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「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」
20世紀がいよいよ終わろうとしている今、このような理論を唱える学者は藤岡だけではない。秦郁彦(日本大学)、坂本多加雄(学習院大学)、西尾幹二各教授も、著書の中で藤岡とほぼ同じような議論を展開している。また、さかのぼって1960年代には、林房雄が、日本が参戦したのはアジアを解放するためだったという論旨の一連の研究を発表している。その後も、国家主義に傾倒する者たちによって同様の研究成果の出版が続いた。たとえば1986年、秦郁彦教授は、中国の戦争に関する戦後の日本人の考え方を説明するのに「自虐的傾向」という言葉を使ったが、以来、この言葉は歴史修正論者たちによって頻繁に使われるようになった。
1990年代、これらの考え方を推進する人々にとってはさらに有利な環境が整ったようだ。元大使までが国家主義的サイドに立って議論に参加してきたからだ。サウジアラビアおよびタイの大使を歴任した岡崎久彦は、慰安婦問題まで持ち出すなど、現在の教科書はまるでマルクス主義を反映しているようだ、と提議する。彼は新聞に次のように書いているー「第2次世界大戦の遺物である『慰安婦』問題が、終戦後になってはじめて歴史の教科書に記述されるようになったのには違和感を覚える・・・この問題に焦点を当てるのは、かつて反体制側にいた人間たちをのさばらせるようなものだ」。
※肝心の歴史家?までもが歴史の事実に目をつぶってしまった。あの戦争を日本人がきちんと反省していないし、占領軍のアメリカも天皇を戦犯免責にしたから、戦争当時、力をふるっていた政治家の2世・3世議員やその影響を強く受けている人たちがあの戦争を美化してしまう!!恐ろしいことだと思う!!
※今、埼玉県議会で起こっていること!!(転載)
再掲です、前回のご案内、曜日が間違えていました。訂正させて頂きます。
2009.12.7
■重要■
埼玉県議会傍聴のお願い (JR浦和駅下車歩7分埼玉県庁内)
▲12月10日(木)午後3時より 佐藤征冶郎県会議員(社民党)が上田知事発言について質問をします。
知事は2006年(平成18年)6月「従軍慰安婦問題など日本の戦争責任の論議が多発」とか書いてありますが、東西古今慰安婦はいても従軍慰安婦はいません。兵のいるところに集まってきたり、兵を追っかけて民間の業者が連れていったりするんであって、軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです。そんなことすれば負けるんです。したがって、こういった間違った記述がありますので、こういうのは修正しなければならん、こんなふうに思います」と答弁。その後周知の通り、平和資料館は展示から「従軍慰安婦」の「従軍」を削除しました。
この件について佐藤議員が知事の「軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです」という見解について、「軍が募集、関与、強制した事実はある」と資料を示し、発言の誤りを指摘します。知事がどういう回答をするか、またこの知事の姿勢が平和資料館の姿勢に影響しますので、今回の件は極めて重要です。
▲一人でも多くの方の傍聴をお願いします。平和資料館を考える会
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
徐慶禄(男、54歳)の証言
父の話では、日本軍が永利亜廠に駐留してからは、労働者たちはほんのちょっとの自由も無く、便所に行くのさえ駄目で、働いていてちょっとでも立っていると、決まって罰せられ、夏は炎天下に立たされ日に照りつけられ、冬は地にひざまずかせられ雪の塊を両手で捧げ持たされました。1938年の1月のある日、労働者たちが食べてもくちくならないので、働くとすぐ疲れ、ある労働者がコックリしかけたところを、日本のある職工長に見つかり、雪のところに引きずって行かれ、酷く殴られてから、雪の上に円を描いてその中にひざまずかせられ、手に大きな雪の塊を持たされ、1度ひざまずいたら何時間も動いてはならず、その労働者は凍えて全身が麻痺し雪の地に倒れて死んだのです。
1937年の12月下旬に、日本兵が永利亜廠にやってきて間もなく、正に南京大虐殺の頃、街の中の群衆は、死ぬのは死に、逃げるのは逃げました。江北には日本兵はいないと思っていた人がいて、多くの人が夜に木材や戸板や竹の太いのなどをかっぱらってきて江北へ渡って逃げようとし、中ほどまで泳いだ人が、長江の北岸にいる日本兵に発砲され、長江に向かって撃たれて、どれほどの人が撃ち殺されたか分かりませんが、江辺には死体がいっぱいで、その頃は野犬が多く、南廠門や卸甲甸一帯の岸辺では1日中屍を食い漁っていました。その年の冬に、逃げていた脚を引きずって歩く人が1人、間もなく夜が明けようとする頃に木の板1枚を操って、江南から江北の南廠門の方向へ漕いできて、ちょうど岸に上がったところを、日本兵の一群に捕まり、今の南化大講堂の向かいの岸辺まで連れて行かれ、薪を積んだのにガソリンをかけ、火をつけてその脚の悪い人を縛ったのを抱えて燃え盛る火の中に投げ込み活きたまま焼き殺しました。
(明日に続く)(穆世亜が記録)
●お知らせ
■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10
○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)
主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp
「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。
事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。
事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。
しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。
事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。
日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。
この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。
映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。
そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
ぜひお越しください。
GyaO! - Anime, Dramas, Movies, and Music videos [FREE]
http://pr.mail.yahoo.co.jp/gyao/
・・南京への道・史実を守る会・・・・・・・
URL:http://www.jijitu.com
ML_URLhttp://www.egroups.co.jp/group/honda_sien/
mail:honda_sien-owner@egroups.co.jp
FAX:020-4624-2381
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●【裁判のお知らせ】(転載)
チチハルの毒ガス被害事件の裁判が行われます。
日時:2009年12月21日(月) 10:00~11:30
場所:東京地方裁判所 103号法廷
結審です。丁樹文さんが来日して弁護団と共に
最終意見陳述を行います。丁樹文さんが、より
多くの人に見守られ、励まされて、陳述できる
よう、ぜひ傍聴にいらして下さい。
裁判終了後、東京地方裁判所裏の弁護士会館
1002号室で報告集会が行われます。
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私はマンションにいるが自動的に町内会費を天引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
●「日の丸」と「君が代」
・スポーツの試合などでは、戦前と変わらぬ旗がはためき、同じ歌が歌われている。まるで、戦争など無かったかのように!!そして、歴史を修正する勢力に政治は力を貸して、戦争の証拠隠滅は今でも積極的に続いている!!
東京都の学校では、式典の時に、この旗を正面に掲げ、この歌を起立して歌い、教職員がこれに反すると罰せられている!!
確か、この法律を制定するときには、次のように決めていたはずなのだが、為政者は通達を出し勝手に強制している!!強制までして歌う価値があるのかと思う!!
1つの特定の家(過去も問題だ!)の永遠を祈るより、自分・家族・社会の幸せ、健康、過去をしっかり清算し誇れる国、世界の平和を祈念したい!!
国旗・国歌法(ウキペディアより)
当時首相であった小渕恵三は、1999年6月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫の質問に対し以下の通り答弁した。
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」
「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
●大日本帝国憲法
第一条
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第十一条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条
天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三条
天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
※戦前・戦中と天皇は現人神であり、権力は絶対的であった。
天皇制に異を唱えると、「治安維持法」により、特高によって捕まり、厳しい拷問を受け思想犯として刑務所に入れられた。
・治安維持法
・特高
●天皇の戦争指導
戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのかな?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●戦後補償
・731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
・今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・中国人強制連行の背景
日中戦争が深まり、太平洋戦争も迫った1940年頃、日本は深刻な労働不足に陥っていました。重要な戦略物資の生産拠点である炭坑や金鉱鉱山、港湾荷役、飛行場建設などには既に朝鮮人が強制連行され、奴隷労働を強いられていましたが、それでも労働力は決定的に不足していました。そこで企業は、政府に中国人労働者の強制連行・強制労働を願い出、政府はこの要請に応じて、1942年の閣議決定で中国人の強制連行を決定しました。時の内閣は東條内閣、商工大臣の岸信介の係わりが大きい。「華人労務者内地移入ニ関スル件」及び「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」
※満州で辣腕をふるい、東條内閣でも商工大臣として中国人の強制連行に係わった岸が戦後総理大臣になるとは、どういうことか?その外孫の安倍晋三も首相になるとは?
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。№66より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei №66より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。 日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていました。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
戦後補償の国際比較
731部隊細菌戦国家賠償訴訟
中国人戦争被害者の要求を支える会
●マッカーサー
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(遠山茂樹ほか著:『昭和史』より)
・マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であり、1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
・ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。
・日本占領にあたり、アメリカは日本文化について研究していた。
ルース・ベネディクト著:『菊と刀』・・・第二次大戦中、米軍の攻勢が確実になった頃、政府、戦時情報局は彼女に日本研究の仕事を委嘱した。現地調査が不可能であるため、彼女は、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面談等を材料として研究をすすめ、対象社会から文化類型を抽出しようとする方法に基づいて、日本文化の基調を探究し、執筆した。日本人は礼儀正しいといわれる一方、不遜で尊大であるともいわれ、固陋であると同時に新しい事物への順応性が高いともいわれる。
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
・ニュルンベルグ医者裁判・・・医者裁判(いしゃさいばん、英: Doctors' Trial、独: Ärzteprozess)は、1946年12月9日から1947年8月20日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。ナチス体制下で重役の地位にあった医師や医療関係者を裁いた。ニュルンベルク継続裁判の中では最初に行われた裁判である。
23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。裁判長はワシントン出身のウォルター・ビールス(Walter B. Beals)が務めた。その他の裁判官としてフロリダ州出身のハロルド・セブリング(en:Harold L. Sebring)、オクラホマ州出身のジョンソン・クロフォード(Johnson T. Crawford)などがいる。
なお、人体実験の中心人物であるヨーゼフ・メンゲレは行方不明のまま死亡扱いとなり、1980年代になって逃亡先のブラジルで死亡が確認された。
※ニュルンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験にによって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
●昭和天皇と731
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
(1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・天皇の言葉・・・私には天皇の真意が分からない!失言だと思う。閣僚だったら辞任に追い込まれるのでは?
