある政党は、あの侵略戦争を「自存自衛のための戦争」などと言っている!!
裕仁は、東条や陸軍に、戦争責任を押し付け、
今の政府・医学界は、中国、アジア諸国で、戦争被害の後遺症に悩む人々を完全に無視している!!
人体実験、遺棄毒ガス弾、炭疽菌、ペスト菌等による被害者、慰安婦、空襲・虐殺・原爆等で被害にあった人々のPTSDなど。
日本国民だって例外ではない!!
・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と新宿の軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
事件当日の三井三池染料工業所における爆発事故
また当時の新聞記事や調査において、
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
などが分かっている。
当時の時代背景として、2ヶ月前には満州事変が勃発して戦下の色が濃くなってきており、事実この工業所では枯葉剤、合成染料など軍需製品の製造を行なっていた。このため、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
しかし、仮にクシャミ性毒ガスの製造工程で爆発事故があったことが原因としても、住民の便から赤痢菌が検出されており、また調査に参加した各大学が患者の便から検出した赤痢菌がそれぞれ異なった種類であったことが分かっており、疑問が呈されている。
一方こんな説もある。毒ガス爆発をカモフラージュするため、軍医学校が、赤痢予防錠を配ったというもの??
(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)
・三井という会社
毒ガスを、戦前は大量に作り、戦後も枯葉剤を作っていた!!
ベトナム戦争の枯れ葉剤の原料を三井東圧が大
イタイイタイ病を究明した萩野医師に圧力をかけた三井財閥とそれに協力した医学界の権威者たち
萩野 昇 (※戦争中、軍医としてどんなことをやっていたのだろうか?)
2015年
偉人医 · 萩野昇
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
富山平野の中央部を流れる神通川は昔から「神が通る川」として地元の人たちから崇められていた。住民たちは神通川のサケやアユを食べ、神通川の水を農業用水として利用し、また水道が普及するまでは生活用水として住民たちの喉をうるおしていた。この北アルプスから流れ下る神通川が、いつしか「毒の通る川」に変わっていたのだった。イタイイタイ病はこの神通川上流にある神岡鉱山から排出されたカドミウムによって引き起こされた公害病であった。
いわれなき中傷
また患者を抱える富山県も萩野の鉱毒説に否定的態度をとった。それは富山県が工場誘致を考えていて、企業側に都合の悪い鉱毒説を否定したかったからである。イタイイタイ病の原因を神岡鉱山とする科学的根拠が示されたにもかかわらず、富山県は三井財閥を正面から批判することに難色を示し、むしろ神岡鉱山犯人説に否定的立場をとった。
御用学者は、民衆の立場に付かず、国・大企業の側に立つ!!
細谷省吾
※軍医学校防疫研究室は731部隊に、実験などの指令を出していた。細谷省吾は戦争当時、東大伝染病研究所教授で防疫研究室の嘱託研究者だった。
※金沢は731部隊に縁が深い!!731部隊長の石井四郎、その右腕だった増田知貞、生体解剖を多く手がけた石川太刀雄は、金沢四高から京都帝国大学医学部へ進学した。
731部隊で性病や結核の研究をして、戦後『政界ジープ』という右派の時局雑誌を発行した二木秀雄は金沢医科大学出身である。
護衛艦などを作る!!軍需会社!!
三井造船が建造した船舶
三井造船、防衛省から新型潜水艦救難艦を受注 = 日本工業新聞
・パネル展(731細菌戦)
中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
2016年10月24日(月)衢州
2016年10月25日(火)麗水(1)
2016年10月25日(火)麗水(2)
2016年10月26日(水)四路口
2016年10月27日(木)武義・金華石門
2016年10月28日(金)金華市街
2016年10月29日(土)義烏市崇山村
話は今につながっている!!
渡邊あきさんは満州の731部隊から無一文で引き揚げたのち、夫婦で食料品店を営みある程度繁盛したという。商売に忙殺され、子供たちを育て、戦後を必死で生きていく中で、部隊の事を思い出す間もなかったが、一方子どもたちにはそのことを隠し続けてきた。
石井隊長の戦後3
石井四郎の戦後
日本の医療の原点 731部隊の関係者のその後の職業・役職 及び厚労省との関係 フクシマと731部隊
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。
薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
・内藤良一は戦後、他の731部隊員と共に、日本ブラッドバンクを立ち上げ、1964年に社名をミドリ十字改称した。
「ミドリ十字」という会社
ミドリ十字の変遷
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
・731部隊と原爆・原子力の関係
国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!
ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)
ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した。
施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。
ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。
・731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731部隊員は国立予防衛生研究所(予研→国立感染症研究所)に入り、研究を続けた。!!
エボラやAIDSは生物兵器として開発されました。
人工的に作られた生物兵器【エイズウィルス】|怖いBLOG - アメブロ
一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか??
国立感染症研究所
国立感染症研究所
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
加計学園 獣医学部校舎に安全基準に満たないBSL3の研究施設の建設計画があった
長崎大学のBSL4施設設置計画は白紙撤回を!
感染研村山庁舎BSL4施設関連事象の時系列
帝銀事件の犯人は平沢貞通ではなくて、731部隊ではないのか??
