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秘密国家日本!!
日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年)
アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。
このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。
過去の侵略戦争を全く反省しない自民党政権!!
安倍氏「真珠湾犠牲者を哀悼」…中国「本当の和解望むなら南京に来い」
日本軍による太平洋戦争最大の3万人虐殺事件
1943年5月9日から12日にかけ洞庭湖の湖畔にある魚とコメが豊富な廠窖鎮が地獄と化した。日本軍はここで罪のない人々を虐殺し、中国侵略で二番目の大虐殺事件を起こした。これは太平洋戦争の最大の虐殺事件で、わずか3日間に中国の軍民3万人余りを殺害し、200人余りの女性を強姦し、第二次世界大戦でのファシストによる1日の殺りく数としては最多となった。
三原じゅん子は過去の日本が「八紘一宇」のスローガンのもとに行った残虐行為の数々を認識しているのだろうか??
まずは、安倍と中国各地を巡ったらいいと思う!!
【国会】三原じゅん子『【八紘一宇】を語る? 2016年年3月16日
地底からの叫び声が聞こえませんか??
731勿忘
731遺跡は日本軍国主義が細菌戦を行ったことの証しであり、
また、日本軍国主義がその犯罪行為の証拠を隠滅しようとしたことの証しでもある。
ー金成民(侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長)
侵華日軍第731部隊本部遺跡CG復元映像
常徳細菌戦
なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか??
核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も
こんなことまで起こっている!!
外務省は、安倍内閣の顔色を窺ったのか、政府からの指示があったのか、中国人細菌戦被害者遺族のビザを発給しなかった!!
これからも、アジアの戦争被害者や遺族の入国を拒否するかもしれない!!
当時の集会の模様
中国人細菌戦被害者なぜいない?
ビザ発給拒否・集会妨害裁判について
次回の裁判は、㋂2日(木)14:00~東京地裁、傍聴よろしくお願いします。
莫大な防衛費を使って、化学学校、衛生学校ではどんなことが行われているのであろうか?
米軍と共同でCBR兵器の開発を密かに行なってはいないのか?防御のためと言いつつ、裏で何を行っているのだろうか。明らかにしたい!!
〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器=細菌兵器等)、R(放射能兵器=核兵器)〕
12月21日(水)『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』の公開を求める裁判が東京地裁522号法廷でありました。
最初は、情報公開法でその2点を開示請求していたのですが、保有していないことを理由に、行政文書不開示を防衛省は決定しました。それに対し、原告は、行政不服審査法に基づき異議申し立てをしました。その審議会が、防衛省の意向に沿って、不開示は正当であるとの結論を出すまでに、4年も年月をかけているのです。全く何もやっていなかったのではと思ってしまいます。防衛省と審査会とのやり取りはどんなことがあったのか、4年間の経過をきちんと説明してくださいと、弁護士は切実に訴えました。また原告は、いまだに、細菌戦被害・毒ガス被害で悩む中国の被害者のためにも、きちんと公開すべきだと陳述しました。
化学学校記事の第12号には、杉田論文「自衛隊員が語る旧軍技術研究」として次のような細菌戦に関する記述があります。
「-日本は1931年(昭和6年)満州に細菌戦遂行のため〈731〉部隊を編成した。研究所、部隊は逐次整備され1935年(昭和10年)には、ねずみ2000匹を使用してノミを飼育し、ペスト菌の培養量だけでも毎日10㎏に及んだ。
1938年 華中戦線 細菌大量使用
1939年 ノモンハン 細菌大量使用
1940年 重慶爆撃 ペスト菌、コレラ菌使用
1941年 湖南省 細菌作戦
1943年 華中、華北 細菌作戦
その戦績は、衛生部隊としてかつてない大きな成果をあげたとして感謝状36回授与にみられる」
今、現在の研究では、細菌戦を始めたとされるのは1939年のノモンハン事件の時です。この論文が確かだと、ノモンハン事件の前に細菌戦が38年に華中で行われていたこと、また、重慶でも細菌戦が実施されていたこと、1942年の浙贛作戦以降の43年にも細菌戦が行われていることになります。
今、まさに、この『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』『衛生学校記事』そして『731部隊関連資料』の全面公開を実現させ、細菌戦・化学戦の戦中・戦後の実態を解明し、今の日本の現状でいいのかを考える時に来ています。
米軍と共同で自衛隊はCBR兵器の開発を密かに行なってはいないのか?非核3原則を唱えながら、防御のためと言いつつ、裏で何を行っているのだろうか。防衛省はきちんと国民に説明する義務があります!!
憲法9条はないがしろにされ、軍事研究がどんどんとスピードアップされている現状を打破しなければと強く思います!!
次回裁判は、3月1日(水)午前11時~東京地裁522法廷、傍聴よろしくお願いします。
・中国外務省の陸慷報道局長は7日の記者会見で、南京大虐殺記念館のほか、満州事変の発端となった柳条湖事件を記念した博物館や731部隊跡地を挙げ、「日本が深刻に反省し本当に謝罪したいなら、中国には多くの弔うべき場所がある」と述べた。
中国にも「弔う場所ある」=安倍首相の真珠湾訪問
「米国が真珠湾を忘れられないように中国も南京大虐殺を忘れることができない」
安倍総理の真珠湾訪問に対し 中国外務省が牽制
「今の日本にもう黙っていられない!」マレーシア
アジアフォーラム
糸数慶子参議院議員挨拶(沖縄の風)
パネル展『戦争の加害』プレイベント(横浜)
戦争の加害と教科書記述の変遷
「戦争の加害」パネル展(2016年2月横浜)
「辺野古の“今”」写真展(2016年2月横浜)
●南京大虐殺
・南京大虐殺から80年、今年の12月13日は、80年前の日中戦争で南京が陥落した日だ。そして、虐殺が始まる。(もちろん、南京に至る過程でも、残虐行為を繰り返していた!)
10、中支那方面軍に出向した武藤章
膠着した戦局の打開を苦慮した武藤章作戦課長は、杭州湾に一軍を上陸させて、背後から中国軍を攻撃する作戦を考案し、下村第一部長の内諾を得て北支那方面軍に飛び、華北から上海への兵力抽出を説得した。その結果、杭州湾上陸の為の第10軍が編成された。合わせて第16師団が華北から転用し、上海派遣軍に加わった。
11月5日、第10軍が杭州湾に上陸、背後を衝かれた上海防衛の中国軍に動揺が走り、11月13日に第16師団が長江岸の白茆江に上陸すると、中国軍の撤退と潰走が始まり、やがて総崩れとなり、上海攻略戦は一段落をつけた。
安倍首相は、なぜ中国へ行って謝罪しない??パールハーバーよりも先ではないか!!
当時、南京にいたアメリカ人牧師マギーがとらえた南京虐殺
フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」
マギーフィルム(日本語訳付き)
フィッチ
フィッチ(George Ashmore Fitch)が中国の蘇州で1883年に生まれたのは、長老教会の宣教師ジョージ・フィジーとメアリー・マックレランとの子としてであった。1906年にウースター・カレッジで文学士号を得、続いてニューヨークのユニオン神学校に進んだ。1909年に按手礼を受けて中国へ戻り、上海青年会で働いた。
南京虐殺の時期には、フィッチは南京青年会の責任者だった。南京安全区国際委員会の働きに積極的に参与し、安全区の総幹事となった。南京大虐殺に関する彼の日記が、1937年12月13日に南京が陥落した後初めてこの地を離れる許可を得た外国人によって上海へ持ち出された。フィッチが書いているように、「私の物語が上海でセンセーションを引き起こしたのは、首都失陥後のそこの情況についての最初のニュースだったからで、コピーされ印刷されて広範囲に伝わった」。
1938年にフィッチはアメリカ各地を旅行し、南京大虐殺を紹介し記録フィルムを放映した。中国に戻ってYMCAや国際連盟の救援本部で奉仕し、続いて朝鮮と台湾のYMCAで働き、1961年に隠退した。
本書には彼の日記と友人宛の書簡2通が収録してある。
友人への手紙(1938年1月6日)
南京・1938年1月6日
親愛なる××
昨日、日本兵が、僕らの門番に銃剣を突きつけて、むりやり門を開けさせたのだが、午前にも晩にも略奪しに行き、しかもおとといもそこにいたのだ。だけどこんなのは微々たるもので、以前と比べたらほんとにずっとよくなったんで―僕ら喜んでいるんだ。
そうなんだ、僕は家が略奪されたんだ。室内がごった返しているさまが、君には想像されると思う。だけど実際のところ外国居留民の家という家が、みんな洗いざらいやられたんで、あまつさえ、いくつかの大使館の建物さえ、1つとして難を免れてないんだ。幸運にも、僕らは早めにトランクをいくつか、バックの家に提げて行っていたんで、それで、損失はひどくはなかったんだ。場所によっては、家が安全区内にあったとしても、損失が著しかった―我が家は安全区外にあったんだが。その日にロシア大使館が焼かれて廃墟になってしまった。そのうちに、日本軍の南京での強姦についての文章を僕が書くとして―そんなものを読むなんて、愉快なわけがない!僕は誇張しているんではないんで―ただただここで起きたことを、しかも僕個人が心に留めたあのことこのことを、語り出しているだけなんだ。
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・
(日中戦争)『昭和天皇』「上」(ハーバード・ビックス著:講談社学術文庫より)
ふたたび、日本は中国軍の早期壊滅を期した。1938年末、圧倒的な地上、海上、空中での優位をほしいままにした日本軍の攻勢は、事実上、あらゆる戦闘で大勝利を収めた。しかし、中国の抵抗は頑強なため、日本軍はしだいに化学兵器に頼るようになった(これには西洋に先例がある。もっとも悪名高いのが、第1次世界大戦、ドイツによる最初の毒ガス使用であり、そして1935年にはファシスト・イタリアがエチオピアでこれを使用した)。11月までに日本軍は華中の揚子江沿い〔湖北省の東部〕にある武昌、漢口、漢陽の「武漢三鎮」と華南の広東を占領した。日本軍は中国の主要鉄道の要衝を制圧し、中国でもっとも富裕で発展している沿岸諸省に飛び地を設けて支配した。蒋介石は、戦争の継続を宣言し、全政府を日本軍の追撃能力の及ばない、さらに奥地の山岳都市重慶に後退させた。
軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)
※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
お粗末な日本政府の情報公開
※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。
●ニュース
安倍氏「真珠湾犠牲者を哀悼」…中国「本当の和解望むなら南京に来い」
「安倍首相はまず南京に来るべきだ。我々は寛容の心で受け入れる」
<中国>南京大虐殺の追悼式典 安倍首相の訪問求める声も
実際のところ、その日に日本が攻撃した場所は真珠湾だけではありませんでした。その約1時間前には日本陸軍はマレー半島の北東沿岸を攻撃、同日にはアジア太平洋地域の他の幾つかの英米の植民地や基地を攻撃しています。日本は、中国に対する侵略戦争を続行するために不可欠な石油や他の資源を東南アジアに求めてこれらの攻撃を開始したのです。
それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の「慰霊」にも行く予定はありますか。
真珠湾訪問にあたっての安倍首相への公開質問状
南京大虐殺の記憶語り継ぐ集会、全国11カ所で開催――来日中国人講演者に入管圧力
APAホテル「南京大虐殺否定本」の中国炎上と、言論の自由
アパホテル、「南京大虐殺否定本」で中国で炎上。
大統領就任式ボイコット、民主議員が続々表明
「最も好感度低い大統領」ABCなど世論調査
感情に訴えた独島少女像、敏感な領土問題に触れた(2)
鳥インフル防疫完了 山県市の養鶏場
米軍F35、普天間の一時使用も 今月岩国に配備
山城議長勾留「国際人権法反する」 米弁護士レペタ氏が異議
急激な数値悪化なぜ? 豊洲市場、過去の検査を検証へ
自衛隊 初の米国人保護の訓練、防衛省が発表
判決が確定する場合、外交部は日本との交渉で日本軍と官憲の強制連行を認めるかどうかを協議した文書を公開しなければならない。第1~12回の局長級協議の全文などが該当する。
日本との慰安婦合意交渉文書 一部公開命じる判決=韓国裁判所
黒柳徹子さん、辺野古・憲法9条改憲に反対を表明。
なぜ今、甲状腺検査見直し?
日本は正しい歴史観に基づいて自国民を教育せよ―中国外交部
[寄稿]1★9★3★7
産経新聞が日テレの「南京虐殺」検証番組を「裏付けなしの謀略宣伝」と攻撃! でも捏造と謀略は産経の方だった
三笠宮は、731の生体実験・細菌戦・毒ガス戦・南京大虐殺も全て知っていた!!
昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王は、南京事件に
「架空の歴史を信じない」。戦時に軍部を批判した皇族、三笠宮さまが注目される理由
日テレが産経に「厳重抗議」 ギャラクシー賞「南京事件番組」検証記事めぐり
村上春樹氏「歴史を書き換えれば結局は自身を傷つけることに」
極右稲田朋美防衛相「南京大虐殺を事実と認定しない、日中戦争は侵略と断言出来ない」→韓国人「中国尖閣諸島周辺で活動範囲を拡大」
「核」で過去の発言追及…稲田氏に集中砲火
稲田防衛相らの「白紙領収書」問題
韓国、大揺れ 安倍首相「慰安婦へ謝罪の手紙」拒否に政府板挟み
[特派員コラム] 12・28合意と決別しよう
韓国で少女像「移転してはならない」が76%
韓国国民の63%が「慰安婦問題再交渉すべき」、少女像移転反対も76%
核兵器禁止、「本音」と「建前」に揺れる日本政府、オバマ大統領の「核先制不使用」には反対
潜在的核保有国化を目指す日本は、核兵器禁止条約制定目指す決議案に反対!!