昭和天皇(ウキペディアより)
昭和50年(1975年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見[35][36]
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
●アメリカ
フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●参考ホームページ
・天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
731はもっと無視されているのかも知れない。
昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
●「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●資源の乏しいわが国で、プルサーマル発電が始まったそうだ。電力会社は、自然エネルギーに余り関心がないらしく、何度となく事故を起こしても、原子力にこだわる。日本にはプルトニウムというものがたくさんあるらしい!!ちょっと間違えば、頭のいい科学者が、すぐに原爆を作れるだろう!!もう作る準備があるのかな?恐い話だ!!太陽光や風力で大きな発電はできないものか?
・プルサーマル発電は必要か?
・今週の大はてな
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。
・1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年,50人が発病し11人が死亡。
・政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。
・チッソ水俣工場に昭和天皇は1931年訪れている。
【現在に至る水俣の背景】
1931年には天皇が陸軍特別大演習統監のため熊本に来た際、日窒水俣工場を訪れるなど、日窒は名実ともに日本を代表する化学企業と認められ、また天皇の工場視察は水俣に住む住民にとっても大きな出来事であった。そして、この当時の日窒の意識をあらわすものとして1940年に作られた「日本窒素肥料株式会社事業概要」に以下のような文があったという。
「聖戦下の我国に取って世界屈指の大化学会社『日本窒素』の存在することは、その著しき強みであることは云うまでもない。…もとより『日本窒素』の如き大工場設備は如何に政府の力を以てしても、戦争が始まったからと云って一朝一夕につくる事は出来ない。仮に建物や機械が出来たとしても之に生命を与ふべき技術経験等の人的資源は之を如何ともすることが出来ない。聖戦下に於ける『日本窒素』はいまや一営利会社として之を見るべきでなく、一大総合化学国策会社と云ふべきであろう。」
・皇太子妃雅子の母方の祖父が江頭豊(チッソ会長)だ。
(日本興業銀行から転じた江頭豊が1964年から1971年にチッソ社長、1971年以後は同会長、同相談役を務めた。社長時代には一旦謝罪したが、その後被害者と対峙するようになり、水俣病被害者との話し合いは進まなかった。この時期のチッソの対応が、水俣病問題の解決を遅らせたとする声も多い。現在でも鹿児島県と熊本県には6000人以上の水俣病認定申請者がいる。)
・731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!
731を問う!!
2009年12月9日水曜日
2009年12月8日火曜日
この世の地獄!731部隊・南京大虐殺
「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」
これらのグループの中心的人物は藤岡信勝東京大学教育学部教授(※この本は1999年に発行されている)である。彼はこの問題に関する多くの著書を持ち、文章も多数書いている人物で、日本は外国の持つ日本の歴史に対する誤った解釈を一掃すべきであるという主張を持っている。簡単に言えば、藤岡は歴史家や教育者に日本の歴史を超国家主義的観点から書き換えろ、と言っているのである。彼の本は驚くほどよく売れた。特に、彼独特の誇張した空理空論を繰り広げた3冊はベストセラーとなった。そのうちの1つである『教科書が教えない歴史』は、日本がアジアを侵略したのは奴隷化した人々を解放するためであり、これによりアジアの人々は助かった、という考えをあおり立てるものだ。また、『汚辱の近現代史―いま、克服のとき』では、藤岡は、慰安婦を考案したのが政府あるいは軍隊であることを否定している。民間企業が勝手にやったことだと言うのである。藤岡によれば、これらの女性たちは貧しい両親によって売春宿に売られ、売春宿がこの不幸な女性たちを、性的慰めを必要とする兵士たちに提供したという。彼はまた、「日本だけがやったようなことを書くのは馬鹿げている。戦争に関して子どもたちに教えなければならない重要なことは、もっとほかにあるはずだ」とも言う。
※教育界の中からこのように歴史を捻じ曲げる勢力が台頭してきている。それも一時は東大教授を務めた男だ!!何でこんな男が東大教授になれたか不思議に思う!!事実に基づいて理論を組み立てれば決してこんな本は書けないはずだ!!皇国史観に基づく政治勢力の力もまだまだ日本には大きな力をふるっている。文科省とこのグループとの癒着はどうなっているのかさっぱり分からないが、歴史教科書のあの戦争に関する残虐な記述は年々減ってきているのは確かだ!!恐ろしいことだ!!事実が伝わらない!!
※今、埼玉県議会で起こっていること!!(転載)
再掲です、前回のご案内、曜日が間違えていました。訂正させて頂きます。
2009.12.7
埼玉県議会傍聴のお願い (JR浦和駅下車歩7分埼玉県庁内)
▲12月10日(木)午後3時より 佐藤征冶郎県会議員(社民党)が上田知事発言について質問をします。
知事は2006年(平成18年)6月「従軍慰安婦問題など日本の戦争責任の論議が多発」とか書いてありますが、東西古今慰安婦はいても従軍慰安婦はいません。兵のいるところに集まってきたり、兵を追っかけて民間の業者が連れていったりするんであって、軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです。そんなことすれば負けるんです。したがって、こういった間違った記述がありますので、こういうのは修正しなければならん、こんなふうに思います」と答弁。その後周知の通り、平和資料館は展示から「従軍慰安婦」の「従軍」を削除しました。
この件について佐藤議員が知事の「軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです」という見解について、「軍が募集、関与、強制した事実はある」と資料を示し、発言の誤りを指摘します。知事がどういう回答をするか、またこの知事の姿勢が平和資料館の姿勢に影響しますので、今回の件は極めて重要です。
▲一人でも多くの方の傍聴をお願いします。平和資料館を考える会
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
徐慶禄(男、54歳)の証言
それに湯業富という人が、やはり荷物を運ぶ小さいロバを御して生活していました。1938年の3月のある日、その人がある商人に頼まれ豚の毛を2袋運んでいて、卸甲甸を通って六合へ行く道で、呂窪村を通る時に、日本兵に見られ、調べられて運んでいる豚の毛の中がみんな黄色い衣服だったので、日本兵は二の句を継がせず、湯を縛り上げて呂窪村の入口の大きな沼の北側まで引きずって行き、湯の腹をめがけて猛然と1太刀刺し、1発撃ち、活きたまま湯をなぐり殺して沼に押し込みました。その荷物の主が後ろに付いて来ていて、間隔がかなり離れていたので、日本軍が湯の運んでいる物を調べているのを見るなり、身を巡らして逃げ、殺害されるのを免れました。あくる日も日本兵は飽き足らずに、湯業富の家まで来て湯の奥さんを酷くなぐりつけたので、湯の奥さんは驚きのあまりに大病をわずらい、危うく命を落とすところでした。(明日に続く)(穆世亜が記録)
●お知らせ
■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10
○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)
主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp
「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。
事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。
事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。
しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。
事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。
日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。
この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。
映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。
そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
ぜひお越しください。
GyaO! - Anime, Dramas, Movies, and Music videos [FREE]
http://pr.mail.yahoo.co.jp/gyao/
・・南京への道・史実を守る会・・・・・・・
URL:http://www.jijitu.com
ML_URLhttp://www.egroups.co.jp/group/honda_sien/
mail:honda_sien-owner@egroups.co.jp
FAX:020-4624-2381
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私はマンションにいるが自動的に町内会費を天引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
●「日の丸」と「君が代」
・スポーツの試合などでは、戦前と変わらぬ旗がはためき、同じ歌が歌われている。まるで、戦争など無かったかのように!!そして、歴史を修正する勢力に政治は力を貸して、戦争の証拠隠滅は今でも積極的に続いている!!
東京都の学校では、式典の時に、この旗を正面に掲げ、この歌を起立して歌い、教職員がこれに反すると罰せられている!!
確か、この法律を制定するときには、次のように決めていたはずなのだが、為政者は通達を出し勝手に強制している!!強制までして歌う価値があるのかと思う!!
1つの特定の家(過去も問題だ!)の永遠を祈るより、自分・家族・社会の幸せ、健康、過去をしっかり清算し誇れる国、世界の平和を祈念したい!!
国旗・国歌法(ウキペディアより)
当時首相であった小渕恵三は、1999年6月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫の質問に対し以下の通り答弁した。
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」
「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
●大日本帝国憲法
第一条
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第十一条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条
天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三条
天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
※戦前・戦中と天皇は現人神であり、権力は絶対的であった。
天皇制に異を唱えると、「治安維持法」により、特高によって捕まり、厳しい拷問を受け思想犯として刑務所に入れられた。
・治安維持法
・特高
●天皇の戦争指導
戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのかな?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●戦後補償
・731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
・今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・中国人強制連行の背景
日中戦争が深まり、太平洋戦争も迫った1940年頃、日本は深刻な労働不足に陥っていました。重要な戦略物資の生産拠点である炭坑や金鉱鉱山、港湾荷役、飛行場建設などには既に朝鮮人が強制連行され、奴隷労働を強いられていましたが、それでも労働力は決定的に不足していました。そこで企業は、政府に中国人労働者の強制連行・強制労働を願い出、政府はこの要請に応じて、1942年の閣議決定で中国人の強制連行を決定しました。時の内閣は東條内閣、商工大臣の岸信介の係わりが大きい。「華人労務者内地移入ニ関スル件」及び「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」
※満州で辣腕をふるい、東條内閣でも商工大臣として中国人の強制連行に係わった岸が戦後総理大臣になるとは、どういうことか?その外孫の安倍晋三も首相になるとは?
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。№66より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei №66より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。 日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていました。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
戦後補償の国際比較
731部隊細菌戦国家賠償訴訟
中国人戦争被害者の要求を支える会
●マッカーサー
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(遠山茂樹ほか著:『昭和史』より)
・マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であり、1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
・ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。
・日本占領にあたり、アメリカは日本文化について研究していた。
ルース・ベネディクト著:『菊と刀』・・・第二次大戦中、米軍の攻勢が確実になった頃、政府、戦時情報局は彼女に日本研究の仕事を委嘱した。現地調査が不可能であるため、彼女は、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面談等を材料として研究をすすめ、対象社会から文化類型を抽出しようとする方法に基づいて、日本文化の基調を探究し、執筆した。日本人は礼儀正しいといわれる一方、不遜で尊大であるともいわれ、固陋であると同時に新しい事物への順応性が高いともいわれる。
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
・ニュルンベルグ医者裁判・・・医者裁判(いしゃさいばん、英: Doctors' Trial、独: Ärzteprozess)は、1946年12月9日から1947年8月20日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。ナチス体制下で重役の地位にあった医師や医療関係者を裁いた。ニュルンベルク継続裁判の中では最初に行われた裁判である。
23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。裁判長はワシントン出身のウォルター・ビールス(Walter B. Beals)が務めた。その他の裁判官としてフロリダ州出身のハロルド・セブリング(en:Harold L. Sebring)、オクラホマ州出身のジョンソン・クロフォード(Johnson T. Crawford)などがいる。
なお、人体実験の中心人物であるヨーゼフ・メンゲレは行方不明のまま死亡扱いとなり、1980年代になって逃亡先のブラジルで死亡が確認された。
※ニュルンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験にによって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
●昭和天皇と731
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
(1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・天皇の言葉・・・私には天皇の真意が分からない!失言だと思う。閣僚だったら辞任に追い込まれるのでは?