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか???
ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
※当時の日本・アメリカ政府は、原爆の悲惨な惨状を国民に隠した!!
第5章放射線医学への「脚光」の下で
予研・ABCC体制
7月1日、ABCCが正式発足した。予研とABCCの連携体制が構築されることが確実になると、GHQ民政局は、同年7月18日に、都築正男の公職追放除外を取り消す決定を出している。中泉正德は、都築にかわって、原爆症研究の権威になっていった。1948年1月、予研が正式にABCCの研究に参加した。2月3日には、予研原爆傷害部遺伝委員会とABCCの合同会議が東京都内で開かれ、日本側から小林六造、永井勇、前月に起きた帝銀事件の被害者の遺体解剖を行った医学者、古畑種基らとともに中泉も出席している。中泉が予研やABCCの関係者に認められていた証しだろう。
宮川正・・・大正2年2月8日生、昭和12年東大医卒、昭和19年3月4日入隊、歩兵30連隊から731部隊レントゲン班(宮川班)に配属される。終戦時 軍医中尉。731部隊には、レントゲン班が「宮川班」「在田班」の2つあった。元隊員の話では、(どちらの班か不明だけれども)「レントゲン班で、マルタの肝臓にレントゲンを照射して、どこまでやると死に至るかという実験を自分たちでやったことがある」という証言がある。、
東大医学部放射線科・宮川正教授は退官記念講義で731部隊員だったことを曝露・追及された
世界は恐怖する死の灰の正体(亀井文夫監督)
水俣病原因究明を妨害し被害を拡大させた日本医師会会長・田宮猛雄は、731部隊や戦後の人体実験にも関与した
彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など
731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている。
731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを
田宮の計らいで防疫給水部(731部隊の別名)の職を斡旋してもらったと語っている。
田宮は「徴兵逃れ」をエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。
・原爆問題
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
「1894年から1945年までの51年間日本は常に戦争をしてきた。大きいのだけでも日清、日露、満州事変、日中、アジア太平洋の5つその全てに廣島から軍隊が出ているわけです。言い換えれば廣島はアジア侵略の起点だったのに、加害の都市だったことを認める人は多くない。」(1929年山口県生まれ、国鉄職員 入市被曝した李実根の証言)
昭和天皇の終戦工作?(詳しくは『日本のいちばん醜い日』)
畑俊六第2総軍司令官、高野源進広島県知事は原爆投下時に無事。
第2総軍は、全滅。
天皇は、事前に原爆投下を知っていた。
終戦時の国内情勢を憂慮して、第2総軍を壊滅させた??
731部隊員や昭和天皇の戦争犯罪に対する免責を得るために、日本の科学者や医学者は原爆の威力の調査に尽力し、被爆者の治療は一切しなかった。この報告書は、英語で書かれ、アメリカに提出された。これによって、日本はアメリカに追従するようになり、属国になってしまった。日本政府は、これ以後、731の非人道的行為を隠し、またアメリカの原爆などの非人道的行為を訴えることは無かった!!あの侵略戦争のことを全く反省しないでいる!!
封印された原爆報告書
日本政府は、侵略戦争の歴史を改ざんするな!!
戦争遂行の最高責任者・大元帥昭和天皇の戦争責任を回避する発言!!
裕仁は、戦争責任を、東条や陸軍に押し付けた!!
「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」と。
天皇は顔をこわらせて「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と答え、また広島への原爆投下について聞かれ、「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と述べた。その統治下の出来事に対してまったく責任のない傍観者のような天皇の言い逃れは、多くの日本人にとってあまりにも非情であった。彼の「やむをえない」発言は、広島の悲劇を導いた過程における天皇の役割をまったく否認するものであり、とりわけ歴史学者を憤慨させた。(ハーバード・ビックス著『昭和天皇』より)
1975年昭和天皇記者会見
山下俊一、高村昇らが活躍(暗躍)する長崎大医学部は元731部隊関係者の巣窟であった。
重松逸造は御用医学者を語る上で極めて重要な人物、キー・パーソンである。
驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
御活躍中の御用医学者と731部隊の関係を調べてみた。意外と簡単に結びつくので驚いた。
(以下敬称略)
==== 放射線医学総合研究所 (放医研) ====
中川恵一准教授が所属する放医研では、宮川正名誉教授が重要人物である。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1232/4.html
この訃報には陸軍軍医として戦時医療に従事されたとあるが、実は731部隊レントゲン班であった。何をしていたかは容易に想像がつく。
戦後、東京大学医学部放射線科教授、埼玉医科大学教授などを歴任している。
放医研の立ち上げに尽力。放医研は原子力総本山のIAEAとも深い協力関係にある。
彼の弟子が、元放医研所長の佐々木康人教授(現・日本アイソトープ協会・常務理事)であり、ICRP委員も勤めている。その教え子が、われらが中川先生である。
驚くべきことに、彼の恩師をたった2代さかのぼれば731部隊にたどり着くのである。
また中川と同じく、安全だ安全だと繰り返す明石真言は、この研究所の理事である。
ここも法令違反など度重なる不祥事が起きている。そのうち名称が変わるであろう。
いつも内部被曝は無視するから、放射線外部被曝研究所とでも名付けたらよかろう。
以上、簡単にまとめてみたが、みなさんの感想はいかがだろうか。
日本政府は、核戦争を想定して、福島原発事故の被ばく者を、研究対象にしているのだろうか??(広島・長崎と同じように)
放射能汚染地図「川で何が起きているか?」
海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集
山下正寿さんインタビュー
アメリカ・日本・・・国家は平気で嘘をつく!!それも公然と!!
