2014年11月23日日曜日

国家犯罪!731から福島まで!!


秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!
“過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる”
日常/ #3ドキュメント2013.12.6

グーグルクロムで見るとスムーズに画面が動きます。

権力側の都合の悪い情報を「国益を損なう」と言って隠すことはあってはならないことだと思う。
情報をもっとオープンに公開せよ!!

「日本では戦争について反省をしていない人々が権力を握っており、これが日本とアジアの人々にとって非常に深刻な問題になっている」

安倍さん!!72年の日中共同声明を完全に忘れたのですか?

共同声明は、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記している。

※今の日本で「道徳重視」とか「命の教育」などと政府は言っているが、その一方で過去の日本の残虐行為を全て日本政府からして隠し続けている!!政府から姿勢を正し、過去の日本の侵略行為と向き合い、史料をきちんと国民の前に提示して、その責任を明確にすべきだ!!
北朝鮮の拉致問題で日本政府が北朝鮮に、「正直で誠実な対応」を求めているが、731や慰安婦問題等でも日本政府に「正直で誠実な対応」を求めたい!!

第1次世界大戦から100年、安倍首相への10の質問―中国メディア



作家の村上春樹氏はこのほど日本メディアの取材に答え、第2次世界大戦や福島原発事故などに関して、日本は責任を回避していると批判した。
村上春樹氏「日本人は自らを第2次大戦の被害者と認識」―中国メディア


●731部隊展

パネル展  11月、25(火)、26(水)、27(木)
時間 12時~18時
場所 ローズサイクル(尾山台商店街自転車屋)大井町線尾山台下車3分  駅前ドトール前の通り、花屋の前

講演会
講師 奈須重雄 (NPO法人731部隊・細菌戦資料センター理事)

「731部隊と現代普通の~医者が生体実験 なぜ?」
11月26日(水) 午後3時30分~5時30分
尾山台地区会館会議室(尾山台図書館) ローズサイクル先

[戦争の証言] 七三一部隊~人体実験

unit731


(参考)
Unit 731 Japanese Torture & Human Medical Experiments 部隊の真実


731で研究された生物戦のデータはアメリカ・ソ連に渡り、戦後の日本でも研究が継続されている!!
だから、日本政府はまったく細菌戦について調査をする気がない!!(もちろん隠す目的)
2003年川田議員に対する小泉首相の答弁
「お尋ねの細菌戦に係る事実調査等については、本件の性格や時間的な経過に鑑みれば、更なる調査を行い、明確な形で事実関係を断定する事は極めて困難と考えるが、新たな事実が判明する場合には、歴史の事実として厳粛に受け止めていきたい。」

七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書
答弁本文情報

政権が変わっても全く同じ!!(医学界・旧軍人・天皇側の圧力が加わっている?)
2012年服部議員に対する野田首相の答弁
(細菌戦の効果を論文にまとめた「金子論文」が見つかっているのに、こんな答弁しか出来ない!!ほとんど小泉と同じ官僚の作文!!)
「お尋ねの細菌戦に係る検証作業については、本件の性格や時間的な経過に鑑みれば、更なる調査を行い、明確な形で事実関係を断定する事は極めて困難と考えるが、新たな事実が判明する場合には、歴史の事実として厳粛に受け止めていきたい。」

七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書
答弁本文情報

●11月22日細菌戦センター学習会
冷戦下の人体実験

中村明子先生と西里対談 1

国立予防衛生研究所とはどんなところか?
中村明子先生と西里対談 2

中村明子先生と西里対談 3

「衛生学校記事」情報公開裁判の報告

細菌戦センターからのお知らせ!!


デング熱と731



戦後の日本医学界の風潮



●重慶大爆撃
日本人の多くが知らないか、忘れていること?
日本各地で空襲があり、多くの人が犠牲になりましたが、日本軍は戦時中中国各地を同じく無差別に空襲をしていました。
重慶大爆撃もその一つです。
今日本で、この裁判が行われています。志のある方はご賛同よろしくお願いします!!


1941年6月5日、日本軍が重慶市に対する連続5時間余りに及ぶ大規模な爆撃を行い、較場口の防空トンネルにいた多くの市民が窒息死し、「六五大トンネル事件」となった。
「侵華日軍重慶大爆撃殉難同胞記念園」の設立、専門家が呼びかけ―中国メディア
重慶大爆撃
重慶大爆撃 対日民間賠償請求訴訟
重慶大爆撃とは①

もちろん、無差別爆撃もあった!!
陸軍航空隊の爆撃行(日本のプロバガンダ映画)



●南京大虐殺
小中高で「南京大虐殺」授業=12月1日から、児童学生12万人が対象―江蘇省南京市

南京大虐殺記念館、改修工事のため閉館へ=12月13日の「国家追悼日」に再開―中国メディア

「南京大虐殺」展示撤去へ

日中敵意の連鎖、止むどころか増幅の恐れ大

南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分


南京大屠城





●靖国神社参拝違憲訴訟
安倍靖国参拝訴訟裁判
靖国参拝差し止め訴訟、首相側は争う姿勢「私人の立場」


(参考)
日本鬼子(リーベンクイズ)
映画『リーベンクイズ(日本鬼子)』のDVD発売中 申込先メルアドtyuukiren@yahoo.co.jp"
Fax 03-3954-6142


●日本軍が戦時中、中国でやった事
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」

1956年の瀋陽特別軍事法廷で裁かれた旧日本軍人など45人の供述調書より

4、 佐々真之助が1954年8月から1956年5月までに書いた供述によると、彼は1893年に日本の福岡県で生まれ、1932年9月に中国に渡って中国への侵略戦争に参加し、関東軍第10師団歩兵第63聯隊第3大隊少佐大隊長を務めた。1945年7月、関東軍第3方面軍第39師中将師団長に就任した。1945年8月23日、ソ連軍に逮捕された。


重要な罪:1932年10月、「私が佳木斯に駐留した期間」、「密偵容疑者として中国人民約30人を捕えた」、「このうち、抗日戦士15人と人民6人を拷問して殺害した。」「佳木斯から東北の約10キロの村」、「戦場の村民に損害を与え、私の命令に従い5人を殺害した。」
1940年8月、浙江省莫干山で、「私の部下だった大隊は、戦闘中に緑筒と呼ばれる毒ガスを使用し、重慶軍(即ち、国民党軍——編者注)戦士に莫大な損害を与えた。」10月、浙江省諸暨で「重慶軍戦士約600人を殺害し、この中に戦闘中の重傷者と戦士に殺害された捕虜を含め、推定約40人に上る。この罪悪は私が平素から捕虜を必ず殺害するように教育した結果だ。また、各大隊は戦闘中に緑筒と呼ばれる毒ガスを使用し、重慶軍戦士に大きな損害を与えた。」
1941年1月、浙江省杭州で、その指揮する第1大隊は「密偵容疑者約20人を捕らえ、約7人を拷問して殺害した」、第2大隊は「密偵容疑者約20人を捕らえ、約9人を拷問した後に殺害した」、第3大隊は「密偵容疑者約25人を拘束し、約8人を拷問して殺害した。」
1943年12月、「オンランダ領の東インド、アンボイナ島」で、「インドネシア人の女性十数人を強制的に利用し、日本兵が使用するための慰安所を設置した。これはインドネシアの女性に対する重大な侮辱行為だ。」
1944年6月、浙江省金華から衢州に至る作戦で、「人民約50人を殺害した」。
1944年12月から1945年5月にかけて、湖北省で「抗日軍及び抗日団の密偵容疑疑者(容疑者)、計約90人を捕らえ、調査のための拷問で、計約30人を殺害した」、「歩兵聯隊宣撫班においても、中国人民に対し欺瞞的な宣伝を行い、その行動中に人民を虐待し、このうち約6人を殺害した。」湖北省当陽で、「奮起した正義行動の多数の人民は、約20人を殴打して虐待し、殺害した。」「訓練で刺殺練習の標的などに使用し、捕虜5人を惨殺した。」「師団は湖北省駐留期間に、当陽で以前から設置していた日本人が経営する慰安所を日本軍隊を慰安するために使用し、師団は慰安所の経営を支持していた。慰安所にいた中国人女性十数人は、日本帝国主義の侵略戦争のために、苦難の生活に陥り、強制的に収容されて賎業に就かされた。私は宜昌、荆門にもこれと同様の慰安所があると思う。」
1945年1月、湖北省当陽で、「捕虜約5人を殺害した。」「師団は各部隊の軍官を当陽に召集し、毒ガス教育を行う際に、捕虜2人をガス室に押し込み、毒ガスの効果と使用状況をテストした。また、師団軍医部は捕虜4人をガス室に入れ、毒ガスの効果をテストして虐待し、最終的に全員を殺害した。
1945年2月、湖北省沙市西北方馬山屯で「罪のない中国人民約15人を殺害した。」
1945年3月、湖北省襄樊作戦期間に、「重慶軍戦士約3,500人(このうち捕虜若干名の殺害を含む)を殺害した」、「中国人民約200人を殺害した」、「強姦した中国人女性は約50人」、「焼却した住宅は約200棟」。「師団の作戦と意図を隠蔽するため」、「人民3人の通行を阻止し、殺害したほか、他の村の路上などで人民を捕らえて虐待し、十数人を殺害した。」「南漳方面の作戦で、中国人民4人が負傷した重慶軍戦士2人を担架で運搬する途中で、負傷戦士2人を殺害し、逃走した運搬中の人民4人も射殺した。」「各歩兵部隊は攻撃、戦闘期間に、毒ガスを使用し、炮兵がガス弹を発射し、重慶軍に損害を与えた。」


●アメリカに従属する日本!!
マスメディアに騙されるな!!オバマ大統領・ケリー国務長官はユダヤ人?なぜ、日本政府はアメリカのシリア侵略に追従するのだろうか?
イラク戦争と同じような過ちをくり返すな!!
化学兵器・シリア侵略①【ユダヤアメリカと犬コロ安倍】


イスラエルがパイプラインの利権を支配したい?シリアの天然ガスをエプソンモービル(ユダヤ石油資本)が欲しい?
化学兵器・シリア侵略②【ユダヤ石油資本とパイプラインの利権】


731部隊は今でも生きている!!731のデータはアメリカ・ソ連(ハバロフスクでソ連も追及していた!)にわたり、そしてもちろん日本においても生物戦・化学戦の研究は継続されている!!
化学兵器・シリア侵略③【化学兵器・生物兵器と731部隊】

※中国で細菌戦は実戦され、多くの被害者を出した!!。陶器爆弾は作られたが、実戦はされなかったようだ。実際にやったのはペストノミを混ぜた小麦、米の粒、紙片、木綿の詰め物などと一緒に落として、ペストを蔓延させた。また、井戸や饅頭などに細菌を混入して、細菌戦をした!!
細菌戦被害の人々


731での研究を悔やんだ医学者もいた!!(自殺した医学者もいた!!)バイオテクノロジーが魔の手に渡った!!
知ってるつもり「731部隊と医学者たち」



自衛隊は、戦時中の化学・生物戦の研究を進め、今でも最先端の技術を持っているのでは?
シリアの化学兵器廃棄に向けた我が国の協力

※石井四郎は戦後大学の教授や製薬会社の役員にはなってはいない!!
石井隊長の戦後1


ミドリ十字・・・731部隊員であった内藤良一らによって設立された。アメリカに支社を置き、生物戦などの情報をアメリカとやり取りしていたのでは?
以下(ウィキペディアより)
陸軍軍医学校軍医教官(中佐)だった内藤良一が中心となり、1950年に日本ブラッドバンクとして創立された。内藤は終戦後に京都市で小児科医をしていたが、輸血用血液の不足で亡くなる患者を目の当たりにして血液銀行の必要性を痛感し[要出典]、神戸銀行の出資を得て創業にこぎつけた。
内藤の起業した日本ブラッドバンクは、当初は輸血用血液の売買を主とするものの、各地に中小の血液銀行が乱立し、 競争が激化するに連れ人工血液製剤への移行を模索した。
ライシャワー事件から売血批判が巻き起こり、1964年8月28日の閣議決定により、血液銀行の業務が日本赤十字に一本化された。路線転換を迫られた内藤は、人工血液と血液製剤への移行を模索する一方、社名を創業以来の社章だった「緑十字形」からミドリ十字に改称した。
ミドリ十字は、血液製剤の企業として安定した収益があり、合併先には大手製薬会社の名前も取りざたされたが、吉富製薬と合併して法人格は消滅した。その後、医薬品業界の大規模な再編が進む中で三菱ウェルファーマとなり、医薬品業界の合併を経て現在は田辺三菱製薬となっている。
精神病者による社会改善要求
ライシャワー事件
ライシャワーという人


日本政府は生物戦・化学戦に多くのお金を使っている!!