昭和天皇(ウキペディアより)
昭和50年(1975年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見[35][36]
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
●アメリカ
フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●参考ホームページ
・天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
731はもっと無視されているのかも知れない。
昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
●「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●資源の乏しいわが国で、プルサーマル発電が始まったそうだ。電力会社は、自然エネルギーに余り関心がないらしく、何度となく事故を起こしても、原子力にこだわる。日本にはプルトニウムというものがたくさんあるらしい!!ちょっと間違えば、頭のいい科学者が、すぐに原爆を作れるだろう!!もう作る準備があるのかな?恐い話だ!!太陽光や風力で大きな発電はできないものか?
・プルサーマル発電は必要か?
・今週の大はてな
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。
・1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年,50人が発病し11人が死亡。
・政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。
・チッソ水俣工場に昭和天皇は1931年訪れている。
【現在に至る水俣の背景】
1931年には天皇が陸軍特別大演習統監のため熊本に来た際、日窒水俣工場を訪れるなど、日窒は名実ともに日本を代表する化学企業と認められ、また天皇の工場視察は水俣に住む住民にとっても大きな出来事であった。そして、この当時の日窒の意識をあらわすものとして1940年に作られた「日本窒素肥料株式会社事業概要」に以下のような文があったという。
「聖戦下の我国に取って世界屈指の大化学会社『日本窒素』の存在することは、その著しき強みであることは云うまでもない。…もとより『日本窒素』の如き大工場設備は如何に政府の力を以てしても、戦争が始まったからと云って一朝一夕につくる事は出来ない。仮に建物や機械が出来たとしても之に生命を与ふべき技術経験等の人的資源は之を如何ともすることが出来ない。聖戦下に於ける『日本窒素』はいまや一営利会社として之を見るべきでなく、一大総合化学国策会社と云ふべきであろう。」
・皇太子妃雅子の母方の祖父が江頭豊(チッソ会長)だ。
(日本興業銀行から転じた江頭豊が1964年から1971年にチッソ社長、1971年以後は同会長、同相談役を務めた。社長時代には一旦謝罪したが、その後被害者と対峙するようになり、水俣病被害者との話し合いは進まなかった。この時期のチッソの対応が、水俣病問題の解決を遅らせたとする声も多い。現在でも鹿児島県と熊本県には6000人以上の水俣病認定申請者がいる。)
・731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」
これらのグループの中心的人物は藤岡信勝東京大学教育学部教授(※この本は1999年に発行されている)である。彼はこの問題に関する多くの著書を持ち、文章も多数書いている人物で、日本は外国の持つ日本の歴史に対する誤った解釈を一掃すべきであるという主張を持っている。簡単に言えば、藤岡は歴史家や教育者に日本の歴史を超国家主義的観点から書き換えろ、と言っているのである。彼の本は驚くほどよく売れた。特に、彼独特の誇張した空理空論を繰り広げた3冊はベストセラーとなった。そのうちの1つである『教科書が教えない歴史』は、日本がアジアを侵略したのは奴隷化した人々を解放するためであり、これによりアジアの人々は助かった、という考えをあおり立てるものだ。また、『汚辱の近現代史―いま、克服のとき』では、藤岡は、慰安婦を考案したのが政府あるいは軍隊であることを否定している。民間企業が勝手にやったことだと言うのである。藤岡によれば、これらの女性たちは貧しい両親によって売春宿に売られ、売春宿がこの不幸な女性たちを、性的慰めを必要とする兵士たちに提供したという。彼はまた、「日本だけがやったようなことを書くのは馬鹿げている。戦争に関して子どもたちに教えなければならない重要なことは、もっとほかにあるはずだ」とも言う。
※教育界の中からこのように歴史を捻じ曲げる勢力が台頭してきている。それも一時は東大教授を務めた男だ!!何でこんな男が東大教授になれたか不思議に思う!!事実に基づいて理論を組み立てれば決してこんな本は書けないはずだ!!皇国史観に基づく政治勢力の力もまだまだ日本には大きな力をふるっている。文科省とこのグループとの癒着はどうなっているのかさっぱり分からないが、歴史教科書のあの戦争に関する残虐な記述は年々減ってきているのは確かだ!!恐ろしいことだ!!事実が伝わらない!!
※今、埼玉県議会で起こっていること!!(転載)
再掲です、前回のご案内、曜日が間違えていました。訂正させて頂きます。
2009.12.7
埼玉県議会傍聴のお願い (JR浦和駅下車歩7分埼玉県庁内)
▲12月10日(木)午後3時より 佐藤征冶郎県会議員(社民党)が上田知事発言について質問をします。
知事は2006年(平成18年)6月「従軍慰安婦問題など日本の戦争責任の論議が多発」とか書いてありますが、東西古今慰安婦はいても従軍慰安婦はいません。兵のいるところに集まってきたり、兵を追っかけて民間の業者が連れていったりするんであって、軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです。そんなことすれば負けるんです。したがって、こういった間違った記述がありますので、こういうのは修正しなければならん、こんなふうに思います」と答弁。その後周知の通り、平和資料館は展示から「従軍慰安婦」の「従軍」を削除しました。
この件について佐藤議員が知事の「軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです」という見解について、「軍が募集、関与、強制した事実はある」と資料を示し、発言の誤りを指摘します。知事がどういう回答をするか、またこの知事の姿勢が平和資料館の姿勢に影響しますので、今回の件は極めて重要です。
▲一人でも多くの方の傍聴をお願いします。平和資料館を考える会
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
徐慶禄(男、54歳)の証言
それに湯業富という人が、やはり荷物を運ぶ小さいロバを御して生活していました。1938年の3月のある日、その人がある商人に頼まれ豚の毛を2袋運んでいて、卸甲甸を通って六合へ行く道で、呂窪村を通る時に、日本兵に見られ、調べられて運んでいる豚の毛の中がみんな黄色い衣服だったので、日本兵は二の句を継がせず、湯を縛り上げて呂窪村の入口の大きな沼の北側まで引きずって行き、湯の腹をめがけて猛然と1太刀刺し、1発撃ち、活きたまま湯をなぐり殺して沼に押し込みました。その荷物の主が後ろに付いて来ていて、間隔がかなり離れていたので、日本軍が湯の運んでいる物を調べているのを見るなり、身を巡らして逃げ、殺害されるのを免れました。あくる日も日本兵は飽き足らずに、湯業富の家まで来て湯の奥さんを酷くなぐりつけたので、湯の奥さんは驚きのあまりに大病をわずらい、危うく命を落とすところでした。(明日に続く)(穆世亜が記録)
●お知らせ
■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10
○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)
主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp
「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。
事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。
事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。
しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。
事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。
日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。
この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。
映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。
そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
ぜひお越しください。
GyaO! - Anime, Dramas, Movies, and Music videos [FREE]
http://pr.mail.yahoo.co.jp/gyao/
・・南京への道・史実を守る会・・・・・・・
URL:http://www.jijitu.com
ML_URLhttp://www.egroups.co.jp/group/honda_sien/
mail:honda_sien-owner@egroups.co.jp
FAX:020-4624-2381
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私はマンションにいるが自動的に町内会費を天引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
●「日の丸」と「君が代」
・スポーツの試合などでは、戦前と変わらぬ旗がはためき、同じ歌が歌われている。まるで、戦争など無かったかのように!!そして、歴史を修正する勢力に政治は力を貸して、戦争の証拠隠滅は今でも積極的に続いている!!
東京都の学校では、式典の時に、この旗を正面に掲げ、この歌を起立して歌い、教職員がこれに反すると罰せられている!!
確か、この法律を制定するときには、次のように決めていたはずなのだが、為政者は通達を出し勝手に強制している!!強制までして歌う価値があるのかと思う!!
1つの特定の家(過去も問題だ!)の永遠を祈るより、自分・家族・社会の幸せ、健康、過去をしっかり清算し誇れる国、世界の平和を祈念したい!!
国旗・国歌法(ウキペディアより)
当時首相であった小渕恵三は、1999年6月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫の質問に対し以下の通り答弁した。
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」
「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
●大日本帝国憲法
第一条
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第十一条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条
天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三条
天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
※戦前・戦中と天皇は現人神であり、権力は絶対的であった。
天皇制に異を唱えると、「治安維持法」により、特高によって捕まり、厳しい拷問を受け思想犯として刑務所に入れられた。
・治安維持法
・特高
●天皇の戦争指導
戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのかな?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●戦後補償
・731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
・今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・中国人強制連行の背景
日中戦争が深まり、太平洋戦争も迫った1940年頃、日本は深刻な労働不足に陥っていました。重要な戦略物資の生産拠点である炭坑や金鉱鉱山、港湾荷役、飛行場建設などには既に朝鮮人が強制連行され、奴隷労働を強いられていましたが、それでも労働力は決定的に不足していました。そこで企業は、政府に中国人労働者の強制連行・強制労働を願い出、政府はこの要請に応じて、1942年の閣議決定で中国人の強制連行を決定しました。時の内閣は東條内閣、商工大臣の岸信介の係わりが大きい。「華人労務者内地移入ニ関スル件」及び「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」
※満州で辣腕をふるい、東條内閣でも商工大臣として中国人の強制連行に係わった岸が戦後総理大臣になるとは、どういうことか?その外孫の安倍晋三も首相になるとは?