非核3原則は嘘だった!!
※2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が明らかになった。
※非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。
日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!
核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も
「Iam not ABE に込めた警告 ひとりひとりの挑戦こそが民主社会をつくる」
これが自民党の実態だ!!
憲法改正で自民党が目指すもの!!
国民主権、基本的人権、平和主義の3つを無くし、
国防軍創設、国体護持!!
全く、戦前の日本と同じではないか!!
自民党の目指すもの??
●脱原発!!
甲状腺がん:福島、広島、長崎の比較
WHO(世界保健機関)は原発推進のIAEA(国際原子力機関)に手足を縛られ、放射能の危険を世界に警告できない!
ストロンチウム90を追え!
子ども脱被ばく裁判
福島・南相馬の避難指示解除 帰っても再建遠く…
もんじゅ・西村裁判(国家賠償請求訴訟)
1、もんじゅ事故と一生命の関係
1995年12月8日もんじゅナトリウム漏えい事故発生。・・・・・連日もんじゅ事故の報道が行われた。もんじゅの維持に1日約5500万円の維持費(税金)が使われている!!
もんじゅを延命させるため、国民に対し、複合ショックを与える企画がされたと推される。(記者会見を通じて、マスコミの注目をビデオ隠しに向かわせ、混乱した情報を出し続けた)。・・・国策は目的達成のために、マスコミを利用し、情報コントロールしながら、事故の鎮静化が課題となった。推進派は動燃職員の生贄(いけにえ)策でもんじゅ延命、事故の鎮静化を図ったと推される。
1996年1月13日 警察は「西村成生が飛び降り自殺した」と発表。
※遺体は飛び降り自殺ではなく他殺体だった。(損傷が落下死と異なる)!!
もんじゅ、西村裁判
もんじゅ西村裁判(予告編)
南京大虐殺の「勇士 木村守江」(元軍医)は福島原発導入の張本人だった!~レイバーネットTVで明らかに
南京大虐殺や原爆開発の反省をしないまま戦後突き進んだ結果が福島原発事故だ!!
木村守江(元福島県知事)と南京大虐殺と原発!!
木村守江と南京、福島原発
大惨事以上の福島原発
大惨事以上の福島原発。大惨事は後片付けすることが可能だ。 東京電力福島第一原子力発電所廃炉推進カンパニー最高責任者の増田尚宏は、とうとう公に“公式に”600トンの熱い溶融炉心コリウムが行方不明だと発表した(福島原子力発電所の運営企業が、600トンの溶融燃料が行方不明と語る、Epoch Times、2016年5月24日)
※コリウムとは・・・★炉心溶融がおこると、ウランや酸化ウランという燃料が融けだします。また高温なので壁等につかわれるジルコニウムや鉄も融けだしてきます。
融けだすとすべて液体となり、これらの液体の混合物をコリウムといいます。
原子力村→原子力マフィア→安保村
20160604 自由なラジオ #10「小出裕章ライトアップジャーナル
もんじゅ改革めど立たず 報告書案、新運営団体は未定
「核のごみは浜岡敷地内で処理すべき」 最終処分で川勝・静岡知事
ドイツ環境・原子力大臣、「原発は費用がかかり将来世代に責任を持てない」=2020年の原発全廃を強調―東京で会見
地震大国日本!これでも原発を動かすの??
活断層、日本に2千以上 どこでも大地震が起こる恐れ
「熊本地震は南海トラフ地震の前兆」専門家が緊急警告
「高浜原発の運転は不安」が最多 意見公募、規制委に 審査書案は修正わずか
甲状腺がん「チェルノブイリの多発傾向と酷似」〜疫学専門家
福島の癌→子供の甲状腺がん増加地図をチェルノブイリと比較する
母ちゃんの嘆き…子どもの叫び…過去を心に刻もうとしないモノへ…(¬_¬)
福島の甲状腺がんの患者に対していつ国は賠償をするのだろうか??
以下『NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?』
のビデオの冒頭の部分起こし。
「放射能は怖くない」。そう教えられていました。第2次大戦後、アメリカは爆心地の近くで人間はどこまで戦えるのか人体実験していたのです。その数25万とも言われるアトミック・ソルジャー(Atomic Soldier)、アメリカ政府が責任を認め、兵士たちに賠償するまで40年かかりました。
また、チェルノブイリ原発事故で多発した子どもたちの甲状腺がんが、放射能が原因だと認められるまで20年の歳月がかかりました。
5年前に起きた東電福島第一原発事故、100ミリシーベルト以下の低線量被曝を受けた作業員たちも病魔に襲われています。・・・・
NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?
・放射能の被害が深刻化しているのに、なぜ日本の医学界は“脱原発”と叫べない??
731部隊では放射線をマルタに浴びせて人体実験をしていた。
非倫理的なことをして、医学界は何を画策していたのだろうか?
また、原爆開発の研究も進めていた。
原爆投下直後、731の秘密を隠すために、国を挙げて被災地の放射能の被害について調べ、アメリカに協力した。「アメリカの心証を良くする為に」(国体護持のために)
そして、結果はアメリカに731のデータを提供し、731の医学者・原爆開発にかかわった科学者はすべて戦犯免責され、アメリカとの交流を深め、アメリカに取り込まれ、新しい化学・生物・核兵器の開発をしている。
国は、核兵器開発を進めているために、被曝に対する情報を隠蔽し、医学者・科学者も協力している。
※ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちの治療よりも原爆の威力の調査が優先された。
国体護持のために。
今のフクシマの現状も同じではないか?
なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?
放射能の危険性
トリチウムについて!!
核融合はやるべきではない!!
【熊本地震】丸川担当相「川内原発停止の必要なし」について。- 2016.04.16
●731問題
横倉氏は政府・与党との連携を重視!!(731のことなど頭にない??)
日本医師会 会長選挙 現職の横倉氏が3選
ドイツはまだ、戦争責任を追及している!!日本は全く忘れようとしている!!いや、あの戦争を肯定している!!
アウシュビッツ元看守に禁錮5年=94歳、殺人ほう助―独
南京大虐殺や原爆開発の反省をしないまま戦後突き進んだ結果が福島原発事故だ!!
木村守江(元軍医で南京戦に参加、元福島県知事。元日本医師会会長の武見太郎との関係は??木村の方が年配だが、同じ慶応大学医学部出身だ!!)と南京大虐殺と原発!!
木村守江と南京、福島原発
昭和天皇(当時は大元帥であり、現人神と教えられた)の名で始めた戦争!アジアで何千万人が犠牲になったのだろうか?
そして敗戦!!昭和天皇は責任を取らなかった!!謝罪もしない!!
あの戦争は明らかに侵略戦争であり、自衛の為の戦争ではなかった!!
安倍晋三と日の丸と戦闘機と「悪魔の飽食」731
安倍晋三のおじいさん岸信介と731の関係は??
岸信介・・・1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。
岸信介という人
以下「日本の右傾化・ファシズム化に危惧するブログ」より
岸信介の最初の実績の満州国で実業部総務司長に就任して訪満し、満州国の事実上の責任者として5ヵ年計画の中心者でした。
国家全体主義に燃え、あらゆる悪事を振舞うことになります。
岸信介は大日本帝国の侵略に果たした役割においては非常に優秀だったといえるかもしれません。
岸信介は満州国の現地の中国人らの生き血やアヘンで稼いだ資金をバックに、東條内閣の商工大臣として戦時統制経済を推進していきました。
岸信介は、東條内閣でも中国に深く関わっていくことにあります。戦時中の労働力不足として、中国人の労働力をも使おうとします。
そのために出されたのが、1942年11月27日、東條内閣による「華人労務者内地移入に関する件」の閣議決定でした。
このときの商工大臣は岸信介であり、「華人労務者」強制連行・強制労働政策遂行の最高責任者でした。
戦犯を逃れて、戦後首相に上り詰めた岸信介はそのことを追及されたのだが、責任者であったにも関わらず、白を切り続けました。
(参考)
岸信介、中曽根康弘、正力松太郎だけではなかった。
自民党自体がCIAの秘密工作機関であった!!
船瀬俊介の本を紹介 世の中はペテンに支配されている
従軍慰安婦を娼婦呼ばわりし、今回の閣僚・議員の靖国挑発を画策し、アメリカ様よりお叱りを受けて、侵略は国によって異なるとか、靖国や歴史認識、慰安婦の政治問題化は望んでいないなどの噴飯の見苦しい詭弁や言い訳を吐き続ける安倍晋三。親子揃ってそっくりではないですか?
第61・62・63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟。また長女・洋子は安倍晋太郎に嫁いだ。洋子の次男は第90・96・97代内閣総理大臣安倍晋三、三男は政治家岸信夫。
岸は安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられた[65]が、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准、昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、混乱の責任を取る形で岸は閣議にて辞意を表明する。
樺美智子さん(60年【岸内閣】安保闘争の犠牲者)の墓誌
「最後に」
誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ
終戦50周年731部隊
生体解剖は、731部隊以外の中国の陸軍病院でも行われていた!!
消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」
特定秘密保護法撤廃!!
国民は「知る権利」を行使し、軍備増強を阻止しよう!!
学術会議会長「自衛目的の研究許容を」 軍事否定から転換の可能性
この人は、有毒ガスを吸着するシートの開発に取り組んでいる。(軍事研究に積極的)
大西隆会長
15年戦争中の「医学犯罪」に目を閉ざさず、繰り返さないために
西山勝夫さん(滋賀医科大学名誉教授)に聞く(月刊『前衛』より)
731部隊で行われた人体実験・細菌戦に関し、日本政府は罪をきちんと認め、謝罪すべきだ!!
科学者の社会的責任
日本学術会議の軍事研究容認の動きを危惧し、反対する医学・医療関係者の声明
わが国の人文・社会科学、自然科学全分野の代表機関である日本学術会議が2016年5月20日、軍事研究のあり方を考える「安全保障と学術に関する検討委員会」の設置を幹事会で決定した。これに先立ち同会議の大西隆会長が本年4月の総会で自衛目的の研究を容認する考えを示したのを受けての動きと考えられる。
私たち 「『戦争と医の倫理』の検証を進める会」は、軍事研究に公然と道を開こうというこの委員会設置を強く危惧し、医学界の一員としてここに断固として反対の意を表明する。「『戦争と医の倫理』の検証を進める会」は2009年に発足し、「過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在にも盲目となる」という歴史の教訓を生かして、いわゆる「731部隊」に代表される十五年戦争における日本の医学者・医師らによる「人体実験」などの非人道的行為を、史実に沿って検証し、その教訓を生かしていくために活動を続けてきた。
患者の命を守るべき医学者・医師が「研究」の名目のもとに残虐な行為を行う加害者となり、戦後は「人体実験」などのデータ供与と引き換えに米国政府から免責され、わが国の医学界は一貫して検証も反省もせずに事実を隠蔽したまま現在に至っている。このように「731部隊」の問題には、軍事研究が行き着く先のすべてが含まれている。私たちは本会の設立以来、多くの資料や証言によってこの日本で実際に起きた医学者の加害の歴史について検証を進め、二度とこのような過ちを繰り返すべきではないと日本医学会や日本医師会を始め、医学界に強く警鐘を鳴らしてきたのである。今回の学術会議の動きは、まさにその過去の大きな過ちへの道を再びたどるものと危惧する。
平和主義と基本的人権の擁護は、患者の命を守る使命を担った医学者・医師が片ときも忘れることを許されない倫理であると同時に、日本国憲法の原則に一致するものである。世界医師会は「非倫理的行為を求める法には従わない」ことを医師に求めている。
日本学術会議は 1950 年に「戦争を目的とする科学研究には絶対従わない決意の表明(声明)」を、1967 年には「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発出している。これはわが国の科学者の真の自律と良心の宣言として、過去・現在そして未来までもその輝きがいささかも失われることがあってはならないのである。
「『戦争と医』の倫理の検証を進める会」は、歴史の教訓を踏まえ、科学者としての倫理と平和を追求する立場から今回の大西会長の発言に大きな危惧を有し、反対の意思を表明し、従来の声明の擁護を求めていくものである。
2016年6月8日
「戦争と医」の倫理の検証を進める会
日本政府は731の史料をことごとく隠蔽し、人体実験・細菌戦の事実を認めていない!!
731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書⁄川田悦子(衆議院議員)
2003年10月3日
七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書
答弁本文情報
外務省、防衛省等の文書において、関東軍防疫給水部におけるお尋ねの「研究檢索」、「製造業務」及び「其ノ他危險ナル病原細菌」の具体的内容を示す資料は現時点まで確認されておらず、お尋ねにお答えすることは困難である。
いかなる部隊であったのか?
731部隊というのは一旦入ったら、2度と出ることはできない気違い共の医者たちに目茶目茶に切り刻まれて実験で殺されてしまう。
医学者?と人体実験
731部隊のドキュメンタリー
731部隊にいたことを悔い、医学者の道を捨てた男の物語
こういう人は稀だ!!ほとんどの上級隊員は、731での実績??をもとに出世??した!!
