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●731部隊(1)
●731部隊(2)
●731部隊(3)
●731部隊(4)
●陸軍軍医学校50周年記念行事について
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●原発・水俣病にみる学会の原因隠蔽の構図!!
●あなたの住む地域で、「731部隊展」を開いてみませんか?
●731部隊展
●ニュース
JOC会長がサイン、コンサル契約巡り 五輪招致疑惑
【マジですか??】731部隊にかんでた、竹田祖父( ̄□ ̄;)
群大手術死、50例全てで不備…外科学会が検証
<米大統領広島訪問>元米兵捕虜も立ち会いへ 米政府が要請
バターン死の行進から奉天収容所
オバマ大統領 単独インタビューの内容をすべて掲載
アイドル刺傷 贈り物返され怒り 容疑者「殺すつもりだった」
遺体の骨に複数の傷 沖縄・女性遺棄事件
米軍属逮捕 政府は沖縄とともに怒れ
日米地位協定撤廃!!
米軍属女性遺棄 女性団体が緊急集会 哀惜の歩み2000人
大分観光、長引く影響=余震に宣伝ためらい―集客工夫、情報発信・熊本地震
水田2割、田植え断念も 2度の震度7、益城町周辺地域
この学術会議の動きは何なのだ???
日本学術会議 軍事技術研究巡り検討委設置へ
舛添都知事バッシングへの違和感について。- 2016.05.20
STAP細胞の特許出願、米ハーバード大学が世界各国で…今後20年間、権利独占も
ドイツ環境・原子力大臣、「原発は費用がかかり将来世代に責任を持てない」=2020年の原発全廃を強調―東京で会見
小林節氏「国民怒りの声」、社民・生活の合流拒否か。- 2016.05.20
・ロナルド・レーガンは地震の時どこにいたのか??人工地震の影響??
小泉氏が涙 トモダチ作戦の健康被害「見過ごせない」
???
ロナルドレーガンの乗組員が被曝してるのに何故それより近くにいた東電職員が被曝しないんでしょうか?
自然は人類の都合とは関係なく動いている…だ・か・ら…(;´д`)
税金の無駄遣い!!やめてもらいたい!!
もんじゅ改革めど立たず 報告書案、新運営団体は未定
もんじゅ検討会 報告書案で具体的運営主体示さず
なぜだ!核兵器を作っているいる科学者の野望か???
政府、もんじゅ存続表明へ 機構に代わる受け皿探しは難航
「もんじゅ」の廃炉求める提言 市民団体がまとめる
何で、情報開示しない??
特定秘密の運用監視 情報開示促進で意見聴取へ
軍事費が国を滅ぼす!!
トランプ氏の「日本防衛費全額要求」について。-2016.05.05
志賀原発1号機の断層「動く可能性否定できず」
<ハンセン病>元患者ら「身内に甘い判断」特別法廷報告書に
光田健輔園長が初診察で「宇佐美、出て行け!
「組織罰」実現へ団体発足 尼崎脱線事故の遺族らがシンポ
天皇や安倍首相は731部隊跡や南京虐殺記念館には行かないのか?
米・オバマ大統領、5月27日に広島を訪問する方針固める
なぜだ??
米高官 核燃料サイクルに反対も日本に放棄求めず
20160402 自由なラジオ・ライトアップ「小出裕章ジャーナル」
●脱原発!!
ドイツ環境・原子力大臣、「原発は費用がかかり将来世代に責任を持てない」=2020年の原発全廃を強調―東京で会見
地震大国日本!これでも原発を動かすの??
活断層、日本に2千以上 どこでも大地震が起こる恐れ
「熊本地震は南海トラフ地震の前兆」専門家が緊急警告
「高浜原発の運転は不安」が最多 意見公募、規制委に 審査書案は修正わずか
甲状腺がん「チェルノブイリの多発傾向と酷似」〜疫学専門家
福島の癌→子供の甲状腺がん増加地図をチェルノブイリと比較する
母ちゃんの嘆き…子どもの叫び…過去を心に刻もうとしないモノへ…(¬_¬)
福島の甲状腺がんの患者に対していつ国は賠償をするのだろうか??
以下『NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?』
のビデオの冒頭の部分起こし。
「放射能は怖くない」。そう教えられていました。第2次大戦後、アメリカは爆心地の近くで人間はどこまで戦えるのか人体実験していたのです。その数25万とも言われるアトミック・ソルジャー(Atomic Soldier)、アメリカ政府が責任を認め、兵士たちに賠償するまで40年かかりました。
また、チェルノブイリ原発事故で多発した子どもたちの甲状腺がんが、放射能が原因だと認められるまで20年の歳月がかかりました。
5年前に起きた東電福島第一原発事故、100ミリシーベルト以下の低線量被曝を受けた作業員たちも病魔に襲われています。・・・・
NNNドキュメント THE 放射能 人間vs 放射線 科学はどこまで迫れるか?
・放射能の被害が深刻化しているのに、なぜ日本の医学界は“脱原発”と叫ばない??
731部隊でも放射線をマルタに浴びせて人体実験をしていた。
科学者は、治療よりも、やはり新兵器に夢を託すのか?再び大日本帝国を目指して。
毒ガスの製造が明らかになったんだから、それと並行して生物兵器、核兵器も勿論自衛隊、国立感染症センターなどでは研究しているだろう。
731の秘密を隠すために、放射能の被害については、何も言わない??
「心証を良くする為にとは、何のために心証をよくするんですか?」
「731のことなんかもあるでしょうね」
※ヒロシマ・ナガサキの被爆者たちの治療よりも原爆の威力の調査が優先された。
国体護持のために。
今のフクシマの現状も同じではないか?
なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?
放射能の危険性
トリチウム処理「慎重対応を」 県と県漁連
トリチウムについて!!
核融合はやるべきではない!!
トリチウム含む汚染水 海洋放出が最安で最短の評価結果
川内原発は不安「すぐ止めて」 首相官邸前で緊急デモ
原発運転反対の弁護士団体 川内原発停止を申し入れ
M7.3地震 約50キロの断層が2m近く横ずれか
地震回数が過去最多ペース 気象庁、活発な活動続く
「川内原発の運転停止求めた」 共産・小池氏
「川内」運転 住民ら不安 政府、地震域拡大でも静観
【熊本地震】丸川担当相「川内原発停止の必要なし」について。- 2016.04.16
●731問題
特定秘密保護法撤廃!!
国民は「知る権利」を行使し、軍事増強を阻止しよう!!
4月12日(火)15:00から東京地裁419号室で『衛生学校記事』の情報公開裁判がありました。
10回目の法廷で、初めて傍聴席52席が満杯になり、熱気を帯びてきました。
なぜ、自衛隊衛生学校で作った『衛生学校記事』がきちんと保管されていないのだろうか?
衛生学校と言っても、国民の税金で作られた公の施設である。自衛隊だから戦後、物品の管理はしっかりやっていると思うのであるが、不思議である。自分たちの大事な研究をまとめた機関誌である。寄贈資料も所在不明、よほど、管理が杜撰なのか??
季刊誌『ふかみどり』がきちんとあるのに、なぜ、その前の『衛生学校記事』ない??
原告の陳述より
3 彰古館を見学して判明したこと
(5)史料は金原節三業務日誌の様なきちんとした小冊子から2、3枚程度の文献、 さらに二つの書類ケースの中には金原氏宛ての表彰状や任命書、信書や絵ハガキ、個人の名刺、通勤の為の定期券など多数が収納保管されていました。
(6)上記の様な状況を見ると、私には、金原節三氏の寄贈文献史料が廃棄されたとは到底思えません。
そもそも発行元であり、金原氏も多数寄贈している『衛生学校記事』が、衛生学校に一冊も存在しないなどと言われても絶対に納得いきません。
重要なことは、私たちが2回閲覧した中で、多くの金原氏所蔵の文献を探すことが出来たことです。
なんとか、この防衛省の内部研究誌を公開させたい!!
※尚、情報公開・個人情報保護審査会の答申が3月にあり、「『化学学校記事』と『衛生戦史資料の体系化』も不開示決定は妥当」としたことに対しても、裁判で公開を求めることにしたという。
※特定秘密保護法が施行され、TPPはじめ、各省の情報開示が困難になってきている昨今、マスコミはこういう裁判を積極的に報道し、国の隠蔽体質を明らかにするべきだと思うが、一社も取材しないとは、どういうことだろうか?嘆かわしい!!
日本は「核兵器の非人道性」を主張する前に「731の非人道性」を謝罪せよ!!
<G7外相会合>「核兵器の非人道性」盛らず 広島宣言
歴代日本政府は、天皇制護持の為、いつも情報を隠蔽している!!
TPP文書だけではない!!
ビキニ事件 周辺で操業の元乗組員などが国を提訴へ
内部文書「黒塗り」の中… TPP内幕本の出版未定に
開示された文書「何で黒塗り?」
歴史を繰り返さないための海外の取組み!!日本もパナマ文書等、情報を開示せよ!!
<パナマ文書>中国2.8万件 日本関連800件
パナマ文書 民進が調査チームを発足
ヒトラー生家、強制収用へ=ナチス支持者の利用防止―オーストリア
守秘徹底、法人設立も容易=「文書」発端の租税回避地-パナマ
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
何で、行政が後押ししない??
