2013年3月26日火曜日

この世の地獄!731・原発・南京!!

No more war!
No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!
GReeeeN no more war【歌詞付】

No more war



夏草をふみしめ遺跡の前にひざまずく
オバケ煙突の下、不気味に笑う悪魔の目鼻
ここで焼却されたマルタは虚空に消えた
その無念の粒子を今なお人々は呼吸する
この空間には癒されぬ死の怨霊が燻りつづける
だが誰もそのことを声高に語ろうとしない(『ハルピン残照 「731の記憶」』 田中寛著より)


731部隊と原発の共通点
国策・人命軽視!!
国策では普段では想像もできない残虐なことも行われる!!


被爆者の叫び!!
「わしはモルモットか!!」

原爆報告書は2年以上の歳月をかけ、国策として作られた。
そこには被害者救済はせずに被爆の調査だけをし、アメリカとの関係を優先させた姿が浮かび上がる。(治療はせず、被害の実態、原爆の威力を明らかにした。)
この時点で医師は原子力産業に取り込まれていく!!原爆投下後アメリカは原爆の治療研究を禁じた!!
内部被爆が人体に及ぼす影響!!脱原発宣言!!
原発ゼロをめざす7・2交流集会 肥田舜太郎さん



小出策郎中佐に出された極秘命令:
「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究(731部隊等)はすべて証拠を隠滅せよ!」

1945年8月アメリカは広島・長崎に原爆投下!!
その年だけで20万を越す人々が死んだ。
投下直後、国は大号令をかけ、1300人を越す医師・科学者を動員して2年以上の歳月をかけて1万ページ181冊に及ぶ原爆報告書を作成させた。作成過程で200人以上の死者の解剖も行った。対象は20000人を越えた。
最初の調査は原爆投下後の2日目から始まり、陸軍省医務局の小出策郎軍医中佐が取り仕切った。
目的は、原爆の威力を調べ、アメリカに渡し、有効な取引きカードにすることだった。

この調査は敗戦後の戦争犯罪(731部隊等)を隠蔽するためにも、そして国体を護持し、新たな日米関係を築く上にも重要なものだった。

この調査では被爆者の治療はせずに、放射線の影響を調べる検査だけが行われた。

自ら開発した原爆の威力を知りたいアメリカと、戦争に負けた日本の国の利害が一致した。

原爆投下から2ヵ月後、アメリカの調査団が現地に入ると小出中佐に替わり放射線医学の第1人者 都築正男が調査の中心となり一層力を入れた。

アメリカが一番知りたい情報
№14 原爆がどれだけの範囲の人を殺すことができるか?
17000人の子どもたちが70ヶ所の地点でサンプルにされ原爆の殺傷能力が調査された。
例)0.8km 560人全員死亡。

アメリカはこのデータを元に爆心地からの距離と死者数をグラフに表し、死亡率曲線と呼んだ。
被爆者はアメリカの核戦略に利用された。

また、200人以上の死者が解剖され、放射能の影響が調べられた。治療とは無関係。(731部隊員の得意とする分野か?)

治療とは関係ない人体実験も行われ、被爆者にアドレナリン(血圧を上昇させるホルモン)を注射した場合の反応などが調べられた。
№23
そのほか、どの様な人体実験が行われたのであろう?

また、原爆投下後に広島に入って原爆症になった医大生の日記もレポートにあり、入市被爆のの実態も明らかにされていた。

入市被爆者の最後の叫び!!
「私は末期ガンで余命いくばくもないことを医師から知らされました。国は私のような入市被爆の実態を分かっていません!!」
この方の勝訴判決が出たのは亡くなってから3ヵ月後でした!!

ところが、戦後の原爆症の裁判ではこのことは利用されず、入市して被爆した人が、長い間原爆症と認められず、苦しんだ!!

アメリカはドイツの人体実験については厳しく裁いたが、なぜ日本の人体実験について裁かなかったのか?調査中に、アメリカの人体実験もばれたのか?

「米軍の調査団の中には陸軍のスタッフォード・ウォーレン大佐、フリーデル中佐、海軍のシールズ・ウォーレン大佐のように、米国国内の放射能・放射線の影響を調べる人体実験に関係した者が含まれていた。
米側の医学者にとっても日本側の「特殊研究」の医学者の免罪が必要だった。
徒に日本側の犯罪行為を追求すれば自分の医療犯罪の発覚にも繋がる畏れがあった。「特殊研究」に従事してきた者どうし、戦勝国と敗戦国の違いを超えて、研究成果を分かち合うために米軍側の医学者たちは、日本の「特殊研究」者たちを許すことにしたのかもしれない。」

『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永


果たしてこの181冊の報告書の中で元731部隊員はどの様なことをレポートしたのであろうか?
吉村寿人、宮川正、在田勉、岡本耕造、石川太刀雄丸・・・
2013年度731事業計画
宮川正の軌跡
1944年3月4日、宮川は、関東軍防疫給水本部に配属され、731部隊のレントゲン担当となった。第1部細菌研究部第3課の吉村寿人の下には、レントゲン担当の二つの班ー宮川が班長を務める宮川班と在田勉(任期・1939年4月5日~1944年8月25日)が班長を務める在田班があった。
 西野瑠美子が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、男性用の収容棟と女性・子どもの収容棟にそれぞれ1ヶ所ずつレントゲン室があったとされる。細菌に感染させるマルタ(被験者)の健康診断のためのエックス線撮影が主な仕事で、部隊敷地内の隊員と家族のための診療所でもレントゲン診断を行った(西野瑠美子「731部隊―歴史は継承されないのかー元隊員を訪ねて」『世界』1994年4月号掲載)。健康なマルタの病変の経過を見ることが部隊の関心対象だったため、健康診断を受けさせ、健康と判定されたマルタだけが人体実験の対象になった。
 レントゲン班でも、人体実験が行われていた。西野が取材したレントゲン班の元隊員の証言によれば、「レントゲンを肝臓に当てる実験に立ちあった」といい、レントゲン班では、細菌に感染したマルタのレントゲン撮影を一定の期間をおいて実施したとされる。
 これと似通った匿名の731部隊班長の証言が吉永春子の書き下ろし『731 追撃・そのとき幹部達は」(2001年、筑摩書房)に収録されている。肝臓にレントゲンを照射して致死量を確認する実験を行ったという証言は、TBSテレビで1976年8月15日に放送されたドキュメンタリーのために吉永らが行ったインタビューの中で行われたものだった。内容から、匿名の証言者は宮川ではなく、もうひとつのレントゲン班の班長と推察される。
 宮川は、戦後、亀井文夫監督の記録映画「世界は恐怖するー死の灰の正体」(1957年)の撮影に協力している。この映画には、宮川も理事を務めていた日本放射性同位元素協会(後の「日本アイソトープ協会」)や山崎文夫、村地孝一らの科学者も協力していた。映画には、放射線を長時間、実験用のマウスに照射して死に至るまで観察する実験が記録されている。ネズミへの放射線照射の映像は、映画の中では、あくまで放射線の恐ろしさを実感させる素材として使われているが、一面で731部隊が死に至る人体実験の様子をフィルムに記録したという証言を彷彿させるものだった。1960年8月には、茨城県東海村の日本原子力研究所で宮川らがネズミにガンマ線を照射し、被曝時の生体変化を観察する実験を実施すると報道されたこともあった。
 宮川が731部隊でレントゲン班の責任者だったことは消せない事実だが、宮川が直接行ったとする人体実験の具体的な証言や記録は今のところ確認されていない。

 ・・・・これらの事例とは対照的に、宮川が公職追放を受けなかったのはいったいなぜなのだろうか。

・・・宮川正は、1949年「科学朝日」8月号の皆川理らとの座談会「放射能とは何か」に国立東京第一病院の医師として登場し、放射線の医学的な利用等について説明している。国立病院の勤務医になったことは、731部隊時代の行動について「お咎めなし」のお墨付きが得られていた証だろう。
・・・宮川は1953年に横浜医科大学の教授となり、やがて放射線治療の分野で名が知られるようになっていった。
・・・宮川と731部隊の関係者の繋がりは戦後もある時期まで、維持されたものと考えられる。
・・・第5福龍丸事件が起こると、宮川は4月から5月にかけて横浜・川崎両港に入港した民間船の放射能汚染調査と、5月からの横浜市内の上水道の放射性物質の測定を開始した。此れが評価されたためか、宮川は、10月に厚生省に設置された「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」の環境衛生部の委員に任命されることになった。
・・・1956年4月、宮川が東大医学部放射線医学講座の主任教授となった。宮川は、5月16日、原子力委員会の「国立放射線医学総合研究所設立準備小委員会」の5人の専門委員のひとりに任命された。
・・・宮川は、1956年に日本学術会議原子力問題委員会の放射線影響調査特別委員会委員に選ばれたのに続いて、翌年5月25日には原子力委員会の放射能調査専門部会(部会長・都築正男)委員にも任命された。宮川は、1958年9月1日、ジュネーブで開かれた第2回原子力平和利用国際会議にもアイソトープ・生物学関連のふたつのグループの責任者のひとりとして出席している。
 731部隊関係者の中で、原子力行政にこれほどまでに、食い込んだ者は、宮川以外には見当たらない。そうした意味で宮川は部隊の元関係者の中では特異な存在だった。
『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(5)

アメリカに少しでも心証をよくしようと、731部隊の証拠湮滅をはかり、国策として原爆報告書を作成した。もちろん、国体護持をねらった。

ところが、ソ連によって731部隊の人体実験のことが明らかになると、731部隊幹部は、アメリカと取引きし、データとの引き換えに731部隊員の戦犯免責を引き出す。

そして、アメリカに渡ったデータをもとに、731部隊員はアメリカに協力し細菌兵器の開発に力を貸す。そしてそこで作られた細菌兵器は朝鮮戦争やベトナム戦争に使われた。

日本はアメリカとの良好な関係を築くために原爆の非人道的なことを非難できず、また、アメリカも731部隊から得たデータで細菌兵器をつくったものだから、日本の非人道的な犯罪を裁けなかった!!
ドイツとは、大きな違いがある!!

医学界は国策の原爆調査(治療ではない)に大量動員されたり、731部隊が免責されたことにより、ABCCに取り込まれていった。そして放射能の人体に及ぼす影響を十分に知りながら、原子力産業推進に回ってしまう!!医学界は本気に内部被爆の研究をしていない!!推進側からストップがかかっているのではないか?

今のフクシマの医療、そのほか浜岡原発、その他原発の周辺で行われている医療がそれを物語る!! 

「原爆報告書」は、731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!
731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書

封印された原爆報告書
731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(1)

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(2) 西里扶甬子

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(4)

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(5)
原子爆弾の影響に関する医学的調査
第5福竜丸被爆事件
「原子力村」の原型形成



高杉晋吾
病気になった原発労働者を医者はきちんと診ない!!
原子力産業と医者の結び付き!!

国策としての731部隊・原発(1) 高杉晋吾
国策としての731部隊・原発(2)  高杉晋吾

国策としての731部隊・原発(5) 高杉晋吾
国策としての731部隊・原発(6) 高杉晋吾

20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発




フクシマに原発推進団体が圧力をかけている!!(日本財団・IAEA・ICRP・アレバなどなど)
「脱ひばく移住法」制定の提言(3) 松井英介



内部被爆のこわさ!!
「脱ひばく移住法」制定の提言(4) 松井英介


IAEAとWHOの関係(ビデオ後半)
「脱ひばく移住法」制定の提言(6) 松井英介

「脱ひばく移住法」制定の提言(7) 松井英介

「脱ひばく移住法」制定の提言(8) 松井英介



NPO法人 731細菌センター総会より
2012年度の活動報告

2013年度事業計画【1】

2013年度事業計画【2】


総会決議


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日本人は記憶に無い?これでいいのだろうか?(一部の731部隊員は証言したが、殆どの隊員は戦後口を閉ざした!!)

中国では、細菌戦の慰霊祭が行なわれている!!


淅中新報
2012・11・18付けの淅中新報 崇山村細菌戦70周年

裁判に於ける細菌戦被害地(1940年~1942年当時)裁判における細菌戦被害(1940年~1942年当時)
※クリックすると大きくなります!



すべての紛争を平和的な手段によって解決できないものだろうか?
原発・軍事偵察衛星・次期主力戦闘機・リニアは要らない!!
税金を震災復興に回せ!!憲法9条が泣いている!!
憲法9条を世界へ!!


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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政府は戦史資料を全面公開せよ!!
昭和天皇・皇族方の戦争責任を問う!!
世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!!

映像の世紀 南京大虐殺22 元日本兵の証言 東史郎10/13
終戦 なぜ早く決められなかったのか(前)

日本は、戦争の反省を真剣にしてきたのだろうか?
戦後、戦争の指導層は、そのまま権力の中枢に残り、731部隊員はアメリカから免責された。
あの戦争を美化する勢力は、加害の事実を否定し、教育界で巾を利かせようとしている。
教育現場では、思想・信条の自由は踏みにじられ、日の丸・君が代が強制されている。
現場では、重苦しい空気が漂っている。

戦争といじめは似ている。やられた方は一生忘れないだろうし、やった方はたいした事はないと思って、早く忘れようとする!!



平頂山事件から81年!!
日本政府及び日本国民はこの事実を直視していない!!
   

平頂山事件
1932年9月16日 平頂山事件

未だ癒えぬ傷(平頂山事件 生存者の今)

平頂山で何が起きたの?

真実を知りたい
「平頂山事件資料集」
平頂山事件80年を記念して、「平頂山事件資料集」(井上久士・川上詩朗編・柏書房)を発刊しました。平頂山事件に関する唯一かつ最初の本格的な資料集です!
被害者の膨大な証言、新聞報道、外交資料、裁判資料、日本では見ることができない資料も入っており、とても充実した内容です。とにかく証言は迫力があります。
個人で買うには少しお高めですが、自信を持っておすすめできます。でも自分で買うにはちょっと。。。という場合はぜひお近くの図書館で買ってもらうようリクエストをお願いいたします。ぜひ皆様のご協力をお願いいたします。
柏書房 定価25200円

平頂山事件の初!公式ホームページ

中国に行って驚くことは、平頂山でもそうだか、中国各地に抗日戦記念館があり、社会科見学といえば中国の小学生や中学生は抗日戦を学んでいる。一方日本の小学生などは中国での加害の事実などは学ばず、社会科見学といえば大手企業の工場や国会などを見学する(東京)。小学生が聞く戦争の話といえば、空襲の被害の話だとか、原爆のことで、日本の被害だけに殆どの学校が限定されている。文科省の方針だと思う。
これでは将来を担う両国民の歴史認識に、大きな溝ができるではないか!!



日中戦争の実態
日本人中国抑留の記録6(三光作戦)

日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区)




これじゃ死者(=殺された者)は浮かばれない!!
オウムのやったことと旧日本軍のやったことはよく似ている!!
サリンを撒いた!細菌を撒いた!
日中国交正常化41周年
問われる日本政府の隠蔽体質!!
問われる日本人の歴史認識!!
日本は世界で唯一、第2次大戦中、細菌兵器を実戦に使った加害国だった!!
きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!! 
「怨」
黒い太陽731部隊


「吾、吾が罪を知る」という遺書を残して自死した東大助教授に石井らは果たして何を要求したのか?(詳しくは「細菌戦部隊と自決した2人の医学者」【新潮社】をお読みください!)
昭和20年9月2日大学の研究室で自殺。(その日は戦艦ミズーリで日本が降伏文書に調印した。)



●731部隊
2912.7.21
第6回学習会《731部隊の国家犯罪を裁く》
「731細菌戦部隊と医師の戦争責任」
―いわゆるQレポートから見た金子順一論文の意義について―


2012年7月21日(土)、港区立商工会館6F第1会議室にて莇昭三さん(あざみ・しょうぞう。全日本民医連名誉会長、「15年戦争と日本の医学医療研究会」名誉幹事長)を講師に迎え、731部隊がおこなった細菌戦、人体実験の英文報告書「ダグウェイ文書」、医師の戦争責任についてお話いただきました。
主催:NPO法人731部隊・細菌戦資料センター

・1992年アメリカで、731部隊の人体実験のレポートが見つかった!!
 次は弱毒ペスト菌の凍結真空乾燥法の研究が研究報告Ⅱ部の中には非常にたくさんあるんですね。
 弱毒ペストでペストのワクチンを作る。ワクチンをどんどん作っていかない場合にはどうにもならない。弱毒ペスト菌を前線部隊に送る場合は「凍結真空乾燥」していますね。同時にペストに罹患した場合の診断方法ですね。皮内反応とか血清治療とか。
 こういう研究の論文も出ています。
  先ほど申しましたけれども、炭疸菌の事故がありまして、たくさんの人が死亡しましたが、私の推測では、ペスト蚤の製造過程でたくさんの兵隊が死んだと思いますね。今でも平房に行けばありますけれども、焼却炉が731部隊には3つあったんですよ。1つは死亡した「マルタ」の焼却炉、もう1つは実験した動物の焼却炉、3番目はこれ、日本人だけを燃やした焼却炉、これは731部隊の平房の中に入っているんですよ。
聞きますと、日本兵がたくさんペスト菌のために戦死している。それをここで焼却して遺骨にして持って帰ったんだろうということでした。
731部隊の焼却炉 - コピー


731部隊の人体実験のレポート発見(1992年




パネル集「戦争と医の倫理」
パネル集「戦争と医の倫理」
シンポの開催趣意書
パネル集はじめに
マルタの特移扱
発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会
発売三恵社より



●731部隊・原爆・原発
原子力村をぶっつぶせ!!原発の再稼動を許すな!!まさか、日本が劣化ウラン弾を作ってはいないでしょうね



東電のカネに汚染した東大に騙されるな!

日本を導く頼もしい学者先生方

【315】 国は正しい ?? 水俣病と福島原発

医学は水俣病で何をしたか(抜粋)

水俣病のときは、東大の学者を利用して世論操作を行い、被害を拡大させてしまって...

山下俊一のお師匠さん、重松逸造とは?