「731部隊と医学者たち」
※中国の731罪障陳列館から特移扱で731部隊に送られ、人体実験されて亡くなった人の資料が届きました。犠牲者は3000人以上とされています。
その「特移扱」というのは、憲兵隊及び偽満州国警察が、中国人民を不法に逮捕し、「重罪にあたる者」と決定したならば、裁判をおこなわないで、憲兵隊から石井部隊に移送して、細菌実験材料としてなぶり殺しにすることであった。
原美臻の特移扱い資料7
封印された真実
戦争の狂気を語る!!
日本で、米兵の生体解剖したら、戦後大問題!!
九大石山教授は自殺した。
中国で多くの人を生体解剖しても、なぜ問題にならない???
731の罪業は許されるのか???
九州大学生体解剖事件 (2/2)
九大生体解剖事件、90歳医師の償い 最後の生き証人
九大生体解剖事件
・情報公開裁判
なぜ、自衛隊衛生学校で作った『衛生学校記事』がきちんと保管されていないのだろうか?衛生学校と言っても、国民の税金で作られた公の施設である。自衛隊だから戦後、物品の管理はしっかりやっていると思うのであるが、不思議である。自分たちの大事な研究をまとめた機関誌である。第5代衛生学校長、金原節三氏の大切な寄贈資料も所在不明、よほど、管理が杜撰なのか??
季刊誌『ふかみどり』がきちんとあるのに、なぜ、その前の『衛生学校記事』はない??
金原節三・・陸軍に入り、次いで東大大学院で耳鼻咽喉科を専攻。ドイツ留学、昭和17年軍医大佐、近衛師団軍医部長、第15軍軍医部長、第38軍軍医部長、陸軍省医務局医事課長を歴任。戦後厚生省東海北陸医務出張所長を経て開業。30年防衛隊に入り陸上自衛隊衛生学校長、陸上幕僚監部衛生課長から陸将、第3代陸上幕僚監部衛生監となった。36年退官。その後防衛衛生協会会長、共済組合連合会三宿病院顧問、48年防衛衛生協会名誉会長。竹郎子と号し俳句、俳画をよくした。著書に「大東亜戦争陸軍衛生史」がある。
※『化学学校記事』等についての回答がありました。
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。
答申が出るまでになんと4年のかかっている!!その間、防衛省は、審査会にどんな返答をしていたのか?全く無視していたのか?
防衛省と規模がでかくなって、何をやっているのか、全く見えない省である。すべて秘密裏に行っている??
この情報公開裁判で「衛生学校記事」「化学学校記事」等の公開を求めているが、それらにはどのような記述がみられるのか。特に核兵器については、どのような部署で防護の研究が行われているのだろうか。日本は、唯一の被爆国でありながら、その悲惨な状況を国民に知らせることはなかった。日本政府、学術会議等のリーダーたちは、加害の事実をことごとく隠蔽し、戦争の反省を深くすることなく、アメリカの傘下に入り、再軍備に走っていることが下記の論文から、よくわかる。また、原発と自衛隊の関係はどうなっているのだろうか。防衛省は、「衛生学校記事」「化学学校記事」等を全面公開をし、防衛費を増額していったい何をやろうとしているのか、しっかりと国民に伝える義務がある!!
敗戦前の隠蔽工作、そして戦後の核・ミサイル開発
新妻清一(1945年1月において陸軍省軍務局軍事課課員)について
・・・さらに(1945年8月)13日に新妻は広島を離れるが、東京に戻ると8月15日付けで「特殊研究処理要領」を軍事課名でまとめ、関係方面に通知した。その内容は、「一 方針 敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急措置ス」とし、「二 実施要項」で、ふ号登戸関係、731部隊、100部隊等に連絡するよう指示している。
このように新妻は広島に投下された兵器が原爆であることを熟知していたにもかかわらず、その事実を隠蔽し、一般に知らせることを避け、それと同時に登戸研究所、731部隊等陸軍の秘密研究の隠滅も図ったのである。
5、敗戦後の新妻―米軍の監視対象者から自衛隊の幹部へ
新妻は敗戦後米軍の監視対象者となり、731部隊やウランの保有量等様々な問題について尋問されたが、徹底した事実の隠蔽を図った。彼がサンダースから尋問を受けていたまさにその時期、45年11月10日付けの八木秀次からの手紙を受け取っている。それは雑誌『科学知識』が原子力や原爆の特集号を出すにあたって、新妻に原稿を依頼するものであった。その手紙で八木は新妻について次のように述べている。
寄稿を願うべき方として仁科博士に9月初め頃お願いいたしたることあり、総合的に原子爆弾については貴官が中心となり居られることと承知いたします。
八木は戦時期に軍と学会をつなぐ役割を果たした人物であり、彼が仁科に新妻を紹介されたということは、新妻が深く軍の原爆研究に関わっていたことを示すものと言えよう。
このように新妻は電波兵器の開発と原爆研究に深くかかわっていた。その知識と経験によって、新妻は戦後自衛隊で再び役割を担うことになる。
新妻は敗戦後第一復員局において旧軍関係の業務の処理に当たり、1954年には防衛技術研究所に入所し、企画室において企画業務に従事した。翌1955年には防衛研究所教官兼務となる。以後新妻は核及びミサイル、レーダー関連の専門家として活躍することになる。
(「核とミサイルに関する新妻清一関連資料」(1) 軍事史研究グループ(松村高夫、兒嶋俊郎)より
次回『化学学校記事』情報公開裁判は、3月1日(水)午前11時~東京地裁522法廷、傍聴よろしくお願いします。
審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
「ABC企画ニュース」より
10月11日(火)14:00から、東京地裁419号法廷で、第12回目の防衛省の『衛生学校記事』の公開を求める裁判が行われました。岩井裁判長は、被告の防衛省に対し、詳しく調べるように、具体的な名前まで挙げ(防衛省が管轄する図書館のすべて、例えば、衛生学校図書館、彰古館等)さらに防衛省の外局も調べるように、また、あった場合は、その経緯も報告するように命じました。
また、ある程度時間がかかってもよいということで、よく調べてくださいということでした。
原告側からは、防衛研究所にある資料と金原節三目録の資料とは同じではないかということで、同一のものであることも確認してくださいということが付け加えられました。
ということで、次回『衛生学校記事』情報公開裁判は2月28日東京地裁419号法廷であります。傍聴よろしくお願いします!!
原告の陳述より
5 金原資料は隠蔽されている。
私たちが本件裁判で公開を求めている『衛生学校記事』は、一昨年、その
一部が防衛医科大学校図書館等から発見されたとして公開されました。
しかし、そもそも裁判を起こされてから「防衛医科大学校図書館」を調べ直したら 『衛生学校記事』 の一部が発見されたという話し自体に私は強い疑いを抱いています。虚偽だと思います。また、元学校長の金原節三氏が『衛生学校記事』 を89冊も寄贈しているのに、防衛省は存在しないと主張し続けていますがこれも虚偽だと思います。
裁判所の三権分立がいま問われている!!
なんとか、この防衛省の内部研究誌を公開させたい!!
上記2点に対する裁判所の決定
お粗末な日本政府の情報公開
※自衛隊衛生学校、階級社会のパワハラ、セクハラ!!
国民が見えない密室の中で何が行われているのだろうか??
沖縄の那覇での写真。米軍の戦闘車両です。今年から米軍が参加しています。一回目に送信した写真は自衛隊の特殊防護車と地帯空ミサイルです。
米軍の車両
自衛隊の特殊防護車
地帯空ミサイル
地帯空ミサイル
そう言えばこんな事件もありました!!
たちかぜ自衛官いじめ自殺事件
731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力せざるを得なかった日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法の責任、全く無視している政治の責任、731に対する国民の認識は?
戦後72周年、中国の人々から日本の我々に届いた重いメッセージ!
虐殺された人々(日本人を含む)の声なき声にどう応えるか?
日本人はこの731問題にどう向き合うか?重い課題!!
日本には本当に三権分立があるのかが問われている!!
・・・・・・わしが命ぜられたことは、「ゴムホースで体を洗えということです。それもデッキブラシで洗え」と。わしは初めは足が震えて、とてもできませんでした。また”解剖”と思ったら顔を見ながら、「顔もデッキブラシで洗うのか?」と聞いたら、「そうだ」と言う。・・・・・・・・・・・
731 (2)
・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
黒い太陽№15
※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。
朝枝繁春の証言
古河、三井、チッソも戦前から国策「富国強兵」のもと、事業が進められ、環境問題を無視し、被害を拡大させ、今でも問題になっている!!そして、福島第一原発事故後も、国策「核兵器開発」のために、脱原発の方向に進まず、原発を再稼働させている!!
●水俣病
水俣病60年、苦しみなお 「チッソは逃げずに伝えて」
みんいれん60周年 公害の街に建つ「患者たちの病院」
新潟水俣病 感覚障害だけで認定命令 7人の訴え認める
水俣病の被害が拡大した時も、医学界の権威者が、一時、チッソ水俣工場の有機水銀説を否定した。
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。
東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会
※細菌戦部隊の周辺で研究者を送り込んだり,その他の協力関係にあった人です。
*田宮猛雄(当時)東京帝国大学で若い研究者を731に送り込んだ
(戦後)東大医学部部長
水俣病公式確認60年 未曽有の被害 全容未解明
水俣病
水俣病を引き起こしたチッソと皇太子妃雅子様は
日本の公害
●イタイイタイ病も賠償まで50年かかった!!
「かけがえのない貴い人の命はよみがえることはない」!!
イタイイタイ病団体50周年 記念の顕彰碑除幕、富山
G7閣僚 高い関心 イタイイタイ病の教訓 世界へ/富山
1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。
1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。 その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。 1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した[8]。
1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。 1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。 1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。 三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。 三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。・・・・・
2014年(平成26年)9月末時点では認定患者は198人で要観察者が延べ408人となっており[15]、患者数は増加し続けている。
さらに、2014年(平成26年)9月の検査では従来行われてきた5歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査を全年齢を対象に切り替えたところ、1969年(昭和44年)の調査開始以来最多の精密検査対象者が出ており、健康調査への受診率が低迷していることも合わせると、患者数の正確な数字は把握できていない[15]。
患者に認定されると公害医療手帳が支給され、国から医療費・障害補償費・療養手当などが給付される。また、三井金属鉱業からも賠償費・医療費・入通院費・医療介護手当・温泉療養費が支給される[14]。
しかし、認定にハードルは厳しく、いまだに行政の救済を受けることができずに苦しんでいる人たちが残っている。現代での問題点は原因分析ではなく、患者認定・要観察判定の具体的な基準に移っている。行政側である県認定審査会は厳しい基準を課して却下する事例が多い。 具体的には、イタイイタイ病の認定の4要件の1つとなる骨軟化症の判定をおこなっている。
ドキュメンタリー:イタイイタイ病
「イタイイタイ病」全面解決??
萩野医師によって、原因究明がなされたが、日本医学界はこの問題にきちんと向き合ったのだろうか???
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
カドミウム説の確信
新聞の見出しは「イタイイタイ病の原因は鉱毒。患者の骨からカドミウムが検出、岡山大学小林教授が発表」「亜鉛、鉛、カドミウム、神通川に多量に含まれる」「白米にもカドミウムが含有されている」。この富山新聞社のスッパぬきによって、その日以来、多くの新聞記者が萩野を取り囲むようになった。カドミウムという重金属の名前が初めてマスコミに取り上げられたのである。
三井はこんなこともやっていた!!
大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
潜水艦救難艦「ちよだ」命名・進水式に1500人 三井造船玉野事業所
こんな事件もあったっけ?
マンション傾斜・偽装問題:三井不動産&旭化成のマンション傾斜・偽装問題 全国3000棟に波紋広がる
三井住友銀行 副支店長の横領
三井住友銀元行員 4億円着服疑い 外貨取引損失穴埋めか
一方、原発・軍需産業に力を入れている三菱は?
MRJ開発遅れ、大型客船撤退…「空」も「海」も失態続き 日本代表「三菱重工業」に何が起きているのか
客船でまた巨額損、三菱重工がはまった泥沼
三菱航空機のMRJ この1年で受注ゼロ…債務超過の恐れも
日産、非常事態…突然に売上も利益も販売台数も同時激減…国内シェア1ケタ台転落で崖っぷち
原発に力を入れる東芝も!!
東芝 数千億円規模の損失計上へ
※共同研究者の東大の細谷教授は何をやったのか?
731部隊に弟子を送り込んだ防疫研究室の嘱託研究者
*細谷省吾 (当時)東大伝染病研究所教授
(戦後)同研究所に残る
研究業績で朝日賞を受ける
なぜ、研究者は以前から指摘されていた鉱毒被害には目をつぶる。
企業の方も、研究者を味方につけた??
なぜ、きちんと原因究明をしない??足尾鉱毒事件なども起こっていたのに!!
今の、水俣病や福島原発事故と構図は同じだ!!
