2014年1月10日金曜日

南京!南京!南京!!


秘密保護法撤廃!!撤廃!!撤廃!!

自民党の本音が出た!!過去の戦争の反省全くなし!!平和より軍事?
自民方針案「靖国参拝受け継ぐ」明記 「平和国家」削除

細川元首相、都知事選候補に浮上 「脱原発」争点に

極右な放射能音痴が出てきた! 都民の方は良~く考えて投票に行ってください


731部隊から福島へ?
12 22 小出裕章氏&広瀬隆氏 講演会 @豊島公会堂



安倍首相の「積極的平和主義」とは、安倍首相の行動を見ていると、「先の戦争は、侵略戦争ではなく、アジアを解放するための戦争であった!日本人は、天皇のために命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げ、自信を持って、軍事力を強化し、紛争を外交ではなく力で解決しよう!」と言っているように見える。


積極的平和主義って何?

首相「批判されても責任果たすべき」 靖国参拝巡り

改めて、昭和天皇と皇族方の戦争責任を問う!!
戦前・戦中と天皇は現人神であった。(今もそうかもしれない?)
誰が天皇に逆らえるのか?天皇は、先頭に立って、戦争を指導した!!



その一方、東条は木戸や他の天皇教徒たちに説得され続け、ついに歴史の真実を封印する決心をするに至った。かくして、東条は「天皇を欺して」戦争の指揮を執ったのだということになった。
あの戦争は、「朕の戦争」ではなく、「東条の戦争」ということになった。多くの日本人が赤紙1枚で戦場に行ったのは、天皇のためではなかったという、世にも不思議な物語の誕生であった。後にウェッブ裁判官は当時を回想し、マッカッサーと天皇の第1回会談について、こう語っている。
「支配者は侵略戦争を開始した責任を転嫁することはできない。生命の危機からそうせざるを得なかったと釈明することは許されない」
私は思うのである。何人があの戦争に反対しえたであろう。何人が天皇が平和を唱えたら暗殺しえたであろう。何人が平和を訴える天皇を精神病院に送りえたであろう。東条が東京裁判で言った言葉は重たかったのである。
「我々は陛下のご意志に逆らうことはありえない」
『天皇のロザリオ』 上巻:鬼塚英昭著より



新藤大臣の靖国参拝 中国反発「強烈な抗議」

靖国神社って何? - 池田 信夫

靖国神社とA級戦犯の合祀

日本政府は、あの侵略戦争を反省し、戦争で亡くなった全ての犠牲者の慰霊碑を建立せよ!!

なぜ、侵略戦争を否定し、“自衛のための戦争”と主張する靖国へ安倍首相は参拝する?

なぜ、侵略戦争を遂行した軍人を神に祀る神社に安倍首相は参拝する?


安倍晋三のおじいさんの岸信介は、満州国の役人だったとき、果たしてどんな仕事をしたか安倍首相は國民に説明せよ!!

岸信介・東条英機は、満州にいた時代、天皇の命を受けて、731部隊の設立・認可に関与していませんでしたか?

安倍、生体実験部隊の名前‘731’が書かれた飛行機に乗りサムズアップ


安倍首相は、北朝鮮の拉致問題には熱心ですが、お祖父さんがやった拉致問題については全く無視していますね!!

中国人強制連行問題!!

安倍首相の祖父岸信介が法案をつくり、政府は1942年「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定した。

内閣総理大臣東條英機(最前列中央)ら東條内閣の閣僚と岸(前から2列目左から2人目)「ウィキペディア」より

この「強制連行」を策定した岸信介(当時、商工大臣、A級戦犯)は戦後首相になったが、この国の意識レベルを示している。


中国人強制連行1




昭和天皇ヒロヒト&財界の為の戦争 アヘン事業 侵略ビジネス
日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた



中国の若者の歴史観(ABC企画ニュース87号より)




(転載)
『万人坑を訪ねる 満州国の万人坑と中国人強制連行』 著者:青木茂

新著『万人坑を訪ねる/満州国の万人坑と中国人強制連行』が12月10日付で緑風出版から発売されました。
この新著に、中国東北地方(かつての「満州国」)を訪ねて歩いた4回の訪中記と、万人坑(人捨て場)が明らかにする中国に対する日本の侵略犯罪の全体像を示すまとめの一文を収録しています。
その中で、「満州国」全体で1640万人の中国人が強制連行・強制労働を強いられ、死亡率が8割とか9割にもなる強制労働現場がたくさん存在していたことを紹介しています。
本書に訪問記を収録している万人坑を下記のホームページで紹介しています。ぜひ御覧ください。

http://www.ac.auone-net.jp/~miyosi/index.html

政府は、日中戦争の資料(731部隊、南京大虐殺、重慶爆撃等)を国民の前にすべて開示せよ!!

日中戦争から帰還した兵士に、軍は「銃後ニ答フ」を配布し、戦争での残虐な場面を語ることを禁じた!!
続『隠された聯隊史』下里正樹著:青木書店より




12月17日、南京入城式
果たして、この裏で一体何があったんだ?
4 days after the Fall of Nanking (Dec. 17, 1937)  南京城入城式


The Nanking Massacre


南京大虐殺76周年、現地平和集会に5000人 日本の団体も「大罪忘れるな」―中国メディア

XINHUA.JP 12月13日(金)18時36分配信


中国江蘇省南京市の南京大虐殺記念館が13日午前から南京大虐殺76周年を記念する平和集会を開催し、約5000人が参加した。日本からは真宗大谷派やJR東日本の労働組合などの訪中団が集会に出席。「日本の侵略が南京に残した大罪を忘れてはならない」と訴えた。中国新聞網が13日伝えた。

極東国際軍事裁判では南京大虐殺の犠牲者を20万人と推定し、この数には日本軍が長江に投げ捨てたり、焼いたりした遺体の数は含まれないとされる。

この日の集会の参加した真宗大谷派のある僧侶は取材に対して、「日本の右翼勢力が歴史を歪曲する行為は非常に恐ろしい。政治家や外交官にはそれぞれの交流の形があるが、日本の一般市民も中国の人々と理解を深め合うため、より多く交流し、ともに平和を守っていくことが必要だ」と訴えた。(編集翻訳 恩田有紀)


日本人の大虐殺に対する考え方とは―中国メディア

2013年12月13日、財訊は「南京大虐殺から76年、日本人の大虐殺に対する態度」と題する記事を掲載した。以下はその概要。

「南京大虐殺」から76年、日本政府は時にあいまいな返答をし、時にその存在を認めることを拒んできた。1937年に南京で大虐殺が発生した当時、圧倒的多数の日本人はその存在を知らず、1945年の東京裁判の時に初めて知る人がほとんどだった。事件が発生したとき、中国政府が発表した情報は、日本軍第6師団が23万人を殺害、16師団が14万人を殺害、その他の部隊が6万人を殺害し、合計で43万人の犠牲者が出たというものだった。南京大虐殺に関する審理の際、傍聴に訪れた日本人が2000人以上にのぼったことは、人々のこの事件に対する関心の高さを示している。

東京裁判の後、南京大虐殺は日本で次第に忘れ去られていったが、1970年代、日本社会は再び南京大虐殺を見直し始め、多くの日本人が南京大虐殺を認知した。朝日新聞の記者・本多勝一氏は日本軍の侵略戦争を調査するため中国にわたり、朝日新聞の紙面で10度にわたって南京を取り上げた。

また、早稲田大学の洞富雄教授を始めとする一部の人々が1984年に「南京事件調査研究会」を組織し、南京大虐殺を否定する思想に反対するために具体的な調査を開始した。洞教授を代表とする人々は「大虐殺派」と呼ばれ、大虐殺を否定する人々は「幻想派」と呼ばれた。その後、議論に加わる人はますます増えていった。それぞれが主張する被害者の人数は異なり、一部はその存在自体を否定した。

1990年代、与党自民党の政治家でこの論争に加わる者は少なかった。初めて公の場で南京大虐殺を否定したのは、羽田孜内閣の永野茂門法務大臣だったが、永野氏はこのことが原因で、就任わずか11日で辞職に追い込まれた。この後、現職の大臣がこの種の発言をすることはなくなった。しかし、大臣を退いた後は違った。例をあげれば、運輸大臣、通産大臣、経産大臣などを歴任した平沼赳夫氏は、2008年からたびたび南京大虐殺を否定している。

日本社会の主流は、南京大虐殺の発生を認めるというもので、多くの小中学校で使用されている教科書には関係する記述があるが、被害者の数については相変わらず見解が分かれている。しかし、被害者の数がどうであれ、中国国民に巨大な損害を与えたことには変わりがないのである。(翻訳・編集/北田)


「南京大虐殺辞典」出版を計画 中国の記念館館長ら、来年6月に上巻

日本兵が記録した南京大虐殺1



【1945 8/15】鬼塚英昭 日本のいちばん醜い日

太田龍が語る天皇の陰謀


二・二六事件 消された真実


旧陸軍士官が語った歴史の真実(2.26事件はヤラセ?)


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (7/14)


天皇の陰謀 はじめに


【オルタ】天皇の戦争責任(サムネは自称・明治天皇 大室寅之祐)

【天皇は偽物】現皇室の秘密を暴くと、早死します...



日本は過去にどんな戦争をしたんだ!!
日本政府は、情報を秘密にするのではなく、公開し、あの戦争がどんな戦争であったかを明らかにせよ!!

あの戦争では、文学者も総動員され、戦意高揚の小説を書かされた。もちろん、検閲があり、残虐なシーンなどは削除された!!
医学者?は細菌兵器の開発のために、残虐な人体実験や野外実験が繰り返され、開発された細菌兵器を実戦に使った!!

秘密保護法が施行されると、国家に都合が悪い情報は、秘密指定にされる。日中戦争の実相を示す情報は秘密にされるだろう。それを、探ろうとするものは逮捕されることにもなりかねない。
戦前・戦中、言論統制がなされ、表現の自由が極端に制限された!!
日中戦争で、南京攻略戦をリアルに描いた石川達三の「生きている兵隊」は発禁処分にされ、彼自身、禁固4ヶ月、執行猶予3年の判決を受けた。
戦争中、政府・軍部は、皇軍にまずい情報(現地徴発という略奪、残虐なシーン、強姦など)を徹底的に検閲し、戦争の実態を国民に知らせようとしなかった。
火野葦平は、戦中の従軍して書いた戦意高揚の小説を、戦後10年近くかけて反省し、自殺した!!
今までも、日本政府は南京大虐殺や731部隊の資料を隠し続け、中国で日本軍が何をやったかを明らかにしていない!!
そして、資料を隠しておきながら、南京虐殺や731部隊の史実を否定する情報を、野放図にしている!!
安倍自民は、誤った歴史認識を公然と語り、中国や韓国等からひんしゅくをかっている。
この法律が成立すると、今まで以上に日本の蛮行が隠されてしまう!!
以前には、自民党や公明党の中には、健全に戦争の反省をする勢力があったが、今はこれらの勢力はどうなったのか?
どうしたんだ!!日本!!





●脱原発
福島県民は、放射能汚染を恐れている!!
なぜ、福島の大惨事があったにも関わらず、政府は原発を電力の基幹にしようとするのだ?
海洋汚染、大気の放射能汚染で東京オリンピックどころではないのでは?

小出裕章ジャーナル

プルトニウム元年・Ⅲ 隠される被ばく ヒロシマは

米国の核施設 ハンフォード他

12 22 小出裕章氏&広瀬隆氏 講演会 @豊島公会堂

広瀬隆講演会「リニア新幹線と原発」前編

本当はやってはいけなかったのです 小出裕章先生

タイマーズ サマータイムブルース 直ちに健康に影響は


「はだしのゲン」は被曝後の広島をリアルに描いている!!
小野俊一第2回院内勉強会放射能と内部被曝2012 4 26

小野俊一第6回院内勉強会フクシマの真実と内部被曝2012 10 11

プルトニウムを飲ませたい人たち!!
奈良林直、中川恵一、大橋弘忠プルトニウムはそんなに危険ではありません

原子力はなぜか金で動いている?
斑目春樹と小出裕章

ドイツZDF フクシマの嘘 (連結済み)29分23秒 



●731部隊の問題は戦後の医学界に大きな影を落としている!!
731部隊(アメリカとの取引き・戦犯免責の経緯、部隊員の証言等)


山下俊一のお師匠さん、
重松逸造も、戦中の医学界の流れを引き継いだ!!
重松逸造とはどんな人物?
プルトニウム元年 第3作 1993年8月放送 3/5


被曝をめぐる御用学者の系譜より
ところで、この重松逸造とはいったいどんな人物なのでしょうか。
重松が戦時中何をしていたのかは不明ですが、戦後は公衆衛生院の一員であると同時に、広島長崎の原爆被害について米国が作った原爆障害委員会(以下、ABCC)のスタッフでした。このABCCが解散した後、1975年に予防衛生研究所との再編でできたのが放射線影響研究所(放影研)。広島の日赤病院の一角にあり、被曝者を調べるだけで治してくれない処と地元では云われてきたそうです。それもそのはず、ABCCとは原爆を落とした米国が、原爆による被害をチェックするために作った機関であり、被曝に苦しむ人たちを救おうという研究機関ではありませんでした。そして、非被曝群ではなく低被曝群を比較対照とすることで、被曝被害を過小評価してきました。重松は放影研の理事長などを務め、実質的に放影研を牛耳ってきた人物です。

重松は被曝被害を過小評価しただけではありませんでした。日本で公害問題が深刻になり、水俣病をはじめいろいろな公害病が話題になった時にも名前が登場します。イタイイタイ病では公害認定がなされた後の1976年になって三井金属や自民党等が原因のカドミウムを否定する動きを見せ、それを受けてWHOにカドミウムの見直しを提起した学者の1人が重松でした。また、スモン病の時には厚生省の調査班班長となり、後日原因物質として認定されることになるキノホルムを原因としませんでした。つまり、キノホルムによる薬害を認めず、製薬企業や国を利する報告を行ったのです。詳しくは広河隆一さんの『チェルノブイリから広島へ』(岩波 1995)に書かれています(この本は絶版みたいなので最近出た新版らしきものを横に紹介しておきます)。

また、重松は、成人T細胞性白血病(ATL)の原因ウイルスの母子感染について、厚生省研究班の班長として1990年度に「全国一律の検査や対策は必要ない」との報告をまとめ、感染者の全国拡大を招きました。これは、国の対策が遅れたことによる被害という側面をもたらしました。これに関して重松は、今年1月の新聞インタビューで「私は、いわば雇われマダム的な班長だった・・・」と白状しています(雇われマダムに失礼な発言だ!)。

御用学者はその名の通り、国や企業の便宜を図るような話をしたり論文を書いたりするため、研究費等のお金がたっぷり貰えます。お金のある研究室の回りには研究者もたくさん集まるため、御用学者は集団化し大きな勢力となります。お金と人を握れば学会などを支配できますので影響力が増し、発言権も大きくなっていきます。これが(醜悪な)世の習い。

一方、権力側に都合悪い話でも正しいことを堂々と主張する研究者もいます。でもごくごく少数です。そして、このような立派な研究者にはお金が回ってきません。学会からも遠ざけられます。こういう状況を知っている大多数の研究者たちは、発言を慎みささやかに生きていくか、御用学者化するか、どちらかに流れていきます。その結果が今日の東電福島原発を取り巻く状況だと思っていいでしょう。だから、権威筋の話しか信じない・信じられないという一般人は、今回のような事故の時には完全にマヤカサれてしまいます(きっぱり)。

ということで、重松逸造にはたくさんの弟子がいます。最近メディアに出てくる長瀧重信(長崎大、元放影研理事長)は先のチェルノブイリ原発事故調査の時にも重松といっしょにシゴトをしています。広島大原医研の神谷研二。長崎大の山下俊一も、重松や長瀧らとチェルノブイリ原発事故の調査を行っており、その資金源は右翼笹川系の笹川チェルノブイリ医療協力(日本財団)でした。原爆と原発と戦後右翼を繋ぐ禍々しいリンクが垣間見えてきます。最近、山下の代わりに露出気味の高村昇というのは長崎大での山下の弟子になりますね。その他の有象無象の「御用学者」はネットで調べれば簡単にわかります。

重松、長瀧、神谷、山下、高村、・・・・彼らは、放射線の被曝影響を小さく見せるための御用学者です。それ以外にも、地震の影響を過小評価して原発の立地にゴーサインを出す地震学者、原発関連だけでも御用学者はたくさんいます。フランスのペルラン裁判と同様、彼らの犯罪は後できっちりオトシマエをつけなければなりませんね。

(参考)今中哲二編「チェルノブイリ事故による放射能災害」(国際共同研究報告書)(技術と人間 1998)



重松逸造、肺炎で死去:報道まとめ

重松逸造の訃報に接して 肝心なことは、何も語らずに逃げるように逝った貴方


山下俊一トンデモ発言




11月13日
「いま明らかになるハバロフスク裁判の全容」
いま明らかになるハバロフスク裁判の全容 1

いま明らかになるハバロフスク裁判の全容2



いま明らかななるハバロフスク裁判3

参考に)
731部隊の人体実験のレポート見つかる(NHKニュース)

731細菌戦部隊 1(前編:プライム10)

731細菌戦部隊 2(前編:プライム10)

731細菌戦部隊 3(前編、後編、プライム10)


731細菌戦部隊 4(後編、プライム10)

731細菌戦部隊 5(後編、プライム10)

特定秘密保護法安を断固阻止するために

中国の細菌戦調査について・731部隊の情報を公開せよ!!・

●731部隊
731部隊の罪業をアメリカは免責しても、世界の眼はごまかせない!!


日中友好新聞11月15日

韓国初の731部隊展入場者30万?40万?


韓国初の731部隊展のリーフレット

韓国人驚きと衝撃!!
「731部隊細菌戦特別展」開催、旧日本軍の中国侵略の歴史を再現―韓国

おりしも、ソウル大学で人骨発見!!
工事現場から50人分の人骨、日本統治時代の解剖用か

ソウル恵化警察署は、先月18日にソウル大学医学部の融合医学生命教育研究館の新築工事現場で、人体の頭蓋骨や肋骨(ろっこつ)、バラバラになった骨のかけらなどが大量に見つかったとして、捜査に乗り出した、と6日発表した。警察は、頭蓋骨や肋骨の数などを基に、見つかった骨はおよそ50人分に相当すると推定している。

警察は、2008年に大量の人骨が発見された建物の解体現場と、今回人骨が発見された現場が隣接している点などから、今回発見された人骨も、日本統治時代に病院で解剖に用いた後、土に埋めたものである可能性が高いとみている。

一方、警察から連絡を受け出動した国防部(省に相当)の遺骸発掘鑑識団は「6・25戦争(朝鮮戦争)当時に死亡した軍人の遺骨だという証拠がない」として、撤収したという。

崔燕真(チェ・ヨンジン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版


軍医学校跡地で発見された
人骨問題を究明する会



731部隊が人体実験や細菌戦を行ったことは明らかである!!
日本政府は、速やかに情報を公開せよ!!

【七三一部隊展2013実行委員会より】
(最新の資料を元に新たにパネルを作成しました!!)         








七三一部隊展2013実行委員会
E-mail exhibition731@yahoo.co.jp
http://ameblo.jp/supportvictim731/

●開催予定
2014年3月24(月)~3月30日(日)八王子にて
4月3日(木)~4月7日(月)武蔵野市にて

2013年「731部隊パネル展」より

パネル集1993年「731部隊展」



IMAGINE 9
01
想像してごらん、
軍隊のお金をみんなの
暮らしのために使う世界を。

Imagine,
A world that spends money
not on armies,
but on people's lives.

文 星川淳、河崎哲 合同出版より

●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!

ウィルソン

手紙(日記)の抄訳
(1937年12月15日~1938年1月9日)
12月21日、火曜日
おととい五台山で、妊娠6ヶ月半の19歳の若い子が、日本兵2人に強姦されるのに抵抗しようとした。顔の周りを18ヶ所斬られ、脚を数ヶ所斬られて、腹部に一ヶ所深手を負った。けさ病院で胎児の心音が聞こえず、多分流産するだろう。(翌朝:ゆうべ真夜中に流産した。人口流産だ)。
 きのう昼ご飯時に、ぼくたちのところから何軒か先に住んでいる、中国人修理工何人かが、自分たちのところで、若い婦女が2人危ないんだが、どうしたらいいかと、聞きにきた。金陵大学では憲兵が宿直するようになったから、そこへ連れて行くようにと勧め、ぼくたちの車で連れて行ってあげてもいいと言った。フィッチとぼくとで昼食後そこへ行こうと、出かけようとしているところに、彼らがまた飛び込んできて、日本兵らがもう来ていると言う。急いでそこへ行き、スマイスとマッカラムもいっしょに行った。




水俣病
一時は、「奇病」などと呼ばれていた。
水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。
苦しんでいる人は、今もいる!!

もし、戦後日本学術会議や日本医学界が731部隊の反省をきちんとし、人間を「マルタ」としてみるのではなく、「人」としてみる、すなわち患者側にたって、医療をすすめていれば、水俣病の拡大は防げたのでは?
政治家・経済界は目先の経済優先の戦後復興に血眼になった。医療は、企業側・国側に相変わらず加担してしまった。


戦争を反省しない学者たち!!
・1949年1月22日、上野公園内の古めかしい青色の建物のホールで1人の男が何事か叫んでいた。
「国が戦争に突っ込んでしまったら、われわれ科学者はですね、国のために協力して、これに尽くすというのは当然じゃないでしょうか?今ごろ、戦争中のことを持ち出して、戦争に科学者が協力したのを反省しろと言うが、そんなことでよいのだろうか?第1、戦争なんてもう過去のことじゃないか?憲法が戦争を放棄している以上、それはもう問題外のことではないか?将来の戦争のことを考えて、声明に戦争の反省などを書き加える必要はない。第7部会はこれに反対します」
集会は日本学術会議の第1回総会であった。立ち上がって叫んでいた男は、名古屋大学教授の久野寧(くのねい)であった。

・私は、この南極観測に731部隊員が登場したことについて、最近の取材で当時の学術会議会長であり、南極観測特別委員長でもあった茅誠司氏に意見をたずねたことがある。茅誠司氏はその時、私に電話でこう答えた。
「北野政次?その人がどんな人か知らない。私は記憶していない。しかしいま、反体制といわれる人でも、戦争中はずい分いろんなことをやっていますよ。戦争中のことはあんまり採り上げない方がよい。それに例え、それが関東軍の経験であっても、昔、南極観測を白瀬中尉がやったように、いまの学術に役に立つものなら取り上げてよいのではないでしょうか?」
【『日本医療の原罪』(人体実験と戦争責任)高杉晋吾著より】

水俣病(みなまたびょう)は、日本の化学工業会社であるチッソが海に流した廃液により引き起こされた公害病である。 世界的にも「ミナマタ」の名で知られ、水銀汚染による公害病の恐ろしさを世に知らしめた。なお、舞台となった水俣湾は環境庁の調査によって安全が確認され、現在では漁が行われている。(ウキペディアより)
※しかし、微量の有機水銀を含んだ魚を接種し続ける場合の健康被害は不明である。



水俣と福島の状況は酷似していませんか?
水俣病では工場が設置したサーキュレータが全く機能しなかった!
福島ではシルトフェンスは大丈夫なのか?
質問なるほドリ:シルトフェンスで汚染水を防げるの?=回答・鳥井真平
ミナマタからフクシマへ〜いま、いのちを問う〜(後半


水俣病は克服などしていない!!まだ多くの人が苦しんでいる!!






写真集『水俣』(W.ユージン・スミス、アイリーンM.スミス、中尾ハジメ訳 三一書房より)

江頭が会長だった1972年1月、千葉県のチッソ五井工場に交渉にやってきた患者や新聞記者たち約20名が暴力団員に襲われた。著名なカメラマンであるユージン・スミスはこのときに脊椎を折られ、片目失明の重傷を負っている。その件について、彼が謝罪することは決してなかった。

娘・優美子が外務省勤務の小和田恆に嫁いだ。恆と優美子の長女である雅子は平成5年(1993年)、皇太子徳仁親王と結婚し、皇太子妃となった。



水俣条約:外交会議 首相ビデオメッセージ 「水銀による被害とその克服を経た我々」 「苦しみ知らぬ」患者反発

「水俣条約」採択、首相発言に水俣病被害者ら反発


医学界はここでも水俣病の否定にはしった!!
水俣病では、田宮委員会が、水俣病をもみ消し走った。(宇井純)
昭和35年に入り、医学者は水俣病の発生は止んだと発表した。こうして患者は、以後10年まったく忘れ去られた!!
(20:40あたりから)福島原発事故を想起させる!
水俣病=その20年=


偉い学者(原田正純、宇井純、高木仁三郎、小出裕章など)は出世できない社会?(権力側が押さえつける構造)

宇井純氏は、なぜ万年助手だったの?