731部隊と山下俊一

731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち 福見秀雄・青木義勇と長瀧重信・山下俊一

ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永

山下俊一トンデモ発言


「御用学者」批判ができない大学社会

小佐古内閣官房参与辞任・20ミリシーベルト問題

2011年12月22日 「国の放射能の『除染に効果はない』」神戸大教授 山内知也

9.29がれき広域処理の真相を根拠法から暴く!山本節子さんのお話

大義なき戦争「イラク戦争」に日本は間接的に加担した!!憲法9条はどこへ行ってしまったのか?
覚悟が必要です。劣化ウラン弾放射能影響「ファルージャの子供たち」

三井化学岩国大竹工場が爆発、2012年4月22日 深夜に爆音・炎上

山口・化学工場爆発と劣化ウランについて。- 2012.04.22

■三井化学大竹工場は劣化ウラン弾の秘密工場だった

イラク攻撃で使用されている劣化ウラン弾に日本の電力会社の劣化ウランが使われている強い疑惑

やはり日本の原発は核開発目的だった!

20130221 ニュース深掘「集団的自衛権、外交、TPP、一刀両断」・孫崎享


アメリカの目的は日本の植民地化だ-アメリカの奴隷になるのか
驚愕の不平等条約である


20130322 報道するラジオ ①「福島第一原発停電事故・小出裕章」

【ペイフォワード環境情報教室】130323小出裕章先生Vol.021

ビデオニュース 2013.03.16 【 福島原発は今どうなっているのか 】

食品の放射性物質の検査見直し問題について。- 2013.03.24

NHK堀潤アナ退職「NHK会長筋の圧力」について。- 2013.03.24

科学を人間の手に 高木仁三郎 闘病からのメッセージ

反原発のカリスマ 市民科学者 高木仁三郎(1)

高木仁三郎:今、注目..."反原発のカリスマ"と呼ばれた学者

放射能汚染の真実 イチから学ぶ放射能のこと 2013年3月12日 前編:講演

ほったらかし(;`O´)o

忌野清志郞の反原発の歌  RCサクセション サマータイムブルース〜LOVE ME TENDER


●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
スマイス
スマイス
友人への手紙(1938年3月8日)
金陵大学、中国、南京
1938年3月8日
ほとんどの方々が、わたしたちのことで心配してくださったのは、空襲や戦闘での危険でした。最後の何日か空襲の間中、わたしたちちゃんと仕事していましたが、朝早く警報が鳴り響いてから1日中、「警報解除」は鳴らないでいたのです。戦闘の間中、わたしたち普通にベッドで眠っていましたのは、砲火が城南よりもっと近くにまできたら、目が覚めると信じていたのと―愚かにも日本軍が砲兵隊に安全区を尊重するよう指令するものと、信じていたからでしょう。わたしたち頭の毛が1本残らず逆立つほどにびっくりしましたのは、12月13日の午後に町の真中で、日本の先遣部隊と接触したときに、彼らの地図に安全区のしるしがついていないと、知ったからでした!(一般の人たちをその地域に移動させていると、彼らに知らせたにもかかわらずなのです)。この区域が安全だと確認されたのは(南の境界線沿いに砲弾が11発落ち、金陵大学の地域に13日の午後に、4発か5発落ちたほかは)、ここの外国人軍事視察官らの助言に従い、町の中で一番軍事的価値の低いところを選んだという、単純な理由からでした。12月13日の午後に、(町に閉じ込められて)安全区にやってきた中国の兵士たちすべて、わたしたちが武装解除しましたから、安全区内では狙撃ということはまったくありませんでした。ところがそのことは、日本軍の上級指揮系統から出た、安全区内であらゆる武装解除兵を見つけ、多くの一般市民といっしょに縛り、引き出していって銃殺せよとの命令を、阻止することにはなりませんでした。

南京大虐殺・731部隊の悪行を幻にするな!!

教科書に「南京大虐殺」はどう書かれてきたか

日本兵が記録した南京大虐殺1


南京大虐殺の真相

(1/14)南京大虐殺を謝罪する勇敢で良識ある元日本兵たち

映像の世紀 南京大虐殺26 見透かされた否定派の陰謀1/2

1. 南京大虐殺 日本軍によるアジアでの 残虐行為 Rape of Nanking Part 1

2. 南京大虐殺 日本軍によるアジアでの 残虐行為 Rape of Nanking Part 2

映像の世紀 南京大虐殺12 元日本兵の証言 金子安次

In the Name of the Emperor 天皇の名のもとにー南京大虐殺の真実

情報遮断!1937年12月12日・・南京攻略下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者が、無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パネー号を、日本軍が撃沈した!!なお、USS PanayのUSSは、US Shipの略号で、米国艦船であることを示します。

映像の世紀 南京大虐殺13 元日本兵の証言 東史郎1/13


映像の世紀 南京大虐殺25 元日本兵の証言 東史郎13/13

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )


The Rape of Nanking & Unit 731

1937 Nanking Massacre

NHKスペシャル 映像の世紀 第11集 JAPAN

南京大虐殺マギーフィルム1

南京、マギーフィルム2

南京、マギーフィルム3

南京、マギーフィルム4

証言ー侵略戦争1

証言ー侵略戦争2

証言ー侵略戦争3

07-07. そういう話には乗らないでほしい—元日本兵の証言02


●731部隊
【戦後日本
・・・・・・
この日米の密約が1986年には破綻したことは第1章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のために大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行なっていた。それゆえ本来なら決して行なわない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
国を、天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、一つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対しては決して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。】
(「731部隊」講談社現代新書 常石敬一著 P199~P200)



「上下関係・世襲を大事にする社会から1人1人の人間を大切にする社会へ!!」
天皇の元首化反対!!
脱!天皇教!!
天皇制から憲法9条を国是とする大統領制へ!!



自民党が新改憲案
国防軍・天皇元首・非常大権



「華人労務者」強制連行政策遂行の最高責任者は今の安倍首相の祖父岸信介商工大臣だった!!(1942年東条内閣)

「企業の戦争責任~中国人強制連行の現場から」を読んで

かつての天皇制軍国主義下の日本の軍隊では体罰は日常的に行なわれ、上下関係が厳しかった!!その流れを今の体育会系クラブは汲んでいるんではないか?
1人の人間として見ないで、1つの物と見る。
そして他民族を蔑視し酷使し、生体実験を日常的にし、国際条約を無視して、毒ガスや細菌まで撒いてしまった!!
湯浅元軍医(731部隊員ではありません)の証言
「罪の意識はないんですよ。悪いとは思わないんですよ。だって天皇の命令で、その時信じてやったのだし、勝利のためなんだから悪くないんだと、細菌だっていいんだと私は思ったし、石井四郎に尊敬の念を持ったんですから」


体罰問題で揺れるJOC会長竹田恒和氏の父親は元皇族の竹田宮!
【竹田宮(竹田宮恒徳王)は・・・日本占領下の満州で任務に従事した。そこで彼は、首席主計官として、関東軍において戦時に設置された重要なポジションに就いた。そういう地位の人間として、彼は満洲におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。彼は平房を頻繁に訪れたが、その際は、宮田武中佐と名乗っている。おそらく竹田宮・宮田中佐は、自らの任務を果たすために、満州にある他の死の工場も視察したはずである。
竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍における医療行政官のチーフのように権力のある個人すら、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼等をエスコートした。
彼の表面的な平和主義と戦後期の業績にもかかわらず、一市民竹田宮は、細菌兵器の強硬な信奉者であり続けた。彼は細菌兵器が戦争の道具として比類のないものであるとの確信を持ち続けた。時代は下って1983年、竹田宮は、細菌兵器について尋ねるインタビューに対して次のように語っている―「私は、われわれが戦争を遂行するためにはあらゆる手段について研究する必要があったと信じています」。】(『死の工場』p227~228 シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳、柏書房、1999年)


日本は、国体を護持(天皇制維持)するためにアメリカにいい印象を、与えたかった。
そして、戦後、天皇裕仁とマッカーサーのトップ会談が何回も持たれ、いろいろ話し合われた。私は、その内容については全く知らないが、その中で非人道的な731部隊の人体実験や細菌戦、またアメリカによる原爆投下などのことにも触れているのではないかと想像してしまう。お互いの2国間の政府の間では、そのことを問題にするのはやめようと。
昭和天皇とマッカーサー会見の時

その結果、東京裁判では、731部隊のことや原爆のことは全く問題にされず、誰一人そのことで裁かれなかった。
731部隊の詳細な資料と何人かの隊員はアメリカに渡り、アメリカはその資料や隊員の話を元に自国の遅れていた細菌戦研究を進め、朝鮮戦争やベトナム戦争で実戦使用した。
※(「第2部には、我々の他に、八木沢班というのがあった。ここは植物や穀物を枯らす細菌の研究をしていた。ベトナム戦争の時に、アメリカ軍が、ベトナムで枯葉作戦というのを行なったというのを知った。そして、この枯葉作戦は、731部隊八木沢班の研究が発展させられたものであるという事を聞いた。なんともやりきれない想いにとらわれてしまった。」【真相 石井細菌戦部隊 郡司陽子編 P121より】)
枯葉剤
※枯葉剤の影響を受けて下半身がつながったベトちゃんドクちゃんを日本の医師団が手術し、分離に成功したのも何とも皮肉な話だ。
ベトちゃんドクちゃん

また、原爆に対しても、全く世界から非難されなかったことで、原爆→水爆という狂気の道に突き進んでいった。
一方、日本は、731部隊員に全くお咎めが無かったものだから、元隊員たちは以前と変わらぬ倫理観で医療の現場に立ってしまった。精神病院や乳児院、刑務所その他製薬会社などで人体実験が行なわれ、時々大きな事件となり、世の中を騒がせた。
戦後の医学界は、731部隊について反省するどころか、権力側が731部隊のことを隠蔽したいため、731部隊の中枢に近い人たちに、医学界をリードさせた。そのため全く731部隊の反省はされず、その系譜が今に引き継がれている。
薬害エイズ事件
薬害エイズ問題と731部隊
731部隊とエイズとの関係

フクシマを植民地支配するナガサキの医学者達-731部隊の現代版

731の学者
731の学者

731部隊に関与した医師・医学関係者 
日本学術会議の態度
日本学術会議の態度

日本医師会の歴史認識
日本医師会の歴史認識

15年戦争への加担について
15年戦争への加担について


原発事故の福島や、国立感染症研究所や自衛隊の化学学校では実際どんな研究がされているのか、と考えるとそら恐ろしくなる。


防御と攻撃は紙一重!!防疫給水と言って戦中細菌戦を進めていたことを見ればよく分かる。
自衛隊化学学校の実態
動画でわかる!陸上自衛隊化学学校
また、原発事故で明らかになったように、日本も原爆開発に執念を燃やしている!!
日本国憲法第9条は全く形骸化しているのではないかとも思う。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


中国に咲いた一輪の花!!
朝日新聞より   2011年7月9日15時30分
中国の731部隊跡地に謝罪の碑
731謝罪の碑
日本人の募金で設置731部隊の旧跡に建てられた日本人の募金による記念碑=9日、ハルビン、西村写す

(日本政府が正式に謝罪すべきだ!!)


罪の重さを思うと言葉で「謝罪」は表せない!
(ABC企画NEWSより)
7月9日、ハルピン市平房区、731部隊本部遺跡内に建立した碑・『謝罪と不戦平和の誓い』除幕式典で、日本側代表挨拶を終え、壇上から降りた矢口仁也は“ああするしか思いつかなかった”とつぶやいた。
今日、私たちはこの日を迎えるに当たって、これまでの道のりを回顧すると、裁判闘争に限界を感じ、日本政府の歴史認識の曖昧さに落胆し、怒り、“せめて市民の手で「謝罪」の碑を建てよう!”と決意し2004年、名称も碑文も決まらないまま『殉難烈士慰霊碑』(仮称)建立募金の呼びかけを開始した。
名称『謝罪と不戦平和の誓い』、わずか4行の碑文に加害者としての謝罪の言葉を記すことの難しさは6月、石碑に文字を刻む作業直前まで迷い続けた。私達の思いは果たして被害者の心に届くのであろうか?一抹の不安を抱えながら迎えた除幕式であった。
「731部隊によって虐殺された3000人以上の烈士の皆さん、夫を、父を、息子を奪われた遺族の方々、そして731部隊に住処を奪われ「労工」として強制的に働かされた多くの罪なき人々、1人1人にどの様に謝ればよいか申し上げるべき言葉はありません。」と言って矢口代表は碑の前にひざまずいた。参列者の私たちも思わず頭を垂れた。この謝罪碑は、731部隊によって亡くなった方々への謝罪と同時に、日本の侵略戦争によって侵された全ての犠牲者に対する謝罪の気持ちを込めた碑でもある。
落成式に参列したペスト被害者の故靖福和夫人、『特移扱』被害者遺族の朱玉芬さんは「市民の皆さんが建てた謝罪碑によって多少心が和んだ。皆さんの気持ちに感謝したい、しかし、それでも日本政府には是非謝罪を求めたい」と述べた。

新たな気持ちで次の一歩を!


碑を建設したことで“謝罪が終わった。許していただいた”ということではない。15年にも亘る侵略戦争によって語り尽くせないほどの被害を受けた中国人民に対し、世代が変わろうと、加害者である日本人としての責任は果たさなければならない。
私たちはその責任の1つに731部隊遺跡保存があると考えている。731部隊遺跡は平房区の住民にとっては本来“目の前から消えてほしいもの”。その屈辱の遺跡が今日まで保存されているのは住民の皆さん、歴代陳列館長を初めとする区、市、省政府の諸先生方の歴史認識の結果であると思う。彼らの努力に感謝するとともに、今日を新しい出発点として、友好を深め、平和を創造し、子孫の未来のために日本政府が正式に謝罪し、戦後補償を実現するまで私たちは運動を続けていくことを誓う。
今回、国会議員の参列は実現できなかったが、阿部知子衆議院議員、服部良一衆議院議員、今野東参議院議員、斉藤勁衆議院議員、川田龍平参議院議員、笠井亮衆議院議員の6人からメッセージを頂いたことは今後の運動への第一歩ともいえる。
最後に、除幕式開催にあたり特に協力、準備してくださった黒竜江省外事弁公室の諸先生方、金成民陳列館館長と職員の皆様に心から感謝します。



日本はドイツの脱原発やドイツ医学会の謝罪に多くのことを学ぶべきではないか!!
ナチス・ドイツの人体実験
ナチス・ドイツの人体実験と731部隊での人体実験の特異性

ドイツ医師会の反省
ドイツ医師会の反省

ボグロムの声明
ボグロムの声明

アレクサンダー・ミッチャーリヒ -
アレクサンダー・ミッチャーリヒ -

ドイツ精神医学会の反省
ドイツ精神医学会の反省


「731部隊のすべて~人体実験・細菌戦~」
(2012年4月15日東京ウィメンズプラザ・ホール)
「悪魔の飽食」
人体実験被害者遺族の証言
細菌戦被害者の証言
細菌戦の研究
新資料発見者 奈須重雄さんのお話
松村高夫(慶大)さんのお話
(日本軍の毒ガス被害)日本の被害者は救済するが、中国の被害者は救済しない?
遺棄毒ガス敦化被害事件、不当判決!!
遺棄毒ガス問題について
周桐さん・731記念館館長のお話
最後の挨拶

731細菌戦部隊の全貌

731部隊では何が行われたのか

731部隊員の証言 1


中国再訪の旅5

七三一部隊の簡単な歴史 常石敬一

日本「731部隊」の細菌戦で2万6000人がペスト菌感染

◆旧日本軍の細菌戦、中国人の被害27万人以上

◆「731部隊」米軍へ細菌兵器攻撃を計画 (TBS 06/7/21)

ニュース保存用

武田薬品が、核ビジネス・モンサントとつながっているとすれば

「政府は細菌戦の資料公開を」中国の被害者遺族ら会見

旧日本軍、中国で細菌戦 陸軍の極秘公的文書に記述

細菌戦の新発見資料について

▼金子論文はこちら(PDF 14MB)

731部隊の細菌戦 新証拠発見

100部隊

こんなにもあった細菌戦部隊

※731部隊は、ホルステン河に細菌をまき、日本兵を感染させ治療し感状を貰った!!
(731部隊の治療実績を陸軍に見せつけ、陸軍内での石井四郎の発言力・影響力を強めた!!)

ノモンハン事件・石井の野望 2

<731部隊>関係者リストの作成作業に協力要請

医学界とは731部隊そのものである

国家主義者平泉教授の戦慄  人間魚雷と731部隊 (その1)

朝鮮戦争でアメリカは細菌戦を行った!