高知県、731部隊講演の後援断る 「事業に該当せず」
731部隊の設置許可、人体実験、毒ガス戦・細菌戦実施の許可した昭和天皇とそれに協力せざるを得なかった日本医学界の責任、戦後、その人体実験、毒ガス戦・細菌戦を全く裁判にかけなかったマッカーサーとアメリカ政府の責任、1990年代から2000年代にかけて行われた裁判において、事実を認めながら、それを放置している司法の責任、全く無視している政治の責任、731に対する国民の認識は?
戦後70周年、中国の人々から日本の我々に届いた重いメッセージ!
虐殺された人々(日本人を含む)の声なき声にどう応えるか?
日本人はこの731問題にどう向き合うか?重い課題!!
日本には本当に三権分立があるのかが問われている!!
わしが命ぜられたことは、「ゴムホースで体を洗えということです。それもデッキブラシで洗え」と。わしは初めは足が震えて、とてもできませんでした。また”解剖”と思ったら顔を見ながら、「顔もデッキブラシで洗うのか?」と聞いたら、「そうだ」と言う。
731 (2)
・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???
黒い太陽№15
※「機密」とは、秘密の保全が最高度に必要であって、その漏えいが国の安全又は利益に重大な損害を与えるおそれのあるものをいう。
戦前の刑法には、「敵国ノ為メニ間諜ヲ為シ、又ハ敵国ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ5年以上ノ懲役二処ス 軍事上ノ機密フ敵国二漏泄シタル者亦同シ」(第85条)という規定があった。
朝枝繁春の証言
●水俣病
水俣病の被害が拡大した時も、医学界の権威者が、一時、チッソ水俣工場の有機水銀説を否定した。
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。
水俣語り部、金子スミ子さん死去 一家で経験の苦しみ伝え
「出生年の線引きはおかしい。確かに症状があるのに。認めてほしい」
<水俣病>46歳、認められぬ苦難…公式確認60年
水俣病公式確認60年 未曽有の被害 全容未解明
水俣病
水俣病を引き起こしたチッソと皇太子妃雅子様は
日本の公害
●イタイイタイ病も賠償まで50年かかった!!
G7閣僚 高い関心 イタイイタイ病の教訓 世界へ/富山
1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。
1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。 その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。 1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した[8]。
1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。 1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。 1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。 三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。 三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。・・・・・
2014年(平成26年)9月末時点では認定患者は198人で要観察者が延べ408人となっており[15]、患者数は増加し続けている。
さらに、2014年(平成26年)9月の検査では従来行われてきた5歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査を全年齢を対象に切り替えたところ、1969年(昭和44年)の調査開始以来最多の精密検査対象者が出ており、健康調査への受診率が低迷していることも合わせると、患者数の正確な数字は把握できていない[15]。
患者に認定されると公害医療手帳が支給され、国から医療費・障害補償費・療養手当などが給付される。また、三井金属鉱業からも賠償費・医療費・入通院費・医療介護手当・温泉療養費が支給される[14]。
しかし、認定にハードルは厳しく、いまだに行政の救済を受けることができずに苦しんでいる人たちが残っている。現代での問題点は原因分析ではなく、患者認定・要観察判定の具体的な基準に移っている。行政側である県認定審査会は厳しい基準を課して却下する事例が多い。 具体的には、イタイイタイ病の認定の4要件の1つとなる骨軟化症の判定をおこなっている。
ドキュメンタリー:イタイイタイ病
「イタイイタイ病」全面解決??
萩野医師によって、原因究明がなされたが、日本医学界はこの問題にきちんと向き合ったのだろうか???
「カドミウム原因説」発表後、萩野を取り巻く状況は一変する。「田舎医者に何が分かる」「売名のためのPRだ」と罵声が浴びせられ、地元からも「嫁のきてが無くなる」「米が売れなくなる」と白眼視される。「萩野は砂利トラックに撥ねられて死ぬだろう」との風評が飛びかい、患者の元には白衣の男たちが現われて「鉱毒説に関わると大変なことになる」と脅迫した。萩野は荒れ、富山市内に繰り出しては飲み歩く日々が続いた。・・・・・
萩野昇の人生
萩野昇(富山のシュヴァイツァー)
イバラの道を進んだ医師
戦地で働いている間、萩野は家族とは音信が途絶えていた。そのため家族は自分の無事を知らず、また家族の無事も萩野は知らずにいた。はたして無事だろうか、萩野はせく気持ちを抑えながら生家の門をくぐると、皆は昇の元気な姿を見て驚き、喜びの表情で迎え入れた。死んだと思っていた昇が無事に帰ってきた。その驚きと喜びは無理もないことだった。互いに涙を流しながら無事を喜びあった。
・満州で軍医としてどんなことをやっていたのか気になる???
●横浜「戦争と加害」のパネル
細菌戦(「戦争と加害」のパネル展in横浜)
毒ガス(「戦争と加害」のパネル展in横浜
参観者の感想
・731部隊・・・生きている人を生体解剖していたことに残酷性と同じ人として決してくり返してはいけないと思った。(模型があまりリアルで驚いた)40代女性
「戦争の加害」テーマに 13日まで横浜でパネル展
●全世界!!脱原発!!核兵器廃絶!!どこで地震・テロが起こるか分からない!!
核実験・戦争・軍事演習こそが、地球環境を破壊する!!
核保有国は、環境破壊の責任を取ってもらいたい!!
この学術会議の動きは何なのだ???
日本学術会議 軍事技術研究巡り検討委設置へ
オバマ氏「道義的責任」言及へ 訪問時、広島・長崎の犠牲者追悼
広島原爆投下
戦中、日本は原爆開発をしていた。戦後もその動きが続いている!
◉ 特集 : 「想定外」 と日本の統治—ヒロシマからフクシマへ—
小路田泰直
そしてこのアメリカの働きかけに、仁科らは積極的に応えたのである。もしそうでなければ、「世界で唯一の被爆国」の知的リーダーに、次のような発言(1949年6 月読売科学講演会において) は生まれない。世界平和は「更に威力の大きな原子爆弾」(実際には水爆) の恐怖によってしか実現できないとの発言である。
次に第二の方法は科学技術の進歩に全力をつくすことである。前述の通り科学は真理探究という人の本能の現れであるから、これを抑制することは不可能である。勿論科学の成果を武器に応用することは、科学者の良心的努力によってある程度は防ぎ得るであろうからそれを実行することは必要である。然し、前述の通り今日の国際情勢から推して、そんな方法のみによつて科学の成果を戦争に利用させぬようにすることは不可能であろう。
多磨霊園の仁科の墓
理化学研究所に入り、1921~28(T10~S3)海外に留学し、ラザフォード・ボーアらに学び、原子物理学の理論と実験を研究。28X線のコンプトン散乱に関して〈クライン - 仁科の公式〉を発表。同年末帰国。 31以降理研主任研究員として原子核・宇宙線・量子力学の研究を進め、これら各分野の開拓者となる。その門下から朝永振一郎(同墓に眠る)をはじめ多くの俊英が輩出した。 また核破壊装置の建設をすすめ、37我が国初めてのサイクロトロンを、44には当時世界最大級の大型サイクロトロンを完成させた。 戦後、46理化学研究所長。48理研の解体後、株式会社科学研究所を組織し社長となり、また日本学術会議副議長などを歴任した。46文化勲章受章。
<コンサイス日本人名事典>
*謹書は吉田茂。墓右に朝永振一郎の墓が建つ。
*同墓所にはノーベル物理学賞受賞者である朝永振一郎とアメリカの物理学者であるハリー・C・ケリーも眠る。
原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~
樺美智子さんの墓誌
「最後に」
誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ
安倍首相も731を訪問したら!
シャーマン前国務次官は、「将来、米国人の過半数が原爆投下を『誤り』と思うかもしれない」と指摘する。
オバマ大統領は09年4月のプラハ演説で「核兵器を使用した唯一の国として、行動する道義的な責任がある」と表明。翌10年から駐日米大使ら米政府高官が毎年、広島、長崎を訪れるようになった。
米世論の変化が後押し=オバマ氏広島訪問
NHK世論調査 米大統領の広島訪問 「してほしい」70%
アメリカはじめ、核保有国は核実験(未臨界実験も含めて)をやめろ!!
軍事費が国家財政を破綻させる!!
世界のどの場所でどのくらい核爆発が起きたのか
核兵器
政府の唱える非核3原則は嘘っぱち!!なぜ、核融合の研究・原発再稼動する??
オバマ氏広島訪問 韓国メディアは反発と警戒 「加害者を被害者に変える」
米政府が言及 広島は“核なき世界の象徴”
原発再稼動、「反対」が43%、「賛成」が18%
安保関連法 評価する42% 評価しない48%
「メルトダウン」事実と異なる説明 徹底解明を要請
<G7外相会合>「被爆した最後の館長」が思い…10日開幕
除染などの費用 今年度までだけで3兆円以上の試算
憲法に優先する安保条約であるなら、アメリカと合同で極秘に核兵器開発を進めることも不可能では無いのではないか。
この甚大な被害をもたらした大地震の原因の究明はされていない!!地震学者も驚いているではないか!通常の地震とは違った!!
何で国は、北朝鮮からのミサイル攻撃の時の原発の被害想定などを国民の目から隠す!!被害は甚大である。
プルトニウム44tを何に使う??核兵器がそんなにほしいのか??