今、世界の生物兵器開発研究所(もちろん日本にも立派な施設があるだろう)は、競ってエボラ出血熱やデング熱等の生物兵器を開発し、また、ワクチン研究もしているのであろうか?
下の写真は最盛期の陸軍軍医学校(新宿)。戦時下日本の医学界は、国家総動員法により戦争に全面協力した!!
防疫の名の下、中国、アジアの多くの実験施設と連絡を取りながらいったいどんな事が行われていたのだろうか!!(現在その跡地に建てられた研究所で秘かにどんな研究が日夜続けられているのか不安が募る!!)
日本政府は、未だ731部隊の罪業を隠し続け、人体実験、細菌戦の事実すら認めていない!!そして今日でも研究所や自衛隊などの研究施設で生物戦の研究の流れは脈々と受け継がれている!!

(参考)質問主意書
政府は、二〇〇〇年度補正予算案の中に、厚生省分として六五億円の生物・化学兵器テロ対策の整備費を計上しようとしている。
政府、防衛庁の進める核・生物・化学兵器対処研究が、大都市部で公然と行われることに対し、基地や研究施設などの周辺地域住民を始め、多くの国民は不安を持っている。生物・化学兵器の禁止が世界の流れとなっている中で、なぜ今、生物・化学兵器対処研究が必要なのか。 ・・・・・


自衛隊の「隠された実力」 中国は日本のライバルにもなれない=中国メディア
・・・・さらに日本国内には多くの原子力発電所が存在するとし、そのため「日本はすでに核兵器を製造するための能力があるのではないか」との懐疑的な見方もあると指摘した。






旧日本軍は明治時代から中国侵略を考えていた?(2014年10月3日、東京新聞)


●気になるニュース
なぜ、靖国神社や天皇制が残っているのか私にはわからない!!
戦後も、元軍人やA級戦犯容疑の政治家が数多く日本の政治の中枢にい続け、現在もその流れが力を持っている。
国民にそしてアジア諸国等対戦相手に多大な犠牲を負わせたあの戦争。日本もアメリカも正義の戦争をしたのではなかった。日本はアジア諸国を侵略し、略奪を重ねた。アメリカは、日本をまねて、無差別空襲を実施し、最後は2発の原爆投下!!
そして、天皇とアメリカは取引をし、天皇と皇族たちは誰1人裁かれることなく、アメリカは戦争ビジネスでもうけ、731部隊員を裁くことなく、そのデータを買収した。一方B・C級戦犯は証拠も不十分で、弁護も受けることなく、命令者の罪を被されたまま処刑された!!
韓国、靖国参拝を批判 「慨嘆禁じ得ない」


本島さんの不屈の精神には驚きました!!ご冥福をお祈りいたします!!
この人は、日本軍の加害の事実をきちんと認識していた!!(ウィキペディア本島等)より(私は、原爆も非常に非人道的な兵器だと思うが!!)
[質問]原爆の持つ非人間性は。
[回答]『原爆による死には『極限の残虐』という言葉が使われるが、拷問で死ぬ前の隠れキリシタンの恐怖は、いかばかりだったか。南京大虐殺や731部隊も残虐の極致だ。日本人の非人間性、野蛮が出ている』
[質問]原爆や空襲、沖縄戦の犠牲者に責任があるのか。
[回答]『戦争責任は昭和天皇をはじめとする戦争指導者だけでなく、マスコミにあおられて狂信的に戦争を進めた一般民衆にもある。全国民を裁くわけにはいかないので、東京裁判で指導者が裁かれた』
「天皇の戦争責任はあると私は思います」「戦争終結を早く決断していれば沖縄、広島、長崎はなかったと思う」
訃報:本島等さん92歳=元長崎市長
(参考)中国では731部隊は生体実験、生体解剖、細菌戦をやり、中国にあった日本の陸軍病院では当たり前に手術演習として麻酔もかけずに生体手術演習が行われていた(残酷)!!
消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」


・天皇制を考える
ノーベル物理学賞受賞者・益川敏英博士にインタビュー

1週間以内に震度5強の余震も…気象庁会見

「絶望が私を鍛えた」両親を暗殺された朴槿恵大統領が振り返った過去―中国メディア

エボラ感染拡大防止 指針まとまる

慰安婦に謝罪と補償を・・韓国で鳩山元首相が日本政府に苦言、「なぜ首相時代に補償しない?」「純真な韓国人はいつも…」―韓国ネット

日本、米出版社に「慰安婦強制連行」記述の修正要求=韓国ネット「日本のしつこさ…」「米国はどっちの味方?」

辺野古移設に向け準備再開、週内にも海上作業

敦賀原発2号機の断層「将来動く可能性」

日本の市民団体が慰安婦強制連行の証拠を確認、「日本、もうやめにした方がよくないか?」「米国も日本も同類」―韓国ネット

「松代大本営」案内板、強制動員について両論併記に・・韓国ネット「自覚してるのに…痛々しい」「日本の民族性を示すことわざは…」

原発事故のセシウムか 米西海岸沖で検出

汚染水遮断できない可能性も 福島第一原発

カジノのギャンブル依存症被害は住民の8人に1人へ及び当事者自殺5倍超増、子ども蝕み家族の自殺も3倍増

腹腔鏡手術後8人死亡 群馬大病院、同じ医師が執刀

コハクチョウのふん 鳥インフルエンザ検出 島根

過去の自分の国が為した間違いを「謝る」こと、自分たちの「誤り」を認め、それと向きあうことが、戦争の死者の「無駄死に」に応え、自分たちの道義の「強さ」「まっとうさ」「未来性」のカギとすることで、彼らの「死」を弔うことにもつながる。
慰安婦、日韓併合、中国侵略…「謝罪は戦争の死者たちを哀悼する行為でなければならない」―日本を代表する思想家


脱原発!!六本木に米軍基地がある?!憲法より上位の安保法体系がある!!日本の最高決定機関で決めた事よりも日米合同委員会の決めた事の方が上位?
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治・孫崎享 対談


お知らせ と 「北海道の少女の涙の訴え」「悪の凡庸さについて」

原発の巨大噴火対応見直しを提言

電気事業連合会、プルサーマル計画を先送りする可能性

小出裕章先生:もともとその夢(原子力かける夢)というもの自身がほとんど幻だった

小出裕章先生:もともとその夢(原子力かける夢)というもの自身がほとんど幻だった

この記事は何を意味しているのか?自衛隊は、731部隊の流れを受けて十分な生物兵器の研究をしている?
米太平洋軍元司令官、デニス・ブレア氏 エボラ対策こそ自衛隊の本懐

エボラウイルス発見の博士「優先すべきは医療従事者の訓練」
(参考)ワクチンについて(731の流れが続いているのか?鳥インフルエンザウィルスを作ったのは東大の先生??)
731以降、医の倫理は廃れ、医学界は生物戦のマッチポンプ?
ベンジャミン・フルフォード×内海聡×三上丈晴「医療マフィアのタブーと真実」ダイジェスト2013.10.27


中国軍も生物戦に強くなってきているのだろうか?中国医学界ではないぞ!!中国軍と書いてある!!
西アフリカのエボラ対策支援に中国軍が積極参加 国防部報道官

小渕優子氏 パーティでQUOカード配布は公選法違反の可能性

小渕優子よりひどい!? 安倍首相が世襲したパチンコ御殿と暴力団人脈

共産・志位委員長 政党助成金の廃止を

日韓議員連盟の国会議員290人、「慰安婦被害者の名誉回復に努める」―韓国メディア

何で国がやらない?寄付に頼るな!!
旧日本軍の遺棄化学兵器問題、日中が共同で被害者救済基金を設立―中国メディア

旧日本軍の遺棄化学兵器被害者、日本の医師らが健康診断=検査費用は日本からの寄付で賄う―黒竜江省

菅官房長官の発言はどうなっているの?
安倍首相が韓国国会議長と会談、「河野談話見直さない」と表明―中国メディア

波紋広がる菅官房長官の河野発言批判、「韓国激怒させ、中国のプロパガンダ助ける」―従軍慰安婦問題

日本の政治家による靖国神社参拝は「狂乱じみた行動」、自らを破滅に導く―北朝鮮紙

歴史を否定する国が尊敬を勝ち取ることはできない


●安倍のつながり!!
安倍首相がフジテレビ「いいとも」出演したのは田布施の輪



●貧困問題
今、多くの若者が長労働、低賃金等、労働条件で悩んでいる!!
宿泊所家賃、生活保護上限近くに=「貧困ビジネス」裏付け―厚労省調査

大学など中退約8万人 経済的理由が最多

喪失感と自責、そして経済苦 自殺で親を亡くした若者たち

デフレは、若者世代への「経済的虐待」である

女子大生兼風俗嬢が増えている理由――『日本の風俗嬢』

アイドルになりたい少女や「関係性の貧困」で孤立する女子高生につけ込むJKビジネス=売春目的の人身売買

子どもたちの“夢を開く扉”が閉じかけている・・(´・ω・`)” 美しい日本 ” の 醜い現実

皇族と国民の間に大きな身分差別が存在する!!(当たり前?)
典子さまへご結婚後に1億675万円 皇室経済会議で一時金決定

典子さんと千家さんの結婚披露宴、280人出席

戦前の天皇家の資産が凄い


●皇室の秘密
君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?より
中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。
その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。
だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。
当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。
だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。
最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。
参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。
松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。



天皇家はこうして儲かる~赤十字社を通じて世界の貴族と連帯~

もう一度、紹介!!!

はっきりいって、
天皇家は、商売です。
天皇家は儲かります。

ちなみに、個人的には今上天皇は好きですが、
皇太子がもうすぐ天皇になることを恐れています。
どうして天皇さんと皇太子ってあこまで違うのかと思います。
今の皇太子が即位したら昭和天皇の再来です。
第3次世界大戦まっしぐらです。
今私たちができることは、日本赤十字社に募金しないことです。
もちろん、日本ユニセフにも同様ですが。
中央共同募金会はよく分かりませんが、まだましだと思います。
個人的には、現金よりも商品券を贈る方がよいかと思います。
現金ならばどのように処理されるか分からないからです。
企業は被災者に自分の企業の商品券(あるいはポイント)を発券し、即ギフトしましょう。
いづれにしても、赤十字とは、一切の関わりを避けることをお薦めします。
日本を再起動させるために~企業は被災地向けに商品券をギフトしよう~
赤十字社は世界最大の生物化学テロ集団~赤十字募金に参加するな~


相対的な価値感に囚われると本質が見えなくなる
天皇家はこうして儲かる~赤十字社を通じて世界の貴族と連帯~
血液利権、輸血は堂々と行われた生物化学テロである。

天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。
悪魔崇拝と創価学会との関連性について。これまでの簡単なまとめ。
天皇家という闇。日本赤十字社という闇。田布施システムという闇。悪魔崇拝者という闇。
エボラワクチンは殺人兵器。投与した人のみがエボラに感染する仕組みです。
天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。
天皇家の守り人組織は暴力団!
天皇家の秘密―再掲
堀江貴文 「天皇は戦争の責任を負うべき」神をも恐れぬビッグマウス!そして池上彰ディスり!!
日本人を大量虐殺した天皇家の皇太子妃・雅子の一族
水俣病Q&A

水俣病

2.26事件は天皇兄弟の謀略
旧陸軍士官が語った歴史の真実(2.26事件はヤラセ?)


「侵略戦争遂行財閥の頂点に位置した神聖財閥」より
日本経済の頂点に立っていた神聖財閥
「これまでの皇室財産は多分に財閥的なものがあり、、、、皇室財産の凍結により、将来日本経済或いは産業に対する皇室の関係は希薄となり、生産手段の民主化が促進されるだろう、、、」クレーマー経済科学局長(連合軍司令部)

今も日本経済の不可視の頂点には天皇制のタガが嵌められている。黒い右翼の街宣車が平成財閥の用心棒として機能していることは日本経済の周知の事実である。




●731部隊!!