戦時中、普通の軍医・医学者が行なった生体解剖
[証言記録 兵士たちの戦争

[証言記録]従軍看護婦が見た戦争

太行の麓をしのんで -生体解剖-

湯浅謙

九州大学生体解剖事件
ザ・スクープ

(15)吉田源二、東大医学部出身、昭14.4.5から終戦まで在隊、吉村寿人の下でマルタの管理を担当。

【2 吉田の源さん
だが、このような区別、つまり正規の軍医であったか、短限であったか、それからまた陸軍技師であったか、臨時嘱託であったか、そんなことが、あの部隊に所属していた研究者である限り、その罪は一蓮托生であるという点からすれば、いったいどれほどのちがいになるというのかと、思い知らされる日が間もなく到来した。
それは、わたしが昭和19年(1944)5月末、その前年の9月に再婚したばかりの妻を伴って任地へ赴く途中、満州国での第1夜を過したハルビンの宿に、歓迎の意を伝えるべく訪れてくれた旧友の口からはじめて、部隊の秘密をおぼろげながら聞き知ったときのことである。
その旧友というのは吉田源二陸軍技師であり、この人は旧制第1高等学校を経て昭和9年(1934)に東京大学医学部を卒業後、いつ頃から第731部隊に勤務するようになったのかは知らないが、当時は第4部二木班に所属していた。
この吉田技師を旧友とよぶ所以は、かつてわたくしが昭和4年(1929)4月、一高に再入学したときに同校の3年生であったばかりでなく、かれはその頃だれ知らぬ者がなかったほどの向陵切っての名物男でもあったからである。
だが、そのかれにハルビンの宿で久しぶりに再会したわたくしが、何よりもまず衝撃を受けたのは、(きみが来てくれたのはうれしいが、それにしてもとんでもないところにやってきてしまったもんだなあ。きみは知っていたのか、知らずにか)というかれからの質問がきっかけではじまった部隊のはなしであったが、それにもましておどろかされたのは、かれの変わり果てた面影であった。
わたくしの記憶の中で生きていた吉田の源さんは、豪放らいらくを絵に描いたような、典型的な一高健児であった。そして、数々の向陵物語でおなじみな記念祭とか、全寮茶話会とか、あるいはまた一高三高対抗野球戦とか、寄宿寮ストームなどでは、必ずといってよいくらい高吟乱舞をほしいままにしていたかれの姿を見るたびに、わたくしは「友の憂いにわれは泣き、わがよろこびに友は舞う」という寮歌の一節がそのままのかたちで演じられている感に迫られたものであった。
それがどうであろう。ハルビンの宿で目前にした吉田技師は、相手をまともに見ることはせず、いつも伏目勝ちで、話す言葉には弾みがないのでぼそぼそと聞きづらく、あまつさえその口許にはうすら笑いさえうかべていたのである。
しかもそれは相手に対してというよりは、多分自分自身へ向けての侮蔑の現われであることはたやすくみてとれた。それにしても、かつては豪傑笑いとよく噂された、明るい、いかにも屈託のなさそうなかれのあの笑いがいつの間に、こんなにうしろめたい、謎めいたものに変わってしまったのか。
そのほか、かれの身のこなし方にも以前とはすっかりちがってしまっているところがあるのに気がついた。たとえば、両肩をすぼめ、前かがみになって歩くかれの後ろ姿などは、その身につけているカーキ色の軍属服とはおよそちぐはぐな感じであったし、それやこれやが重なり合ったかれの変わりようは、(これがあの源さんなのか)と、しばしわが目を疑いたくなったほどのものがあった。
わたくしはその後も、しばしばかれとは話し合ったこともあり、それに間もなくかれが二木班でどのようなことをやっていたのかを知るに及んで、はじめてすべてが残りくまなく解き明かされたのである。そしてわたくしは改めて、ドイツ浪漫派作家が好んで題材にしたあの「悪魔に影を売り渡した男」は現実にも存在しているのであって、決してとりとめもない空想の産物などではないことを思い知ったのであった。】
※向陵・・・東京本郷向ヶ丘にあった旧制第一高等学校の別名。
(「医の倫理を問う 第731部隊の体験から」 秋元寿恵夫著 勁草書房)

731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!(医学者の道を捨てた男もいた!!)
医学犯罪、今どう考える…?731部隊の“闇”を振り返る
2000/3/5 放送「731部隊と医学者たち」(医学者の道を捨てた男・秋元寿恵夫の生涯!!)
知ってるつもり 731部隊


『部隊展』(1993年~1994年)の資料より
体の凍り具合
●凍傷は日本軍が極寒の地を征服するためには、どうしても克服しなければならない課題だった。以前は、凍傷に対する最も有効な治療法は、患部をわらでこすることだった。凍傷実験を担当した吉村寿人(ひさと)班では、以下の手順で実験を行った。
1、零下20度以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する
凍傷実験1
吉村が自著『喜寿回顧(きじゅかいこ)』の中で批判に応えるため「凍傷実験など大したものではなかった」例として使っている写真(被験者は蒙古人少年)
※吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年 - 1990年)は日本の医学者。生理学者として師である正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)より731部隊に赴任するよう命じられ、凍傷研究に従事した。吉村の731部隊における研究について、かつての部下らによるハバロフスク裁判での証言やイギリスの取材陣らが収集した証拠資料と証言資料では、人体実験での貴重な「研究」とされる。戦後、731部隊の人体実験のデータと推定されるものを用いて日本生理学会に論文を多数発表する。また、戦時中においてもすでに成果を同学会において口頭発表がなされていた。戦後京都大学に戻り、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、学長を務めた。1978年には、「環境適応学」の先駆的業績を果たした功績に勲三等旭日章が授与された。(ウィキペディアより)


『証人古都良雄の尋問より』
凍傷実験2
●古都良雄。1941年7月より1945年2月まで、第1部第1課に勤務、衛生兵。その後第643支部病原菌研究班に勤務中、ソビエト軍の俘虜となる。
問)人体凍傷実験について話してもらいたい。
答)人体凍傷実験は、毎年、一年の中で一番寒い・・・11月、12月、1月、2月に部隊内で行われました。この実験の方法は次の通りであります。すなわち被験者を夜11時頃、酷寒の戸外に連れ出し、冷水の入った桶に両手を入れさせ、それから手を出させて、濡れ手のまま、長時間寒気に立たせました。あるいは又、こうもしました。着物は着せても裸足の人間を戸外に連れ出して、夜、一番寒い時に寒気に立たせました。
人間が凍傷に罹った後、室内に連れ込み、およそ5度の温水に足を入れさせ、徐々に水温を上げました。こうして、凍傷の治療方法が研究されていました。私はこれらの人間が室内に連れ込まれてからの実験は直接見ませんでしたが、私が不寝番に立っていました時、人間を寒気に連れ出し、そのところで凍傷に罹らせられているのを見ただけであります。人間に手を水に漬けさす室内の実験については、目撃者の話で聞きました。
問)又、どんな人体実験が行われていたか?
答)吉村研究員が、人間に対するびらん瓦斯(ガス)使用実験を行っていたことを私は知っています。私はびらん瓦斯(ガス)の効力を試験するのに使用されていた人間を監獄の中で見ましたが、この実験の方法がどうだったかは、知りません。
問)これらの人々はどういう状態に置かれていたか?彼らには、どういう症状が現れたか?
答)私は、手、足に大きなびらんが生じている人々を見たことがありますが、これ以上何も知りません。(『細菌部隊ハバロフスク裁判』海燕書房)
凍傷実験3
凍傷実験4

黒い太陽731 3

ハバロフスク裁判の様子
ハバロフスク裁判の様子
各部長・支部長集合写真(731)

NPO法人 731資料センター 会報5号」より


※アメリカは中国における日本軍の情報を集めていた。
南京大虐殺・重慶などの都市の無差別爆撃、毒ガス戦・大規模な細菌戦などの残虐行為に対して、今度は報復に出た。


※満州の満人部落をはじめ、農安県でも731部隊は細菌をばらまき、多くの人々を殺し、家々を焼き払った。これも、細菌が自然発生したように見せかけた謀略であった。
フェル・レポートによればPX(ペスト菌を保菌しているゲオプスネズミノミという兵器)を使用した細菌戦は12ケ所で行われ、一次流行したら二次流行と続き多くの犠牲者を出した。
今現在でも中国でこの細菌戦の調査が行なわれている。また、他の病原菌を使った細菌戦やゲオプスネズミノミ以外のペストノミを使用した細菌戦もあったようだ!!(『731資料センター会報第2号』を参照)

細菌戦の新発見資料について
精魂塔(表)
精魂塔(裏)

精魂塔(これは一体誰を供養しているのだろうか?裏側は何か消したようにも見える!!)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
殺人工廠(1)
731の最後 死亡列車0
「前事不忘 後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)
“戦争を語る”人々

戦犯たちの戦後

証言ー侵略戦争1

北朝鮮による拉致も大きな政治課題だが、戦時中に日本軍が行なった大規模な強制連行(拉致)に対しては戦後日本はきちんと対応したのであろうか?
中国人強制連行1



問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
1、731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
2、731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
3、細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
4、731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
5、細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
6、細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!
2009.10.25  「戦争と医の倫理の検証を」(東京保険医新聞)
「戦争と医の倫理」の検証を進める会


●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地(731部隊の周りは「無人区」とされ、そこには、もともと中国人が住んでいて、生計をを立てていたが、強制的に追い出され、その住民たちは路頭に迷い、悲惨な状況におかれた。)に研究施設を作り(建設を請け負ったのは、鈴木組、松村組、藤田組、大林組であった。建設当初から敗戦まで、多くの中国人が苛酷な状況下で仕事をさせられ、仕事の犠牲になった者や逃亡を企てたり逆らったりして残酷な刑で殺された者も多数いた)、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌兵器は中国の都市で実戦された。その結果、細菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
中国では、日本軍の毒ガス兵器使用や細菌兵器使用による死者が増大し、中国は国内外に日本軍の行為を告発した!!(1942年の淅贛作戦では、細菌兵器で日本軍にも多くの犠牲者を出してしまった。このような結果から、一時細菌兵器は、参謀本部の信頼を失うことになったが、それでもなお731部隊では研究開発を進め、1944年の末に石井式細菌爆弾を完成させる。)

1943年にはフランクリン・ルーズヴェルト大統領が、日本の細菌兵器及び化学兵器(毒ガス等)による攻撃を非難する声明を出した。ルーズヴェルトは、「日本の武装兵力によって中国のさまざまな場所で有毒ガスが使用されているとの信頼すべき報告が届いている」と言明した。彼は次のように警告した―。

もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを、間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。

ルーズヴェルトは、彼の警告を以下の言説で締め括っている―「われわれは完全な懲罰を強制する準備をしておかなければならない。日本には〔国際〕責任が発生するであろう」。

この声明に呼応するかのように、その後の日本軍は、化学兵器、細菌兵器の使用を自粛するようになる!!

1945年3月再び石井四郎が731部隊長に就任すると、連合国に対し最後の一撃を加えるために、満州の鼠の捕獲を大々的に行なわせ、ペストノミを増産させた。
ところが、天皇・参謀本部は、敗色が濃く、アメリカの反撃や敗戦後のことを考慮して、細菌兵器の使用を断念した。

1945年8月、ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。

1946年夏の終わりの初秋の頃、平房地区一帯でペストが発生し100余人の人が命を落とした。この原因も731部隊が飼育していた鼠に関係があるようだ!!

731部隊のこのなんとも早い逃亡劇は、731部隊の戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも三笠宮をはじめ何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族(竹田宮)もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
そのためアメリカは、731部隊員に戦犯免責を与える代わりに731部隊のデータ全てを独占して買い取り、また、上級部隊員をアメリカ軍に協力させ、朝鮮戦争やベトナム戦争に開発した兵器を使用した。
このような流れの中で、アメリカは東京裁判では731部隊の事は取り上げず、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

マッカーサーと昭和天皇
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

朝鮮の核問題 言葉に尽くせないほど不均衡な世界である 小出 裕章より
朝鮮の歴史と日本の責任
日本のマスコミなどは、米国発表をそのまま流すだけであるが、そもそも朝鮮に関する歴史の流れを理解していない。
朝鮮は 1910 年の日韓併合以来、日本の植民地支配の犠牲となり、創氏改名、朝鮮語の禁止、天皇の崇拝などを強制された。
1945 年の日本の敗戦は、多くの朝鮮人にとっては大日本帝国からの解放と受け止められた。
しかし、日本と米国との戦争は、悪逆非道の日本と正義の米国との戦争であったわけでは決してない。
それは世界の覇権を狙う両帝国同士の戦争であり、圧倒的な力の差の下に米国が日本を完膚なきまでに打ち破った戦争であった。
しかし、米国は当時の共産主義との確執を前に、日本や朝鮮を東洋における共産主義の防波堤にしようとした。
そのため、日本では天皇はその戦争責任を問われないまま温存されたし、朝鮮でも日本統治下の役人がそのまま政権に居座ることが許された。
そのため、本来であれば日本の植民地から解放され、晴れて独立を果たすはずであった朝鮮は、血を血で洗う内戦へと導かれて、南北に分断されたのであった。
1948 年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が相次いで独立を宣言し、1950 年 6 月にはついに朝鮮戦争に突入。
38 度線で膠着した戦争は、1953 年に停戦協定に至った。その後、すでに半世紀の時間が流れたが、朝鮮と米国の間では依然として停戦協定があるだけで、戦争状態が続いているのである。
その一方の当事者である米国は核兵器、生物兵器、化学兵器、大陸間弾道ミサイル、中距離ミサイル、巡航ミサイル、ありとあらゆる兵器を保有し、自らの気に入らなければ、国連を無視してでも、他国の政権転覆に乗り出す国である。
そうした国を相手に戦争状態にある国が朝鮮であり、武力を放棄できないことなど当然であるし、核を放棄するなどと表明できないことも当然である。
ちなみに、日本はベトナム特需とともに、朝鮮特需をもって、戦後の経済を立て直したのである。
そして今なお、米国につくのが国益だと、戦争を放棄したはずの憲法も無視して、弱いものいじめに荷担する。




●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。



1937年12月13日
南京陥落!!

南京大虐殺
日本政府は、戦史資料を公開せよ!!
河村・石原両氏の発言には全くあきれる!!



南京大虐殺は世界的に誤解されています。

中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。
父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。
非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。
捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。

ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。
昭和12年7月の南京の人口は135万人です。
11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。

否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。
小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。

(65連隊のシャーカン【下関】おける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)【核心氏のコメント(2009年11月2日)】
栗原利一資料集
20万人しかいなかったから30万人殺せない、というのはウソ   
Suopei №79より
南京なかった1
南京なかった2

歴史の正視なしに、日本は友好を得られず=香港メディア


情けない書き込み!!
鳩山元首相が「南京大虐殺記念館」訪問して謝罪

日本の鳩山元首相が訪中「南京大虐殺を謝罪、尖閣は係争地」=韓国

南京大虐殺を謝罪した鳩山氏…元首相では3人目

鳩山由紀夫―南京大虐殺を謝罪

「犠牲者は何人?」南京大虐殺記念館を訪問の鳩山元首相、館長の回答に絶句―本日の中国TOPニュース

『わが南京プラトーン』(一召集兵の体験した南京大虐殺)東史郎著より:青木書店
前線からの手紙
12月22日発(南京にて)
・・・・
一昨日、七千の捕虜の警戒に行く。彼等は逃げ場なく、戦いて見込みなく遂に白旗を立てるなり。吾等が行きし時、白旗三本を立てたるなり。白旗を木の枝に飜るがえし道路に居たるなれば、此れを田の中へ入れ、坐らしめ武器をとりあげる、其の頭目は軍医大尉なり。
支那兵は敗残兵となるや否や地方民の服装に変装する為に正否を判ずるに困難なり。
此の七千の敗残兵は各中隊に分配し、射殺するものなり。公然と白旗をかかげし捕虜を殺すは人道的に如何と思われしが、上司の命なれば致し方もなし。食糧なき為に殺すものならん。
解放すれば、何をするやも知れざる支那兵なり。吾等さえ食に困らんとするに彼等を養う糧秣もとよりなく、七千の捕虜の集合せるは凄き壮観なり。
戦況密に報じたけれども報じ難し、故郷へ帰りたるを得ばあれも語らん、これも語らん。・・・・・・・・・

1月23日(1938年)
・・・・・
巨大な生物、海の息子―揚子江が横たわる。
ガラガラと音高い御用船の起重機の音と共に、夜がすっかり明けた。
夜が明けると、私たちの眼前に凄惨な光景が展開した。岩壁に牛や豚のように虐殺され放り込まれた敵兵の死体―私たちが今日まで、常に見かけた特有のドス黒い色の死体、はち切れるほど空気を入れたかと思われるほどの、膨張しきってふくれ上がった黒い死体が、揚子江のなぎさに山となって転がっている。
全くよく肥えた豚のような死体だ。この汚ない黒い死体の上を、黄色い河水がひたひたと洗っている。ある死体は流された丸太棒のように水にゆられている。ある死体は連絡船の下敷きになっている。兵士たちは、踏めばぐしゃりと腐った泥の臭いのする臓物の出て来そうな、はれあがった死体の上を、飛石ででもあるかのように、鉄の鋲の打った堅い靴で、ポンポンポンと飛んで、連絡船に乗る。
蒋介石の忠勇なる兵士、抗日の英雄戦士、我々に銃口を向けていた戦士たちの最期が、捨てられた塵芥(ちりあくた)のそれである。
水上工兵たちは、ボートの上から長い柄の先のついた鉄の鉤(かぎ)に、これらの死体を、腐った大根にでもするようにグイと引っかけて、沖へ流しに行く。ハレもののように体全体がむくみあがった死体に、工兵たちの鉤がぶすりと刺し込まれ、1人の工兵が1個ずつ計5個がボートに引っぱられていく。
岩壁に1人の兵士が立っていた。彼は、
「毎日トラックで一杯、敗残兵を積んで来た奴を、波止場にずらりと並べて置いて、河の中へ突き落とし、泳ぐ奴をズドンズドンと射ち殺すのだ。これが俺の毎日の仕事だよ」
と、グッと顎をしゃくっていった。
嫌な仕事だ。ペッと私は唾を吐いて、彼の顔を、顎のあがった顔を眺めた。


波止場に酒保があった。それは倉庫の中である。私の足は、何がなしにそっちへ向かった。
水色の綿入れ軍服を着た捕虜たちが、工兵たちにしかりとばされながら、大きな荷物を運んでいた。奴隷のように捕虜たちは働いていた。
私は彼らを憎む気にはなれなかった。私が酒保で買ったミカンの缶詰を食っていると、使役に使われている1人の捕虜が、飢えた物欲しそうな目で、缶詰と私の口元を見つめていた。
彼の目、彼の口と鼻は物欲しさで一杯であった。彼の絶望的な光りの無い瞳から、私は戦争の悲惨さを感じた。もし、この戦さの勝負が逆であったら―。この哀れな捕虜の姿は、私自身の姿であるかもしれない。
私は食う手を止め、この捕虜に、ミカンの缶詰とタバコ3本を与えた。
「謝(シェ)!謝(シェ)!大人(タイレン)!」
彼は相好を崩し、くり返しくり返し頭を下げ、もう1人の捕虜とともに缶詰をむさぼり食った。・・・・・・・


3月12日
・・・
徒労のスパイ狩りかも戻り、内地から届いた『週刊朝日』をめくる。1月16日発行の増大号である。
この中で、楚人冠氏の「山中説法」なる欄にいわく―。
「南京陥落の当時、支那が無用の抵抗を最後まで試みた為め、南京は殆ど焦土と化し、何万といふ人が殺された・・・・云々」

南京大虐殺8

南京大虐殺7

南京大虐殺

20121207 報道するラジオ「就活学生に聞く総選挙の争点・日本の戦争責任」

南京事件 143枚の写真の再検証(1)

南京アトロシティーズ


南京事件-日中戦争 小さな資料集
日本人の「南京大虐殺」に対する認識
三笠宮崇仁と南京事件
偕行社の「お詫び」に見る南京大虐殺
23.南京大虐殺の責任(上)
東京裁判 天皇との絡み新たに
南京大虐殺 稲田朋美氏よ 日本人として恥を知れ!(その1:李秀英名誉毀損裁判)
【「南京大虐殺見た人いない」/ 田母神氏が隊員に教育か】
南京【あの発言から2か月】河村市長へのアドバイス(今、本当にできること)
「河村たかし名古屋市長の南京事件を巡る発言」