小出裕章先生:一番大切なのは多くの人達が真実を知る。そして一人ひとりが責任を持って声を挙げること
プルトニウムの使いみち はっきりしない状況続く
2011年3月11日 車が流される 人が飲まれる 津波
原発事故の原因が究明されずになぜ再稼動??
原発事故の原因はなぜ解明されない??
20150502 R/F #121「小出裕章ジャーナル」【原発攻撃被害報告書が明るみに】
巨大地震、津波の原因は??
なぜ、地震学者が驚く!!
なぜ、税金を使った調査結果を公表しない?隠蔽するな!!
1つ目の㊙
原発がもし日本で事故を起こしたらどれほどの被害が出るのか?(1959年)
2つ目の㊙
原発が攻撃されたらどんな被害がでるのか?(1984年)
「2つの㊙と再稼動」
やはり、日本は核兵器を既に持っているのか??
政府、「憲法は核兵器保有を禁止していない」とする答弁書を決定
(以下「高知新聞」より)
要約すれば、憲法は理論上は全ての核兵器の使用を禁じていない。だが、「現実」がその歯止めになると読み取れる。
現実が憲法を超えるとするなら、政府が守ると言っている憲法の平和主義も、核兵器を「持たず」「つくらず」「持ち込ませず」の「非核三原則」の国是も一気に空洞化する。
法的な歯止めではない現実は、刻々と変わる。時の政権の判断によって、核兵器の使用が可能になる余地が残る。
国会の場で、日本の核兵器使用が現実味を持って公然と語られる現状にも驚きを禁じ得ない。
【法制局長官答弁】核使用まで容認とは驚く
この人は核兵器と通常兵器を全く区別していない!!
「核兵器の使用」横畠裕介・内閣法制局長官の答弁記録3 18参院・予算委員会
日本も地下核実験をやっているのか?(アメリカと合同で)
人工地震津波兵器は国際政治軍事上の常識!浜田復興担当政務官
地震学者の「今までやってきた研究が全て無駄だった」という発言は、本当に東日本大震災の原因は何だったのかを考えさせられる!!!
いまだ福島原発事故の解明はされていないのになぜ原発再稼動!!なぜ原発輸出!!
明らかに、全く戦争の反省がない日本は本気で核兵器の保有を考えている!!
3 11人工地震の証明~日本人が知らねばならない真実~
3回の破壊って何のこと??
東日本大震災人工地震
この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所
宇野正美 311人工地震攻撃は日本のプルトニウム製造を阻止するのが目的だった
三権分立は日本にはない!!
原発訴訟の希望と絶望
元東京電力社員・木村俊雄が告発する福島原発事故の真相 2 1
自衛隊技術者15人は311テロ計画を知らないで爆弾製造に携わっていたようです
あの戦争で日本軍のしていたことを全く反省していない日本。
だから、戦後も、自衛隊を中心に『防護の為』と称して、核兵器の開発、毒ガスの製造、生物兵器の開発が行われているだろう!!
毒ガスの製造は確認できた!!生物兵器は勿論核兵器もか??
そして、戦争になって初めて、自国がどんな兵器を持っているか気付かされるのでないか?
<小出裕章さんに聞く>日本のメーカーはなぜ原発にこだわり続けるのか
福島の子どもの甲状腺がんで「家族の会」結成
米専門家 日本でプルトニウム増え続ける現状に懸念
小出:炉心にあった燃料はすべて使用済み燃料プールに移されていた。溶け落ちなかったんですから、ホントだったら水素爆発は起きないはずだったんですが、なぜか4号機でも、巨大な水素爆発が起きました。(ビデオ27分過ぎ)なぜ、4号機で爆発が起きたんだ??原因究明が全くなされてない!!
小出裕章講演会 20160124 山口市県教育会館
地震発生(1944年12月7日)の翌日8日の新聞のトップは昭和天皇の写真。(開戦記念日)
地震の詳細は掲載されない!!被害は隠す!!
東南海地震:「地震の次は何をお見舞いしましょうか」とB29がビラ
元NHK五十嵐さんが命をかけ伝えたかった人工地震の真実
●憲法9条
憲法9条のノーベル平和賞推薦 3年連続の受理
「憲法は私たちが支えてきた」 江東の公園 集会に5万人
9条「変えない」が増 安保法影響か 朝日新聞世論調査
海外邦人ら「9条守れ」 「平和憲法」価値、離れてこそ実感
安倍政権下での「改憲反対」56%について。- 2016.04.30
国連とは何か??(アメリカ中心主義??)
国連の役割
八王子から日本を変える!!
NO WAR!八王子アクション
2015.11.14 第5回 NO WAR ! 八王子アクション@八王子駅北口
脱戦争!!軍事費が国家財政を破綻させる!!
現代の戦争(ハイテク戦争)
ハイテク兵器
彼らは本気だ。安倍晋三首相は、夏の参院選で改憲勢力による「3分の2」の議席を目指すという。
彼らと真逆の憲法は作れないか?
・憲法9条を守る!!・外交を強化する・自衛隊は災害救助隊に
・象徴天皇制を廃止して、大統領制にする
・脱原発 ・靖国神社を廃止して、戦争懺悔慰霊碑の建立
・日米安保条約廃止・国連改革
・憲法9条(侵略戦争の反省から憲法9条が生まれた!)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
想像してごらん、
世界から戦争のなくなった
平和な世界を。
Imagine,
A peaceful world without war.
Представить,
Спокойный мир без войны.
想像,
一个和平的世界没有战争。
IMAGINE9 (『イマジン9 想像してごらん、戦争のない世界を。』(文:星川淳・川崎哲、絵:成瀬政博 2007年12月1日発行、合同出版)
IMAGINE9
解説
9条をつかって、
戦争のない世界をつくる。
「戦争をしない、 軍隊をもたない」 という日本国憲法9条がどうしてできたのか知つていますか。それは、日本が行った戦争への反省から生まれたのです。
日本はかつて、朝鮮半島や台湾を植民地として支配し、中国や東南アジアの国々を侵略しました。日本はアジア太平洋地域で2000万人の命を奪いました。 日本国内では広島と長崎に原子爆弾が落とされ、沖縄では大規模な地上戦が行われ、東京など大都市は空襲を受けました。日本で300万人が戦争で亡くなったのです。
第2次世界大戦は、1945年に日本の「敗戦」で終わりました。その直後に、日本の平和憲法は生まれました。日本、アジアそして世界の人びとに対する「2度と戦争をしません」という誓いとして憲法9条は誕生したのです。
同時にこの憲法は、民主主義の憲法でもありました。それは国民の権利を定め、また「世界中の人びとが平和のうちに生きる権利をもつ」とうたいました。
中米の国・コスタリカも平和憲法をもつています。コスタリカは1949年、軍隊を廃止しました。軍隊の廃上によって、国は教育や医療などにお金を使うことができるようになりました。また、軍隊がないコスタリカに攻め入ろうと考える国はありません。
ところが2003年に、アメリカがイラクに対する戦争を始めると、コスタリカ政府はこれを「支持する」と表明しました。これに怒った大学生ロベルト・サモラさんは、裁判所に政府を訴えました。「イラクヘの戦争を支持するなんて、平和憲法への違反だ !」
裁判所はロベルトさんの訴えを認めました。そしてコスタリカ政府は、イラク戦争への支持を取り下げました。ロベルトさんは日本に来て言いました。
「憲法は単に守ればよいものではありません。平和憲法は人びとのもの。人びとが使うためにあるのです」
ほかにも世界の多くの国が平和憲法をもっています。イタリアや韓国の憲法は侵略戦争をしないと定めています。フィリピンは核兵器をもたないという憲法をもっています。スイス、オーストリア、アイルランドなどの国々は、憲法で、軍事対立のどちら側にも味方しないという中立をうたってぃます。
こうした平和憲法を私たちが活用し、世界にゆきわたらせていけば、戦争を起こさない世界をつくることができます。「イマジン9」は、そのような世界のつくり方を、9通りにわたって、みなさんと考えたいと思います。
豪潜水艦共同開発に日本選ばれず 武器輸出拡大は継続
国産ステルス実証機が初飛行
武器輸出三原則
今の現状防衛装備移転三原則
●ご案内
秘密国家日本!!