※足尾銅山でも鉱毒でイタイイタイ病が発生していた!!(ウキペディア「足尾鉱毒事件」より)
1899年(明治32年)の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒によるイタイイタイ病で死者・死産は推計で1064人。これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。松本隆海は、すべてが鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、この地域で死者数のほうが多いのは、鉱毒に関連があるとしている(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。
1895年頃の足尾銅山
※以前から地元住民は鉱毒被害を政府に訴えていた!!医学界の反応は??(ウキペディア「イタイイタイ病」より)
1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。建議書には「神岡鉱業所事業の勃興に伴い、土砂に流入する田地の稲は発育に変調をきたし、完全に登熟しない。鉱山経営者に対し除害施設を講ぜしめられたい。」と訴えられている[8]。
その後も同様に要望が婦負郡農会や富山県会からも出たため、東京鉱務署の調査があり神岡鉱業所に廃砕・廃水処理の改善が命じられた。また、富山県は災害対策費として1ヶ所2円の県費補助金を出して、用水路幹線からの取水口に小沈殿池を設けさせて被害の軽減に努めた。これによって一時的に効果をあげたが、満州事変や日中戦争などに伴い神岡鉱業所が増産体制に入ったり、何度かの出水で小沈殿池が流されたり、埋没したりして以前にも増して泥や砂など流入が激しくなった[8]。
1948年(昭和23年)、熊野村(現:富山市婦中町)など3町4村の農家が神通川鉱毒対策協議会を結成。富山県を通じて交渉し、1951年(昭和26年)に神岡鉱業所が農業協力費を関係市町村へ支払うことになった。しかし、原因は解明されないままであった。
●横浜「戦争と加害」のパネル展
細菌戦(「戦争と加害」のパネル展in横浜)
毒ガス(「戦争と加害」のパネル展in横浜
「戦争の加害」パネル展(2016年2月横浜)
「辺野古の“今”」写真展(2016年2月横浜)
参観者の感想
・「女性国際戦犯法廷」の中で、日本代表のスピーチが聞き取れなかった。日本語であっても、文字を出して欲しい。重要な部分なので。60代女性
「慰安婦」関係資料21選より
●オバマはなぜ、原爆投下を謝罪しない?安倍は、なぜ加害事実を謝罪しない?
広島スピーチ
Obama’s speech in Hiroshima オバマ大統領 広島でのスピーチ
なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか??
核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も
・オバマ大統領の広島訪問 所感
5月28日 0時26分
そうしたものを、私たちは被爆者の方々の話しの中にみることができます。
最も憎んでいるのは戦争そのものだとして、原爆を落とした爆撃機のパイロットを許した女性の被爆者の話。
肉親を失ったのは自分と同じだとして、広島で原爆の犠牲になったアメリカ人の遺族を探した男性の被爆者の話。
アメリカという国は、シンプルなことばで始まりました。「すべての人は平等で、生まれながらにして生命、自由、そして幸福を追求する権利を持っている」と。
ただ、こうした理想を現実のものにすることは、アメリカ国内であっても、そしてアメリカ人どうしであっても、決して簡単なことではありません。
・永田浩三さんの添削
先輩の大統領は原爆投下によって、多くの人命が救われたと弁明しましたが、わたしも含め、それがデタラメだったことを知っています。
知らないのは隣にいる安倍だけかもしれません
オバマ広島訪問の虚像と実像(西里扶甬子)
原爆投下 10秒の衝撃 (1998年)
スウェーデンの研究機関は、世界の核兵器に関する調査結果を発表し、核弾頭の数の減少スピードは遅いうえ、アメリカやロシアが核兵器の近代化を進めていることなどを挙げ、核軍縮の進展に悲観的な見方を示しました。
核軍縮進展の見通し悲観的 スウェーデン研究機関
※核兵器廃絶の演説をしたオバマはなぜ、インドに原発を???
それも東芝の子会社が建設???
・昭和天皇(原爆被災時、日本の戦争の最高責任者、大元帥)の広島メッセージ
昭和天皇の広島メーッセージ(1975年の昭和天皇記者会見 )
ポツダム宣言黙殺・・・原爆・ソ連参戦
核廃絶へ松本で決議 非核宣言自治体協が総会
核実験・戦争・軍事演習こそが、地球環境を破壊する!!
核保有国は、環境破壊の責任を取ってもらいたい!!
この学術会議の動きは何なのだ???
日本学術会議 軍事技術研究巡り検討委設置へ
広島原爆投下
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
核を求めた日本!(岸信介の弟:佐藤内閣の時代)
水素爆弾の恐怖・ビキニ環礁 (アメリカ)
多磨霊園の仁科の墓
理化学研究所に入り、1921~28(T10~S3)海外に留学し、ラザフォード・ボーアらに学び、原子物理学の理論と実験を研究。28X線のコンプトン散乱に関して〈クライン - 仁科の公式〉を発表。同年末帰国。 31以降理研主任研究員として原子核・宇宙線・量子力学の研究を進め、これら各分野の開拓者となる。その門下から朝永振一郎(同墓に眠る)をはじめ多くの俊英が輩出した。 また核破壊装置の建設をすすめ、37我が国初めてのサイクロトロンを、44には当時世界最大級の大型サイクロトロンを完成させた。 戦後、46理化学研究所長。48理研の解体後、株式会社科学研究所を組織し社長となり、また日本学術会議副議長などを歴任した。46文化勲章受章。<コンサイス日本人名事典>
*謹書は吉田茂。墓右に朝永振一郎の墓が建つ。
彼の最後の公職は、1936年から1938年までの、駐英日本大使だった。それに、彼は南洋への進出の提唱者ではあったものの、アメリカへの攻撃を必ずしも必要とはしていなかった。1941年、アメリカへの攻撃はまだ回避できると考えていた。骨身を惜しまず丹精した結果、67歳にして、今や彼は、真価が認められようとしていた。マッカーサーや将官たちは彼を事のほか気に入り、1946年から1954年の間、5回にわたり首相となり、戦後日本の立案者として記憶されることとなった。
※当然、原子炉を稼働させれば必ずプルトニウムが蓄積される。
核保有国になるのではなく、潜在的核保有国になろうとしていたのである。
ではそれは仁科一人の孤立した考え方だったのだろうか。
当然、日本独立時の宰相吉田茂の考え方でもあった。
仁科と吉田の、並々ならぬ親交の深さから想像するとそうなる。
仁科の長年の部下玉木英彦は、後に「1950年の夏のある日、吉田首相が箱根に先生を招いて二人きりで懇談したいといってきたことがあった」
[★14]と思い出を語っているが、仁科と吉田の関係は、何か重大なことがおこると、それについて二人だけで議する間柄だったのである。
*規則が厳しい多磨霊園では例外的に、血縁外の人物と眠る。仁科芳雄の墓の右側に「朝永振一郎 師とともに眠る」とあり、謹書は仁科芳雄を師として研究を共にした喧嘩太郎の異名をとった内科医の武見太郎。
武見太郎
731部隊への批判を封じ込めた??なぜ、医者として原子力に反対しなかったのか??
日本の医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。・・・医師会内部でも自分の意に沿わない医師を冷遇するなど独裁的な権力を揮い、医師会のみならず薬剤師会・歯科医師会を含めたいわゆる「三師会」に影響を及ぼし武見天皇とまで呼ばれた。医師会サイドからだけでなく、吉田茂閨閥(吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女)に連なり、その私的なブレーンとしても政治に関わっていた。
※世界医師会と日本医師会の関係
日本医師会は1951年の第5回ストックホルム総会において加盟した。1975年に「医療資源の開発と配分」を主テーマに第29回世界医師会東京総会を、また2004年には「先端医療と医の倫理」・「ITの進歩と医療」を主テーマとして2004年世界医師会東京総会を、日本医師会主催により開催した。これまでに第29代武見太郎(1975年就任)、第52代坪井栄孝(2000年就任)が会長に推戴されている。(ウキペディアより)
※世界医師会における戦争医学犯罪の追及
ナチスによって近親者を虐殺された米カリフォルニア大のフランツブラウ教授(皮膚科学)らは、1970代からナチスに加担した医師を追及してきました。・・・・731部隊の戦争犯罪を知ったフランツブラウ教授は「731の問題から目をそらすことは、日本の医師が自ら品位をおとしめる」として日本医師会の責任を行って来ました。・・・・
日本医師会はすでに議論済みとし、「この案件を無期限に延期する」動議を提出しました。日本の医学界では「人間の価値」のような検証と反省がないばかりか、隠蔽し不問に付したままの状況が続いています。(『パネル集 戦争と医の倫理』より)
※横倉氏は政府・与党との連携を重視!!(731のことなど頭にない??)
日本医師会 会長選挙 現職の横倉氏が3選
茅誠司
*同墓所にはノーベル物理学賞受賞者である朝永振一郎とアメリカの物理学者であるハリー・C・ケリーも眠る。
仁科芳雄の墓の脇にある墓誌にはこう書いてある。
「ハリー シー ケリー 1976年2月2日
米国ノースカロライナ州 ラーレーにて没」
茅誠司記
茅誠司
日本学術会議も原爆開発や731に対して批判をしていない!!
日本学術会議会長、南極観測特別委員長として、日本の南極観測参加に尽力する。 また、日本の原子力研究の創始に当たっては、それを平和利用研究に限る証として「自主、民主、公開」の三原則を伏見康治とともに提唱し、「茅・伏見の原子力三原則」と呼ばれた。
※南極特別委員会には731部隊第2代隊長、北野政次(東京血液研究所所長)、731部隊で悲惨な凍傷実験の人体実験を行った吉村寿人(京都府立医大教授)、戦争中京都大学教授で弟子を731部隊に送り込んだ戸田正三(金沢大学学長)も参加している。
※日本の原子力研究において、この三原則「自主、民主、公開」は全く機能していないのでは??積極的にアメリカに追随して、全ての情報を隠蔽している!!
原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~
核兵器
「メルトダウン」事実と異なる説明 徹底解明を要請
憲法に優先する安保条約であるなら、アメリカと合同で極秘に核兵器開発を進めることも不可能では無いのではないか。
この甚大な被害をもたらした大地震の原因の究明はされていない!!地震学者も驚いているではないか!通常の地震とは違った!!
何で国は、北朝鮮からのミサイル攻撃の時の原発の被害想定などを国民の目から隠す!!被害は甚大である。
プルトニウム44tを何に使う??核兵器がそんなにほしいのか??
小出裕章先生:一番大切なのは多くの人達が真実を知る。そして一人ひとりが責任を持って声を挙げること
2011年3月11日 車が流される 人が飲まれる 津波
原発事故の原因が究明されずになぜ再稼動??
原発事故の原因はなぜ解明されない??
20150502 R/F #121「小出裕章ジャーナル」【原発攻撃被害報告書が明るみに】
1つ目の㊙
原発がもし日本で事故を起こしたらどれほどの被害が出るのか?(1959年)
2つ目の㊙
原発が攻撃されたらどんな被害がでるのか?(1984年)
「2つの㊙と再稼動」
やはり、日本は核兵器を既に持っているのか??
政府、「憲法は核兵器保有を禁止していない」とする答弁書を決定
(以下「高知新聞」より)
要約すれば、憲法は理論上は全ての核兵器の使用を禁じていない。だが、「現実」がその歯止めになると読み取れる。
現実が憲法を超えるとするなら、政府が守ると言っている憲法の平和主義も、核兵器を「持たず」「つくらず」「持ち込ませず」の「非核三原則」の国是も一気に空洞化する。
法的な歯止めではない現実は、刻々と変わる。時の政権の判断によって、核兵器の使用が可能になる余地が残る。
国会の場で、日本の核兵器使用が現実味を持って公然と語られる現状にも驚きを禁じ得ない。
【法制局長官答弁】核使用まで容認とは驚く
この人は核兵器と通常兵器を全く区別していない!!
「核兵器の使用」横畠裕介・内閣法制局長官の答弁記録3 18参院・予算委員会
あの戦争で日本軍のしていたことを全く反省していない日本。
だから、戦後も、自衛隊を中心に『防護の為』と称して、核兵器の開発、毒ガスの製造、生物兵器の開発が行われているだろう!!
毒ガスの製造は確認できた!!生物兵器は勿論核兵器もか??
そして、戦争になって初めて、自国がどんな兵器を持っているか気付かされるのでないか?
<小出裕章さんに聞く>日本のメーカーはなぜ原発にこだわり続けるのか
小出:炉心にあった燃料はすべて使用済み燃料プールに移されていた。溶け落ちなかったんですから、ホントだったら水素爆発は起きないはずだったんですが、なぜか4号機でも、巨大な水素爆発が起きました。(ビデオ27分過ぎ)なぜ、4号機で爆発が起きたんだ??原因究明が全くなされてない!!
小出裕章講演会 20160124 山口市県教育会館
●憲法9条
(新聞と9条:294)長沼裁判:66
――この憲法を守るのは本当にわれわれ国民だけじゃない。総理大臣が一番先に守らなければならない(尋問調書速記録)。
1972年3月30日、長沼裁判の第18回口頭弁論で、元陸軍中将の遠藤三郎は、そう語って証言を終えた。
(新聞と9条:295)長沼裁判:67
脱戦争!!軍事費が国家財政を破綻させる!!
現代の戦争(ハイテク戦争)
ハイテク兵器
・憲法9条(侵略戦争の反省から憲法9条が生まれた!)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
米軍はダメだが、自衛隊はいい?米軍も自衛隊も同じ仕様の武器を使っている。
沖縄にはたくさんの米軍基地・自衛隊の基地がある。最近では与那国島に監視レーダー施設ができ、石垣島、宮古島、奄美大島にも地対艦ミサイルの基地ができるという。これでいいのだろうか?