助手就任の1965年に新潟水俣病が発生し、実名での水俣病告発を開始したため東大での出世の道は閉ざされ、「万年助手」に据え置かれた



【訃報】<宇井純さん死去>「水俣病」などに大きな足跡
そうした中で自分の祖母が、足尾鉱毒事件で犠牲を被った旧谷中村の村民だったと知り「公害問題は自らに課せられた使命だ」と悟ったという。
東大に籍を置きながら「富田八郎(とんだやろう)」の筆名で水俣病問題の告発を続けた。その文章をまとめた資料集「水俣病」は水俣病患者支援運動のバイブルとなった。
チッソの付属病院長、故細川一氏がひそかに、ネコの実験で水俣病発症に成功したことをつかみ、明らかにしたのも宇井さんだった。水俣病研究で知られる宮沢信雄さん(70)は「宇井さんがいなければネコ実験は闇に葬られていた可能性がある。現場に何度も足を運び丹念に資料をまとめる手法、反権力の姿勢に多くを学んだ」と話す。


尊敬する学者・宇井純・水俣病
友人がすげえ学者として挙げたのは宇井純という人だ。なんでも水俣病のことを知って現地に赴き、こりゃあやばいぜってことで国に報告。しかし国が相手をしてくれず、でもなんとかしなきゃなんねえよと国連にその悲惨さを訴え、問題の解決に尽力した人なのだそうだ。ここまでで普通に良い話。

本気ですげえなと思わされたのは、宇井純が水俣病を追いかけ始めたのは、大学院時代だったということ。そんな時期にそんなことをするとどうなるか。出世の道が閉ざされるのである。結果、宇井純は教授どころか助教授にもなれず、助手の身分のまま齢を重ねることになった。最終的には沖縄大学が教授として迎えたのだが、それまでの助手暮らしは20年を超えた。水俣病を可視化するきっかけを作り、国際的な公害問題の権威とされながら、身分はずっと助手だった。

・・・・・・・
日本ゼオン勤務時代、塩化ビニール工場の製造工程で使用した水銀の廃棄に関わっていたことから、水俣病の有機水銀説に衝撃を受け、大学院生時代から水俣に足を運び、合化労連の機関紙に富田八郎(とんだやろう)のペンネームで連載した記事により、水俣病の問題を社会に知らしめる発端を作った。将来を嘱望されていたが、助手就任の1965年に新潟水俣病が発生し、実名での水俣病告発を開始したため東大での出世の道は閉ざされ、「万年助手」に据え置かれた。従来の科学技術者の多くが公害企業や行政側に立った「御用学者」の活動をしてきたと批判し、公害被害者の立場に立った視点を提唱し、新潟水俣病の民事訴訟では弁護補佐人として水俣病の解明に尽力するなどの活動を展開した。
宇井純 - Wikipedia

・・・・・
驚くのは水俣病の症例が現れたのは1942年からだと言うことだ(ウィキペディアの記述で知った。)。では宇井が問題にしなければ、宇井が国連まで巻き込まなかったら、これが惨劇であると、我々はいつ気付けたのだろうか。「当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。その事が現在も差別や風評被害につながっている。」ともウィキペディアにはある。呪いだ祟りだという前世系自己責任論やエセ科学で、いったい何年被害者に責任を押しつけていたのだろう。絶句せざるを得ない。

もうひとつ絶句するのは、水俣病の項目にも新潟水俣病の項目にも、宇井純の活動が記録されていないことだ*4。ウィキペディアを集合知として考えるなら、我々が出世ルートを放り出して不正と戦うことをどう評価しているかよくわかる例だと思う。

東大医学部の反論が原因特定の遅れを招いた!!
公式見解として、メチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月26日であった。これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そして、それに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった為である。なお、当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は単に有機水銀と表記されていることがある。(ウキペディアより)


医学は水俣病で何をしたか(抜粋)(ごんずい53号)

宇井純

集中砲火を浴びた熊大研究班


原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた一九五九年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。このため研究班の姿勢は防衛的、閉鎖的になり、患者の認定についても、批判をおそれて限定的、保守的になる。私が水俣病関係者を調べた結論としては、ほぼこの時期で医学の役割はマイナスに転化したようである。一九六〇年代に入ると、熊本大学の研究班の中でも、明らかに水俣病を厄介物あつかいする空気を見せる者があった。その中でごく少数の医師が、原田正純氏のように患者から学ぼうとする。熊本大学医学部研究班が、東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会に屈服し、チッソから金をもらって代表団をローマの国際神経学会に送ったのは一九六一年であり、六四年にそれまでの研究をまとめたいわゆる赤本(熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病-有機水銀中毒に関する研究-」・編集部注)が用意された段階では、水俣病を否定する医学界本流と熊大医学部の手打ち式は完了していたと見てよい。この赤本にはチッソから費用が出ていることが明記されている。水俣病は終わったとして新しい患者を出さないことも、意識的にとられた方針であろう。一九六三年当時、胎児性患者の認定は例外的なものであることがしきりに強調されていたのを覚えている。

この間医学界主流にあった東京大学医学部を中心として作られた田宮委員会は、水俣病つぶしの有力な手段であり、日本化学工業協会とチッソから研究費をもらっていたが、表に出ないもくろみは、米国の公衆衛生院(NIH)から熊大へ支給された三万ドルの研究費をねらったらしいことが、複数の関係者の証言で裏づけられる。もみ消しだけで十分犯罪的である上に、横取りまで考えていたとなるとおそろしい話である。ただ田宮委員会の副産物として、周辺で研究に従事していた椿助教授(六五年新潟大学神経内科教授に赴任・編集部注)が水虫薬によるメチル水銀中毒の症状を観察していて、それがのちに第二水俣病の診断に役立ったという事実があった。

日本医学会会頭、東大名誉教授田宮猛雄を委員長とし、公衆衛生学教授勝沼晴雄を幹事長とした田宮委員会と対立するということは、いわば日本医学界全体を敵とすることを意味する。こうして孤立した熊大医学部としては、水俣病の病像をすでに文献記載があって誰も文句のつけられないハンター・ラッセル症候群に限定しておくことが有利であった。新しい症状などをつけ加えたら、ますます学会から袋だたきにあうであろう。そのころ新しい症状であるイタイイタイ病に対して、カドミウムなどという新しい病原物質を提案した富山の荻野昇医師がどんなに学会でたたかれたか、それは一つの教訓であった。熊大医学部が防衛的姿勢をとるのには、そういう社会的な背景があった。

六〇年代前半、医学界主流からは攻撃され、厚生省からの研究費も断たれた熊大医学部がそれでも水俣病の研究をつづけられたのは、医局講座制という強固な閉鎖社会で外からの圧力をはね返したことと、ちょうどこの時期に旧制から新制への博士号取得制度の切り換えがあり、旧制での博士号を開業医が取得するには当時の相場では三〇万円の現金を出身教室におさめると、その金で実験研究をして博士論文を教室が用意してくれるという、いわば学位の売買がひそかに広く行われ、各研究室が自前の研究費を持っていたために研究がつづけられたのであった。つまり当時私たち若い世代の研究者が大学の旧弊として批判した講座制の閉鎖性がむしろプラスに作用したし、学位の売買など常識からいっても論外なことが水俣病の研究を支えたという皮肉なことが起こった。
-------------------
これが、熊本大学医学部における水俣病研究の実態だ。公害事件ということもあり、学位という視点では蛇足部分を多く掲載した。学位の記述は、引用部分の最終段落の「六〇年代前半、…、ちょうどこの時期に旧制から新制への博士号取得制度の切り換えがあり、旧制での博士号を開業医が取得するには当時の相場では三〇万円の現金を出身教室におさめると、その金で実験研究をして博士論文を教室が用意してくれるという、いわば学位の売買がひそかに広く行われ、各研究室が自前の研究費を持っていた」という部分である。戦後日本で、学位の売買が行われていたという事実である。


イタイイタイ病


水俣病と731部隊の影

田宮猛雄について
◆731部隊関連科学者たちの戦後
東京帝国大学にあって、731部隊のための人材スカウトの役目を果たしていた田宮猛雄博士は、1945(昭和20)年4月東大医学部長になった。そして後にリッケチアによる伝染病、かの有名なつつが虫病の研究で世界的名声を獲得する。彼はさらに日本国立ガンセンターの初代の所長になり、日本医師会の会長にもなった。
【『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)より】
◆京大閥「731部隊」、東大閥「同仁会」
そのころ、東京帝大伝染病研究所(伝研)は激動に見舞われていた。昭和20年9月2日、岡本啓氏(伝研2部)が自分の研究室でガス自殺をし、ついで、昭和20年9月16日、米軍が伝研を接収しようとしたが、これは田宮猛雄所長らの抵抗で阻止するなど大忙しであった。
北野(北野政次・・・731部隊2代目隊長)が東大伝研に現れたとき、最も北野を庇護したのがこの田宮猛雄伝研所長であった。田宮は日本医学界の大ボスで、多くの伝研所員を「徴兵逃れ」を餌に731部隊や同仁会に送り込んでいた。
731部隊の大ボスが京大閥の石井であるならば、当時の軍隊を頂点とする権力構造に、民間の側から医学的に奉仕したのが同仁会である。
【『731部隊細菌戦の医師を追え』(今も続く恐怖の人体実験)高杉晋吾著より】
◆水俣病と田宮猛雄
「原発はいますぐ廃止せよ」より転載
歴史は繰り返す  水俣病の有機水銀説を否定する「田宮委員会」御用学者たち
(3)日本化学工業協会の田宮委員会
見舞金契約の決着で年を越した昭和35(1960)年以降は、通産省の指導によりチッソは表立って有機水銀説に反論を出すことはなくなり、代わって、有機水銀説への反論・異論を唱える役割は日本化学工業協会(以下「日化協」という。)が担うことになった。
その場として日化協は「田宮委員会」を用意した。
チッソに代わって業界団体が水俣病問題に乗り出してきたことは、有機水銀説すなわち工場原因説による影響がチッソだけでなく国内の他の同種工場へ波及することを懸念したものと思われる。
昭和34(1959)年9 月には、既に大島日化協理事が爆薬説を主張していた。日化協は、同年12 月に水俣病問題に関連した排水対策のため、産業排水対策委員会の中に塩化ビニール酢酸特別委員会を設立した。
昭和35(1960)年4 月8 日、日化協は、酢酸特別委員会の付属機関として、田宮猛雄日本医学会会長を委員長に、錚々たるメンバーを集めて「水俣病研究懇談会」を設けた。
この会は委員長の名を取って「田宮委員会」と呼ばれ、日化協は、これを中立的、科学的見地からの水俣病への取り組みであると強調した。
[注釈]主なメンバーとしては、顧問に小林芳人東京大学名誉教授(薬理学)、沖中重雄東京大学医学部教授(内科学)、幹事に勝沼晴雄東京大学医学部教授(公衆衛生学)、委員に山本正東京大学伝染病研究所教授、斉藤守東京大学医学部助教授(病理学)、大八木義彦東京教育大学教授(分析化学)のほか、同月12 日の第2 回水俣病総合調査研究連絡協議会で「有毒アミン説」を発表した清浦雷作教授と戸木田菊次東邦大学教授(薬理学)らも加わった。
熊本大学医学部も参加を要請されたが、世良完介医学部長(法医学)はこれを断り、昭和36(1961)年に医学部長が忽那将愛教授(くつな・まさちか)(解剖学)に代わってから参加するようになった。

http://www.nimd.go.jp/syakai/webversion/pdfversion/houkokushopdf.html

原因についてはさまざまな説があり、いまだ確定していないという委員会の主張がそのままマスコミによって報道され、 有機水銀説を相対化させ、原因は未解決という印象を与えることになった。この点で、日化協の田宮委員会が水俣病の原因究明を後退させた影響は大きく、 新潟における第二水俣病の発生を許す一因にもなったと考えられている。
http://www.supercourse-japan.org/lecture/other/Minamata3/10.html

これは過去に現実に起こったこと、本当にあったことだよ、日本の医学界の代表、学会のトップの東京大学だよ、

みんな全員うそつきなんだよ。マスコミも連動してうそつきだよ。

今起こっている福島原発問題、子供たちの被曝線量の安全安心のうそ発表を、これでもまだあなたは、信じるの?

資金をかき集めて、東京に避難しろ、東電に行って補償金をふんだくれ、金が出来たらさらに遠方に疎開しろ、それからゆっくり今後の仕事や学校のことをのんびり考えろ、人生は長い慌てることはない、ただ子供の健康にだけ気をつけろ、まだ子供を作る気なら、自分の健康も注意しろ、私からは以上だ。(以上転載)


水俣病では、海洋汚染のメチル水銀によって人々は神経細胞が冒された!1942年には水俣病の患者はいた!!

国も期待していたのでは?
1931年、水俣工場を昭和天皇が臨幸(11月16日)
昭和天皇は、チッソ水俣工場を昭和六年と昭和24年に訪問あそばされました。孫はチッソの経営者の孫娘と結婚しました。
チッソは、戦前国策会社の一つだった。

当時、チッソは有数の化学工業の企業として水俣で操業していた。戦前は、国策会社のひとつとして発展し、水俣駅から工場まで赤絨毯を敷いて昭和天皇を迎えたこともあったという。
水俣駅の真正面に工場が広がり、水俣がチッソの企業城下町であったことを、今でもうかがい知ることができる。高度成長当時は、塩化ビニールをつくるときに必要な可塑剤は独占状態で生産していたとか。現在でも、世界で使われている液晶の半分をつくっているとも聞いた。
チッソ水俣工場は、今でも、水俣市の経済を支えている企業であることにかわりはない。

江頭 豊(えがしら ゆたか、明治41年(1908年)1月16日 - 平成18年(2006年)9月24日)は、日本の実業家。チッソ株式会社の社長(1964年12月 - 1971年7月)として水俣病問題の対応にあたった。皇太子徳仁親王妃雅子の母方の祖父。学位は法学士(東京帝国大学)。


水俣病の犠牲と雅子さま

二 日本窒素肥料株式会社(1)【扇に日の丸】
ドキュメント水俣病事件1873-1995


水俣病を引き起こしたチッソと皇太子妃雅子様は、いったいどのような関係があるの...

「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったこと」-原田正純先生をしのぶ


・・・・・・・・・・
見舞客を笑顔で迎え、亡くなる2週間には、原田先生が胎児性水俣病患者に深くかかわるきかっけとなった人物・金子スミ子さん(81)との面会も実現し、感謝の気持ちを伝えたそうだ。スミ子さんとの出会いは60年代の水俣にさかのぼる。

ある日、原田先生は、縁側で遊んでいる兄弟の症状が全く同じことにきづき、母親のスミ子さんに、二人とも水俣病なのかと聞いた。すると「お兄ちゃんは水俣病だけど、弟は違う」という。

どうしてかたずねると、「先生たちがそういっているじゃないですか」といわれた。兄のほうは魚を食べて発病したから水俣病だが、弟のほうは生まれたときから病状があったから水俣病ではないという。

母親は続けて、「先生たちは魚を食べないと水俣病にならないといっているけど、私はそう思っていない」というのだ。夫も長男も発病し、同じものを食べていた自分がうんだ下の子は、うまれながらに障害をもっている。自分に症状がみられないのは、体内の水銀がおなかの子どもにいったのではないかと。

当時の医学では、「胎盤は毒物をとおさない」が定説だったが、原田先生はスミ子さんの言葉を聞き流さなかった。このことは後に、国に胎児性水俣病患者を認めさせることにつながった。


水俣病と生きる1-6 医師・原田正純の50年 ドキュメンタリー番組


水俣病患者が自らの悩みを語る!!
水俣病と生きる2-6 医師・原田正純の50年 ドキュメンタリー番組




では、福島で現在起こっている大気・土壌・海洋汚染で引き起こされる放射能被害はどの様になるのだろうか?計り知れない!!
水俣病ビデオQ&A(1996年)



高杉晋吾「731・チッソ・原発」を語る!!
20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発


原発と医療
・・・・・・・・・・・
中部電力自身が出した資料で、被曝した人々の状況について中部電力が調査した。そうすると、正社員の被曝した数の28.5倍、これが非正社員の被曝した数の比率です。30人被曝したとすれば、正社員は1人か又は0、つまり被爆という事態という中に正社員と非正社員の差別という問題が明確に存在しているということ。これが図らずも中部電力自身が調べた資料の中で明らかになっています。
だとすると、そこで働く非正社員の健康状態を調べるのが、当然責任者としての中部電力のやるべきことではないでしょうか。
それを一切してこなかったということです。原発労働者は3ヵ月ごとにホールボディーカウンターの検査があり、診断がなされる。しかし、彼は一度も「お前の健康状態はおかしいよ」と言われたことはなかった。お母さんも聞いていない。
彼の病気の状態は非常に明々白々だったと思います。
まず、彼は非常に強い風邪の症状を呈していた。鼻血をしょっちゅう出していた。異常な寝汗をかいていた。それから38度以上の高熱を発する。体からはポッポポッポと湯気が発っている。それから家に帰ってくると非常な倦怠に襲われて、ゴロッと寝転んでしまう。
それでも、班長として責任を持って働き続けた。そして、最後に浜松の医大に行って、診察を受けるのですが、「今日俺、ライオンに襲われたよ。」というようなことをお母さんに言うそうですが、ちょっとお母さんが辛いだろうから体を撫でようとすると激烈な痛みがはしって怒る。なぜだろうかと言うことで少し調べると、造血作用が放射能によって破壊される。それによって、脳の方にも大きな影響が出る。したがって白血病という病状の中では精神障害をきたす。彼の場合はライオンが出て来て彼を襲ったという状況になったということですね。
だけど、普通お医者さんや病院は、彼がなぜそのような状態になったのか、即場の状況などを徹底して明らかにしていくはずではないでしょうか。それが一切なされていない。
彼が死んだあとに彼の被曝手帳が出てくる。彼は何と普通の血液の状態の3倍以上の白血病の症状を示す血液のデータが出てくる。白血病という症状がでてくれば、彼の置かれている浜岡原発の状況を医者が調べるのが当たり前でしょう。私はそう思います。
そういう病気の原因、これをなくそうというのが医療である。疫病、疫学というものはそういうものではないかと思いますが、それをしていない。それに彼は検査をすると言われて胸に穴を開けられて骨髄液を採られているのです。それで異常がないと言われているのです。骨髄液を調べれば白血病であることはわかるに決まっているのに、それさえも医者は大丈夫だと言った。それで彼は、責任上一生懸命職場へ行き、モップで放射能を拭いて、働き続けた。したがって彼は何も知らないまま死んでしまったということです。

どうしてこのような医療になったのか。原発で働いている正社員は現場に入らず、非正社員が現場に入る。そして、その非正社員の健康の問題を明らかにしない。なぜ明らかにしないかと言えば、それは原発で働く労働者がいなくなってしまうので、その人たちのデータを隠す。医療は隠すことに総力を挙げてきた。
原発は国策である。国策である原発を推進するためには、労働者を募集しなければ、事は進まない。その原発における発病の原因を明らかにしたのでは、日本の国策である原発にとっては重大な問題になってしまう。したがって、医療は原発の味方として、誰が死のうが知ったことではない。今はそういう形で医療が存在していると思います。



隠された被曝労働〜日本の原発労働者1



日本の悲しい歴史!!

ハバロフスク軍事裁判!!
「スミルノフは公開裁判で731部隊の行為を明らかにし、アメリカ主導で行われた東京裁判の不完全さに世界の目を向けようとしたのである。」
(プライム10「731細菌戦部隊」より)

アメリカは細菌戦のデータを独占し、天皇と731部隊員を裁かなかった!!アメリカにも大きな責任がある!!
ニュルンベルグ裁判では、非人道的な実験をした医師を裁いた!!


日本政府は、731部隊をはじめ、大事な戦史資料を廃棄するな!!
公開せよ!!


日本政府は、アメリカから返還された731部隊の資料を速やかに公開せよ!!



日本政府は、過去の日本軍の忌まわしい史実を教科書から消し去っている!!
人体実験被害者、細菌戦被害者の悲鳴が聞こえませんか?

731部隊の犯罪(生体実験、生体解剖、細菌戦等)は、アメリカ政府が免罪しても、世界の目が許さない!!

戦後マッカーサーと昭和天皇の極秘会談は11回行われ、その中で沖縄や731のことも話し合われたのだろう。GⅡと731部隊幹部との話し合いは鎌倉で行われ、731部隊員の戦犯免責と引き換えにアメリカに情報を提供するということで合意した。
東京裁判では、天皇と731部隊員は戦争犯罪人から外されたが、その人たちの行った中国をはじめとするアジアでの加害行為は、消し去ることはできず、子々孫々まで語り継がれるだろう!!
今の安倍自民は、過去の史実をことごとく消し去ろうと必死になっている!!

「731部隊展開催20周年記念シンポジウム」


731細菌戦部隊 1(前編:プライム10) よりの書き起こし
現代史スクープ・ドキュメント
731細菌戦部隊 前編(1992年)
アメリカ、ユタ州。今年(1992年)3月、私達はグレートソルトレイク砂漠の只中に位置する米軍基地を訪ねた。
アメリカ陸軍ダグウェイ実験場
実戦を想定した生物化学兵器の使用実験が行われるアメリカ唯一の施設である。
現在、生物化学兵器は、国際条約で禁止されているにもかかわらず、多くの国でその開発が続けられている。
この基地の設立目的は生物化学兵器への防御のためとされている。
湾岸戦争で使用された毒ガスマスクも、この基地でテストされた。
基地の一角にある文書館。
1942年に基地が作られてから今日までの生物化学兵器に関するあらゆる研究報告書が保存されている。
私達は、この文書館で旧日本軍の細菌戦部隊、731部隊の膨大な報告書を発見した。
2000ページに及ぶ細菌の感染実験のデータ並びにアメリカの科学者による731部隊の調査報告書である。
細菌を使った感染実験のデータ。
実験材料として使用されたのは、400体以上の人間である。
報告書には、実験に使われた細菌の種類、そしてアメリカの調査に協力した日本人研究者の名前が列挙されている。
石井四郎、731部隊部隊長である。
甲状腺、肝臓、リンパ節、脊髄、肺。
実験材料にされた人体はすべて解剖され、あらゆる臓器、器官がつぶさに観察されている。

人為的な細菌を感染させた人体には、標本番号が付けられている。
このデータがとられたのは、日中戦争下の旧満州。
実験に使用された人の多くは、現地の中国人である。
報告書は、731部隊が行った人体実験の全貌を明らかにしている。
731部隊が本拠を置いたのは、旧満州。現在の中国東北地方である。
当時日本は、軍事力でこの地を占領し、傀儡(かいらい)国家である満州国を建国していた。
満州国の首都、新京。現在の長春である。
日本は、ここ新京を拠点に、満州全域を治めた。
町の中心部に残る旧関東軍司令部。
強大な軍事力を誇る関東軍は、日本の満州支配の要(かなめ)であった。
関東軍は、軍事面だけでなく、警察機構など満州国の治安や政治をも実質的に支配していた。
安定した権力と広大な大地、さらにペスト、コレラなどの伝染病の存在。ヨーロッパ視察で細菌兵器の威力を確信した石井四郎は、ここ満州で細菌戦の研究を始める。
石井は1936年、関東軍に防疫給水部を設置。兵士を伝染病から予防し、前線の水を確保することを表向きの業務とした。
後の731部隊である。

石井が731部隊の本部を設けたのはハルビン郊外である。
そして、ソビエトとの国境沿い、ハイラル、孫呉、林口、海林の4か所に支部を設置。
731部隊は、本部、支部合わせて3000人を擁する大部隊となった。
ハルビンから南へ20km。
私達は、731部隊の本部があった平房を訪ねた。
石井は、陸軍省の許可を受け、1939年細菌戦研究を目的とした巨大な研究施設を作り上げた。
それまで、一寒村に過ぎなかった平房は一大軍事基地に変貌を遂げた。
しかし、731部隊の活動は、一般市民はもちろん、部隊員の家族にも一切秘密にされた。
731部隊本部跡
石井はこの建物に部隊長室を置いた。
元731部隊員が書いた完成直後の部隊地図。
鉄条網に囲まれたおよそ8km四方に及ぶ敷地には、専用の飛行場をはじめ、研究室、学校、そして神社まで設けられていた。
終戦直前ソビエト軍による接収を恐れた731部隊は、証拠湮滅のために、主な施設を自らの手で徹底的に破壊した。
そのときの破壊の跡が生々しいボイラー室。
ここには発電機もあり、細菌の培養に適した室温を保つための暖房をまかなっていた。

731部隊には、陸軍軍医学校をはじめ、大学や民間研究所から当時の日本医学界の最高水準にあった数多くの研究者が集まっていた。
巨額な資金と恵まれた環境の中で研究者たちは細菌戦のための研究に没頭していった。

今回アメリカで発見された人体実験のデータはまさにここでの研究で得られたものだったのである。
炭疸菌、ボツリヌス菌、コレラ菌、ペスト菌・・・
報告書によると、ここで研究された病原体は20種類以上に及んでいる。
731部隊は、研究、実験、製造など8つの部に分かれ、細菌兵器実用化のための研究を進めた。
731部隊跡から発見された研究用器具の数々。
菌を寒天や肉什、ペプトンなどによって作られた下地に植え付け、一定の温度と暗さが保たれた所で培養した。
戦争末期には、ペスト菌、コレラ菌、炭疸菌などの大量生産が可能となっていた。