部隊展開催の予定
世田谷展
パネル展  11月、25(火)、26(水)、27(木)
時間 12時~18時
場所 ローズサイクル(尾山台商店街自転車屋)大井町線尾山台下車3分  駅前ドトール前の通り、花屋の前

講演会
講師 奈須重雄 (NPO法人731部隊・細菌戦資料センター理事)

「731部隊と現代普通の~医者が生体実験 なぜ?」
11月26日(水) 午後3時30分~5時30分
尾山台地区会館会議室(尾山台図書館) ローズサイクル先



夏草をふみしめ引込み線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠(あんきょ)に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただれ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
【「哈爾濱(ハルビン)残照「731」の記憶 田中寛著】より

混声合唱組曲「悪魔の飽食」(池辺晋一郎指揮)





・『731部隊 細菌戦の医師を追え(今も続く恐怖の人体実験)』(高杉晋吾著 徳間書店)

細菌戦争の実態

淅贛(せっかん)作戦―ドゥリットル隊の本土初空襲の衝撃


防衛庁『戦史叢書』その他の戦史を見ると、淅贛(せっかん)作戦はおよそ次のような経過をたどる。
大本営は淅江省の飛行場群覆滅(ふくめつ)作戦を緊急であるとして他の作戦を中止し、南方から重爆戦隊、双発軽爆戦隊などを移動し、この作戦に集中した。19号作戦を中止してまで淅贛作戦に集中した大本営の態度に派遣軍中枢はかなり困惑したらしい。ドゥリットル爆撃に対するひどいショックと動揺が見受けられる。華中飛行場を破壊したからといって米軍の能力ならばたちまち復旧しそこを永久に占拠しない限り米軍が再使用するだろう。かといって永久に占拠する兵力は当時の日本軍にはなかった。そこで、衢州(くしゅう)飛行場などの破壊や細菌汚染作戦、ペスト菌、炭疸菌などによる攻撃が考えられたのではないだろうか。







●731部隊
●南京大虐殺
●昭和天皇
●教科書問題
●陸軍登戸研究所
●日航123便の怪
●日本とドイツの違い
●脱原発

昭和天皇!!


●昭和天皇と731部隊
昭和天皇と731部隊のことを考えています。
明治期から日本は中国に潜入盗測して中国の地図を作り、侵略を窺っていた。


昭和天皇は、大元帥・天皇になるように、幼少の頃からお金をかけて教育された。

「13歳から19歳まで、彼は小笠原が学習院からとくに選抜した5人の学友とともに、東宮御学問所で軍事と一般教養の両面の教育を受けた。・・・・御学問所は、皇太子のために高輪の東宮御所に特別に建てられた白い洋館である。・・・・御学問所は軍事教育の必要から設置された。若手将校による乗馬や軍事教練と並んで、皇太子と学友は地図の解読と作成、軍事史、軍隊統率の原理、戦術、戦略、兵棋演習を学んだ。」『昭和天皇』(上)ハーバード・ビックス著p67
そして、摂政のときに、生物学研究所を作る。
「摂政に就任して4年めの1925(大正14)年9月、彼は赤坂御所の中に小規模ながらよく整った生物学研究所を持つことになった。3年後、天皇になって2年めには、温室と、それぞれ標本室、図書室を備えた2棟の大きな実験室からなる生物学御研究所を吹上御所に建てさせた」。『昭和天皇』(上)p82
※細菌やウィルスに、様々な培養組織の研究に興味を持つようにならなかったか?
1928(昭和3)年、治安維持法改正・・・国体変革を目的とした結社の組織者、指導者に対して最高刑に死刑が導入され、天皇制軍国主義が強化される。

※1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化の中で、3月3日から9月3日まで、戦艦「香取」でイギリスをはじめ、フランス・ベルギー・オランダ・イタリアのヨーロッパ5か国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任し[4]、摂政宮(せっしょうみや)と称した。


1928年11月10日、即位の礼(御大典)が盛大に行われた。正式に現人神になった。
昭和3年(1928年) 昭和天皇 即位の大礼


1928年~1930(昭和5)年、石井四郎海外視察に出かける。
※自費で行ったとは、考えられない。昭和天皇即位の礼とは関係していなかったのか?
1928年、ジュネーブ議定書の批准見送り、1929(昭和4)年、ジュネーブ捕虜条約の批准を保留した。 
「日本軍が将来犯すことになる戦時虐殺の土台もこの時期に築かれた。1928年、田中内閣は化学・生物兵器禁止国際議定書〔1925年調印の「窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」のこと。日本の批准は1970年〕の批准を見送った。翌年には枢密院が軍の要求に応えて、ジュネーブ捕虜条約〔1929年調印の「捕虜の待遇に関する条約」〕の批准を保留した。枢密院顧問官は、天皇の兵士は捕虜になることを許されない以上、捕虜の待遇に関する条項は寛大過ぎてとても実行できないという、陸海軍大臣と外務大臣の主張を容れたものである。特にこの決定は、のちの日本が捕虜と戦傷者の待遇に関するこの国際条約の効力を否認するのに道を開いた」。
『昭和天皇』(上)p231
1929(昭和4)年11月7日、昭和天皇陸軍軍医学校視察


1932(昭和7)年、石井細菌培養缶発明、


軍医学校に防疫研究室設置、石井首班・要員35名東郷部隊準備、石井・増田、満州に1ヶ月出張、背陰河に「東郷部隊」を設立。
1933(昭和8)年3月10日、昭和天皇、石井式濾水機視察。

※「天皇は、石井を個人的に知っていた。天皇は彼に、1930年代に少なくとも2回公式の席で会っている」。(『死の工場』シェルダン・H・ハリス著p230)
1936年(昭和11)昭和天皇の勅令に基づき、平房に石井部隊(731部隊)正式発足。


1936(昭和11)年11月7日、陸軍軍医学校50周年記念祝賀会が行われ、4宮(閑院宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮)が招かれた。


※「この記事(『陸軍軍医団雑誌』第283号)の数ページ前には、〔祝賀飛行を仰ぐ来賓(4宮)〕という説明のついた写真も掲載されている。・・・高度200mのところから落下傘につるした籠を落とす。籠の中には薬品や包帯が入れられていた。これだけなら当たり前の話である。しかし石井部隊では後年、ペスト菌に感染したネズミそしてそれに付着した同じくペスト菌を保有しているノミを籠に入れて、飛行機から投下する実験も行われる。この祝典の頃、すでにこうした具体的な方法が考えられていたかどうかはわからない」。
『消えた細菌戦部隊』常石敬一著p58


※竹田宮は731部隊とのつながりを持っていたし、三笠宮などの皇族も部隊本部を訪れている。
1938(昭和13)年5月国家総動員法発令
※多くの医学者が、731に集められた。
1939(昭和14)年 ノモンハン事変で石井部隊細菌戦を行う。関東軍より感謝状、陸軍技術有効賞受賞。
1940(昭和15)年10月、裕仁の朝廷は、戦争が敗北に終った場合に天皇制を守ることを目的とした後方計画を開始した。
第1段階は皇族を責任ある地位から退ける事であった。
第2段階は彼らが戦争準備の過程で何の役割も演じなかったかのように見せかける表向きの筋書きをつくることであった。
菊の垂幕の背後への引退は、10月3日に・・・・75歳の閑院宮が、陸軍参謀総長の職を辞した時に始まった。・・・『天皇の陰謀』下 バーガミニ著p134

1941(昭和16)年、国民学校令が、4月1日から実施された。(国民を育成するのではなく、皇国民を錬成するのがこの新令の骨子)
※日本は「八紘一宇」をスローガンに掲げ、大日本帝国を目指す。天皇が世界の中心となることを目指す。そこでは、日本人が一等国民で、植民地である朝鮮などは二等国民、台湾は三等国民、中国人は“チャンコロ”と呼ばれ蔑視された。一等国民の日本人でさえ、赤紙1枚で召集され、戦陣訓にみられるように“生きて虜囚の辱めを受けず”とか、軍人勅諭にみられる“死は鴻毛よりも軽し”と教育され、人命が軽視された。特攻機とか人間魚雷などの兵器にもその思想が現れている。
また、731部隊では収容された人は「マルタ」と呼ばれ、モノ扱いされ、残虐な人体実験がなされた。
※八紘一宇・・・天下を一つの家のようにすること。第二次大戦中,大東亜共栄圏の建設を意味し,日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。(三省堂:大辞林)
1930年代から敗戦まで
・平房の731部隊では少なくとも3000人以上が生体実験され殺された。その他の731部隊の支部や姉妹部隊100部隊やその他の北京、南京などの防疫給水部でも人体実験は行われ、多くの人が犠牲になった。
・中国に作った日本の陸軍病院でも一般の中国人を使って、生体手術演習が行われた。
・また、平房で細菌兵器が作られ、中国の各地で細菌戦が行われ、多くの中国の一般市民が犠牲になった。



・大久野島で作られた毒ガス兵器は、731部隊でも人体実験され、その毒ガス兵器は中国での実戦に多用された。(少なくとも1000回)


・1945(昭和20)年7月27日、ポツダム宣言黙殺、結果2発原爆が投下される。
広島原爆投下


長崎原爆後 街風景 ATOMIC BOMB


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?

・広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!
この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中

・ソ連参戦後の8月10日前後に731部隊施設は徹底的に破壊され、収容されていたマルタは全て殺された。(少なくとも400名以上)

・731部隊は我が大日本帝国最大の機密であり、今後はこの機密保持がどこまでなされるかが最大の問題である???

黒い太陽№15


【韓国の反応】 日本関東軍731部隊の蛮行を裏付ける新たな証拠が大量発掘される「どんなに隠そうとしても隠し切れないもんなんだよね」



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「天皇が戦争中の役割、特に日本の軍隊に忠誠心や勲功より倫理性を重視する行動基準を持たせることができなかった事を理由に裁判にかけられ、法廷で尋問されることがなかった以上、日本の侵略戦争の正当性―アジア太平洋地域の国々への侵攻は解放のためだったという信念―は、かなりの説得力を持ったのである。結局のところ、多くの日本人は、戦争の遂行について天皇と共犯関係にあった。そして、国民は全体として、天皇が責任を負わないのだから、自分達に責任を負う必要などあるわけがないと考えた。
日本の国民は、戦争に対する罪の意識ときわめて真剣に向き合い始めていた。ところが、木戸と東条に天皇の責任を肩代わりさせるなど、責任を不公平に認定したマッカーサーとトルーマンのいち早い決定が、国民のこの取り組みをさえぎってしまった。・・・・」(ハーバード・ビックス著「昭和天皇」下p229~230




・天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!!
1975年10月31日の天皇の記者会見
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。


天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・


(鬼塚氏のコメント)
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、
平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。


天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。



[天皇家の秘密]より
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)

(鬼塚氏のコメント)
私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
・・・・・・・・
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。

(松浦総三の著書より)
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?



・昭和天皇はすべてを知っている!!
(以下は『南京虐殺』についての記述であるが、その他のことも同じであろう。)
「昭和天皇は指揮命令系統の頂点にあり、たとえその指揮系統にどんな欠点があろうとも命令のまさに初期の起点に位置する天皇が、上位、中位の段階での決定を知らずにいることは容易にありえないことだった。天皇は、あらゆる日本軍の動静を詳細に追っており、外信に目を通し、毎日、新聞に目を通し、そして、そのようにして知ったことについて、しばしば側近に質問をしていた。」『昭和天皇』(上)p290

そして、降伏にあたり、天皇制を残すようにと日本政府はGHQと交渉した。その結果、マッカーサーは、昭和天皇を免責にし、731部隊関係者や毒ガス戦関係者も、アメリカとの取引により免責にした。
731部隊に於ける教科書の記述については1980年代に行われた家永教科書裁判第3次訴訟において、家永氏が最高裁で勝訴し、「ハルビン郊外に731部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加え殺すような残虐な作業をソ連の開戦に至るまで数年にわたって続けた。」という記述が認められた。
また、1990年代の731部隊国家賠償請求裁判や中国の細菌戦国家賠償請求裁判でも、裁判所において、731部隊での生体実験、中国における細菌戦の事実が認定されている。
しかし、日本政府はいまだに、731部隊における人体実験、細菌戦の事実を公式に認めていない。
731部隊関係の事実関係はまだまだ、未解明のことがたくさんあるので、まずは、日本政府は、『衛生学校記事』、『化学学校記事』、731部隊関係等の資料を公開して、事実を明らかにすべきである。
その上で、日本政府は、731部隊等での人体実験、及び細菌戦を実施したことを正式に認め、きちんと謝罪すべきだと思う。






●1941年12月8日
1941年 日本軍マレー侵攻


真珠湾攻撃 Attack on Pearl Harbor (カラー映像)


敗戦70周年の12月8日、74年前、太平洋戦争に突入した日だ。日本は米・英などを相手に、戦争を開始した。それまで、泥沼化していた中国戦線に加え、日本は大日本帝国を目指し、侵略戦争を拡大した。そしてこの戦争によって、多くのアジア・米・英・その他外国人・銃後の日本人の命も奪われ、大変な惨事となった。降伏時も降伏条件を巡って時間を取り、結果、原爆投下、ソ連参戦等により日本人の犠牲者が膨らんだ。
なぜ、この8日を天皇家・日本政府は無視する。謝罪や反省の弁が聞かれてもおかしくないはずだが。世界に向かって謝罪したらどうだ!!NHKをはじめマスコミも戦前、国策に協力し、国民を煽ったのだから、反省して12月8日をきちんと扱ったらどうか!!