アメリカはまたもやロンゲラップ島で人体実験をやり、アメリカ政府、日本政府は漁船の被爆状況を隠蔽する!!
ザ・スクープスペシャル ビキニ事件63年目の真実 2017 08 06
被曝は第五福竜丸だけではない!!また厚生労働省の隠蔽!!
水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではない!!延べ992隻が被爆!!
・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
日本の物理学者は、日本の原爆開発を反省しているのだろうか?それとも、原爆を作りたがっているのだろうか?
戦中、日本は原爆開発を研究していた。陸軍は理研の仁科芳雄のもとで、海軍は京大の荒勝文策のもとで。戦後もアメリカと自衛隊の軍事交流によってその流れは加速している!!
「ビキニ被曝」11人、船員保険適用困難に 有識者会議
核兵器禁止交渉会議、広島・長崎両市長が外相に参加要請
核兵器のない世界へ 政府に交渉参加を要求 日本被団協
「被爆国として、核兵器廃絶に向けて世界をリードする」と言っても説得力はなくなった。
(社説)核禁止条約―被爆国の責任放棄だ
潜在的核保有国化を目指す日本は、核兵器禁止条約制定目指す決議案に反対!!
非核3原則は嘘だった!!
※2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が明らかになった。
※非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。
日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!
なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか??
アメリカと日本の取引!!
我々日本人は、被爆国としてのアメリカの残虐な原爆無差別殺戮犯罪や絨毯爆撃を問わない代わりに、アメリカも、日本軍が行ったアジア太平洋各地で行った残虐な戦争犯罪(毒ガス戦、細菌戦、無差別爆撃、慰安婦問題等)を問わない時代がずっと続いている!!
これでいいのだろうか??
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直
仁科芳雄は軍国主義者で、物理学者の間では天皇だった!!
小路田泰直
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直
ではそれは仁科一人の孤立した考え方だったのだろうか。当然、日本独立時の宰相吉田茂の考え方でもあった。
仁科と吉田の、並々ならぬ親交の深さから想像するとそうなる。仁科の長年の部下玉木英彦は、後に「1950年の夏のある日、吉田首相が箱根に先生を招いて二人きりで懇談したいといってきたことがあった」[★14]と思い出を語っているが、仁科と吉田の関係は、何か重大なことがおこると、それについて二人だけで議する間柄だったのである。
そして1954年3月2日に原子力予算23,500万円を国会に上程し、この国の原子力開発に道を開いた、中曽根康弘にも受け継がれた考え方であった。
※いくら強大な武器を作ろうと、平和は来ない!!アメリカの戦後の動きが如実にそれを物語る!!
戦争依存症の国 アメリカ!!
トランプ氏ツイッター「軍事的解決の準備整う」北朝鮮に
※湯川秀樹・・・(ウキペディアより)(中略)またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。
※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!
”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)
原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~
今はどうなっているのだろうか??
小出裕章さんが語る福島第一原発 燃料棒の驚くべき現実とは!?
原発作業員が去っていく 福島第一原発“廃炉”の現実
核融合科学研究所 重水素実験について
世界の流れ
採択 国連、使用や開発「違法」 日本・保有国不参加
<高校生平和大使>長崎爆心地公園で「人間の鎖」
長崎・平和祈念式典 田上市長の平和宣言全文
【どこの国の総理】被爆者の訴え
・脱原発1
日本は韓国を見習おう!!
韓国原発、初の運転停止 国内最古、政権は脱原発
自然エネルギーを活用しよう!!
大洗事故作業員 肺からアメリシウム検出 プルトニウムが変化
体内へ総量36万ベクレルか原子力機構の作業員被ばく事故
核ごみマップ 適地は国土の65% 政府が公表
再生可能エネルギー拡大続く 世界全体の電力、4分の1賄う
ETV特集 シリーズ 原発事故への道程(前編)「置き去りにされた慎重論」
戦争の事を全く反省しない御用学者
茅誠司・・・1950年代、東大教授、東大総長。戦前から原子力の研究に携わり、核物理学の第1人者。日本学術会議会長、南極観測特別委員長。
日本学術会議南極特別委員会医学部門委員には、第2代731部隊長であった北野政次、凍傷実験班班長だった吉村寿人、731部隊嘱託の戸田正三らがいた。
高杉晋吾の電話取材に茅は答えた。
「北野政次?その人がどんな人か知らない。私は記憶していない。・・・・・戦争中の事はあんまり取り上げない方がよい。それに例え、それが関東軍の経験であっても、・・・・いまの学問に役立つものなら取り上げてよいのではないでしょうか?」(『日本医療の原罪』より高杉晋吾著)
ETV特集 シリーズ 原発事故への道程(後編)「そして“安全”は神話になった」
知らないままではダメ!マスコミが報道しない「リニア反対派」の具体的な反対理由
物事を進めるときには賛成派・反対派の両方の意見に耳を傾けて、双方が納得のいく落としどころを探すのが理想的なのだけれど、どうやらリニア新幹線というのは「開通させる」という目標ありきで、異論は揉み消されているようです。マスコミでもほとんど報道されません。今更「リニア反対特集」なんて組めないでしょうから。そんなわけで東京オリンピックとリニア新幹線着工で浮足立っている現状で、リニア反対派がどのような理由で反対をしているのか、多くの人は知るすべもありません。リニア新幹線の巨大プロジェクトがどのような課題を抱えているか、今一度確認しておきませんか?