石井式培養器
細菌兵器の実用化のためには、より強力な菌とその感染方法を開発することが必要だった。
この実験のために生きた人間が使われたのである。
実験材料とされたのは、現地の中国人やロシア人、朝鮮人だった。
本部の傍らに敷かれた引込線。
実験材料となった人間を運び込む目的でも使用された。
部隊に働かされていた方さんはそのときの様子を目撃している。
「列車が止まるとロ号棟の4つの門が開きました。白い帽子、マスク、白衣、ゴム靴を身につけた日本人が、荷車を押して出て来ました。列車からは2人ずつ頭と足が交互に縛られた人間たちが次々に下ろされ、ロ号棟の中に運ばれて行きました。私が見たところでは、彼らはまだ息をしていました。」
ロの字型をした研究棟はロ号棟と呼ばれた。
このロ号棟の内側には、実験材料となった人々を監禁するための監獄があった。
終戦時、731部隊は、特にこの監獄を徹底的に破壊した。
「この一帯が731部隊の特設監獄の跡です。」
ここに監禁された人々は、マルタと呼ばれ、その数は常時百人を超えていたという。
1人1人のマルタには番号が付けられ、様々な人体実験に使われていったのである。
「ペプトンと肉エキス、食塩0.5.・・・・」
田村良雄さんは、731部隊製造班に所属し、細菌の大量生産に従事した。
強い菌を得るための人体実験にも立ち会っている。
「細菌自身、は、動物体を通さなければ毒力が上がらないんだと。こういう点は言っていたんですね。言えば簡単なあれならば、一度細菌を動物体―人間の体に通す。それで毒力を高めると。
もう一つ言える点は、残酷そのものだという点は、息を引き取るか引き取らないかの内に解剖を始めるということです。
それは、やはり細菌の点から言って、時間が経てば、雑菌が生えてくると、腐敗が進行すると、そういう点から早い時期に目的のことをやると。」
731部隊で繰り返された人体実験。
このような人体実験によってしか得られないデータが今回アメリカで発見されたのである。
30人の人体を使った炭疸菌の感染実験。
炭疸菌はペスト菌と並んで細菌兵器として最も重要視されていた細菌であった。
現在も兵器として研究が続けられている。
30人の実験例は、皮膚からの感染、飲食物を通しての感染、呼吸器からの感染の3つの感染経路によって分類されている。
標本番号403番
これは、34歳の男性が鼻から炭疸菌を感染させられた場合の実験データである。
この男性は、感染から3日後に解剖されている。
菌が進入して3日後、人体はどのような変化を来たすか。
まず、解剖後の全体像が描きとられている。
鼻からの感染のため、呼吸器系の臓器に顕著な影響が見られる。
炭疸菌の毒素にむしばまれ、細胞が壊死状態となった肺。多くの肺胞で、炎症が起き、肺炎を起こしている。

菌に冒された肺組織のスライド写真。それぞれの臓器は、逐一顕微鏡写真で記録されている。
気管支の組織図。のどから気管支にかけて粘膜がはがれ、強い出血が観察されている。急性の出血性気管支炎を起こしている。
炭疸菌はリンパ管や血管に入ると全身に循環して肺血漿?を起こす。
すい臓は、死亡後、直ちに自分の消化酵素によって溶け出してしまう臓器である。
死亡後の解剖ではこうした詳細な観察は極めて難しい。
どの菌をどのような方法で、感染させるのが最も効果的か。こうした感染実験によってデータが蓄積されていった。

部隊設立から1945年まで日本軍が旧満州で行った史上例を見ない人体実験の記録。
この記録がなぜアメリカに渡ることになったのだろうか。

1945年8月9日、ソビエト軍が一斉に旧満州領内に侵攻した。関東軍は各地で敗退を重ねた。
ソビエト軍は、関東軍の予想をはるかに超える勢いでハルビンに迫った。
ソビエト参戦の直後、陸軍省は、731部隊本部に、全施設を破壊し、直ちに撤退するよう命令を下した。
破壊作業は6日間昼夜を分かたず続いた。
このとき監獄内に収容されていたマルタも全員処分の対象となった。
元731部隊伍長、溝渕俊美さんは、本部で警備、破壊作業に従事した。
「具体的にはね、はぁ、やっとるなという気配はもうすぐにわかったですね。ものすごい異様な臭いがありましたから。それで、8月に、12日の正午過ぎやったかな、13日の正午過ぎやったか、12日の正午過ぎかにマルタ処理作業が終って出てきたわけです。僕の・・・?西山君というのがおりまして、これが、・・・?に報告にいったんです。
「マルタ処理終えました。処理本数404本です。」、ってね。
僕、横で聞いとった。
本部にいた731部隊員は石井部隊長が手配した列車に乗り込み撤退した。
石井は、専用機を使って、証拠湮滅の為に奔走していた。
731部隊大連出張所総務部長だった目黒正彦さんは、このとき、石井と大連で出会っている。
「あのハルビンの本部が全部、満鉄の、借り切って朝鮮の方へ逃げ切っちゃったんですよ。それで、石井さんが、その前にハルビンの部隊が全部無くなったかどうかそのフィルムを私のところに持ってこられて、それを全部現像焼付けして、それで陸軍省へ持っていったんです。最後です。」
石井は破壊後の731部隊本部の様子を撮影し、陸軍省へ提出していた。完璧な証拠湮滅が求められていたのである。
隊員たちは朝鮮半島を南下。膨大な研究資料や物資を貨物船に積み、釜山港を出航した。
貨物船が目指したのは、山口県仙崎港であった。
「3000トンの貨物船2隻は仙崎港に着岸しました。800トンの上陸用舟艇は全部萩港に接岸しました。これが全部25日の午後5時ですね。」
8月25日3000トンの貨物船2隻から大量の物資が降ろされました。
そしてこれらの物資は、あらかじめ決められていた保管場所へと密かに送られていった。
間もなく、731部隊員に解散が言い渡された。
石井は解散に先立って、部隊員に次のような命令を下していた。
「第1項は、部隊の内容は秘匿せい。隠せ。連合軍による尋問を受ける場合には、防疫給水業務に従事しとったと答えよ。
第2項目目は、官公庁に就職するな。
第3項目目が、隊員相互の連絡はするな。」
石井は占領軍による追及を恐れ、部隊員たちに機密の保持を厳命したのである。
こうして731部隊員たちは、日本全国に散っていった。

日本占領後、GHQ諜報部いわゆるGⅡは731部隊に対する調査を開始した。
アメリカは捕虜となった日本兵を通じて戦争中から731部隊の存在を知っていたのである。
GⅡは郷里の千葉に隠れ住んでいた石井を捜し出し、細菌兵器についての情報を提供するよう迫った。
そして石井たち731部隊幹部とGⅡとの会合が密かに鎌倉の料亭で開かれた。
ここで両者の間にある合意が成立した。

石井たち731部隊員を戦争犯罪人に指名しないことを条件にアメリカ側に情報を提供するというものであった。

そして1946年アメリカの生物戦研究所から調査官トンプソンが来日。石井への面談調査を行った。
トンプソンの報告書。
石井への面談を下に細菌の製造法や細菌爆弾の研究成果などがまとめられ、ワシントンに提出された。
しかし、ここには重要な事実が触れられていない。

人体実験の事実である。

石井は、「実験は動物を使った」と主張した。
731部隊幹部の間では、人体実験の人体実験の事実を隠し通すという申し合わせが出来上がっていたのである。
アメリカが東京で731部隊の情報収集を行っていたまさにその頃、ソビエトでも731部隊に対する調査が始まろうとしていた。

当時アメリカと激しく戦後世界の主導権争いを演じていたソビエト。
私達はこの間のソビエトの動きを追った。
第2次世界大戦後、アメリカと並ぶ超大国に躍り出たソビエト。
ソビエトは東ヨーロッパの共産化を進める一方で、原爆など新兵器の開発を進め、軍事大国への道を突き進んでいた。

極東での勢力拡大を目論んで日本参戦を決断したスターリン。
スターリンは大戦で疲弊した国土復興のために戦争捕虜を労働力として利用することを決定した。
スターリンから極東軍司令官に宛てた極秘電報
「50万人の捕虜を確保せよ。」

スターリンは終戦直後早くも日本軍捕虜を抑留し、国内各地で労働力に使役する具遺体的な計画を命じている。
ソビエト軍に抑留された60万人近くの日本軍捕虜は続々とシベリアの奥地に移送されていった。
彼らが送られたのは、多くは寒さをしのぐすべも無い未踏の原野だった。
この抑留者の中には、ソ満国境に置かれた731部隊支部の兵士も数多く含まれていた。
ソビエトは戦前から諜報活動を通じて、731部隊の存在に注目していた。
ソビエト内務省は抑留者の中から細菌戦部隊の割り出しを開始したのである。

極東の軍事拠点ハバロフスク。
各地の収容所を統括する抑留政策の中心ともなった。
抑留者の調査を担当したのは、ソビエト内務省のハバロフスク支部であった。
ここには日本軍捕虜の資料や調書などが残されていた。
「日本軍捕虜は1945年以降各収容所に収容されていました。この資料は大部分が元731部隊員に関するものです。」
内務省では各収容所で得られた捕虜1人1人の個人情報をハバロフスクに集めモスクワへ送っていた。
ソヴィエト側が身元割り出しを急いだ兵士の前歴は憲兵隊、特務機関、そして731部隊であった。
部隊名を慎重に隠して収容されていた元731部隊の兵士たちも徐々に割り出されていった。
ソビエトは捕虜取調べの為に数多くの日本語を話す人を集め、各収容所に配置した。
キムさんもその1人である。
「ハバロフスクから、手製って言いますか、ハバロフスクの通訳が作ってくれたタイプライターで打った小さな辞書みたいなものが送られてきまして、いろんな医学用語とかとにかく731部隊に関係のある用語をかなり送ってもらって助かった訳ですけれども。そういうことで、731部隊に関してかなり大がかりな調査が行われていました。そういうことで731部隊のいろんな人たちを捜し出してその後は1人出て来れば『お前と一緒に勤務したのは誰だと、どこにいる。このラーゲにいるか』とだんだん、だんだん、わかってきます。」

ソビエトは抑留者の中からある重要人物を発見した。
731部隊第4部課長柄沢十三夫軍医少将である。
1946年9月、柄沢は自らの軍歴と731部隊の活動を告白した。
そこには中国での細菌使用実験と細菌の大量生産についての記述が含まれていた。
ソビエト側はこの柄沢の告白に注目した。
ハバロフスクの内務省からモスクワへ連日のように情報が送られている。
「柄沢の供述
石井は中国で細菌兵器の使用実験を行った。柄沢の製造部門では腸チフス菌70kg、コレラ菌50kgを製造できた。
この尋問調書を東京裁判のワシリエフ検事に送付することを検討されたし。」

日本の戦争責任が問われた東京裁判。
裁判はアメリカの主導で進行していた。
一方ソビエトは日本軍のソビエトに対する戦争行為を強調し、日本への影響力を行使しようとしていた。
しかし、ソビエト側の主張は、決め手を欠いていた。

1946年秋、検事スミルノフがモスクワの期待を担って、ソビエト検事団に加わった。
スミルノフは、ニュルンベルグ裁判でナチスドイツの毒ガス実験などを告発した辣腕検事である。スミルノフは、731部隊の存在に注目した。

ハバロフスクではさらに柄沢が供述を進めていた。12月末には自ら人体実験の事実を書き記した。
スミルノフは直ちにウラジオストクに飛んだ。
柄沢をハバロフスクから呼び寄せ、自ら尋問を行ったのである。
そしてスミルノフは、日本国内に潜伏している人体実験の責任者の名前を改めて聞き出した。

ソビエト検事団は、1947年1月8日、G2代表ウィロビー宛に一通の覚書を送った。
「我々は関東軍が細菌戦の準備をしていたという確証をつかんだ。人体実験の事実について石井たち731部隊幹部3名の尋問を要求する。」

ソビエトの要求にワシントンは混乱に陥った。
アメリカはこのとき、まだ人体実験の事実を知らなかったのである。

ソビエトは証拠となる柄沢の尋問調書を送りつけてきた。
この調書によってアメリカは石井たちが人体実験のデータを持っていることを確信。
ソビエトに先駆けこのデータを入手することを目論んだ。

3月、ワシントンの国務省と陸海軍からなる三省調整委員会は次のような方針を決定した。
「ソビエトの尋問には応じる。ただし、石井たちへの再調査を行い、ソビエト側に対して明らかにすべきでないことは言わないように指示する。
石井たちへの再調査のために1人の人物が選ばれた。ノーバート・フェル博士だった。
4月に来日したフェルは、元731部隊幹部への接触を開始した。
ノーバート・フェルは、アメリカを代表する生物化学戦の専門家であった。
フェルはソビエト側の尋問に先立ち、元731部隊幹部たちと連日精力的に面会を重ねた。

私達はこのときすべて尋問調査に同行した情報将校Yが健在であることを知り、接触をはかった。
彼はワシントン近郊に住んでいた。
一旦はインタビューに応じる約束をしたものの直前になって断ってきた。
私達の再度の申し入れに対して彼は匿名を条件に声だけの取材に応じた。

「私が選ばれたのは、これが最高機密だったからでしょう。私はマッカーサー司令部で最高機密に触れる立場にありました。
私達は部隊員に柄沢が供述したことを告げました。日本人たちは多かれ少なかれその事実を認めました。
私達と日本人との関係はとても友好的なものでした。
なぜなら、私達は情報を得るための協力を『依頼』していたのですから。
私達が関心を持っていたのは戦争犯罪ではなく科学的調査だったのです。
一番重要なことは、日本人のやったこのような人体実験は世界中の他の誰もかつて試みたことは無いという事実でした。」

フェルは石井たちに対して次のことを指示している。
ソビエト側に対しては以下のことを認めてはならない。
・人体実験の事実
・中国での使用実験
・そしてアメリカ側との事前の接触の事実
スミルノフを代表とするソビエト側検事団による石井たちへの尋問はアメリカ側の立会いの下で行われた。

東京裁判のソビエト検事団とモスクワとの間で交わされた往復書簡。
この中にスミルノフが731部隊幹部1人を尋問したときのメモが残されていた。
「菊池との会見 柄沢の尋問調書を見せたが菊池は人体実験の事実を否定した。それらはすべて動物で実験されたと言う」

731部隊の幹部たちにソビエト側が尋問した日付が記録されている。
いずれもフェルの尋問日の直後である。
アメリカ側はことごとく先回りをし、口封じをしていたのである。
石井に対するソビエト側の尋問は、石井が隠れ住んでいた新宿区若松町の旅館で行われた。
この尋問にはアメリカの情報将校Yも立ち会っている。
「最初に石井を訪ねたとき、、彼は病気で寝てました。尋問ができないほど病気は、悪くありませんでした。
ソビエト側には、実際より悪く見せるよう言っておきました。
石井がスミルノフに何もしゃべらないことが私達には重要でした。
私達は、スミルノフの尋問の技術には舌を巻きました。彼は真っ直ぐに相手の顔を見据えー「吐け、ボンバ」とロシア語でまくし立てました。ボンバとは爆弾のことです。
しかし、彼はこの尋問が負け戦であることも気付いたようでした。
最後にスミノルフは吐き捨てるようにこう言ったのです。
『我々がもっと前に石井たちを捕まてさえいれば、必ず彼らを吐かせることができたはずだ』」

ソビエト側の尋問が控えた5月初め、石井はフェルに次のような申し出をしていた。
「私はロシア人には情報を明かさない。もし、戦争犯罪人として訴追しないことを文書で約束してくれるならば、すべての情報を与えることができる。私は細菌戦の専門家としてアメリカ軍に雇われたい。
来るべきロシアとの戦争に備え、私が20年に渡って培ってきた細菌戦の研究成果と経験をあなた方にすべて提供しよう。」


東京裁判はその後もアメリカが主導権を握ったまま推移した。
石井たちから人体実験の裏付けを得られなかったスミルノフ。
ソビエト検事団は731部隊の行為を暴露しその責任を追及することを遂に断念した。

1948年秋、東京裁判は結審した。

こうして人体実験のデータはすべてアメリカの独占するところとなった。
元731部隊の幹部たちは各自の専門分野の報告をまとめ、アメリカ側に提出していくのである。

1947年12月12日。731部隊の調査を終えた生物戦研究所は、アメリカ国防総省に最終報告書を送った。
そこには次のように記されている。

「これは日本の科学者が数百万ドルの費用と長い歳月をかけて得たデータである。
このような情報は我々自身の研究所では得ることができなかった。なぜなら人体実験には良心の呵責があるからである。
これらのデータは総額25万円で得られた。研究にかかった実際の費用に比べれば微々たる額である。自ら進んでこの情報を提供してくれた人たちには迷惑がかからないように望みたい。
そしてこの情報が他に渡ることがないようにしなければならない。」

アメリカに提出された人体実験のデータの数は400人分にのぼった。
旧満州で日本軍が行った人体実験の記録はアメリカの軍事目的のために貢献する結果となったのである。

戦後間もなく731部隊をめぐってアメリカとソビエトとの激しい駆け引きが行われた東京。
アメリカに協力して情報を提供した731部隊幹部たちは、その後、731部隊について堅く口を閉ざした。

731部隊の記録とその罪は闇に葬り去られようとしていた。

しかし、東京裁判結審の翌年ソビエトは独自の軍事裁判を開き、日本の細菌戦部隊の罪を告発した。

代表検事席に座ったのはスミルノフ。
被告席には東京裁判の舞台裏でその名が行き交った柄沢の姿もあった。

人体実験のデータはアメリカが独占したが、ソビエトには数百人に及ぶ細菌戦部隊が抑留されていたのである。

ソビエトが細菌戦部隊を裁いた26冊に及ぶすべての裁判資料が40年の歳月を経て初めて公開された。

ハバロフスク軍事裁判。(1949年12月25日~12月30日)

厚いベールに包まれてきた裁判の実像が明らかになろうとしている。


・・・・・

現代史スクープドキュメント
「731細菌戦部隊後編」
(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊後編〕より)
陸軍軍医中将 石井四郎。
細菌兵器の開発を目的とした秘密部隊731を創設。
自らその部隊長を務めた。
旧満州で活動した731部隊には当時日本の最高レベルの医学者たちが集められた。
今年(1992年)アメリカユタ州の陸軍基地で膨大な報告書が発見された。
731部隊による人体実験のデータである。
ここでは、人為的に細菌を感染させられた人体がどのようにむしばまれていくのか、臓器が一つ一つ解剖され、つぶさに観察されている。
実験材料とされたのは、ほとんどが旧満州の中国人である。
この報告書によって731部隊が行った人体実験の全貌が明らかになった。
日本の戦争責任が裁かれた東京裁判。
この水面下で、731部隊をめぐる米ソの激しい駆け引きが繰り広げられた。
ソビエトのスミルノフ検事は東京裁判で731部隊の告発を目指す。
しかし、人体実験データの独占をもくろむアメリカにこれを阻まれたのである。
東京裁判結審の翌年、ソビエトは舞台をハバロフスクに移し、関東軍細菌戦部隊を裁く軍事裁判を開いた。
裁判は1949年12月、シェフチェンコ通りに面した旧ソビエト軍将校会館で行われた。

ハバロフスク軍事裁判。
元関東軍司令官、山田乙三をはじめとする元関東軍将校と元細菌戦部隊員12人が被告席に並んだ。
スミルノフは公開裁判で731部隊の行為を明らかにし、アメリカ主導で行われた東京裁判の不完全さに世界の目を向けようとしたのである。
しかし、アメリカをはじめとする西側諸国はこれを黙殺。
以来、この裁判は幻の極東軍事裁判とも呼ばれた。

ソビエト連邦が解体した直後の今年1月、私たちは情報公開が進むモスクワを訪ねた。
私達が求めるハバロフスク軍事裁判の記録は元KGB本部の資料館に残されていた。
「ここは未公開文書の保存庫です。ハバロフスク軍事裁判の資料も収められています。」
「山田被告と他の日本軍人を訴追した時の検察資料です。」
「これは被告の尋問調書の原本です。」
「ああ、日本語ですね。」

ハバロフスク軍事裁判の被告たちの尋問調書。
捜査は、KGBの前身に当たる内務省が担当。膨大な時間と人材を投入して、調書が作成された。
そこには、旧満州における731部隊の活動が赤裸々に告白されている。
公判記録と尋問調書、そして関東軍機密文書などの証拠書類。私たちに公開されたハバロフスク軍事裁判の記録は26冊にも及んだ。
日本の細菌戦部隊の行為を世界で初めて告発したハバロフスク軍事裁判。
26冊の裁判記録がひも解かれ、この裁判の実態が明らかになるのは、今回がはじめてである。

ハバロフスク旧ソビエト軍将校会館。
裁判はここで、1949年12月25日から30日までの6日間行われた。
壇上に裁判官席、検事席、弁護人席が設けられ、被告席は会場の最前列を木枠で仕切って作られた。
ソビエト側が選んだ12人の被告たち。
山田乙三元関東軍司令官。
元関東軍軍医部長、獣医部長、そしてソ満国境に置かれていた731部隊支部の支部長たち、さらには軍属、衛生兵など多岐にわたっている。
裁判長は、チェルトコフ少将、壇上右手には8人のソビエト人弁護士が並んだ。
左手には検事席が設けられ、その中央には代表検事としてスミルノフが座った。
スミルノフにとっては、ニュルンベルグ、東京に続く戦犯裁判だった。

当時ソビエトでは、多くのBC級戦犯の裁判が非公開で行われていた。
その中で、ハバロフスク軍事裁判だけが唯一の公開裁判だったのである。
傍聴席には、連日1000人以上の市民が詰めかけたという。
12人の被告のうち、2人が今も健在である。
731部隊林口支部に所属した久留島祐司さん。
「まぁ、裁判所へ着いた時は、もうこれはすごい裁判やなぁと思いましたね。とにかくもう、外へ人が入れんぐらいおりましたからね。だからこれはすごい裁判やなぁと。まぁ一般の裁判では、秘密裁判で20人、30人並べられて、弁護人なしで、すぐに刑を決められた裁判でしたけどね。私の場合はこれはすごい。兵隊がなぜこのように裁判にかけられなければいかんのか、総監と一緒にね。」
関東軍100部隊に所属した三友一男さん。
「僕なんかも銃殺刑になるんじゃないかという最初から取調べの段階でそういう感じでしたね。ということは、あの途中で、裁判の前に洋服の寸法をとりに来たり、裁判の前日に床屋が入って全部散髪やら何やらしたりとかですね、前日に風呂に特別に入れたりですね、そういうようないろいろあったんで、異様な雰囲気であったんですね。」

26冊の裁判記録。
その№25に6日間にわたる公判でのやり取りがすべて記録されている。
審理は通訳を介して行われ、証言はすべてロシア語で記録された。
1949年12月25日正午、ハバロフスク軍事裁判は開廷。
起訴状朗読をもって審理に入った。
「起訴状―多年にわたり帝国主義日本は極東における侵略の主なる根源地であった。
日本の参謀本部及び陸軍省は日本の有名な細菌戦提唱者石井四郎を長とし・・・」
-起訴状には細菌戦部隊の罪が列挙されている。
・細菌戦を準備した罪。
・生きた人間を実験に使用した人道上の罪。
・中国で細菌兵器を実際に使用した罪。
・ソビエトに対して戦争を準備した罪。
ソビエトは、細菌戦部隊にかかわった個人としての責任を問い、さらには日本の戦争責任を追及しようとした。
「強制感染によって数千人の囚人を殺戮するごとき、あらゆる凶悪な行為をあえてなしたことが判明した。」
起訴状を書き上げるのに元になった内務省の捜査記録、この中には100人以上の証人の証言や被告たちの尋問調書が含まれている。

被告の1人が記した731部隊本部の配置図。
731部隊の組織とその配置が事細かく記されている。
研究棟の内側に描かれているのは実験材料となった人間を収容した構内監獄である。
取調べは731部隊、部隊長石井四郎の下で行われたあらゆる行為に及んでいる。
中国人やロシア人などを使って、人体実験をした事実。
彼らは「マルタ」と呼ばれ、後に殺害されたという事実。
ソビエト側は尋問で得られた供述を分析し、細菌戦部隊の戦争犯罪を立証しようとした。
ハバロフスク軍事裁判の被告たちは、裁判開廷の2ヶ月前に1ヶ所に集められた。当時1号監獄と呼ばれたハバロフスク拘置所である。
ここは、現在も拘置所として使われている。
被告たちはそれぞれ別々の監房に収容され、拘置所内に設けられた取調室で尋問を受けた。
当時、尋問が行われた取調室が残っていた。
「思い出しました。ここでした。」
プルターソフさんは、通訳官としてここでの尋問に連日立ち会った。
「あー、調査をやったときはですね。尋問官はいつもその中へ座っていました。検事はいつもこの所へすわって、細菌学者はここです。通訳は細菌学者と隣りで、あの被告人は検事と隣りでした。
「それをどのくらいやったんですか?」
「さぁ、2ヶ月毎日やっていました。」
被告の1人、三友一男さんのファイル。
学歴や軍歴など様々な個人情報と捕虜になってから収容所の移動などが詳細に記されている。
ソビエト側は、三友さんが上官の命令で人体実験に参加した事実を追及した。
「相当、具体的な、向うがわかっているようなことを匂わせてきていますんでね。そのうち何人かの証人の調書を見せられまして、下に1枚ずつ全部サインするわけですね、調書に。そのサインを見せられて、こういう人間知っているか、こういう人間は記憶あるかというあれで・・・いろいろと名前を見て記憶から薄れとった人の名前まであるのでね。これは、相当向うが調べた上でというさっきの話でね。あまりいい加減なことも言えないなという感じですね。」