・ハーバード・ビックス著『昭和天皇』(下)より
木戸内大臣と海軍侍従武官城英一郎の日記から、「大東亜戦争」初日の昭和天皇の様子を、時々刻々と追うことができる。城によると「0130、馬来(マレー)部隊シンゴラ方面上陸開始、0430、上陸完了。0230、(東郷)外相拝謁、ル大統領の親書奉呈」とある。この親書に(侍従の回想によると)天皇は当惑したようだった。さらに城の日記は続く。〔以下、原典の英文表記地名は片仮名に改めた〕
0400(日本時間) 対米最後通牒。
0320、 ハワイ奇襲成功 。
0530、 シンガポール爆撃、効果甚大、ダバオ、グアム、ウェーク空襲。
0710、 以上戦況概要奏上。上海方面にて米砲艦(ウェーク)捕獲、英砲艦(ペトレル)撃沈。
0715~0730、 軍令部総長戦況奏上。
0730、 首相拝謁、宣戦詔勅内奏(0700より閣議)。
0735、 参謀総長戦況奏上。
1045、 臨時枢密院会議臨御。
1100、 宣戦詔勅発布。
1400、 海陸軍大臣御召、陸海軍に勅語を下し賜う。陸軍大臣代表して奉答す。
1630、 参謀総長、軍令部総長同時拝謁。日独伊三国軍事協定案につき奏上。

2030、 ハワイ空襲の成果につき軍令部総長奏上(戦艦2隻撃沈、4隻大破、巡洋艦4隻大破)。
本日終日海軍御軍装を召され、天機麗はしく拝し奉る。



●『天皇の陰謀』

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた


ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳より

第一部  戦争と報復

南京強奪(その1)  日本と中国
裕仁は、自分が中国に何らかの憎しみを抱いているからではなく、祖父および曽祖父から引き継いだ国家的計画(3)による必要において、中国と戦うのであると主張していた。1853年、米国のペリー提督が大砲を突きつけ、西洋諸国との通商と決済を行うため港を開くよう強いて以来、裕仁の曽祖父は、その家臣たちと、ひとつの誓いを立てていた。すなわち、「紅毛の野蛮人」は日本の聖なる国土から追放されなければならず、日本は、さらなる冒涜を防ぐために、緩衝地帯を形成するべく「海外進出」しなければならない、というものであった。
・・・・
旧日本軍は明治時代から中国侵略を考えていた?

潜入盗測

『日本が世界征服をたくらんでいた』
「ポツダム宣言・東京裁判受け入れた」 首相が明言

南京大虐殺:侵華日軍南京大屠殺 南京電影制片庁 21分


南京大虐殺


フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」

河村たかし名古屋市長の南京事件否定発言に抗議し撤回を求める


●歴史への反省の対比 日本VSドイツ (『中国人民抗日戦争並びに世界反ファシズム戦争勝利70周年を記念』より)

1、政府の態度
侵略を否定vs歴史に直面
●日本の国内には侵略戦争の責任を認めようとしない政治勢力が始終存在している。特に安倍晋三首相は2012年に首相に再任してから、「侵略無定義」論や「戦犯英霊」論などのような歴史を美化し歪曲する言行を絶えず行ってきた。

○第二次世界大戦の終結以来、ドイツの多くの大統領や首相はいずれも、かつて異なる場面でドイツ人民を代表し、反省や謝罪、懺悔を行ってきた。1970年、当時のドイツ連邦政府のブラント首相はポーランド・ワルシャワのユダヤ人殉難者記念碑の前で跪いた。


2、律法方面
曖昧な態度vs 厳格な立法
●1953年、日本政府は『軍人恩給法』を再実施し、戦犯と非戦犯に同様の待遇を与え、獄中で死亡した戦犯には『公務殉職』したと定めている。

○ドイツでは、ナチスの犯罪行為を支持したり否定したりする言論を発表するのは極めて重大な違法行為にあたる。『反ナチスと反犯罪法』では、いかなる形式によるナチス思想の宣伝を禁止し、ナチスのシンボルマークの使用を禁止すると規定している。


3、歴史教育
極力回避vs正しい認識
●第二次世界大戦の終結から今に至るまで、日本は戦争で日本の受けた損失について強調し続けてきたが、加害者としてアジア諸国にもたらした傷害については極力避けてきた。

○政府の指導者は戦後、隣国との関係を積極的に修復しており、その第一歩がつまり戦争賠償を積極的に行うことだった。
ドイツの各州では教育大綱において、歴史の授業で学生に「ナチスと人種の大虐殺」の内容を必ず講義し、また収容所や記念館の見学を重視せねばならないと規定している。


4、戦争賠償
誠意不足vs積極的な責任
●日本に最もひどく侵略された東アジアの隣国に対し、日本は基本的な尊重や誠意に欠けている。1995年から、日本の裁判所は中国民間の対日賠償請求訴訟を30回近く審理してきたが、中国から来た戦争の被害者は本当の勝訴を未だ1回も勝ち取っていない。

○ドイツはイギリス、米国、ソ連、フランス、イスラエルおよびポーランド、元チェコスロバキアなどの国と被害者に向け相次いで巨額の賠償や補償を行った。

5、歴史の根源
ある程度保留vs徹底的に清算
●最高権力の代表としての日本の天皇は告訴から完全に逃れ、憲兵隊の重要なリーダーや戦争に巻き込まれた民族主義組織および大財閥の中で 法廷に送られた者は一人もおらず、日本は公判前に「慰安婦制度」に関する全ての文書を隠滅さえもした。一部の戦犯は依然として高官の地位に就いている。

○ドイツは戦後政府と政治制度の新旧交代を実現し、ナチス・ドイツの犯罪行為に対して徹底的な精算と決着を行った。ドイツによるナチスの犯罪への追及は今日もなお続いている。




●「昭和天皇は戦争を選んだ!」増田都子著 社会批評社





●三菱重工






●重慶大爆撃
海軍航空隊による重慶爆撃は、ドイツ、イタリアによる都市爆撃の先例になるとともに、さらに太平洋戦争末期アメリカによる日本の都市に対する戦略爆撃の先例となった。














古写真で日本軍の重慶大爆撃を暴く

檔案で中国侵略日本軍が施した重慶大爆撃の詳細を暴く

暴かれる毒ガス戦の真実


1939年のノモンハン事件で最初の細菌戦を行った!!
ノモンハン事件と細菌戦




●中国残留孤児問題!!(中国残留孤児の書いた奇跡の書「この生あるは」)

この自費出版の本を、どこかの出版社が引き受けてくれないものだろうか?映画化したら、過酷な運命・そして中国人の人間愛がよくわかる!!
敗戦時3歳、この中国残留孤児の過酷な運命に対して、国はきちんと補償したのだろうか?
この本の中に、米軍が1950年代の朝鮮戦争時、北朝鮮に行った細菌戦に神経を尖らせている中国の一般民衆の生活や反核運動の様子が描かれている。
中国の恩に報いたいー半生記を出版した残留孤児 中島幼八さん



第一の話題

大分県は、47都道府県中で人口は110万人あまりで、小さい県と言えるではないでしょうか。しかし、拙著「この生あるは」は、ダントツに多く普及されています。別府市日中友好協会から、最近お手紙が寄せられて来ました。
「<この生あるは>奇跡の運命に報われた中島幼八様のこの度の著書発行に深く感銘いたし、衷心よりお慶び申し上げます。貴方の著書は「敗戦70年の今こそ語りおくべき、貴重な証言と私は思います」そのためにも、一人でも多くの人に「中国を知り 知らせる」活動として取り組みたいのです。」と会長さんが書いてくださいました。そして、普及に使われた手製のチラシも同封にありました。

第二の話題

日中友好新聞という団体の機関紙に次の書評が掲載されました。それを受けて、京都市から一人で三冊、小田原市から一人で四冊、そのほか1冊もかなり多く注文が来たそうです。有文堂書店のご主人はホクホク顔でした。
書評の文も僕は非常に気に入りましたので、ここに全文掲載いたします。
++++++++++++++++++

書評
「この生あるは ~中国残留孤児がつづる」 中島幼八著

2001年からの「中国残留日本人孤児訴訟」支援活動の始まりから関わってきた私は、中国残留孤児の体験を聞く機会がたくさんあった。しかし、2000人のなかでこれほど臨場感に溢れ、そして正確にその生き様を綴ったものは初めてだ。
当然ながら、孤児の大多数は日本語が話せず、しかも自費出版で出版するような経済的余裕のある人はいない。「この生あるは」の著者中島幼八さん(73歳)も例外ではなかった。しかし中島さんはこの二つの困難を乗り越えここに一つの本をまとめあげた。
中島さんは、忠臣蔵で有名な東京港区三田(旧高輪牛町)に生まれ、敗戦の3年前の1942年(昭和17年)1歳の時、父・母と姉の4人で開拓団として黒竜江省寧安県に入植。当時40歳以下の成人男子はすべてシベリアに送られたが幼八さんの父も応召された。
この本の第一の山場は「実母と養母の幼八さんの争奪」の場面。当時多くの日本人がその命を救うために「幼児を中国人に預けた」が、幼八さんもその一人であった。中国人の養母は栄養失調で瀕死の状態にあった幼八さんを自らご飯を噛み砕き口移しに食べさせ一命を救った。
1946年、日本への引き揚げが始まり実母が懇願して引き取りを頼んだが養母と争いになった。村の役人が間に入り、20メートルの距離を置いて4歳の幼八さんを真ん中において「どちらに行くか」決めさせた。幼いこどもがまっしぐらに養母の元へ走ったのであった。思えば、これが苦難の始まりであった。しかし幼八さんは中国の地でたくましく生き抜いた。
本書は420ページに及ぶ膨大なものだ。3人の養父との暮らし、溢れる養母の慈愛、幼少期の成長過程、中華人民共和国の誕生とその暮らし、そして1958年の帰国まで息つく暇もないほど、いくつもの「山場」のあるリアルな展開。一読をお薦めする。
定価1500円+税(送料別)。申し込み・問い合わせ=有文堂書店☎︎03(3701)0213 FAX03(3791)0295
(評者=大田宣也・日中友好協会副理事長)













●陛下の戦争
治安維持法等で「思想の自由」「良心の自由」は奪われ、ただただ国民は「天皇教」に帰依せざるを得なかった!!
陛下の戦争


・大元帥裕仁の命令がなければ、一兵卒さえ、動かせなかった。
・裕仁は生まれたときから、将来の天皇として期待され、また大元帥としても教育された。
・天皇教は、天皇を世界の中心におき、八紘一宇をめざす。裕仁は大日本帝国をめざした。


『日本が世界征服をたくらんでいた』
ポツダム宣言「受諾し降伏したことに尽きる」

東京裁判は2年間続き、1948年に終了。しかし何千ページにわたる証拠書類や証言の中に731部隊に関する一言の記述もありませんでした。
アメリカは待望のデータを手に入れ、石井とその部下達は罪を逃れたのです。
しかし、その事とは別に一つの重要な問題が残されました。
天皇は石井が行った人体実験とのかかわりを追及される事を逃れたばかりか、国民の戦争犯罪に対して法廷に立つ事もなかったのでした。連合国が天皇の必要性を重視したからです。
アメリカと日本が意図的に天皇の戦争責任の追及をやめたということは疑いの余地がありません。
裁かれなかった731部隊員と天皇


天皇は知っていた!!
天皇と731


アメリカ政府の責任


原爆投下、ソ連参戦


なぜ、日本は原爆投下直後、調査をやったのか?

原爆投下直後、軍部によって始められた原爆被爆調査は、敗戦とともにその規模を一気に拡大し、国の大号令で全国の大学などから1300人を超す医師や科学者が集まった。
なぜ、行われたのか?日本が中国などで行っていた、毒ガス戦や細菌戦の特殊研究は、戦争犯罪の対象になるので証拠を湮滅して隠し、原爆の威力を調べる調査書を渡せば、落とした国のアメリカは喜ぶだろうし、日本にとっても、心証がよくなり、戦後の新たな日米関係を築くのに有効なカードになるとの判断があった。2年以上かけた調査は181冊に1万ページに及ぶ報告書にまとめられ、英訳されて、アメリカに渡された。被爆者は何等治療される事なく、調査された!!


・オバマ大統領が広島でアメリカの原爆投下を謝罪しようとした時、外務省が丁重に断ったと言う。
外務省と言えば、昭和天皇とマッカーサーの通訳をした寺崎英成氏も外務官僚だった。
外務省は、天皇制が続いたので、密約をきちんと伝えていたが、アメリカは、大統領が変わるものだから、そこの違いが出たのではないだろうか?
2009年オバマの広島訪問を妨害したのは外務省(=米務省)だったとは、広島市民よ怒れ!