→リニア計画、建設認可取り消し求め提訴へ 沿線住民ら
電磁波の人体への影響
国立環境研究所による平成17年の報告によると、リニア新幹線の場合、車内床上で最大600~4000マイクロテスラの電磁波が発生するそうです。
電磁波に関しては、1992年にスウェーデンの研究機関が、高圧送電線から300メートル以内での小児がん増加率と電磁波強度の関係を調査した結果が現在でも目安になっています。この調査によると、2ミリガウス(0.2マイクロステラ)以上の地域で小児白血病の発症率が2.7倍に増加、3ミリガウス(0.3マイクロステラ)以上の地域では3.8倍に達するとのこと。
リニア3兆円借り入れ完了、JR東海の損得勘定
リニア中央新幹線がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤ
広瀬隆講演会「リニア新幹線と原発」前編
広瀬隆講演会「リニア新幹線と原発」後編2/質疑応答
相原高校を残そう!!(リニアはいらない!!)
神奈川県立相原高校を残そう。
●秘密国家日本!!特定秘密保護法撤廃!!情報公開!!
日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年)
アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。
このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。
天皇制を考えよう!!
政府が特例法案を閣議決定 6月中に成立へ 譲位は実現すれば光格天皇以来、約200年ぶり
象徴天皇制 自由で闊達な議論が必要!!加計問題!!
●医療問題
小林麻央さんが乳がんで抗がん剤治療
【何度も言うように、抗癌剤治療はしちゃダメなんだって!何故分かってくれないの?】
日本医師会 医療ミス等繰り返す医師27人に指導・勧告
医師ら3人集団で性的暴行か、女性に無理やり酒飲ませ・・
『抗がん剤で殺される?ハラダヨシオも殺された?薬って毒なの?』
新薬を投与された影響はなかったのか??
【訃報】ラグビー元日本代表の平尾誠二氏が死去
妻が43歳の若さで 夫が病院を提訴
・水俣病の原因解明を遅らせたチッソと東大医学部
医学は水俣病で何をしたか 宇井純
水俣病
水俣病原因究明を妨害し被害を拡大させた日本医師会会長・田宮猛雄は、731部隊や戦後の人体実験にも関与した
田宮猛雄といえば、水俣病研究懇談会、通称「田宮委員会」での悪行が有名である。
医師会会長の権威を利用して、腐った魚を喰ったせいだなどという説をでっちあげ、 真の原因である有機水銀説をつぶし、被害を拡大させ新潟での第二水俣病まで引き起こした[5]。
しかし彼は731部隊にも深く関与しており、部隊員とも懇意で、戦後も人体実験をしていたことはあまり知られていない。
彼の死後、追悼文集が出版されたが、その中で北岡正見、安東洪次、目黒康雄、田嶋嘉雄など
731関係者が勢ぞろいして思い出を語っている[6]。
731部隊マラリア菌研究班に所属していた目黒康雄は、軍医として戦地に送られるところを田宮の計らいで防疫給水部(731部隊の別名)の職を斡旋してもらったと語っている。田宮は「徴兵逃れ」をエサに教え子を731部隊へ送り込んでいたのである。
また田宮は731部隊の別働隊でもある北京の1855部隊へ出張していたとも言われている[7]。
田宮は731部隊第2代部隊長・北野政次とも非常に親しく、戦後、北野が東大伝研に現われたとき、
もっとも北野の庇護したのが田宮であった[8]。
また福見秀雄や北岡正見とも一緒に研究をしている[2]。
・京都府立大学の黒い影
【京都】京都府立医大の医師が飲酒し暴行で逮捕5/14 12:19
収監逃れ、病院内で金品授受か 京都、容疑で3人送検
虚偽診断書類 病院職員が「下書き」
731で凍傷実験の人体実験や同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人は、戦後南極観測の特別委員会の委員を務め、京都府立大学の学長になった!!
淵上輝夫『戦争・罪・贖罪-吉村寿人の場合』
ディオバン事件
収監逃れ疑惑、京都府医大に府幹部派遣へ
暴力団に虚偽診断疑惑の名門・京府医大の「闇」…過去にもトンデモ不祥事連発
・<森永ヒ素ミルク>障害被害者、高い死亡率…発生から62年
・神奈川大口病院
大口病院
・群馬大学病院腹腔鏡手術後8人死亡事故
・歯科医刺傷事件 逮捕学生が供述、医師と「女性関係でトラブル」
・千葉大医学部生に懲役4年の実刑判決 集団強姦事件
・【千葉大医学部レイプ事件】23歳犯人たちの「華麗すぎる家柄」
・“集団性的暴行” 研修医ら3人を不起訴に
●自衛隊
・地下鉄サリン事件と自衛隊!!