三友さんが所属したのは関東軍100部隊であった。
前線に欠かせない軍馬を伝染病から守る仕事を主な任務として誕生した部隊である。
ソビエトは、この100部隊第2部第6課が731部隊同様、細菌戦の研究をしていたとみなしていた。三友さんはこの第6課に所属する軍属だった。
三友さんの尋問調書。
尋問は、1949年10月22日から始まっている。
取調官がロシア語で筆記、通訳された上で、本人がサインするという方法で進められた。
証言内容に矛盾が生じた場合は、他の証人と対面させるなどして追及した。
取調べは時には深夜まで及んだ。
「生きた人間に対する実験の例をあげて下さい。」
「1944年9月、細菌学者の上官に実験に参加するよう勧められました。被実験者8人の食事にヘロインや朝鮮アサガオを混ぜて実験しました。私は、その後の人体内の変化を観察しました。1人が死亡しました。さらに青酸カリが人体に注射され、2人が殺されました。」
人体実験にかかわっていたととれる、この供述にソビエト側は注目した。6日後、この実験に絞って、尋問が行われた。
「22日の尋問であなたは人体実験に関与せざるを得なかったと述べている。もっと、明確に述べて下さい。」
「1人の中国籍の男が、私の調合した薬を服用後、死にました。また、1人のロシア人は、青酸カリを注射されて、その場で死亡しました。」

「あなたは、10月22日の尋問で青酸カリの注射によって殺害されたのは2人だったと言っているが、今度は1人だったと供述している。どういうことですか。」
「それは1人は毒殺。1人は青酸カリの注射によって死んだという意味です。」
22日の証言と28日の証言は青酸カリを注射されて死亡した人間の数が食い違っていた。取調官は、この数の矛盾を追及したのである。
「1人のロシア人に対し、1944年8月、2週間にわたり、様々な実験が行なわれました。
本人が衰弱した結果、上官はこのロシア人に青酸カリを注射して殺すよう命じました。
このロシア人に気付かれないように殺害の3日前に下痢を起こさせ、下痢止めの処置をしました。その後、治らないとして、食塩水を注射しました。翌日治療を装い、ロシア人に0.1グラムの青酸カリを注射しました。ロシア人はその直後、死亡しました。」

「まあ、自分としては当時ね、まあ、18~19歳、20歳前のことでいい、悪いの判断が当然できる年齢であろうという風に言われれば、あれですけれども。一方的なそういう戦時教育を受けた人間としてですね、当然軍隊という組織の中で、与えられた命令については、批判とかそういうことは初めから全然抜きにして、とにかく与えられた命令は遂行するのが自分の責務あるという考えでやったことについてね、それが間違っておったことであれば、それは裁かれてもやむを得ないだろうと。」
ソビエト側は取調室での供述を、裁判の法廷でも繰り返すことを求めた。
(三友被告尋問)
「100部隊で行われていた生きた人間を使用する実験に関し、知っていることをすっかり話してもらいたい。」
「2週間に5~6回毒入りの食事が被実験者に対して与えられました。汁には朝鮮アサガオ、粥にはヘロインを混ぜました。2週間後には衰弱し、実験の役には立たなくなりました。」
「そして、彼らはどうなりましたか。」
「機密保持のため、皆殺されました。」
「どんな方法でですか?」
「ロシア人は青酸カリを0.1g注射されて殺されました。」
こうして公開の場で、人体実験の事実が追及され、人道上の罪が印象付けられていった。
しかし、ソビエト側にとって、被告個人の罪を裁くことだけが、この裁判の目的ではなかった。

「ソ連からの引揚げ問題紛糾」
日本の占領政策を協議する第102回対日理事会が東京で開かれた。
ハバロフスクで裁判が始まる4日前のことである。
「シーボルト議長は、理事会に先立ち、ソ連の日本人引揚げに関する態度について、ソ連を非難することができると述べましたが、開会と同時にソ連側は声明を読み上げた後、全員審議を拒否、議場から退場して、注目を引きました。」
ソビエトには、まだ37万人の抑留者がいるとする日本に対し、ソビエトは抑留者はすべて帰国させたと主張していた。
アメリカは、このソビエトの抑留問題に対する姿勢を厳しく非難した。
この年(1949年)、東ドイツと中華人民共和国が成立。ソビエトを中心とする東側陣営はトルーマン・ドクトリンを掲げるアメリカとの対立を深めていた。
ハバロフスク軍事裁判は、まさに東西の政治的緊張の中で行なわれたのである。
ソビエト側はハバロフスクの法廷で細菌戦部隊の行為を個人の罪としてだけではなく、国家的犯罪として裁こうとしていた。
このための切り札とされたのが、元関東軍司令官山田乙三だった。
山田乙三の尋問調書。
関東軍の最後の司令官山田乙三は、日本のソビエトに対する戦争責任を明らかにする上で、最も重要な人物であった。
ハバロフスクにあった特別捕虜収容所、0045ラーゲリ。00はスターリンの勅命を意味していた。
この0045ラーゲリには元満州国皇帝溥儀(フギ)も収容されていた。
山田をはじめ関東軍参謀たちは、ここで尋問を受けた。
山田の尋問調書は、スターリンのもとへも届けられていた。
ソビエト側は、731部隊の細菌戦研究が関東軍司令官の直接指揮下で行われたかどうかを追及した。
ハバロフスク内務省局長からソビエト内務省抑留局長への手紙。
「あなたの命令で山田を監獄に拘禁した。同じ部屋にキムラという暗号名のスパイを送り込んだ。山田が731部隊と関係していたかどうか判断するためである。
しかし、スパイのキムラの話では、山田は731部隊との関係を否定し続けている。」
ソビエト軍は、関東軍司令部や憲兵隊本部から多くの証拠資料を押収していた。
ハバロフスク内務省では、尋問のために資料の分析を急いだ。
ソビエト側が注目したのは、特別移送扱、特移扱(とくいあつかい)という制度だった。特移扱とは関東軍の憲兵隊や特務機関が、捕まえた中国人などを実験材料として731部隊に送り込む制度である。
この制度は、731部隊の人体実験に関東軍が組織ぐるみでかかわっていたことを示す有力な証拠だった。この表には、抗日活動家など特移扱にするべき囚人の条件が規定されている。

731部隊本部から最も近い大都市ハルビン。
この町の憲兵隊や特務機関が多くの囚人を特移扱として731部隊に送り込んだ。
ハルビンの旧憲兵隊本部。抗日活動やスパイ活動の容疑で絶えず多くの人が逮捕され、ここに連行された。連行された人々に対し、ここで厳しい取調べが行われた後、特移扱などの処分が決定された。こうした憲兵隊や特務機関の施設は市内の各所にあり、現地の中国人から恐れられていた。

ソビエトが押収した憲兵隊の資料。
特移扱(とくいあつかい)で731部隊に送られた中国人の住所、氏名の記録である。
牡丹江事件で、特移扱になった人々の名簿。
その中の1人、朱芝盈(しゅしえい)さんの妻が健在である。
(郭敬蘭さんの証言)
「1941年7月17日のことでした。その日に限って、主人は夜になっても、なかなか帰ってきませんでした。夜の7時半頃に、突然7、8人の日本の憲兵隊員がやって来て『無線機はどこに隠してあるのか。』と尋ねました。私が、『知らない』と答えると憲兵の1人が私を押さえつけ、家の中を滅茶苦茶に引っ掻きまわしました。
翌朝、私は憲兵隊の建物に連れて行かれました。そこには、手錠と足かせをはめられ、ボロボロの服をまとった主人が無残な姿でいました。主人の顔を見たのは、それが最後でした。」
特移扱の処分を受けた人々は、こうした監獄に収容され、731部隊に送られる日を待った。
特移扱の制度について山田乙三は、自分の赴任前に決定されたものであり、事態の多くは知らなかったと供述した。
ソビエト側は特移扱が、関東軍司令官の指揮、命令下で行われたことを認めるよう山田に迫った。
ツビロフさんは、山田担当の通訳官だった。
「取調官の表現が『奨励していたんだ。関東軍の最高責任者としてそれを奨励していたという』風に表現していた。それを尋問調書にも書こうとしたんです。山田大将はそれを『いや、奨励してはいません。』 黙認しました。黙認したことは事実です。」
こうして山田は731部隊について主体的な責任を回避した。
人体実験についてはその事実も知らなかったと供述した。
ソビエト側は、山田の日記に注目した。日記の記述を手がかりに、731部隊とともに細菌戦を研究していたとされる100部隊と山田との関係を追及したのである。
「100部隊における細菌の研究及び生産に関する業務とはどの様なものですか。」
「私は100部隊が、具体的にどんな業務をしていたかは知らず、また報告を受けたことはありません。」
「12月12日、獣医部長会議を開いた目的はなんですか。」
「私は出席しなかったので、どんな問題が検討されたか知りません。」
「5月10日の高橋獣医部長の報告の内容を述べて下さい。」
「内容は記憶していません。」

高橋獣医部長は、100部隊を統括する立場にあった。ソビエト側は、この高橋獣医部長と山田司令官との関係に絞って、尋問を重ねた。
その5日後、山田は遂に100部隊との関係を認めたのである。
「今、思い出しました。高橋獣医部長は、司令官として着任した私に、100部隊が伝染病の予防と合わせて細菌兵器の研究、生産に従事していると報告しています。
100部隊は関東軍司令官たる私に直属する部隊で、細菌兵器の使用法と大量生産に携わっていました。この事実を私は認めます。」
山田は、100部隊、そして731部隊の細菌戦研究について司令官としての関わりを認めたのである。
「司令官山田乙三の証言が手に入ったとき、私達は、それを取調べ中の被告たちに示しました。そして、こう言ったのです。『お前たちは口を閉ざしているが、ここに司令官の証言があると。』彼らは大変な衝撃を受けていました。そして、その後は、ありのままを証言するようになったのです。実際、裁判の目的は、個人を厳しく罰するということではなく、むしろ世界に向かって、この事実をアピールすることだったのです。」
ソビエト側は、この裁判で、731部隊の行為を個人の罪として追及するだけでなく、日本軍全体の組織的な犯罪であり、国家の罪であることを世界に訴えようとしたのである。
山田の供述をきっかけに、他の被告たちも具体的な証言を始めた。

731部隊、安達(アンダー)実験場。
ここでは、細菌爆弾による感染実験が行われた。
証言によれば、実験材料となった人々は杭にしばり付けられ、大量の細菌を浴びた。
本部跡から発見された宇治型細菌爆弾。少量の火薬でも破裂するように陶器で作られている。爆発の熱で細菌が死滅しないように工夫されたのである。
被告の1人が記した地図。731部隊の隊員が中国の戦場で実際に細菌兵器を使ったという場所が記されている。
証言によれば、731部隊は、日中戦争時に3度にわたって細菌兵器の実戦での使用実験を行った。
こうした被告たちの証言から、ソビエト側は日本の国家としての犯罪を立証するための材料を集めていったのである。

そして、ハバロフスク市民が見守る法廷で、元関東軍司令官山田乙三は証言台に立った。
「国家検事、山田乙三の尋問を始めてください。」
「被告山田、関東軍にはいかなる細菌戦部隊があったか述べてください。」
「関東軍には、731部隊、100部隊という2つの細菌戦部隊があり、これは関東軍司令部直轄でありました。
「ということは、それらの部隊は関東軍司令官の直接指揮下にあったというわけですか。」
「その通りです。」
「あなたは、満州領内の731部隊が主として、ソビエト連邦、中国、モンゴルに対する細菌戦準備のために配置されたと以前供述している。これを認めますか。」
「はい、認めます。」
ソビエトはこの裁判の模様をモスクワ放送などを通じて連日世界に伝え続けた。
「裁判官同士諸君、軍事裁判委員同士諸君、この事件は、被告たちの個人的な責任の範囲をはるかに越える重大なものである。東京裁判において、ソビエト側検事は人体実験に関する日本の支配階級の犯罪を暴露した柄沢と川島の供述書をアメリカ側に提出した。しかし、影響力を持つある人物たちが、この犯罪の暴露を阻止することに利益を感じていたようである。人体実験についての証拠書類は東京裁判には提出されなかった。
人間に対する新たな悪事を企て、新たな大量殺戮の手段を準備しようとしているすべての者に対し、世界は、第2次世界大戦の教訓を忘れていないことを知らしめよう。」
1949年12月30日、ソビエト側が予定した通りに6日間の審理は終了し、ハバロフスク軍事裁判の幕は閉じた。
モスクワから北東へ300km。イワノボ州チェルンツィ村。
ハバロフスク軍事裁判で、被告席に座った12人の日本人は、この村にあった第48ラーゲリに移送された。ドイツ軍将校も収容された将官用の収容所であった。
12人それぞれの判決が言い渡され、刑が確定したのである。
山田乙三 強制労働 25年。
元関東軍軍医部長、獣医部長は25年

元731部隊幹部は12年~25年。衛生兵などは2年~3年の判決であった。
三友一男被告には、強制労働15年が言い渡された。
12人の被告のうち2人は服役を終えて、帰国、1人は病死した。
1956年日ソ共同宣言に伴って、残り9人の帰国が決定した。
しかし、帰国の直前、そのうちの1人が世を去った。
元731部隊第4部課長、柄沢十三夫。彼は自らその命を絶ったのである。
「彼は恩赦になると知っていました。日本に帰れたのです。ところがそのことを知っていながら、ある夜、彼は自殺することに決めた。これが、私の知っている全てです。日本に戻ることができない訳が何かあったのだろう。私達は、そう噂しあいました。」
村はずれの墓地。ここには収容所で死んでいった人が葬られている。この墓地の一画に柄沢が眠っていた。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
告白を始めるとき、柄沢はその心境をこう語っている・
「このことは、いずれ誰かが語らなければならないと思って、苦しい思いをしてきた。今、私は、医者としての良心をかけて、すべてを話そう。」

裁判直後の1950年2月1日。裁判結果をまとめたソビエトは、アメリカのアチソン国務長官に文書を渡した。
ソビエトはその文書で「日本の細菌戦部隊の行為は天皇を頂点とする日本軍部の組織的な犯罪であることを指摘し、改めて国際軍事裁判を開くことを要求している。そして、直接人体実験を行った科学者である石井たち731部隊幹部を新たに訴追し、これを裁くことを求めた。
アメリカはこの時までハバロフスク軍事裁判に表面上は無関心を装っていた。
しかし、その裏で裁判の情報を盛んに集め、分析を進めていた。
ソビエトのアピールを受け取った2日後アメリカ国務省は記者会見を開き声明を発表した。
「今回のハバロフスク軍事裁判は37万人の日本人抑留者の問題から目をそらすためのソビエトのカムフラージュに過ぎない。」

731部隊の行為を国際軍事法廷で改めて裁くことを求めたソビエトのアピールは無視された。
アメリカは、このときすでに人体実験の詳細なデータを入手していたのである。

731部隊の人体実験の事実を世界に初めて告発したハバロフスク軍事裁判。
この裁判には、戦後世界の主導権を握りつつあったアメリカを牽制するという政治的意味合いも込められていた。 
しかし、その政治性ゆえに、ハバロフスク軍事裁判は黙殺され、幻の裁判として忘れ去られていく運命をたどったのである。

こうして米ソ対立のはざまで日本の細菌戦部隊が行った人体実験の罪は闇に葬り去られた。

当事者である日本はその責任を自ら問うことなく半世紀が過ぎようとしている。
(1992年放送、NHK[プライム10 731細菌戦部隊後編〕より)



しかし、帰国の直前、そのうちの1人が世を去った。
元731部隊第4部課長(細菌培養課課長)、柄沢十三夫。彼は自らその命を絶ったのである。
「彼は恩赦になると知っていました。日本に帰れたのです。ところがそのことを知っていながら、ある夜、彼は自殺することに決めた。これが、私の知っている全てです。日本に戻ることができない訳が何かあったのだろう。私達は、そう噂しあいました。」
村はずれの墓地。ここには収容所で死んでいった人が葬られている。この墓地の一画に柄沢が眠っていた。
柄沢はソビエトに抑留されていた細菌戦部隊員の中で人体実験の事実を最初に認めた1人である。
告白を始めるとき、柄沢はその心境をこう語っている・
「このことは、いずれ誰かが語らなければならないと思って、苦しい思いをしてきた。今、私は、医者としての良心をかけて、すべてを話そう。」












良心の呵責を起こし、苦しんで自決したのは柄沢だけではない!!
優秀な医学者の中には、自分の犯した罪に苦しみ、自決した人もいた!!【詳しくは『細菌戦部隊と自決した2人の医学者』(常石敬一・朝野富三著、新潮社)をお読みください!!】


2013年部隊展資料より


実は日本軍はペスト菌をばら撒き、その威力を調べるために、生体解剖もしていた!!こわいことだ!!



天皇はもちろん731部隊の人体実験を知っていただろう!!
(3:30あたりから)

UNIT3
・・・・
日本の防衛庁資料室で見つかった記録によると、731部隊は天皇の裁可によって設立されたということが明らかになりました。
この書類には天皇の印章が押されてあったのです。また、天皇の弟の三笠宮は平房を訪れていたことがわかりました。
部隊のカメラマンだった山下氏です。
「当時の貴族はみな軍人になっていました。ときどき、我々の部隊にもそういう方々がやって来ました。私は三笠宮のご訪問を特によく覚えています。私が彼の写真を撮ったのですが、太陽がメガネに反射して目がよくわからなくなってしまったのです。石井隊長は関東軍の科学のメッカたる我が部隊の写真班としては科学的にこれを修正する方法があるはずだと言って、すぐに修正するように迫りました。そんなことがあったので、私は三笠宮の来訪をはっきりと覚えています。」
それどころか、天皇自身も平房での研究が最盛期であった1939年に満州に少なくとも1度は行っています。しかし天皇は人体実験について知っていたのでしょうか。
「日本の制度として主要な研究の報告書は、組織内のすべての人に回覧されることになっており、その流れが途中で止まることは考えられません。私の考えでは、あのように重要な情報が天皇に届いていなかったと考えるのは馬鹿げていると思います。」・・・・・


unit 731 3

2013年 731部隊シンポジウム1  単長清女史(陳列館書記)、


2013年   731部隊シンポジウム 2  張可偉氏(731部隊被害



731部隊は中国各地で細菌戦を行った!!

2013年 731部隊シンポジウム3 李宏華氏、易友喜氏(常徳細菌戦被害者)









2013年 731部隊シンポジウム 4 山田朗氏(明治大学教授、登戸研究所資料館館長)


2013年 731部隊シンポジウム5  吉中丈志氏(京都民医連中央病院院長)


京都府立医大の「降圧薬」論文データ捏造疑惑!
慈恵医大/データ捏造事件認める 

2013年 731部隊シンポジウム 6 奈須重雄氏(細菌戦資料センター理事)、伊勢弘志氏(明治大学講師)
一、井本熊男の業務日誌の発見

井本熊男
・・・・
◾1940年(昭和15年)秋:細菌作戦の責任者である井本の日誌によると731部隊航空班はペスト菌(に感染したノミ)を航空機によって中国浙江省の衢県、寧波、金華、玉山に投下して多くの死者を出した。爆弾を落とすようにスイッチを押すと飛行機の前後が空いて風圧でノミが噴出する仕組みであった。一方、新京には地上にて散布し大量の死者を出した。
・・・

三、一九四一年の細菌戦に関する井本日誌
以下に引用する一九四一年の井本日誌から、日本軍が常徳に対して本件細菌戦を行っていたことは明らかである。


2、一九四一年一一月二五日の井本日誌

次の一一月二五日の日誌は、常徳における細菌戦に関して、井本が支那派遣軍参謀の長尾正夫から受けた報告の内容を記載したものである。

次頁の記載のとおり、一九四一年一一月四日、日本軍は、湖南省の常徳市に対し、細菌戦を実行した。この内容については、前記第二章で述べた(五一頁参照)。

日誌から、実行者(七三一部隊の増田美保)、攻撃機の型式や攻撃時間、投下時の高度、さらにペスト感染ノミを飛行機の機体の下に取り付けられた函に入れ、その函のフタを開けて投下させる方法をとったこと等がわかる。

「アワ36㎏」とは、ペスト感染ノミ三六キログラムのことで、これが常徳に撒布された。

しかも、細菌戦実行後の常徳のペスト流行の報告がなされている。

┌─────────────────────────────────┐

│一、長尾〔正夫支那派遣軍〕参謀ヨリホ号ノ件 │

│ 4/11朝目的方向ノ天候良好ノ報ニ接シ97軽一キ出発〔以下四字分抹消│

│   〇五三〇出発 〇六五〇到着 │

│ 霧深シ H〔高度〕ヲ落トシテ捜索、H800附近ニ層雲アリシ為一〇〇〇│

│m以下ニテ実施ス(増田少佐操縦、片方ノ開函不十分 洞庭湖上ニ函ヲ落│

│ス  │

│ アワ36kg、其後島村参謀捜索シアリ。 │

│ 6/11 常徳附近ニ中毒流行(日本軍ハ飛行機一キニテ常徳附近ニ撒布│

│セリ、之ニ触レタル者ハ猛烈ナル中毒ヲ起ス) │

│ 20/11頃猛烈ナル「ペスト」流行、各戦区ヨリ衛生材料ヲ集収シアリ │

│     判決 │

│ 「命中スレハ発病ハ確実」  │

│          〔一九四一年一一月二五日付「井本日誌」一四巻〕│

└─────────────────────────────────┘


米国陸軍感染症研究所
生物兵器被害者医療管理ハンドブック(抄訳)

・・・・1937年には日本軍が生物戦計画を始め、満州国奉天近郊に731部隊と呼ばれる研究施設を設立した。石井部隊は1945年まで研究を続け、施設は焼き払われた。部隊は多くの菌を研究し、戦争捕虜に人体実験をおこなったことが戦後判明した。1000体近くの人体実験がなされ、多くは炭疸吸入によって死亡している。3000人にのぼる中国人がここで犠牲となった。さらに、飛行機からペストに汚染したのみを散布し、中国、満州にペストの流行を引き起こした。日本軍は、爆弾用として、400㎏の炭疸菌のストックを持っていたと言われる。・・・・


2012/06/15 衆議院外務委員会の質疑 ①
2012/06/15には、衆議院外務委員会で社民党の服部良一議員が金子論文を示しながら、これまで細菌戦については史料がないので事実関係が分からないとしてきた日本政府は、金子論文についてどう考えるのかと質問し、政府の責任で731部隊関連の調査機関を設けるよう要求した。服部議員の質問内容:「……731部隊と日本軍による細菌戦の問題なんですけれども、2003年10月に、『外務省、防衛庁等の文書において、関東軍防疫給水部等が細菌戦を行ったことを示す資料は、現時点まで確認されていない。』としつつ、『新たな事実が判明する場合には、歴史の事実として厳粛に受け止めていきたい』こう政府答弁をされておるんですね。それで、今日、ちょっと資料をお配りいたしましたけれども、その新たな事実が国立国会図書館の関西館に所蔵されているということが2011年10月に日本の民間研究者によって発掘されました。731部隊所属の金子順一軍医少佐による論文集であります。この中で、昭和15年から17年(1940~42)まで、6回にわたる細菌作戦が実施された場所、効果等がまとめられているわけです。これは米軍が行った細菌戦に関する事実調査の結果とも符合する、既存の信頼できる資料等とも符合しているわけですけれども、大臣、この金子論文の新たな発見を踏まえて、日本政府として中国における細菌戦の事実の問題についてどういう見解をお持ちか、お聞きたいと思います」これに対し玄葉外務大臣は、「……いわゆる731部隊の活動の詳細についてはやはり政府内部に資料が見当たらないというのが今の実態でございます。今の質問は、この金子論文が新たな事実として出たのではないか、こういうお話なんだろうというふうに思いますけれども、今回、少なくとも、見つかった資料も含めて、歴史の学者の方々が今後どういう研究をし、その研究の深まりがどうなっていくのか、そういったことを踏まえながら、まさに先ほどおっしゃっていただいたように、新たな事実がこのことで判明するというのかどうか、そういったことを判断していきたいというふうに思っております」と答えている。

2012/06/15 衆議院外務委員会の質疑 ②

さらに服部議員が「学者ということじゃなくて、これはもともと国が起こした戦争、国の機関としてやったことですから、ここはやはり外務省としてきちっと受け止めてやっていただきたいということを申し上げておきたいと思います。細菌戦遺族の皆さんの希望は、日本政府の責任で旧日本軍731部隊等の調査機関を設けて事実調査をまず行ってほしいということをおっしゃっているわけです。ですから、この金子論文が発見されたということを一つの大きな契機として、731部隊の細菌戦の調査研究、真相究明に着手するという決意をぜひおっしゃっていただけませんか」と追及すると、玄葉大臣は「細菌戦に係る事実関係などは、時間的経過などを踏まえれば、政府が例えばさらなる調査を行って事実関係として断定できるかどうなのかといえば、やはりこれはかなり難しいのではないかという風に思っています」と否定的な回答だった。(2012/06/15、「衆議院外務委員会速記録(議事速報)」2ページから)。このように、玄葉大臣はこれまでの731・細菌戦の研究の蓄積を知らずに、あるいは無視して、金子論文は新たな事実を示したかどうかには曖昧な返答をし、今後の歴史家の研究、調査の進展に委ねたいとの答弁で逃げている。今後も731・細菌戦は史料が政府内にないから事実関係が分からないとする日本政府に対し、金子論文は関東軍防疫給水部に所属した医師が書いた文書で、日本軍の軍医学校刊行の『陸軍軍医学校防疫研究報告』に収録された文書であることを強調して、731部隊・細菌戦の活動の事実を認定させなければならない。同時並行で、731部隊・細菌戦に関する国による調査機関の設置を求めていかなければならないのも自明のことである。


父の語った731部隊の真実

731部隊の人体実験のレポート見つかる(NHKニュース)

731細菌戦部隊 1(前編:プライム10)

731細菌戦部隊 2(前編:プライム10)

731細菌戦部隊 3(前編、後編、プライム10)


731細菌戦部隊 4(後編、プライム10)

731細菌戦部隊 5(後編、プライム10)

・・・・

unit731  1

unit 731 2

unit 731 3

731部隊・元部隊員の証言 1

731部隊・元部隊員の証言 2

満州医科大学及び731部隊での生体実験


731部隊・元部隊員の証言 5

731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!