史実を守る会は、河村市長に以下の抗議文を
送りました。


抗議文

名古屋市市長 河村たかし殿

(1)貴殿は2012年2月20日午前、表敬訪問に訪れた南京市の共産党市委員会常務委員の一行に対し、「南京事件はなかったのではないか」と発言し、その後も同趣旨の発言を繰り返し、その結果、南京市は名古屋市との交流を一時停止、中国国内でも大きな反発を呼ぶなど、大きな問題に発展している。

(2)貴殿の今回の発言をまとめると、南京事件を否定する根拠として、①終戦後、下士官だった貴殿の父上が南京市において手厚くもてなされた、②目撃者がいない、という2点を挙げている。

しかし、根拠①は、当時の蒋介石政権の「以徳報怨」政策(国共内戦を見越しての日本軍宥和政策)に基づくものと解されるが、そもそも、この様なことが大虐殺を否定する根拠となるはずもない。これを根拠に大虐殺を否定するなどというのは、父上に対して温情を示した南京市民を裏切る暴論である。

また、根拠②は、事実に基づいていない。まず、その前提として指摘するが、南京市の地理の広さ、事件の期間の長さを考慮すれば、大虐殺の全体像を「目撃」することは不可能である。したがって、ここでの「目撃者」とは個々もしくは一定集団に対する虐殺の目撃事例ということになる。
そこで目撃の一例を挙げるならば、夏淑琴さんのケースがある。夏さんは、当時7~8歳だったが、2家族13人の内、11人が殺害されたことを目撃している(※1)。
一方、 独立工兵第1連隊第2中隊の岩崎昌治伍長は、捕獲した敗残兵を殺害したり、「城内に居った支那人を約二千名」を「全部殺してしまった」と陣中書簡に書いている(※2)。
また、ロイター通信社のスミス記者は、揚子江の桟橋で、「一千人の中国人を」「脆かせ、後頭部を撃ち抜く」という処刑の光景を目撃している(※3)。
この様に南京事件は、被害者も加害者も、また第三者でさえも虐殺の模様を「目撃」している。貴殿が言うところの「目撃者がいない」とは、単に「目撃事例の資料を知らない」ということでしかない。

(3)貴殿の「根拠」は根拠たり得ないものであり、それをもって「南京事件はなかったのではないか」などと主張するのは、非科学的主張としか言いようがない。
あまつさえ、表敬訪問に訪れた被害国の要人に向かい、この様な非科学的主張によって被害事実を否定するなどということは、誹謗中傷と受け止められても致し方ない。
即刻、「南京事件なかった」という暴言を取り消し、日中双方の国民に向かい、自身の不明を詫びることを求めるものである。

2012年2月26日
南京への道・史実を守る会
fact_keeper@yahoo.co.jp
http://jijitu.com

※1 笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』(高文研、2006年)P132-146
※2 岩崎稔『或る戦いの軌跡』(近代文藝社、1995年)P23-80
※3 石田勇治他『ドイツ外交官の見た南京事件』(大月書店、2001年)P44-50


河村たかし名古屋市長による
南京大虐殺否定発言に対する抗議声明

1 河村たかし名古屋市長の発言
名古屋市の河村たかし市長は2月20日、姉妹都市である南京市の共産党市委員会の訪問団に対し、1937年12月の「南京大虐殺事件」について、「通常の戦闘行為はあったが南京事件というのはなかったのではないか」と南京大虐殺を否定する発言を行った。その後も河村市長は同趣旨の発言を繰り返し、中国国内で大きな反発を呼び起こすとともに、各種交流事業が中止になるなど、日中間の友好関係に多大なる支障をもたらしている。
しかし南京大虐殺の事実があったことは、多数の目撃者や幸存者が現実に存在しており、南京市民の「民族の記憶」として記憶され、日本、中国及び欧米の膨大な資料がその事実を裏付け、歴史学界の定説ともなっており、第3次家永訴訟では①南京事件が組織的に行われたこと、②大量のレイプが行われたことを認めている。加えて、当弁護団が関与した幾多の判決においてもその存在が認定されている紛れもない歴史の事実である。

2 判決の認定した事実
731・南京・無差別爆撃訴訟事件において1999年9月22日に東京地方裁判所が言い渡した判決は、「『南京虐殺』というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告李秀英がその被害者であることも明らかである」と認定している。
この李秀英さんは、南京大虐殺当時妊娠7ヶ月だったが、日本兵の強姦に抵抗したことで全身を29箇所37回も銃剣で刺され、流産したが自身は奇跡的に生き残ったという体験をした。この李秀英さんを“ニセ被害者”呼ばわりした著者と出版社を訴えた「李秀英名誉毀損訴訟」で、2002年5月の東京地裁判決は、著者と出版社の責任を認めて損害賠償として150万円の支払を命じている。
同じく南京大虐殺の当時8歳で、家族7人を含む11人が日本兵によって虐殺され、母親や姉がレイプされ殺された現場に居合わせた夏淑琴さんについて、“ニセ被害者”と中傷した大学教授と出版社を訴えた「夏淑琴名誉毀損訴訟」でも、2007年11月に東京地裁判決は、「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」と断罪し、400万円の損害賠償を夏淑琴さんに支払うよう命じた。
そして、上海から南京に進軍中の二人の日本軍少尉が中国人に対するいわゆる「百人斬り競争」を行ったとの毎日新聞報道や、それに対する本多勝一記者による検証論稿等が名誉毀損に問われた「南京百人斬り訴訟」で、2006年5月に東京高裁判決は、「両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず」として、その実態が無抵抗の捕虜や農民らに対する「据えもの百人斬り」であったことを実質的に認めている。

3 撤回及び謝罪要求
これら裁判所が認定した事実は、いずれも「通常の戦闘行為」ではない日本軍による虐殺行為である。河村市長による今回の発言は、我が国の裁判所でも認定している「南京大虐殺」の事実を否定するものであり、何らの根拠のない妄言であることは明らかである。
河村市長が、こうした妄言によって中国国民を深く傷つけたこと、それによって日本国民全体の名誉も毀損したこと、さらに日中友好を大きく妨げたことは看過できない。即座に、南京大虐殺の事実を否定した発言を撤回し、中国国民及び日本国民に対し、公式に謝罪することを求めるものである。

2012年3月19日

中国人戦争被害賠償請求事件弁護団
731・南京・無差別爆撃訴訟弁護団
李秀英名誉毀損訴訟弁護団
夏淑琴名誉毀損訴訟弁護団
南京百人斬り訴訟(本多勝一)弁護団

「ノブの日記」(yahoo!ブログ)に寄せられたコメント!
南京大虐殺の大きな特徴は、武装解除した中国兵捕虜の虐殺が多いことです。すでに<12月18日の時点>で、複数の下級兵士の陣中日記に、<7万~10万人の捕虜の虐殺>の記録があります。それ以降も、虐殺が続きます。(捕虜の虐殺は、戦果となり、<軍人として出世の評価>となるので、日本軍側で集計しており、記録に残します。しかし、民間人の殺害は、隠すべきことなので、日本軍側には記録がない)これに、民間人の虐殺が追加されます。特に農村部での掃討作戦と言いながら中国人全員の殺害が多く、更に、食糧徴発、実際は掠奪の際にも、虐殺しています。(農民も、12月冬ですから食糧を掠奪されたら飢え死にです)
2012/4/10(火) 午前 7:24 [ sat*atu**200* ]
「ノブの日記」(seesaaブログ)に寄せられたコメント
河村は本当に馬鹿な男だ、数年前実名で河村に抗議したが返事なし、30万は毛沢東の宣伝で過大だが蒋介石は3万人以上と国連に報告、虐殺は有った、私は中国から復員してきた友人の父親の軍医から聞き15年前南京を訪問現地の資料をみて恐ろしくなった。(sakai)

3月28日 南京に中華民国維新政府成立。南京事件終焉する。
4月 1日 国家総動員法公布。 
【南京事件:笠原十九司著:岩波新書より】
「南京事件」143枚の写真            

李秀英さん
侵略の戦場で何があったのか!!

12月17日 南京入城式
『南京城頭日章旗翻る』&『南京入城式』
・映画やテレビの時代劇ではクライマックスにチャンバラシーンがあるが、斬られた方のその後の苦しみ・悲惨な光景は省略されることが多い!!日中戦争でも多くの捕虜や市民が日本刀による「据えもの斬り」にされ、殺された。最近のテレビでは日本刀を伝統文化だといって取扱っている番組があったようだ!!恐ろしい!!
・なぜ南京軍事法廷では皇族の朝香宮(当時上海派遣軍司令官)は皇族ゆえ裁かれなかったのか?
Rape of Nanking Part I Atrocities in Asia Nanjing Massacre
『地獄のDECEMBER-哀しみの南京- 』舞鶴公演(2011.3.17) -2-
映像の世紀 南京大虐殺14 元日本兵の証言 東史郎2/13

映像の世紀 南京大虐殺15 元日本兵の証言 東史郎3/13

映像の世紀 南京大虐殺16 元日本兵の証言 東史郎4/13

映像の世紀 南京大虐殺17 元日本兵の証言 東史郎5/13

映像の世紀 南京大虐殺18 元日本兵の証言 東史郎6/13

映像の世紀 南京大虐殺19 元日本兵の証言 東史郎7/13

映像の世紀 南京大虐殺20 元日本兵の証言 東史郎8/13

映像の世紀 南京大虐殺21 元日本兵の証言 東史郎9/13

映像の世紀 南京大虐殺22 元日本兵の証言 東史郎10/13

映像の世紀 南京大虐殺23 元日本兵の証言 東史郎11/13

映像の世紀 南京大虐殺24 元日本兵の証言 東史郎12/13

南京大虐殺
日中戦争 (1937-1938)
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
日本兵が記録した南京大虐殺4


NHKスペシャル 映像の世紀 第11集 JAPAN
阳光卫视 纪录片 国殇 第十二集:南京大屠城
「南京!南京!」が見られる映画サイト
映画「南京!南京!」日本語字幕版全編1/14
日本の戦争 2
南京大虐殺9
南京大虐殺
南京大虐殺5
南京大虐殺
情報の遮断を狙う?日本軍、アメリカ砲艦パネー号を撃沈!!
(アメリカ砲艦パネー号は、南京攻略下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者が、無線記事の送信に利用していた。)
アメリカ合衆国では、パネー号の撃沈は、南京で発生していた大規模な強姦と殺戮全体よりも大きな騒動を巻き起こした。12月13日にフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、爆撃に「衝撃を受けた」と語り、天皇裕仁に即刻の賠償を要求した。数日後に、消耗しきった生存者たちがようやく文明社会にたどり着いたとき、大衆の反応はますます悪化した。汚れて寒さに震え、毛布と中国の掛け布団、ぼろぼろになった衣服を身にまとった生存者の中には、ショックで未だに死線をさまよっている人もいた。彼らの話は、彼らの写真とともに、この国の全ての主要紙に、「1時間も続いた日本軍の攻撃にさらされたパネー号の被害者」とか、「南京における屠殺と略奪の統治」というような見出しで掲載された。アレイとメイエルのフィルムが劇場で上映されると、アメリカの観衆の間にさらなる激怒と反日感情を喚起するばかりだった。(P176、映像ジャーナリスト 「ザ・レイプ・オブ・南京」アイリス・チャン著より)


●陸軍登戸研究所
・陸軍登戸研究所とは
1937(昭和12)年、新宿にあった陸軍科学研究所の実験場が登戸に移され、電波に関する研究と実験が行なわれた。その後、秘密・謀略戦の研究所として本格的に拡充された。
陸軍参謀本部直属で、1942(昭和17)年に正式名称が「第9陸軍技術研究所」とされたが、軍の法規にすら記載されずにその存在は最後まで秘匿され、ただ「登戸研究所」と俗称されていた。
登戸研究所の任務は、秘密戦・謀略戦に関わる研究・開発だった。毒物、細菌などの生物化学兵器・他国紙幣の偽造・風船爆弾・憲兵隊やスパイ(特務機関員)などが使う武器・器具などを開発、製造した。したがって単なる研究所ではなく、数多くの地元住民を含めて約1000人が働く巨大な秘密兵器生産工場でもあった。
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

動物慰霊碑
①正門裏手にあって、高さは3メートルほどある。
碑の裏面には、「陸軍登戸研究所」「昭和18年3月」とあり、碑文の書は所長の「篠田鐐」であることも刻まれている。
②「陸軍登戸研究所」となっていることが注目される。正式名称「第9陸軍技術研究所」はあらゆる陸軍法規からも抹消されていた。
③碑の巨大さも不可解である。ここで格別に多数の動物を実験材料に使っていたという形跡はない。にもかかわらず、すでに戦局が傾いている最中にこれだけの大きさの碑を建てたのは、何か別の理由があったと考えられる。
第2科では生物化学兵器を研究・開発していた。その過程でイヌ、サル、モルモット、ブタなどを使って動物実験を繰り返したのだが、完成すると中国で人体実験を行なった。1941年5月22日から、登戸研究所の幹部7名が南京1644部隊に赴いて、青酸カリ、青酸ニトリール、雨傘毒蛇、ハブの毒などを用いて、約30人の中国人に実験した。1943年12月から翌年1月にかけても青酸ガスなどの人体実験を行なっている。いずれも防疫給水本部(731部隊=石井部隊)の協力のもとで行なわれた。
この事実を踏まえると、人体実験犠牲者の慰霊碑は建てられないので、動物の慰霊碑として巨大なものを建てたとも考えられる。費用は、この時期に陸軍大臣から与えられた「陸軍技術有功章」に伴う賞金が充当された。
④人体実験をする科学者の心理はどのようなものか。通常の倫理観を持った科学者が悪魔の科学者に変身する。第2科で生物化学兵器研究の中心にいた伴繁雄(終戦時、陸軍少佐)は、帝銀事件の捜査で警察の事情調査を受けた時、次のように供述している。
「実験を始めた。最初は厭であったが、馴れると1つの趣味になった(自分の薬の効果をためすために)。相手は支那の捕虜を使った。相手が試験官を疑うので偽装して行なった。たとえば・・・・。」(帝銀毒殺事件捜査手記第5巻より。昭和22年4月26日)
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

(200)陸軍登戸研究所⑤ 731部隊と登戸研究所
動物慰霊碑1

動物慰霊碑2

秘密戦関係
秘密戦関係
記念写真
記念写真(中央 三笠宮)
偽札
偽札(登戸研究所で作っていた)
風船爆弾
風船爆弾(模型)登戸研究所で製造していた!!

●516部隊
第516部隊
516部隊
516部隊と731部隊
中国戦線における日本軍の毒ガス戦
日本軍が遺棄した毒ガス及び中国人に与えた傷害 その1
内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室
化学兵器CAREみらい基金ブログ
旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器で今現在でも苦しむ人々が、日本や中国に多くいる!!
ニュースレター Vol.12でもご報告いたしましたが、チチハル毒ガス事件の被害者、曲忠誠さんが肝臓がんのため、昨年12月15日に亡くなりました。45歳でした。年末も押し迫った頃、中国人のコーディネーターから連絡が入りました。残念でなりません。マスタードガスに含まれていたイペリットは発ガン物質として知られおり、皮膚だけではなく、内臓にも被害が及びます。曲さんの肝臓がんと毒ガス事故の因果関係は、医学的にも否定することはできません。
曲忠誠さん
曲忠誠さん: 2010年3月 日中合同ハルビン検診にて 


大久野島と毒ガス

全国各地で奮闘する語り部たち
悼みの列島2
(相模湖・大久野島・花岡・・・・で戦時中何があったのか?)
必見!!「戦争を語り伝える人々」のガイドブック!!
『ルポ 悼(いた)みの列島』 あの日、日本のどこかで
室田元美
もう過去のことなんて、いいんじゃない?と思う人もいるかもしれないが、私の胸のなかには、石川啄木「韓国併合」のおり詠んだ「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」が常に引っかかっている。(「はじめに」より)

1945年3月10日
●東京大空襲

東京大空襲
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)

我々は106回の東京の空襲も風化させてはならないが、中国重慶に対して218回も無差別爆撃した事実も忘れてはならない!!

「重慶大爆撃とは?」

重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。
重慶大爆撃とは①
日本の原爆開発:核兵器開発競争? 鳥飼行博研究室

東京大空襲東京大空襲・戦災資料センターとは
東京大空襲・戦災資料センター
昭和20年3月10日 史上最大の虐
東京大空襲2絵 吉野山氏提供
アジアとの友好のために(1)

消えた日の丸1


●君が代
橋本さん!首相公選制よりいっそのこと、天皇制から大統領制にしてみては!!
(戦争の反省とそれに基づく憲法9条を国是にして)

大阪府教育基本条例案に反対します
「君が代」は歌えない!!
君が代の口元チェックは何が問題なのか


都教委は、「君が代」不服従の教員を
停職処分にするな! 免職(解雇)にするな!



●昭和天皇の戦争指導
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戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)





2013年3月25日月曜日

この世の地獄!731・原発・南京!!

No more war!
No more 731!
No more Nanking!
No more Fukushima!
GReeeeN no more war【歌詞付】

No more war



夏草をふみしめ引込線を歩いた
視界が不意に三角形に切り取られ
やがて歴史の暗渠に足を踏み入れる
見上げれば天を突く巨大な残骸
ただ崩れ落ち、悲しみの肉塊のように
灰色の空の下で泣いている
(『ハルピン残照 「731の記憶」』 田中寛著より)

NHK堀潤アナ退職「NHK会長筋の圧力」について。- 2013.03.24

731部隊と原発の共通点
国策・人命軽視!!
国策では普段では想像もできない残虐なことも行われる!!