与那国島のレーダー施設
09
想像してごらん、
9条がゆきわたった世界を。
Imagine,
A world filled with Article 9.
想像,
一个充满第9条的世界。
Представить,
Мир заполнен со статьей 9.
IMAGINE9
09
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
「日本の憲法9条をあたりまえのものだとはどうか思わないでください。それは、 ある日突然なくなってしまうかもしれません。憲法9条があるからこそ、みなさんは戦争に行くことなく暮らせてきました。しかし憲法9条が救っているのは、日本人の命だけではありません。世界中の人びとが救われています。9条がなければ、みなさんはアメ リカが第2次大戦後に攻撃してきたすべての国、つまり、朝鮮半島、ベトナム、パナマ、グラナダ、イラク、アフガニスタンなどへ戦争に行かされていたのです」
これは、アメリカの元海兵隊員で、いまでは世界的に平和活動を行つているアレン・ネルソンさんの言葉です。
日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。だれが、何のためにそう言つているのか、考えてみましょう。
2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタ ンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「いっしょに戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこでじゃまになるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。
また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとってじゃまになるのは、「武器を売つてはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメ リカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人びとはどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そしてみなさんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。
「耳を疑った…」10月1日に“防衛装備庁”が発足するという決定に驚きの声
武器輸出三原則
今の現状防衛装備移転三原則
731を問う!!
2017年1月18日水曜日
南京大虐殺=国家犯罪!!
●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦、核開発)
日本政府は、証拠(井本日誌、731返還史料、防疫研究報告Ⅰ部等)をことごとく隠蔽し、731部隊での人体実験、また中国各地で行った細菌戦を闇に葬っている!!それだけではない、毒ガスのデータ、原爆開発のデータもアメリカに引き渡し、戦後はアメリカと共同で、極秘裏にCBR兵器の開発を進めている。国民にはその事実を隠蔽し続けている!!核兵器開発の為、原発を手放せないのではないか!!原発と自衛隊との関係はどうなっているのだろうか?〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器)、R(放射能兵器)〕
日本の史料が公開されれば細菌戦の全貌が解明される!!
「日本軍の細菌戦による被害者は9085人」、中国の研究チームが発表―中国メディア
井本日誌(井本日誌は業務日誌であって、私文書ではないはずだが。)も最初公開していたが、いろいろと報道されると、私文書だとか、御遺族の意思だとかを口実に、今は厳重に保管し非公開にしている。史実を明らかにしようとする意思は国には全くなく、隠蔽に走っている。731部隊の人体実験・細菌戦に関しては、政府は“知らぬ、存ぜぬ”を繰り返すばかり。(一部の教科書には載っている)
※井本熊男
・1935年(昭和10年)12月:大本営参謀本部作戦課に配属され、以降、一貫して、細菌戦に関して731部隊等の細菌戦部隊と陸軍中央側で連絡をとる担当となる
・1939年(昭和14年):支那派遣軍総参謀(作戦主任参謀)
寧波(ニンポー)細菌戦
地底からの叫び声が聞こえませんか??(「八紘一宇」のスローガンのもと行われた残虐行為!!)
731勿忘
731遺跡は日本軍国主義が細菌戦を行ったことの証しであり、
また、日本軍国主義がその犯罪行為の証拠を隠滅しようとしたことの証しでもある。
ー金成民(侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長)
侵華日軍第731部隊本部遺跡CG復元映像
常徳細菌戦
闇に消された虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月放送)
細菌戦裁判(1997年~2007年)
終戦50周年731部隊
細菌戦被害の人々
(毒ガス戦)
原爆被害の重い苦しみを負いながら、学徒動員で毒ガス製造に関わった体験から自らの加害責任を語り伝える女性がいる。「戦争で受けた苦しみを知るからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならない」。8月15日は終戦記念日。【高田房二郎】
<終戦記念日>ヒロシマの加害語る 学徒動員され毒ガス製造
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)
暴かれる毒ガス戦の真実
(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
天皇は知っていた!!
澤田茂司令官は細菌戦に反対だった!!
『「澤田日誌」からみた浙贛(せっかん)作戦における日本軍の細菌戦』
松野誠也(明治大学大学院)【当時】より
・・・・・・(略)
澤田日誌には6月25日に再び関連する記述が登場します。
これは非常に重要な内容でありまして、支那派遣軍の反対意見が参謀本部によって握り潰されるということが記されています。内容は次の通りです。
石井部隊の使用総軍〔支那派遣軍〕よりも反対意見を開陳せしも大本営の容る処とならす大陸命〔大陸指の誤りか〕を拝したりと。命令ならは致方なきも作戦ハ密なるを要す。若き作戦課の人達を抑へる□に総長〔参謀総長・杉山元大将〕の力なからさるへからす。遺憾なり。ペスト防疫の為 一部家屋ハ焼却の命令を出す。
これを見ますと、陸軍中央と現地軍が一致して細菌戦に賛成していたのではなく、現地軍は反対していたが、大本営から指示なり命令がきて、それに従わざるえなくなったという構図が描けるわけです。しかも、トツプに立っている参謀総長は、幕僚たちがいろいろ意見を突き上げてくることを「抑へる」ことができない。それは非常に遺憾なことであると書いているのも非常に注目されます。澤田将軍は参謀次長を務めた経験があるので、参謀本部の下僚を「抑へる」ことの重要性と難しさをよく知っていたのでしょう。
次に澤田日誌に細菌戦関係の記事が出てくるのが7月11日です。石井四郎が戦線の第13軍司令部にやってきたという記述が出てきます。
石井少将連絡の為来着す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故強行せんとするや諒解に苦しむ。堂々王者の戦をなせば可なり。
何故こんな手段を執るや予には不可解なり。何れとも既に命令を受けたる以上実施せさるへからす。
仍(よ)つて次の三点に就て特に注意せしむ。/1、秘密の絶対保持/2、□□の予防/3、飛行場に攻撃を向くる事。
石井四郎の報告を聞いても、細菌戦の「効果」に対する疑問と「弊害」に対する認識は変わらず、命令だから嫌々ながらもやらざるを得ないという、澤田中将の参謀本部にたいする不満がよく伝わる一文です。あげくの果てに「何故こんな手段を執るや予には不可解なり」とまで書いています。・・・・・・(略)
東京初空襲・浙かん作戦
一般に中国軍の飛行場破壊を目的とした侵攻と言われるが、恒久的に占領できる目処もない状態で飛行場破壊のみ行っても効果は薄く12万人もの兵力を動員する目的としては疑問が残る。実際の目的は飛行場破壊よりもむしろ、それを名目とした浙江省東部一帯の蛍石産地の占領にあったと言える。財界と軍部が連携して利権獲得に動いた作戦である。
※蛍石・・・・用途・加工法・・・古くから製鉄などにおいて融剤として用いられてきた。現在では望遠鏡や写真レンズ(特に望遠レンズ)などで、高性能化のための特殊材料としてキーパーツとなっている。フッ素の貯蔵に用いられることもある。
蛍石を採掘するのも、山東省、河南省、安徽省、江蘇省、浙江省などから強制連行された中国人だった。(約1700人)
1944年疫病がはやり、病気になったものは、隔離され食べ物も与えられず、餓死した。
蛍石の彫り物
赤坂離宮内の生物学研究所【1925(大正14)年】
・昭和天皇は生物に関心があった!!勿論、細菌にも関心はあっただろう!!
・日本は富国強兵を目指した!!
1921年昭和天皇フランス視察
1929年11月7日陸軍軍医学校(731部隊に指令を出していた防疫研究室はこの中に1932年に開設される)視察
??A氏(731部隊幹部)の言うには、今事実関係を明らかにすると、それは戦争中の犯罪行為を暴露するだけにとどまらす、戦後の重大な犯罪事実までズルズル数珠つなぎに明らかになってしまうから、だから話が出来ない、ということなのです。??
・731と天皇の戦争犯罪
同じように、おそらく日本政府が恐れているのは、戦争中の日本軍の戦争犯罪が暴かれて賠償の問題になることだけではなく、暴露によって戦後の重大事実が明かになることなのではないかという疑いが大きくあります。
それと同時にもう1つ大きな問題は、天皇の戦争犯罪の問題です。私も鑑定書で書きましたが、中国・浙江省寧波で細菌作戦の時、昭和15年の11月に発令された「大陸指」というのがあります。杉山参謀総長名で出ているものです。その781号によると、大陸指690号によって目下実施中の特殊ガスの試験を大陸命第439号に基づく大陸指第781号を以って終わりにすると、11月末日で終了せよという命令が出ています。特殊ガス試験というのは細菌兵器の実施使用のことです。これは明かに細菌戦の命令指示です。
「大陸命」というのは大本営陸軍部命令の略ですが、天皇が発する命令です。
当時は普通御前会議で昭和天皇と陸軍部の参謀総長、海軍の軍令部長とそれと大体原則的には侍従武官長が列席して、お上に作戦を上奏します。それでOKということになると「大陸命」を作成するわけです。陸軍部がやるわけですが、その「大陸命」を作るとそれに基づき「大陸指」を作成してこれでよろしいかと、お上にお見せするのが慣例でした。いつも必ず見せていた。それでこの通りにというと「大陸指」という参謀総長の発する命令、指令が出るわけです。作戦によっては担当の大本営の担当者、参謀が直接天皇の前へ行って作戦を事細かに上奏、説明します。・・・・・・(中略)・・・・・
瀬島龍三という元大本営の参謀も、「陸軍は大陸命、海軍は大海命といいますが、それがないと軍の用兵は何1つ出来ない、参謀総長や軍令部総長といえども、そういう厳密な手続きを経なければ勝手に軍を動かすことは一切出来なかった」と言っています。ですから「大陸命」に基づいてというところが一番肝心なのですが、その内容はすべて昭和天皇の耳に入っていたということです。ここに731を何としてでも隠蔽しなければならなかった理由があります。・・・・(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
細菌戦実施の新資料・金子論文を読む
シンポジウム:全記録 2012年2月29日
【司会】えーと、時間が5時までということなんですが、ちょっとぐらい延びてもよいということなので、パネリストのお三方からご発言をいただきたいと思います。順番で近藤昭二さん、松村さん、吉見さんという順序でいきたいと思います。
【近藤】先程も言いました日本帝国政府情報公開法で2000年から開示審査した中には、細菌戦関係の文書は無いんですが、CIAは或る程度しか審査出来なくて拒否されているんですね。この法案を成立させたファインシュタインという議員の力も借りて、CIAにかなり迫って交渉するんですが、チェック出来なかった文書類が、大量に向こうに残っています。その中に幾つか、開示請求の方法がありますので、情報公開法に行くまでに2段階ほど請求方法がありますので、そういう手を使って探してみたいと思います。
それと、先程言いました陸軍の文書管理官のチーフのハッチャーの議事録の中に、よく見てみますと、フォート・キャンプから回送されてフォート・デトリック、ダグウェイの実験場、それからアバディーンの実験場、ジュートの兵器工場―これらのところに2次資料があるということを公聴会の中でぽろっと言っています。ここらあたりは、まだ探しておりませんので、私達センターではこれを次の目標として探してみたいと思っています。
小泉親彦(ちかひこ)
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。
・戦時中に起きた食中毒・赤痢の事件・事故と軍医学校(731)の関係は??軍医学校は強毒のゲルトネル菌の研究開発を進めていた??
実際に、中国広東の南石頭の難民収容所で、陸軍防疫研究室が製造したゲルトネル菌が使われ、多くの難民が亡くなっている。
1935年(昭和10年)・・・鳥取で食中毒発生(4人死亡)、ゲルトネル菌の免疫血清を持っていたのは、陸軍軍医学校(西俊英)
1936年(昭和11年)・・・浜松で食中毒発生(患者数は2250人、46人が死亡)、原因ゲルトネル菌、防研嘱託(731)小島三郎、石井四朗、北野政次、西俊英がこの問題に取り組む。
紅白の殺戮者
1937年(昭和12年)・・・大牟田爆発赤痢事件(患者数は12332人、712人死亡)以下の事は関係ないのか?
当時、軍と三井が工業所内で秘密裡に赤痢爆弾を製造しており、それが間違って爆発したのではないかとする説がある。
三井三池染料工業所において、事件発生当日の午後6時と26日午前0時20分の2度にわたり爆発事故があったこと
2度目の爆発では市消防組が消火に駆けつけたが会社は消防組の入所を拒否したこと
患者はまず咽喉を侵されたこと(赤痢ならば咽喉がやられることはない)
市内で人々が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合すること
(参考)『陸軍軍医学校50年史』(1936年)
・パネル展
中国は生物兵器を持っていないが、かつて生物兵器の被害国である。
・細菌戦最大の被害地・浙江省を訪ねるスタディツアー
2016年10月24日 衢州(くしゅう)
2016年10月25日 麗水 (れいすい)
2016年10月25日(火) 麗水№2
2016年10月26日(水) 四路口(しろこう)
2016年10月27日(木) 武義、金華石門
2016年10月28日(金) 金華市街
2016年10月29日(土)義烏市崇山村
台湾義勇隊(金華 )
台湾義勇隊(上)抗日戦争:細菌戦
台湾義勇隊(下)(抗日戦争)
事前学習会
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
話は今につながっている!!