今も続く細菌戦の恐怖  1 国立予防衛生研究所(現在の感染症研究所) ・登戸研究所

今も続く細菌戦の恐怖 2 日米医学会義

発見!731部隊 衝撃の新事実!!

日本に細菌戦生体実験場があった !?

闇に消えた虐殺 731部隊(10分版)

闇に消えた虐殺ー731部隊 1

闇に消えた虐殺ー731部隊 2

闇に消えた虐殺ー731部隊 3

語り部 731部隊 少年隊員の見た細菌戦部隊


・・・・・
1回で見たい方は、こちらでどうぞ!
闇に消えた虐殺~731部隊・細菌戦の真実(テレビ朝日「ザ・スクープ」、1997年8月

知ってるつもり 731部隊



黒い太陽731部隊


●ベトナム戦争の枯葉剤と731部隊の関係は?

Ⅲペスト攻撃班、恐怖の実戦秘録
・・・・
第2部には、我々の他に、八木沢班というのがあった。ここは植物や穀物を枯らす細菌の研究をしていた。ベトナム戦争の時に、アメリカ軍が、ベトナムで枯葉作戦というのを行なったということを知った。そして、この枯葉作戦は、731部隊八木沢班の研究が発展させられたものであるということを聞いた。何ともやりきれない想いにとらわれてしまった。
戦争は2度と起こしてはいけないと、心の中で念じつつ、筆を置くことしかできない今の自分を残念に思うことしきりである。
【真相:石井細菌戦部隊 郡司陽子編】より
ベトちゃんドクちゃん
皮肉な話(ウキペディアより)
分離手術が行われ、この手術は日本赤十字社が支援し、日本から医師団が派遣され高度な医療技術が提供された。ベトナム人医師70人、日本人医師4人という医師団を編成しての17時間に及ぶ大手術は成功し、ベトには左足がドクには右足がそれぞれ残された。ドクには日本から義足が提供された。



2013年「731部隊パネル展」より

27分あたりから川田龍平さんの意見。
語り部 731部隊 少年隊員の見た細菌戦部隊


●エイズウィルス

ヒト免疫不全ウイルス(ヒトめんえきふぜんウイルス、英: Human Immunodeficiency Virus、HIV)は、人の免疫細胞に感染して免疫細胞を破壊し、最終的に後天性免疫不全症候群(AIDS)を発症させるウイルス。(ウキペディアより)

エイズウィルスと731部隊の関係
山崎淑子の「生き抜く」ジャーナル!
【731部隊と帝銀事件と薬害エイズ】米、人体実験のデータと引き換えに、731部隊の戦争犯罪は問わないと約束。アメリカ陸軍フォート・ディートリック基地の生物化学研究所にデータは持ち込まれたという。エイズウィルスは、731部隊のデータを利用した可能性。
1969年、軍の生物兵器担当者の議会での驚愕の議会証言がある。「我々は、ヒト免疫システムを破壊する新しいウィルスを作る計画を持っています。」それがエイズウィルスであり、ジャーナリストのデイブ・エモリー氏によるとエイズウィルスは、アメリカの生物兵器開発の過程で人工的に作られたもので、731部隊のデーターを利用した可能性があるという。731部隊の隊員によって作られたミドリ十字という製薬会社から、薬害エイズが広がった。

悪魔の遺伝子操作―エイズ
米国防総省の実験室(フォート・デトリックの550番建物)で密かに製造されていた

エイズウィルスの人体実験
人体実験は、通常は長期懲役刑の受刑者たちで行われた。
受刑者たちは、もしも人体実験を生き延びたならば釈放されるという約束のもとに志願したのだ。・・・・


731細菌部隊と帝銀事件との真相1

731細菌部隊と帝銀事件との真相2


731部隊とエイズとの関係
◆『日本ブラッドバンク/ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)』
創設者:「内藤良一」元軍医中佐(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)
1950年11月:厚生省(現:厚生労働省)、日本赤十字、GHQに働きかけて、「日本ブラッドバンク」が設立される。
「宮本光一(日本特珠工業社長、陶器製爆弾、石井式濾水器製作)」
「北野政次(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)」
「二木秀雄(帝国陸軍細菌戦731部隊の中枢メンバー)」が協力して設立される。

731部隊時に開発(1943年から開始)された乾燥血しょう(内藤良一は、乾燥血しょうを作る為の凍結真空乾燥という技術を持っていた。この凍結真空乾燥という技術は、細菌を粉末状態にする特別な技術であり、細菌を長持ちさせることが可能で、これを爆弾に詰めて落とす「細菌戦」を可能にする)などの技術を朝鮮戦争時にアメリカ軍へ売り込んで莫大な利益を得た。

1954年:「血液製剤」を薬と同じように、健康保険の対象にすることに成功する。
1964年:駐日アメリカ大使が刺される事件が発生。その時の輸血で肝炎に感染する事故が起きる。そして保存血液以外の「血液製剤」が、民間企業によって作られることになる。
1964年:「ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)」に改名する。同年アメリカに子会社「アルファ社」を設立する。日本国内で最大規模を誇る大企業へと変貌していく。

◆『731部隊関係者の力によって作られた血液産業企業』
「日本ブラッドバンク/ミドリ十字(現:三菱ウェルファーマ)」「日本製薬」「熊本化血研(ワクチン産業)」など。

///////////////////////////////////

これらの事実を目の当たりにして、「エイズは米軍がつくった生物兵器だ」といいきれるかは微妙な立場になってきた。というのも、朝鮮戦争時に日本の一企業が、莫大な利益を上げているのだから。

細菌兵器として一目を置いたのは、世界制覇を目指す米国に間違いない。だが、その米国の意志を実現させる為の技術提供をしたのは日本の731部隊だ。

そして、今や細菌兵器のみならず、医療という名目で日本の国民を薬漬け・治療付けにしようとしている医学界の存在が見えてくる。


731部隊石井四郎軍医中将と、薬害エイズのミドリ十字社の奇妙な接点より
薬害エイズの何が問題か、血液製剤を介した薬害エイズは、サリドマイドやキノホルム中毒(スモン)、薬害ヤコブ病と同様に、国や製薬企業が適切な対策をとらなかったために拡大した。1人ないし2人分の国内産血液からつくるクリオ製剤を用いる、非加熱製剤を速やかに回収し加熱製剤に切り替える、などの対策を早期にとっていれば、HIV感染の拡大は防ぐことができたのである。ところが、数千人の血液を混ぜ合わせてつくる非加熱血液製剤の危険性がUSAで明らかになってからも、医師はその危険性を患者に告知せず、製薬企業も漫然と輸入と販売を続け、厚生省はなんの対策もとらなかった。


薬害エイズ事件は元731部隊員の内藤良一によって設立されたミドリ十字によって引き起こされた。

薬害エイズ事件(やくがいエイズじけん)とは、1980年代に、主に血友病患者に対し、加熱などでウイルスを不活性化しなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出した事件である。非加熱製剤によるHIV感染の薬害被害は世界的に起こったが、日本では全血友病患者の約4割にあたる1800人がHIVに感染し、うち約600人以上がすでに死亡しているといわれる。(ウキペディアより)


テレビの前での土下座謝罪はさらに新しいという。NHKでは1996年3月の薬害エイズのミドリ十字がはじめてのケースで、わずかこの10年、20年内のことだそうだ。

2013年「731部隊展」より
薬害エイズ事件後に建てられた、厚労省の「誓いに碑」






「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」
【「荒れ野の40年」ワイツゼッカー連邦大統領演説全文(1985年5月8日) より】
ヴァイツゼッカーの演説【独語】1/4




問われる戦争責任!!戦後責任!!
戦争遺跡!「731部隊」

聞こえませんか?「マルタ」の叫びが!!
不帰の門


象徴的な事例をあげてみたい。今はもう無くなったが、数年前には731部隊遺跡の本部楼から「ロ号棟」を結ぶ回廊の一部が残されていて(それは現在も確認できるが)、「煉獄門」(「不帰の門」)と書かれた文章が壁の金網越しに中国語、そして英語、日本語、韓国語の訳が添えられてあった。
これは誰が考えた文章か、筆者は確認することができない。以下、原文のままを再掲する。

これは731部隊が設立した人生の「不帰の門」である。当時たくさんの被実験者は此処を経由して生命の終点に行った。そして生還者が1人もいない。この門の中で飽くことを知らない野心と喪失した人間性とを無情な殺戮が充満したことがある。ただ「人間」として自分の罪を反省する事だけ発見できない。「煉獄門」の前に立って誰かが何かを述べているような感じがする。誰かが悲惨な歴史と未来の平和を述べているような感じがする。

決して正確ではない日本語がここではよけいに現実的な情景として見る者に訴えかける。「被実験者」とは通称マルタのことで、ここを通ったが最後、生きて帰ることはなかった。「飽くことを知らない野心」と「人間性を喪失した無情な殺戮」とは当時の医学の倫理的破綻であろうか。彼らは人道を、罪という自覚を失した集団であった。「煉獄門」の前に立てば、そこから人間の叫びが聞こえる。私もまた耳をそば立ててみた。未来の平和ではなく、憎しみばかりが募った。・・・・・
(『戦争遺跡と歴史認識」』ー「731部隊」遺跡保存活動を通して私が学んだことー田中 寛著より)

731部隊の遺跡2

731部隊の遺跡1

731部隊の遺跡3

731部隊遺跡4


731部隊からフクシマまで、日本医学界は何の反省も無く医療が続けられている!!

日中戦争の最中、国家総動員法が施行され、医学界から多くの優秀な人材が731部隊にも行った。そこで人体実験を繰り返しながら、細菌兵器の開発を進め、中国各地で細菌戦を行い、多くの中国人や日本人にも被害を出した!!敗戦直前に、天皇の責任が問われないよう証拠湮滅のため部隊は破壊され、部隊員はいち早く日本へ帰国した。上級幹部は、アメリカに研究データを引き渡し、戦犯免責を受け、アメリカの細菌兵器開発に協力し、東京裁判にはかけられなかった。

1945年8月6日や9日の原爆投下後の被爆調査には、医学者が動員され、天皇制護持するためのカードとして、アメリカの喜ぶような原爆の威力を示す被害調査が行われ、患者の治療はほとんどされなかった。8月のうだるような暑さの中での原爆投下の惨状は、本当に生き地獄であった!!
医学者たちは、被害調査に没頭し、ほとんど被爆者の医療がなされていないとは驚きだ!!
その中で、治療とは関係ない人体実験が行われ、もしかしたら生体解剖もされていたのではないかと疑ってしまう!!
また、731部隊上級研究員たちは、医学界で出世し、重要なポストに坐ったため、731部隊の非人道的な行為は反省も謝罪もされなかった。 戦後も、人体実験が行われ、それが世間に知られるようになると、社会問題になることもあった。
1954年の水爆実験では、元731部隊員の宮川正が被曝した漁船800隻のうちの1隻「第5福竜丸」だけを問題視し、放射能の影響を過小評価した。
また、水俣病では、田宮委員会が、水俣病をもみ消し走った。
昭和35年に入り、医学者は水俣病の発生は止んだと発表した。こうして患者は、以後10年まったく忘れ去られた!!
(20:40あたりから)福島原発事故を想起させる!
水俣病=その20年=

「薬害エイズ事件」では、元731部隊員内藤良一の設立したミドリ十字が問題となった。

27分あたりから川田龍平さんの意見。語り部 731部隊 少年隊員の見た細菌戦部隊


今回の福島第一原発の事故も、健康被害の調査は表面上は行われているが、治療は行われていないのではないか?
長崎大学の山下俊一を福島県立医大の副学長として派遣し、とんでも発言を繰り返し、問題を起こしている。
山下俊一トンデモ発言


731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書



資料を早く公開してほしい!!
日本の医学界は戦後731部隊での残虐な行為を反省することもなく、謝罪もしていていない!!
これでいいのだろうか?



731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち 福見秀雄・青木義勇と長瀧重信・山下俊一



発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会
発売三恵社より

榊原林口支部長の証言(5:30あたりから)
発見!731部隊 衝撃の新事実!!

日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区)




これまで、「証拠がない」として細菌戦の実施を認めてこなかった日本政府の根拠が、崩れた!!
生物兵器による攻撃についての新資料
発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会
発売三恵社より


アメリカ(占領軍)は帝銀事件の捜査に圧力をかけた!
やはり、犯人は特務機関(731部隊員か陸軍中野学校等)の人間か?
日本政府は、何時まで731部隊の資料を隠蔽するのだ!!

帝銀事件とは?
731細菌部隊と帝銀事件との真相1

"戦後最大のミステリー"「帝銀事件」(1)

"戦後最大のミステリー"「帝銀事件」(2)
"戦後最大のミステリー"「帝銀事件」(3)

(参考)高杉晋吾が語る「戦争・原発!!」
20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発


●ドイツと日本の違い
ドイツの医学会の謝罪や脱原発はドイツ国民が「生命への畏敬の念」に目覚めたからか?
ドイツ精神医学会の反省


日本医師会の歴史認識
Unit 731: Japan's biological force


カスタマー・レビューより
第二次世界大戦時の医師の責任を問う, 2002/4/29
レビュー対象商品: 人間の価値―1918年から1945年までのドイツの医学 (単行本)

現在この「人間の価値 -1918年から1945年までのドイツの医学-」は、ドイツですべての医学生に読むことが義務付けられている(?)著書だ。この著書はドイツでの同名の展示会のおりに刊行された書物(カタログ)の中心的部分をまとめたものである。
著書の中で、ドイツ人医師が身体障害者、ユダヤ人、ポーラがンド人、精神薄弱者、遺伝病の子供などを、ナチズムという名のもとにおいて公然と人体実験、殺戮した罪を問う。
この著書が出版されたのは1989年と戦後から44年も経っている。著書によると、1945年から西ドイツでは、中途半端な「非ナチ化」かしか行われてこなかったが、民主主義が成熟し、1980年代になると個人、社会に戦争責任が問われるようになる。 この著書はドイツ人自らが行った過去への反省と、未来への固い誓いとも言えるだろう。
最近、日本でも医療問題や、戦争に回帰するような発言や動きが絶えない。こんな時代にこそ誰もが読んでほしい著書だ。 

『人間の価値』
―1918年から1945年までのドイツ医学

Ch.ブロス/G.アリ編
林 功三訳

1938年11月9日*を思う
*「水晶の夜」 *「水晶の夜」

ベルリン医師会の声明

ベルリン医師会はいま、ナチズムの中で医師層がはたした役割と、忘れることができない犠牲者の苦しみを思い起こす。医師組織を結成する我々は、我々自身の過去とナチズムに関与した医師の責任を問題にしないわけにはいかない。

ナチス政権掌握の何年も前から、医師たちも人間の社会的差別と少数者の迫害を奨励する思考をはっきりもっていた。遺伝優生学や人種的遺伝体質、遺伝的に劣る人間、人生の余計者、生きる価値のない人生、といった思考であり、ナチス保健政策の基礎を築いた思考である。これが社会的に自明のものとされ、差別を正当化したのである。それが人間の絶滅を可能にしたのである。

ユダヤ人の医者は「アーリア人」の治療をすることが許されなくなり、1938年、法律によって、彼らの新規採用と開業が禁止され、また彼らの既得の営業許可が消滅されられた。ユダヤ人および異なる思想を持つ人々が排除されたことに対して、同僚の医師サークルやその団体からはほとんど抗議の声が挙がらなかった。

医師たちは「遺伝病の子どもの出生を予防する」法律を準備するのに関与し、無数の病気の人々、身体障害者に対する不妊。断種手術をおこなった。

医師たちは選別と殺戮の官僚機構に協力した。専門家として彼らは選別の鑑定を行い、国家医療行政機構に協力して、強制収容所へ患者を移送させた。

医師たちは「安楽死病院」で働いた。彼らによる「認定」がヨーロッパのユダヤ人の工場的規模の殺戮の基礎になった。

医師たちは強制収容所、研究所、大学病院で残酷な人体実験を行った。

ごくわずかの医師たちが彼らのキリスト教的、社会主義的、共産主義的世界観にしたがって抵抗したにすぎない。

ベルリン医師会はその過去の重荷を負う。我々は悲しみと恥を感じている。(以上)

略年表
1942年8月5日
ダッハウ強制収容所で低温人体実験始まる。
1942年11月1日
フィッシャー、カイザー・ヴィルヘルム人類学・人間遺伝学・優生学研究所を退く。彼の後を継いだのはヴェルシェアだった。
1942年12月16日
ヒムラー、「ジプシー問題の最終的解決」を命令。シンチとローマはアウシュヴィッツへ移送された。
1943年2月3日
スターリングラードでドイツ軍敗退。
1943年3月30日
ヨーゼフ・メンゲレ、アウシュヴィッツ強制収容所の医師となる。彼はヴェルシェアに「研究報告」を送った。
1944年5月9日
神経病理学者のユリウス・ハラーフォルデンはブランデンブルグ病院で殺害された697人の患者の注文済みの脳を受け取った。
1944年夏ー秋
メンゲレがアウシュヴィッツからベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所へ大量の「科学資料」を送った。
1945年5月8日
ドイツ降伏。
1946年12月9日ー1947年7月19日
ニュルンベルグ米軍第1法廷で、強制収容所、研究所での人体実験や安楽死を計画実行した23人の医師、SS将校、官僚に対する裁判(「ニュルンベルグ医師裁判」)が行われた。



ニュルンベルグ医師裁判では、人体実験に関与した医師が裁かれた!!

23人の被告人
4つの訴因があった。
1.戦争犯罪と人道に対する罪の陰謀。2と3の訴因で評価される。
2.戦争犯罪。本人の同意なしで行った医学実験、安楽死計画への参加、強制収容所での囚人の虐殺への参加など。
3.人道に対する罪。2の訴因で評価される
4.犯罪組織(親衛隊)への参加。

ヘルマン・ベッカー=フライゼンク
de:Hermann Becker-Freyseng Hermann Becker-Freyseng.jpg ドイツ空軍軍医大尉 起訴 有罪 有罪 懲役20年
のち10年に減刑
ヴィルヘルム・バイグルベック
en:Wilhelm Beiglböck Wilhelm Beiglboeck KZ-Arzt.jpg ドイツ空軍相談役の内科医 起訴 有罪 有罪 懲役15年
のち10年に減刑
クルト・ブローメ
en:Kurt Blome Kurt Blome KZ-Arzt.jpg 全国健康指導者代理 起訴 起訴 起訴 無罪
フィクトール・ブラック
en:Viktor Brack Viktor Brack Nürnberg 2.jpg 親衛隊上級大佐
武装親衛隊少佐 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑
カール・ブラント
Karl Brandt Karl Brandt SS-Arzt.jpg 親衛隊中将
アドルフ・ヒトラー付き内科医 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑
ルドルフ・ブラント
Rudolf Brandt Rudolf Brandt (SS-Mitglied).jpg 親衛隊大佐
ハインリヒ・ヒムラー官房、相談役
内務大臣執務室長官 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑
フリッツ・フィッシャー
Fritz Fischer Fritz Fischer KZ-Arzt.jpg 親衛隊少佐
親衛隊内科医
カール・ゲプハルトの副官 起訴 有罪 有罪 有罪 終身刑
のち15年に減刑
1954年に釈放
カール・ゲプハルト
Karl Gebhardt Karl Gebhardt, SS-Arzt.jpg 親衛隊中将
ハインリヒ・ヒムラー付き内科医
ドイツ赤十字社社長
親衛隊及び警察国家内科医団外科医部長 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑
カール・ゲンツケン
Karl Genzken Karl August Genzken KZ-Arzt.jpg 親衛隊中将
武装親衛隊医療班長官 起訴 有罪 有罪 有罪 終身刑
のち20年に減刑
1954年に釈放
ジークフリート・ハントローザー
Siegfried Handloser Siegfried Handloser NS-Arzt.jpg 陸軍軍医大将
国防軍衛生本部長官 起訴 有罪 有罪 終身刑
のち20年に減刑
1954年に釈放
ヴァルデマール・ホーフェン
Waldemar Hoven Waldem Hoven.jpg 親衛隊大尉
ブーヘンヴァルト強制収容所医師長 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑
ヨアヒム・ムルゴウスキー
en:Joachim Mrugowsky Joachim Mrugoswski SS-Arzt.jpg 親衛隊上級大佐
医学博士
武装親衛隊衛生協会会長
親衛隊及び警察国家内科医団衛生部長 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑
ヘルタ・オーバーホイザー
Herta Oberheuser Herta Oberheuser.jpg ラーフェンスブリュック強制収容所女医 起訴 有罪 有罪 懲役20年
のち10年に減刑
1952年に釈放
アドルフ・ポコルニー
en:Adolf Pokorny Adolf Pokorny.jpg 内科医。皮膚と性病の専門家 起訴 起訴 起訴 無罪
ヘルムート・ポッペンディック
en:Helmut Poppendick Helmut Poppendick.jpg 親衛隊上級大佐
親衛隊内科医 起訴 起訴 起訴 有罪 懲役10年
1951年に釈放
ハンス・ヴォルフガンク・ロームベルク
de:Hans Wolfgang Romberg Wolfgang Romberg.jpg ドイツ航空実験協会航空医学部門所属の医師 起訴 起訴 起訴 無罪
ゲルハルト・ローゼ
en:Gerhard Rose Gerh Rose.jpg 空軍軍医少将
熱帯医学部門長官
ロバート・コッホ協会教授 起訴 有罪 有罪 終身刑
のち20年に減刑
1955年釈放
パウル・ロストック
en:Paul Rostock Paul Rostock (NS-Mediziner).jpg ベルリン外科医診療所医師
陸軍外科相談役
医学科学研究事務所長官 起訴 起訴 起訴 無罪
ジークフリート・ルフ
de:Siegfried Ruff Siegfr Ruff.jpg ドイツ航空実験協会航空医学部門検査官 起訴 起訴 起訴 無罪
コンラート・シェーファー
de:Konrad Schäfer Konrad Schaefer.jpg ベルリン航空医学協会員の医師 起訴 起訴 起訴 無罪
オスカー・シュレーダー
de:Oskar Schröder Oskar Schroeder.jpg 空軍軍医大将
空軍医療班検査官部長官
空軍医療班長官 起訴 有罪 有罪 終身刑
のち15年に減刑
ヴォルフラム・ジーヴァス
Wolfram Sievers Wolfram Sievers.jpg 親衛隊大佐
アーネンエルベ事務長 起訴 有罪 有罪 有罪 死刑
ゲオルク・アウグスト・ヴェルツ
de:Georg August Weltz Georg Weltz.jpg 空軍軍医中佐
ミュンヘン航空医学協会会長 起訴 起訴 起訴 無罪


被告席の被告たち
(左から)第1列:カール・ブラント、ジークフリート・ハントローザー、パウル・ロシュトック、オスカー・シュレーダー、カール・ゲンツケン、カール・ゲープハルト、クゥルト・ブローメ、ヨワヒム・ムルゴウスキー、ルードルフ・ブラント、ヘルムート・ポッペンディック
第2列:ゲープハルト・ローゼ、ジークフリート・ルッフ、ヴィクトリア・ブラック、ハンス・ヴォルフガンク・ロンベルグ、ヘルマン・ベッガー=フライゼング、アウグスト・ヴェルツ、コンラート・シェーファー、ヴァルデマル・ホーフェン、ヴィルヘルム・バイグルベッグ、アドルフ・ポコルニ、ヘルタ・オーバーホイザー、フリッツ・フィッシャー。


ドイツ精神医学会の謝罪
ドイツ精神医学会は公式に謝罪しました。では、日本の精神医学会は



尖閣問題!!