被爆者の叫び!!
「わしはモルモットか!!」

原爆報告書は2年以上の歳月をかけ、国策として作られた。
そこには被害者救済はせずに被爆の調査だけをし、アメリカとの関係を優先させた姿が浮かび上がる。(治療はせず、被害の実態、原爆の威力を明らかにした。)
この時点で医師は原子力産業に取り込まれていく!!原爆投下後アメリカは原爆の治療研究を禁じた!!
内部被爆が人体に及ぼす影響!!脱原発宣言!!
原発ゼロをめざす7・2交流集会 肥田舜太郎さん



小出策郎中佐に出された極秘命令:
「敵に証拠を得られることを不利とする特殊研究(731部隊等)はすべて証拠を隠滅せよ!」

1945年8月アメリカは広島・長崎に原爆投下!!
その年だけで20万を越す人々が死んだ。
投下直後、国は大号令をかけ、1300人を越す医師・科学者を動員して2年以上の歳月をかけて1万ページ181冊に及ぶ原爆報告書を作成させた。作成過程で200人以上の死者の解剖も行った。対象は20000人を越えた。
最初の調査は原爆投下後の2日目から始まり、陸軍省医務局の小出策郎軍医中佐が取り仕切った。
目的は、原爆の威力を調べ、アメリカに渡し、有効な取引きカードにすることだった。

この調査は敗戦後の戦争犯罪(731部隊等)を隠蔽するためにも、そして国体を護持し、新たな日米関係を築く上にも重要なものだった。

この調査では被爆者の治療はせずに、放射線の影響を調べる検査だけが行われた。

自ら開発した原爆の威力を知りたいアメリカと、戦争に負けた日本の国の利害が一致した。

原爆投下から2ヵ月後、アメリカの調査団が現地に入ると小出中佐に替わり放射線医学の第1人者 都築正男が調査の中心となり一層力を入れた。

アメリカが一番知りたい情報
№14 原爆がどれだけの範囲の人を殺すことができるか?
17000人の子どもたちが70ヶ所の地点でサンプルにされ原爆の殺傷能力が調査された。
例)0.8km 560人全員死亡。

アメリカはこのデータを元に爆心地からの距離と死者数をグラフに表し、死亡率曲線と呼んだ。
被爆者はアメリカの核戦略に利用された。

また、200人以上の死者が解剖され、放射能の影響が調べられた。治療とは無関係。(731部隊員の得意とする分野か?)

治療とは関係ない人体実験も行われ、被爆者にアドレナリン(血圧を上昇させるホルモン)を注射した場合の反応などが調べられた。
№23
そのほか、どの様な人体実験が行われたのであろう?

また、原爆投下後に広島に入って原爆症になった医大生の日記もレポートにあり、入市被爆のの実態も明らかにされていた。

入市被爆者の最後の叫び!!
「私は末期ガンで余命いくばくもないことを医師から知らされました。国は私のような入市被爆の実態を分かっていません!!」
この方の勝訴判決が出たのは亡くなってから3ヵ月後でした!!

ところが、戦後の原爆症の裁判ではこのことは利用されず、入市して被爆した人が、長い間原爆症と認められず、苦しんだ!!

アメリカはこの重要な調査に参加した731部隊関係者を評価し、免責にした?
「米軍の調査団の中には陸軍のスタッフォード・ウォーレン大佐、フリーデル中佐、海軍のシールズ・ウォーレン大佐のように、米国国内の放射能・放射線の影響を調べる人体実験に関係した者が含まれていた。
米側の医学者にとっても日本側の「特殊研究」の医学者の免罪が必要だった。
徒に日本側の犯罪行為を追求すれば自分の医療犯罪の発覚にも繋がる畏れがあった。「特殊研究」に従事してきた者どうし、戦勝国と敗戦国の違いを超えて、研究成果を分かち合うために米軍側の医学者たちは、日本の「特殊研究」者たちを許すことにしたのかもしれない。」
『ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影』
堀田伸永著より
ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永


果たしてこの181冊の報告書の中で元731部隊員はどの様なことをレポートしたのであろうか?
吉村寿人、宮川正、在田勉、岡本耕造、石川太刀雄丸・・・
2013年度731事業計画
731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(5)

アメリカに少しでも心証をよくしようと、731部隊の証拠湮滅をはかり、国策として原爆報告書を作成した。もちろん、国体護持をねらった。

ところが、ソ連によって731部隊の人体実験のことが明らかになると、731部隊幹部は、アメリカと取引きし、データとの引き換えに731部隊員の戦犯免責を引き出す。

そして、アメリカに渡ったデータをもとに、731部隊員はアメリカに協力し細菌兵器の開発に力を貸す。そしてそこで作られた細菌兵器は朝鮮戦争やベトナム戦争に使われた。

日本はアメリカとの良好な関係を築くために原爆の非人道的なことを非難できず、また、アメリカも731部隊から得たデータで細菌兵器をつくったものだから、日本の非人道的な犯罪を裁けなかった!!
ドイツとは、大きな違いがある!!

医学界は国策の原爆調査(治療ではない)に大量動員されたり、731部隊が免責されたことにより、ABCCに取り込まれていった。そして放射能の人体に及ぼす影響を十分に知りながら、原子力産業推進に回ってしまう!!医学界は本気に内部被爆の研究をしていない!!推進側からストップがかかっているのではないか?

今のフクシマの医療、そのほか浜岡原発、その他原発の周辺で行われている医療がそれを物語る!! 

「原爆報告書」は、731部隊の隠蔽と国体護持のために、アメリカに少しでもいい心証を与えるために国策として作られ、当の苦しんでいる被爆者には活用されなかった!!なるほど、天皇は原爆忌に広島・長崎には行けないわけだ!!
731部隊を隠蔽する目的の取引!NHKスペシャル 封印された原爆報告書

封印された原爆報告書
731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(1)

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(2) 西里扶甬子

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(4)

731部隊からヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマまで(5)
原子爆弾の影響に関する医学的調査
第5福竜丸被爆事件
「原子力村」の原型形成



高杉晋吾
病気になった原発労働者を医者はきちんと診ない!!
原子力産業と医者の結び付き!!

国策としての731部隊・原発(1) 高杉晋吾
国策としての731部隊・原発(2)  高杉晋吾

国策としての731部隊・原発(5) 高杉晋吾
国策としての731部隊・原発(6) 高杉晋吾

20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発




フクシマに原発推進団体が圧力をかけている!!(日本財団・IAEA・ICRP・アレバなどなど)
「脱ひばく移住法」制定の提言(3) 松井英介



内部被爆のこわさ!!
「脱ひばく移住法」制定の提言(4) 松井英介


IAEAとWHOの関係(ビデオ後半)
「脱ひばく移住法」制定の提言(6) 松井英介

「脱ひばく移住法」制定の提言(7) 松井英介

「脱ひばく移住法」制定の提言(8) 松井英介



NPO法人 731細菌センター総会より
2012年度の活動報告

2013年度事業計画【1】

2013年度事業計画【2】


総会決議


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日本人は記憶に無い?これでいいのだろうか?(一部の731部隊員は証言したが、殆どの隊員は戦後口を閉ざした!!)

中国では、細菌戦の慰霊祭が行なわれている!!


淅中新報
2012・11・18付けの淅中新報 崇山村細菌戦70周年

裁判に於ける細菌戦被害地(1940年~1942年当時)裁判における細菌戦被害(1940年~1942年当時)
※クリックすると大きくなります!



すべての紛争を平和的な手段によって解決できないものだろうか?
原発・軍事偵察衛星・次期主力戦闘機・リニアは要らない!!
税金を震災復興に回せ!!憲法9条が泣いている!!
憲法9条を世界へ!!


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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政府は戦史資料を全面公開せよ!!
昭和天皇・皇族方の戦争責任を問う!!
世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!!

映像の世紀 南京大虐殺22 元日本兵の証言 東史郎10/13
終戦 なぜ早く決められなかったのか(前)

日本は、戦争の反省を真剣にしてきたのだろうか?
戦後、戦争の指導層は、そのまま権力の中枢に残り、731部隊員はアメリカから免責された。
あの戦争を美化する勢力は、加害の事実を否定し、教育界で巾を利かせようとしている。
教育現場では、思想・信条の自由は踏みにじられ、日の丸・君が代が強制されている。
現場では、重苦しい空気が漂っている。

戦争といじめは似ている。やられた方は一生忘れないだろうし、やった方はたいした事はないと思って、早く忘れようとする!!



平頂山事件から81年!!
日本政府及び日本国民はこの事実を直視していない!!
   

平頂山事件
1932年9月16日 平頂山事件

未だ癒えぬ傷(平頂山事件 生存者の今)

平頂山で何が起きたの?

真実を知りたい
「平頂山事件資料集」
平頂山事件80年を記念して、「平頂山事件資料集」(井上久士・川上詩朗編・柏書房)を発刊しました。平頂山事件に関する唯一かつ最初の本格的な資料集です!
被害者の膨大な証言、新聞報道、外交資料、裁判資料、日本では見ることができない資料も入っており、とても充実した内容です。とにかく証言は迫力があります。
個人で買うには少しお高めですが、自信を持っておすすめできます。でも自分で買うにはちょっと。。。という場合はぜひお近くの図書館で買ってもらうようリクエストをお願いいたします。ぜひ皆様のご協力をお願いいたします。
柏書房 定価25200円

平頂山事件の初!公式ホームページ

中国に行って驚くことは、平頂山でもそうだか、中国各地に抗日戦記念館があり、社会科見学といえば中国の小学生や中学生は抗日戦を学んでいる。一方日本の小学生などは中国での加害の事実などは学ばず、社会科見学といえば大手企業の工場や国会などを見学する(東京)。小学生が聞く戦争の話といえば、空襲の被害の話だとか、原爆のことで、日本の被害だけに殆どの学校が限定されている。文科省の方針だと思う。
これでは将来を担う両国民の歴史認識に、大きな溝ができるではないか!!



日中戦争の実態
日本人中国抑留の記録6(三光作戦)

日本人中国抑留の記録7(アヘン・731・無人地区)




これじゃ死者(=殺された者)は浮かばれない!!
オウムのやったことと旧日本軍のやったことはよく似ている!!
サリンを撒いた!細菌を撒いた!
日中国交正常化41周年
問われる日本政府の隠蔽体質!!
問われる日本人の歴史認識!!
日本は世界で唯一、第2次大戦中、細菌兵器を実戦に使った加害国だった!!
きけ!!「マルタ・アジアの被害者」の悲痛な叫び!! 
「怨」
黒い太陽731部隊


「吾、吾が罪を知る」という遺書を残して自死した東大助教授に石井らは果たして何を要求したのか?(詳しくは「細菌戦部隊と自決した2人の医学者」【新潮社】をお読みください!)
昭和20年9月2日大学の研究室で自殺。(その日は戦艦ミズーリで日本が降伏文書に調印した。)



●731部隊
2912.7.21
第6回学習会《731部隊の国家犯罪を裁く》
「731細菌戦部隊と医師の戦争責任」
―いわゆるQレポートから見た金子順一論文の意義について―


2012年7月21日(土)、港区立商工会館6F第1会議室にて莇昭三さん(あざみ・しょうぞう。全日本民医連名誉会長、「15年戦争と日本の医学医療研究会」名誉幹事長)を講師に迎え、731部隊がおこなった細菌戦、人体実験の英文報告書「ダグウェイ文書」、医師の戦争責任についてお話いただきました。
主催:NPO法人731部隊・細菌戦資料センター

・1992年アメリカで、731部隊の人体実験のレポートが見つかった!!
次は金原節三さんの業務日誌ですけれども、防衛庁防衛研究所図書館にあります。
昭和18年の4月11日の局内会報に「ホ号打合」について書いてあります。
(北支)粟100gr・・・粟というのはペスト菌、ペスト菌100g。餅というのは鼠、鼠1000.9月末までに100kgrの粟の生産可能。但し餅の追送を要す。餅を追送すればペスト菌が100kgできるということですね。(計2万ヶ、月々漸増)
餅の輸送の場合、船便による時は船待(神戸で4日間停まるんですけれども)の関係上相当の飼料を要するのもならず、これがため3割の消耗を生ず。そのためにどうしたかと言いますと、葡萄糖を使用し餅の節約となる。約1/8の数で可能なり。その粟の卵の保存法を研究し好結果を得たり。
つまり、ホ号作戦では大本営は非常に苦労したんですね。鼠を送ったり、ペスト菌を作ったりすることに。
金原節三業務日誌 - コピー


731部隊の人体実験のレポート発見(1992年




パネル集「戦争と医の倫理」
パネル集「戦争と医の倫理」
シンポの開催趣意書
パネル集はじめに
731部隊の支部
発行「戦争と医の倫理」の検証を進める会
発売三恵社より



●731部隊・原爆・原発
原子力村をぶっつぶせ!!原発の再稼動を許すな!!まさか、日本が劣化ウラン弾を作ってはいないでしょうね



東電のカネに汚染した東大に騙されるな!

日本を導く頼もしい学者先生方

【315】 国は正しい ?? 水俣病と福島原発

医学は水俣病で何をしたか(抜粋)

水俣病のときは、東大の学者を利用して世論操作を行い、被害を拡大させてしまって...

山下俊一のお師匠さん、重松逸造とは?


731部隊と山下俊一

731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち 福見秀雄・青木義勇と長瀧重信・山下俊一

ヒロシマからフクシマへ 戦後放射線影響調査の光と影【無料版】堀田伸永

山下俊一トンデモ発言


「御用学者」批判ができない大学社会

小佐古内閣官房参与辞任・20ミリシーベルト問題

2011年12月22日 「国の放射能の『除染に効果はない』」神戸大教授 山内知也

9.29がれき広域処理の真相を根拠法から暴く!山本節子さんのお話

大義なき戦争「イラク戦争」に日本は間接的に加担した!!憲法9条はどこへ行ってしまったのか?
覚悟が必要です。劣化ウラン弾放射能影響「ファルージャの子供たち」

三井化学岩国大竹工場が爆発、2012年4月22日 深夜に爆音・炎上

山口・化学工場爆発と劣化ウランについて。- 2012.04.22

■三井化学大竹工場は劣化ウラン弾の秘密工場だった

イラク攻撃で使用されている劣化ウラン弾に日本の電力会社の劣化ウランが使われている強い疑惑

やはり日本の原発は核開発目的だった!

20130221 ニュース深掘「集団的自衛権、外交、TPP、一刀両断」・孫崎享


アメリカの目的は日本の植民地化だ-アメリカの奴隷になるのか
驚愕の不平等条約である


ドイツZDFテレビ(フクシマ)最悪事故から2年、除染・甲状腺がん

Fukushima Daiichi: A Chronological Account of the Disaster


原発問題 おかしいのは国か、自分たちの奴隷根性か

大新聞世論調査の大ウソ 地方紙の100%はTPP反対

20130320 with夜ラジ「ニュース・喜怒哀楽・深掘」秋山豊寛

ネズミ一匹で全電源喪失の悪夢 東電のズサンな安全管理

霞ヶ関の被災地米の使用率35%について。- 2013.03.19

福島生産を食べた後に鋭い白血病を被る日本のテレビスター大塚 範一さん

130311 文化放送「夕やけ寺ちゃん活動中」

武田教授 短評:「除染」に見られる日本社会の幼稚性

20130316 UPLAN 高杉晋吾 国策としての731部隊と原発

日本社会の幼稚


忌野清志郞の反原発の歌  RCサクセション サマータイムブルース〜LOVE ME TENDER


●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京」市民に仕えた宣教師証言集:章開沅/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2200+税)
※『日中歴史共同研究』(2010年1月31日公表)でも明らかなように、日中戦争は日本の侵略戦争であり、南京大虐殺は歴史事実である。私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
スマイス
スマイス
友人への手紙(1938年3月8日)
金陵大学、中国、南京
1938年3月8日
牯嶺のマルディーが12月15日付の手紙で(ここに届いたのは1月末)、わたしたちが揚子江の底に全員沈んでいるとは、みんな信じていないといっています。わたしは12月4日にお出しした最後の通信に、わたしたち「いかなる不測の事態」が生じようとも南京に留まると表明して、それぞれの死刑執行令状にサインしたところですと、記したものでした。マルディーが「神様にそれを感謝します!」と言っています。とにかく、この冬この南京で、一刻たりとも快活にはなれませんでしたのに、わたしたちみんな、ここに留まったことで感謝しております。為すべきことを為したかたとて、ラッパを吹きたくはないのですが、それでもわたしたち250000人ほどもの、この町に囚われている中国の一般市民の大いなる苦しみの数々を、和らげられたと、信じています。これまでにわたしたち完璧に仕事をしたわけではなく、数多くの中国人が殺され、さらに多くの人々がわたしたちの努力にもかかわらず、苦しんだのです。けれども、わたしたちが抗議の嵐を強力に巻き起こしたことから、とうとう※松井総司令官が自ら南京にやってきて、兵士たちに行儀よく振舞うよう命じたのです―が、6週間遅かったのでした。もしも彼が前にここにきていた12月17日にそう言って、効果があがっていたならば、話は別になっていたことでしょう。

※松井石根、日本の陸軍大将、1937年に中国への侵略戦争勃発後に、上海の日本軍総司令官に任じられ、華中方面軍司令官をも兼任させられた。1937年の12月17日に南京入りし、戦功をひけらかしただけで、日本軍の気違いじみた凶暴行為を制御する何らの処置もとらなかった。

南京大虐殺・731部隊の悪行を幻にするな!!

教科書に「南京大虐殺」はどう書かれてきたか

日本兵が記録した南京大虐殺1


南京大虐殺の真相

(1/14)南京大虐殺を謝罪する勇敢で良識ある元日本兵たち

映像の世紀 南京大虐殺26 見透かされた否定派の陰謀1/2

1. 南京大虐殺 日本軍によるアジアでの 残虐行為 Rape of Nanking Part 1

2. 南京大虐殺 日本軍によるアジアでの 残虐行為 Rape of Nanking Part 2

映像の世紀 南京大虐殺12 元日本兵の証言 金子安次

In the Name of the Emperor 天皇の名のもとにー南京大虐殺の真実

情報遮断!1937年12月12日・・南京攻略下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者が、無線記事の送信に利用していたアメリカ砲艦パネー号を、日本軍が撃沈した!!なお、USS PanayのUSSは、US Shipの略号で、米国艦船であることを示します。

映像の世紀 南京大虐殺13 元日本兵の証言 東史郎1/13


映像の世紀 南京大虐殺25 元日本兵の証言 東史郎13/13

南京大屠殺 ( Nanking Massacre )


The Rape of Nanking & Unit 731

1937 Nanking Massacre

NHKスペシャル 映像の世紀 第11集 JAPAN

南京大虐殺マギーフィルム1

南京、マギーフィルム2

南京、マギーフィルム3

南京、マギーフィルム4

証言ー侵略戦争1

証言ー侵略戦争2

証言ー侵略戦争3

07-07. そういう話には乗らないでほしい—元日本兵の証言02


●731部隊
【戦後日本
・・・・・・
この日米の密約が1986年には破綻したことは第1章で述べたが、おそらく密約がなくても、日本は残念ながら石井機関の蛮行を隠そうとしただろう。それでも日米の密約は、アメリカという共犯者を得させることで、犯罪隠しにおいて日本の精神的負担を軽減するという役割を果たしたと言えよう。
日本の戦争犯罪隠しにおいて、精神的負担軽減のために大きな支柱となったもう1つの存在がある。それは昭和天皇の存在だ。筆者がこれまでに会って話を聞いてきた、石井のネットワークで研究していた医学者たちが異口同音に口にしたのが、「天皇の名誉」という言葉だった。彼らの気持ちの中の論理では、石井のネットワークの研究者たちは天皇のため、あるいは国のために科学研究を行なっていた。それゆえ本来なら決して行なわない蛮行を、自らに「天皇のため」「国のため」と正当化し、実行した。つまり彼らは、「天皇のために蛮行を行った」と自らを納得させていた。それだから、天皇が、国が認めていない自らの犯罪を語ることは、お上の名誉を傷つけることになるわけだ。
国を、天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行った人体実験や生物戦の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、一つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行っても、個人に対しては決して補償しないという態度がとられることになる。そのためには、国として過去の犯罪の事実を、またそれについての責任を認めるわけにはいかないのだ。あるいは、この論の順序は逆かもしれない。すなわち、犯罪を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。】
(「731部隊」講談社現代新書 常石敬一著 P199~P200)



「上下関係・世襲を大事にする社会から1人1人の人間を大切にする社会へ!!」
天皇の元首化反対!!
脱!天皇教!!
天皇制から憲法9条を国是とする大統領制へ!!