戦後、日本軍の毒ガスのデータも全てアメリカに渡った。そして日米軍事同盟の交流の中で新たな毒ガス開発が続いている!!
1964年には、既に自衛隊ではサリンを製造していた。
日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より
地下鉄サリン事件から22年を前に 被害伝える集会
土呂久砒素公害
1937年 日中戦争始まる。毒ガスの原料として使われていた。行き先は瀬戸内海の大久野島である。大久野島毒ガス資料館がある。
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
海軍の毒ガス工場・相模海軍工廠 (寒川町)で、どのような化学兵器が作られていたのか、化学実験部=海軍技術研究所(平塚)では?
「旧海軍の毒ガス」に新資料 1987年4月7日(朝日新聞)
本土決戦へ相当量備 米軍報告書
資料の表題は『日本の化学戦についての情報報告』。常石敬一・神奈川大教授(科学史)と、長島修・立命館大教授(日本経済史)が、研究資料を調査中に、報告書とその基になった尋問所を見つけた。毒ガスの開発研究、生産、戦場への補給システムと貯蔵施設、化学戦訓練などにわかれ、全体量はA5判のリポート用紙で約650ページ以上。いずれも昭和21年5月までに米太平洋陸軍総司令部が作成、「部外秘」扱いにしていた。
報告書によると、海軍では技術局の機関として大正12年(1923)に東京・築地に最初の化学兵器研究所を設立した。その後、神奈川・平塚の海軍火薬工場敷地内に施設を移し、昭和6年の満州事変ぼっ発後、研究規模を拡大。戦局にかげりが見え出した18年に毒ガス製造の拠点となる相模海軍工廠となった。
陸軍の毒ガス
8月14日に放送:毒ガス島の歴史と資料館
http://tv.cntv.cn/video/C10319/f6f16d7b2bd34e389c066fa7cbc27a87
8月15日に放送:藤本さんの証言
http://tv.cntv.cn/video/C10319/26c58a5477ae4b0d81487b923e1f414c
綾瀬はるか「戦争」を聞く、「私は毒ガス“死の露”を造った」
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3131110.html
・自衛隊化学学校
オウム真理教の中に化学学校の隊員がいて、サリンの製造方法が漏れていたのではないのか?
オウム信者の自衛官が漏らした情報によってサリンが作られたことに警察は言及しない!!
当時の警察庁警備局長は今の杉田和博内閣人事局長だ!!
【大竹まこと×金子勝×室井佑月】 安倍政権 中身変わらぬ新内閣改造人事!止まらない森友学園&加計学園問題
自衛隊の研究機関によってどんな生物兵器、化学兵器、核兵器が作られているのか??
憲法9条があるが、果たしてきのうしているのだろうか?
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース
防衛省は、2002年~12年の製造・使用・廃棄・最大保有量などの実績値を初めて公表。過去11年間に製造された特定物質は全11種類にのぼっている。その中には、神経系統を破壊するサリン、タブン、ソマン、VXガス、皮膚のただれを起こすマスタードガス、チッソマスタード、ルイサイトなどが含まれる。(自衛隊化学学校・・・陸自大宮駐屯地所在)
第4回目
5月58日 自衛隊大宮駐屯地創立60周年記念式典
化学学校の展示は防護服、除染車等で、肝心の内部資料の公開は無かった!!
自衛隊では防護の為と言って、攻撃用兵器の開発は、国民に一切公開しないつもりか!!
日本には、どうのような生物兵器、化学兵器、核兵器があるのか、一般国民には全く情報開示が無い状態に置かれている!!
大宮駐屯地5月28日
車両はほとんど、不正燃費問題で話題になった三菱の車両!!
車両は独占か?軍需で儲けているのか?
三菱重工112億円の最終赤字 4~12月、航空機の採算悪化
電機、凋落…東芝は債務超過の兆候、三菱重工は「何もうまくいかず」巨額損失地獄
市街地で普段こんな訓練が行われている。武力を持たないとはどういうことなのか???
迫力の模擬戦! 大宮駐屯地創立60周年記念行事
・自衛隊とパワハラ(1)
・1985年8月12日の日航機墜落事故と自衛隊!!
自衛隊の隠蔽体質は、変わらない!!
『衛生学校記事』『化学学校記事』等の内部文書、南スーダンの『日報』、日航ジャンボ機墜落の真相等の情報の隠蔽!!
国家機密(自衛隊の事故への関与)を隠すため、国民の命が犠牲になる!!
この事故は自衛隊が関係していませんか?
森永卓郎×大竹まこと:日航機123便墜落事故にかかる陰謀説
日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 米軍パイロットの証言
ザ・ノンフィクション 日本航空123便墜落事故 15年目の検証
日航機墜落事故
何故墜落したかを詳しく報道してもらいたい!!
陸自機不明、乗員とみられる4人発見 容体は不明
●憲法9条を守れ!!