731部隊という名前を御存知だと思います。先の大戦中に、捕虜に対して人体実験を行い、細菌戦を遂行した日本軍の特殊部隊です。部隊を率いた石井四朗隊長は、戦後、公には姿を現さず、どのような人生を送ったのかも謎とされてきました。その石井隊長の日記が、ノンフィクション作家青木富貴子さんによって発見されました。日記からは、731部隊がなぜ戦犯として訴追から免れたのかなど、さまざまな謎を解くヒントが浮かび上がってきます。
石井隊長の戦後1
筑紫哲也さんはガンで死んだのではない。
ガン治療のウラ 3/8
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
「ミドリ十字」という会社
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような
医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう
医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
8月24日を「薬害根絶デー」とし、毎年要望している。
薬害根絶求め要望書 エイズなど被害者12団体
イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴
イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状
国はワクチンの承認や定期接種などに積極的に関わった責任があり、グラクソ・スミスクライン、MSDのメーカー2社は製造物責任がある!!
子宮頸がんワクチン 国とメーカー2社へ集団賠償訴訟へ
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
国から派遣された日本の医学者は原爆症患者を救わず、アメリカに協力して原子爆弾の威力・効果を調べた!!
ABCC委員会と731部隊
・・・・ABCC[には、731部隊の顔ぶれやいくつかの関連事実が登場してきます。731部隊の凍傷研究班の班長であり、同時に特移扱いにされたマルタの管理を行っていた班の班長でもあった吉村寿人、後に京都府立医大の学長になる病理学者もその1人です。この吉村寿人が度々ABCCに出入りし調査をしていた記録が残っていますし、これを裏付ける関係者の証言もあります。
ABCCと旧731部隊の関係についてですが、ABCCが最初に広島の北の方、高台の所に出来たときの施設には、石井四朗の叔父の家が提供されて、その建物を使っています。今調べていますが、ABCCの当時の職員名簿を見ると、日本側の職員の中に731部隊の旧隊員が何人もいます。その1人貞政昭二郎が私の取材に「吉村さんはABCCによく来ていた」と話しています。
1948年の終わりから49年という時期に、職員にそういう人たちが出てきます。ちょうど日米の取引の成立直後くらいです。48年の終わりというのはヒル・レポートもできる頃で、その頃には協力体制が出来上がっており、旧731部隊とABCCの共同で動き始めていたのかも知れません。しかし戦後に共同という形で調査をしていたという動きは今のところ記録上ははっきりとはしてません。(『戦後の犯罪につながる細菌戦の隠蔽』近藤昭二著より)
ABCCと国立予防衛生研究所(予研)の関係・・・ウキペディアより
米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被爆者の調査研究機関として設立。当初、運営資金はアメリカ原子力委員会(AEC)が提供したが、その後、アメリカ公衆衛生局、アメリカ国立癌研究所、アメリカ国立心肺血液研究所(en:National Heart, Lung, and Blood Institute)からも資金提供があった。1948年には、日本の厚生省国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加した[3]。
施設は、広島市の比治山の山頂(元々比治山陸軍墓地があった地)に作られた。カマボコ型の特徴的な建物であった。
ABCCは調査が目的の機関であるため、被爆者の治療には一切あたることはなかった。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして利用されることとなった[4]。
1975年、ABCCと厚生省国立予防衛生研究所(予研)原子爆弾影響研究所を再編し、日米共同出資運営方式の財団法人放射線影響研究所(RERF)に改組された[4]。
731部隊の罪業をアメリカは不問に付した結果、日本は731部隊の反省を全くしなかった。戦後、731の流れは国立予防衛生研究所(予研)→国立感染症研究所に姿を変えている!!
エイズ・エボラ出血熱・マーズ・サーズ新型インフルエンザなどの病気は、世界のこういった研究所で作られたのではないか??
一体、国立感染症研究所は、どんな仕事をやっているのだろうか??
国立感染症研究所
国立感染症研究所
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
731細菌部隊と帝銀事件との真相1
防御と称して、生物兵器開発を進めてはいないか???
ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
第5章 放射線医学への「脚光」の下で
大学教授、政府組織の委員へ
宮川は、戦後は主に放射線治療を専門としており、原爆症の研究には関与していなかった。恩師の中泉正德は、単独講和条約が発効した後の1952年5月、都築正男とともに、日本学術会議に設置された「原子爆弾災害調査研究班」の世話人となっていた。第五福龍丸事件が起こると、宮川は、4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横決市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。これが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部会の委員に任命されることになった。小林六造が副会長、小島三郎が「広島・ 長崎部会」 部会長という予防衛生研究所が重要ポストを占めるこの組織は、広島・長崎の被爆者の治療指針や放射性物質障害の有無に対する健康診断基準、放射性物質に対する許容度の考え方等を示すと同時に「原子力の平和利用」を是とする科学者・医学者の拠点のひとつになっていった。
放射能汚染地図「川で何が起きているか?」
海の放射能に立ち向かった日本人 ~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~/NHK・ETV特集
原爆報告書を書いた科学者は、原爆の威力を調べ、調査に参加した医学者は、原爆が人体に与える影響を調べ、治療はしなかった。アメリカとの取引を有利にするために為に。被爆者は???
封印された原爆報告書
開示された文書「何で黒塗り?」
・日本の科学者の核兵器への執念の系譜
戦中、日本は原爆開発を研究していた。陸軍は理研の仁科芳雄のもとで、海軍は京大の荒勝文策のもとで。戦後もアメリカと自衛隊の軍事交流によってその流れは加速している!!
核兵器禁止条約制定目指す決議案 日本は反対 批判の声も
潜在的核保有国化を目指す日本は、核兵器禁止条約制定目指す決議案に反対!!
非核3原則は嘘だった!!
※2009年(平成21年)になって沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実が明らかになった。
※非核三原則を表明した佐藤栄作は1969年(昭和44年)1月14日付で米国政府に送った公電で「非核三原則はナンセンスだ」と発言したことが、アメリカの公文書から明らかになっている。
日本は、世界に「核廃絶!!」とは叫んでいないのだ!!
なぜ日本人は、アメリカに原爆投下の責任を問わないのか??
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ
小路田泰直
私たちはいま非常に忙しくしています。しかし純粋研究から、いまアメリカで弾みをつけつつある再軍備プログラムに直接結びついた研究にはまだ転換されていません。朝鮮での事態の転換は本当に悲しいものです。 お手紙をいただいた頃から、一般的な戦争ではないにしても、疑いもなくより大きな混乱を惹き起こす方向に事態は向かっています。朝鮮の偶発的な事件に赤い中国がはっきりと軍隊を投じた現在、次の数週間のうちに情況がどう変わるか誰にも分かりません。責任のありかを言うことは困難ですが、すべての面倒なことの背後にはロシアがいることは確かです。1950年にロシアで造られ、捕獲された爆弾が国連の開催期間中に展示されましたが、ロシアはそれに何らかの接触をしたこともないし、どこで造られたかも知らないと言っています。このような嘘は、われわれも理解を超えていますし、情況を大変難しいものにします。
※湯川秀樹・・・(ウキペディアより)(中略)またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。
※1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。
※今現在も、潜在的核保有国なのか、もう核兵器を持っているのだろうか?全ては極秘裏に進められている!!
原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
●毒ガス問題
アメリカは毒ガス兵器使用の件に関しても全く裁いていない!!原爆の投下の後ろめたさがあったのか、731や毒ガスのことについては東京裁判では不問に付し、誰一人裁かれていない!
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場 北 宏一朗
海軍の毒ガス工場・相模海軍工廠 (寒川町)で、どのような化学兵器が作られていたのか、化学実験部=海軍技術研究所(平塚)では?
・「中国軍の公式報告によれば昭和12年より昭和20年に至る間中国における日本軍は1312回に亘り毒ガス及び細菌を使用せり・・・・」
毒ガスと抗がん剤(船瀬俊介VS内海聡)
抗がん剤切り替えた8人が重い肺炎 厚労省注意呼びかけ
・日本陸軍の毒ガス技術がアメリカへ!!(731と構図は全く同じ)
「そもそも、現在沖縄米軍基地にあるサリンガスの、合成、使用、防護、治療のノウハウは、日本軍から米軍に渡ったもの。戦時中、『関東軍メソッド』という謀略組織があってねえ・・・・・」
「要人暗殺用に毒ガスを使えないかというのが、『関東軍メソッド』のテーマの1つだった」
―「関東軍メソッド」の幹部の1人でもあり、六研の責任者の1人でもあった横山中佐は、米軍=GHQの呼び出しに応じ、終戦の翌年(1946年)㋂、元六研の技術将校グループ10数名とともに、東京・日生ビルに出頭した。
―米軍から横山中佐以下全員に、「日本陸軍の毒ガス技術について、詳細なレポートを提出せよ」と命令がなされた。その代わり、ジュネーブ協定の違反の罪、戦争犯罪の対象から外すというのであった。
―鼻の先に戦犯免責のエサをぶら下げての、毒ガスレポート提出である。日中戦争では、日本陸軍は実際に毒ガス戦を展開した。東京裁判でもそのことを問おうとする動きがあった。
―戦犯に問われるかもしれない。その恐怖は、毒ガス将校たちのアキレス腱でであった。旧六研関係者は、米軍の命令に抵抗できなかった。レポート作業は約6ヶ月続いた。
―ナチスドイツから日本陸軍に渡ったサリン、ソマン、タブンなどの神経ガスの技術文献は、このときに横山中佐からひそかに米軍に提出された・・・・・。
「ソ連はドイツ本国から多数の技術者と機械設備をロシアに持ち帰って、サリンの研究を続けた。アメリカさんは日本陸軍から技術文献で、戦後サリンの研究を開始したんだ」
『悪魔の白い霧』下里正樹著より
・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
アメリカとの合同軍事演習が緊密化し盛んに行なわれているが、兵器の共同研究も進んでいるのではないか。日本の進んだミサイル技術は、アメリカで試されるという。いろいろな軍事技術の交流があるのだから、核兵器の技術も十分に手に入っているのではないか?
(時代背景)
1995年当時の内閣は、日本社会党の村山富市氏であった。村山氏はこのとき、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した。
このときは、国民の関心が自衛隊に集まっている時であった。
その中での、地下鉄サリン事件、そして、自衛隊の出動・事件の対処がある意味称賛される。これは、何を意味するのだろうか?
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。
地下鉄サリン事件
医学者とは1
松本サリン事件・地下鉄サリン事件が起きる前に、製造の難しいサリンを実際に製造し、防護方法を熟知していたのは日本では自衛隊化学学校だけである。その自衛隊化学学校のサリン製造技術及び防護方法がオウムに漏れていたのではないか??
『オウムの黒い霧』を読んでいると、オウムの信者に自衛隊員が25名もいたという。その中の1人に自衛隊化学学校に勤めていた防衛大学校32期の2等陸尉がいたという。
果たしてオウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの力でサリンは製造できたのだろうか?プラントの知識もなくては製造不能!!
化学学校の情報は漏れていなかったのか???化学学校の管理体制はどうだったのか、自衛隊の毒ガス(製造技術)の管理は0に近い状態(実物のサリンは持ち出せないが、データ資料の管理はどうなっていたのだろうか?)???
『悪魔の白い霧』(下里正樹著)には、「犯人はどこかの国の「軍」の化学兵器製造・使用・防護・治療のノウハウを入手した。また化学兵器のプロが実地に技術指導した。そう考えざるを得ない。」とか、「松本サリン事件発生翌日の午後、現場で土・水などの採集作業を行ったの作業服姿の男たちの正体は、埼玉県大宮市の陸上自衛隊大宮化学学校から来た毒ガス分析チームであった。長野県衛生公害研究所と自衛隊大宮化学学校。複数のラインが出した毒ガス分析データの詳細は、いまだ伏せられたままである。(事件発生から1ヶ月ほど経過した時点か?)」と書かれている。
【読み進めるうちに、幹部候補生用『特殊武器防護』がただの教科書ではないことがわかってきた。
これは防護技術を中心に解説しながらそのじつ、ほとんどサリン使用についてのマニュアルなのだ。
例えば、こういう記述がある。
「通常、蒸気程度の野外濃度においては神経剤は皮膚呼吸の危険性は少ない。したがって防護マスクの使用により気状のG剤は防護可能である。しかし、気状エアゾルの吸入及び液滴の眼・皮膚への付着は致命的で迅速な処置を必要とする」
防護マスクをつければ、サリンから身を守ることができるというのである。
裏を返せば、防毒マスクをつければ、サリンをエアゾル化して散布できるということでもある。】
【この防護衣を作っているのは、戦前から一貫して「軍」にその手のものを納入している藤倉ゴムである。・・・・
防毒マスクはどうか。こちらは奥研が納入メーカーである。・・・・
そのテストは、防護衣の材質をサリンガスに曝露するするものであろう。場合によっては、動物実験も行われているのではないか。
50年前までは、日本の対毒ガス用防護装備の水準は、世界一であった。・・・
元毒ガス部隊将校の証言によると、日本軍が持っていた当時最強の毒ガスは「茶」と呼ばれる青酸ガスだった。
陸軍第六研は、世界各国の防毒マスクを取り寄せ、「茶」に対する防護実験を行なった。
実験は、当時満州のハルビンから南方20キロの平房の地にあった731部隊の中で行われた。悪名高い細菌戦部隊の施設内である。
実験には多数の生きた人間モルモットが使われた。マルタと呼ばれる捕虜である。
実験の結果、青酸ガスに対して当時日本陸軍の防毒マスクが、最も防護性能が高いと分かった。】
(『悪魔の白い霧』下里正樹著)
自衛隊は、毒ガスのデータを1950年代に米軍(米軍は、ナチスドイツの文献資料を日本から入手して毒ガスを製造)から入手し、開発を進めていた。
・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
週間金曜日 2013年6月28日号
自衛隊とサリン 第6回
「大宮駐屯地グランドに毒物入り一斗缶10缶を埋めた」
・「われわれはモルモットかよ!」-新型防護マスクの“人体実験”
・環境汚染の恐れは無いか、近くに民家や学校も
・「今も続く毒ガス製造と遺棄の解明が必要」
・防衛大臣、化学学校ともに事実上の取材拒否
サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器の「防護研究」も可能ということになる。
日本は国内外にも約44トンのプルトニウムを保有している(2012年9月、日本政府発表)。核兵器1発に使用されるプルトニウムの量は約4キログラム(IAEA=国際原子力機関によると倍の8キログラム)とされるので、数字上は5500~1万1000発の原子爆弾を作ることが可能だ。
陸上自衛隊の毒ガスは、どこまでが「防護研究」なのかを明確にしないまま、極秘裏に開発が進められた。そのため、国民(国会)のチェックはおろか、その事実さえ知られずに半世紀にわたりサリンが作られ続けてきたのである。
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!