自民党が新改憲案
国防軍・天皇元首・非常大権



「華人労務者」強制連行政策遂行の最高責任者は今の安倍首相の祖父岸信介商工大臣だった!!(1942年東条内閣)

「企業の戦争責任~中国人強制連行の現場から」を読んで

かつての天皇制軍国主義下の日本の軍隊では体罰は日常的に行なわれ、上下関係が厳しかった!!その流れを今の体育会系クラブは汲んでいるんではないか?
1人の人間として見ないで、1つの物と見る。
そして他民族を蔑視し酷使し、生体実験を日常的にし、国際条約を無視して、毒ガスや細菌まで撒いてしまった!!
湯浅元軍医(731部隊員ではありません)の証言
「罪の意識はないんですよ。悪いとは思わないんですよ。だって天皇の命令で、その時信じてやったのだし、勝利のためなんだから悪くないんだと、細菌だっていいんだと私は思ったし、石井四郎に尊敬の念を持ったんですから」


体罰問題で揺れるJOC会長竹田恒和氏の父親は元皇族の竹田宮!
【竹田宮(竹田宮恒徳王)は・・・日本占領下の満州で任務に従事した。そこで彼は、首席主計官として、関東軍において戦時に設置された重要なポジションに就いた。そういう地位の人間として、彼は満洲におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。彼は平房を頻繁に訪れたが、その際は、宮田武中佐と名乗っている。おそらく竹田宮・宮田中佐は、自らの任務を果たすために、満州にある他の死の工場も視察したはずである。
竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍における医療行政官のチーフのように権力のある個人すら、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼等をエスコートした。
彼の表面的な平和主義と戦後期の業績にもかかわらず、一市民竹田宮は、細菌兵器の強硬な信奉者であり続けた。彼は細菌兵器が戦争の道具として比類のないものであるとの確信を持ち続けた。時代は下って1983年、竹田宮は、細菌兵器について尋ねるインタビューに対して次のように語っている―「私は、われわれが戦争を遂行するためにはあらゆる手段について研究する必要があったと信じています」。】(『死の工場』p227~228 シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳、柏書房、1999年)


日本は、国体を護持(天皇制維持)するためにアメリカにいい印象を、与えたかった。
そして、戦後、天皇裕仁とマッカーサーのトップ会談が何回も持たれ、いろいろ話し合われた。私は、その内容については全く知らないが、その中で非人道的な731部隊の人体実験や細菌戦、またアメリカによる原爆投下などのことにも触れているのではないかと想像してしまう。お互いの2国間の政府の間では、そのことを問題にするのはやめようと。
昭和天皇とマッカーサー会見の時

その結果、東京裁判では、731部隊のことや原爆のことは全く問題にされず、誰一人そのことで裁かれなかった。
731部隊の詳細な資料と何人かの隊員はアメリカに渡り、アメリカはその資料や隊員の話を元に自国の遅れていた細菌戦研究を進め、朝鮮戦争やベトナム戦争で実戦使用した。
※(「第2部には、我々の他に、八木沢班というのがあった。ここは植物や穀物を枯らす細菌の研究をしていた。ベトナム戦争の時に、アメリカ軍が、ベトナムで枯葉作戦というのを行なったというのを知った。そして、この枯葉作戦は、731部隊八木沢班の研究が発展させられたものであるという事を聞いた。なんともやりきれない想いにとらわれてしまった。」【真相 石井細菌戦部隊 郡司陽子編 P121より】)
枯葉剤
※枯葉剤の影響を受けて下半身がつながったベトちゃんドクちゃんを日本の医師団が手術し、分離に成功したのも何とも皮肉な話だ。
ベトちゃんドクちゃん

また、原爆に対しても、全く世界から非難されなかったことで、原爆→水爆という狂気の道に突き進んでいった。
一方、日本は、731部隊員に全くお咎めが無かったものだから、元隊員たちは以前と変わらぬ倫理観で医療の現場に立ってしまった。精神病院や乳児院、刑務所その他製薬会社などで人体実験が行なわれ、時々大きな事件となり、世の中を騒がせた。
戦後の医学界は、731部隊について反省するどころか、権力側が731部隊のことを隠蔽したいため、731部隊の中枢に近い人たちに、医学界をリードさせた。そのため全く731部隊の反省はされず、その系譜が今に引き継がれている。
薬害エイズ事件
薬害エイズ問題と731部隊
731部隊とエイズとの関係

フクシマを植民地支配するナガサキの医学者達-731部隊の現代版

731の学者
731の学者

731部隊に関与した医師・医学関係者 
日本学術会議の態度
日本学術会議の態度

日本医師会の歴史認識
日本医師会の歴史認識

15年戦争への加担について
15年戦争への加担について


原発事故の福島や、国立感染症研究所や自衛隊の化学学校では実際どんな研究がされているのか、と考えるとそら恐ろしくなる。


防御と攻撃は紙一重!!防疫給水と言って戦中細菌戦を進めていたことを見ればよく分かる。
自衛隊化学学校の実態
動画でわかる!陸上自衛隊化学学校
また、原発事故で明らかになったように、日本も原爆開発に執念を燃やしている!!
日本国憲法第9条は全く形骸化しているのではないかとも思う。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


中国に咲いた一輪の花!!
朝日新聞より   2011年7月9日15時30分
中国の731部隊跡地に謝罪の碑
731謝罪の碑
日本人の募金で設置731部隊の旧跡に建てられた日本人の募金による記念碑=9日、ハルビン、西村写す

(日本政府が正式に謝罪すべきだ!!)


罪の重さを思うと言葉で「謝罪」は表せない!
(ABC企画NEWSより)
7月9日、ハルピン市平房区、731部隊本部遺跡内に建立した碑・『謝罪と不戦平和の誓い』除幕式典で、日本側代表挨拶を終え、壇上から降りた矢口仁也は“ああするしか思いつかなかった”とつぶやいた。
今日、私たちはこの日を迎えるに当たって、これまでの道のりを回顧すると、裁判闘争に限界を感じ、日本政府の歴史認識の曖昧さに落胆し、怒り、“せめて市民の手で「謝罪」の碑を建てよう!”と決意し2004年、名称も碑文も決まらないまま『殉難烈士慰霊碑』(仮称)建立募金の呼びかけを開始した。
名称『謝罪と不戦平和の誓い』、わずか4行の碑文に加害者としての謝罪の言葉を記すことの難しさは6月、石碑に文字を刻む作業直前まで迷い続けた。私達の思いは果たして被害者の心に届くのであろうか?一抹の不安を抱えながら迎えた除幕式であった。
「731部隊によって虐殺された3000人以上の烈士の皆さん、夫を、父を、息子を奪われた遺族の方々、そして731部隊に住処を奪われ「労工」として強制的に働かされた多くの罪なき人々、1人1人にどの様に謝ればよいか申し上げるべき言葉はありません。」と言って矢口代表は碑の前にひざまずいた。参列者の私たちも思わず頭を垂れた。この謝罪碑は、731部隊によって亡くなった方々への謝罪と同時に、日本の侵略戦争によって侵された全ての犠牲者に対する謝罪の気持ちを込めた碑でもある。
落成式に参列したペスト被害者の故靖福和夫人、『特移扱』被害者遺族の朱玉芬さんは「市民の皆さんが建てた謝罪碑によって多少心が和んだ。皆さんの気持ちに感謝したい、しかし、それでも日本政府には是非謝罪を求めたい」と述べた。

新たな気持ちで次の一歩を!


碑を建設したことで“謝罪が終わった。許していただいた”ということではない。15年にも亘る侵略戦争によって語り尽くせないほどの被害を受けた中国人民に対し、世代が変わろうと、加害者である日本人としての責任は果たさなければならない。
私たちはその責任の1つに731部隊遺跡保存があると考えている。731部隊遺跡は平房区の住民にとっては本来“目の前から消えてほしいもの”。その屈辱の遺跡が今日まで保存されているのは住民の皆さん、歴代陳列館長を初めとする区、市、省政府の諸先生方の歴史認識の結果であると思う。彼らの努力に感謝するとともに、今日を新しい出発点として、友好を深め、平和を創造し、子孫の未来のために日本政府が正式に謝罪し、戦後補償を実現するまで私たちは運動を続けていくことを誓う。
今回、国会議員の参列は実現できなかったが、阿部知子衆議院議員、服部良一衆議院議員、今野東参議院議員、斉藤勁衆議院議員、川田龍平参議院議員、笠井亮衆議院議員の6人からメッセージを頂いたことは今後の運動への第一歩ともいえる。
最後に、除幕式開催にあたり特に協力、準備してくださった黒竜江省外事弁公室の諸先生方、金成民陳列館館長と職員の皆様に心から感謝します。



日本はドイツの脱原発やドイツ医学会の謝罪に多くのことを学ぶべきではないか!!
ナチス・ドイツの人体実験
ナチス・ドイツの人体実験と731部隊での人体実験の特異性

ドイツ医師会の反省
ドイツ医師会の反省

ボグロムの声明
ボグロムの声明

アレクサンダー・ミッチャーリヒ -
アレクサンダー・ミッチャーリヒ -

ドイツ精神医学会の反省
ドイツ精神医学会の反省


「731部隊のすべて~人体実験・細菌戦~」
(2012年4月15日東京ウィメンズプラザ・ホール)
「悪魔の飽食」
人体実験被害者遺族の証言
細菌戦被害者の証言
細菌戦の研究
新資料発見者 奈須重雄さんのお話
松村高夫(慶大)さんのお話
(日本軍の毒ガス被害)日本の被害者は救済するが、中国の被害者は救済しない?
遺棄毒ガス敦化被害事件、不当判決!!
遺棄毒ガス問題について
周桐さん・731記念館館長のお話
最後の挨拶

731細菌戦部隊の全貌

731部隊では何が行われたのか

731部隊員の証言 1


中国再訪の旅5

七三一部隊の簡単な歴史 常石敬一

日本「731部隊」の細菌戦で2万6000人がペスト菌感染

◆旧日本軍の細菌戦、中国人の被害27万人以上

◆「731部隊」米軍へ細菌兵器攻撃を計画 (TBS 06/7/21)

ニュース保存用

武田薬品が、核ビジネス・モンサントとつながっているとすれば

「政府は細菌戦の資料公開を」中国の被害者遺族ら会見

旧日本軍、中国で細菌戦 陸軍の極秘公的文書に記述

細菌戦の新発見資料について

▼金子論文はこちら(PDF 14MB)

731部隊の細菌戦 新証拠発見

100部隊

こんなにもあった細菌戦部隊

※731部隊は、ホルステン河に細菌をまき、日本兵を感染させ治療し感状を貰った!!
(731部隊の治療実績を陸軍に見せつけ、陸軍内での石井四郎の発言力・影響力を強めた!!)

ノモンハン事件・石井の野望 2

<731部隊>関係者リストの作成作業に協力要請

医学界とは731部隊そのものである

国家主義者平泉教授の戦慄  人間魚雷と731部隊 (その1)

朝鮮戦争でアメリカは細菌戦を行った!

戦時中、普通の軍医・医学者が行なった生体解剖
[証言記録 兵士たちの戦争

[証言記録]従軍看護婦が見た戦争

太行の麓をしのんで -生体解剖-

湯浅謙

九州大学生体解剖事件
ザ・スクープ

(15)吉田源二、東大医学部出身、昭14.4.5から終戦まで在隊、吉村寿人の下でマルタの管理を担当。

【2 吉田の源さん
だが、このような区別、つまり正規の軍医であったか、短限であったか、それからまた陸軍技師であったか、臨時嘱託であったか、そんなことが、あの部隊に所属していた研究者である限り、その罪は一蓮托生であるという点からすれば、いったいどれほどのちがいになるというのかと、思い知らされる日が間もなく到来した。
それは、わたしが昭和19年(1944)5月末、その前年の9月に再婚したばかりの妻を伴って任地へ赴く途中、満州国での第1夜を過したハルビンの宿に、歓迎の意を伝えるべく訪れてくれた旧友の口からはじめて、部隊の秘密をおぼろげながら聞き知ったときのことである。
その旧友というのは吉田源二陸軍技師であり、この人は旧制第1高等学校を経て昭和9年(1934)に東京大学医学部を卒業後、いつ頃から第731部隊に勤務するようになったのかは知らないが、当時は第4部二木班に所属していた。
この吉田技師を旧友とよぶ所以は、かつてわたくしが昭和4年(1929)4月、一高に再入学したときに同校の3年生であったばかりでなく、かれはその頃だれ知らぬ者がなかったほどの向陵切っての名物男でもあったからである。
だが、そのかれにハルビンの宿で久しぶりに再会したわたくしが、何よりもまず衝撃を受けたのは、(きみが来てくれたのはうれしいが、それにしてもとんでもないところにやってきてしまったもんだなあ。きみは知っていたのか、知らずにか)というかれからの質問がきっかけではじまった部隊のはなしであったが、それにもましておどろかされたのは、かれの変わり果てた面影であった。
わたくしの記憶の中で生きていた吉田の源さんは、豪放らいらくを絵に描いたような、典型的な一高健児であった。そして、数々の向陵物語でおなじみな記念祭とか、全寮茶話会とか、あるいはまた一高三高対抗野球戦とか、寄宿寮ストームなどでは、必ずといってよいくらい高吟乱舞をほしいままにしていたかれの姿を見るたびに、わたくしは「友の憂いにわれは泣き、わがよろこびに友は舞う」という寮歌の一節がそのままのかたちで演じられている感に迫られたものであった。
それがどうであろう。ハルビンの宿で目前にした吉田技師は、相手をまともに見ることはせず、いつも伏目勝ちで、話す言葉には弾みがないのでぼそぼそと聞きづらく、あまつさえその口許にはうすら笑いさえうかべていたのである。
しかもそれは相手に対してというよりは、多分自分自身へ向けての侮蔑の現われであることはたやすくみてとれた。それにしても、かつては豪傑笑いとよく噂された、明るい、いかにも屈託のなさそうなかれのあの笑いがいつの間に、こんなにうしろめたい、謎めいたものに変わってしまったのか。
そのほか、かれの身のこなし方にも以前とはすっかりちがってしまっているところがあるのに気がついた。たとえば、両肩をすぼめ、前かがみになって歩くかれの後ろ姿などは、その身につけているカーキ色の軍属服とはおよそちぐはぐな感じであったし、それやこれやが重なり合ったかれの変わりようは、(これがあの源さんなのか)と、しばしわが目を疑いたくなったほどのものがあった。
わたくしはその後も、しばしばかれとは話し合ったこともあり、それに間もなくかれが二木班でどのようなことをやっていたのかを知るに及んで、はじめてすべてが残りくまなく解き明かされたのである。そしてわたくしは改めて、ドイツ浪漫派作家が好んで題材にしたあの「悪魔に影を売り渡した男」は現実にも存在しているのであって、決してとりとめもない空想の産物などではないことを思い知ったのであった。】
※向陵・・・東京本郷向ヶ丘にあった旧制第一高等学校の別名。
(「医の倫理を問う 第731部隊の体験から」 秋元寿恵夫著 勁草書房)

731部隊で行われていた残虐行為はアウシュビッツ以上だ!!(医学者の道を捨てた男もいた!!)
医学犯罪、今どう考える…?731部隊の“闇”を振り返る
2000/3/5 放送「731部隊と医学者たち」(医学者の道を捨てた男・秋元寿恵夫の生涯!!)
知ってるつもり 731部隊


『部隊展』(1993年~1994年)の資料より
体の凍り具合
●凍傷は日本軍が極寒の地を征服するためには、どうしても克服しなければならない課題だった。以前は、凍傷に対する最も有効な治療法は、患部をわらでこすることだった。凍傷実験を担当した吉村寿人(ひさと)班では、以下の手順で実験を行った。
1、零下20度以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る
2、棒でたたいて、凍り具合を確認する
凍傷実験1
吉村が自著『喜寿回顧(きじゅかいこ)』の中で批判に応えるため「凍傷実験など大したものではなかった」例として使っている写真(被験者は蒙古人少年)
※吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年 - 1990年)は日本の医学者。生理学者として師である正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)より731部隊に赴任するよう命じられ、凍傷研究に従事した。吉村の731部隊における研究について、かつての部下らによるハバロフスク裁判での証言やイギリスの取材陣らが収集した証拠資料と証言資料では、人体実験での貴重な「研究」とされる。戦後、731部隊の人体実験のデータと推定されるものを用いて日本生理学会に論文を多数発表する。また、戦時中においてもすでに成果を同学会において口頭発表がなされていた。戦後京都大学に戻り、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、学長を務めた。1978年には、「環境適応学」の先駆的業績を果たした功績に勲三等旭日章が授与された。(ウィキペディアより)