大竹まこと×倉田真由美:せり出す「国家」と自民党の憲法改正草案憲法9条
“軍事的研究は慎重に” 科学界が新声明
東工大、応募認めぬ方針 軍事応用できる研究の助成 今年度
安倍首相「憲法に自衛隊明記」発言 学者から見て現状は違憲なのか?
日本国憲法第9条
1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2017年8月31日木曜日
高知の旅 幸徳秋水を訪ねて
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●731部隊(1)
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8月21日(水)
幸徳秋水を訪ねて
四万十市(旧中村市)
幸徳秋水
ウキペディアより
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。
本名は、幸徳傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件(幸徳事件)で処刑された12名の1人。
経歴
高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。尚、妻師岡千代子の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。
9歳の時、儒学者・木戸明の修明舎に入り、四書五経等を学ぶ。11歳で旧制中村中学校(現:高知県立中村中学校・高等学校)に進学するも、台風で校舎が全壊しなかなか再建されず退学。 1887年(明治20年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。
新聞記者を目指し、『自由新聞』(板垣退助社長。小泉策太郎と親友に)等に勤めた。同年に発布された保安条例で大阪に移った兆民は角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げ、所謂壮士芝居の先駆となる。その時の演目の一つ「勤王美(義とも)談上野曙」は兆民が秋水に執筆を依頼したといわれる[1]。
1898年(明治31年)より黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。萬朝報は日本に於けるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追求、「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。
1899年(明治32年)末には東京の新聞中発行部数一位に達し、最大発行部数は30万部となった。又一時淡紅色の紙を用いた為「赤新聞」とも呼ばれた。
秋水は記者の傍ら国民英学会等で学び、1900年(明治33年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党が曾ての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを嘆き、『萬朝報』に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。
また同年6月より起こった義和団の乱(北清事変)制圧の際、日本軍が清国の馬蹄銀を横領した嫌疑を『萬朝報』で追求し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込む。(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山県有朋の恨みを買い、これが後の大逆事件につながったとする説がある[2]。
1901年(明治34年)、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。又、この年田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず秋水が書き、正造が手を加えたものである(正造が直訴状の執筆を依頼した者たちが後難を恐れて尻込みする中、秋水だけが断らずに書いたといわれる)[3]。
1902年(明治35年)、前年に死去した中江兆民を追悼する『兆民先生』を発表。
1903年(明治36年)、日露戦争開戦以前は戦争反対の論調の新聞もあったが、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『萬朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させた為、堺利彦、内村鑑三、石川三四郎と共に発行元の朝報社を退社する[4]。秋水と堺は非戦論を訴え続ける為に平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。この頃、『萬朝報』で同僚だった斉藤緑雨が病で貧窮した為、「週刊・平民新聞」に、緑雨の為に「もゝはがき」という欄を設け、原稿料を得ることができるようにした[5]。緑雨はその送金が待ちきれずに、病躯をおして平民社に受け取りに来る時も多くあり、秋水はいつも、小遣い銭を加えて渡すようにしていたという[5]。
1904年(明治37年)、「与露国社会党書」発表、堺と「共産党宣言」を翻訳発表、即日発禁される。
1905年(明治38年)、新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。出獄後11月、渡米、サンフランシスコに着く。アメリカに亡命していたロシア人アナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた。翌1906年4月18日サンフランシスコ地震を体験。その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る[6]。同年6月23日には地震の影響から帰国の途に就き、同年6月28日には帰国歓迎会が開かれた。この時に秋水はゼネラル・ストライキによる「直接行動論」を提唱。1906年(明治39年)、1月に成立した第1次西園寺内閣の融和政策のもと結党が認められた日本社会党において「国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使に対し、党内は大きく揺れることになり、労働者による普通選挙運動を主張する片山潜や田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。のち秋水は社会革命党を岩佐作太郎と結成。
1909年(明治42年)、『自由思想』発刊、即日発禁。
1910年(明治43年)6月、幸徳事件(大逆事件)において逮捕。秋水は湯河原の「天野屋」に小泉策太郎に勧められて来ており、愛人の管野須賀子の湯治を兼ねて宿泊中であった。
獄中で、歴史的存在としてのイエス・キリストを否定する『基督抹殺論』を脱稿。イエス・キリストを天皇のメタファーとして、天皇を排する主張をしたとも言われる。内容は神智学協会のアニー・ベサントのキリスト教論に合致する部分が大きく、ベサントの影響が指摘されている。これが遺稿となった。[7]
翌年、有罪・死刑判決を受け、他の死刑囚とともに1月24日処刑された。こうした当局の対応には、当時すでに、国内外で知識人層の中から批判があった。社会主義者の一掃を図る当局は事件発覚を奇貨として、事件への関与が薄く大逆罪に該当しない秋水らに対し、罪を捏造して処刑した。刑死者12名のうち、実際に皇族暗殺を計画・検討し、大逆罪に該当する可能性があるのは、管野須賀子、新村忠雄、宮下太吉、古河力作の4名のみと見られた。秋水は事件当時、首謀者の1人に名指しされた管野と平民社内で同棲中であり、暗殺計画の存在を知っていた可能性がないわけではないが、そもそも管野は肺病で長く療養中であり、彼女が首謀者であったという検察の主張にはかなり無理があった。
秋水は、獄中に面会に訪れた妻千代子の手弁当に手を全くつけないほど、関係は冷え切っていたが、墓は、高知県四万十市の正福寺のその妻千代子の墓と隣接してある。碑銘は小泉策太郎(小泉三申)。 高知地方検察庁、高知地方裁判所の裏手にあり、戦前は墓碑に鉄格子がはまっていた。刑死後も猶、当局に監視されていた[8]。
大逆事件以後[編集]