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。№66より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei №66より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。 日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていました。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
戦後補償の国際比較
731部隊細菌戦国家賠償訴訟
中国人戦争被害者の要求を支える会
●マッカーサー
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(遠山茂樹ほか著:『昭和史』より)
・マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であり、1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
・ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。
・日本占領にあたり、アメリカは日本文化について研究していた。
ルース・ベネディクト著:『菊と刀』・・・第二次大戦中、米軍の攻勢が確実になった頃、政府、戦時情報局は彼女に日本研究の仕事を委嘱した。現地調査が不可能であるため、彼女は、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面談等を材料として研究をすすめ、対象社会から文化類型を抽出しようとする方法に基づいて、日本文化の基調を探究し、執筆した。日本人は礼儀正しいといわれる一方、不遜で尊大であるともいわれ、固陋であると同時に新しい事物への順応性が高いともいわれる。
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
・ニュルンベルグ医者裁判・・・医者裁判(いしゃさいばん、英: Doctors' Trial、独: Ärzteprozess)は、1946年12月9日から1947年8月20日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。ナチス体制下で重役の地位にあった医師や医療関係者を裁いた。ニュルンベルク継続裁判の中では最初に行われた裁判である。
23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。裁判長はワシントン出身のウォルター・ビールス(Walter B. Beals)が務めた。その他の裁判官としてフロリダ州出身のハロルド・セブリング(en:Harold L. Sebring)、オクラホマ州出身のジョンソン・クロフォード(Johnson T. Crawford)などがいる。
なお、人体実験の中心人物であるヨーゼフ・メンゲレは行方不明のまま死亡扱いとなり、1980年代になって逃亡先のブラジルで死亡が確認された。
※ニュルンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験にによって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
●昭和天皇と731
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
(1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・天皇の言葉・・・私には天皇の真意が分からない!失言だと思う。閣僚だったら辞任に追い込まれるのでは?
昭和天皇(ウキペディアより)
昭和50年(1975年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見[35][36]
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
●アメリカ
フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●参考ホームページ
・天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
731はもっと無視されているのかも知れない。
昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
●「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●資源の乏しいわが国で、プルサーマル発電が始まったそうだ。電力会社は、自然エネルギーに余り関心がないらしく、何度となく事故を起こしても、原子力にこだわる。日本にはプルトニウムというものがたくさんあるらしい!!ちょっと間違えば、頭のいい科学者が、すぐに原爆を作れるだろう!!もう作る準備があるのかな?恐い話だ!!太陽光や風力で大きな発電はできないものか?
・プルサーマル発電は必要か?
・今週の大はてな
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。
・1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年,50人が発病し11人が死亡。
・政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。
・チッソ水俣工場に昭和天皇は1931年訪れている。
【現在に至る水俣の背景】
1931年には天皇が陸軍特別大演習統監のため熊本に来た際、日窒水俣工場を訪れるなど、日窒は名実ともに日本を代表する化学企業と認められ、また天皇の工場視察は水俣に住む住民にとっても大きな出来事であった。そして、この当時の日窒の意識をあらわすものとして1940年に作られた「日本窒素肥料株式会社事業概要」に以下のような文があったという。
「聖戦下の我国に取って世界屈指の大化学会社『日本窒素』の存在することは、その著しき強みであることは云うまでもない。…もとより『日本窒素』の如き大工場設備は如何に政府の力を以てしても、戦争が始まったからと云って一朝一夕につくる事は出来ない。仮に建物や機械が出来たとしても之に生命を与ふべき技術経験等の人的資源は之を如何ともすることが出来ない。聖戦下に於ける『日本窒素』はいまや一営利会社として之を見るべきでなく、一大総合化学国策会社と云ふべきであろう。」
・皇太子妃雅子の母方の祖父が江頭豊(チッソ会長)だ。
(日本興業銀行から転じた江頭豊が1964年から1971年にチッソ社長、1971年以後は同会長、同相談役を務めた。社長時代には一旦謝罪したが、その後被害者と対峙するようになり、水俣病被害者との話し合いは進まなかった。この時期のチッソの対応が、水俣病問題の解決を遅らせたとする声も多い。現在でも鹿児島県と熊本県には6000人以上の水俣病認定申請者がいる。)
・731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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2009年12月7日月曜日
この世の地獄!731部隊・南京大虐殺
「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」
一般市民だけでなく学者たちでさえも、過去は忘れてしまったほうが良い、と考えている。これまで通り「忘却」の繭の中にいたほうが楽なのに、なぜ、今さら過去の歴史を蒸し返して苦い思いをしなければならないのか、と彼らは考えているのだ。良心の呵責を覚えて戦時中の体験を公表しようとする元軍人は、友人たちの反対にあい、結局は、これから述べるごく稀なケースを除き、ほとんどの人が口を閉ざしてしまうのだ。多くの日本人にとって、戦争の記憶として留めておくべき無難な話題は広島と長崎の悲劇だけであるように思える。
学者の中には、かなり過激な考え方を持つ者も大勢いる。彼らは決して学界の末端にいる狂信的な過激派ではない。むしろ、主流と呼ばれる人間たちだ。しかし、彼らの政治的な考えや歴史のとらえ方は少し保守的すぎるのである。彼らは過去をロマンチックかつ超国家主義的イメージでとらえる傾向があるが、これはほとんど幻想と言える。彼らは、歴史の「忘却」繭理論には飽き足らず、歴史を書き換えようとさえしている。アメリカおよびソ連の占領軍当局から受けた「腐敗的影響」を日本の歴史から払しょくすべきであると信じる教育学および歴史学の教授たちは、1995年および1996年、その目的を達成するために全国組織を結成した。その代表的なものが、「自由主義史観研究会」と「新しい歴史教科書をつくる会」である。これらのグループはいずれも、日本の最高学府と考えられている東京大学の教授らによって結成されたものである。
※こういう会が結成されたということは、裏で政治的な団体が資金面や人的支援なども惜しみなくやっているのだろう!!天皇制を守るために、多くの団体が結集しているものと思う!!
※今、埼玉県議会で起こっていること!!(転載)
再掲です、前回のご案内、曜日が間違えていました。訂正させて頂きます。
2009.12.7
■重要■
埼玉県議会傍聴のお願い (JR浦和駅下車歩7分埼玉県庁内)
▲12月10日(木)午後3時より 佐藤征冶郎県会議員(社民党)が上田知事発言について質問をします。
知事は2006年(平成18年)6月「従軍慰安婦問題など日本の戦争責任の論議が多発」とか書いてありますが、東西古今慰安婦はいても従軍慰安婦はいません。兵のいるところに集まってきたり、兵を追っかけて民間の業者が連れていったりするんであって、軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです。そんなことすれば負けるんです。したがって、こういった間違った記述がありますので、こういうのは修正しなければならん、こんなふうに思います」と答弁。その後周知の通り、平和資料館は展示から「従軍慰安婦」の「従軍」を削除しました。
この件について佐藤議員が知事の「軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです」という見解について、「軍が募集、関与、強制した事実はある」と資料を示し、発言の誤りを指摘します。知事がどういう回答をするか、またこの知事の姿勢が平和資料館の姿勢に影響しますので、今回の件は極めて重要です。
▲一人でも多くの方の傍聴をお願いします。平和資料館を考える会
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
徐慶禄(男、54歳)の証言
1938年の3月に、その頃私は8歳でしたが、家庭の生活のために、当時の職工長についてロバを御して樹を運んでいました。大廠鎮から今の永豊まで材木を運ぶのに、毎日往復で4,50里の道程を走らせるのですが、工廠に入るのに脱帽しなければいけないという規則が分からなかったために、日本兵1人に憎々しげにびんたを2つなぐられ、1度足蹴りにされ、地に打ち倒されて、天と地がひっくり返ったように目くるめき、両の眼から火花が散ったのを覚えているだけで、何も分からなくなったのですが、10何分かしてやっとだんだん気が付いてきました。売国奴が1人やって来て私に憎々しげに言いました。「ターマートィ(馬鹿ったれ)!貴様工廠に入るのに何だって脱帽しないんだ?貴様が脱帽しないと、日本の殿様が『三途の水に渡す』ぞ、今度又脱帽しなかったら、貴様スーラスーラトィだぞ(死んじまえ)」。そのことが私には一生永遠に忘れられないのです。
日本人が永利亜廠を占領してから、人を殺傷し悪事を重ねた惨状のすさまじさは到底勘定し切れませんが、私自身で見たり聞いたりした例を幾つか並べますと;
1938年の2月のある日、小さなロバを御する人が4人、物を乗せて南廠門の長江の岸辺から今の電気工廠の右手の山のてっぺんまでやって来たところを、日本兵何人かに見られ、日本兵が立ち止まれと怒鳴りながら、発砲しました。日本兵2人が近寄って来て、小さいロバの御者たちが黄色い軍服を着ていたので、八路軍に物を運んでいる者だとみなして、朱永林など4人を今の殺人沼のそばまで連れて行きました。朱永林はこの土地の人だったので、保証する人がいて殺害されませんでしたが、そのほかの3人はみんな日本兵に殺されてしまいました。1人は頭を前から2つに割られ、2人目は頭を横から2つに割られ、3人目は頭がそっくり斬り落とされ沼に転がり落ちました。その時沼の水が一面に血で真っ赤に染まり、その沼はそれから「殺人沼」と呼ばれるようになりました。やられた3人はよその土地の人で、屍を片づける人が無く、その土地の人にかたわらの山の頂に埋められ、今も墓がそこにあります。
(明日に続く)(穆世亜が記録)
●お知らせ
●院内集会のお知らせ
俵義文です。
12月9日(水)に教科書問題で院内集会を開催します。
教科書がかかえる重大な問題点について、国会議員に知っていただく重要な集会です。
ぜひ、多くの方のご参加をお待ちしています。
なお、この院内集会のために国会議員に働きかけるロビーイングを
12月4日(金)16時から行います。
これに参加いただける方は、3日の17時までに子どもと教科書全国ネット21に
ご連絡をお願いします。
転送・転載大歓迎
院内集会のご案内
教科書はこのままでいいのか
―教科書の検定・採択のありかたと
沖縄戦「集団自決」検定―
多くの市民の期待をになって新政権が誕生してから、まもなく3ヶ月を迎えようとしていますが、教科書や教育の中身については、まだ目立った動きはみられません。
子どもたちに真実に根ざしたよい教科書を、どの子にもゆきとどいた教育を、という市民・保護者の願いを実現する新しい動きをいまこそ大きくおこす必要があります。
そこで、市民、保護者、教育・教科書関係者の願いを国会にとどけるために、国会議員をまじえての院内集会を下記のとおり行うことにいたしました。ぜひご参加ください。
記
日時:12月9日(水) 15時00分~17時00分
場所:衆議院第二議員会館・第2会議室
*14時30分から第二議員会館ロビーにて通行証を配布します。
○報告 ・教科書検定制度・採択制度の現状と改革の方向
俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
・沖縄戦「集団自決」検定問題の現状と今後の運動
○参加者からの発言
○国会議員からの発言
主催 子どもと教科書全国ネット21
日本出版労働組合連合会
大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会
(連絡先 子どもと教科書全国ネット21 03-3265-7606)
子どもと教科書全国ネット21
■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10
○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)
主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp
「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。
事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。
事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。
しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。
事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。
日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。
この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。
映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。
そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
ぜひお越しください。
GyaO! - Anime, Dramas, Movies, and Music videos [FREE]
http://pr.mail.yahoo.co.jp/gyao/
・・南京への道・史実を守る会・・・・・・・
URL:http://www.jijitu.com
ML_URLhttp://www.egroups.co.jp/group/honda_sien/
mail:honda_sien-owner@egroups.co.jp
FAX:020-4624-2381
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私はマンションにいるが自動的に町内会費を天引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
●「日の丸」と「君が代」
・スポーツの試合などでは、戦前と変わらぬ旗がはためき、同じ歌が歌われている。まるで、戦争など無かったかのように!!そして、歴史を修正する勢力に政治は力を貸して、戦争の証拠隠滅は今でも積極的に続いている!!