『証人古都良雄の尋問より』
凍傷実験2
●古都良雄。1941年7月より1945年2月まで、第1部第1課に勤務、衛生兵。その後第643支部病原菌研究班に勤務中、ソビエト軍の俘虜となる。
問)人体凍傷実験について話してもらいたい。
答)人体凍傷実験は、毎年、一年の中で一番寒い・・・11月、12月、1月、2月に部隊内で行われました。この実験の方法は次の通りであります。すなわち被験者を夜11時頃、酷寒の戸外に連れ出し、冷水の入った桶に両手を入れさせ、それから手を出させて、濡れ手のまま、長時間寒気に立たせました。あるいは又、こうもしました。着物は着せても裸足の人間を戸外に連れ出して、夜、一番寒い時に寒気に立たせました。
人間が凍傷に罹った後、室内に連れ込み、およそ5度の温水に足を入れさせ、徐々に水温を上げました。こうして、凍傷の治療方法が研究されていました。私はこれらの人間が室内に連れ込まれてからの実験は直接見ませんでしたが、私が不寝番に立っていました時、人間を寒気に連れ出し、そのところで凍傷に罹らせられているのを見ただけであります。人間に手を水に漬けさす室内の実験については、目撃者の話で聞きました。
問)又、どんな人体実験が行われていたか?
答)吉村研究員が、人間に対するびらん瓦斯(ガス)使用実験を行っていたことを私は知っています。私はびらん瓦斯(ガス)の効力を試験するのに使用されていた人間を監獄の中で見ましたが、この実験の方法がどうだったかは、知りません。
問)これらの人々はどういう状態に置かれていたか?彼らには、どういう症状が現れたか?
答)私は、手、足に大きなびらんが生じている人々を見たことがありますが、これ以上何も知りません。(『細菌部隊ハバロフスク裁判』海燕書房)
凍傷実験3
凍傷実験4

黒い太陽731 3

ハバロフスク裁判の様子
ハバロフスク裁判の様子
各部長・支部長集合写真(731)

NPO法人 731資料センター 会報5号」より


※アメリカは中国における日本軍の情報を集めていた。
南京大虐殺・重慶などの都市の無差別爆撃、毒ガス戦・大規模な細菌戦などの残虐行為に対して、今度は報復に出た。


※満州の満人部落をはじめ、農安県でも731部隊は細菌をばらまき、多くの人々を殺し、家々を焼き払った。これも、細菌が自然発生したように見せかけた謀略であった。
フェル・レポートによればPX(ペスト菌を保菌しているゲオプスネズミノミという兵器)を使用した細菌戦は12ケ所で行われ、一次流行したら二次流行と続き多くの犠牲者を出した。
今現在でも中国でこの細菌戦の調査が行なわれている。また、他の病原菌を使った細菌戦やゲオプスネズミノミ以外のペストノミを使用した細菌戦もあったようだ!!(『731資料センター会報第2号』を参照)

細菌戦の新発見資料について
精魂塔(表)
精魂塔(裏)

精魂塔(これは一体誰を供養しているのだろうか?裏側は何か消したようにも見える!!)
731部隊・細菌戦731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
殺人工廠(1)
731の最後 死亡列車0
「前事不忘 後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)
“戦争を語る”人々

戦犯たちの戦後

証言ー侵略戦争1

北朝鮮による拉致も大きな政治課題だが、戦時中に日本軍が行なった大規模な強制連行(拉致)に対しては戦後日本はきちんと対応したのであろうか?
中国人強制連行1



問題提起731部隊・細菌戦資料センターのホームページより)
日本は中国に対する侵略戦争中に各地で細菌作戦を実行しました。細菌戦によるペストやコレラの流行によって、中国では多数の犠牲者が発生しました。1997 年と1999 年、細菌戦被害者計180名が日本国に謝罪と賠償を求めて細菌戦裁判を東京地裁に起こしました。

一審・二審の判決は、
1、731 部隊等が細菌兵器の開発の中で人体実験を行っていた事実、
2、731部隊等が陸軍中央の指令で、ペスト菌やコレラ菌を使った細菌兵器を中国各地で実戦使用した事実、
3、細菌戦によって浙江省や湖南省で1万人を超える中国の一般市民が殺された事実、
4、731 部隊等が犯した細菌戦が国際法(1925 年ジュネーブ条約等)に違反していること、
5、細菌戦を実施した日本国にはハーグ陸戦条約第3 条に基づく国家責任が成立したこと、
6、細菌戦は、その被害が悲惨かつ甚大で、非人道的な行為であること、
などの重大な事実認定を行いました。

ところが、日本政府は、判決後も現在まで細菌戦の事実を全く認めていません。これは日本政府が中国侵略に対する真摯な反省を全く行っていないことを意味しています。日中の真の友好とアジアの平和を実現するために、日本が犯した重大な戦争犯罪である細菌戦について、政府は一刻も早く加害と被害の事実を認め、被害者に謝罪と賠償を行うべきです。

731 部隊等の犠牲者に対する戦後補償の速やかな実現は、日本政府だけでなく日本の国民全体の責任です。

●戦後の医学界・薬学界・政界
731部隊員は戦後、裁判によって1人も裁かれなかった!!考えてみれば、戦時中、国家総動員法が敷かれ、日本の大学の専門家も何らかの形で戦争に加わった。医学界であれば、嘱託として731部隊に係った。その数はかなりの数にのぼるだろう。
戦後占領軍のアメリカは独占的に731部隊のデータを安く買い取り、自国の細菌兵器開発に役立てた。そして、731部隊員を裁くどころか、アメリカに協力させ、厚遇してしまった!!だから、医学界では731部隊に係った人間が巾を利かせ、長らく牛耳ってしまった。(今も影響を与えているのではないか?)
戦後もアメリカの要請で人体実験は刑務所などで行なわれ、医学界は731部隊のことを反省するどころか、胸を張ってしまった!!人間を物として扱い、人命を軽視する医療は戦後長らく続いてしまった。(今も変わっていないのかもしれない?)
医学界が中心となって時の政府に圧力をかけ、731部隊の秘密(細菌戦・生体実験等)を決して公式に認めさせないようにしているのではないか?
テレビに出演する名医と呼ばれる大先生も、731部隊のことはよく知っているのだと思うのだが、医学界の“掟”『731部隊のことは公言するな!!』と言うのを忠実に守り通しているのではないか?もちろん、医学界・製薬会社・薬学界・政界で活躍している者、これから出世しようと思う者にはこの“掟”が厳然として生きているのではないか!!
2009.10.25  「戦争と医の倫理の検証を」(東京保険医新聞)
「戦争と医の倫理」の検証を進める会


●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語が奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地(731部隊の周りは「無人区」とされ、そこには、もともと中国人が住んでいて、生計をを立てていたが、強制的に追い出され、その住民たちは路頭に迷い、悲惨な状況におかれた。)に研究施設を作り(建設を請け負ったのは、鈴木組、松村組、藤田組、大林組であった。建設当初から敗戦まで、多くの中国人が苛酷な状況下で仕事をさせられ、仕事の犠牲になった者や逃亡を企てたり逆らったりして残酷な刑で殺された者も多数いた)、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌兵器は中国の都市で実戦された。その結果、細菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
中国では、日本軍の毒ガス兵器使用や細菌兵器使用による死者が増大し、中国は国内外に日本軍の行為を告発した!!(1942年の淅贛作戦では、細菌兵器で日本軍にも多くの犠牲者を出してしまった。このような結果から、一時細菌兵器は、参謀本部の信頼を失うことになったが、それでもなお731部隊では研究開発を進め、1944年の末に石井式細菌爆弾を完成させる。)

1943年にはフランクリン・ルーズヴェルト大統領が、日本の細菌兵器及び化学兵器(毒ガス等)による攻撃を非難する声明を出した。ルーズヴェルトは、「日本の武装兵力によって中国のさまざまな場所で有毒ガスが使用されているとの信頼すべき報告が届いている」と言明した。彼は次のように警告した―。

もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを、間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。

ルーズヴェルトは、彼の警告を以下の言説で締め括っている―「われわれは完全な懲罰を強制する準備をしておかなければならない。日本には〔国際〕責任が発生するであろう」。

この声明に呼応するかのように、その後の日本軍は、化学兵器、細菌兵器の使用を自粛するようになる!!

1945年3月再び石井四郎が731部隊長に就任すると、連合国に対し最後の一撃を加えるために、満州の鼠の捕獲を大々的に行なわせ、ペストノミを増産させた。
ところが、天皇・参謀本部は、敗色が濃く、アメリカの反撃や敗戦後のことを考慮して、細菌兵器の使用を断念した。

1945年8月、ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。

1946年夏の終わりの初秋の頃、平房地区一帯でペストが発生し100余人の人が命を落とした。この原因も731部隊が飼育していた鼠に関係があるようだ!!

731部隊のこのなんとも早い逃亡劇は、731部隊の戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも三笠宮をはじめ何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族(竹田宮)もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!

マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
そのためアメリカは、731部隊員に戦犯免責を与える代わりに731部隊のデータ全てを独占して買い取り、また、上級部隊員をアメリカ軍に協力させ、朝鮮戦争やベトナム戦争に開発した兵器を使用した。
このような流れの中で、アメリカは東京裁判では731部隊の事は取り上げず、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

マッカーサーと昭和天皇
アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

朝鮮の核問題 言葉に尽くせないほど不均衡な世界である 小出 裕章より
朝鮮の歴史と日本の責任
日本のマスコミなどは、米国発表をそのまま流すだけであるが、そもそも朝鮮に関する歴史の流れを理解していない。
朝鮮は 1910 年の日韓併合以来、日本の植民地支配の犠牲となり、創氏改名、朝鮮語の禁止、天皇の崇拝などを強制された。
1945 年の日本の敗戦は、多くの朝鮮人にとっては大日本帝国からの解放と受け止められた。
しかし、日本と米国との戦争は、悪逆非道の日本と正義の米国との戦争であったわけでは決してない。
それは世界の覇権を狙う両帝国同士の戦争であり、圧倒的な力の差の下に米国が日本を完膚なきまでに打ち破った戦争であった。
しかし、米国は当時の共産主義との確執を前に、日本や朝鮮を東洋における共産主義の防波堤にしようとした。
そのため、日本では天皇はその戦争責任を問われないまま温存されたし、朝鮮でも日本統治下の役人がそのまま政権に居座ることが許された。
そのため、本来であれば日本の植民地から解放され、晴れて独立を果たすはずであった朝鮮は、血を血で洗う内戦へと導かれて、南北に分断されたのであった。
1948 年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が相次いで独立を宣言し、1950 年 6 月にはついに朝鮮戦争に突入。
38 度線で膠着した戦争は、1953 年に停戦協定に至った。その後、すでに半世紀の時間が流れたが、朝鮮と米国の間では依然として停戦協定があるだけで、戦争状態が続いているのである。
その一方の当事者である米国は核兵器、生物兵器、化学兵器、大陸間弾道ミサイル、中距離ミサイル、巡航ミサイル、ありとあらゆる兵器を保有し、自らの気に入らなければ、国連を無視してでも、他国の政権転覆に乗り出す国である。
そうした国を相手に戦争状態にある国が朝鮮であり、武力を放棄できないことなど当然であるし、核を放棄するなどと表明できないことも当然である。
ちなみに、日本はベトナム特需とともに、朝鮮特需をもって、戦後の経済を立て直したのである。
そして今なお、米国につくのが国益だと、戦争を放棄したはずの憲法も無視して、弱いものいじめに荷担する。




●巨大なプロジェクト:石井機関
(常石敬一:『部隊展』全国実行委員会より)
ジュネーブ議定書の下で
・・・・・・・日本について筆者(常石敬一)は次の3点を報告した。第1に生物兵器を戦争で使用したこと。未遂のものを含めると対象国は(時代順に)ソ連、中国、そしてアメリカだったこと。第2に生物兵器研究・開発計画には日本中の医学者が総動員されており、そのかなめが軍医学校防疫研究室だったこと。第3に第2次大戦時の首相東条英機や敗戦時の参謀総長梅津美治郎ら内閣や軍の最高幹部は、生物兵器開発の遂行やその過程で人体実験を知っていたこと。・・・・・・
今回初めてこうした項目立ての下で日本の生物兵器研究開発の歴史を見た結果、重要なポイントでありながらこれまであまり注意を払ってこなかった点がいくつか見えてきた。
その第1は要員1万人以上という、日本の生物兵器開発計画の規模の巨大さだった。もうひとつは日本の計画では始めからヒトに対する生物兵器攻撃が予定され、人体実験が行われてきたことである。
規模で当時1000人を超えていたのは旧ソ連だけだった。他は比較的大規模だった英独でも数百人規模だった。このように大規模なものとなったのは陸軍の最高幹部の承認および奨励の下でこの計画が進められたためである。それだけ日本の計画は本気だったということである。計画発足当初から対人用の生物兵器開発が行われたこともそうした本気であることの表れである。



1937年12月13日
南京陥落!!

南京大虐殺
日本政府は、戦史資料を公開せよ!!
河村・石原両氏の発言には全くあきれる!!



南京大虐殺は世界的に誤解されています。

中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。
父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。
非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。
捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。

ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。
昭和12年7月の南京の人口は135万人です。
11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。

否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。
小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。

(65連隊のシャーカン【下関】おける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)【核心氏のコメント(2009年11月2日)】
栗原利一資料集
20万人しかいなかったから30万人殺せない、というのはウソ   
Suopei №79より
南京なかった1
南京なかった2

歴史の正視なしに、日本は友好を得られず=香港メディア


情けない書き込み!!
鳩山元首相が「南京大虐殺記念館」訪問して謝罪

日本の鳩山元首相が訪中「南京大虐殺を謝罪、尖閣は係争地」=韓国

南京大虐殺を謝罪した鳩山氏…元首相では3人目

鳩山由紀夫―南京大虐殺を謝罪

「犠牲者は何人?」南京大虐殺記念館を訪問の鳩山元首相、館長の回答に絶句―本日の中国TOPニュース

『わが南京プラトーン』(一召集兵の体験した南京大虐殺)東史郎著より:青木書店
前線からの手紙
12月22日発(南京にて)
・・・・
一昨日、七千の捕虜の警戒に行く。彼等は逃げ場なく、戦いて見込みなく遂に白旗を立てるなり。吾等が行きし時、白旗三本を立てたるなり。白旗を木の枝に飜るがえし道路に居たるなれば、此れを田の中へ入れ、坐らしめ武器をとりあげる、其の頭目は軍医大尉なり。
支那兵は敗残兵となるや否や地方民の服装に変装する為に正否を判ずるに困難なり。
此の七千の敗残兵は各中隊に分配し、射殺するものなり。公然と白旗をかかげし捕虜を殺すは人道的に如何と思われしが、上司の命なれば致し方もなし。食糧なき為に殺すものならん。
解放すれば、何をするやも知れざる支那兵なり。吾等さえ食に困らんとするに彼等を養う糧秣もとよりなく、七千の捕虜の集合せるは凄き壮観なり。
戦況密に報じたけれども報じ難し、故郷へ帰りたるを得ばあれも語らん、これも語らん。・・・・・・・・・

1月23日(1938年)
・・・・・
巨大な生物、海の息子―揚子江が横たわる。
ガラガラと音高い御用船の起重機の音と共に、夜がすっかり明けた。
夜が明けると、私たちの眼前に凄惨な光景が展開した。岩壁に牛や豚のように虐殺され放り込まれた敵兵の死体―私たちが今日まで、常に見かけた特有のドス黒い色の死体、はち切れるほど空気を入れたかと思われるほどの、膨張しきってふくれ上がった黒い死体が、揚子江のなぎさに山となって転がっている。
全くよく肥えた豚のような死体だ。この汚ない黒い死体の上を、黄色い河水がひたひたと洗っている。ある死体は流された丸太棒のように水にゆられている。ある死体は連絡船の下敷きになっている。兵士たちは、踏めばぐしゃりと腐った泥の臭いのする臓物の出て来そうな、はれあがった死体の上を、飛石ででもあるかのように、鉄の鋲の打った堅い靴で、ポンポンポンと飛んで、連絡船に乗る。
蒋介石の忠勇なる兵士、抗日の英雄戦士、我々に銃口を向けていた戦士たちの最期が、捨てられた塵芥(ちりあくた)のそれである。
水上工兵たちは、ボートの上から長い柄の先のついた鉄の鉤(かぎ)に、これらの死体を、腐った大根にでもするようにグイと引っかけて、沖へ流しに行く。ハレもののように体全体がむくみあがった死体に、工兵たちの鉤がぶすりと刺し込まれ、1人の工兵が1個ずつ計5個がボートに引っぱられていく。
岩壁に1人の兵士が立っていた。彼は、
「毎日トラックで一杯、敗残兵を積んで来た奴を、波止場にずらりと並べて置いて、河の中へ突き落とし、泳ぐ奴をズドンズドンと射ち殺すのだ。これが俺の毎日の仕事だよ」
と、グッと顎をしゃくっていった。
嫌な仕事だ。ペッと私は唾を吐いて、彼の顔を、顎のあがった顔を眺めた。


波止場に酒保があった。それは倉庫の中である。私の足は、何がなしにそっちへ向かった。
水色の綿入れ軍服を着た捕虜たちが、工兵たちにしかりとばされながら、大きな荷物を運んでいた。奴隷のように捕虜たちは働いていた。
私は彼らを憎む気にはなれなかった。私が酒保で買ったミカンの缶詰を食っていると、使役に使われている1人の捕虜が、飢えた物欲しそうな目で、缶詰と私の口元を見つめていた。
彼の目、彼の口と鼻は物欲しさで一杯であった。彼の絶望的な光りの無い瞳から、私は戦争の悲惨さを感じた。もし、この戦さの勝負が逆であったら―。この哀れな捕虜の姿は、私自身の姿であるかもしれない。
私は食う手を止め、この捕虜に、ミカンの缶詰とタバコ3本を与えた。
「謝(シェ)!謝(シェ)!大人(タイレン)!」
彼は相好を崩し、くり返しくり返し頭を下げ、もう1人の捕虜とともに缶詰をむさぼり食った。・・・・・・・


3月12日
・・・
徒労のスパイ狩りかも戻り、内地から届いた『週刊朝日』をめくる。1月16日発行の増大号である。
この中で、楚人冠氏の「山中説法」なる欄にいわく―。
「南京陥落の当時、支那が無用の抵抗を最後まで試みた為め、南京は殆ど焦土と化し、何万といふ人が殺された・・・・云々」

南京大虐殺8

南京大虐殺7

南京大虐殺

20121207 報道するラジオ「就活学生に聞く総選挙の争点・日本の戦争責任」

南京事件 143枚の写真の再検証(1)

南京アトロシティーズ


南京事件-日中戦争 小さな資料集
日本人の「南京大虐殺」に対する認識
三笠宮崇仁と南京事件
偕行社の「お詫び」に見る南京大虐殺
23.南京大虐殺の責任(上)
東京裁判 天皇との絡み新たに
南京大虐殺 稲田朋美氏よ 日本人として恥を知れ!(その1:李秀英名誉毀損裁判)
【「南京大虐殺見た人いない」/ 田母神氏が隊員に教育か】
南京【あの発言から2か月】河村市長へのアドバイス(今、本当にできること)
「河村たかし名古屋市長の南京事件を巡る発言」