竹田恒泰語録【原爆投下】オバマ大統領が広島で謝罪する要請があったのに断った日本

百田尚樹VS田嶋陽子 バトル勃発!東京大空襲・原爆投下は虐殺か?

アメリカ側の原爆投下に対するコメント


長崎の悲劇「避けられた」 原爆投下、技術者も反対

原爆投下間違ってなかった米国民5割...松本人志怒る

昭和天皇は、鬼塚氏によれば「天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。」





●東京大空襲
東京大空襲と空襲警報



解説)1945年3月18日,死体など〈見苦しい物体〉の後片付けがされた現場を視察する昭和天皇の有名な写真である。お付きの者たちも含め,服装とくにピッカピカにみえる長靴に注目。

「天皇が視察にくるので,空襲で死亡した人たちの遺体をまとめて東陽公園に埋葬したという話を聞かされたある男性は,自分の妻子がそこにいっしょくたに放りこまれ,もう探しようもない事態となっていた顛末に,「憤懣やりきれぬ自分をおさえながら,それからは深川枝川町で,朝鮮人とともに生活するようになった」という。

というのは,洋服屋だった彼は空襲のため「もう洋服屋はできず,その財力もない」ので,朝鮮人たちと同じように「日雇いになって,あちこちで働き,不安定な労働生活が今もなおつづいているが,『わしを助けてくれたのは,政府じゃなかった,朝鮮の人たちだった』と,きっぱりいいきる」(早乙女,224頁)ような,その後における生活状態になっていたからだという。」(1945年3月10日東京下町大空襲の記憶-昭和天皇と敵将ルメイ-より)



政府は被災者に戦後も何の補償もしない!!
1945年の春を過ぎると日本民衆はこれ以上持ちこたえることが、いよいよ出来そうもなくなってきた。3月9日から10日にかけてアメリカの太平洋空軍は、B29、334機で最初の焼夷弾による夜間空襲を東京の人口密集地に対して行った。首都の約4割が灰燼に帰し、推計8万から10万名が焼死した。火災はすさまじく、そのため河川は沸騰し、ガラスは溶け、そして熱風にあおられて墜落した爆撃機もあった。9日後の18日、昭和天皇は侍医と侍従を伴い、車で首都を視察した。当時、別の車で随行した吉橋戒三時中武官は、後に罹災者の様子を次のように回想していた。


「焼け跡を掘り返している罹災者のうつろな顔、うらめしそうな顔が、お辞儀もせずに御車を見送っている。平時の行幸とは違って予告していなかったとはいうものの、菊の御紋章をつけた赤塗りの自動車が、3、4台も通るのだから、行幸であることが判りそうなものなのにと思ったりもした。肉親を失い、家財を焼失した罹災者達は、陛下を恨んでいるのか、それとも虚脱状態でただボーっとしているのか、この不幸な人たちを真近にご覧になる陛下の御胸中はいかばかりかと、拝察したわけである。」p118「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)

※裕仁はまだ戦争を続行する。国民の苦しんでいる姿に同情もないようだ。(天皇家の資産管理に余念がなかった?)

「沖縄戦で甚大な損害を被り、アメリカ軍の焼夷弾爆撃により60以上の都市をあらかた焼け野原としてしまってから、ようやく昭和天皇は和平の希望を示唆し、戦争終結の方途を模索し始めたのである。」p120「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)

最高裁で敗訴が確定した東京大空襲訴訟が問いかけたもの 戦争被害を国民は受忍できるのか



●日本の立場
日本政府が、昭和天皇の戦争責任を回避するために、731部隊の資料を隠蔽し、南京虐殺についても謝罪しない立場をとり続け、アメリカの核の傘のもと、アメリカの軍事同盟強化の方向に走っているが、これでは世界に向かって「核兵器廃絶」を訴える説得力は弱い!!
いつまでも、日本はアメリカに隷属することになるだろう。ポツダム宣言に於ける日本の立場(“shall be subject to”)と同じように!!

侵略戦争と認めることは日本が越えなければならない関門

侵略者が「被害者」を装うことは永遠にできない

731部隊はソ連人93人に人体実験していた、中国の専門家が考証―中国メディア

日本の遺棄化学兵器は関係地域の中国国民の生命と財産および生態環境の安全に深刻な脅威と危害を与えている。
外交部、日本側は遺棄化学兵器の廃棄を一層加速するべき

(戦争責任者の)天皇が同一人物として残り、現人神から変わっただけであった。
日本は旧満州など他人の土地に踏み込み侵略したのでドイツより悪質=天皇の戦争責任、あいまい処理も尾を引く―拓殖大教授が「日独戦後処理」比較

「国の借金」1053兆円=過去最大、1人当たり830万円―14年度末



●あの戦争を起こした裕仁の誕生日が「昭和の日」として休日にされるのには抵抗がある。
裕仁の戦争責任を感じる者にとって、なんともやりきれない!!
「裕仁」は、戦争を起こした人だからヨーロッパでは有名だろう!!
安倍は侵略戦争の反省をしないからアジアで有名?
欧米は昭和天皇、アジアは安倍首相=「知っている日本人」1位―新聞通信調査会

やはり、安倍と天皇家はつながっていた!!
天皇と親戚の安倍晋三首相

積極的平和主義の名のもとで・・・日本で「武器ビジネス」に火がついた=中国メディア



●戦犯で処刑された東条英機は、天皇の「忠臣」ではなかったか?
・内閣特別顧問である退役した満州の戦略家石原莞爾は、町から町へ敗戦を説明するための特殊任務に任ぜられた。・・・彼の演説の主調低音は単純なものだったー前総理大臣東条が戦争を引き起こした、他の誰も責任はない。石原と東条は1930年代に天皇の寵を争うきびしい好敵手として活動した。東条が勝った。・・・(「天皇の陰謀」(上)p153)

・(東京裁判で)
東条「私の知る限り、そういう事例はありません。のみならず、日本国の臣民が天皇の御意志に反して行動する事などあり得ず、まして日本政府や、日本国の高官においては尚更ありえないことです。」(「天皇の陰謀」(上)p229)
・学徒出陣の式典で東条は「天皇陛下万歳!!」を三唱しているではないか?「ハイル、東条」ではなく、「ハイル、天皇陛下」と。
学徒出陣 1943年昭和18年10月27日【日本ニュース】



●「君が代」は歌えない!!
「君が代」について

上記のビデオで新しい国歌制定の動きがなかったのか、なぜ盛り上がらなかったのか?ということが疑問として投げかけられている?
・国歌制定の動き
1、1951年1月、「君が代」にかわる「国民主権」に基づく新しい国歌を作るという目的の為に、日教組の中央委員会で提案され、公募された。その結果「緑の山河」に決定し、日教組の教研集会や一部の小学校の運動会などで使われた。ところが教育委員会の圧力がかかり、衰えて行った?
「日教組が組織を挙げて公募して、広めてきた「新国歌制定運動」に対して、何等総括もなく、いつの間にか歌わなくなりましたじゃすまないよ、ということです。」(「日の丸・君が代」が人を殺す!北村小夜・天野恵一著、社会評論社)より要約
※今現在の取り組みについては分かりません。


2、敗戦後の1953年、壽屋(サントリーの前身)の社長:佐治敬三が中心となって、新国家、新憲法にふさわしい新しい国民歌(国歌)を作ろうという呼びかけが行われた。その呼び掛けに応じて、全国からよせられた5万点を超す応募の中から選ばれたのが「われら愛す」である。
NHKなどの洗脳放送が功を奏しているのか、主権在民にそぐわない「君が代」が当たり前のように演奏され続け、そして強制される現在、長く地下水脈のように歌われてきたこの歌は、再び新たな国民歌(国歌)の第一候補として、注目をあび、歌われようとしている。
この歌が、現在の閉塞状況からの脱却を願う多くの市民の口から、大きな声で歌われ、再び新国歌制定の大運動になったとき、「アラブの春」「アメリカの99%」の人々の運動に続く、「日本の春」は現実のものとなるだろう。
(曲は{われら愛す}→検索)
作詞=芳賀秀次郎
作曲=西崎嘉太郎
編曲=高浪 晋一

一、われら愛す
胸せまる あつきおもいに
この国を われら愛す
しらぬ火 筑紫のうみべ
みすずかる 信濃のやまべ
われら愛す 涙あふれて
この国の 空の青さよ
この国の 水の青さよ・・・・・


・天皇制をアメリカが認めた責任は大きい。
731のデータと引き換えに、天皇の戦争責任を問わない事と731部隊の免責をアメリカがしたことに、そもそも問題の根幹がある。
戦後、天皇制が残ったため、戦争の反省が十分為されなかった。昭和天皇が戦争を主導し、負けになると証拠を、焼却してしまった。
アメリカは天皇といろいろな取引をした。(全て極秘)
皇族方も多くが戦争に中心的な役割を担って参加していた。
ここが、戦後、裁判で裁かれる事なく、残ったために、財界・経済界とのつながりは戦前と変わらず、裁かれなかった日本軍幹部もそのまま残り、あの戦争のことを隠し、自衛隊などで活躍し、靖国に参拝し公然とあの戦争は「自存自衛のための戦争」と言ってはばからなかった。
天皇制の国家がそのまま存続したものだから、また「君が代」が復活し、人々を苦しめている。

・今は国民主権の時代!!ごり押しで戦争の反省も十分せず、法律で「国旗・国歌」を定めたのはおかしくないか?

・そう!「君が代」ではなく、「民が代」です!!上記のビデオで竹田恒泰という元皇族の子孫の方がしゃべっているが、この人の祖父は、竹田恒徳ではないか。

君主国家だから「君が代」を歌うのは当たり前だというような発言をしているが、祖父が戦中どんな事をやっていたかを「君が代」を語る前に調べて、国民に公表してもらいたい。
『死の工場』(隠された731部隊)シェルダン・H・ハリス著 p227~228にはこう書いてある。
1964年4月、『ジャパン・タイムズ』は、裕仁のいとこである元皇族の竹田宮恒徳を、日本の「スポーツ好きなプリンス」として人物紹介した。・・・しかしこの記事は竹田宮の経験のうち重要な部分をカバーしなかった。竹田宮は20数年前、日本占領下の満洲で任務に従事した。そこで彼は、首席主計官として、関東軍において戦時に設置された重要なポジションについた。そういう地位の人間として、彼は満洲におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。彼は平房を頻繁に訪れたが、その際、宮田武中佐と名乗っている。おそらく竹田宮・宮田中佐は、自らの任務を果たすために、満洲にある他の死の工場も視察したはずである。
竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は、関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の施設支部を訪問する許可を与えるかどうかを決定する事であった。・・・・




もし、戦争にでもなれば、自衛・侵略戦争にかかわらず、原発は狙われ、甚大な被害を蒙る。その結果、人類が地球上に住めなくなる可能性も出てくる。それよりも、交渉の手立てをきちんと考えて解決できないものか?
戦争がエスカレートすると、前の大戦のように、国民は総動員され、国際条約は無視され、手段を選ばず、生物兵器・毒ガス(化学兵器)・核兵器等を使い、相手に打撃を与える事を考えるだろう。地球の環境破壊は計り知れない!!国民はまたもや天皇の股肱(ここう)となり、自衛隊(軍隊)が最終的に守るのは、天皇家と政治家と霞ヶ関ではないのか?国民は捨石になる。




●戦争の悲劇「特攻」
神風特別攻撃隊の実写映像【第二次大戦】

「その直後の8月4日、小磯内閣は事実上、「国民総武装」を決定し、日本国中の臣民はすべて職場や学校で軍事教練に(竹やりを持って)参加しなければならなくなった。2週間後の御前会議で、昭和天皇は、来るべき敵の攻撃に対する新たな防衛計画を正式に裁可した。そこでは、「水際防御」よりも防空、「内陸防御」に力点が置かれ、さらに、「決勝兵器」の迅速な開発に力点が置かれていた。「「決勝兵器」とは、舟艇の乗組員やパイロットの命と「引き換え」に特定の軍事的な目標達成をするために考案された「体当たり」兵器、つまり「特攻」兵器の大量生産を意味していた。・・・・
アメリカがルソン島奪還作戦を開始すると、神風特攻隊のパイロットや「人間魚雷」による自殺攻撃が増えて行った。」p108~110「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)

「高松宮は、裕仁が嶋田を政府から直ぐに更迭すべきでありそしてフィリピン海戦に於ける嶋田の愚行と航空機の大損害の故に今や体当たり戦術の採用が真剣な考慮を加えられるべきであると決心している事を、見て取った。自殺飛行士の考えは、高松宮の航空海軍の提案にも最初から折り込まれていた。1943年に行われた幕僚の研究は、反論の余地なく、体当たり攻撃が在来の爆撃と魚雷攻撃の技術を用いるよりも、飛行士の損失当り更に多くの敵艦を沈めることができることを、示していた。」p465(「天皇の陰謀」バーガミニ著)