東京都の学校では、式典の時に、この旗を正面に掲げ、この歌を起立して歌い、教職員がこれに反すると罰せられている!!
確か、この法律を制定するときには、次のように決めていたはずなのだが、為政者は通達を出し勝手に強制している!!強制までして歌う価値があるのかと思う!!
1つの特定の家(過去も問題だ!)の永遠を祈るより、自分・家族・社会の幸せ、健康、過去をしっかり清算し誇れる国、世界の平和を祈念したい!!
国旗・国歌法(ウキペディアより)
当時首相であった小渕恵三は、1999年6月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫の質問に対し以下の通り答弁した。
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」
「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
●大日本帝国憲法
第一条
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第十一条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条
天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三条
天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
※戦前・戦中と天皇は現人神であり、権力は絶対的であった。
天皇制に異を唱えると、「治安維持法」により、特高によって捕まり、厳しい拷問を受け思想犯として刑務所に入れられた。
・治安維持法
・特高
●天皇の戦争指導
戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのかな?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●戦後補償
・731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
・今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・中国人強制連行の背景
日中戦争が深まり、太平洋戦争も迫った1940年頃、日本は深刻な労働不足に陥っていました。重要な戦略物資の生産拠点である炭坑や金鉱鉱山、港湾荷役、飛行場建設などには既に朝鮮人が強制連行され、奴隷労働を強いられていましたが、それでも労働力は決定的に不足していました。そこで企業は、政府に中国人労働者の強制連行・強制労働を願い出、政府はこの要請に応じて、1942年の閣議決定で中国人の強制連行を決定しました。時の内閣は東條内閣、商工大臣の岸信介の係わりが大きい。「華人労務者内地移入ニ関スル件」及び「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」
※満州で辣腕をふるい、東條内閣でも商工大臣として中国人の強制連行に係わった岸が戦後総理大臣になるとは、どういうことか?その外孫の安倍晋三も首相になるとは?
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。潤・6より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei 潤・6より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。 日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていました。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
戦後補償の国際比較
731部隊細菌戦国家賠償訴訟
中国人戦争被害者の要求を支える会
●マッカーサー
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(遠山茂樹ほか著:『昭和史』より)
・マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であり、1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
・ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。
・日本占領にあたり、アメリカは日本文化について研究していた。
ルース・ベネディクト著:『菊と刀』・・・第二次大戦中、米軍の攻勢が確実になった頃、政府、戦時情報局は彼女に日本研究の仕事を委嘱した。現地調査が不可能であるため、彼女は、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面談等を材料として研究をすすめ、対象社会から文化類型を抽出しようとする方法に基づいて、日本文化の基調を探究し、執筆した。日本人は礼儀正しいといわれる一方、不遜で尊大であるともいわれ、固陋であると同時に新しい事物への順応性が高いともいわれる。
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
・ニュルンベルグ医者裁判・・・医者裁判(いしゃさいばん、英: Doctors' Trial、独: Ärzteprozess)は、1946年12月9日から1947年8月20日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。ナチス体制下で重役の地位にあった医師や医療関係者を裁いた。ニュルンベルク継続裁判の中では最初に行われた裁判である。
23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。裁判長はワシントン出身のウォルター・ビールス(Walter B. Beals)が務めた。その他の裁判官としてフロリダ州出身のハロルド・セブリング(en:Harold L. Sebring)、オクラホマ州出身のジョンソン・クロフォード(Johnson T. Crawford)などがいる。
なお、人体実験の中心人物であるヨーゼフ・メンゲレは行方不明のまま死亡扱いとなり、1980年代になって逃亡先のブラジルで死亡が確認された。
※ニュルンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験にによって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
●昭和天皇と731
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
(1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・天皇の言葉・・・私には天皇の真意が分からない!失言だと思う。閣僚だったら辞任に追い込まれるのでは?
昭和天皇(ウキペディアより)
昭和50年(1975年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見[35][36]
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
●アメリカ
フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●参考ホームページ
・天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
731はもっと無視されているのかも知れない。
昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
●「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●資源の乏しいわが国で、プルサーマル発電が始まったそうだ。電力会社は、自然エネルギーに余り関心がないらしく、何度となく事故を起こしても、原子力にこだわる。日本にはプルトニウムというものがたくさんあるらしい!!ちょっと間違えば、頭のいい科学者が、すぐに原爆を作れるだろう!!もう作る準備があるのかな?恐い話だ!!太陽光や風力で大きな発電はできないものか?
・プルサーマル発電は必要か?
・今週の大はてな
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。
・1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年,50人が発病し11人が死亡。
・政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。
・チッソ水俣工場に昭和天皇は1931年訪れている。
【現在に至る水俣の背景】
1931年には天皇が陸軍特別大演習統監のため熊本に来た際、日窒水俣工場を訪れるなど、日窒は名実ともに日本を代表する化学企業と認められ、また天皇の工場視察は水俣に住む住民にとっても大きな出来事であった。そして、この当時の日窒の意識をあらわすものとして1940年に作られた「日本窒素肥料株式会社事業概要」に以下のような文があったという。
「聖戦下の我国に取って世界屈指の大化学会社『日本窒素』の存在することは、その著しき強みであることは云うまでもない。…もとより『日本窒素』の如き大工場設備は如何に政府の力を以てしても、戦争が始まったからと云って一朝一夕につくる事は出来ない。仮に建物や機械が出来たとしても之に生命を与ふべき技術経験等の人的資源は之を如何ともすることが出来ない。聖戦下に於ける『日本窒素』はいまや一営利会社として之を見るべきでなく、一大総合化学国策会社と云ふべきであろう。」
・皇太子妃雅子の母方の祖父が江頭豊(チッソ会長)だ。
(日本興業銀行から転じた江頭豊が1964年から1971年にチッソ社長、1971年以後は同会長、同相談役を務めた。社長時代には一旦謝罪したが、その後被害者と対峙するようになり、水俣病被害者との話し合いは進まなかった。この時期のチッソの対応が、水俣病問題の解決を遅らせたとする声も多い。現在でも鹿児島県と熊本県には6000人以上の水俣病認定申請者がいる。)
・731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
(時効なき戦争責任)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房)
日本語版前書き
現状と「記憶のずれ」
一般市民だけでなく学者たちでさえも、過去は忘れてしまったほうが良い、と考えている。これまで通り「忘却」の繭の中にいたほうが楽なのに、なぜ、今さら過去の歴史を蒸し返して苦い思いをしなければならないのか、と彼らは考えているのだ。良心の呵責を覚えて戦時中の体験を公表しようとする元軍人は、友人たちの反対にあい、結局は、これから述べるごく稀なケースを除き、ほとんどの人が口を閉ざしてしまうのだ。多くの日本人にとって、戦争の記憶として留めておくべき無難な話題は広島と長崎の悲劇だけであるように思える。
学者の中には、かなり過激な考え方を持つ者も大勢いる。彼らは決して学界の末端にいる狂信的な過激派ではない。むしろ、主流と呼ばれる人間たちだ。しかし、彼らの政治的な考えや歴史のとらえ方は少し保守的すぎるのである。彼らは過去をロマンチックかつ超国家主義的イメージでとらえる傾向があるが、これはほとんど幻想と言える。彼らは、歴史の「忘却」繭理論には飽き足らず、歴史を書き換えようとさえしている。アメリカおよびソ連の占領軍当局から受けた「腐敗的影響」を日本の歴史から払しょくすべきであると信じる教育学および歴史学の教授たちは、1995年および1996年、その目的を達成するために全国組織を結成した。その代表的なものが、「自由主義史観研究会」と「新しい歴史教科書をつくる会」である。これらのグループはいずれも、日本の最高学府と考えられている東京大学の教授らによって結成されたものである。
※こういう会が結成されたということは、裏で政治的な団体が資金面や人的支援なども惜しみなくやっているのだろう!!天皇制を守るために、多くの団体が結集しているものと思う!!