徳富蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、1911年(明治44年)1月に幸徳らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。
大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。
また、秋水が法廷で「今の天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪いとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へ漏れ、南北朝正閏論が起こった[9]。 帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。
また翌1912年(明治45年)6月には上杉慎吉が天皇主権説を発表し、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく[10]。
評価[編集]
新たな資料などが発見された1960年代以来、大量の研究書が発表されており、幸徳事件(大逆事件)は国家によるフレームアップ(濡れ衣)の典型例であることが確実となった。批評家柄谷行人や浅田彰、すが秀実、鴻英良らは、大逆事件を日本帝国主義の重大な指標としてみなし、その波及効果を研究している。他の評価としては批評家の福田和也が愛国者として秋水を評価するものがある[11]。 また代表作『帝国主義』はホブソンやレーニンらの帝国主義論に先駆けるもので、独自の批判的分析を展開している。平成20年(2008年)、クリスティーヌ・レヴィ(Christine Lévy)によって『帝国主義』のフランス語への翻訳 "L'impérialisme, le spectre du XXe siècle" (Paris, CNRS editions)がなされるなど、近年海外でも再検討されている。
平成13年(2000年)、秋水の出生地である、当時の中村市議会は、「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で議決した。
大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん[注 1])
1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。
特に一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたと明治政府が捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕、起訴、死刑判決を下した事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。
概要
大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」(和歌山県新宮市)
政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。これまでに知られている大逆事件には、
1910年(1911年) - 幸徳事件(検察によるフレームアップがあり、幸徳と面識があるだけの有罪者もある)
1923年 - 虎ノ門事件(虎の門事件とも表記される)
1925年 - 朴烈事件(「朴烈、文子事件」とも呼ばれる)
1932年 - 桜田門事件(李奉昌事件とも呼ばれる)
の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。
虎ノ門事件と桜田門事件が現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく大逆罪を犯す犯意程度で有罪とされた。
中江兆民生誕の地と兆民通り
「幸徳秋水」の展示(四万十市)田中全元四万十市長の解説
9月5日~9日はブログをお休みします。
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8月21日(水)
幸徳秋水を訪ねて
四万十市(旧中村市)
幸徳秋水
ウキペディアより
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、1871年11月5日(明治4年9月23日) - 1911年(明治44年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。
本名は、幸徳傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件(幸徳事件)で処刑された12名の1人。
経歴
高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。尚、妻師岡千代子の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。
9歳の時、儒学者・木戸明の修明舎に入り、四書五経等を学ぶ。11歳で旧制中村中学校(現:高知県立中村中学校・高等学校)に進学するも、台風で校舎が全壊しなかなか再建されず退学。 1887年(明治20年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。
新聞記者を目指し、『自由新聞』(板垣退助社長。小泉策太郎と親友に)等に勤めた。同年に発布された保安条例で大阪に移った兆民は角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げ、所謂壮士芝居の先駆となる。その時の演目の一つ「勤王美(義とも)談上野曙」は兆民が秋水に執筆を依頼したといわれる[1]。
1898年(明治31年)より黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。萬朝報は日本に於けるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追求、「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。
1899年(明治32年)末には東京の新聞中発行部数一位に達し、最大発行部数は30万部となった。又一時淡紅色の紙を用いた為「赤新聞」とも呼ばれた。
秋水は記者の傍ら国民英学会等で学び、1900年(明治33年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党が曾ての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを嘆き、『萬朝報』に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。
また同年6月より起こった義和団の乱(北清事変)制圧の際、日本軍が清国の馬蹄銀を横領した嫌疑を『萬朝報』で追求し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込む。(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山県有朋の恨みを買い、これが後の大逆事件につながったとする説がある[2]。
1901年(明治34年)、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。又、この年田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず秋水が書き、正造が手を加えたものである(正造が直訴状の執筆を依頼した者たちが後難を恐れて尻込みする中、秋水だけが断らずに書いたといわれる)[3]。
1902年(明治35年)、前年に死去した中江兆民を追悼する『兆民先生』を発表。
1903年(明治36年)、日露戦争開戦以前は戦争反対の論調の新聞もあったが、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『萬朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させた為、堺利彦、内村鑑三、石川三四郎と共に発行元の朝報社を退社する[4]。秋水と堺は非戦論を訴え続ける為に平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。この頃、『萬朝報』で同僚だった斉藤緑雨が病で貧窮した為、「週刊・平民新聞」に、緑雨の為に「もゝはがき」という欄を設け、原稿料を得ることができるようにした[5]。緑雨はその送金が待ちきれずに、病躯をおして平民社に受け取りに来る時も多くあり、秋水はいつも、小遣い銭を加えて渡すようにしていたという[5]。