日本は現在も毒ガスを製造している!!(この公表された数字を鵜呑みにしてはいけない!!もっとたくさん生産している!!)
国会答弁書
●オウム真理教教と闘った男
富士河口湖町女性交流センター
「みずうみ通信」より
〈わが町の戦後史〉
~戦中・戦後の記憶をたどって~
シベリア抑留の一コマ(続)
富士ヶ嶺 竹内精一
1945年8月15日、日本は無条件降伏した。しかし、外地では戦闘は続き、多くの兵士が命を失った。満州にいた日本人、特に数十万人の開拓者は、奥地の国境地帯にいたため、軍に見捨てられ、鉄道も箸も爆破されて、道なき道を阿鼻叫喚の生き地獄の中をさ迷い歩き、軍隊は国の協定により、捕虜としてシベリアに送られた。私達孫呉の部隊も、デマ、流言飛語が飛び交い、南孫の飛行場で銃殺されるとか、一生重労働に従事するとかで、不安の日々を送っていた。ある日、目撃したことは、想像できないことだった。ソ連兵が、日本人から時計を略奪した現場を見た。ソ連の憲兵の逮捕に抵抗し銃を向けた。憲兵は、ピストルを発砲したので銃撃戦になった。
・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
核を求めた日本!
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
だが、このとき運び出された8300トンのサリンは、貯蔵量のほんの一部、知花弾薬庫には、まだまだ大量の神経ガスの残されてあった!!
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●多磨霊園と大日本帝国
・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
荒木貞夫
1877.5.26(明治10)~ 1966.11.2(昭和41)89歳没
大正・昭和期の陸軍軍人(大将)、大臣、男爵
東京出身。旧一橋家臣で小学校校長を務めた荒木貞之助・抑子(共に同墓)の長男。弟の荒木貞亮は海軍少将。
1897(M30)陸軍士官学校卒業(陸士9期)。同期に阿部信行(首相・大将)、林仙之(大将:7-1-5)、本庄繁(大将:13-1-4)、南京事件の責任者として処刑された松井石根(大将)、皇道派の中心人物で荒木が葬儀委員長を務めた真崎甚三郎(大将)、大平善市(中将:6-1-5-15)、武川寿輔(少将:15-1-15)、風船爆弾考案者の近藤至誠(8-1-15)らがいた。 1898陸軍歩兵少尉となり近衛歩兵第1聯隊附、1901陸軍中央幼年学校生徒隊附。翌年陸軍大学校入校するも、'04日露戦争勃発のため大学を中退し、近衛後備歩兵第1聯隊中隊長となる。 日露戦争では近衛後備混成旅団副官、'04.6~'05.11出征、途中で陸軍歩兵大尉に昇進。戦後は近衛歩兵第1聯隊附。
'06陸軍大学に復学、'07首席で卒業、参謀本部のロシア班として出仕。'09ロシア駐在、'12 ロシア大使館附陸軍武官補佐官。 '13(T3)参謀本部部員、'14陸軍省副官、陸軍大学校教官を歴任する。この年に第一次世界大戦が勃発し、翌'15.4ロシア出張、'15.6~'18.4ロシア軍従軍し、参謀本部附仰付(ハルピン特務機関)などに就き、陸軍内のロシア通として知られる。 戦後は陸軍歩兵大佐に昇進し、関東都督府附となる。'18.8.3~'.19.7.24シベリア出兵に際してウラジオストク機関長、途中から浦塩派遣軍参謀を兼務して反革命軍を援助。 '19歩兵第23聯隊長、'20功四級金鵄勲章、'21参謀本部欧米課長、'23.3.17陸軍少将となり、歩兵第8旅団長、'24憲兵司令官、国本社理事、'25参謀本部第1部長、'27(S2)陸軍中将となる。
'28.8.10陸軍大学校長、'29.8.1第6師団長となる。この頃の荒木は皇道派(天皇親政の下での国家改造・昭和維新を目指した陸軍内の派閥。対抗する勢力を統制派と呼ぶ)の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。 「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で陸軍首脳は左遷させる予定であったが、教育総監であった武藤信義のはからいで、'31.8.1教育総監部本部長に栄転し東京に戻った。 同年.9.18柳条湖事件が発生した際、当時の外務大臣の幣原喜重郎を中心とした政府の働きにより不拡大・局地解決の方針が決定された(9.24)。 若槻礼次郎内閣の不拡大方針を関東軍は無視し戦闘地域を拡大した(満州事変)。また国内でも不拡大方針を不服とした陸軍急進派は10月にクーデターを計画した十月事件(錦旗革命事件)を起こそうとしたが未遂で終わる。 この時、橋本欣五郎から皇道派のシンボルで右翼方面の人物交流を持っていた荒木を首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。
12月内閣不一致で若槻内閣が総辞職、犬養毅が首相に就任(12.13)し荒木は陸軍大臣に就任した。参謀次長に真崎を据え、主の要職を自身の派閥で固め、過激思想の青年将校を東京の第一師団に集めた。 '32 五・一五事件で犬養が暗殺される。暗殺したのは国体を重んじる思想の影響を受けた海軍の青年将校であった。次の挙国一致内閣である斎藤實(7-1-2-16)内閣でも、皇統派の中心人物であるにも関わらず陸相に留任し、国内体制のファッショ的な改革と対ソ戦争の準備を推進した。 だが、次第に過激青年将校に自重を求める姿勢に人気は下降し、四面楚歌に追いやられ、自身が育て利用してきた過激青年将校たちを制御できなくなってきた。
'33.10.20陸軍大将となる。'34.1.23病気を理由に陸相を辞任し、軍事参議官。同年.4.29勲一等旭日大綬章。'35.10.26男爵に列せられる。'36(S11)2・26事件では反乱軍に同情的な態度をとり、事件後の3.6侍命、3.10予備役。'37.10.15内閣参議、'38.5.26第1次近衛内閣の文部大臣に就任。'39.1.5平沼内閣の文部大臣にも留任。国民精神総動員の委員長も務め、「皇道教育」の強化を前面に打ち出し、思想面の戦時体制づくりを推し進め、徹底した軍国主義教育を推進。これによりこの頃から軍部の大学・学園への弾圧が始まり、軍事教育が一層強制的となり、軍事訓練は強制的となった。この徹底姿勢に「日本のヒトラー」とも呼ばれた。'30.1.20内閣参議。
敗戦後、極東裁判でA級戦犯として終身刑を宣告されたが、'55病気で仮出所し、その後釈放された。健康回復後は、全国各地で公演や近現代史研究の史料調査を行う。 '66.10奈良県吉野郡十津川村にて同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、翌月、同村の宿泊先にて心臓発作を起こし逝去。享年89歳。従2位。
「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」と佐藤栄作首相への口述遺言を残している。 一周忌に際し、十津川村に佐藤栄作の揮毫による「荒木貞夫終焉之地碑」が建立され、遺族より同村に遺品の恩賜の軍刀が寄贈された。
<コンサイス日本人名事典>
<帝国陸軍将軍総覧>
<日本の名門1000家>
<内閣総理大臣ファイルなど>
*正面左側は和型「荒木家先祖代々霊位」、右側は五輪塔「荒木家/供養塔」。墓所右手に墓誌があり戒名は貞壽院殿釋錦翁居士。 墓所左手には大理石の墓石に「陸軍大将 男爵 荒木貞夫」の刻みを筆頭とした句、略歴が刻む。略歴には「昭和六年十二月十三日陸軍大臣、昭和十三年五月二十六日文部大臣、軍事参議官、奈良県十津川村没。 大将三年四月参謀本部特務機関長にて在露帝政ロシア皇帝より連隊長につかれ、東部戦線を歴戦。ロシア金鵄勲章(ウラジミール)を授る」と刻む。
*妻は荒木錦子(同墓)。長男は日産自動車に勤務し(株)荒木研究所社長の荒木貞發(同墓)、次男は陸軍中佐の護夫。娘は第1方面軍参謀(作戦主任)を務めた陸軍中佐の芝生英夫に嫁す。
*大将に昇進した荒木貞夫が男爵に叙されたのは、犬養・斎藤両内閣の陸相を務めた後の昭和10年の暮れ。華族となっても東京・幡ケ谷の自宅はみすぼらしく小さな二階屋のままだった。 長男である荒木貞發(1908-2007.3.10)の回想で以下のように言っている。父が華族に列せられた時、ロンドン大学を卒業し、日産自動車ロンドン事務所の駐在員だった。 「父がなぜ華族に列せられたのかよく分からない。父がニコライ二世の金塊を日本へ運び込んだと思われる旅には、カモフラージュのためか子供の私も父に呼ばれ同行した。 帰国後に父が偉くなったのは、参謀本部に金塊を預けたせいではないか、華族になったのもそのおかげではないかと思う」
<歴史読本 天皇家と華族など>
※石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。石原は皇道派ではなかったが、皇道派と対立する統制派でもなく、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。二・二六事件の只中、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時陸軍大佐)は荒木に向かって「バカ!お前のようなバカ大将がいるからこんなとんでもない事態になるんだ!」と罵倒した。荒木が「陸軍大将に向かってバカとはなんだ!陸軍部内の規律と秩序を考えろ!」と言い返すと石原は「この状況のどこに規律と秩序があるんですか!」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備軍参謀長が二人をおさえて何とか事なきを得た。石原は真崎のことも嫌悪しており、真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。
●情報公開(戦争への道を阻止するために!!)
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!
防御の為と言って、毒ガスを製造しているのだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているでしょう。
情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
自衛隊の新任務 「支持しない」が半数以上
PKO派遣部隊130人、青森から南スーダンへ出発
自衛隊衛生学校!!階級社会でのパワハラ、セクハラ!!従わざるを得ない??
精神的にもおかしくなる!!
お役人のお仕事・・・いかにまずい資料を隠すか??
お粗末な日本政府の情報公開
この情報公開裁判で「衛生学校記事」「化学学校記事」等の公開を求めているが、それらにはどのような記述がみられるのか。特に核兵器については、どのような部署で防護の研究が行われているのだろうか。日本は、唯一の被爆国でありながら、その悲惨な状況を国民に知らせることはなかった。日本政府、学術会議等のリーダーたちは、加害の事実をことごとく隠蔽し、戦争の反省を深くすることなく、アメリカの傘下に入り、再軍備に走っていることが下記の論文から、よくわかる。また、原発と自衛隊の関係はどうなっているのだろうか。防衛省は、「衛生学校記事」「化学学校記事」等を全面公開をし、防衛費を増額していったい何をやっているのか、しっかりと国民に伝える義務がある!!憲法9条を全く無視していないか??
敗戦前の隠蔽工作、そして戦後の核・ミサイル開発
新妻清一(1945年1月において陸軍省軍務局軍事課課員)について
・・・さらに(1945年8月)13日に新妻は広島を離れるが、東京に戻ると8月15日付けで「特殊研究処理要領」を軍事課名でまとめ、関係方面に通知した。その内容は、「一 方針 敵ニ証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急措置ス」とし、「二 実施要項」で、ふ号登戸関係、731部隊、100部隊等に連絡するよう指示している。
このように新妻は広島に投下された兵器が原爆であることを熟知していたにもかかわらず、その事実を隠蔽し、一般に知らせることを避け、それと同時に登戸研究所、731部隊等陸軍の秘密研究の隠滅も図ったのである。
5、敗戦後の新妻―米軍の監視対象者から自衛隊の幹部へ
新妻は敗戦後米軍の監視対象者となり、731部隊やウランの保有量等様々な問題について尋問されたが、徹底した事実の隠蔽を図った。彼がサンダースから尋問を受けていたまさにその時期、45年11月10日付けの八木秀次からの手紙を受け取っている。それは雑誌『科学知識』が原子力や原爆の特集号を出すにあたって、新妻に原稿を依頼するものであった。その手紙で八木は新妻について次のように述べている。
寄稿を願うべき方として仁科博士に9月初め頃お願いいたしたることあり、総合的に原子爆弾については貴官が中心となり居られることと承知いたします。
八木は戦時期に軍と学会をつなぐ役割を果たした人物であり、彼が仁科に新妻を紹介されたということは、新妻が深く軍の原爆研究に関わっていたことを示すものと言えよう。
このように新妻は電波兵器の開発と原爆研究に深くかかわっていた。その知識と経験によって、新妻は戦後自衛隊で再び役割を担うことになる。
新妻は敗戦後第一復員局において旧軍関係の業務の処理に当たり、1954年には防衛技術研究所に入所し、企画室において企画業務に従事した。翌1955年には防衛研究所教官兼務となる。以後新妻は核及びミサイル、レーダー関連の専門家として活躍することになる。
(「核とミサイルに関する新妻清一関連資料」(1) 軍事史研究グループ(松村高夫、兒嶋俊郎)より
※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!