「天皇が戦争中の役割、特に日本の軍隊に忠誠心や勲功より倫理性を重視する行動基準を持たせることができなかった事を理由に裁判にかけられ、法廷で尋問されることがなかった以上、日本の侵略戦争の正当性―アジア太平洋地域の国々への侵攻は解放のためだったという信念―は、かなりの説得力を持ったのである。結局のところ、多くの日本人は、戦争の遂行について天皇と共犯関係にあった。そして、国民は全体として、天皇が責任を負わないのだから、自分達に責任を負う必要などあるわけがないと考えた。
日本の国民は、戦争に対する罪の意識ときわめて真剣に向き合い始めていた。ところが、木戸と東条に天皇の責任を肩代わりさせるなど、責任を不公平に認定したマッカーサーとトルーマンのいち早い決定が、国民のこの取り組みをさえぎってしまった。・・・・」(ハーバード・ビックス著「昭和天皇」下p229~230

天皇は知っていた!!
天皇と731



旧日本軍は明治時代から中国侵略を考えていた?(2014年10月3日、東京新聞)


天皇家はこうして儲かる~赤十字社を通じて世界の貴族と連帯~
相対的な価値感に囚われると本質が見えなくなる
天皇家はこうして儲かる~赤十字社を通じて世界の貴族と連帯~
血液利権、輸血は堂々と行われた生物化学テロである。

天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。
天皇家という闇。日本赤十字社という闇。田布施システムという闇。悪魔崇拝者という闇。
エボラワクチンは殺人兵器。投与した人のみがエボラに感染する仕組みです。
天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。
天皇家の守り人組織は暴力団!
天皇家の秘密―再掲

「侵略戦争遂行財閥の頂点に位置した神聖財閥」より
日本経済の頂点に立っていた神聖財閥
「これまでの皇室財産は多分に財閥的なものがあり、、、、皇室財産の凍結により、将来日本経済或いは産業に対する皇室の関係は希薄となり、生産手段の民主化が促進されるだろう、、、」クレーマー経済科学局長(連合軍司令部)

今も日本経済の不可視の頂点には天皇制のタガが嵌められている。黒い右翼の街宣車が平成財閥の用心棒として機能していることは日本経済の周知の事実である。



●東京大空襲
図書館にありました。早乙女勝元さんが戦後70周年ということで編集したのですね。
各地の図書館に置かれるといいですね。
東京の空襲は何回もあり、犠牲者は3月10日の空襲では10万人以上!空襲としては史上最大規模の大量虐殺!!


しかし、皇居は狙いから外された。戦後の取引のため?
犠牲者遺族に、国からは何の補償もない。

・昭和20年3月東京大空襲の後、石井(731部隊長)は家族全員をハルピンへ呼び寄せた。
地位と金があったからできた!!

・自死した東大助教授Aはどうであったか。(南京1644部隊で中国人にコレラ菌等を飲ませて死なせた事を、苦にして自殺した。その当時コレラについての第一人者)
昭和20年4月、Aが所属していた伝研第2研究部長の田宮教授が東大医学部長兼人となり、研究部の方はA1人にまかせっきりになった。田宮教授は朝、家を出て、いったん、これも兼任の伝研所長室に立ち寄り、決済など最低限の用件を済ませるとそのまま医学部へ直行。終日戻る事はなかった。
(1920年5月の空襲で)Aは家を焼け出された後、和泉町の隣りの永福町に家を借り、毎日、伝研に通った。だが、この空襲以後、彼は目に見えてやつれていった。自宅では縁側でうずくまり、研究室では、茫然と窓の外を眺める時間が増えていった。「ウィスキー」を浴びるように飲むようになったのもこのころ。飲んでは酔い、酔ってはまた飲んだ。「ウィスキー」と言っても、研究用アルコールに砂糖を混ぜた代用品である。・・・(『細菌戦部隊と自決した2人の医学者』より)

原爆被災地の広島・長崎、それに大規模空襲があった東京、唯一地上戦の行われた沖縄などは、犠牲者を国家で追悼すべきではないのですか?
戦争責任を、ハッキリさせて2度と戦争はしないという誓いの下に!!
ドイツのドレスデン空襲では、大統領が参列して追悼している!!
ガウク氏は式典で、「ドイツ人の犠牲者を悼むとき、(ナチス)ドイツの戦争遂行による犠牲者を忘れてはならない」と呼びかけた。
独ドレスデン空襲70年で追悼式典




日本は、重慶などの都市に戦時中無差別爆撃を行っていた!!


最高裁で敗訴が確定した東京大空襲訴訟が問いかけたもの 戦争被害を国民は受忍できるのかより抜粋
被告、国は「戦争被害 は国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」という受忍論を展開。1審・2審はこれを追認しました。さらに東京地裁・高裁は「戦地で実際に戦闘行為を行った軍人らの救済には合理的な根拠があり、民間被災者の差別ではない」「被災者は数多く存在しており、どんな救済措置を講じるかについて国会には広い裁量が認められる」「原告らが旧軍人らとの間の不公平を感じることは心情的には理解できるが、戦争被害者にどのような援助をするかは立法を通じて解決すべきだ」などと指摘し、訴えをすべて退けていました。

この裁判で、東京の市井の人々が被害を受けたのは、日本が戦争を起こした開戦責任と、なかなか戦争を終わらせなかった責任に由来することをはっきりさせる意味もありました。つまり、大日本帝国の侵略戦争という違法行為が外国の人ばかりか、国民までも傷つけることになるのです。

ウィキペデアより
東京は1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、1945年(昭和20年)2月26日,2月28日特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い。この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた。

アメリカからみた【東京大空襲】第二次世界大戦

当時のニュース(今も、報道統制が厳しくなっていて変わりがないとおもうが。)
天皇陛下戦災地御巡幸
かしこくも天皇陛下におかれましては3月18日帝都戦災時に・・・・民草救済の状況、工場の被害状況に寄せたまいし大御心のほどを拝し奉り、我ら一億等しく暴戻アメリカ撃滅の決意をいよいよ固め、広大無辺の・・・・
・なんで1人の被災者も画面に出さず、臣下は直立不動で立っているのだ?自民党はこんな状況に戻したいのか?(八紘一宇)
・今の天皇は神様なのか知らないが、その当時は天皇は44歳で現人神、大元帥、国民は、民草だった。朝鮮の台湾・中国の人は2等国民とか3等国民とか言っていた時代であった。
東京大空襲


政府は被災者に戦後も何の補償もしない!!
1945年の春を過ぎると日本民衆はこれ以上持ちこたえることが、いよいよ出来そうもなくなってきた。3月9日から10日にかけてアメリカの太平洋空軍は、B29、334機で最初の焼夷弾による夜間空襲を東京の人口密集地に対して行った。首都の約4割が灰燼に帰し、推計8万から10万名が焼死した。火災はすさまじく、そのため河川は沸騰し、ガラスは溶け、そして熱風にあおられて墜落した爆撃機もあった。9日後の18日、昭和天皇は侍医と侍従を伴い、車で首都を視察した。当時、別の車で随行した吉橋戒三時中武官は、後に罹災者の様子を次のように回想していた。


「焼け跡を掘り返している罹災者のうつろな顔、うらめしそうな顔が、お辞儀もせずに御車を見送っている。平時の行幸とは違って予告していなかったとはいうものの、菊の御紋章をつけた赤塗りの自動車が、3、4台も通るのだから、行幸であることが判りそうなものなのにと思ったりもした。肉親を失い、家財を焼失した罹災者達は、陛下を恨んでいるのか、それとも虚脱状態でただボーっとしているのか、この不幸な人たちを真近にご覧になる陛下の御胸中はいかばかりかと、拝察したわけである。」p118「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)

※裕仁はまだ戦争を続行する。国民の苦しんでいる姿に同情もないようだ。(天皇家の資産管理に余念がなかった?)

「沖縄戦で甚大な損害を被り、アメリカ軍の焼夷弾爆撃により60以上の都市をあらかた焼け野原としてしまってから、ようやく昭和天皇は和平の希望を示唆し、戦争終結の方途を模索し始めたのである。」p120「昭和天皇 下」(ハーバード・ピックス著)

最高裁で敗訴が確定した東京大空襲訴訟が問いかけたもの 戦争被害を国民は受忍できるのか


・まだ、戦争を継続した。この後も容赦ない各地での米軍の空襲、悲惨な沖縄戦、広島・長崎の原爆投下、ソ連参戦、731部隊のマルタと呼ばれた人々の虐殺、施設破壊、真っ先の逃亡!!中国に残された日本人の悲劇的な状況、シベリア抑留・・・
・戦後の裁判・・・どういうわけか天皇・皇族・731部隊関係者は1人も裁かれず、東京裁判はA 級戦争犯罪人を裁いた。訴追されたのは28人だったが、うち2 人は公判中に病没、1人は精神障害で免訴となり、25 人が判決を受けた。全員有罪、7 人が絞首刑、他は終身禁固~禁固7 年の判決が下された。
ところで、日本帝国が植民地支配していた朝鮮や台湾から徴兵・徴用された軍人・軍属のなかに、侵略戦争を計画・準備・遂行した東条英機などと同じように戦犯とされ、裁判で裁かれた人たちが多数いる。彼らはBC級戦犯裁判で裁かれ、うち朝鮮人23 人、台湾人21人が死刑とされ、刑死している。残りの朝鮮人125 人と台湾人147人は無期刑あるいは有期刑とされた。1950年代に入ると多くの朝鮮人戦犯が仮釈放・満期釈放された。だが、出所するときに持たされたのは東京都内分の交通費と軍服だけ。家族も頼れる知人もない日本で極貧生活を強いられ生活苦と厭世感から2人の自殺者が出た。
このままでは生きてゆけないと彼らは「韓国出身戦犯者同進会」を結成し日本政府に援護を求めた。・・・
・戦犯として、訴追された朝鮮人148人のうち3人だけが軍人・兵士であり、ほかは捕虜収容所の監視員という名の軍属だった。・・・・
・被曝後の広島に入り、市民を救援した朝鮮人部隊8876部隊の人たちは、敗戦になると、反乱を恐れた軍部は強制的に彼らを朝鮮に戻し、その後、被曝で亡くなった人もいたし、その他の人は被曝で健康被害をずっと患っている。政府はこういう人たちも全く無視した。
「日本人」戦犯と して裁かれ、処刑さ れた 朝鮮人
年表でたどる韓国・朝鮮人BC級戦犯の歴史
マニラ市街戦、東京大空襲


※上記の東京大空襲の前の映像ではフィリピンの市街戦が紹介されている。「ゲリラに悩む日本軍は区別がつかないままに多数の市民を殺害した。太平洋戦争での犠牲者は100万人にも達するという。」





●昭和天皇実録!!
権力側が情報を操作して「遅すぎた聖断」の弁明をいくらしても、何にもならないのでは。
本当に真実の歴史を書こうとすれば、情報を全て公開し、第3者が書かなければならないと思う。
もちろんこの本には秘密部隊731については一言も書かれていないだろう?


昭和天皇の姿 浮き彫りに

「昭和天皇実録」公表 太平洋戦争終結への思いなど克明に
「人民を破局より救い、世界人類の幸福のために、ポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる」と記している。終戦を、自らの声で伝えた昭和天皇。

社説[昭和天皇実録]戦後史の理不尽を正せ
沖縄に関係する記述の中で注目されるのは「天皇メッセージ」について触れている点だ。
1947年9月19日、昭和天皇と面会した宮内庁の寺崎英成御用掛は、その日に連合国軍総司令部(GHQ)のシーボルト外交局長を訪ね、米国による沖縄占領について天皇の意向を伝えた。シーボルトは翌20日、その内容を文書でマッカーサー最高司令官に報告した。これが「天皇メッセージ」と呼ばれているものである。・・・・
実録で昭和天皇の生の言葉が紹介されているわけではなく、新事実が盛り込まれているわけでもないが、シーボルトの報告書が存在することを正式に認め、その内容を引用したということは、大きな意味を持つ。

昭和天皇実録 資料公開に注目
近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「天皇に関する資料は公益性が高く、内部資料であっても公開し、記述の検証や今後の研究に使えるようにすべきだ。日記など個人の資料も所有者の理解を得たうえで、なるべく早く公開してもらいたい」と話しています。

日本は自国の歴史を書く事が出来るか
「昭和天皇実録」が公開された。全61巻1万2千ページに及ぶ昭和天皇の記録である。実録を見た専門家の話によると、これまでの歴史観を覆すような新事実はないが、終戦直前まで戦勝を祈願していた事が明らかにされる一方、戦後に天皇が側近に戦争について語った「拝聴録」が行方不明とされ、詳しい内容が盛り込まれていないなどの問題があるようだ。
宮内庁は侍従日記などを「私的文書」として扱い、公開に消極的な姿勢を見せているが、実録を作成する基になった資料をできる限り公開しなければ、日本人は自分の頭で自らの国の姿を理解する事が出来なくなると思う。


誠実かつ率直に過去と向かい合うこと・・。 あなたはそれ相応の努力をしてますか?
万世一系とは嘘ではないか?明治・大正といろいろとまずいことがあった?