※今、埼玉県議会で起こっていること!!(転載)
再掲です、前回のご案内、曜日が間違えていました。訂正させて頂きます。
2009.12.7
■重要■
埼玉県議会傍聴のお願い (JR浦和駅下車歩7分埼玉県庁内)
▲12月10日(木)午後3時より 佐藤征冶郎県会議員(社民党)が上田知事発言について質問をします。
知事は2006年(平成18年)6月「従軍慰安婦問題など日本の戦争責任の論議が多発」とか書いてありますが、東西古今慰安婦はいても従軍慰安婦はいません。兵のいるところに集まってきたり、兵を追っかけて民間の業者が連れていったりするんであって、軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです。そんなことすれば負けるんです。したがって、こういった間違った記述がありますので、こういうのは修正しなければならん、こんなふうに思います」と答弁。その後周知の通り、平和資料館は展示から「従軍慰安婦」の「従軍」を削除しました。
この件について佐藤議員が知事の「軍そのものが連れていったりするわけは絶対ないんです」という見解について、「軍が募集、関与、強制した事実はある」と資料を示し、発言の誤りを指摘します。知事がどういう回答をするか、またこの知事の姿勢が平和資料館の姿勢に影響しますので、今回の件は極めて重要です。
▲一人でも多くの方の傍聴をお願いします。平和資料館を考える会
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
父や母の被害
徐慶禄(男、54歳)の証言
1938年の3月に、その頃私は8歳でしたが、家庭の生活のために、当時の職工長についてロバを御して樹を運んでいました。大廠鎮から今の永豊まで材木を運ぶのに、毎日往復で4,50里の道程を走らせるのですが、工廠に入るのに脱帽しなければいけないという規則が分からなかったために、日本兵1人に憎々しげにびんたを2つなぐられ、1度足蹴りにされ、地に打ち倒されて、天と地がひっくり返ったように目くるめき、両の眼から火花が散ったのを覚えているだけで、何も分からなくなったのですが、10何分かしてやっとだんだん気が付いてきました。売国奴が1人やって来て私に憎々しげに言いました。「ターマートィ(馬鹿ったれ)!貴様工廠に入るのに何だって脱帽しないんだ?貴様が脱帽しないと、日本の殿様が『三途の水に渡す』ぞ、今度又脱帽しなかったら、貴様スーラスーラトィだぞ(死んじまえ)」。そのことが私には一生永遠に忘れられないのです。
日本人が永利亜廠を占領してから、人を殺傷し悪事を重ねた惨状のすさまじさは到底勘定し切れませんが、私自身で見たり聞いたりした例を幾つか並べますと;
1938年の2月のある日、小さなロバを御する人が4人、物を乗せて南廠門の長江の岸辺から今の電気工廠の右手の山のてっぺんまでやって来たところを、日本兵何人かに見られ、日本兵が立ち止まれと怒鳴りながら、発砲しました。日本兵2人が近寄って来て、小さいロバの御者たちが黄色い軍服を着ていたので、八路軍に物を運んでいる者だとみなして、朱永林など4人を今の殺人沼のそばまで連れて行きました。朱永林はこの土地の人だったので、保証する人がいて殺害されませんでしたが、そのほかの3人はみんな日本兵に殺されてしまいました。1人は頭を前から2つに割られ、2人目は頭を横から2つに割られ、3人目は頭がそっくり斬り落とされ沼に転がり落ちました。その時沼の水が一面に血で真っ赤に染まり、その沼はそれから「殺人沼」と呼ばれるようになりました。やられた3人はよその土地の人で、屍を片づける人が無く、その土地の人にかたわらの山の頂に埋められ、今も墓がそこにあります。
(明日に続く)(穆世亜が記録)
●お知らせ
●院内集会のお知らせ
俵義文です。
12月9日(水)に教科書問題で院内集会を開催します。
教科書がかかえる重大な問題点について、国会議員に知っていただく重要な集会です。
ぜひ、多くの方のご参加をお待ちしています。
なお、この院内集会のために国会議員に働きかけるロビーイングを
12月4日(金)16時から行います。
これに参加いただける方は、3日の17時までに子どもと教科書全国ネット21に
ご連絡をお願いします。
転送・転載大歓迎
院内集会のご案内
教科書はこのままでいいのか
―教科書の検定・採択のありかたと
沖縄戦「集団自決」検定―
多くの市民の期待をになって新政権が誕生してから、まもなく3ヶ月を迎えようとしていますが、教科書や教育の中身については、まだ目立った動きはみられません。
子どもたちに真実に根ざしたよい教科書を、どの子にもゆきとどいた教育を、という市民・保護者の願いを実現する新しい動きをいまこそ大きくおこす必要があります。
そこで、市民、保護者、教育・教科書関係者の願いを国会にとどけるために、国会議員をまじえての院内集会を下記のとおり行うことにいたしました。ぜひご参加ください。
記
日時:12月9日(水) 15時00分~17時00分
場所:衆議院第二議員会館・第2会議室
*14時30分から第二議員会館ロビーにて通行証を配布します。
○報告 ・教科書検定制度・採択制度の現状と改革の方向
俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
・沖縄戦「集団自決」検定問題の現状と今後の運動
○参加者からの発言
○国会議員からの発言
主催 子どもと教科書全国ネット21
日本出版労働組合連合会
大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会
(連絡先 子どもと教科書全国ネット21 03-3265-7606)
子どもと教科書全国ネット21
■ 南京・史実を守る映画祭 ■ (転載)
http://jijitu.com/filmfestival2009/
○日時 2009年12月13日(日) 10:00開場
○場所 東京都世田谷区区民会館ホール
○料金 前売券900円、当日券999円。
1作品ごとに入れ替えを行います。前売券の購入方法は下記のURLをご参照ください。
http://jijitu.com/filmfestival2009/2009-09-28-06-41-10
○プログラム・上映作品
10:30-『南京』(88分)
13:00-『アイリス・チャン』(103分)
15:00- シンポジウム
※ゲスト:鈴木邦男さん、武田倫和監督さん(詳細はHPで)
※映画祭チケットご購入のすべての方が入場いただけます。
16:30-『南京・引き裂かれた記憶』(85分)
18:30-『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(125分)
主催:南京・史実を守る映画祭実行委員会
お問合せ:nankin-eigasai-owner@yahoogroups.jp
「南京大虐殺」と聞いて、どれだけの人々が具体的に事件のイメージを語ることができるでしょうか。日本では、南京大虐殺という事実は、公の場であまり語られることはなく、学校教育でもほとんど取り上げられず、どこか、事件に触れることがタブーであるかのような空気が作られているようでもあります。
事件をめぐっては、戦後になっても何度かの裁判が提起されてきました。その中には、事件の証言をする人々に対する「偽者」呼ばわりがきっかけになったものも多くありました。
中国人の被害者である夏淑琴さん、李秀英さん。事件そのものの証言を報じた本多勝一さん。
事実は必ず勝つ、という言葉のとおり、これらの裁判では真実が勝利し、事件はなかったとする人々の主張はすべて、疑似科学や単なる読み物レベルの俗論に過ぎない、ということが白日の下に晒されてきました。
しかし、事件はなかったとする勢力が沈黙することはなく、それどころか、事件について公の場で触れることそのものにまで、攻撃の手を伸ばしてきました。
事件を描いた「南京1937」は、その上映が右翼によって暴力的に妨害され、上映する劇場のスクリーンは、右翼によって切り裂かれました。
日本の大手映画会社によって、日露戦争や太平洋戦争の映画が次々と作られる中にあっても、日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた映画はほんのわずかしかなく、南京大虐殺を描く映画は皆無、という状態です。
この間、諸外国では南京大虐殺をテーマにした映画が数多く制作され、公開されているのに、事件の当事者である日本の国内では、南京を描く映画は作られていないのです。
映画【靖国】の上映に至るまでの経緯を振り返るとき、このような状況は「暴力と、それを恐れるが故の自粛」によってもたらされる、言論の自由の危機だとはっきりいえます。これは、断じて容認することはできません。
そこで私たちは、映画配給会社がやらないのなら私たちがやってしまおうと決意し、南京大虐殺をテーマとする映画を集めて映画祭を開催することにしました。
ぜひお越しください。
GyaO! - Anime, Dramas, Movies, and Music videos [FREE]
http://pr.mail.yahoo.co.jp/gyao/
・・南京への道・史実を守る会・・・・・・・
URL:http://www.jijitu.com
ML_URLhttp://www.egroups.co.jp/group/honda_sien/
mail:honda_sien-owner@egroups.co.jp
FAX:020-4624-2381
●『陸軍登戸研究場見学ツアー』(転載)
●日時:12月20日(日)10時
●集合場所:小田急線「生田駅」前集合
●見学後、明大食堂で姫田先生のお話
●参加費:無料
●主催:埼玉9条連・川崎9条連「共催」
◆『フィールドワーク・陸軍登戸研究所』
http://www.book.janjan.jp/0909/0909069848/1.php
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円
休館 月・火
03-3202-4633
早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分
●独り言
・事業仕分けでは宮内庁の事業を見直したのだろうか?テレビからの報道では全然報道されなかったけれど?聖域なくやってもらいたい!!いろいろ建物を改装しているのではないか?
・町内会費から、この地区の神社に勝手に寄付されている!!「境内御神木、枝はらい、保護事業」何だ!これは?
まだ日本の多くの町内会では、神社に多くの寄付が自動的にされているのではないか?私はマンションにいるが自動的に町内会費を天引きされ、8月のお祭りには一律千円をこれまた、自動的に引き落とされている!!まだ、日本には戦前・戦中の国家神道の名残が色濃く残っているのではないか!!
・毎年、正月に民主党と自民党の幹部が伊勢神宮に参拝するのはなぜだ?もう国家神道の時代は終わり、天皇も『人間宣言』したはずなのに!!まだ、日本は天照が神様なのか?
●「日の丸」と「君が代」
・スポーツの試合などでは、戦前と変わらぬ旗がはためき、同じ歌が歌われている。まるで、戦争など無かったかのように!!そして、歴史を修正する勢力に政治は力を貸して、戦争の証拠隠滅は今でも積極的に続いている!!
東京都の学校では、式典の時に、この旗を正面に掲げ、この歌を起立して歌い、教職員がこれに反すると罰せられている!!
確か、この法律を制定するときには、次のように決めていたはずなのだが、為政者は通達を出し勝手に強制している!!強制までして歌う価値があるのかと思う!!
1つの特定の家(過去も問題だ!)の永遠を祈るより、自分・家族・社会の幸せ、健康、過去をしっかり清算し誇れる国、世界の平和を祈念したい!!
国旗・国歌法(ウキペディアより)
当時首相であった小渕恵三は、1999年6月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫の質問に対し以下の通り答弁した。
「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」
「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦ののデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
731部隊の追及をすると、その責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
(ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)
●大日本帝国憲法
第一条
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第十一条
天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条
天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三条
天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
※戦前・戦中と天皇は現人神であり、権力は絶対的であった。
天皇制に異を唱えると、「治安維持法」により、特高によって捕まり、厳しい拷問を受け思想犯として刑務所に入れられた。
・治安維持法
・特高
●天皇の戦争指導
戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊は天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
・東京地裁判決では細菌戦の事実認定をしている!!