日本だけの無期限秘密(『日本の国家機密』藤井治夫著 1972年)
アメリカではニュヨーク・タイムズによるベトナム秘密文書公表事件いらい、世論の批判が高まったためもあって72年6月1日、秘密文書取扱規則が改正されている。これにより一般秘密文書は、一定期間とに秘密区分をダウンレードし、10年後にはすべて公開することになった。また、国家安全保障にかかわる文書についても、30年を経過したときは自動的に秘密解除されることになった。ただし国務省、国防総省、CIAの文書および外国政府と取り交わした、とくに重要な文書については、関係官庁の長官が必要と認めたときは例外措置がとられる。
このほか各国の状況をみると、学術研究者には全く制限を付さないのがアラブ連合、25年ないし35年で原則的に解除するのが東ドイツ、ハンガリー、アイスランドなど6ヵ国、50年で制限を解くのがイギリス、イタリアなど16ヵ国、100年で解除されるのがスペイン、バチカン、ベルギーの3ヵ国となっている(総理府調べ)。無期限なのは日本だけで、スペインやバチカンより悪質ということになる。政府資料は、とうぜん国民に帰属する。そうした観念を全くもたないのが、わが支配階級なのである。
●昭和天皇と731部隊(細菌戦、毒ガス戦)
中国では、現在、細菌戦の調査が着々と進められている。日本政府は反対に細菌戦に対し、全く無視し、過去を消し去ろうとしている。
細菌戦裁判(1997年~2007年)
細菌戦被害の人々
(毒ガス戦)
日本鬼子のおきみやげ(毒ガス)
暴かれる毒ガス戦の真実
(毒ガス戦)
さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。ベルサイユ条約第171条ならびに、第1次世界大戦後、日本が調印した国際的な協定は、催涙ガスを含め毒ガスの使用を禁止していた。しかし、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくても問題はないと陸軍は考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは、1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京-通州地区の掃討について、「適時催涙筒を使用することを得」と書かれていた命令である。天皇の2度目の命令は、1937年9月11日に出され、このときも閑院宮参謀総長により発令された。いくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可したものである。当初は実験的で、非常に小さな規模でこれらの命令が許可されたが、1938年の春・夏になると、中国、モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
(細菌戦)
昭和天皇はまた、1940年中国で最初の細菌兵器の実験的な使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇を細菌兵器と直接、結びつけるものはない。しかし、科学者の側面を持ち几帳面で、よく分からないことには質問し事前に吟味することなく御璽(ぎょじ)を押すことは拒絶する性格から見て昭和天皇は、おそらく自らが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀総長が発令した大本営の指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そして、このような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦化学戦に依存したことは、第2次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つこととなった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・化学研究の発見と技術に基づいていた。次いで、それはベトナム戦争でアメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった。 (ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第2部
恐るべき遠足
死体を解剖して、肺臓、脾臓など各部分からそれぞれ検査用塗抹標本を作る手伝いをさせられたのだったが、与えられた仕事を理解しようとする心のゆとりもなく、ただ反射的に手を動かしていた。周囲の壁を通して悲痛なうめきが聞こえ、金網の外には、取り出した臓腑をかぎつけた蠅どもがうなっている。
わずか1時間足らずの時間だったろうが、私は体も神経も蒸されたようにふらふらとなって部隊に帰った。
部落は一週間ほどたって全部焼き払われた。中には生き残った者もあったろうが、極秘の実験であるから、実験後には一人残らず殺されたのだそうである。
・パネル展
「細菌戦裁判」の第1審の東京地裁で事実認定された日本軍の細菌戦
細菌戦部隊731
石井隊長の戦後1
「ミドリ十字」という会社
内藤良一・・・731部隊員、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、731部隊が主導した細菌兵器の開発・研究や人体実験に関与した。
厚労省の敷地内に『誓いの碑』がある。そこにはこう書いてある。
「命の尊さを心に刻みサリドマイド、スモン、HIV感染のような医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する
千数百名もの感染者を出した
「薬害エイズ」事件
このような事件の発生を反省し
この碑を建立した
平成11年8月 厚生省
碑を建てても薬害は続く!!
イレッサ判決・大阪高裁で原告の逆転全面敗訴
イレッサ訴訟
子宮頸がんワクチン接種後の症状
以下、ウィキペディアより
・ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。路線転換を迫られ、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索する。1964年8月に社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
・1982年、創業者・内藤良一の急死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。当時の薬事行政では、すべての製薬会社は官僚の天下り先にされていたので、多数の厚生官僚出身者が業界首位の同社経営に携わることとなった。具体的には、当時の副社長には厚生省薬務局細菌製剤課長補佐経験者、取締役には同薬務局企画課長補佐経験者、薬事部長には同薬務局経済課長補佐経験者などが就いた[1]。
・ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
ヒロシマからフクシマへ
戦後放射線影響調査の光と影
堀田伸永
プロローグ>
京都帝大調査班にまぎれて
731部隊の協カ者でもあった木村廉医学部長らが救援隊として9月22日、京都を出発、翌日広島に着いた。木村も、他の教官らとともに「原子爆弾傷恵者血清の細菌学的研究」を共同でまとめ、学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に対し、報告している。都築正男が1946年12月、木村廉に送った通知によれば、京都帝大医学部ととにも、石川が所属する金沢医大にも政府の学術研究会議事務局から研究費が配分され、支払われていたことがわかる。原爆投下後1年以上が経過しても研究が継続されていたことが窺える。長く継続して原爆調査を行った理由は何だったのだろうか。 2010年8月6日に放送されたN HKスぺシャル「封印された原爆報告書」での三木輝雄元陸軍軍医少佐の証言によっても原爆調査を731部隊などの戦争犯罪から逃れるための力ードとして使ったことが指摘されている。
封印された原爆報告書
●毒ガス問題
日本や中国各地に毒ガスが遺棄されている!!生活に支障をきたさないのか?
相模海軍工廠・寒川と平塚にあった秘密毒ガス工場
北宏一朗
アメリカは日本の毒ガス施設を故意に過小評価した!!
(天皇を免責するために)
「旧海軍の毒ガス」に新資料 1987年4月7日(朝日新聞)
本土決戦へ相当量備 米軍報告書
第2次大戦中の日本海軍の毒ガス兵器研究、生産などについて全容をまとめた米軍報告書が、6日までにワシントンの米国立公文書館で見つかった。致死性のびらん性ガスであるイペリットの年間生産量は終戦前の時点で、陸軍より海軍の方が多く、国内には本土決戦に備えて相当量の毒ガス爆弾を貯蔵していたほか、占領直前に海軍司令部の指示で、保管していた大量のガス爆弾を廃棄したことなども明らかになった。資料は占領期間中に米国側が当時の日本軍関係者らの尋問をもとに作成したもので、海軍の毒ガス開発、製造について詳細な資料が見つかったのは初めて。
・自衛隊とサリン
自衛隊は防護のためと称して昭和20年代後半から毒ガスの研究をし、1964年にはサリンを合成し、VXガス、タブンも作った。最新の無能力化ガスBZは1973年に成功している。1970年日本政府ジュネーブ議定書締約、1993年化学兵器禁止条約日本署名、1994年6月松本サリン事件、1995年3月地下鉄サリン事件発生、自衛隊とオウムの関係は?
2013年度の「核・生物・化学兵器対処関連事業」費71億8200万円。何に使っているのだろうか?
死者13人、約6300人の被害者を出した地下鉄サリン事件(1995年3月20日発生)
1950年代に、自衛隊は秘密裡にアメリカ側のデータを下に毒ガス製造をはじめ、1964年(東京オリンピックの年)にサリンの製造に成功している。オウム真理教の土屋正美(事件発生当時30歳)だけの知識で果たしてサリンが製造できたのか?自衛隊のデータが漏れていなかったのか?それとも、自衛隊も事件に関わっていたのか??
「地下鉄サリン事件」ザ!世界仰天ニュース
・自衛隊では、サリン合成に成功したのは東京オリンピック(1964年)の年だった。
・1973年、自衛隊は、当時最新の毒ガスBZガスの合成に成功。
週間金曜日 2013年6月21日号
自衛隊とサリン 第5回
「『防護』というなら国民を守ってほしかった」
・繰り返された毒ガス殺人と未遂(オウム事件)
1993年11月・・・創価学会の池田大作名誉会長をサリンで襲撃失敗
1993年12月・・・同上
1994年5月9日・・・滝本弁護士をサリンで襲撃
1994年6月27日・・・松本サリン事件
1994年9月20日・・・ジャーナリスト江川紹子さんに毒ガス「ホスゲン」噴霧。
1994年12月12日・・・浜田忠仁さん殺人事件(VXガス)
1995年1月4日・・・永岡弘行さん殺人未遂事件(VXガス)
1995年3月20日・・・地下鉄サリン事件
1995年4月30日、5月3日、5月5日・・・東京新宿の地下トイレでテロ未遂事件(青酸ガス)
・(地下鉄サリン事件)事前に漏れた強制捜査の日にサリンは撒かれた
・警察も自衛隊のサリン製造を知らなかった?
・(自衛隊の情報)闇に閉じ込めておくとチェックも出来ない!!秘密にするな!!
※サリンなどの毒ガス製造が「防護目的」であれば、つまり兵器として使用しなければその製造が許されるとしたら、同じ理屈で核兵器や生物兵器の「防護研究」も可能ということになる。
戦争前は「防護目的」、戦争になったら大量生産?毒ガス兵器、生物兵器、核兵器!!
日本は現在も毒ガスを製造している!!
・非核3原則も嘘だった!!
ノーベル賞自体が、おかしくないか??(原爆開発者や毒ガス開発者にも贈られている!!)
佐藤栄作の遺族は早く故人のノーベル平和賞を返上しろよ
本来、アメリカが出すべきお金を、日本政府が肩代わりして出していた現実!!