The Great Dictator- Globe Scene


こっちこそ、『昭和天皇実録』ではないのか?
驚いた!!万世一系は嘘!? え!昭和天皇の父親は大正天皇ではなく、西園寺八郎?

西園寺八郎
毛利元徳の八男。毛利元徳は毛利敬親の養子で公爵。宮内官として主馬頭・宮内省式部次長まで進んだ。
1906(M39)西園寺公望(同墓)の娘の新と結婚し、西園寺家の婿養子となった。翌年、公望が講和大使として渡仏した際に妻と共に随行した。 1921(T10)春、当時皇太子殿下だった昭和天皇が訪英の際、小栗孝三郎海軍中将、高畑誠一らと同行した。この時、プロゴルフの試合を初めて観戦した。1928(S3)12月28日勲一等瑞宝章。 1940(S15)政治界の元老で公爵の西園寺公望が没したため、公爵を継承し西園寺家を継いだ。1940~1946(S15.12~S21.4)公爵として貴族院議員。 八郎の長男は政治家の西園寺公一、三男の貴族院議員を務めた西園寺不二男(同墓)がいる。

西園寺家の墓(2014.9.24撮影 多磨霊園8区 1種 1側 16番)
・多磨霊園が発行した「著名人墓所」の中には、西園寺八郎が見当たらないが、インターネットにはきちんと出ている(闇の世界では相当に有名な人物ではないのか?)!!
西園寺八郎


・侍従・侍従長などには定年がないのか?皇室にはいろいろな疑惑がわく!!
入江相政

昭和天皇の出生の疑惑

昭和天皇ヒロヒトの父親は西園寺 八郎、朱貞明皇后咬合との子堕った、昭和の醜卑喰ら卑闇

渡辺監督が語る最新作『天皇伝説』の過激な内容とは!?

山口県田布施町の怪③ 明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない

(参考)
【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭

国民は赤紙一枚で召集され、戦地でリンチを受けながら軍隊教育をされ、人殺しを命じられ、果ては敵に殺され、時には味方によって殺され、または病死したり、餓死したり(全て「名誉の戦死」として片付けられる)惨憺たる状況に置かれたが、軍の上層部、東条や岸などの満洲を取り仕切った連中はアヘンなどでぼろ儲けをし、天皇は戦争で「マネーゲーム」をしていた?
731の建設もアヘンの取引(満業)のお金で作られたのか?
戦後の731のデータの取引も天皇とマッカーサーの間で極秘裏に多額の金が動いたのではないか?
細菌戦部隊731

大連衛生研究所:目黒正彦さんの証言(1:03過ぎ)
23,4年頃、すごいよ。私の聞いている人は200万もらっているよ。すごくもらっている。それは大したものだ。その金はどっから出たのか私も知りたいのだけれども。そんな金どこにもあるはずがないはずだけれども、23.4年頃ね、実際のとこ。
石井さんがどっからその金を引き出してきたのか知らないけれども。
(インタビュアー)23,4年頃は、もうアメリカとの取引が終わって
その辺で、アメリカからポンと出たのかね?その辺はわかりません。
そう、みんなもらってますわ。ほとんど1人残らず。ん。
一番就職口もよかったと思うね。

どこでも入れたんと違いますかね。ほとんど大学の先生みたいな、みな元石井部隊にいた人が多かったですね。
特に上の方の、その当時の厚生省のワクチン、くらうち先生とかね。田宮先生もそうだけれども。みんな石井部隊に関係あったからね。多少でもほとんどの人が、石井部隊に足を突っ込んでいる人が多いんですよ。表向きは黙っていますけどね。みんな石井部隊から金を少しずつ嘱託でもらっているんですよ。そういう人がみんな日本の基礎を作ったでしょ。


『日本のいちばん醜い日』474ページより
満州国がアヘンの国であったことを示すデータの1つが細川護貞の『情報天皇に達せず』の中に出てくる。細川護貞は近衛文麿の秘書をしていた。近衛の娘婿、元首相細川護煕の実父である。1944年10月15日の「日記」である。

14日午前9時吉田茂氏の永田町の邸に行く。この日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏吉田氏等と共に深川に海の獵に行く。風強き為海産組合長佐野氏宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立ち寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼賛を為し居る由鳩山氏語り、一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、付け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例えば秩父高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシャル入りの万年筆等も交わりありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云いたる所、公はそれは支那に於いてそう云い居れり。、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。金も何かの会合で10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣いの荒きことを矢牧大佐ら語られたり。或いは多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子(堅太郎伯)家を問うての雑談中、故伯の病せまる頃日々100人前の寿司と、おびただしき菓子等を東条より届けたりと。鳩山氏は、「かくの如き有様なれば東条復活の危険多し」と云われたり。

1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2000万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億円とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。・・・・たとえ流言にしても、近衛文麿の言である。たんなる流言ではあるまい。・・・

同483頁
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英樹を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・“ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐(ふところ)に金を入れ込むかの競争をしていた・・・と細川護貞はあきれ返っているのだ。・・・



アヘンのことは瀋陽の裁判でも取り上げられている!!
瀋陽軍事裁判 「731榊原、満州国次長古海、皇帝溥儀等の証言、アヘン政策、三光作戦鈴木啓久 」


昭和天皇ヒロヒト&財界の為の戦争 アヘン事業 侵略ビジネス


明治以降 偽天皇家の実態 動画メモ

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭 、読書日記(海軍どころか外務省も最初から腐敗していたようです)

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論


福島県が標的にされた理由とは?

山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)


●終戦の詔勅
天皇裕仁は自分で決断し始めた戦争を終わらせるのに、天皇制にこだわり、多くの日本人に犠牲を強いた!!
「義は山獄よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ。」(軍人勅諭
我々の命は鴻(おおとり)の羽毛よりも軽い命だった!!
天皇は外国の軍隊より、国内の反乱を恐れていた!!

(原文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

(口語訳)(1)戦争の大義
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
天皇ヒロヒトが戦争を開始した、と見事に宣誓している文章である。誰が始めた戦争でもなかったのである。「アジアの安定」も偽りであることは、すでに書いた。朝鮮や中国の領土を侵略した。特に満州国の創立はアヘンによる「満業」であった。その満州国の維持費の半分以上はアヘン密売からの収入であった。

(原文)
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ

(口語訳)(2)原爆投下による終戦
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
私は大井篤の「手記」などを引用し、皇太后が6月中旬頃に原爆投下を知っていたことを書いた。8月6日午前8時15分の広島の原爆投下についても具体的に論じた。この詔勅の内容は欺瞞以外のなにものでもない。

(原文)
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

(口語訳) (3)人類永遠の真理と平和の実現
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
まことに勝手な文章である。天皇ヒロヒトが、国家予算(平成の今日においても)を上回る秘密資金をスイスの秘密口座に残していることは外国人の多くの学者たちが書いている。日本人はこのことを知らされないようになっている。まことに「朕」ヒロヒトが語るように、「今後我が国が受けるであろう苦難は筆舌に尽くし難い」ものとなったのである。
どうしてこんな天皇ヒロヒトが、「人類永遠の真理である平和の実現」をはかることができようか。結果は歴然たる事実である。日本は、アメリカと国際金融同盟の配下におかれたままである。



(原文)
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

(口語文) (4)かくて私は国体を護持した
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

鬼塚氏による解説(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
この中の「国体を護持し得たとともに」に注目したい。この終戦の詔書は、敗北宣言ではなく、「国体護持宣言書」なのである。この詔書の中のどこにも、日本は敗北したとは書いていない。まことに調子の良い文章に出来上がっている。
あの玉音放送は天皇ヒロヒトの発案である。・・・
かくて「鶴の一声」は全国津々浦々のみならず、海外にまで流れ、日本人は戦争の終わったことを知らされたのである。・・・・・
「天皇が日本を救った」という神話が戦後になって登場する。その神話を実現するために『日本のいちばん長い日』は創作され、映画化された。この本の欺瞞性を私は徹底的にあばいた。半藤一利に個人的な恨みなど少しも無い。そして、多くの神話が今日でも創作され続けている。私は「聖断」そのもの自体が虚構であると主張したい。天皇は国体護持のためにのみこだわり続け、戦争を長引かせたのである。戦争を長びかせたもう1つの理由を、私は天皇の財宝のスイスへの移しかえの中に見た。
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このロベール・ギランの物の考え方と松浦総三の考え方は、ほぼ一致する。
「天皇は日本の救世主であるばかりでなく、いかなる残虐行為にも反対する、人間文明の防衛者たらんと欲せられたからだ・・・・」の中に、私は、天皇とアメリカとの間にあったであろう密約を連想する。
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。
天皇とヨハンセン(吉田反戦)・グループは原爆投下の残虐行為を追及しないことによって、原爆を中心とする、米・ソの見せかけの冷戦に協力し続けたのである。それこそがロスチャイルドを中心とするユダヤ国際資本家たちが狙っていた戦略だった。原子力発電への傾斜もそのような戦略の中で推進されていった。


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この本の最後に徳富蘇峰の『徳富蘇峰終戦後日記―頑蘇夢日記』を引用して結びとする。

それからことに驚くべき事は、国体護持という一件である。実は国体護持という文句が、最近各新聞の第一面に、特筆大書せられているから、これは何かの魂胆であろうと考えさせられた。日本国民が、今日に於いて、改めて国体護持などという事を、仰々しく言い立つべき、必要もなければ、理由もない。しかるにかく藪(や ぶ)から棒に、繰り返し巻き返し、書き立てる事は、敗戦論者等が、何か仕組んだ筋書きであろうと睨んでいたが、果然その通りであった。即ち敗北論者は、トルーマンに向かって、彼らが日本に降伏を指定したる条件中には、日本主権者の位地については、何等関与する所なきものと、認めて差し支えなきやと、質問したところ、向うからその通りとの返事を得たとて、あたかも鬼の首を取ったる如く、これを天下に広告し、無条件降伏したればこそ、皇室の御安泰を維持する事が出来たという事を吹聴し、皇室の御安泰を保持する為には、何物を失うても差し支えないという剣幕で、彼等こそ日本国家の一大忠臣であると言わんばかりに、手柄顔に吹聴している。即ち連日新聞に掲げられている国体云々は、畢竟如上(ひっきょうじょうじょう)の筋書きによって出来たものである。(昭和20年8月19日午前双宣荘にて)【終】
※畢竟・・・結局。 如上・・・前に述べたとおり。



この写真はやらせか?