<尖閣>野中氏「棚上げ」発言を古賀元幹事長が擁護
野中広務元官房長官が沖縄県・尖閣諸島を巡り日中間に「領有権の棚上げ」合意があったと発言したことについて、自民党の古賀誠元幹事長は6日、「決してこれが解決方法だとか自分の考え方だとして話されたわけではない」と擁護した。

古賀氏は棚上げ論について「野中氏は田中角栄元首相の講演で聞いたと話しただけだ。非常に誤解がある」と強調。日中関係について「こういう状態だからこそ話し合いのできるチャンネルを生かしながら考えていく必要がある」と語った。


「歴史に対し真摯に向き合うべき」鳩山氏、日本政治家の過激な言動に喝!―韓国メディア

<尖閣問題>日中間に「棚上げで暗黙の了解があった」=瀬野・前重慶総領事が明言―野中発言裏付ける

<尖閣問題>米オバマ大統領、「尖閣聖域化」働きかけへ=米中首脳会談の主要テーマに―米外交筋

菅長官、野中氏の「尖閣棚上げ合意」発言に不快感

「尖閣棚上げ合意」はあったのか 野中「生き証人」発言が論議呼ぶ

野中氏、日中間で尖閣棚上げ合意あったと言及 政府と異なる見解(13/06/04)


野中広務氏、中国の尖閣番組で謝罪


尖閣「棚上げは共通認識」発言、政府内に波紋

<中国>軍副総参謀長が尖閣「棚上げ論」を「賢明な選択」




この人は本当に近隣諸国との外交を大切にする人か?
この人の神経を疑う!!確信犯!!
日本のマスコミ・国会議員はなぜ追及しない?
731部隊の犠牲者に平気で唾を吐く安倍の非常識!


国家的演出! 自衛隊・政府は、731の人体実験や細菌戦の反省など全くせず、かえって誇っているように見える!!
731部隊の流れは、フクシマや自衛隊・研究所でまだ続いているのではないか?
これでは、731部隊の資料が公開されるはずがない!!
国立感染症研究所や自衛隊の化学戦部隊では、極秘裏に生物兵器開発を進めているのではとかんぐってしまう。

安倍、生体実験部隊の名前‘731’が書かれた飛行機に乗りサムズアップ
アメリカ情報誌

"ドイツ総理がナチの服を着たようなと"


アメリカで失墜する、安倍首相の評判


東洋経済オンライン 5月21日(火)8時0分配信

今年2月下旬の首脳会談では、安倍首相と距離を置いたオバマ大統領。歴史認識の発言は、日米の距離をさらに広げかねない(写真:AP/アフロ)

■ 波紋を呼んだ、安倍首相の写真

5月13日、ワシントンDCのアジア専門家コミュニティーでは、多くの専門家たちが、安倍首相が試乗した航空自衛隊のT4練習機に「731」という機体番号がくっきりと記されている写真を見て衝撃を受けた。


731という数字は、日中戦争や第二次世界大戦中に満州のハルビンを拠点に活動していた関東軍の「731部隊」について、苦い記憶を中国と韓国に呼び起こすものだ。この部隊は、生物・化学戦争を想定したおぞましい人体実験を、主に中国人とロシア人を対象に実施していた。

安倍首相のこの写真は東アジアの国々、とりわけ韓国の新聞の第一面に大々的に掲載され、それはすぐに米国の首都ワシントンにも広まった。米国では、この事態を深刻に受け止めたアナリストたちが、「安倍首相は日本国内の極右的な心情に訴えるために、意図的にこのイベントを仕立てたのではないか」と議論した。

やがて安倍氏の側近の一人、谷口智彦氏が、フェイスブックの英語版に投稿することにより、この議論を鎮めようとした。谷口氏は、この写真は宮城県東松島市にある航空自衛隊の基地で撮影されたもので、2011年の大津波で退避していた重要な飛行隊、ブルーインパルスが帰還したのを祝うための訪問だったと説明した。

しかしこの説明の後も、米国の日本専門家トップの一人は、非公式ながら、安倍氏は写真撮影用に意図的にこの特定の機体を選んだのだ、と主張し続けた。

ワシントンであまりにも多くのアジア専門家たちが、当初本気で、こんなありそうもない話を信じそうになったという事実自体が、米国の外交政策関係者たちの間で安倍氏の評判がどれほど失墜しているかを示している。

安倍氏がたとえ第二次世界大戦や「慰安婦」についてこれ以上の問題発言を控え、国会議員による靖国参拝を抑えるよう努めたとしても、安倍氏が自分の評判を傷つけてしまったという事実は変わらない。加えて、今回の行動により、日米韓3カ国による協力に深刻な混乱を生じさせてしまった。米国の多くの専門家は、安全保障問題について3カ国の協力が機能しなくなると、米国にとっても、日本にとっても、国益が損なわれると主張している。

2012年12月に安倍氏が首相として再登場した当初、安倍氏は、小泉純一郎元首相の官房長官を務めていた当時に共に仕事をしたことのある、影響力の強い日本専門家グループの支持を得た。彼らは、「安倍氏は前向きな戦略的思考の持ち主であり、あえて問題のある歴史認識を持ち出して北東アジアの外交に緊張をもたらすようなことはしないだろう」と主張した。

しかしワシントンには懐疑的な見方をする人もいた。彼らは、安倍氏は国家主義的な傾向を抑えることができず、または抑えようとはせず、この地域に緊張をもたらす原因となりかねない、と不安視していた。

■ 歴史論争の歯止めは解かれた

今年2月に安倍氏がワシントンを訪問した際には、この懐疑的な見方をする人たちが、安倍氏に対するホワイトハウスの対応を方向づけた。バラク・オバマ大統領は日本を歓迎する姿勢は示したが、安倍氏には距離を置いた。オバマ大統領は、安倍首相との共同記者会見を設定しなかった(安倍氏の前任者である民主党の野田佳彦首相が訪米した際にオバマ氏が示した対応とは、くっきりとした違いが見られる)。

また、米国政府関係者は、安倍首相が重視しようとしていた2つの話題、つまりあからさまな中国批判と「集団的自衛」推進に関する話題を避ける日程を慎重に練り上げた。

2月に日米首脳会談があって間もなく、安倍氏の言動が、北東アジア地域に緊張を引き起こし始めた。安倍氏は、韓国の朴槿恵新大統領の就任式に出席しなかった(これまで3代の韓国大統領の就任式には、日本からは首相が出席していたにもかかわらず)。島根県主催の「竹島の日」の式典には、地位の高い政府高官を代表として出席させた(北朝鮮が深刻な挑発をすでに始めていたことから、韓国が反発するのは目に見えていたにもかかわらず)。

そして4月の後半になると、安倍氏は、第二次世界大戦中の日本の政策は「侵略」であったとする捉え方を拒否し、それに関連して1995年の村山談話の主要部分を暗に否定し、歴史問題に関する論争の歯止めは解かれた。また安倍氏は、1993年の河野談話の真実性にも疑問を投げかけた。河野談話では、朝鮮人をはじめとする何千人もの女性が旧日本軍によって性奴隷となることを強要された、と公式に認めている。

韓国報道官

日本に731部隊の歴史反省を求める 慰安婦問題の早期解決も


被爆者の叫び!!
「わしはモルモットか!!」
いつまで受忍しろというのだ!!

原爆報告書は2年以上の歳月をかけ、国策として作られた。
そこには被害者救済はせずに被爆の調査だけをし、アメリカとの関係を優先させた姿が浮かび上がる。(治療はせず、被害の実態、原爆の威力を明らかにした。)

※思えば、日本と言う国は、世界で初めて米国からの原爆を落とされ、20万という人命をその年のうちに広島と長崎で失い、その後も後遺症に悩まされる人々が現在も数十万いる中、日本政府と米国政府が当時ABCCという機関を創設し、多数の学者や医師らが参加して、被爆者への治療を施すわけでなく、被爆者の体で研究をしました。
実際、広島第一陸軍病院宇品分院では、原爆投下1ヶ月後から1ヶ月間米国の医学者の調査団が日本の医師団に連れられてやってきましたが、日米の両方の医師たちは、生存者の治療よりも遺体解剖を優先し、患者の救援活動に従事したのは多くは看護婦や衛星兵だったと言う記録も残っています。(XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より



この時点で医師は原子力産業に取り込まれていく!!原爆投下後アメリカは原爆の治療研究を禁じた!!
内部被爆が人体に及ぼす影響!!脱原発宣言!!
原発ゼロをめざす7・2交流集会 肥田舜太郎さん



小出策郎中佐に出された極秘命令:
「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究(731部隊等)はすべて証拠を隠滅せよ!」

1945年8月アメリカは広島・長崎に原爆投下!!
その年だけで20万を越す人々が死んだ。
投下直後、国は大号令をかけ、1300人を越す医師・科学者を動員して2年以上の歳月をかけて1万ページ181冊に及ぶ原爆報告書を作成させた。作成過程で200人以上の死者の解剖も行った。対象は20000人を越えた。
最初の調査は原爆投下後の2日目から始まり、陸軍省医務局の小出策郎軍医中佐が取り仕切った。
目的は、原爆の威力を調べ、アメリカに渡し、有効な取引きカードにすることだった。

この調査は敗戦後の戦争犯罪(731部隊等)を隠蔽するためにも、そして国体を護持し、新たな日米関係を築く上にも重要なものだった。

この調査では被爆者の治療はせずに、放射線の影響を調べる検査だけが行われた。

自ら開発した原爆の威力を知りたいアメリカと、戦争に負けた日本の国の利害が一致した。

原爆投下から2ヵ月後、アメリカの調査団が現地に入ると小出中佐に替わり放射線医学の第1人者 都築正男が調査の中心となり一層力を入れた。
第10回日本医学会総会№2
発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会
発売三恵社より


アメリカが一番知りたい情報
№14 原爆がどれだけの範囲の人を殺すことができるか?
17000人の子どもたちが70ヶ所の地点でサンプルにされ原爆の殺傷能力が調査された。
例)0.8km 560人全員死亡。

アメリカはこのデータを元に爆心地からの距離と死者数をグラフに表し、死亡率曲線と呼んだ。
被爆者はアメリカの核戦略に利用された。

また、200人以上の死者が解剖され、放射能の影響が調べられた。治療とは無関係。(731部隊員の得意とする分野か?)

治療とは関係ない人体実験も行われ、被爆者にアドレナリン(血圧を上昇させるホルモン)を注射した場合の反応などが調べられた。
№23
そのほか、どの様な人体実験が行われたのであろう?

また、原爆投下後に広島に入って原爆症になった医大生の日記もレポートにあり、入市被爆のの実態も明らかにされていた。

入市被爆者の最後の叫び!!
「私は末期ガンで余命いくばくもないことを医師から知らされました。国は私のような入市被爆の実態を分かっていません!!」
この方の勝訴判決が出たのは亡くなってから3ヵ月後でした!!

ところが、戦後の原爆症の裁判ではこのことは利用されず、入市して被爆した人が、長い間原爆症と認められず、苦しんだ!!

※しかも徹底的に内部被曝の影響を隠ぺいし、急性被曝で死んでしまった者、また原爆の落とされた半径2km以内に住んでいるもの以外への健康被害はないものとして長年されてきました。ようやく2008年になって、ある一定の距離以上離れたものでも、放射性物質の微粒子を体内に取り込んだことによる原爆症を発症したことが裁判で認められてきたのです。原爆が落とされて半世紀以上、広島・長崎の医師たちが患者側ではなく、国側について隠ぺいに加担していたことは特筆すべき事実です。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より


アメリカはドイツの人体実験については厳しく裁いたが、なぜ日本の人体実験について裁かなかったのか?調査中に、アメリカの人体実験もばれたのか?

※第二次世界大戦中、日本軍は3000人もの医師たちが関わったとされる731部隊により、妊婦や子供まで含めた人体実験が行いました。極東裁判では捕虜虐待死の容疑で死刑に処された軍医幹部もいる中、731部隊関連者は訴追されませんでした。戦後、「研究データを米軍に提供すること」、さらにはなんと、「広島・長崎の研究に協力すること」を引き換えに免責されたのでした。
2010年のNHKの番組で、「(米国への研究データの提供のほかに)原爆調査への協力を731部隊の免責のカードとして使った」という元陸軍軍医の証言がありました。原爆投下後に行われた日米合同調査団への参加には、元731部隊で病理解剖が専門の石川太刀雄丸が、米軍による厳戒な統治下の中、1945年12月に原爆被害を詳述しています。731部隊の司令塔「陸軍軍医学校防疫研究室」嘱託の緒方富雄東京帝大名誉教授、同嘱託の木村廉京の名前があり、米国からもプルトニウム注射による人体実験をしたスタッフォード・ウォーレン医師、後にUNSCEAR創設時のメンバーであり、被爆者疫学研究で有名になるシールズ・ウォーレン医師が合同調査団として来日し調査したのでした。
このように米国の人体実験にかかわった医師と日本の人体実験に関わった医師らも協力して、被曝研究を進めていったのです。1946年にはオースチン・ブルースらABCC人体実験医が、東京、京都、大阪、広島、長崎を含む日本の主だった大学病院を廻り、元731部隊の研究員と会って、ABCCに協力する人々の人脈づくりをし、翌年ABCCが正式発足したというのです。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より


「米軍の調査団の中には陸軍のスタッフォード・ウォーレン大佐、フリーデル中佐、海軍のシールズ・ウォーレン大佐のように、米国国内の放射能・放射線の影響を調べる人体実験に関係した者が含まれていた。
米側の医学者にとっても日本側の「特殊研究」の医学者の免罪が必要だった。
徒に日本側の犯罪行為を追求すれば自分の医療犯罪の発覚にも繋がる畏れがあった。「特殊研究」に従事してきた者どうし、戦勝国と敗戦国の違いを超えて、研究成果を分かち合うために米軍側の医学者たちは、日本の「特殊研究」者たちを許すことにしたのかもしれない。」

『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永


果たしてこの181冊の報告書の中で元731部隊員はどの様なことをレポートしたのであろうか?
吉村寿人、宮川正、在田勉、岡本耕造、石川太刀雄丸・・・
2013年度731事業計画
宮川正の軌跡
1944年3月4日、宮川は、関東軍防疫給水本部に配属され、731部隊のレントゲン担当となった。第1部細菌研究部第3課の吉村寿人の下には、レントゲン担当の二つの班ー宮川が班長を務める宮川班と在田勉(任期・1939年4月5日~1944年8月25日)が班長を務める在田班があった。
西野瑠美子が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、男性用の収容棟と女性・子どもの収容棟にそれぞれ1ヶ所ずつレントゲン室があったとされる。細菌に感染させるマルタ(被験者)の健康診断のためのエックス線撮影が主な仕事で、部隊敷地内の隊員と家族のための診療所でもレントゲン診断を行った(西野瑠美子「731部隊―歴史は継承されないのかー元隊員を訪ねて」『世界』1994年4月号掲載)。健康なマルタの病変の経過を見ることが部隊の関心対象だったため、健康診断を受けさせ、健康と判定されたマルタだけが人体実験の対象になった。
レントゲン班でも、人体実験が行われていた。西野が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、「レントゲンを肝臓に当てる実験に立ちあった」といい、レントゲン班では、細菌に感染したマルタのレントゲン撮影を一定の期間をおいて実施したとされる。
これと似通った匿名の731部隊班長の証言が吉永春子の書き下ろし『731 追撃・そのとき幹部達は」(2001年、筑摩書房)に収録されている。肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行ったという証言は、TBSテレビで1976年8月15日に放送されたドキュメンタリーのために吉永らが行ったインタビューの中で行われたものだった。内容から、匿名の証言者は宮川ではなく、もうひとつのレントゲン班の班長と推察される。
宮川は、戦後、亀井文夫監督の記録映画「世界は恐怖するー死の灰の正体」(1957年)の撮影に協力している。この映画には、宮川も理事を務めていた日本放射性同位元素協会(後の「日本アイソトープ協会」)や山崎文夫、村地孝一らの科学者も協力していた。映画には、放射線を長時間、実験用のマウスに照射して死に至るまで観察する実験が記録されている。ネズミへの放射線照射の映像は、映画の中では、あくまで放射線の恐ろしさを実感させる素材として使われているが、一面で731部隊が死に至る人体実験の様子をフィルムに記録したという証言を彷彿させるものだった。1960年8月には、茨城県東海村の日本原子力研究所で宮川らがネズミにガンマ線を照射し、被曝時の生体変化を観察する実験を実施すると報道されたこともあった。
宮川が731部隊でレントゲン班の責任者だったことは消せない事実だが、宮川が直接行ったとする人体実験の具体的な証言や記録は今のところ確認されていない。

・・・・これらの事例とは対照的に、宮川が公職追放を受けなかったのはいったいなぜなのだろうか。

・・・宮川正は、1949年「科学朝日」8月号の皆川理らとの座談会「放射能とは何か」に国立東京第一病院の医師として登場し、放射線の医学的な利用等について説明している。国立病院の勤務医になったことは、731部隊時代の行動について「お咎めなし」のお墨付きが得られていた証だろう。
・・・宮川は1953年に横浜医科大学の教授となり、やがて放射線治療の分野で名が知られるようになっていった。
・・・宮川と731部隊の関係者の繋がりは戦後もある時期まで、維持されたものと考えられる。
・・・第5福竜丸事件が起こると、宮川は4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横浜市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。此れが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部の委員に任命されることになった。
・・・1956年4月、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教授となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委員会」の5人の専門委員のひとりに任命された。
・・・宮川は、1956年に日本学術会議原子力問題委員会の放射線影響調査特別委員会委員に選ばれたのに続いて、翌年5月25日には原子力委員会の放射能調査専門部会(部会長・都築正男)委員にも任命された。宮川は、1958年9月1日、ジュネーブで開かれた第2回原子力平和利用国際会議にもアイソトープ・生物学関連のふたつのグループの責任者のひとりとして出席している。
731部隊関係者の中で、原子力行政にこれほどまでに、食い込んだ者は、宮川以外には見当たらない。そうした意味で宮川は部隊の元関係者の中では特異な存在だった。
『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永

※【正力はアメリカの情報機関(国務省、合衆国情報局、CIA、国防総省)が第5福竜丸事件以来大変な窮地に追い込まれており、日本の反原子力・反米世論の高まりを沈静化させるために必死になっているという情報を得ていた】(有馬哲夫著:『原発・正力・CIA』より。

「日本で原子力開発が始まったのは、米国の意向を反映したものでした。その理由は、第5福竜丸の被曝によって日本人が、急速に反原子力、反米に動くのを阻止することでした

中曽根康弘氏が法律や予算を整備し、日本に原子力発電所を作る基礎を作ります」(『戦後史の正体』(孫崎 享著 創元社)より

アメリカに協力するように宮川は、政府の意向を受けて動いたのか?
800隻を1隻にするということは。

原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~

有馬哲夫氏:正力松太郎はなぜ日本に原発を持ち込んだのか



※また福島事故後に有名になった医学者の一人に同じく東大出身で、東大病院放射線科の中川恵一準教授がいます。彼は、「福島で健康被害は出ていない、今後も出ない」と主張する学者の代表格です。私は中川医師の『被ばくと発がんの真実』という著書に、科学的な疑問点が100か所以上見受けられたので、質問を送りましたが、どれひとつとしていまだに回答をいただいておりません。
実は免責された731部隊は、放射線医療業界にも歴史的につながっています。例えば731部隊、レントゲン班でも致死量を当てる人体実験が行われ、リーダーのひとりであった宮川正は、戦後放射線治療の専門家になりました。第五福竜丸事件の後、福竜丸以外の船員が放射線障害で苦しんでいても、放射線障害ではないだろうという理論を展開し、800あったと言われる被曝船は、一隻とされたのでした。
この元731部隊レントゲン班の東大医学部放射線医学講座の主任教授、宮川氏は、放射線医学総合研究所の立ち上げ準備にあたりました。放射線医学総合研究所は、その後も原子力推進の政策を追認する機関として今日に至っており、UNSCEARの日本代表は半世紀以上、ずっと放医研のスタッフです。
長崎においても、731部隊からABCC,そして今日の福島にも有名大学を通じてつながりがあります。長崎で、胎児・新生児の数千例の解剖を手掛けた長崎医科大学の林一郎(京都帝国大学出身)も、元731部隊員であり、731部隊長石井四郎(京都帝国大学)の恩師で同部隊の病理解剖の最高権威であった清野謙次(京都帝国大学出身)の門下でした。林一郎医師は、731部隊長の石井四郎と兄弟弟子であったわけです。
この林一郎氏は、世界は恐怖するという1957年制作の映画の中で、昭和24年から25年にかけて、被ばく者から生まれた子どものうち、22.3%が奇形だった。同じ時期に被曝していない親から生まれた奇形児は、8.7%だったと発表していると引用されています。しかしなぜかこの引用は後から林氏自身によって否定され、広島長崎で遺伝的な影響はなかったこととされています!何と不可思議なことでしょうか。
また、731部隊長石井四郎の右腕であった内藤良一は、薬害エイズで2000人の血友病患者を感染させた日本ミドリ十字社の前身である日本ブラッドバンクの創設者であり、このミドリ十字社と厚生省がグルとなって薬害エイズ事件の原因となったことは有名です。 今回福島県民健康調査のリーダーである山下俊一氏が、福島事故の直前までエイズ患者対象の研究を行っていたことは特筆に値すると思います。彼はエイズ研究を始めるにあたり、「過ちは二度と繰り返しません」と書き、その後、福島事故が起きて、福島医大に行き、住民たちには100mSvまで心配することはないと説得しました。「人々の健康を第一に考えない医学がなぜ存在するのだろう。」、そして「患者を検体として接するような医者は許さない」と、私の知人の薬害HIV患者の方も非常に怒っています。
そして今、福島では有名大学の様々な医者や学者が関わり、子供や妊婦までを研究利用しています。これは明らかに時間軸の伸びた人体実験と言えますし、歴史を見れば、誇張でないことが分かります。
今現在、この瞬間にも被曝しながら、命を削っている福島その他の汚染地帯の子供たちを助けるためにも、私は、この過去と現在における日本の医学界の犯罪性を全世界の人々に知ってほしいです。
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

※広島長崎の被曝およびチェルノブイリ・プロジェクトで1991年に被曝による健康を否定した有名な疫学者で重松逸造氏という人物がおります。RERFの重松逸造氏(東京帝国大学→ハーバード大学公衆衛生大学院)の直弟子の長瀧重信氏(東京大学医学部→ハーバード大学医学部→長崎大学医学部)とともに、広島長崎、そしてチェルノブイリの甲状腺ガン以外の健康被害を否定しました。そして長瀧の弟子の山下俊一氏(長崎大学→福島県立医科大学)は、チェルノブイリの否定から今回の福島事故後の被曝による健康被害を完全否定しています。
福島で子供で甲状腺異常が5割に届くほど出ているのに、異常なしとし、放置しているやり方に過去の731部隊の人体実験と共通する残酷さを常々感じていた私は、調べてみましたら、なんとこの山下氏の恩師の恩師に当たる重松逸造氏は731部隊とつながっていました。
重松氏の恩師に731部隊の重要人物がいます。731部隊に生物兵器の開発・実戦に従事した多くの医科学者を送り出した、東京帝国大学伝染病研究室の疫学研究室の主任の野邊地慶三医師です。
戦後この東大疫学研究室が、東大医科学研究所、国立公衆衛生院、国立予防衛生研究所(予研)と、3つの研究所に分かれました。戦後、予研が731部隊の資料と被曝者の資料を米軍に伝達していたと言います。
戦前、東大疫学研究室長であった野邊地慶三氏は、1950年代からABCCの疫学部長に就任、その門下の重松逸造氏も後にABCCの理事長に就任したのです。731部隊から原爆被爆実験に至る、東大を介したABCCとの重大な人的接点はここあったのです。

重松逸造の恩師・野辺地慶三の原子力施設からの放射性廃棄物に対する意外な危機意識
第63回:野辺地慶三(のべちけいぞう)


さらにチェルノブイリ事故の後には、日本からはこのABCCを前身とする放射線影響研究所、RERFからの重松逸造氏や長瀧重信氏を中心に、住民、なにより子供たちに健康被害が出ているにもかかわらず、チェルノブイリの事故の過小評価をすることに加担してきました。
非常に恥ずべきことです。日本は被曝問題において、被害国であると同時に、大いなる加害国でもあるわけです。原爆を落とされた国でありながら、自国内の被爆者に対しても、また他国における原発の被曝者に対しても、目の前で患者が苦しむのを見ていながら、核産業側・政府側について人々の健康障害を長年無視もしくは過小評価してきたのです。
その悲しい歴史が、今福島で繰り返されています。チェルノブイリで過小評価をした長瀧重信氏やその弟子である山下俊一氏、また放射線治療の権威である東大の中川恵一氏らが一緒になって「このくらいの放射能なら安全である」と福島県民に説いて回り、医師会などにおいては、「福島事故で健康被害を受けたものは、1人もいない」という理論を事故から2年近くった現在でも公に発表して廻っているのです!
XII) 731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島より

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(5)

アメリカに少しでも心証をよくしようと、731部隊の証拠湮滅をはかり、国策として原爆報告書を作成した。もちろん、国体護持をねらった。

ところが、ソ連によって731部隊の人体実験のことが明らかになると、731部隊幹部は、アメリカと取引きし、データとの引き換えに731部隊員の戦犯免責を引き出す。

そして、アメリカに渡ったデータをもとに、731部隊員はアメリカに協力し細菌兵器の開発に力を貸す。そしてそこで作られた細菌兵器は朝鮮戦争やベトナム戦争に使われた。

日本はアメリカとの良好な関係を築くために原爆の非人道的なことを非難できず、また、アメリカも731部隊から得たデータで細菌兵器をつくったものだから、日本の非人道的な犯罪を裁けなかった!!
ドイツとは、大きな違いがある!!