こんな問題もあった!!沖縄密約
沖縄毒ガス
日本軍の毒ガス被害
昭和天皇の“沖縄メッセージ”
●マレーシアの旅
マレーシア番外編(2) -自転車の旅
8月17日(月)~9月2日(水)
鈴木和良
8月22日(土)
13:00
冷水河新村を出発。58号線を右折しA129号線を進む。パームヤシ園が続くなか、青空の下、風を感じながらのサイクリングは心地よい。左手に広大な水田が現れ、しばらく行くとCHUI CHAKの町が現れた。
14:00
CHUI CHAKに到着。食堂に入ると20人ほどの男女が、テーブルを囲ってビールを飲み交わしていた。店員の女性に大屠殺遺址の場所を訪ねると、すぐ店内がその話題で騒がしくなった。若い男性が威勢よく話しかけてくるが、言葉がわらない。ノートに書いた「和平学。日本の加害の歴史(事実)を学んでいる」などの文字を見せ、手を合わせるポーズをすると、少しは通じたようである。そして、『マレーシア』を見せると興味津々に眺めていた。皆さんのネットワークを駆使し、情報収集をしてくれている様子。幾度となく電話を掛けなおし、しばらくすると、バイクに乗った男性が現れ、皆が駆け寄った。そして「これから行くから車に乗って!」と促され、女性店員からは「日なたに当たっている自転車を軒先に移動しなさい!」と助言され移動する。リュックを荷台につけたままで、鍵も掛けないことに一瞬不安も過ったが、皆さんの好意的な人柄は信用できると思った。車は少し走り、そこからは二台のバイク、計四人で前進する。悪路の未舗装をすっ飛ばし飛ばされないように必死で掴んでいた。一キロ以上進んだ所で右折し、パームヤシ園の中へ入って行く。左手には小川が流れている。どうやらこの辺りに大屠殺遺址はあるようだ。ジャングルの中、皆で必死に探すがどうしても見つからない。地元の人に連絡を取りあい、スマートフォンのGPS で位置確認をし、様々に手を尽くす。再びバイクに股がり右往左往するが見つからない。そして、ここには2つの碑がありもう1つのお墓に行こう、ということになった。そこはT字路を右折した右手の辺り。私が墓碑を指すと、ここだ!という。墓碑には、廖追明先生之墓 と書かれているように読める。この方が抗日戦での犠牲者なのか否かは分からない。お線香を皆に手渡し、四人で三礼をする。
少し満足感を得、村に戻るとワンタンスープをご馳走してくれた。私が客だからかたくさんもそってくれる。中には私の嫌いな肉がたくさん入っている(↓)が、感謝の思いから無理矢理口に放り込んだ。談笑しながら、楽しいひと時を過ごした後、お礼に握手を交わすと、ごく当たり前のように立ち去って行った。その見返りを求めない親切心には、心が洗われるようだった。
それと同時に私のような日本人がたくさん訪れたら、大変だろうな、と思わせるほど親身に
なって協力して頂いたのでした。
●多磨霊園と大日本帝国
・多磨霊園・・・・多磨霊園(たまれいえん)は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。
関東大震災直前の1923年(大正12年)、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年(昭和10年)に多磨霊園と改称された。
緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
本庄繁
大正・昭和期の陸軍軍人(大将)、男爵、満州事変総責任者
兵庫県出身。本庄常右衛門の長男。号は剣華。渾名はたくわん石。陸軍幼年学校を経て、1897(M30)陸軍士官学校(9期)卒業。 同期に阿部信行(首相・大将)、荒木貞夫(大将:8-1-17)、林仙之(大将:7-1-5)、南京事件の責任者として処刑された松井石根(大将)、皇道派の中心人物で荒木が葬儀委員長を務めた真崎甚三郎(大将)、大平善市(中将:6-1-5-15)、武川寿輔(少将:15-1-15)、風船爆弾考案者の近藤至誠(8-1-15)らがいた。 翌年、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第20連隊附を命ぜられる。 1900中尉となり陸軍士官学校生徒隊附。'02陸軍大学校(19期)に入校するも、'04日露戦争のため中退となり歩兵第20連隊中隊長に任ぜられ出征。 戦傷を負い帰還し、'05陸軍省出仕の辞令が下り大臣官房附となる。'06陸軍大学校復校し、翌年卒業。参謀本部出仕に移る。 '08北京・上海に駐在。'13(T2)内地に戻り参謀本部支那課員、陸大兵学教官を兼ねる。'15欧州出張。翌年帰国し、'17参謀本部支那課長代理を経て、'18大佐となり参謀本部支那課長となる。 '19歩兵第11連隊長となりシベリア出兵に参加。翌年帰還し、'21から3年間、参謀本部附で張作霖との共同防敵協定によって軍事顧問に就任する。 '22少将。'24歩兵第4旅団長。'25支那在勤帝国公使館附陸軍武官。'27(S2)中将。'28第10師団長に親補される。
'31.8.1満蒙の緊迫した情勢の中で、菱刈隆大将の後を受けて関東軍司令官に就任。その一ヶ月後に柳条湖事件が起こり、関東軍参謀たちによる謀略で満州事変が起こった。 本庄は中村大尉事件の処理と柳条湖事件後の馬占山・錦州作戦の指揮をとった。'32軍事参議官となり、「満蒙共和国統治大網案」「満蒙自由国家成立案大網」を作成。 '33.4~'36.3侍従武官長として昭和天皇に仕えた。同年3月23日勲一等瑞宝章受章、6月に陸軍大将、7月28日満州事変の功により功一級金鵄勲章を受章。 翌年4月29日勲一等旭日大綬章受章。満州国から大勲位蘭花大綬章を受章。'35(S10)12月26日に日露戦争・第一次世界大戦・満州事変の功により男爵を授爵し華族に列せられた。
'36.2.26に起こった2・26事件のときに、昭和天皇の断固鎮定の方針に対して、反乱将校に同情的な姿勢をとり、青年将校の国を思う精神は認めてほしい旨を幾度も奏上するも、昭和天皇の不興を買い、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当タラン」と厳しい叱責を受けた。 また女婿の山口一太郎大尉が間接的に事件に連座していたことから、事件後に侍従武官を辞任し、待命、予備役編入して第一線を退いた。
'38新設の傷兵保護院総裁、'39軍事保護院総裁となり、'45(S20)5月から枢密顧問官に就任し、同年9月から補導会理事長を兼ねた。 同年11月に第二次A級戦犯容疑としてGHQから逮捕命令が下る。本庄は「かねてから覚悟はしていた。十分責任を感じている」と言い残し、出頭命令最終日の11月30日に東京・青山の旧陸軍大学校内に置かれた補導会理事長室にて自決した。 享年70歳。遺書は二通あり、その要旨は、満州事変および日本の敗戦責任を感じてとある。 長男の本庄一雄は陸軍主計中佐として陸軍経理部で終戦を迎えた。'80(S55)『武人青州』を刊行している。
*墓所内には「本庄繁ノ碑」が建つ。ここには遺書が刻む。戒名は忠誠院殿大機青州大居士。
【満州事変】
1931年9月8日奉天近くの柳条湖における満州鉄道線爆破事件をきっかけとして起きた日本と中国間の武力衝突である。 その背景には、'27と'29の大恐慌で危機に立った日本資本主義の切り抜けと、満州における中国の満鉄併行線の敷設による満鉄の赤字問題、満州の張学良が国民政府と結んで青天白日旗をひるがえしたこと、ソビエトにおける5ヵ年計画の成功等が原因であり、さらに三月事件に失敗した陸軍中堅将校の腹いせにより、関東軍の作り上げた爆破事件を中国側の仕業といいがかりをつけて武力衝突を引き起こしたことにもつながる。 その他、地誌調査のため旅行中の中村震太郎大尉と、同行した井杉延太郎予備騎兵曹長が、中国の屯墾軍第三団にスパイ行為と捕縛され殺害された「中村大尉殺害事件」。 長春付近の万宝山集落で朝鮮人農民と中国人地主との対立が発生し、ここに中国人民と日本人警官の武力衝突が引き起こされた「万宝山事件」が相次いで起こった。 こうした中で、関東軍参謀の板垣征四郎(当時大佐)と、石原莞爾(当時中佐)、支那課長の重藤千秋(当時大佐)、ロシア班長の橋本欣五郎(当時中佐)らによって、「満蒙経路」「満蒙分離」の計画のプランは敷設され、満州謀略作戦は着々と進められていた。
この折に、本庄が関東軍司令官に着任。着任一ヵ月後、計画は実行段階に突入し、柳条湖爆破事件が起こった。 事件勃発すぐに板垣から本庄に電話が入り、奉天で日中両軍が衝突し、緊急な場合であるため、板垣の独断で独立守備隊などを出動させた旨が伝えられた。 間もなくして、石原が遼陽第二師団の奉天への出動命令書をたずさえ来訪した。その際、石原は本庄に対し、謀略作戦の計画を強引に説得。 本庄は蒼白な顔で、しばらく黙孝のすえ「本職の責任においてやろう」と全面攻撃命令を裁決した。