答申が出るまでになんと4年のかかっている!!その間、防衛省は、審査会にどんな返答をしていたのか?全く無視していたのか?
防衛省と規模がでかくなって、何をやっているのか、全く見えない省である。すべて秘密裏に行っている??
情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。
12月21日(水)『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』の公開を求める裁判が東京地裁522号法廷でありました。
最初は、情報公開法でその2点を開示請求していたのですが、保有していないことを理由に、行政文書不開示を防衛省は決定しました。それに対し、原告は、行政不服審査法に基づき異議申し立てをしました。その審議会が、防衛省の意向に沿って、不開示は正当であるとの結論を出すまでに、4年も年月をかけているのです。全く何もやっていなかったのではと思ってしまいます。防衛省と審査会とのやり取りはどんなことがあったのか、4年間の経過をきちんと説明してくださいと、弁護士は切実に訴えました。また原告は、いまだに、細菌戦被害・毒ガス被害で悩む中国の被害者のためにも、きちんと公開すべきだと陳述しました。
化学学校記事の第12号には、杉田論文「自衛隊員が語る旧軍技術研究」として次のような細菌戦に関する記述があります。
「-日本は1931年(昭和6年)満州に細菌戦遂行のため〈731〉部隊を編成した。研究所、部隊は逐次整備され1935年(昭和10年)には、ねずみ2000匹を使用してノミを飼育し、ペスト菌の培養量だけでも毎日10㎏に及んだ。
1938年 華中戦線 細菌大量使用
1939年 ノモンハン 細菌大量使用
1940年 重慶爆撃 ペスト菌、コレラ菌使用
1941年 湖南省 細菌作戦
1943年 華中、華北 細菌作戦
その戦績は、衛生部隊としてかつてない大きな成果をあげたとして感謝状36回授与にみられる」
今、現在の研究では、細菌戦を始めたとされるのは1939年のノモンハン事件の時です。この論文が確かだと、ノモンハン事件の前に細菌戦が38年に華中で行われていたこと、また、重慶でも細菌戦が実施されていたこと、1942年の浙贛作戦以降の43年にも細菌戦が行われていることになります。
今、まさに、この『化学学校記事』『衛生戦史資料の体系化』『衛生学校記事』そして『731部隊関連資料』の全面公開を実現させ、細菌戦・化学戦の戦中・戦後の実態を解明し、今の日本の現状でいいのかを考える時に来ています。
米軍と共同でCBR兵器の開発を密かに行なってはいないのか?非核3原則を唱えながら、防御のためと言いつつ、裏で何を行っているのだろうか。明らかにしたい!!
〔C(化学兵器=毒ガス)、B(生物兵器=細菌兵器等)、R(放射能兵器=核兵器)〕、防衛省は国民にその実態を明らかにしなければなりません。
憲法9条はないがしろにされ、軍事研究がどんどんとスピードアップされている現状を打破しなければと強く思います!!
次回、『化学学校記事』情報公開裁判は、3月1日午前11時~東京地裁522法廷、傍聴よろしくお願いします。
審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??
裁判所の決定
「ABC企画ニュース」より
10月11日(火)14:00から、東京地裁419号法廷で、第12回目の防衛省の『衛生学校記事』の公開を求める裁判が行われました。岩井裁判長は、被告の防衛省に対し、詳しく調べるように、具体的な名前まで挙げ(防衛省が管轄する図書館のすべて、例えば、衛生学校図書館、彰古館等)さらに防衛省の外局も調べるように、また、あった場合は、その経緯も報告するように命じました。
また、ある程度時間がかかってもよいということで、よく調べてくださいということでした。
原告側からは、防衛研究所にある資料と金原節三目録の資料とは同じではないかということで、同一のものであることも確認してくださいということが付け加えられました。
ということで、次回の裁判は2017年の2月28日(火)東京地裁419号法廷
「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)
※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。満州事変を起こしたあの謀略戦争の開始、あれは関東軍が先走ったと言われているが、その関東軍の上層の命令が無ければ出来ない、そして結果的には大元帥陛下、天皇が承認しなければ出来ない、そういう組織が日本の軍隊だ!!
●『日本の国家機密』(秘密国家日本の実態)
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第2篇 自衛隊の機密
第3章 防衛力整備
1 中期5ヵ年計画
4次防の本質
田中内閣は、72年7月18日の閣議で決定した野党質問書にたいする答弁書のなかで、「わが国の防衛力は独立と平和を守るため必要最小限度のものを段階的に整備しつつある過程にあり、4次防計画の大綱を再考し直さなければならない性格のものではない」と、軍拡路線を踏襲する姿勢を明らかにしている。
侵略戦争の反省に立って、憲法9条にのっとり、世界をリードできないものか??
●現在の日本
日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
戦後、全く戦争の反省をしないばかりか、あの戦争を肯定しようとしているのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造(チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。)→山下俊一(福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。)
日本の原爆開発
核融合はやるべきではない!!
この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所
原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?
”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)
科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中にさせられる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』
●南京大虐殺
・南京大虐殺から80年、今年の12月13日は、80年前の日中戦争で南京が陥落した日だ。そして、虐殺が始まる。(もちろん、南京に至る過程でも、残虐行為を繰り返していた!)
10、中支那方面軍に出向した武藤章
膠着した戦局の打開を苦慮した武藤章作戦課長は、杭州湾に一軍を上陸させて、背後から中国軍を攻撃する作戦を考案し、下村第一部長の内諾を得て北支那方面軍に飛び、華北から上海への兵力抽出を説得した。その結果、杭州湾上陸の為の第10軍が編成された。合わせて第16師団が華北から転用し、上海派遣軍に加わった。
11月5日、第10軍が杭州湾に上陸、背後を衝かれた上海防衛の中国軍に動揺が走り、11月13日に第16師団が長江岸の白茆江に上陸すると、中国軍の撤退と潰走が始まり、やがて総崩れとなり、上海攻略戦は一段落をつけた。
安倍首相は、なぜ中国へ行って謝罪しない??パールハーバーよりも先ではないか!!
当時、南京にいたアメリカ人牧師マギーがとらえた南京虐殺
フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」
マギーフィルム(日本語訳付き)
フィッチ
フィッチ(George Ashmore Fitch)が中国の蘇州で1883年に生まれたのは、長老教会の宣教師ジョージ・フィジーとメアリー・マックレランとの子としてであった。1906年にウースター・カレッジで文学士号を得、続いてニューヨークのユニオン神学校に進んだ。1909年に按手礼を受けて中国へ戻り、上海青年会で働いた。
南京虐殺の時期には、フィッチは南京青年会の責任者だった。南京安全区国際委員会の働きに積極的に参与し、安全区の総幹事となった。南京大虐殺に関する彼の日記が、1937年12月13日に南京が陥落した後初めてこの地を離れる許可を得た外国人によって上海へ持ち出された。フィッチが書いているように、「私の物語が上海でセンセーションを引き起こしたのは、首都失陥後のそこの情況についての最初のニュースだったからで、コピーされ印刷されて広範囲に伝わった」。
1938年にフィッチはアメリカ各地を旅行し、南京大虐殺を紹介し記録フィルムを放映した。中国に戻ってYMCAや国際連盟の救援本部で奉仕し、続いて朝鮮と台湾のYMCAで働き、1961年に隠退した。
本書には彼の日記と友人宛の書簡2通が収録してある。
友人への手紙(1938年1月6日)
南京・1938年1月6日
親愛なる××
昨日、日本兵が、僕らの門番に銃剣を突きつけて、むりやり門を開けさせたのだが、午前にも晩にも略奪しに行き、しかもおとといもそこにいたのだ。だけどこんなのは微々たるもので、以前と比べたらほんとにずっとよくなったんで―僕ら喜んでいるんだ。
そうなんだ、僕は家が略奪されたんだ。室内がごった返しているさまが、君には想像されると思う。だけど実際のところ外国居留民の家という家が、みんな洗いざらいやられたんで、あまつさえ、いくつかの大使館の建物さえ、1つとして難を免れてないんだ。幸運にも、僕らは早めにトランクをいくつか、バックの家に提げて行っていたんで、それで、損失はひどくはなかったんだ。場所によっては、家が安全区内にあったとしても、損失が著しかった―我が家は安全区外にあったんだが。その日にロシア大使館が焼かれて廃墟になってしまった。そのうちに、日本軍の南京での強姦についての文章を僕が書くとして―そんなものを読むなんて、愉快なわけがない!僕は誇張しているんではないんで―ただただここで起きたことを、しかも僕個人が心に留めたあのことこのことを、語り出しているだけなんだ。
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・
(日中戦争)『昭和天皇』「上」(ハーバード・ビックス著:講談社学術文庫より)
ふたたび、日本は中国軍の早期壊滅を期した。1938年末、圧倒的な地上、海上、空中での優位をほしいままにした日本軍の攻勢は、事実上、あらゆる戦闘で大勝利を収めた。しかし、中国の抵抗は頑強なため、日本軍はしだいに化学兵器に頼るようになった(これには西洋に先例がある。もっとも悪名高いのが、第1次世界大戦、ドイツによる最初の毒ガス使用であり、そして1935年にはファシスト・イタリアがエチオピアでこれを使用した)。11月までに日本軍は華中の揚子江沿い〔湖北省の東部〕にある武昌、漢口、漢陽の「武漢三鎮」と華南の広東を占領した。日本軍は中国の主要鉄道の要衝を制圧し、中国でもっとも富裕で発展している沿岸諸省に飛び地を設けて支配した。蒋介石は、戦争の継続を宣言し、全政府を日本軍の追撃能力の及ばない、さらに奥地の山岳都市重慶に後退させた。
軍と政府が一体となって実施した慰安婦制度!!
(勿論、警察も見て見ぬふりをした!!)
※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
お粗末な日本政府の情報公開
※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。
●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)
映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん
2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。
<戦争は犯罪>
途方もない人生も、問い詰めてゆくと、そこに戦争の災いが見えてくる。人間を狂わせる戦争は、いかなる口実をつけても正当化できない。
「日米同盟がないと、だれが守ってくれるの?」「そのために自衛隊を差し出しても仕方ない」という意見を、ある信仰者から聞いたばかりだ。与党議員の受け売りを信じている婦人だ。戦前回帰を警戒しなければならない。
今も、人間の脳を改造する作業が、執拗に繰り広げられている。そのような人たちへの警鐘本が「この生あるは」ではないだろうか。
人々の平和の心を変身させる作業が驀進中だ。中島さんは、それに抗して戦後70年の2015年にこの記録をまとめて発表した。戦争は犯罪である。
発売元 亜東書店 03-3835-7091
中国語版 北京三聯書店「何有此生」
●真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
医学者とは〔3〕
ガン治療のウラ 6/8
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第4部 内省なきその人生
1945(昭和20)年―1989(昭和64) 年
第十七章 静穏な晩年と昭和の遺産
天皇は、保守勢力が国内の異議を封じて、国民すべてを着実な経済発展にふり向けようとする過程の不可欠な一環であり、その意味でこの「2重基準」の究極の象徴といってよかった。彼は、戦没者とその遺族を社会全体で適切に遇することの重要性を、国家指導者がよく理解していると国民に思わせるのに決定的な役割を果たした。独立後の最初のメーデーとなった52年5月1日、平和条約と、国会にかけられた「破壊活動防止法」とに反対するデモ隊が、皇居前で警官隊と衝突した。ふたりが死亡し、約2300人が負傷した。次の日、国民の深刻な分裂というこの世相に抗して、政府は初めての全国戦没者追悼式を東京の新宿御苑で開催した。かつての国歌「君が代」(天皇の治世は永遠に)が流れ、モーニングにシルクハット姿の天皇は、皇后良子(ながこ)とともに壇上に立って、次のような「お言葉」を読み上げた。
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
第五章
ペリー来航(9)
(その1)
内的恐怖
マンハッタン号が引き上げるとすぐ、水戸藩の徳川斉昭は、自分の従兄である将軍に逆らって、大砲の製造を始めた。その動きに対し、幕府軍が水戸に侵攻し、斉昭を寺に幽閉して、領地の統治を17歳の息子に移譲させた。幽閉の間の時間を無駄としないよう、斉昭はその寺の彼の部屋に印刷機を設置させ、1715年の完成以来、その稿本が回覧されるのみであった極めて皇室寄りの「大日本史」の印刷を準備し始めた。僧侶たちの助けをえて、その尊王派の水戸藩主は、9年間におよぶ幽閉の最後の年の1852年、その26巻の印刷の準備を終えた。
昭和天皇 戦争終結 「これ以上戦争を続けることは非常に・・」と米記者に
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