医学界は国策の原爆調査(治療ではない)に大量動員されたり、731部隊が免責されたことにより、ABCCに取り込まれていった。そして放射能の人体に及ぼす影響を十分に知りながら、原子力産業推進に回ってしまう!!医学界は本気に内部被爆の研究をしていない!!推進側からストップがかかっているのではないか?

今のフクシマの医療、そのほか浜岡原発、その他原発の周辺で行われている医療がそれを物語る!! 

「原爆報告書」は、731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!
731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書

封印された原爆報告書
731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(1)西里扶甬子

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(2) 西里扶甬子

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(3) 西里扶甬子

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(4)西里扶甬子

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(5) 西里扶甬子


原子爆弾の影響に関する医学的調査
第5福竜丸被爆事件
「原子力村」の原型形成


高杉晋吾
病気になった原発労働者を医者はきちんと診ない!!
原子力産業と医者の結び付き!!

国策としての731部隊・原発(1) 高杉晋吾
国策としての731部隊・原発(2)  高杉晋吾
国策としての731部隊・原発(3) 高杉晋吾
国策としての731部隊・原発(4) 高杉晋吾
モンゴルで行われた生体実験
モンゴルで行われた生体実験
「冬季衛生研究」
戦場での手術法開発実験
谷村らの凍傷実験と「弔辞」
陸軍病院での手術演習
発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会
発売三恵社より

国策としての731部隊・原発(5) 高杉晋吾
国策としての731部隊・原発(6) 高杉晋吾

国策である原発を推進するためには、労働者を募集しなければ一歩も動かない。一歩も動かないのにその原発における発病の原因を明らかにしたのでは、これは日本の国策である原発にとっては重大な問題が起こってしまう。したがって医療は、原発の味方として、誰が死んでいこうか、彼が死んで行こうが、言葉は悪いですが、知ったことではないという形の中で、そういう形のものに医療が存在してしまっていると言うことだと思うわけです。(講演より)
国策としての731部隊・原発(7) 高杉晋吾

国策としての731部隊・原発(8) 高杉晋吾

20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発


嶋橋美智子さんのお話しスタート

子どもを守りたい~年7㍉シーベルトの被曝で息子を失った母、語る


隠された被曝労働〜日本の原発労働者1



戦争を反省しない学者たち!!
・1949年1月22日、上野公園内の古めかしい青色の建物のホールで1人の男が何事か叫んでいた。
「国が戦争に突っ込んでしまったら、われわれ科学者はですね、国のために協力して、これに尽くすというのは当然じゃないでしょうか?今ごろ、戦争中のことを持ち出して、戦争に科学者が協力したのを反省しろと言うが、そんなことでよいのだろうか?第1、戦争なんてもう過去のことじゃないか?憲法が戦争を放棄している以上、それはもう問題外のことではないか?将来の戦争のことを考えて、声明に戦争の反省などを書き加える必要はない。第7部会はこれに反対します」
集会は日本学術会議の第1回総会であった。立ち上がって叫んでいた男は、名古屋大学教授の久野寧(くのねい)であった。

・私は、この南極観測に731部隊員が登場したことについて、最近の取材で当時の学術会議会長であり、南極観測特別委員長でもあった茅誠司氏に意見をたずねたことがある。茅誠司氏はその時、私に電話でこう答えた。
「北野政次?その人がどんな人か知らない。私は記憶していない。しかしいま、反体制といわれる人でも、戦争中はずい分いろんなことをやっていますよ。戦争中のことはあんまり採り上げない方がよい。それに例え、それが関東軍の経験であっても、昔、南極観測を白瀬中尉がやったように、いまの学術に役に立つものなら取り上げてよいのではないでしょうか?」
【『日本医療の原罪』(人体実験と戦争責任)高杉晋吾著より】

※日本は東大や京大の教授も含めて余りにも大がかりに細菌戦の研究をした。
ドイツと比べても桁違いだ!!アメリカはこの国家的犯罪に驚き、原爆調査・細菌戦のデータの引き換えに、戦犯免責したのだろうか?


「脱ひばく移住法」制定の提言(1) 松井英介


「脱ひばく移住法」制定の提言(2) 松井英介


フクシマに原発推進団体が圧力をかけている!!(日本財団・IAEA・ICRP・アレバなどなど)
「脱ひばく移住法」制定の提言(3) 松井英介



内部被爆のこわさ!!
「脱ひばく移住法」制定の提言(4) 松井英介


「脱ひばく移住法」制定の提言(5) 松井英介


IAEAとWHOの関係(ビデオ後半)
「脱ひばく移住法」制定の提言(6) 松井英介


「脱ひばく移住法」制定の提言(7) 松井英介


「脱ひばく移住法」制定の提言(8) 松井英介

恐怖!エートス・プロジェクトは731部隊の再来だ!!
<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか?/その1
<エートス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その2

NPO法人 731細菌センター総会より
2012年度の活動報告

2013年度事業計画【1】

2013年度事業計画【2】


総会決議


***********************************
日本人は記憶に無い?これでいいのだろうか?(一部の731部隊員は証言したが、殆どの隊員は戦後口を閉ざした!!)

中国では、細菌戦の慰霊祭が行なわれている!!


淅中新報
2012・11・18付けの淅中新報 崇山村細菌戦70周年

裁判に於ける細菌戦被害地(1940年~1942年当時)裁判における細菌戦被害(1940年~1942年当時)
※クリックすると大きくなります!

生物兵器による攻撃1

******************************

●731部隊
【戦後日本
・・・・・・
この日米の密約が1986年には破綻したことは第1章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のために大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行なっていた。それゆえ本来なら決して行なわない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
国を、天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、一つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対しては決して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。】
(「731部隊」講談社現代新書 常石敬一著 P199~P200)




「華人労務者」強制連行政策遂行の最高責任者は今の安倍首相の祖父岸信介商工大臣だった!!(1942年東条内閣)

「企業の戦争責任~中国人強制連行の現場から」を読んで

体罰問題で揺れるJOC会長竹田恒和氏の父親は元皇族の竹田宮!
【竹田宮(竹田宮恒徳王)は・・・日本占領下の満州で任務に従事した。そこで彼は、首席主計官として、関東軍において戦時に設置された重要なポジションに就いた。そういう地位の人間として、彼は満洲におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。彼は平房を頻繁に訪れたが、その際は、宮田武中佐と名乗っている。おそらく竹田宮・宮田中佐は、自らの任務を果たすために、満州にある他の死の工場も視察したはずである。
竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍における医療行政官のチーフのように権力のある個人すら、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼等をエスコートした。
彼の表面的な平和主義と戦後期の業績にもかかわらず、一市民竹田宮は、細菌兵器の強硬な信奉者であり続けた。彼は細菌兵器が戦争の道具として比類のないものであるとの確信を持ち続けた。時代は下って1983年、竹田宮は、細菌兵器について尋ねるインタビューに対して次のように語っている―「私は、われわれが戦争を遂行するためにはあらゆる手段について研究する必要があったと信じています」。】(『死の工場』p227~228 シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳、柏書房、1999年)


日本は、国体を護持(天皇制維持)するためにアメリカにいい印象を、与えたかった。
そして、戦後、天皇裕仁とマッカーサーのトップ会談が何回も持たれ、いろいろ話し合われた。私は、その内容については全く知らないが、その中で非人道的な731部隊の人体実験や細菌戦、またアメリカによる原爆投下などのことにも触れているのではないかと想像してしまう。お互いの2国間の政府の間では、そのことを問題にするのはやめようと。
昭和天皇とマッカーサー会見の時

その結果、東京裁判では、731部隊のことや原爆のことは全く問題にされず、誰一人そのことで裁かれなかった。
731部隊の詳細な資料と何人かの隊員はアメリカに渡り、アメリカはその資料や隊員の話を元に自国の遅れていた細菌戦研究を進め、朝鮮戦争やベトナム戦争で実戦使用した。
※(「第2部には、我々の他に、八木沢班というのがあった。ここは植物や穀物を枯らす細菌の研究をしていた。ベトナム戦争の時に、アメリカ軍が、ベトナムで枯葉作戦というのを行なったというのを知った。そして、この枯葉作戦は、731部隊八木沢班の研究が発展させられたものであるという事を聞いた。なんともやりきれない想いにとらわれてしまった。」【真相 石井細菌戦部隊 郡司陽子編 P121より】)
枯葉剤
※枯葉剤の影響を受けて下半身がつながったベトちゃんドクちゃんを日本の医師団が手術し、分離に成功したのも何とも皮肉な話だ。
ベトちゃんドクちゃん

また、原爆に対しても、全く世界から非難されなかったことで、原爆→水爆という狂気の道に突き進んでいった。
一方、日本は、731部隊員に全くお咎めが無かったものだから、元隊員たちは以前と変わらぬ倫理観で医療の現場に立ってしまった。精神病院や乳児院、刑務所その他製薬会社などで人体実験が行なわれ、時々大きな事件となり、世の中を騒がせた。
戦後の医学界は、731部隊について反省するどころか、権力側が731部隊のことを隠蔽したいため、731部隊の中枢に近い人たちに、医学界をリードさせた。そのため全く731部隊の反省はされず、その系譜が今に引き継がれている。
薬害エイズ事件
薬害エイズ問題と731部隊
731部隊とエイズとの関係

フクシマを植民地支配するナガサキの医学者達-731部隊の現代版









原発事故の福島や、国立感染症研究所や自衛隊の化学学校では実際どんな研究がされているのか、と考えるとそら恐ろしくなる。


防御と攻撃は紙一重!!防疫給水と言って戦中細菌戦を進めていたことを見ればよく分かる。
自衛隊化学学校の実態
動画でわかる!陸上自衛隊化学学校
また、原発事故で明らかになったように、日本も原爆開発に執念を燃やしている!!



中国に咲いた一輪の花!!
朝日新聞より   2011年7月9日15時30分
中国の731部隊跡地に謝罪の碑
731謝罪の碑
日本人の募金で設置731部隊の旧跡に建てられた日本人の募金による記念碑=9日、ハルビン、西村写す

(日本政府が正式に謝罪すべきだ!!)


罪の重さを思うと言葉で「謝罪」は表せない!
(ABC企画NEWSより)
7月9日、ハルピン市平房区、731部隊本部遺跡内に建立した碑・『謝罪と不戦平和の誓い』除幕式典で、日本側代表挨拶を終え、壇上から降りた矢口仁也は“ああするしか思いつかなかった”とつぶやいた。
今日、私たちはこの日を迎えるに当たって、これまでの道のりを回顧すると、裁判闘争に限界を感じ、日本政府の歴史認識の曖昧さに落胆し、怒り、“せめて市民の手で「謝罪」の碑を建てよう!”と決意し2004年、名称も碑文も決まらないまま『殉難烈士慰霊碑』(仮称)建立募金の呼びかけを開始した。
名称『謝罪と不戦平和の誓い』、わずか4行の碑文に加害者としての謝罪の言葉を記すことの難しさは6月、石碑に文字を刻む作業直前まで迷い続けた。私達の思いは果たして被害者の心に届くのであろうか?一抹の不安を抱えながら迎えた除幕式であった。
「731部隊によって虐殺された3000人以上の烈士の皆さん、夫を、父を、息子を奪われた遺族の方々、そして731部隊に住処を奪われ「労工」として強制的に働かされた多くの罪なき人々、1人1人にどの様に謝ればよいか申し上げるべき言葉はありません。」と言って矢口代表は碑の前にひざまずいた。参列者の私たちも思わず頭を垂れた。この謝罪碑は、731部隊によって亡くなった方々への謝罪と同時に、日本の侵略戦争によって侵された全ての犠牲者に対する謝罪の気持ちを込めた碑でもある。
落成式に参列したペスト被害者の故靖福和夫人、『特移扱』被害者遺族の朱玉芬さんは「市民の皆さんが建てた謝罪碑によって多少心が和んだ。皆さんの気持ちに感謝したい、しかし、それでも日本政府には是非謝罪を求めたい」と述べた。

新たな気持ちで次の一歩を!


碑を建設したことで“謝罪が終わった。許していただいた”ということではない。15年にも亘る侵略戦争によって語り尽くせないほどの被害を受けた中国人民に対し、世代が変わろうと、加害者である日本人としての責任は果たさなければならない。
私たちはその責任の1つに731部隊遺跡保存があると考えている。731部隊遺跡は平房区の住民にとっては本来“目の前から消えてほしいもの”。その屈辱の遺跡が今日まで保存されているのは住民の皆さん、歴代陳列館長を初めとする区、市、省政府の諸先生方の歴史認識の結果であると思う。彼らの努力に感謝するとともに、今日を新しい出発点として、友好を深め、平和を創造し、子孫の未来のために日本政府が正式に謝罪し、戦後補償を実現するまで私たちは運動を続けていくことを誓う。
今回、国会議員の参列は実現できなかったが、阿部知子衆議院議員、服部良一衆議院議員、今野東参議院議員、斉藤勁衆議院議員、川田龍平参議院議員、笠井亮衆議院議員の6人からメッセージを頂いたことは今後の運動への第一歩ともいえる。
最後に、除幕式開催にあたり特に協力、準備してくださった黒竜江省外事弁公室の諸先生方、金成民陳列館館長と職員の皆様に心から感謝します。



日本はドイツの脱原発やドイツ医学会の謝罪に多くのことを学ぶべきではないか!!












「731部隊のすべて~人体実験・細菌戦~」
(2012年4月15日東京ウィメンズプラザ・ホール)
「悪魔の飽食」
人体実験被害者遺族の証言
細菌戦被害者の証言
細菌戦の研究
新資料発見者 奈須重雄さんのお話
松村高夫(慶大)さんのお話
(日本軍の毒ガス被害)日本の被害者は救済するが、中国の被害者は救済しない?
遺棄毒ガス敦化被害事件、不当判決!!
遺棄毒ガス問題について
周桐さん・731記念館館長のお話
最後の挨拶

731細菌戦部隊の全貌

731部隊では何が行われたのか

731部隊員の証言 1


中国再訪の旅5

「政府は細菌戦の資料公開を」中国の被害者遺族ら会見

旧日本軍、中国で細菌戦 陸軍の極秘公的文書に記述

細菌戦の新発見資料について

▼金子論文はこちら(PDF 14MB)

731部隊の細菌戦 新証拠発見


※731部隊は、ホルステン河に細菌をまき、日本兵を感染させ治療し感状を貰った!!
(731部隊の治療実績を陸軍に見せつけ、陸軍内での石井四郎の発言力・影響力を強めた!!)

ノモンハン事件・石井の野望 2

<731部隊>関係者リストの作成作業に協力要請

医学界とは731部隊そのものである

国家主義者平泉教授の戦慄  人間魚雷と731部隊 (その1)

朝鮮戦争でアメリカは細菌戦を行った!

戦時中、普通の軍医・医学者が行なった生体解剖
[証言記録 兵士たちの戦争

[証言記録]従軍看護婦が見た戦争

太行の麓をしのんで -生体解剖-

湯浅謙

九州大学生体解剖事件
ザ・スクープ

(15)吉田源二、東大医学部出身、昭14.4.5から終戦まで在隊、吉村寿人の下でマルタの管理を担当。

【2 吉田の源さん
だが、このような区別、つまり正規の軍医であったか、短限であったか、それからまた陸軍技師であったか、臨時嘱託であったか、そんなことが、あの部隊に所属していた研究者である限り、その罪は一蓮托生であるという点からすれば、いったいどれほどのちがいになるというのかと、思い知らされる日が間もなく到来した。
それは、わたしが昭和19年(1944)5月末、その前年の9月に再婚したばかりの妻を伴って任地へ赴く途中、満州国での第1夜を過したハルビンの宿に、歓迎の意を伝えるべく訪れてくれた旧友の口からはじめて、部隊の秘密をおぼろげながら聞き知ったときのことである。
その旧友というのは吉田源二陸軍技師であり、この人は旧制第1高等学校を経て昭和9年(1934)に東京大学医学部を卒業後、いつ頃から第731部隊に勤務するようになったのかは知らないが、当時は第4部二木班に所属していた。
この吉田技師を旧友とよぶ所以は、かつてわたくしが昭和4年(1929)4月、一高に再入学したときに同校の3年生であったばかりでなく、かれはその頃だれ知らぬ者がなかったほどの向陵切っての名物男でもあったからである。
だが、そのかれにハルビンの宿で久しぶりに再会したわたくしが、何よりもまず衝撃を受けたのは、(きみが来てくれたのはうれしいが、それにしてもとんでもないところにやってきてしまったもんだなあ。きみは知っていたのか、知らずにか)というかれからの質問がきっかけではじまった部隊のはなしであったが、それにもましておどろかされたのは、かれの変わり果てた面影であった。
わたくしの記憶の中で生きていた吉田の源さんは、豪放らいらくを絵に描いたような、典型的な一高健児であった。そして、数々の向陵物語でおなじみな記念祭とか、全寮茶話会とか、あるいはまた一高三高対抗野球戦とか、寄宿寮ストームなどでは、必ずといってよいくらい高吟乱舞をほしいままにしていたかれの姿を見るたびに、わたくしは「友の憂いにわれは泣き、わがよろこびに友は舞う」という寮歌の一節がそのままのかたちで演じられている感に迫られたものであった。
それがどうであろう。ハルビンの宿で目前にした吉田技師は、相手をまともに見ることはせず、いつも伏目勝ちで、話す言葉には弾みがないのでぼそぼそと聞きづらく、あまつさえその口許にはうすら笑いさえうかべていたのである。
しかもそれは相手に対してというよりは、多分自分自身へ向けての侮蔑の現われであることはたやすくみてとれた。それにしても、かつては豪傑笑いとよく噂された、明るい、いかにも屈託のなさそうなかれのあの笑いがいつの間に、こんなにうしろめたい、謎めいたものに変わってしまったのか。
そのほか、かれの身のこなし方にも以前とはすっかりちがってしまっているところがあるのに気がついた。たとえば、両肩をすぼめ、前かがみになって歩くかれの後ろ姿などは、その身につけているカーキ色の軍属服とはおよそちぐはぐな感じであったし、それやこれやが重なり合ったかれの変わりようは、(これがあの源さんなのか)と、しばしわが目を疑いたくなったほどのものがあった。
わたくしはその後も、しばしばかれとは話し合ったこともあり、それに間もなくかれが二木班でどのようなことをやっていたのかを知るに及んで、はじめてすべてが残りくまなく解き明かされたのである。そしてわたくしは改めて、ドイツ浪漫派作家が好んで題材にしたあの「悪魔に影を売り渡した男」は現実にも存在しているのであって、決してとりとめもない空想の産物などではないことを思い知ったのであった。】
※向陵・・・東京本郷向ヶ丘にあった旧制第一高等学校の別名。
(「医の倫理を問う 第731部隊の体験から」 秋元寿恵夫著 勁草書房)

731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!(医学者の道を捨てた男もいた!!)
医学犯罪、今どう考える…?731部隊の“闇”を振り返る
2000/3/5 放送「731部隊と医学者たち」(医学者の道を捨てた男・秋元寿恵夫の生涯!!)
知ってるつもり 731部隊


『部隊展』(1993年~1994年)の資料より
体の凍り具合
●凍傷は日本軍が極寒の地を征服するためには、どうしても克服しなければならない課題だった。以前は、凍傷に対する最も有効な治療法は、患部をわらでこすることだった。凍傷実験を担当した吉村寿人(ひさと)班では、以下の手順で実験を行った。
1、零下20度以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する
凍傷実験1
吉村が自著『喜寿回顧(きじゅかいこ)』の中で批判に応えるため「凍傷実験など大したものではなかった」例として使っている写真(被験者は蒙古人少年)
※吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年 - 1990年)は日本の医学者。生理学者として師である正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)より731部隊に赴任するよう命じられ、凍傷研究に従事した。吉村の731部隊における研究について、かつての部下らによるハバロフスク裁判での証言やイギリスの取材陣らが収集した証拠資料と証言資料では、人体実験での貴重な「研究」とされる。戦後、731部隊の人体実験のデータと推定されるものを用いて日本生理学会に論文を多数発表する。また、戦時中においてもすでに成果を同学会において口頭発表がなされていた。戦後京都大学に戻り、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、学長を務めた。1978年には、「環境適応学」の先駆的業績を果たした功績に勲三等旭日章が授与された。(ウィキペディアより)


『証人古都良雄の尋問より』
凍傷実験2
●古都良雄。1941年7月より1945年2月まで、第1部第1課に勤務、衛生兵。その後第643支部病原菌研究班に勤務中、ソビエト軍の俘虜となる。
問)人体凍傷実験について話してもらいたい。
答)人体凍傷実験は、毎年、一年の中で一番寒い・・・11月、12月、1月、2月に部隊内で行われました。この実験の方法は次の通りであります。すなわち被験者を夜11時頃、酷寒の戸外に連れ出し、冷水の入った桶に両手を入れさせ、それから手を出させて、濡れ手のまま、長時間寒気に立たせました。あるいは又、こうもしました。着物は着せても裸足の人間を戸外に連れ出して、夜、一番寒い時に寒気に立たせました。
人間が凍傷に罹った後、室内に連れ込み、およそ5度の温水に足を入れさせ、徐々に水温を上げました。こうして、凍傷の治療方法が研究されていました。私はこれらの人間が室内に連れ込まれてからの実験は直接見ませんでしたが、私が不寝番に立っていました時、人間を寒気に連れ出し、そのところで凍傷に罹らせられているのを見ただけであります。人間に手を水に漬けさす室内の実験については、目撃者の話で聞きました。
問)又、どんな人体実験が行われていたか?
答)吉村研究員が、人間に対するびらん瓦斯(ガス)使用実験を行っていたことを私は知っています。私はびらん瓦斯(ガス)の効力を試験するのに使用されていた人間を監獄の中で見ましたが、この実験の方法がどうだったかは、知りません。
問)これらの人々はどういう状態に置かれていたか?彼らには、どういう症状が現れたか?
答)私は、手、足に大きなびらんが生じている人々を見たことがありますが、これ以上何も知りません。(『細菌部隊ハバロフスク裁判』海燕書房)
凍傷実験3
凍傷実験4

黒い太陽731 3

ハバロフスク裁判の様子
ハバロフスク裁判の様子
各部長・支部長集合写真(731)
NPO法人 731資料センター 会報5号」より


※アメリカは中国における日本軍の情報を集めていた。
南京大虐殺・重慶などの都市の無差別爆撃、毒ガス戦・大規模な細菌戦などの残虐行為に対して、今度は報復に出た。


※満州の満人部落をはじめ、農安県でも731部隊は細菌をばらまき、多くの人々を殺し、家々を焼き払った。これも、細菌が自然発生したように見せかけた謀略であった。
フェル・レポートによればPX(ペスト菌を保菌しているゲオプスネズミノミという兵器)を使用した細菌戦は12ケ所で行われ、一次流行したら二次流行と続き多くの犠牲者を出した。
今現在でも中国でこの細菌戦の調査が行なわれている。また、他の病原菌を使った細菌戦やゲオプスネズミノミ以外のペストノミを使用した細菌戦もあったようだ!!(『731資料センター会報第2号』を参照)

細菌戦の新発見資料について
精魂塔(表)
精魂塔(裏)

精魂塔(これは一体誰を供養しているのだろうか?裏側は何か消したようにも見える!!)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
殺人工廠(1)
731の最後 死亡列車0
「前事不忘 後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)
“戦争を語る”人々

証言ー侵略戦争1

北朝鮮による拉致も大きな政治課題だが、戦時中に日本軍が行なった大規模な強制連行(拉致)に対しては戦後日本はきちんと対応したのであろうか?
中国人強制連行1



問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
1、731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
2、731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
3、細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
4、731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
5、細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
6、細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!
2009.10.25  「戦争と医の倫理の検証を」(東京保険医新聞)
「戦争と医の倫理」の検証を進める会


●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地(731部隊の周りは「無人区」とされ、そこには、もともと中国人が住んでいて、生計をを立てていたが、強制的に追い出され、その住民たちは路頭に迷い、悲惨な状況におかれた。)に研究施設を作り(建設を請け負ったのは、鈴木組、松村組、藤田組、大林組であった。建設当初から敗戦まで、多くの中国人が苛酷な状況下で仕事をさせられ、仕事の犠牲になった者や逃亡を企てたり逆らったりして残酷な刑で殺された者も多数いた)、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌兵器は中国の都市で実戦された。その結果、細菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
中国では、日本軍の毒ガス兵器使用や細菌兵器使用による死者が増大し、中国は国内外に日本軍の行為を告発した!!(1942年の淅贛作戦では、細菌兵器で日本軍にも多くの犠牲者を出してしまった。このような結果から、一時細菌兵器は、参謀本部の信頼を失うことになったが、それでもなお731部隊では研究開発を進め、1944年の末に石井式細菌爆弾を完成させる。)

1943年にはフランクリン・ルーズヴェルト大統領が、日本の細菌兵器及び化学兵器(毒ガス等)による攻撃を非難する声明を出した。ルーズヴェルトは、「日本の武装兵力によって中国のさまざまな場所で有毒ガスが使用されているとの信頼すべき報告が届いている」と言明した。彼は次のように警告した―。

もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを、間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。

ルーズヴェルトは、彼の警告を以下の言説で締め括っている―「われわれは完全な懲罰を強制する準備をしておかなければならない。日本には〔国際〕責任が発生するであろう」。

この声明に呼応するかのように、その後の日本軍は、化学兵器、細菌兵器の使用を自粛するようになる!!