史実を守る会は、河村市長に以下の抗議文を
送りました。


抗議文

名古屋市市長 河村たかし殿

(1)貴殿は2012年2月20日午前、表敬訪問に訪れた南京市の共産党市委員会常務委員の一行に対し、「南京事件はなかったのではないか」と発言し、その後も同趣旨の発言を繰り返し、その結果、南京市は名古屋市との交流を一時停止、中国国内でも大きな反発を呼ぶなど、大きな問題に発展している。

(2)貴殿の今回の発言をまとめると、南京事件を否定する根拠として、①終戦後、下士官だった貴殿の父上が南京市において手厚くもてなされた、②目撃者がいない、という2点を挙げている。

しかし、根拠①は、当時の蒋介石政権の「以徳報怨」政策(国共内戦を見越しての日本軍宥和政策)に基づくものと解されるが、そもそも、この様なことが大虐殺を否定する根拠となるはずもない。これを根拠に大虐殺を否定するなどというのは、父上に対して温情を示した南京市民を裏切る暴論である。

また、根拠②は、事実に基づいていない。まず、その前提として指摘するが、南京市の地理の広さ、事件の期間の長さを考慮すれば、大虐殺の全体像を「目撃」することは不可能である。したがって、ここでの「目撃者」とは個々もしくは一定集団に対する虐殺の目撃事例ということになる。
そこで目撃の一例を挙げるならば、夏淑琴さんのケースがある。夏さんは、当時7~8歳だったが、2家族13人の内、11人が殺害されたことを目撃している(※1)。
一方、 独立工兵第1連隊第2中隊の岩崎昌治伍長は、捕獲した敗残兵を殺害したり、「城内に居った支那人を約二千名」を「全部殺してしまった」と陣中書簡に書いている(※2)。
また、ロイター通信社のスミス記者は、揚子江の桟橋で、「一千人の中国人を」「脆かせ、後頭部を撃ち抜く」という処刑の光景を目撃している(※3)。
この様に南京事件は、被害者も加害者も、また第三者でさえも虐殺の模様を「目撃」している。貴殿が言うところの「目撃者がいない」とは、単に「目撃事例の資料を知らない」ということでしかない。

(3)貴殿の「根拠」は根拠たり得ないものであり、それをもって「南京事件はなかったのではないか」などと主張するのは、非科学的主張としか言いようがない。
あまつさえ、表敬訪問に訪れた被害国の要人に向かい、この様な非科学的主張によって被害事実を否定するなどということは、誹謗中傷と受け止められても致し方ない。
即刻、「南京事件なかった」という暴言を取り消し、日中双方の国民に向かい、自身の不明を詫びることを求めるものである。

2012年2月26日
南京への道・史実を守る会
fact_keeper@yahoo.co.jp
http://jijitu.com

※1 笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』(高文研、2006年)P132-146
※2 岩崎稔『或る戦いの軌跡』(近代文藝社、1995年)P23-80
※3 石田勇治他『ドイツ外交官の見た南京事件』(大月書店、2001年)P44-50


河村たかし名古屋市長による
南京大虐殺否定発言に対する抗議声明

1 河村たかし名古屋市長の発言
名古屋市の河村たかし市長は2月20日、姉妹都市である南京市の共産党市委員会の訪問団に対し、1937年12月の「南京大虐殺事件」について、「通常の戦闘行為はあったが南京事件というのはなかったのではないか」と南京大虐殺を否定する発言を行った。その後も河村市長は同趣旨の発言を繰り返し、中国国内で大きな反発を呼び起こすとともに、各種交流事業が中止になるなど、日中間の友好関係に多大なる支障をもたらしている。
しかし南京大虐殺の事実があったことは、多数の目撃者や幸存者が現実に存在しており、南京市民の「民族の記憶」として記憶され、日本、中国及び欧米の膨大な資料がその事実を裏付け、歴史学界の定説ともなっており、第3次家永訴訟では①南京事件が組織的に行われたこと、②大量のレイプが行われたことを認めている。加えて、当弁護団が関与した幾多の判決においてもその存在が認定されている紛れもない歴史の事実である。

2 判決の認定した事実
731・南京・無差別爆撃訴訟事件において1999年9月22日に東京地方裁判所が言い渡した判決は、「『南京虐殺』というべき行為があったことはほぼ間違いのないところというべきであり、原告李秀英がその被害者であることも明らかである」と認定している。
この李秀英さんは、南京大虐殺当時妊娠7ヶ月だったが、日本兵の強姦に抵抗したことで全身を29箇所37回も銃剣で刺され、流産したが自身は奇跡的に生き残ったという体験をした。この李秀英さんを“ニセ被害者”呼ばわりした著者と出版社を訴えた「李秀英名誉毀損訴訟」で、2002年5月の東京地裁判決は、著者と出版社の責任を認めて損害賠償として150万円の支払を命じている。
同じく南京大虐殺の当時8歳で、家族7人を含む11人が日本兵によって虐殺され、母親や姉がレイプされ殺された現場に居合わせた夏淑琴さんについて、“ニセ被害者”と中傷した大学教授と出版社を訴えた「夏淑琴名誉毀損訴訟」でも、2007年11月に東京地裁判決は、「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」と断罪し、400万円の損害賠償を夏淑琴さんに支払うよう命じた。
そして、上海から南京に進軍中の二人の日本軍少尉が中国人に対するいわゆる「百人斬り競争」を行ったとの毎日新聞報道や、それに対する本多勝一記者による検証論稿等が名誉毀損に問われた「南京百人斬り訴訟」で、2006年5月に東京高裁判決は、「両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず」として、その実態が無抵抗の捕虜や農民らに対する「据えもの百人斬り」であったことを実質的に認めている。

3 撤回及び謝罪要求
これら裁判所が認定した事実は、いずれも「通常の戦闘行為」ではない日本軍による虐殺行為である。河村市長による今回の発言は、我が国の裁判所でも認定している「南京大虐殺」の事実を否定するものであり、何らの根拠のない妄言であることは明らかである。
河村市長が、こうした妄言によって中国国民を深く傷つけたこと、それによって日本国民全体の名誉も毀損したこと、さらに日中友好を大きく妨げたことは看過できない。即座に、南京大虐殺の事実を否定した発言を撤回し、中国国民及び日本国民に対し、公式に謝罪することを求めるものである。

2012年3月19日

中国人戦争被害賠償請求事件弁護団
731・南京・無差別爆撃訴訟弁護団
李秀英名誉毀損訴訟弁護団
夏淑琴名誉毀損訴訟弁護団
南京百人斬り訴訟(本多勝一)弁護団

「ノブの日記」(yahoo!ブログ)に寄せられたコメント!
南京大虐殺の大きな特徴は、武装解除した中国兵捕虜の虐殺が多いことです。すでに<12月18日の時点>で、複数の下級兵士の陣中日記に、<7万~10万人の捕虜の虐殺>の記録があります。それ以降も、虐殺が続きます。(捕虜の虐殺は、戦果となり、<軍人として出世の評価>となるので、日本軍側で集計しており、記録に残します。しかし、民間人の殺害は、隠すべきことなので、日本軍側には記録がない)これに、民間人の虐殺が追加されます。特に農村部での掃討作戦と言いながら中国人全員の殺害が多く、更に、食糧徴発、実際は掠奪の際にも、虐殺しています。(農民も、12月冬ですから食糧を掠奪されたら飢え死にです)
2012/4/10(火) 午前 7:24 [ sat*atu**200* ]
「ノブの日記」(seesaaブログ)に寄せられたコメント
河村は本当に馬鹿な男だ、数年前実名で河村に抗議したが返事なし、30万は毛沢東の宣伝で過大だが蒋介石は3万人以上と国連に報告、虐殺は有った、私は中国から復員してきた友人の父親の軍医から聞き15年前南京を訪問現地の資料をみて恐ろしくなった。(sakai)

3月28日 南京に中華民国維新政府成立。南京事件終焉する。
4月 1日 国家総動員法公布。 
【南京事件:笠原十九司著:岩波新書より】
「南京事件」143枚の写真            

李秀英さん
侵略の戦場で何があったのか!!

12月17日 南京入城式
『南京城頭日章旗翻る』&『南京入城式』
・映画やテレビの時代劇ではクライマックスにチャンバラシーンがあるが、斬られた方のその後の苦しみ・悲惨な光景は省略されることが多い!!日中戦争でも多くの捕虜や市民が日本刀による「据えもの斬り」にされ、殺された。最近のテレビでは日本刀を伝統文化だといって取扱っている番組があったようだ!!恐ろしい!!
・なぜ南京軍事法廷では皇族の朝香宮(当時上海派遣軍司令官)は皇族ゆえ裁かれなかったのか?
Rape of Nanking Part I Atrocities in Asia Nanjing Massacre
『地獄のDECEMBER-哀しみの南京- 』舞鶴公演(2011.3.17) -2-
映像の世紀 南京大虐殺14 元日本兵の証言 東史郎2/13

映像の世紀 南京大虐殺15 元日本兵の証言 東史郎3/13

映像の世紀 南京大虐殺16 元日本兵の証言 東史郎4/13

映像の世紀 南京大虐殺17 元日本兵の証言 東史郎5/13

映像の世紀 南京大虐殺18 元日本兵の証言 東史郎6/13

映像の世紀 南京大虐殺19 元日本兵の証言 東史郎7/13

映像の世紀 南京大虐殺20 元日本兵の証言 東史郎8/13

映像の世紀 南京大虐殺21 元日本兵の証言 東史郎9/13

映像の世紀 南京大虐殺22 元日本兵の証言 東史郎10/13

映像の世紀 南京大虐殺23 元日本兵の証言 東史郎11/13

映像の世紀 南京大虐殺24 元日本兵の証言 東史郎12/13

南京大虐殺
日中戦争 (1937-1938)
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
日本兵が記録した南京大虐殺4


NHKスペシャル 映像の世紀 第11集 JAPAN
阳光卫视 纪录片 国殇 第十二集:南京大屠城
「南京!南京!」が見られる映画サイト
映画「南京!南京!」日本語字幕版全編1/14
日本の戦争 2
南京大虐殺9
南京大虐殺
南京大虐殺5
南京大虐殺
情報の遮断を狙う?日本軍、アメリカ砲艦パネー号を撃沈!!
(アメリカ砲艦パネー号は、南京攻略下の南京にとどまって取材活動を続けていた4人の外国人記者が、無線記事の送信に利用していた。)
アメリカ合衆国では、パネー号の撃沈は、南京で発生していた大規模な強姦と殺戮全体よりも大きな騒動を巻き起こした。12月13日にフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、爆撃に「衝撃を受けた」と語り、天皇裕仁に即刻の賠償を要求した。数日後に、消耗しきった生存者たちがようやく文明社会にたどり着いたとき、大衆の反応はますます悪化した。汚れて寒さに震え、毛布と中国の掛け布団、ぼろぼろになった衣服を身にまとった生存者の中には、ショックで未だに死線をさまよっている人もいた。彼らの話は、彼らの写真とともに、この国の全ての主要紙に、「1時間も続いた日本軍の攻撃にさらされたパネー号の被害者」とか、「南京における屠殺と略奪の統治」というような見出しで掲載された。アレイとメイエルのフィルムが劇場で上映されると、アメリカの観衆の間にさらなる激怒と反日感情を喚起するばかりだった。(P176、映像ジャーナリスト 「ザ・レイプ・オブ・南京」アイリス・チャン著より)


●陸軍登戸研究所
・陸軍登戸研究所とは
1937(昭和12)年、新宿にあった陸軍科学研究所の実験場が登戸に移され、電波に関する研究と実験が行なわれた。その後、秘密・謀略戦の研究所として本格的に拡充された。
陸軍参謀本部直属で、1942(昭和17)年に正式名称が「第9陸軍技術研究所」とされたが、軍の法規にすら記載されずにその存在は最後まで秘匿され、ただ「登戸研究所」と俗称されていた。
登戸研究所の任務は、秘密戦・謀略戦に関わる研究・開発だった。毒物、細菌などの生物化学兵器・他国紙幣の偽造・風船爆弾・憲兵隊やスパイ(特務機関員)などが使う武器・器具などを開発、製造した。したがって単なる研究所ではなく、数多くの地元住民を含めて約1000人が働く巨大な秘密兵器生産工場でもあった。
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

動物慰霊碑
①正門裏手にあって、高さは3メートルほどある。
碑の裏面には、「陸軍登戸研究所」「昭和18年3月」とあり、碑文の書は所長の「篠田鐐」であることも刻まれている。
②「陸軍登戸研究所」となっていることが注目される。正式名称「第9陸軍技術研究所」はあらゆる陸軍法規からも抹消されていた。
③碑の巨大さも不可解である。ここで格別に多数の動物を実験材料に使っていたという形跡はない。にもかかわらず、すでに戦局が傾いている最中にこれだけの大きさの碑を建てたのは、何か別の理由があったと考えられる。
第2科では生物化学兵器を研究・開発していた。その過程でイヌ、サル、モルモット、ブタなどを使って動物実験を繰り返したのだが、完成すると中国で人体実験を行なった。1941年5月22日から、登戸研究所の幹部7名が南京1644部隊に赴いて、青酸カリ、青酸ニトリール、雨傘毒蛇、ハブの毒などを用いて、約30人の中国人に実験した。1943年12月から翌年1月にかけても青酸ガスなどの人体実験を行なっている。いずれも防疫給水本部(731部隊=石井部隊)の協力のもとで行なわれた。
この事実を踏まえると、人体実験犠牲者の慰霊碑は建てられないので、動物の慰霊碑として巨大なものを建てたとも考えられる。費用は、この時期に陸軍大臣から与えられた「陸軍技術有功章」に伴う賞金が充当された。
④人体実験をする科学者の心理はどのようなものか。通常の倫理観を持った科学者が悪魔の科学者に変身する。第2科で生物化学兵器研究の中心にいた伴繁雄(終戦時、陸軍少佐)は、帝銀事件の捜査で警察の事情調査を受けた時、次のように供述している。
「実験を始めた。最初は厭であったが、馴れると1つの趣味になった(自分の薬の効果をためすために)。相手は支那の捕虜を使った。相手が試験官を疑うので偽装して行なった。たとえば・・・・。」(帝銀毒殺事件捜査手記第5巻より。昭和22年4月26日)
【「陸軍登戸研究所見学のしおり」より:登戸研究所保存の会】

(200)陸軍登戸研究所⑤ 731部隊と登戸研究所
動物慰霊碑1

動物慰霊碑2

秘密戦関係
秘密戦関係
記念写真
記念写真(中央 三笠宮)
偽札
偽札(登戸研究所で作っていた)
風船爆弾
風船爆弾(模型)登戸研究所で製造していた!!

●516部隊
第516部隊
516部隊
516部隊と731部隊
中国戦線における日本軍の毒ガス戦
日本軍が遺棄した毒ガス及び中国人に与えた傷害 その1
内閣府大臣官房遺棄化学兵器処理担当室
化学兵器CAREみらい基金ブログ
旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器で今現在でも苦しむ人々が、日本や中国に多くいる!!
ニュースレター Vol.12でもご報告いたしましたが、チチハル毒ガス事件の被害者、曲忠誠さんが肝臓がんのため、昨年12月15日に亡くなりました。45歳でした。年末も押し迫った頃、中国人のコーディネーターから連絡が入りました。残念でなりません。マスタードガスに含まれていたイペリットは発ガン物質として知られおり、皮膚だけではなく、内臓にも被害が及びます。曲さんの肝臓がんと毒ガス事故の因果関係は、医学的にも否定することはできません。
曲忠誠さん
曲忠誠さん: 2010年3月 日中合同ハルビン検診にて 


大久野島と毒ガス

全国各地で奮闘する語り部たち
悼みの列島2
(相模湖・大久野島・花岡・・・・で戦時中何があったのか?)
必見!!「戦争を語り伝える人々」のガイドブック!!
『ルポ 悼(いた)みの列島』 あの日、日本のどこかで
室田元美
もう過去のことなんて、いいんじゃない?と思う人もいるかもしれないが、私の胸のなかには、石川啄木「韓国併合」のおり詠んだ「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」が常に引っかかっている。(「はじめに」より)

1945年3月10日
●東京大空襲

東京大空襲
母子と思われる二つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない(石川光陽撮影)

我々は106回の東京の空襲も風化させてはならないが、中国重慶に対して218回も無差別爆撃した事実も忘れてはならない!!

「重慶大爆撃とは?」

重慶大爆撃は、1938年から1943年までの5年半に及んでいる。日本軍が重慶の一般住民の殺戮を意図的に狙った残虐な無差別爆撃である。日本は、1937年7月の廬溝橋事件で中国への全面的な侵略戦争を開始したが、これ以降日本軍機は上海、南京をはじめとする中国のほとんどの主要都市を爆撃した。
重慶大爆撃が最も激しかったのは1939年から41年までの3年間であった。1939年の「五・三、五・四」、1940年の「101号作戦」、1941年の「102号作戦」・「六・五大隧道惨案」とそれぞれ呼ばれている爆撃では、重慶は甚大な被害を出した。最近の資料では、この5年半の爆撃による死傷者は6万1300人、うち死者2万3600人、負傷者3万7700人とされる。重慶大爆撃は、日本の侵略戦争に徹底抗戦する中国の政府・民衆の戦意喪失と侵略への屈服を狙った最大規模の無差別・戦略爆撃であり明白な戦争犯罪であった。
重慶大爆撃とは①
日本の原爆開発:核兵器開発競争? 鳥飼行博研究室

東京大空襲東京大空襲・戦災資料センターとは
東京大空襲・戦災資料センター
昭和20年3月10日 史上最大の虐
東京大空襲2絵 吉野山氏提供
アジアとの友好のために(1)

消えた日の丸1


●君が代
橋本さん!首相公選制よりいっそのこと、天皇制から大統領制にしてみては!!
(戦争の反省とそれに基づく憲法9条を国是にして)

大阪府教育基本条例案に反対します
「君が代」は歌えない!!
君が代の口元チェックは何が問題なのか


都教委は、「君が代」不服従の教員を
停職処分にするな! 免職(解雇)にするな!



●昭和天皇の戦争指導
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戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。 (『未来をひらく歴史』第2版日本・中国・韓国=共同編集:122頁)





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