詳しくは下記のブログで!!
昭和20年8月15日の皇居前の写真は ' やらせ ' だった

第2次世界大戦の真実① 昭和20年8月15日宮城前ヤラセ事件


※(参考)木戸幸一が残した8月15日の手記
一面、一般国民は永年の圧迫感から解放せられたと云うのか、8月15日御放送のあった後、続々と宮城前広場に集まった群衆の中から万歳万歳と云う声がしばしば聞かれた。之を役所の事務室で聞いていると敗戦と云うのに何だか奇妙な感じを受け、之を以て見るも国民が絶望的な戦争に堪えきれず、如何に平和を望んでいたかが如実に示された様に思われた。

木戸幸一内大臣のこの観察日記の中に真実が書かれている。戦争を嫌っていた国民が皇居前広場に集い、「天皇陛下万歳」ではなく、ただ、「万歳!」「万歳!」と叫んだのである。


※原爆が非人間的というが、それならば重慶大爆撃、南京大虐殺、三光作戦、731部隊の生体解剖・細菌戦、慰安婦問題等はどうなんだ?当時の日本国民にはそれらの情報は隠蔽され(今でもそうだが)全く知らされていなかった!!
以下の映像に映っている顕微鏡を覗き込む裕仁の姿に、731のことにも相当詳しかったのではないかとの疑念が生じる!!
1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見


●天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた!!
1975年10月31日の天皇の記者会見
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」【「日本のいちばん醜い言葉」の一つ(鬼塚氏)】

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。・・・・・

(鬼塚氏のコメント)
これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、
平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

天皇陛下:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。


[天皇家の秘密]より
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5~10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)
 

(鬼塚氏のコメント)
私は「エ・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・エ・・・・」の中に、直感的に、天皇が8月6日午前8時15分の広島への原爆投下の件を知っていると思った。この考えに私は拘泥し続け、この考えの正しさを証明しようと追求し続けたのである。
・・・・・・・・
天皇はたった一度だけの原爆批判を、終戦の詔書の中でのみ赦(ゆる)された。しかし、天皇は死ぬまで一度も原爆投下の批判をしなかった。天皇と深く結び付いたヨハンセン(吉田反戦)・グループも同様であった。

(松浦総三の著書より)
裕仁理論=「終戦の詔書」によれば、アジア諸国に対する“侵略”も“防衛戦争”の一環となる。裕仁らはこの“理論”を盾にとって、南京大虐殺、シンガポール虐殺、重慶大爆撃、朝鮮人強制連行、慰安婦問題などを黙殺しようとするのだ。
そのような「防衛戦争」つまり“正義の戦争”も「敵は新に残虐なる爆弾を使用してしきり(頻)に無辜を殺傷す・・・・」というわけで原子爆弾によって「終戦」にせざるを得なくなる。この部分は、裕仁の『昭和天皇独白録』で「ソビエトはすでに満洲で火蓋を切った。これではどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ」と本音を言っていることと完全に矛盾する。
歴史的事実としては裕仁がポツダム宣言を受諾したのはソ連参戦によって、ソ連の発言権が強まれば国体・天皇制が危うくなるからである。原子爆弾を投下された8月6日や8月9日には、裕仁は「なるべく早く講和を」といっている。それが、「ソ連参戦」で即時御前会議が開かれるのだ。
というわけで、「正義の戦争」は終戦となる。では戦死者、戦災者、その遺族はどうなるのか。それを思うと朕は「五内為に裂く」とオーバーなことをいう。が、「時運のおもむくところ」「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」というのだ。「五内為に裂く」といっているが、その内容は、被爆者援護法や空襲の補償はしないぞ、ということであろう。


※昭和天皇は極秘ルートで、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦の情報を知っていた?
畑元帥高野広島県知事はなぜ無事で、第2総軍は畑元帥の指示で8月3日から広島市内に出動していたのだ!?

●広島原爆投下時の真相(『日本のいちばん醜い日』/鬼塚英昭著より)
畑俊六は8月6日の原爆投下のことを知っていた!!
この原爆で、第2総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。
8月6日朝8時頃に、多数の第2総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。有末精三は畑俊六元帥のことを書いている。

山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥(俊六、第12期、元侍従武官長、支那派遣軍総司令官)に敬意を表し、今夕、仁科博士等の到着を待って調査に着手する旨申告した。将軍は被爆当時日課として朝のお祈りで、神棚に向かっておられたため、幸いに被害はなかったとのことであった。

有末精三は「それぞれ頭や頸元や胸に包帯をしていた岡崎清三郎参謀長(中将、第26期)、真田穣一郎少将(参謀副長、第31期、前大本営陸軍部作戦部長)、井本熊男作戦主任参謀(大佐、第37期、後の陸将)、同参謀橋本正勝中佐(第45期、後の陸将)などが草の上に胡坐(あぐら)をかいたり横になったりして論議しているところへ挨拶否見舞に行った・・・・」と書いている。生き残った第2総軍のトップクラスも全員負傷して、草の上で胡坐をかいていたのである。
この日、間違いなく、第2総軍の全員は、8時頃に集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第2総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン(吉田反戦)・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、秘かに畑元帥と会談し、8月6日午前8時すぎころの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一外務次官は、この日の8時過ぎに、第2総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみる。この第2総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。・・・・
・・・・・・・・・・・
学徒を殺し、一般市民を殺し、第2総軍の軍人を殺し、木戸幸一は大井篤の尋問に答えている。

陛下や私があの原子爆弾によって得た感じは、待ちに待った終戦断行の好機をここに与えられたと云うのであった。特に皇室や上流階級にも身命の危険が及んで来たからではない。
※ウキペディアには 畑俊六は「昭和20年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。」と書いてある。真実を書いていないのではないか?
高野源進広島県知事は県下福山に出張中だった。

高野 源進(たかの げんしん、明治28年(1895年)3月15日 - 昭和44年(1969年)1月4日)は、日本の内務官僚、弁護士。官僚としては主として警察畑を歩き山梨県知事・警視総監などを歴任したが、特に原爆被災時の(官選)広島県知事を務めたことで知られる。
福島県北会津郡北会津村で農業を営む高野源八の長男として生まれる。
ヒロシマ壊滅 その時 知事は 高野源進氏の書簡見つかる 


畑 俊六(はた しゅんろく、明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。陸相在任中に戦陣訓も考案した。
終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。

父は旧会津藩士・畑能賢

これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。

※どんな因縁があるのか知らないが、ご両人とも福島県出身。会津藩は幕末には薩長にやられ、敗戦間際には天皇の命令により第2総軍の壊滅計画の役を買わされ、その後の原爆被害の対応、そして2011年には最悪のレベル7の福島原発事故!!
(畑は、南京大虐殺後の昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮している。)



(参考)
大木操の『大木日記』の8月7日を見ることにしよう。大木操は当時、衆議院書記官長であった。

8月7日(火)晴
10時半登院、間もなく警報、小型機空襲。
議長、副議長と雑談。
正午過ぎ、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を6日午前8時半頃投下。十数万の死傷の報、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて助かる。成層圏より落下傘にて投下、地上2,3百メートルにて爆裂、直径4キロ全滅全焼、エライことなり。
直ちに依光代議士は日政の幹部会にこれを伝える。一座愕然。

では、『広島県史(近代Ⅱ〕』の「原爆と敗戦」を見ることにする。

広島地区司令部の強い要望により、中国地区司令部の強い要請により、中国地方総監および広島県知事は8月3日から連日義勇隊約3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。

この2つの本を読んで、私は次のように推論する。 
8月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方総監を説得した。第2総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊3万人、学徒隊1万5千人を出動させよと命じた。畑はひそかに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で8月6日の朝8時15分を迎えた。第2総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
・・・・・
もう1度、米内海相の直話を記す。天皇も木戸も、この米内の話に賛意を示したのである。

私は言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めるということを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾出来るというのがむしろ幸いである。(「米内海相直話」昭和20年8月12日)

まさに、米内海相が語るがごとく、数十万の死者を出した原爆より、ソ連参戦で満洲で数十万の軍人や民間人が死んだことより、国内情勢の憂慮すべき事態が重要であると、天皇や米内たちは考えたのである。その1つが広島にある第2総軍であったというわけである。
その第2総軍は壊滅した。西日本の軍の反乱はこれによって鎮圧された。残るは関東一円となった。その中心の皇居を舞台に、偽装クーデターを起こしたというわけである。



●天皇はなぜ広島・長崎の原爆忌に参列しない?天皇と原爆は関係ない?
天皇批判した小川、謝罪も炎上
小川未菜は100%正しい! 「日本人は昔,天皇のせいで苦しみ、命がたくさん奪われた」


日本は戦争中、世界で初めての2発の原爆投下を、経験した。
これは、アメリカが莫大な費用をかけて開発したものだった。
アメリカは実戦の効果を知りたかった。

原爆の子
最初の原爆はドイツが作ったと言う説もある!!
スパイ ”ベラスコ” が見た広島原爆の正体 (高橋五郎)


日本が、本当に「自衛のための戦争」をしていたならば、敗戦後この非人道的な核兵器の被害を、国際社会に訴えることができたはずだ。
ところが、日本は戦争中、中国大陸において、驚くべき残虐な人体実験、細菌戦、毒ガス戦等を展開していた。アメリカは再三日本に「この非人道的な細菌戦、化学戦(毒ガス戦)はやめろ」とと警告を発していた。
日本は自国の戦争犯罪を隠すことに汲々として、アメリカとの取引をし、そして、原爆被害を世界に訴えることなく、全面的に核兵器の効果を調べるためのアメリカの調査に協力した。その結果、その調査によって被爆者は全く治療されなかった。
封印された原爆報告書


1997年の平和宣言で広島市長平岡敬氏は「アメリカの核の傘から日本は抜け出すべきだと政府に要求する」と唱えた。
すると橋本首相は平岡氏に歩み寄ってきた。
「あなたの気持ちはわかるけれども、そんなことはできない。あなたはアメリカの怖さを知らない」と言ったという。
やんばるの白ひげ ~核の傘の下で~(3)


私の想像:もしも日本政府が、アメリカの核戦略から抜け出し、この非人道的な核兵器の廃絶を世界に訴えたら、アメリカは「日本が中国で行った非人道的な人体実験、細菌戦、毒ガス戦、三光作戦等をばらすぞ!!」と脅しているのではないかと思う。そしたら今の天皇制はすっ飛んでしまうだろう。
追記:アメリカの怖さとはこれかな?
橋本龍太郎は、1986年7月22日、第3次中曽根内閣の運輸大臣に就任した。
このドラマの最初の方で事故調査報告書を受け取っている。
ボイスレコーダー  ジャンボ機墜落20年目の真実
米軍が墜落させた?それとも、自衛隊?
「御巣鷹山JAL123便墜落事件の真相について!」佐宗邦皇代表

ザ・エデン
【JAL123便撃墜事件の真相】
狙いは日本のOSトロンの技術者だった? 
中曽根康弘元首相のつぶやき
日本航空123便の墜落事故 29年目の真実(2014年)より
マスコミ・政府は真相を必死に隠す!!
『日航機墜落30回目の夏生存者が今明かす32分間の闘い』

【ワールドフォーラム代表・佐宗邦皇変死事件】
(参考)【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します

橋本首相は続けて言う。
「日米安全保障条約によって支えられている安全保障の仕組みがこの国にとって必要だ。」

私の解釈:だからお互いに過去の非人道的な過ちは隠しておいて、未来志向で、放射能の怖さや遺伝子組み換え操作の怖さにも触れず、日本はアメリカの核戦略・生物化学兵器開発(もちろん日本も密かにやっているのでは?)を危険と知りつつ、進んでいきましょう。そしたら、天皇制も安泰です!!(何時まで続くこの身分差別!!)
原爆を浴び、放射能の恐怖を体験したはずの日本が、原発を50余機持っている。そして文殊はじめ原発関連の施設の維持費は膨らむばかり。国家財政は破綻寸前!!(破綻しているのかな?)、若者の貧困化も深刻!!

・内部被曝を日本の司法は認めているが、日本政府は認めていない?
・日本の医療・教育で、本当に「人間を人間として見る医療・教育がされてきているのだろうか?」
※日本は、戦後東京裁判で731部隊の罪業が裁かれることなくきたために、教育界・医療界でも戦争の反省をすることなく進んでしまった。
その結果、歴史認識の問題や放射能の怖さについても、まともな研究が疎まれ、今の政治状況が生まれている。
広島・長崎で2発の原爆投下を受け、悲惨な状況を経験し、また福島であれだけの原発事故が起き、これまた悲惨な状況にあえいでいるにもかかわらず、原発再稼動に日本は突っ走ろうとしている!!なぜなのか?
日本では、「人間を人間として見る」教育などされていないのでは?
いつも権力者の言うことに慣れ親しんいる。


広島・長崎の被爆者はアメリカや天皇家・財閥から賠償金をもらったら!!
(高橋五郎氏の親族は、第五福竜丸に乗っていて、被曝したらしい)
「天皇のスパイ」 高橋五郎氏 ダイジェスト版 2009年8月


【1945 8/15】鬼塚英昭 日本のいちばん醜い日

太田龍が語る天皇の陰謀


二・二六事件 消された真実


旧陸軍士官が語った歴史の真実(2.26事件はヤラセ?)


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (7/14)


天皇の陰謀 はじめに


【オルタ】天皇の戦争責任(サムネは自称・明治天皇 大室寅之祐)

【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します...


●貧困問題
今、多くの若者が長労働、低賃金等、労働条件で悩んでいる!!
宿泊所家賃、生活保護上限近くに=「貧困ビジネス」裏付け―厚労省調査

大学など中退約8万人 経済的理由が最多

喪失感と自責、そして経済苦 自殺で親を亡くした若者たち

デフレは、若者世代への「経済的虐待」である

女子大生兼風俗嬢が増えている理由――『日本の風俗嬢』

アイドルになりたい少女や「関係性の貧困」で孤立する女子高生につけ込むJKビジネス=売春目的の人身売買

子どもたちの“夢を開く扉”が閉じかけている・・(´・ω・`)” 美しい日本 ” の 醜い現実

皇族と国民の間に大きな身分差別が存在する!!(当たり前?)
典子さまへご結婚後に1億675万円 皇室経済会議で一時金決定

典子さんと千家さんの結婚披露宴、280人出席

戦前の天皇家の資産が凄い

●昭和天皇の戦争指導
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戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)

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