1945年3月再び石井四郎が731部隊長に就任すると、連合国に対し最後の一撃を加えるために、満州の鼠の捕獲を大々的に行なわせ、ペストノミを増産させた。
ところが、天皇・参謀本部は、敗色が濃く、アメリカの反撃や敗戦後のことを考慮して、細菌兵器の使用を断念した。

1945年8月、ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。

1946年夏の終わりの初秋の頃、平房地区一帯でペストが発生し100余人の人が命を落とした。この原因も731部隊が飼育していた鼠に関係があるようだ!!

731部隊のこのなんとも早い逃亡劇は、731部隊の戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも三笠宮をはじめ何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族(竹田宮)もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
そのためアメリカは、731部隊員に戦犯免責を与える代わりに731部隊のデータ全てを独占して買い取り、また、上級部隊員をアメリカ軍に協力させ、朝鮮戦争やベトナム戦争に開発した兵器を使用した。
このような流れの中で、アメリカは東京裁判では731部隊の事は取り上げず、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

マッカーサーと昭和天皇
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

沖縄メッセージ
天皇は第4回会見の後も、例えば47年7月下旬には片山内閣の外相芦田均に「内奏」を求め(芦田自身は新憲法に照らして重大な疑義を抱いていたが)、「日本としては結局アメリカと同調すべきでソ連との協力は難しいと考えているが」との“自論”を展開し、9月19日にも「日本将来の安全保障の問題」について「内奏」をうけている。そして実は、沖縄における米軍の占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで継続されることを望むという、有名な「沖縄メッセージ」がマッカーサーの政治顧問シーボルトによって覚書にまとめられたのは、翌20日のことであった。
このメッセージが天皇自身の意思で出されたことは、『入江相政日記』(第10巻)における、「アメリカに占領してもらうのが沖縄の安全を保つ上から一番よかろうと仰有ったと思う旨の仰せ」(1979年5月7日付)との記述によって確認された。それにしても、2年数ヶ月前に壮絶な“本土決戦”を体験したばかりの沖縄の人達にとって、当時「沖縄の安全」に対する最大の軍事的脅威が米軍の占領そのものであったということは、天皇のおよそ考えの及ばないところだったのだろうか。いずれにせよ、このメッセージが沖縄の地位を規定することになった講和条約第3条の形成にどのような影響を及ぼしたのかといった問題は、ここでは議論の外である。重要なことは、天皇がその意思によってこのようなメッセージを出していた、という事実そのものである。
(『昭和天皇・マッカーサー会見』豊下楢彦著、岩波現代文庫より)



●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。



1937年12月13日
南京陥落!!

南京大虐殺
日本政府は、戦史資料を公開せよ!!
河村・石原両氏の発言には全くあきれる!!



南京大虐殺は世界的に誤解されています。

中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。
父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。
非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。
捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。

ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。
昭和12年7月の南京の人口は135万人です。
11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。

否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。
小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。

(65連隊のシャーカン【下関】おける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)【核心氏のコメント(2009年11月2日)】
栗原利一資料集
20万人しかいなかったから30万人殺せない、というのはウソ   
Suopei №79より
南京なかった1
南京なかった2

歴史の正視なしに、日本は友好を得られず=香港メディア


鳩山元首相が「南京大虐殺記念館」訪問して謝罪

日本の鳩山元首相が訪中「南京大虐殺を謝罪、尖閣は係争地」=韓国

南京大虐殺を謝罪した鳩山氏…元首相では3人目

鳩山由紀夫―南京大虐殺を謝罪

「犠牲者は何人?」南京大虐殺記念館を訪問の鳩山元首相、館長の回答に絶句―本日の中国TOPニュース

『わが南京プラトーン』(一召集兵の体験した南京大虐殺)東史郎著より:青木書店
前線からの手紙
12月22日発(南京にて)
・・・・
一昨日、七千の捕虜の警戒に行く。彼等は逃げ場なく、戦いて見込みなく遂に白旗を立てるなり。吾等が行きし時、白旗三本を立てたるなり。白旗を木の枝に飜るがえし道路に居たるなれば、此れを田の中へ入れ、坐らしめ武器をとりあげる、其の頭目は軍医大尉なり。
支那兵は敗残兵となるや否や地方民の服装に変装する為に正否を判ずるに困難なり。
此の七千の敗残兵は各中隊に分配し、射殺するものなり。公然と白旗をかかげし捕虜を殺すは人道的に如何と思われしが、上司の命なれば致し方もなし。食糧なき為に殺すものならん。
解放すれば、何をするやも知れざる支那兵なり。吾等さえ食に困らんとするに彼等を養う糧秣もとよりなく、七千の捕虜の集合せるは凄き壮観なり。
戦況密に報じたけれども報じ難し、故郷へ帰りたるを得ばあれも語らん、これも語らん。・・・・・・・・・

1月23日(1938年)
・・・・・
巨大な生物、海の息子―揚子江が横たわる。
ガラガラと音高い御用船の起重機の音と共に、夜がすっかり明けた。
夜が明けると、私たちの眼前に凄惨な光景が展開した。岩壁に牛や豚のように虐殺され放り込まれた敵兵の死体―私たちが今日まで、常に見かけた特有のドス黒い色の死体、はち切れるほど空気を入れたかと思われるほどの、膨張しきってふくれ上がった黒い死体が、揚子江のなぎさに山となって転がっている。
全くよく肥えた豚のような死体だ。この汚ない黒い死体の上を、黄色い河水がひたひたと洗っている。ある死体は流された丸太棒のように水にゆられている。ある死体は連絡船の下敷きになっている。兵士たちは、踏めばぐしゃりと腐った泥の臭いのする臓物の出て来そうな、はれあがった死体の上を、飛石ででもあるかのように、鉄の鋲の打った堅い靴で、ポンポンポンと飛んで、連絡船に乗る。
蒋介石の忠勇なる兵士、抗日の英雄戦士、我々に銃口を向けていた戦士たちの最期が、捨てられた塵芥(ちりあくた)のそれである。
水上工兵たちは、ボートの上から長い柄の先のついた鉄の鉤(かぎ)に、これらの死体を、腐った大根にでもするようにグイと引っかけて、沖へ流しに行く。ハレもののように体全体がむくみあがった死体に、工兵たちの鉤がぶすりと刺し込まれ、1人の工兵が1個ずつ計5個がボートに引っぱられていく。
岩壁に1人の兵士が立っていた。彼は、
「毎日トラックで一杯、敗残兵を積んで来た奴を、波止場にずらりと並べて置いて、河の中へ突き落とし、泳ぐ奴をズドンズドンと射ち殺すのだ。これが俺の毎日の仕事だよ」
と、グッと顎をしゃくっていった。
嫌な仕事だ。ペッと私は唾を吐いて、彼の顔を、顎のあがった顔を眺めた。


波止場に酒保があった。それは倉庫の中である。私の足は、何がなしにそっちへ向かった。
水色の綿入れ軍服を着た捕虜たちが、工兵たちにしかりとばされながら、大きな荷物を運んでいた。奴隷のように捕虜たちは働いていた。
私は彼らを憎む気にはなれなかった。私が酒保で買ったミカンの缶詰を食っていると、使役に使われている1人の捕虜が、飢えた物欲しそうな目で、缶詰と私の口元を見つめていた。
彼の目、彼の口と鼻は物欲しさで一杯であった。彼の絶望的な光りの無い瞳から、私は戦争の悲惨さを感じた。もし、この戦さの勝負が逆であったら―。この哀れな捕虜の姿は、私自身の姿であるかもしれない。
私は食う手を止め、この捕虜に、ミカンの缶詰とタバコ3本を与えた。
「謝(シェ)!謝(シェ)!大人(タイレン)!」
彼は相好を崩し、くり返しくり返し頭を下げ、もう1人の捕虜とともに缶詰をむさぼり食った。・・・・・・・


3月12日
・・・
徒労のスパイ狩りかも戻り、内地から届いた『週刊朝日』をめくる。1月16日発行の増大号である。
この中で、楚人冠氏の「山中説法」なる欄にいわく―。
「南京陥落の当時、支那が無用の抵抗を最後まで試みた為め、南京は殆ど焦土と化し、何万といふ人が殺された・・・・云々」

南京大虐殺8

南京大虐殺7

南京大虐殺

20121207 報道するラジオ「就活学生に聞く総選挙の争点・日本の戦争責任」

南京事件 143枚の写真の再検証(1)

南京アトロシティーズ


南京事件-日中戦争 小さな資料集
日本人の「南京大虐殺」に対する認識
三笠宮崇仁と南京事件
偕行社の「お詫び」に見る南京大虐殺
23.南京大虐殺の責任(上)
東京裁判 天皇との絡み新たに
南京大虐殺 稲田朋美氏よ 日本人として恥を知れ!(その1:李秀英名誉毀損裁判)
【「南京大虐殺見た人いない」/ 田母神氏が隊員に教育か】
南京【あの発言から2か月】河村市長へのアドバイス(今、本当にできること)
「河村たかし名古屋市長の南京事件を巡る発言」

史実を守る会は、河村市長に以下の抗議文を
送りました。


抗議文

名古屋市市長 河村たかし殿

(1)貴殿は2012年2月20日午前、表敬訪問に訪れた南京市の共産党市委員会常務委員の一行に対し、「南京事件はなかったのではないか」と発言し、その後も同趣旨の発言を繰り返し、その結果、南京市は名古屋市との交流を一時停止、中国国内でも大きな反発を呼ぶなど、大きな問題に発展している。

(2)貴殿の今回の発言をまとめると、南京事件を否定する根拠として、①終戦後、下士官だった貴殿の父上が南京市において手厚くもてなされた、②目撃者がいない、という2点を挙げている。

しかし、根拠①は、当時の蒋介石政権の「以徳報怨」政策(国共内戦を見越しての日本軍宥和政策)に基づくものと解されるが、そもそも、この様なことが大虐殺を否定する根拠となるはずもない。これを根拠に大虐殺を否定するなどというのは、父上に対して温情を示した南京市民を裏切る暴論である。

また、根拠②は、事実に基づいていない。まず、その前提として指摘するが、南京市の地理の広さ、事件の期間の長さを考慮すれば、大虐殺の全体像を「目撃」することは不可能である。したがって、ここでの「目撃者」とは個々もしくは一定集団に対する虐殺の目撃事例ということになる。
そこで目撃の一例を挙げるならば、夏淑琴さんのケースがある。夏さんは、当時7~8歳だったが、2家族13人の内、11人が殺害されたことを目撃している(※1)。
一方、 独立工兵第1連隊第2中隊の岩崎昌治伍長は、捕獲した敗残兵を殺害したり、「城内に居った支那人を約二千名」を「全部殺してしまった」と陣中書簡に書いている(※2)。
また、ロイター通信社のスミス記者は、揚子江の桟橋で、「一千人の中国人を」「脆かせ、後頭部を撃ち抜く」という処刑の光景を目撃している(※3)。
この様に南京事件は、被害者も加害者も、また第三者でさえも虐殺の模様を「目撃」している。貴殿が言うところの「目撃者がいない」とは、単に「目撃事例の資料を知らない」ということでしかない。

(3)貴殿の「根拠」は根拠たり得ないものであり、それをもって「南京事件はなかったのではないか」などと主張するのは、非科学的主張としか言いようがない。
あまつさえ、表敬訪問に訪れた被害国の要人に向かい、この様な非科学的主張によって被害事実を否定するなどということは、誹謗中傷と受け止められても致し方ない。
即刻、「南京事件なかった」という暴言を取り消し、日中双方の国民に向かい、自身の不明を詫びることを求めるものである。

2012年2月26日
南京への道・史実を守る会
fact_keeper@yahoo.co.jp
http://jijitu.com

※1 笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』(高文研、2006年)P132-146
※2 岩崎稔『或る戦いの軌跡』(近代文藝社、1995年)P23-80
※3 石田勇治他『ドイツ外交官の見た南京事件』(大月書店、2001年)P44-50


河村たかし名古屋市長による
南京大虐殺否定発言に対する抗議声明

1 河村たかし名古屋市長の発言
名古屋市の河村たかし市長は2月20日、姉妹都市である南京市の共産党市委員会の訪問団に対し、1937年12月の「南京大虐殺事件」について、「通常の戦闘行為はあったが南京事件というのはなかったのではないか」と南京大虐殺を否定する発言を行った。その後も河村市長は同趣旨の発言を繰り返し、中国国内で大きな反発を呼び起こすとともに、各種交流事業が中止になるなど、日中間の友好関係に多大なる支障をもたらしている。
しかし南京大虐殺の事実があったことは、多数の目撃者や幸存者が現実に存在しており、南京市民の「民族の記憶」として記憶され、日本、中国及び欧米の膨大な資料がその事実を裏付け、歴史学界の定説ともなっており、第3次家永訴訟では①南京事件が組織的に行われたこと、②大量のレイプが行われたことを認めている。加えて、当弁護団が関与した幾多の判決においてもその存在が認定されている紛れもない歴史の事実である。

2 判決の認定した事実
731・南京・無差別爆撃訴訟事件において1999年9月22日に東京地方裁判所が言い渡した判決は、「『南京虐殺』というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告李秀英がその被害者であることも明らかである」と認定している。
この李秀英さんは、南京大虐殺当時妊娠7ヶ月だったが、日本兵の強姦に抵抗したことで全身を29箇所37回も銃剣で刺され、流産したが自身は奇跡的に生き残ったという体験をした。この李秀英さんを“ニセ被害者”呼ばわりした著者と出版社を訴えた「李秀英名誉毀損訴訟」で、2002年5月の東京地裁判決は、著者と出版社の責任を認めて損害賠償として150万円の支払を命じている。
同じく南京大虐殺の当時8歳で、家族7人を含む11人が日本兵によって虐殺され、母親や姉がレイプされ殺された現場に居合わせた夏淑琴さんについて、“ニセ被害者”と中傷した大学教授と出版社を訴えた「夏淑琴名誉毀損訴訟」でも、2007年11月に東京地裁判決は、「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」と断罪し、400万円の損害賠償を夏淑琴さんに支払うよう命じた。
そして、上海から南京に進軍中の二人の日本軍少尉が中国人に対するいわゆる「百人斬り競争」を行ったとの毎日新聞報道や、それに対する本多勝一記者による検証論稿等が名誉毀損に問われた「南京百人斬り訴訟」で、2006年5月に東京高裁判決は、「両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず」として、その実態が無抵抗の捕虜や農民らに対する「据えもの百人斬り」であったことを実質的に認めている。

3 撤回及び謝罪要求
これら裁判所が認定した事実は、いずれも「通常の戦闘行為」ではない日本軍による虐殺行為である。河村市長による今回の発言は、我が国の裁判所でも認定している「南京大虐殺」の事実を否定するものであり、何らの根拠のない妄言であることは明らかである。
河村市長が、こうした妄言によって中国国民を深く傷つけたこと、それによって日本国民全体の名誉も毀損したこと、さらに日中友好を大きく妨げたことは看過できない。即座に、南京大虐殺の事実を否定した発言を撤回し、中国国民及び日本国民に対し、公式に謝罪することを求めるものである。

2012年3月19日

中国人戦争被害賠償請求事件弁護団
731・南京・無差別爆撃訴訟弁護団
李秀英名誉毀損訴訟弁護団
夏淑琴名誉毀損訴訟弁護団
南京百人斬り訴訟(本多勝一)弁護団

「ノブの日記」(yahoo!ブログ)に寄せられたコメント!
南京大虐殺の大きな特徴は、武装解除した中国兵捕虜の虐殺が多いことです。すでに<12月18日の時点>で、複数の下級兵士の陣中日記に、<7万~10万人の捕虜の虐殺>の記録があります。それ以降も、虐殺が続きます。(捕虜の虐殺は、戦果となり、<軍人として出世の評価>となるので、日本軍側で集計しており、記録に残します。しかし、民間人の殺害は、隠すべきことなので、日本軍側には記録がない)これに、民間人の虐殺が追加されます。特に農村部での掃討作戦と言いながら中国人全員の殺害が多く、更に、食糧徴発、実際は掠奪の際にも、虐殺しています。(農民も、12月冬ですから食糧を掠奪されたら飢え死にです)
2012/4/10(火) 午前 7:24 [ sat*atu**200* ]
「ノブの日記」(seesaaブログ)に寄せられたコメント
河村は本当に馬鹿な男だ、数年前実名で河村に抗議したが返事なし、30万は毛沢東の宣伝で過大だが蒋介石は3万人以上と国連に報告、虐殺は有った、私は中国から復員してきた友人の父親の軍医から聞き15年前南京を訪問現地の資料をみて恐ろしくなった。(sakai)

3月28日 南京に中華民国維新政府成立。南京事件終焉する。
4月 1日 国家総動員法公布。 
【南京事件:笠原十九司著:岩波新書より】
「南京事件」143枚の写真            

李秀英さん
侵略の戦場で何があったのか!!

12月17日 南京入城式
『南京城頭日章旗翻る』&『南京入城式』
・映画やテレビの時代劇ではクライマックスにチャンバラシーンがあるが、斬られた方のその後の苦しみ・悲惨な光景は省略されることが多い!!日中戦争でも多くの捕虜や市民が日本刀による「据えもの斬り」にされ、殺された。最近のテレビでは日本刀を伝統文化だといって取扱っている番組があったようだ!!恐ろしい!!
・なぜ南京軍事法廷では皇族の朝香宮(当時上海派遣軍司令官)は皇族ゆえ裁かれなかったのか?
Rape of Nanking Part I Atrocities in Asia Nanjing Massacre
『地獄のDECEMBER-哀しみの南京- 』舞鶴公演(2011.3.17) -2-

映像の世紀 南京大虐殺13 元日本兵の証言 東史郎1/13

映像の世紀 南京大虐殺14 元日本兵の証言 東史郎2/13

映像の世紀 南京大虐殺15 元日本兵の証言 東史郎3/13

映像の世紀 南京大虐殺16 元日本兵の証言 東史郎4/13

映像の世紀 南京大虐殺17 元日本兵の証言 東史郎5/13

映像の世紀 南京大虐殺18 元日本兵の証言 東史郎6/13

映像の世紀 南京大虐殺19 元日本兵の証言 東史郎7/13

映像の世紀 南京大虐殺20 元日本兵の証言 東史郎8/13

映像の世紀 南京大虐殺21 元日本兵の証言 東史郎9/13

映像の世紀 南京大虐殺22 元日本兵の証言 東史郎10/13

映像の世紀 南京大虐殺23 元日本兵の証言 東史郎11/13

映像の世紀 南京大虐殺24 元日本兵の証言 東史郎12/13

映像の世紀 南京大虐殺25 元日本兵の証言 東史郎13/13

南京大虐殺
日中戦争 (1937-1938)
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
日本兵が記録した南京大虐殺4


NHKスペシャル 映像の世紀 第11集 JAPAN
阳光卫视 纪录片 国殇 第十二集:南京大屠城
「南京!南京!」が見られる映画サイト
映画「南京!南京!」日本語字幕版全編1/14
日本の戦争 2
南京大虐殺9
南京大虐殺
南京大虐殺5
南京大虐殺
情報の遮断を狙う?日本軍、アメリカ砲艦パネー号を撃沈!!
(アメリカ砲艦パネー号は、南京攻略下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者が、無線記事の送信に利用していた。)
アメリカ合衆国では、パネー号の撃沈は、南京で発生していた大規模な強姦と殺戮全体よりも大きな騒動を巻き起こした。12月13日にフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、爆撃に「衝撃を受けた」と語り、天皇裕仁に即刻の賠償を要求した。数日後に、消耗しきった生存者たちがようやく文明社会にたどり着いたとき、大衆の反応はますます悪化した。汚れて寒さに震え、毛布と中国の掛け布団、ぼろぼろになった衣服を身にまとった生存者の中には、ショックで未だに死線をさまよっている人もいた。彼らの話は、彼らの写真とともに、この国の全ての主要紙に、「1時間も続いた日本軍の攻撃にさらされたパネー号の被害者」とか、「南京における屠殺と略奪の統治」というような見出しで掲載された。アレイとメイエルのフィルムが劇場で上映されると、アメリカの観衆の間にさらなる激怒と反日感情を喚起するばかりだった。(P176、映像ジャーナリスト 「ザ・レイプ・オブ・南京」アイリス・チャン著より)



南京大虐殺マギーフィルム1

南京、マギーフィルム2

南京、マギーフィルム3

南京、マギーフィルム4

証言ー侵略戦争1

証言ー侵略戦争2

証言ー侵略戦争3

07-07. そういう話には乗らないでほしい—元日本兵の証言02






●陸軍登戸研究所
・陸軍登戸研究所とは
1937(昭和12)年、新宿にあった陸軍科学研究所の実験場が登戸に移され、電波に関する研究と実験が行なわれた。その後、秘密・謀略戦の研究所として本格的に拡充された。
陸軍参謀本部直属で、1942(昭和17)年に正式名称が「第9陸軍技術研究所」とされたが、軍の法規にすら記載されずにその存在は最後まで秘匿され、ただ「登戸研究所」と俗称されていた。
登戸研究所の任務は、秘密戦・謀略戦に関わる研究・開発だった。毒物、細菌などの生物化学兵器・他国紙幣の偽造・風船爆弾・憲兵隊やスパイ(特務機関員)などが使う武器・器具などを開発、製造した。したがって単なる研究所ではなく、数多くの地元住民を含めて約1000人が働く巨大な秘密兵器生産工場でもあった。
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

動物慰霊碑
①正門裏手にあって、高さは3メートルほどある。
碑の裏面には、「陸軍登戸研究所」「昭和18年3月」とあり、碑文の書は所長の「篠田鐐」であることも刻まれている。
②「陸軍登戸研究所」となっていることが注目される。正式名称「第9陸軍技術研究所」はあらゆる陸軍法規からも抹消されていた。
③碑の巨大さも不可解である。ここで格別に多数の動物を実験材料に使っていたという形跡はない。にもかかわらず、すでに戦局が傾いている最中にこれだけの大きさの碑を建てたのは、何か別の理由があったと考えられる。
第2科では生物化学兵器を研究・開発していた。その過程でイヌ、サル、モルモット、ブタなどを使って動物実験を繰り返したのだが、完成すると中国で人体実験を行なった。1941年5月22日から、登戸研究所の幹部7名が南京1644部隊に赴いて、青酸カリ、青酸ニトリール、雨傘毒蛇、ハブの毒などを用いて、約30人の中国人に実験した。1943年12月から翌年1月にかけても青酸ガスなどの人体実験を行なっている。いずれも防疫給水本部(731部隊=石井部隊)の協力のもとで行なわれた。
この事実を踏まえると、人体実験犠牲者の慰霊碑は建てられないので、動物の慰霊碑として巨大なものを建てたとも考えられる。費用は、この時期に陸軍大臣から与えられた「陸軍技術有功章」に伴う賞金が充当された。
④人体実験をする科学者の心理はどのようなものか。通常の倫理観を持った科学者が悪魔の科学者に変身する。第2科で生物化学兵器研究の中心にいた伴繁雄(終戦時、陸軍少佐)は、帝銀事件の捜査で警察の事情調査を受けた時、次のように供述している。
「実験を始めた。最初は厭であったが、馴れると1つの趣味になった(自分の薬の効果をためすために)。相手は支那の捕虜を使った。相手が試験官を疑うので偽装して行なった。たとえば・・・・。」(帝銀毒殺事件捜査手記第5巻より。昭和22年4月26日)
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

(200)陸軍登戸研究所⑤ 731部隊と登戸研究所
動物慰霊碑1

動物慰霊碑2

秘密戦関係
秘密戦関係
記念写真
記念写真(中央 三笠宮)
偽札
偽札(登戸研究所で作っていた)
風船爆弾
風船爆弾(模型)登戸研究所で製造していた!!

●516部隊
第516部隊
516部隊
516部隊と731部隊
中国戦線における日本軍の毒ガス戦
日本軍が遺棄した毒ガス及び中国人に与えた傷害 その1
内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室
化学兵器CAREみらい基金ブログ


大久野島と毒ガス

全国各地で奮闘する語り部たち
悼みの列島2
(相模湖・大久野島・花岡・・・・で戦時中何があったのか?)
必見!!「戦争を語り伝える人々」のガイドブック!!
『ルポ 悼(いた)みの列島』 あの日、日本のどこかで
室田元美
もう過去のことなんて、いいんじゃない?と思う人もいるかもしれないが、私の胸のなかには、石川啄木「韓国併合」のおり詠んだ「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」が常に引っかかっている。(「はじめに」より)

1945年3月10日
●東京大空襲

東京大空襲
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)

我々は106回の東京の空襲も風化させてはならないが、中国重慶に対して218回も無差別爆撃した事実も忘れてはならない!!

「重慶大爆撃とは?」

重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。
重慶大爆撃とは①
日本の原爆開発:核兵器開発競争? 鳥飼行博研究室

東京大空襲東京大空襲・戦災資料センターとは
東京大空襲・戦災資料センター
昭和20年3月10日 史上最大の虐
東京大空襲2絵 吉野山氏提供
アジアとの友好のために(1)

消えた日の丸1




●昭和天皇の戦争指導
EMPERO+1_convert_20110624105631.jpg

戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)





フォロワー

ブログ アーカイブ

自己紹介

新しい自分を発見中