東京地方裁判所(民事18部 岩田好ニ裁判長)は、2002年8月27日、731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟(原告・中国人被害者180名)において、731部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部が、生物兵器に関する開発のための研究及び同兵器の製造を行い、中国各地で細菌兵器の実戦使用(細菌戦)を実行した事実を認定した。
すなわち、判決は、「731部隊は陸軍中央の指令に基づき、1940年の浙江省の衢州、寧波、1941年の湖南省の常徳に、ペスト菌を感染させたノミを空中散布し、1942年に浙江省江山でコレラ菌を井戸や食物に混入させる等して細菌戦を実施した。ペスト菌の伝播(でんぱ)で被害地は8カ所に増え、細菌戦での死者数も約1万人いる」と認定した。
さらに判決は、細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定した。
しかしながら、原告の請求(謝罪と賠償)に関しては全面的に棄却した。
一方判決は、法的な枠組みに従えば違法性はないとしながらも、「本件細菌戦被害者に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。」と指摘し、政府の対応を求めている。
※現政権の民主党がどのような見解を持っているか分かりません!!やはり、否定するのかな?確か薬害エイズの原告が議員になったと思うが?
資料は返されている?
・1986年、アメリカ下院の公聴会でアメリカ軍の記録管理部長が「731部隊の資料は1950年代後半に日本に返還されている」と語った。そして「資料は日本の外務省に返却され、その後、防衛庁の戦史室に移された」(日本の国会図書館の調査)。日本の戦争責任を明らかにし、過去の精算をするカギはまさに日本政府の手にあるといえよう。
●戦後補償
・731部隊では3000人以上のマルタを人体実験・解剖し、殺害した。
また、15年間にわたるアジア・太平洋戦争でのアジアの犠牲者は1000万(最小の見積もり)~3500万人(最大の見積もり)である。
日本は、その誰一人にも個人的な補償はしていない!!
・731部隊の被害者は3000人ではない。これは1941年~1945年までの川島清少将の証言だ。1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。あと、731部隊の支部や石井の指揮下にはない(奉天・南京・長春など)の施設で殺されている。また、細菌戦の被害者・撤退後の疫病の発生での被害者を含めるとゆうに万の単位になるのではないか?
・人体実験 (『731部隊』ウキペディアより)
731部隊は捕らえた多くの中国人、モンゴル人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は500,000人以上とも推定されている。
・今現在でも多くのアジアの方々があの戦争の被害を訴えているが(最近では中国人の強制連行問題や遺棄毒ガス弾の被害などなど)司法機関は「国家無答責」「除斥期間」を掲げ、原告の訴えを無視し続けている!!
あの戦争を司法関係者も本当に反省しようという考えがなく、問題を明治憲法下で処理している。ここにも昭和天皇の戦争責任を何とか回避し、天皇制を必死に守ろうとする保守的な姿勢が見られる。(ノブ)
※「国家無答責」とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則。現憲法では1947年施行の国家賠償法により、個人の損害賠償請求権が認められている。「除斥期間」とは、民法上、不法行為に対する損害賠償請求権が20年で自動的に消滅してしまうこと。当事者の主張で起算点が変わったりする時効とは区別される。 戦後補償をめぐる訴訟では、被告側が国家無答責や除斥期間の適用を主張することが多い。司法判断は分かれており「著しく正義に反する」として適用を認めなかった例もある。
・石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。(1995年現在)
・日本政府は平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られている。国としては過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。
・中国人強制連行裁判で2007年4月に最高裁西松判決では、「日中共同声明第5項により、個人賠償請求権は放棄された」と判示された。しかし、中国外務省は直ちに「国の戦争賠償請求権は放棄したが、被害者個人の請求権は放棄していない。最高裁判決は『違法』、『無効』である」と非難している。
・中国人強制連行の背景
日中戦争が深まり、太平洋戦争も迫った1940年頃、日本は深刻な労働不足に陥っていました。重要な戦略物資の生産拠点である炭坑や金鉱鉱山、港湾荷役、飛行場建設などには既に朝鮮人が強制連行され、奴隷労働を強いられていましたが、それでも労働力は決定的に不足していました。そこで企業は、政府に中国人労働者の強制連行・強制労働を願い出、政府はこの要請に応じて、1942年の閣議決定で中国人の強制連行を決定しました。時の内閣は東條内閣、商工大臣の岸信介の係わりが大きい。「華人労務者内地移入ニ関スル件」及び「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」
※満州で辣腕をふるい、東條内閣でも商工大臣として中国人の強制連行に係わった岸が戦後総理大臣になるとは、どういうことか?その外孫の安倍晋三も首相になるとは?
・最近の裁判の動き【「Suopei(すおぺい)」=中国語で「索賠」(賠償請求)を意味します。潤・6より】
中国人強制連行:長野訴訟、控訴審判決(2009年9月17日:東京高等裁判所第19民事部)
被害事実・企業の安全配慮義務違反は認定するも請求権放棄で切る
判決では、強制連行強制労働の事実認定について第1審判決をそのまま維持し、国と企業の共同不法行為であることも認めた。第1審では認められなかった企業の安全配慮義務違反については控訴審ではこれを認定したものの、第1審に続き、国の安全配慮義務違反についてはこれを否定した。時効と除斥期間については判断せず、結局、日中共同声明により個人賠償請求権は放棄されているとして西松最高裁判決と同様の判断をした。
賃金支払いについては退ける
ただ、「自発的な対応の余地があるとしても、裁判上訴求することは認められない」とし、広島西松建設判決と同様に実態法上の権利としては存在することは否定しなかったこと、自発的な対応の余地があるとしたことは、むしろ積極的に評価し、今後の運動につなげていくべきではないかと考える。
また、企業に対して安全配慮義務違反を認定したこと、賃金は支払ったとする企業側の主張は明確に退けたことは、企業に解決を迫る上での力にしたい。
・戦後補償裁判の成果を全面解決の戦いにどう生かすか(Suopei 潤・6より)
松岡 創(弁護士)
・・・・これまでに20件以上の強制連行裁判が行われてきたわけですが、福岡訴訟第1陣の裁判官は、裁判を重ねるごとに態度が変わっていきました。裁判官は一生ののうち2回心からの判決を書くと言われています。この裁判官はこの判決を書くとき、手が震えたといいます。
長野の1審の裁判官もそうです。本当は勝たせたい・・・・。悩みを持った裁判官もいます。
最高裁判決では訴求権はない、となりましたが、このままでは許せないということで、私たちが付言と呼んでいる「当事者同士の解決」に言及したのです。その後、福岡高裁、宮崎の高裁などが「解決への期待」を表明しのたです。
中国人の強制連行は4万人といわれています。38935人ですが、中国の港から出発した時は39385人です。途中の船で、港で、列車で亡くなり、事業所が受け入れたのが、先の人数です。そして6800人以上が事業所などで亡くなっています。
今後どういう解決をしたらいいのでしょうか。例えばスペインでは「歴史記憶法」が制定され、独裁者フランコの銅像を壊すなどの動きがあります。ドイツでは「包括的名誉回復法」が制定されたといいます。ヨーロッパにはこういう動きがあります。日本では全くありません。 日本の企業はどうかというと、三菱マテリアルは、和解したいという姿勢です。法的安定性を求めています。三井は、国が変われば・・・、と言っています。西松はかたくなに和解を拒否していましたが、不祥事があり、全役員が交替しました。そして「解決したい」と言ってきました。西松は2つの現場があります。広島の安野に360人と、新潟の信濃川に183人です。それぞれが別の裁判を起こしていました。
中国の中でも動きがありましす。全国人民代表大会でも意見が出されるようになっています。政治的解決に道が拓かれてきました。
今、この日本で民主党が政権を取ったことの意味はとても大きいです。鳩山氏はアジア重視、東アジア共同体、中国・韓国との友好を言っています。私たちはこれに働きかける必要があります。それが市民運動の進むべき方向です。
戦後補償の国際比較
731部隊細菌戦国家賠償訴訟
中国人戦争被害者の要求を支える会
●マッカーサー
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(遠山茂樹ほか著:『昭和史』より)
・マッカーサー家はイギリス貴族の血筋であり、1905年に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となったため、ダグラスも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。
・ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのはドイツ人だ」と信じた。
・日本占領にあたり、アメリカは日本文化について研究していた。
ルース・ベネディクト著:『菊と刀』・・・第二次大戦中、米軍の攻勢が確実になった頃、政府、戦時情報局は彼女に日本研究の仕事を委嘱した。現地調査が不可能であるため、彼女は、日本に関する書物、日本人の作った映画、在米日本人との面談等を材料として研究をすすめ、対象社会から文化類型を抽出しようとする方法に基づいて、日本文化の基調を探究し、執筆した。日本人は礼儀正しいといわれる一方、不遜で尊大であるともいわれ、固陋であると同時に新しい事物への順応性が高いともいわれる。
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・731部隊の調査は、占領軍の法務部ではなく、より強力な捜査・調査能力を持っているはずの参謀2部やキャンプ・デトリックの専門家たちであった。サンダースたちが行なったのは、犯罪捜査ではなく、科学調査だった。また、参謀2部の任務は「情報」の収集であり「犯罪」の暴露ではなかった。だから、初めから戦犯として扱っていなかった。
一方、九大事件(相川事件)は法務部(犯罪捜査)が関係者の取調べを行なったので、死刑判決が出た。
・九大事件・・・1948年8月横浜軍事法廷において、以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
・ニュルンベルグ医者裁判・・・医者裁判(いしゃさいばん、英: Doctors' Trial、独: Ärzteprozess)は、1946年12月9日から1947年8月20日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。ナチス体制下で重役の地位にあった医師や医療関係者を裁いた。ニュルンベルク継続裁判の中では最初に行われた裁判である。
23人の被告人が裁かれ、うち7名が絞首刑となった。裁判長はワシントン出身のウォルター・ビールス(Walter B. Beals)が務めた。その他の裁判官としてフロリダ州出身のハロルド・セブリング(en:Harold L. Sebring)、オクラホマ州出身のジョンソン・クロフォード(Johnson T. Crawford)などがいる。
なお、人体実験の中心人物であるヨーゼフ・メンゲレは行方不明のまま死亡扱いとなり、1980年代になって逃亡先のブラジルで死亡が確認された。
※ニュルンベルグ医師裁判で裁きの対象とされた安楽死及び人体実験は、いずれも「殺人」(及び傷害)に該当したかどうかこそが、その審理の中心的用件であったと言ってよい。
それはどういうことを意味しているのかと言えば、人体実験の被験者が人体実験にによって殺されたのかどうか、ということである。あるいは人体実験が最終的に被験者の死を前提として行われていたのか、という問題である。それゆえ、ここで裁かれたのは決して人体実験そのものではなかったことに、厳重に注意する必要がある。つまり、人体実験そのものが処罰の対象だったわけではなく、それが「人道に対する罪」の殺人または傷害に該当していた場合にのみ、処罰の対象とされたのである。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第三文明社より)
ということは、731で行われたすべての実験は該当する!!九大事件では、該当したから死刑判決がでた!!