奉天郊外の柳条湖の満鉄線路に爆薬を仕掛け、午後10時20分頃に点火し大爆音とともに線路が吹き飛ぶ。 この爆破を合図に「北大営」に照準を合わせ、奉天守備隊に秘かに配備されていた二十四センチ榴弾砲の砲撃がはじまり、中国兵は敗逃。 日本軍は北大営を占領し、奉天城も日本軍の手に落ちた。日本軍は約100日ばかりの短期間に全満州を武力で制圧。 その後、'32満州国独立宣言、翌年、帝政施行を声明した。一方、日本は、その行動を侵略と断定する国際連盟から脱退した。 満州事変は大恐慌に見舞われた世界資本主義の危機が極東において爆発したもので、第二次世界大戦の口火はこの時に切られたともいえる。 よって、1931満州事変から日中戦争を経て、1945ポツダム宣言受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して「十五年戦争」と呼ばれている。 なお、「十五年戦争」という言葉を最初に使用(1956)したのは、文芸評論家で哲学者の鶴見俊輔(5-1-12 健在)である。
<日本史小事典など>
【遺書に関して】
1945年11月20日午前10時頃。本庄は東京・青山の旧陸軍大学校内に置かれた補導会理事長室にて自決した。遺書は二通発見された。一通は、墓所内の碑にも刻む下記の文面である。
多年軍ノ要職ニ奉仕致シナカラ御国ヲシテ遂ニ今日ノ如キ破局ニ近キ未曾有ノ悲境ヲ見ルニ立到ラシメタル仮令退役トハ云ヘ何共恐懼ノ至リニ耐ヘス罪万死ニ値ス 満州事変ハ排日ノ極鉄道爆破ニ端ヲ発シ関東軍トシテ自衛上止ムヲ得サルニ出テタルモノニシテ何等政府及ヒ最高軍部ノ指示ヲ受ケタルモノニアラス全ク当時ノ関東軍司令官タル予一個ノ責任ナリトス 爰ニ責ヲ負ヒ世ヲ辞スルニ当タリ謹テ聖寿ノ万歳、国体ノ護持、御国ノ復興ヲ衷心ヨリ念願シ奉ル 昭和二十年九月 本庄 繁
〔要訳〕 多年 軍に要職に奉仕致しながら 御国をして達に 今日の如き破局に近き未曾有の悲境を見るに立到らしめる 仮令退役とは云え 何とも驚愕の至りに耐えず 罪万死に値す 満州事変は 排日の極鉄道爆破に単を発し 関東軍として自衛上止むをえざるに出でたるものにして 何ら政府および最高軍部の指示を受けたるものにあらず 全く当時の関東軍司令官たる予一個の責任なりとす ここに責を負ひ世を辞するに当たり謹んで聖寿の万歳、国体の護持、護国の復興を衰心より念願し奉る 昭和二十年九月 本庄繁
もう一通は、「満州事変の本質」と題する口述筆記で、趣旨は上記の遺書と同じであるが、事件当夜の状況について、次のように述べている。
「右急報に接した余は、中央部の指令を仰ぐの暇もなく 直ちに各地にある管下部隊に対し 所要の命令を下命したのであるが、管下部隊の中には余の命令到着に先んじて行動を開始した部隊もあり、また敵の攻勢に出た部隊もあった」
満州事変の最高の責任を負うこととなった本庄は、「智謀の石原莞爾、実行の板垣征四郎」に利用された将軍であり、彼ら参謀たちが画策する“満州国独立プラン”に乗せられた関東軍司令官であったことは自明の理である。 戦後、板垣・石原という権謀術数の士を部下にもった本庄こそ、最も気の毒な役割を演じてしまったといわれているが、部下の参謀たちに操られるままになっていた事実より、自己の信念もない将師たる器量ではないと見る文献もある。 なお、板垣征四郎は陸軍大将となり、陸相、朝鮮軍司令官、第7方面軍司令官で終戦、A級戦犯として絞首刑で'48没。 石原莞爾は陸軍中将となり、ジュネーブ軍縮会議の随員、関東軍参謀副長に転じるも、参謀長の東条英機と対立して左遷、予備役になり、立命館大学教授として民間で活動をした。'49没。
●情報公開(戦争への道を阻止するために!!
防衛省、外務省は積極的に国民に情報開示し、戦争を防止する義務がある!!
毒ガスを製造しているんだから、勿論、現在、生物兵器、核兵器の研究・開発・製造もやっているのでしょう。
情報開示への政府の姿勢が問われそうだ。
特定秘密の国会監視 実効性高められるかが課題
PKO陸自宿営地に着弾 南スーダン、政府公表せず
・2016年3月9日、東京都世田谷区にある三宿駐屯地の自衛隊衛生学校の彰古館(しょうこかん)に元衛生学校校長の金原節三氏の寄贈した『金原文書』を探しに行ってきた。私は前回1月に行ったので2回目である。戦前、戦中731部隊で生物兵器を開発し、実戦に使用しているので、戦後の自衛隊ではどうなっているのかを調べるためである。『衛生学校記事』の第1号には生物戦に関する翻訳記事が実際に載っている。
なぜ、『金原文書』を探すのかといえば、その中に、731部隊関連資料で私たちが公開を求めている『衛生学校記事』(「金原寄贈目録」には延べ冊数88冊)が含まれているからである。
『衛生学校記事』は、最初、「情報公開法」に基づき、開示請求したが、防衛大臣が、「保有していない」ことを理由に、不開示にした。こんなことが世間であるだろうか?
『衛生学校記事』を発行しているのは、自衛隊の衛生学校である。なぜ発行元が1冊も保有していない?おかしくないですか。
それで、公開されないもんだから、なんと裁判にまで、訴えて、公開を求めているのである。
1昨年(2014年)、裁判の途中で被告の防衛省側から「『衛生学校記事』の一部(28冊)が見つかりました。発見された文書には731の記述はありませんでした。」という回答が口頭であった。だが、見つかった場所は、発行元ではない「防衛医科大学の図書室」からである。これも色々考えると、さもありなんなんか?医科大学で生物兵器の研究?731 の記述はないが生物戦の記述はどうだったのか?文書での回答はない。
前回、1月に行って調べた時にも、「金原寄贈目録」2028点のうち防衛省は641は彰古館にあると回答していたが、我々が調べるとその他にも16点見つかった。そして昨日行ったらまた、何点か見つかった。資料の管理はどうなっているのだろうか?
そもそも、自衛隊の衛生学校の元校長が寄贈したものを、衛生学校が一部を廃棄するとは考えられない。国民の税金で、運営されている機関であれば、そんなことは絶対あってはならない。縦社会の厳しい自衛隊で、元校長が寄贈した物を簡単に廃棄するとは考えられない!!
ましてや、外務省や防衛省などは、色々な情報を国民に積極的に開示しなければならない機関だと思う。戦争を防ぐためにも。
※金原節三は戦時中、1941年当時陸軍省医事課長として731部隊細菌戦に深く関与していた軍医大佐であり、戦後自衛隊衛生学校の校長にもなった。
※『衛生学校記事』は1957(昭和32)年7月~1959(昭和34)年まで月刊で18号出版され、その後、1961(昭和36)~1967(昭和42)年までは季刊本で24冊、出版された。
その後は、誌名を『ふかみどり』に変更し、1971(昭和46)年からは、衛生学校にきちんと保管されている。しかし、『ふかみどり』の1~15巻は、無い。「30年保存なので、満期になったものから徐々に廃棄しました」という回答。何で廃棄する?
※衛生学校に行ったら、教範(自衛隊の教科書)は情報公開請求しないと見せてくれないと言う。何で自国民に見せてくれないのだろうか。「武器の性能などがばれると、まずい」と言う。自衛隊は、サリン等の毒ガスを作っておきながら、それも伏せていた。影で、化学兵器、生物兵器、核兵器開発の「防護」のためと言って、何をやっているのか、国民は全く知らされていない!!
いや、シビリアンコントロールするはずの政府でさえ、自衛隊が何をしているのか、詳しくは知らないのではないか?
・防衛研究所 戦史史料室
先日、防衛研究所に行って来た。閉架式図書室である。コピー、写真撮影は係員が有料でやるとのこと。後日郵送。貸し出しは出来ないとのこと。全く不便である。お金がかかる。
三宿の彰古館では、自分で写真撮影が出来たのに、なぜここでは出来ない。
担当者の話では、戦後、日本軍の史料は、証拠隠滅のため、重要機密書類はほとんど焼却されたと言う。戦後も、史料は大事にされず、管理が杜撰だったと言う。
「寄贈資料一覧はあるんですかと」、聞くとあることはあるが、「それは市ヶ谷の防衛省の情報公開室に行って、情報公開の手続をしてください」との答え。
戦史史料室に一覧がありながら、それは見られない。そして最後には一覧は行政文書だから保存期間10年で処分してしまうと言う。それでは、大事な過去の資料の履歴が分からなくなるではないか。どうしてこうまでして資料を隠す!!全く、過去の戦争のことを反省していない。過去を消そうとしている。
寄贈した資料は廃棄することはないという。登録はしない資料もあるという。部内者が見ることはあるという。
なんで、寄贈された資料はすべて登録しない!!おかしい!!
※防衛省は、自分でところで研究した文書(勿論国民の血税で作られた文書)を、いとも簡単に廃棄しているというのは本当なのか?国民には軍事上の機密として、全てが伏せられているのではないか??この審査会も税金の無駄遣いではないのか!!
この下記の審査会の答申には全く納得がいかない!!年々、着実に日本は毒ガス研究、生物戦研究・核兵器研究を深めている!!
情報公開・個人情報保護審査会の答申
審査会の結論
「『化学学校記事』1号ないし最新号」につき、これを保有してしていないとして不開示として決定は、妥当である。
審査会の結論
「『衛生学校30年のあゆみ』衛生学校30年のあゆみ編さん委員会編(1982年10月)第4編の資料中の『研究の実績』の昭和55年度(265頁)の『衛生戦史資料の体系化』と題する論文」(以下「本件対象文書」という。) につき、これを保有していないとして不開示とした決定は、妥当である。
思うに、審査会が独自の権限で、内部を調べられないことが残念である!!防衛省の見解をそのまま踏襲。異議を申し立てて4年かかってこの回答。審議は2回だけ??