1904年(明治37年)、「与露国社会党書」発表、堺と「共産党宣言」を翻訳発表、即日発禁される。
1905年(明治38年)、新聞紙条例で入獄、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。出獄後11月、渡米、サンフランシスコに着く。アメリカに亡命していたロシア人アナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交わり、アナルコ・サンディカリズムの影響を受けた。翌1906年4月18日サンフランシスコ地震を体験。その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る[6]。同年6月23日には地震の影響から帰国の途に就き、同年6月28日には帰国歓迎会が開かれた。この時に秋水はゼネラル・ストライキによる「直接行動論」を提唱。1906年(明治39年)、1月に成立した第1次西園寺内閣の融和政策のもと結党が認められた日本社会党において「国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使に対し、党内は大きく揺れることになり、労働者による普通選挙運動を主張する片山潜や田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。のち秋水は社会革命党を岩佐作太郎と結成。
1909年(明治42年)、『自由思想』発刊、即日発禁。
1910年(明治43年)6月、幸徳事件(大逆事件)において逮捕。秋水は湯河原の「天野屋」に小泉策太郎に勧められて来ており、愛人の管野須賀子の湯治を兼ねて宿泊中であった。
獄中で、歴史的存在としてのイエス・キリストを否定する『基督抹殺論』を脱稿。イエス・キリストを天皇のメタファーとして、天皇を排する主張をしたとも言われる。内容は神智学協会のアニー・ベサントのキリスト教論に合致する部分が大きく、ベサントの影響が指摘されている。これが遺稿となった。[7]
翌年、有罪・死刑判決を受け、他の死刑囚とともに1月24日処刑された。こうした当局の対応には、当時すでに、国内外で知識人層の中から批判があった。社会主義者の一掃を図る当局は事件発覚を奇貨として、事件への関与が薄く大逆罪に該当しない秋水らに対し、罪を捏造して処刑した。刑死者12名のうち、実際に皇族暗殺を計画・検討し、大逆罪に該当する可能性があるのは、管野須賀子、新村忠雄、宮下太吉、古河力作の4名のみと見られた。秋水は事件当時、首謀者の1人に名指しされた管野と平民社内で同棲中であり、暗殺計画の存在を知っていた可能性がないわけではないが、そもそも管野は肺病で長く療養中であり、彼女が首謀者であったという検察の主張にはかなり無理があった。
秋水は、獄中に面会に訪れた妻千代子の手弁当に手を全くつけないほど、関係は冷え切っていたが、墓は、高知県四万十市の正福寺のその妻千代子の墓と隣接してある。碑銘は小泉策太郎(小泉三申)。 高知地方検察庁、高知地方裁判所の裏手にあり、戦前は墓碑に鉄格子がはまっていた。刑死後も猶、当局に監視されていた[8]。
大逆事件以後[編集]
徳富蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが果たせず、1911年(明治44年)1月に幸徳らが処刑されてすぐの2月に、秋水に心酔していた一高の弁論部河上丈太郎と森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演し、学内で騒動になった。
大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件前後にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、「時代閉塞の状況」「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は1911年3月戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。
また、秋水が法廷で「今の天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪いとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へ漏れ、南北朝正閏論が起こった[9]。 帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。
また翌1912年(明治45年)6月には上杉慎吉が天皇主権説を発表し、美濃部達吉が天皇機関説を主張し、当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のち天皇主権説が優勢になる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋はのちロシア革命が勃発してからは極秘で反共主義政策を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく[10]。
評価[編集]
新たな資料などが発見された1960年代以来、大量の研究書が発表されており、幸徳事件(大逆事件)は国家によるフレームアップ(濡れ衣)の典型例であることが確実となった。批評家柄谷行人や浅田彰、すが秀実、鴻英良らは、大逆事件を日本帝国主義の重大な指標としてみなし、その波及効果を研究している。他の評価としては批評家の福田和也が愛国者として秋水を評価するものがある[11]。 また代表作『帝国主義』はホブソンやレーニンらの帝国主義論に先駆けるもので、独自の批判的分析を展開している。平成20年(2008年)、クリスティーヌ・レヴィ(Christine Lévy)によって『帝国主義』のフランス語への翻訳 "L'impérialisme, le spectre du XXe siècle" (Paris, CNRS editions)がなされるなど、近年海外でも再検討されている。
平成13年(2000年)、秋水の出生地である、当時の中村市議会は、「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で議決した。
大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん[注 1])
1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。
特に一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたと明治政府が捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕、起訴、死刑判決を下した事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。
概要
大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」(和歌山県新宮市)
政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。これまでに知られている大逆事件には、
1910年(1911年) - 幸徳事件(検察によるフレームアップがあり、幸徳と面識があるだけの有罪者もある)
1923年 - 虎ノ門事件(虎の門事件とも表記される)
1925年 - 朴烈事件(「朴烈、文子事件」とも呼ばれる)
1932年 - 桜田門事件(李奉昌事件とも呼ばれる)
の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。
虎ノ門事件と桜田門事件が現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく大逆罪を犯す犯意程度で有罪とされた。
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