・連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。
●昭和天皇と731
・裕仁は1926年に皇位に即位する前でさえ、化学兵器や細菌兵器に強い関心を示していた。
・裕仁は、熱心な科学の学生であった。彼の海洋生物学への情熱は、よく知られている。批評家は彼の科学的な関心が海洋生物学をはるかに越えたところまで進んだと非難する。彼らは天皇が、そのキャリアの初期において病気を持った菌や細菌、さまざまな培養組織の研究に興味を持つようになったと主張する。
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
(1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)
・『731部隊ー天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。
(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
・終戦 (ウキペディアより)
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」と告げたと1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。
そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。
・天皇の言葉・・・私には天皇の真意が分からない!失言だと思う。閣僚だったら辞任に追い込まれるのでは?
昭和天皇(ウキペディアより)
昭和50年(1975年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見[35][36]
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
●アメリカ
フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領が、1943年には、日本の細菌兵器及び化学兵器による攻撃を非難する声明を出した。
もし、日本がこの非人道的な戦闘方式を、中国に対してでも他のどこの連合国に対してでも採用し続けるならば、当政府はそのような攻撃を、アメリカ合衆国に対して行なわれたものとみなし、全身全霊をかけて最大限の報復を日本に対してなすであろうことを間違いなく明確にしておきたいと心から願うものである。
●参考ホームページ
・天皇・マッカーサー会談
・731部隊のことを知っていた皇族
秩父宮
三笠宮
東久邇宮
・731部隊に係わっていた皇族
竹田宮
ニュルンベルグ医師裁判
九州大学生体解剖事件
731部隊の全貌
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言1/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言2/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言3/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言4/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言5/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言6/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言7/8
731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言8/8
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
731部隊の設立から敗戦(証拠隠滅)まで731部隊
こんなにもあった細菌戦部隊
日本陸軍軍医学校(東京)
516部隊
大久野島(毒ガス島)
化学兵器CAREみらい基金ブログ
根津公子さんのページ
●南京大虐殺
※南京大虐殺に加わった元陸軍伍長栗原利一さんの息子さんから大変貴重なコメントを頂いた!!
本当にありがとうございます!!「南京大虐殺」の真実が日本人の1人でも多くの方に理解していただけたらと強く思います!!以下:コメント
南京大虐殺は世界的に誤解されています。 中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。 父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。 非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。 捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。 ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。 昭和12年7月の南京の人口は135万人です。 11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。 否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。 小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。 (65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
※日中戦争は、戦時国際法(戦争法)として国際慣習法が条文化されたハーグ陸戦条約に拘束されていた。同条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれた者の苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった。そのために、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、さらに戦闘員を人道的に保護するために、直接の戦闘外におかれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。捕虜についてはその保護と待遇改善を一層明確化して存在した。(日本は調印したが、批准はしなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した)。【『南京事件』:笠原十九司著:岩波新書】より
※またまた、核心さん(栗原利一さんの息子さん)より、参考になるメールを頂いたので紹介したい。なぜ、日本は歴史を改ざんするのかがよく分かる!!
核心 2009年11月26日 18:12
「戦史叢書」と南京大屠殺記念館の差
結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ています。
この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
※南京大虐殺の際には帰国をはしゃぐ兵士たちを横目に、連隊首脳は、帰郷したした兵士らが、歓迎会席上などで、知人・友人を前にめったなことを口走らないように、「銃後ニ答フ」という想定問答集まで編集した。
※国は、天皇制に大きく係わるので戦争のことを今でも隠そうと必死である。その結果、南京大虐殺の否定本が書店に出回り、教科書にもその記述が少なくなってきている。
731はもっと無視されているのかも知れない。
昭和天皇に係わるだけに、大きく取り上げられることは少ない!!
(参考ホームページ)
栗原利一資料集
山田支隊:栗原利一証言
※昭和天皇より南京占領を喜ぶ「お言葉」
陸海軍幕僚長に賜りたる大元帥陛下お言葉
中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ。(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※南京大虐殺については、外務省や軍部・朝香宮は天皇に報告をしなかった?
※皇族と南京大虐殺
・・・・大報道陣によって日本国民に報道される「未曾有盛事、敵の首都への皇軍の入城」一大セレモニーの日に、式場はもちろん、場内、場外においても、敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動のたぐいがあっては皇軍の威信が損ねられることになる。そのうえ、上海派遣軍司令官・朝香宮(あさかのみや)鳩彦王中将は皇族で、「宮殿下」「宮様」である。天皇の軍隊の象徴である皇族の司令官の身に、もしもの不祥事が発生することになれば、天下の一大事で当然関係者の引責問題につながった。南京城内の首都飯店に司令部をおいた朝香宮にたいして、各部隊から立哨を派遣して厳重な警戒体制をとったし、「中山門のすぐ手前の所にて宮殿下(朝香宮)が入城するため一時通行禁止となり」(「牧原日記」)という特別警備体制がとられることもあった。
こうして、17日に入城式を挙行するために、南京城区だけでなく近郊農村にまでおよんで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開され、虐殺される軍民の犠牲をいっそう大きなものにした。
(『南京事件』笠原十九司著:岩波新書)
※1946年の中国国民政府の司法行政部が作成した戦犯リスト1位の朝香宮鳩彦王こそ上海派遣軍司令官として南京大虐殺の直接の責任者であったが、アメリカ政府とGHQが天皇の免責を決めていたことから、皇族であるがゆえに南京軍事裁判でも免責とされた。・・・(『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司著:大月書店)・・・これもおかしくありませんか?裏で取引があった?(ノブ)
※東京裁判
・松井石根(中支那派遣軍司令官)・・・戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
・広田弘毅(当時外務大臣)・・・南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。広田弘毅も731については熟知していたに違いない!!
※南京軍事法廷
・谷寿夫・・・中華民国総統(大統領に相当)蒋介石による南京軍事法廷で、南京大虐殺(南京事件)の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。
・田中軍吉・向井敏明・野田毅・・・300人以上の中国人を虐殺したB級戦犯の田中軍吉被告、南京紫金山で殺人競争を行った向井敏明被告と野田毅被告などに審判を進め、極刑の判決を下した。
●参考ホームページ
極東軍事裁判(南京事件の部分)
南京軍事法廷
百人斬り競争
夏淑琴裁判
百人斬り裁判
朝香宮
兵士たちが記録した南京大虐殺1
兵士たちが記録した南京大虐殺2
兵士たちが記録した南京大虐殺4
兵士たちが記録した南京大虐殺5
兵士たちが記録した南京大虐殺6
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)4/5.
NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺(080407)5/5
南京大虐殺の真相
南京大屠殺 ( Nanking Massacre )
戦争を語るブログ
「南京事件の真実」
「南京事件 小さな資料集」
「南京事件資料館」
「南京事件資料集」
南京への道:史実を守る会
●「南京!南京!」が見られる映画サイト
●1つの家族をずっと、国民の税金を使って、意味のよく分からない象徴としてあがめるのではなく、日本の国を良い方向に進めるリーダー(大統領)を選挙で選んだ方がいいのではないのかな?
●資源の乏しいわが国で、プルサーマル発電が始まったそうだ。電力会社は、自然エネルギーに余り関心がないらしく、何度となく事故を起こしても、原子力にこだわる。日本にはプルトニウムというものがたくさんあるらしい!!ちょっと間違えば、頭のいい科学者が、すぐに原爆を作れるだろう!!もう作る準備があるのかな?恐い話だ!!太陽光や風力で大きな発電はできないものか?
・プルサーマル発電は必要か?
・今週の大はてな
●「怨」旗は、水俣病原告団が掲げた旗である。水俣病も、国・県・チッソは10年以上もその責任を認めず患者を増やし続けた。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例であるが、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。
・1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年,50人が発病し11人が死亡。
・政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。
・チッソ水俣工場に昭和天皇は1931年訪れている。
【現在に至る水俣の背景】
1931年には天皇が陸軍特別大演習統監のため熊本に来た際、日窒水俣工場を訪れるなど、日窒は名実ともに日本を代表する化学企業と認められ、また天皇の工場視察は水俣に住む住民にとっても大きな出来事であった。そして、この当時の日窒の意識をあらわすものとして1940年に作られた「日本窒素肥料株式会社事業概要」に以下のような文があったという。
「聖戦下の我国に取って世界屈指の大化学会社『日本窒素』の存在することは、その著しき強みであることは云うまでもない。…もとより『日本窒素』の如き大工場設備は如何に政府の力を以てしても、戦争が始まったからと云って一朝一夕につくる事は出来ない。仮に建物や機械が出来たとしても之に生命を与ふべき技術経験等の人的資源は之を如何ともすることが出来ない。聖戦下に於ける『日本窒素』はいまや一営利会社として之を見るべきでなく、一大総合化学国策会社と云ふべきであろう。」
・皇太子妃雅子の母方の祖父が江頭豊(チッソ会長)だ。
(日本興業銀行から転じた江頭豊が1964年から1971年にチッソ社長、1971年以後は同会長、同相談役を務めた。社長時代には一旦謝罪したが、その後被害者と対峙するようになり、水俣病被害者との話し合いは進まなかった。この時期のチッソの対応が、水俣病問題の解決を遅らせたとする声も多い。現在でも鹿児島県と熊本県には6000人以上の水俣病認定申請者がいる。)
・731関係の被害者はもう何十年も無視され続けている。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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