「国家政策の中で国防機関の発言力が強化され、軍事的観点が占める比重が高まるに伴い、軍事機密は外交、治安、経済など国政のあらゆる分野をおおい尽くすにいたる。この過程に照応して国民は政治の意思決定過程から排除されていく。参政権は骨抜きにされ、知る権利と表現の自由が抑圧される。国会は国権の最低機関に転落する。これこそ軍国主義の発生と成長の一般的法則なのである。最後に来るのは戦争である。
戦争を始めるかどうかの決定に、もはや国民はまったく参加することができない。戦争準備は極秘裏に進められ、ある日突如として戦争の火蓋が切られる。国民はただ肉弾として運命を甘受する他なかったのが、かつての軍国主義日本であった。いや、政府や参謀本部の決定さえ無しに、関東軍が勝手に戦争をおっぱじめ、その「既成事実」を否応なく追認させられつつ、破壊的な侵略戦争にエスカレートしていったのであった。アメリカのベトナム戦争もまた、そうであった。」(『日本の国家機密』藤井治夫著より)
※柳条湖事件も、初めから作戦の一環で、昭和天皇も知っていた。決して軍の独走ではない。
●『日本の国家機密』
今の情報を公開しない姿勢は、戦前からずっと続いている!!
秘密保護法施行・・・何を政府はたくらんでいる?
防衛の名のもとに、軍事力は増強されている!!
<特定秘密>新たに61件 記録文書27万2020件に
特定秘密保護法はジャーナリズムに何をもたらすか(ラジオフォーラム#158)
ちょっと古いが、参考になる本なので紹介します。1972(昭和47)年10月9日初版藤井治夫著『日本の国家機密』より
第二章国家機密の構造
5「秘」の性格と内容
「秘」は公知の事実
次に空自達第11条10号(技術開発計画)に該当するのは、
(31)主要部隊整備計画および部隊配置 (航空機をもっている部隊、ナイキ部隊などの編成、廃止、移動の一覧表がある)
(32)防衛力整備の基本方針(どういう事態に対処する防衛力を考えるかということと5年間の整備についての基本的な考え方が記載されている)
(33)兵器からみた外国の航空攻撃能力およびわが防空能力の進歩発展の見通し(3次防末における将来の航空機およびミサイルの進歩の見通しとの関連で撃墜率に触れ、新戦闘機の必要性が記載されている)
以上が航空自衛隊の「秘」文書である「3次防地上通信電子計画概要(案)、「昭和42年度航空自衛隊業務計画説明資料(第1分冊と、「第3次防衛力整備計画について」、「第3次航空防衛力整備計画の概要」中の秘密事項だというのである。だが、ここにもっともらしく掲げられている事項の大部分は、軍事問題研究家にとっては公知の事実なのである。MSA秘密保護法が参院法務委員会に付託され、54年4 月27日公聴会が開かれたさい、かつて司法書記官として国防保安法の立案に参画した大竹武七郎氏は、同法案中秘密の要件とされている「公になっていないもの」という言葉が不明確であり、どの程度知られていれば公になっているものと解すべきかが問題であると指摘し、軍機保護法の苦い経験に立って乱用のおそれを強く戒めたのであった。
(番外編)長沼ナイキ基地訴訟裁判長に聞く
(新聞と9条:258)長沼裁判:30
※南京大虐殺があったことは国民に知らせず(これも国家機密であったのか?)、陥落を喜ぶニュース映像!
南京陥落 東京の風景
※しかし、溥儀が恐れるほど関東軍が強くないことを証明したのが、1938年の張鼓峰(ちょうこほう)事件と1939年のノモンハン事件である。いずれもソ連との国境紛争で、関東軍は惨敗した。両事件ともソ連軍の戦車・航空機・大砲・兵員が、質量とも圧倒的に勝っていた。日本軍は2度の敗戦をひた隠しに隠した。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
※日本は、ノモンハンの敗北を封印することに腐心する。帰還した将兵には緘口(かんこう)令を敷き、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭した。
●現在の日本
日本は、アメリカと情報交換しながら、生物兵器、化学兵器、核兵器を、秘密裡に開発しているのではないか??
全く戦争の反省をしていないのだから。
戦後、全く裁かれなかった731部隊員の上級隊員は、大学教授や国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)、製薬会社などで、重要なポストに就いていた。
また、原爆製造に関わった研究者(ニ号研究・F研究)の後継者なども、そのまま反省することなく、核融合などの研究を続けているのではないか。
731部隊→ABCC(被爆者は治療もされずに、原爆の影響を調べられた。・・・731部隊員の協力)→放影研→重松逸造・・チェルノブイリ原発事故について・・・汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない。→福島原発事故・・原子力を進めてきた人たちは、福島で今、甲状腺がんが多発しているけれども、それは被曝との因果関係はないと主張している。
日本の原爆開発
核融合はやるべきではない!!
この施設ではいったいどんな研究が行われているのか?水爆の開発??
核融合科学研究所
原子力開発と核開発 ミサイル発射とロケット発射 日本の野心とは!?
”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実ー(内容全て書き出しました)
どんな生物兵器を作るのか??「周辺住民の理解を得ながら進めていきたい」と話しています。周辺住民が納得するのだろうか??
国立感染症研究所 「レベル4」施設で5月から実験
国立感染症研究所の危険性!!
科学者・軍隊は、戦争になる前から殺人兵器の開発に夢中になる!!
『「盗まれた最高機密~原爆・スパイ戦の真実~」』
●南京大虐殺
ベイツはティムパレイ『日本軍の中国での凶暴な行為』(1938年6月)の主たる企画者であった。日本を7回短く訪れインドを1回訪れて会議に参加したほかは、ベイツは1937年から1941年までずっと南京に留まり、日本当局の暴虐行為に、とりわけ麻薬貿易に挑戦した。彼は南京国際救済委員会を代表してパンフレットを2冊書いたが、1冊が『南京地域の食料調査』、もう1冊が『南京の人口』で、両者ともに我々が南京大虐殺を了解するのに役立っている。戦後に彼は召し出されて東京裁判に証人として出席し、引き続き中国の日本戦犯に対する裁判に出席して証言した。
12月17日 金曜日
皆さん方のお部屋でも、皆さん方ご自身の隣人の部屋でも、一目瞭然でしょうが、恐怖と残酷な統治とがいまだに続いています。
(1)昨夜兵士たちが、わが難民をいっぱい収容している図書館に絶え間なくやってきては、財貨や懐中時計や婦女を銃剣でゆすった。人々はすでに財貨も腕時計も無く、過去2日ですでに何度も略奪されていたので、この兵士たちは窓を叩き壊し、乱暴に人々を突き飛ばした。我等の地位の高い職員が、こうした状況の下で、銃剣でつつかれ傷を負った。
(2)図書館では、この地区の他のところと同様、昨夜多くの婦女が兵士たちに強姦された。
(3)兵士が我等の門衛を殴打したのは、彼が兵士に、蹂躙に供する娘さんを用意しなかったからだった。
(4)昨晩何軒かの、アメリカ国旗が掛かっていて、大使館の掲示が貼り出してあるアメリカ人の住宅が、付近をうろつき回っていた兵士たちに闖入され、あるところは数回闖入された。これらの住宅には、我がアメリカ人同僚3名が現に住まっている建物が含まれている。
こうした行動が、南京の大多数の住民に生じているものの小さな事例であるということと、貴国政府の上級官吏の通告では、中国の公共の福祉に配慮し外国の財産を保護すると謳っていることとを、貴殿がたが併せ考えてみて下さるよう、丁重に要請します。
私たちは、プライベートなことを強調したくはないので、他の事例を2つ出しますが、その目的はただただ、制約されないままの兵士たちの常軌を逸した野放図さの如何を、説明するにあります。昨日私たちのアメリカ人同僚の1人が、悪いことをした1人の将校に殴打され、晩には私ともう1人のアメリカ人同僚とが、酔っ払って銃を持った1人の兵士に、ベッドから引きずりおろされました。
この手紙は、大学に特別な保護を要求するわけではなく、皆さん方の近隣に住む者として、あらゆる平和な住民にとって、災禍が既に異常に危険で緊迫したものになっていることを、強調しているのです。
日本軍には、力と能率とをもって正常なる振る舞いを維持し、占領区域の人民に秩序の良好な環境の下で仕事をし生活する機会を得させる、責任があると、私たちは信じています。
※①ここでは皮肉として、日本大使館の外国の財産を保護する布告を、軍が無視していると述べている。
しゃべってから死ぬ!南京大虐殺
南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分
昭和天皇・皇族はすべてを知っていた!!
ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(上)より
第3部 陛下の戦争(1931年~1945年)
第9章 聖戦
日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台がこの時期に築かれた。・・・・・
1929年には、枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約(1929年調印の「捕虜の処遇に関する条約」)の批准を保留した。枢密顧問官は、天皇の兵士は捕虜になる事を許されない以上、捕虜の処遇に関する条項は寛大すぎて実行できないという。陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたのである。・・・p171
・・・・・・・・
(南京大虐殺)
皇族は皆、大虐殺があり、軍紀が崩壊同然にあることを知っていた。そして、この皇族には、松井大将指揮による南京攻略戦で司令官を務め、虐殺が最も激しかった時点で南京駐在の最高級将校だった、皇后良子の叔父で50歳の朝香宮、関東航空本部長で、やはり皇后良子の叔父にあたる49歳の東久邇宮、参謀総長を務める71歳の閑院宮が含まれていた。もとより、杉山陸相も知っていた。大本営の多くの中級、上級将校も知っていた。衆議院議員で予備役の江藤大将も知っていた。外務省は確実に知っていた。外務省東亜局長の石射猪太郎(いしいいたろう)はその日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦目も当てられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」と嘆いている。外交官であり、老練な中国通であった重光葵(しげみつまもる)は、その後、戦時中に特命全権大使として南京に駐箚(チュウサツ)した際に「南京占領当時の罪科を償ふ為め支那に善政を布くことを極力努めた」と記している。
したがって、近衛内閣は南京での強姦や強奪を知っていたが、多くの報告を受けていた天皇は知らなかった、というのはありそうもないことである。昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。南京奪取と占領を裁可した最高司令官として、日本の精神的な指導者―中国の「膺懲」に正当性を与えた個人―としての天皇は、公にではないにせよ、軍紀崩壊に少しは関心を持つ義務を、憲法上はもちろんとして、最低限の道義的義務として負っていた。天皇は決してそれを行ったようには見えない。p290より
※南京事件の悪評に苦慮した日本軍上層部は、杉山元陸相、梅津美治郎(よしじろう)中将、今村均(ひとし)中将らを中心に1938年3月4日、日本軍のいる所に「慰安所」の設置を決め、通達した。しかし、日本内地の娼婦だけでは到底間に合わず、ついには朝鮮半島の若い女性たちが生贄(いけにえ)にされた。その発端は、「朝鮮の若い女性は性病がなく、危険が少ない」という麻生軍医の上申書であった。『赤い夕日と黒い大地』(竹内治一著)
世界初の「南京大虐殺辞典」出版される
●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)
映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん
2016年1月18日記(武漢大学客員教授・日本記者クラブ会員)
残留孤児の一冊<本澤二郎の「日本の風景」(2238)
<「この生あるは」(中島幼八著)>
中国・新華社通信の友人に紹介された残留孤児・中島幼八さんの記録「この生あるは」(幼学堂)の日本語版を読んだ。その悲しい運命から、気が重くなる厳しい内容ゆえに、同じ時代を日本で生きてきた者には、とても興味を引く本である。人間は一人では生きられない、そのことを痛切に教えてくれる人間性のあふれる内容である。同時に「2度と侵略や戦争を起こしてはならない」ということを、日本の為政者に訴えている。全国の図書館に置いて、多くの国民が読むべきである。
<克明な記録に圧倒>
残留孤児という名前は承知しているが、その悲劇の主人公がどう生きてきたのか、まったく知らない日本人ばかりであるが、その疑問に「この生あるは」は、一つの回答を与えている。
いえることは、中島さんは実に幸運な中国生活を過ごしてきたことが理解できる。克明な記録に圧倒される。幼少の記録を多くの人間にとって記憶にないかわずかだ。異常な運命が、それを克服したものであろうか。
70年前の人々が、現代に生き生きと蘇っている。
発売元 亜東書店 03-3835-7091
中国語版 北京三聯書店「何有此生」
●731問題
・日本政府・医学界は731問題を真剣に反省し、国立の「731・細菌戦資料センター」を作ったらどうか?
医の倫理は、向上すると思う!!
中国の虚空を日本人に慰霊されない多くの犠牲者の霊がさまよっている!!
夏草をふみしめてなおも歩き続ける
軒下にのぞく歴史に凌辱された眼光
住居を追われ悪魔に翻弄された暗黒の日々
長い年月に耐え声も叫びも枯れ果てた
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より
日本人よ、血の債務をあがなえ!終戦から70年、いまだ消えぬ731部隊の傷跡―仏メディア
混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)
・「特殊部隊731」
秋山 浩著 (三一書房 1956年6月30日 発行)
第3部
魔の廃墟のあとに
病院まで歩いていたのでは往きだけで10分以上かかってしまう。
病院では、すすり泣く患者の声がそちこちから洩れていた。この部隊の特殊性が、傷病ゆえに残される者に、ことさら先の不安を抱かせるのであろう。
小枝傭員は、手術後のやせ細った体を白いベッドに横たえて、静かに瞑想している様子だったが、私達の気配に首をもたげて、くぼんだ眼を輝かした。
「秋山・・・・佐々・・・・」
と、幾年も逢わなかった者の名前を思い出すように言って、眼をうるませた。
手術後の経過は順調だと聞いていただけに、よりによってこの時期に盲腸手術をする羽目になったことが一層不運な人という悲しみを与えるのだった。
「小枝傭員殿、しばらくのお別れに参りました。自分たちは、今から出発させていただきます」
「そうか、・・・・いよいよ行くのか・・・・」
みなまで言わず、小枝傭員は、おえつに声を詰まらせた。せきを切ったように大粒の涙が頬を伝って落ちた。
厚生省・国民健康保険について(消えた細菌戦部隊より:常石敬一著より)
医務局長としての小泉の実績は、確かに先の、「意欲・鋭さ・執拗さ」という言葉に見合ったものとなっている。すなわち今日の厚生省及び国民健康保険法を作ったのが小泉であった。・・・・・・
健兵対策の一環として厚生省は設立されたのだった。こうした設立の経緯が、今日の厚生省の弱者に冷たく、福祉行政に消極的な理由となっているのかもしれない。
小泉親彦(ちかひこ)
※小泉親彦(ちかひこ)・・・陸軍軍医学校校長、陸軍軍医総監、陸軍医務局長、厚生大臣を歴任、毒ガス戦、細菌戦を積極的に推し進めた人物
1945年9月、自決。
真実を知ろう!!(権力側が流す情報にだまされるな!!)
毒ガス戦はなぜさばかれなかったのか?
ガン治療のウラ 3/8
抗がん剤は猛毒だ!厚生労働省の技官から聞いたんだから。船瀬俊介の船瀬塾より
「悪魔の飽食」から「小食へ」(体質改善への道)
医師 甲田光雄4/6 ラジオ深夜便
●ハーバード・ピックス著『昭和天皇』(下)より
第13章 遅すぎた降伏
V
和田は繰り返し詔書の目的を述べ、解説を次のように締めくくった。「事ここに至た以上、挙国一家、相倶(あいとも)に神州の不滅を信じ、将来の建設と言う任重くして道遠きこの重大使命のため総力を振て邁進し、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れらんことを期せよと、深く今後の国民を御激励遊ばされたのでございます」。こうして天皇の降伏宣言に関する放送が終わると、今度はポツム宣言についてのニース解説が続き、改めて国民に敗北を受け入れるよう促してそのあるべき心構えを説いた。そして、「時局を痛憤する余り、同胞互に傷つけ合い、その結果、経済的、社会的道徳的混乱を惹き起すような事は、皇国減亡の因である事を固く銘記すべきと存じます」として、現実を直視することを訴えたのである。 P212
ポツダム宣言を受話した日本政府は、同宣言が日本近代のあらゆる戦争に対して表明した否定的な価値判断を受け入れることとなった。その結果、日本政府は、戦争犯罪の問題を追及することを義務づけられた。しかし、玉音放送とそれに続いて放送された8月14日の聖断の模様を伝えるニュース解説は、天皇制と公定イデオロギーを守りながら、秩序を維持することにこそ主眼があった。中国との戦争には触れていなかった。侵略は無視され、軍隊はその忠励を賞賛された。政策決定者の責任は拡散され、国民は「今や国民全部が責を分つベき時であります」と教え込まれた。
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」
●『天皇の陰謀』
天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著
松崎 元 訳より
第三章
敗戦
(その2)
裕仁の外出
国務省職員は、日本の戦時下の残虐行為の証拠を継続して出版していた。オーストラリアと中国政府がそれぞれの戦争犯罪人リストに裕仁を筆頭に掲げた、との報が漏らされた。日本の新聞が、日本の警察には未届けの米兵による殺人と強姦事件を報じた。マッカーサーは、個人的見解として、「ニュースを扱うにあたっての誠意を欠いている」と報道陣を非難した。狡猾な老道教哲学者、鈴木貫太郎は、葉巻を口から離しつつ、「天皇は、軍部から告げられるまで、日本が真珠湾を攻撃したことは知らなかった」と、法外な嘘を米国人記者に語った(75)。アメリカの特派員には、天皇との独自のインタビューが許されるようにとの要求を宮中に提出する者もあった。
宮中の高官たちはおおいに危惧していた。天皇は自分を救おうとのそぶりは見せないばかりか、マッカーサーの捜査官が、いまや人物や地位への配慮も見せずに、我むしゃらに真実に迫ろうとしていた。またそれと同時に、マッカーサー自身も、裕仁の最上の面を信じようとしていた。戦争終結における天皇の役割を尊厳ある理想化されたものにしようとの考えは、宮中の広報関係担当者の一人によって準備され、マッカーサーの諜報部長、ウィロビーによって前向きに受け入れられた。「東京の米国諜報部は、公的な圧力によるのではなく、個人としての信念に基づいて、宮中側近のある高官による見解と極秘メモを入手した」、とウィロビーは後に書いている。マッカーサーは、仲介者を経ての話にうんざりし、核心に触れる話を求めていたと、くり返し訪問者に話していた。裕仁もまた、彼の使節が横浜にあるマッカーサーのニュー・グランド・ホテル司令部から持ち帰ってくる結果に満足していなかった。
731を問う!!
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